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「群系」27号 特集 戦争と文学−昭和文学の水脈- 所収論文 その1







大木惇夫『海原にありて歌へる』を考える


                           勝原晴希




      一


 大木惇夫『海原にありて歌へる』(大東亜戦争詩集 第一輯)は、一九四三年(昭和一八年)四月、アルスより刊行された。同書の「国内版 あとがき」によれば、その前年すなわち昭和一七年一一月に「ジャワのジャカルタにあるアジヤ・ラヤ出版部」から発行されたもの(現地詩集)に二編を増補し、大木自身の「解説」を加えたものである。この現地詩集の発行元である「アジヤ・ラヤ出版部」は、「ジャワに敵前上陸をした後に、宣伝班が創設したアジア・ラヤ新聞社」の出版部であるらしい。ジャワから「帰還した当事者の話によると、この詩集は出ると即日売切れとなり、続々増版されてゐるさうで、すばらしい反響を呼んでゐる」と、「国内版 あとがき」にある。そこで国内版を出そうという運びになったようだ。木村一信編・解題の『南方徴用作家叢書・ジャワ篇G大木惇夫(一)』(龍渓書舎、一九九六)が底本としている第四刷は、昭和一九年三月、5000部発行で、同詩集は「国内」でも版を重ね、復刻『大木惇夫詩全集』第一巻(金園社、原本発行は一九六九)の「略歴」によれば、「日本出版会推薦図書となり、また文部省推薦図書ともなり、更に大東亜文学賞(文学報国会)を得て、三重の栄誉を荷った」。大木惇夫はその後も「時局的な詩集を次々に刊行、代表的な戦争詩人としての地位に押し上げられるに至った」(『現代詩大事典』三省堂、二〇〇八)と今日、評されている。

 このように大木惇夫『海原にありて歌へる』は、先の世界大戦における日本の代表的な戦争詩集といってよいのだが、詩集を読みとおして強く印象づけられのは、荒々しい勇ましさであるよりもむしろ、ひっそりとした静けさである。巻頭の三篇を引く。


参宿(オリオン)は肩にかかりて/香(かう)を焚く南国の夜(よる)、/茫として、こは夢ならじ/パパイヤの白き花ぶさ/はた剣のうつつの冴えや、/郷愁は烟のごとく/こほろぎに思ひを堪へて/はるかなり、わが指す空は。(「遠征前夜 ○○の宿営にて」)


言ふなかれ、君よ、わかれを、/世の常を、また生き死にを、/海ばらのはるけき果てに/今や、はた何をか言はん、/熱き血を捧ぐる者の/大いなる胸を叩けよ、/満月を盃にくだきて/暫し、ただ酔ひて勢(きほ)へよ、/わが征くはバタビヤの街、/君はよくバンドンを突け、/この夕べ相離るとも/かがやかし南十字を/いつの夜か、また共に見ん、/言ふなかれ、君よ、わかれを、/見よ、空と水うつところ/黙々と雲は行き雲はゆけるを。(「戦友別盃の歌 南支那海の船上にて」)


戦ひのさなかにありて/南海はやさし、うるはし/母のごとく、/大空は安し、静けし/神のごとし、今、/敵の潜水艦を/血祭りに撃ちて沈めて/事もなし、安し、静けし、/これや、戦ひ。(「空と海 赤道ちかきあたりにて」


 むろんここには「剣」があり、「熱き血を捧ぐる者」があり、何よりも「敵の潜水艦を/血祭りに撃ちて沈めて」とは、今日おおかたの読者の眉を顰めるところであろう。けれども作品の中心はそれらにはなく、つまり熱き血を捧げて剣をもって敵を血祭にする、などといった好戦的な姿勢はここにはなく、「郷愁は烟のごとく」「黙々と雲は行き雲はゆける」「大空は安し、静けし/神のごとし」という、静けさ、異様に静まり返った静けさ、にこそ置かれている。『海原にありて歌へる』が版を重ねた理由は単一ではないだろうが、この〈静けさ〉に心を惹かれた者は、少なくはなかったのではあるまいか。『海原にありて歌へる』には、浅野晃、富澤有為男、大宅壮一の「跋」が付されているのだが、浅野晃の「跋」に、次のような記述がある。


  「戦友別盃の歌」がはじめて『うなばら』(当時は赤道報といった)に出た時の感激は大きかった。将校も兵士もその感動を隠さなかった。(中略)ある若い将校は私に語って言った。「長いこと詩を忘れてゐたのが、大木さんのあの詩で、詩の存在に気づき、詩が如何に大切なものかをはっきりと知ることが出来たのを喜んでゐます。戦場と詩といふものほど離れてゐるやうで実はしっかり結びついてゐるものは恐らく無い筈ですからね」と。


 若い将校の言葉がそのようなものとして事実あったかどうかは、ここでは重要ではない。若い将校の言葉として、右のように詩集の跋に記されているという事実で十分である。「戦場と詩といふものほど離れてゐるやうで実はしっかり結びついてゐるものは恐らく無い」と、若い将校は「感動」を語った。戦場とは、他の誰でもないこの自分の生死と否応なしに向き合う、向き合わされる場所であろう。であるとすれば、「戦場」と「しっかり結びついてゐる」ところの「詩」とは、生きていることそして死ぬことの根底を問うような詩であるだろう。『海原にありて歌へる』の、「爪哇派遣軍宣伝報道部長 陸軍中佐 町田敬二」の「序文」には、「銘々が懐くところの真なるもの、善なるもの、美なるものを揺ぶり出す戦場であつて見れば、日本兵は総じて詩人となる。/その戦場へ、ほんものの詩人が動員されたとしたら、どういふことになるであらうか」とある。二〇一一年の今日、果たしてどれほどの人が、「真なるもの、善なるもの、美なるもの」を生きようとしているだろうか、と考えてみればよい。ただ生活に、目前のことがらに頭を支配され心を奪われて「詩を忘れ」、「詩の存在に気づ」くことも「詩が如何に大切なものかをはっきりと知る」こともなく過ごしているのが通例であることに、当時も今も大きな変わりはないとすれば、あるいはまた真・善・美が、遠い日の倫理の教科書あたりでちらと見たばかりで内容空疎な言葉としてしか感じられないのであるなら、戦争詩は決して過ぎ去って二度と戻りはしないような過去のことではない。『海原にありて歌へる』は「若い将校」に、人が生きていることそして死ぬことの根底=死生観を語りかけた。


極まれば、死もまた軽し、/生くること何ぞ重きや、/大いなる一つに帰る/永遠(とは)の道ただに明るし。//わが剣は海に沈めど/この心、天をつらぬく。/明(あ)かる妙(たへ)、雲湧く下(もと)に/散り落つる花粉か、あらぬ/椰子の芽の黄なる、ほのなる/ほろほろと、しづこころなし。(「椰子樹下に立ちて ラグサウーランの丘にて」)


ゆるされしよろこびを生き/ゆるされしかなしみを生く、/生きの身の生きのいのちの/きはみには、ゑみて眼とぢん、/わざはひとさちと計りて/さしひきは「なし」とこたへん、/「なし」こそは、いともあかるき/大慈悲のはじめにかよへ。(「死生感 酔中吟」)


 『海原にありて歌へる』の〈静けさ〉は、右のような〈明るさ〉、「大いなる一つに帰る/永遠の道ただに明るし」といい、「「なし」こそは、いともあかるき/大慈悲のはじめにかよへ」という、これもまた異様な〈明るさ〉に裏打ちされている。その〈明るさ〉は、太宰治『右大臣実朝』で実朝が呟く「アカルサハホロビノスガタデアラウカ」を思い起こさせるものだ。

大木惇夫の戦争詩の〈静けさ〉、〈明るさ〉。その原点は恐らく、これは「『海原にありて歌へる』につづく大東亜戦争詩集第二輯」(「あとがき」)とされている『雲と椰子』(昭和二〇年二月)所収の作品だが、次の詩に描かれているようなところにある(『大木惇夫詩全集第二巻』では若干の異同がある)。


いくさ場に今は臨(のぞ)みて/高鳴るはこの血にあらず。//国知らす神のいぶきに/成りなれるかの山河の/渓(たに)がはのさやけき水の/めぐり来て瀬のたぎつなり。//国知らす神の御手(みて)より/うつそ身はただ藉れるなり。(「祖国――敵前上陸の直前に」『雲と椰子』)


  この詩は、『大木惇夫詩全集第二巻』の「豊旗雲 拾遺」にも、おそらく学徒動員に際してであろう、「ここに掲げて共感を呼ぶ」云々の題辞とともに再発表されたものが、詩全集編集にあたって「筐底に蔵してあった新聞雑誌の切抜き」から取り出され、収録されている。詩人の偽らざる感懐を表白したものと見て、間違いあるまい。「敵前上陸の直前」の思いはそのままに「本土すなはち敵前」(再掲載作の題辞)となった日の思いであった。敵を目前にした戦場にあって高鳴るのは、「うつそ身」の「血」ではなく、「かの山河の/渓がはの さやけき水の/めぐり来て瀬のたぎつなり」――。「国知らす神のいぶきに/成りなれる」を外して読むならば、ここで〈自然〉は、「うつそ身」を生み、「うつそ身」を包み、「うつそ身」の還っていく「真なるもの、善なるもの、美なるもの」として在る、そのような事態が見えてくる。そう、大木惇夫は、自然詩人として出発したのだった。



      二


 大木惇夫は、北原白秋の推奨を得て自然詩人として出発した。第一詩集『風・光・木の葉』にわたしたちは、自然に身を添わせ、自然の虜となり、自然に透き入ろうとする詩人の姿を見ることができる。


一すじの木の葉にも/われはすがらむ、/風のごとく。//かぼそき蜘蛛(くも)の糸にも/われはかからむ、/木の葉のごとく。//蜻蛉(あきつ)のうすき羽にも/われは透き入らむ、/光のごとく。//風、光、/木の葉とならむ、/心むなしく。(「風・光・木の葉」)


想ひ/かすかに/とらへしは、//風に/流るる/蜻蛉(あきつ)なり、//霧に/ただよふ/落葉なり、//風と/けはひを/われ歌ふ。(「小曲」)


 詩人は心を澄ませて、風、光、木の葉が、風、光、木の葉として在る、それらのものがそれらのものとして在る世界の気配を、世界そのものを、感受しようとする。木の葉に取りすがる風のように、蜘蛛の糸にかかる木の葉のように、蜻蛉の薄い羽に透き入る光のように、在る、こと。風に流れる蜻蛉の在りよう、霧に漂う落ち葉の在りよう、その、風のような気配を、感じること。それは身も細るような、細く細くどこまでも細くなりゆく繊細な感覚の営為だ。詩人が捉えようとしているのは、〈在る〉という、自然の理法(ロゴス)なのだ、ただし認識する者としてではなく、感受する者として。あるいは感受=認識する者として。


この夕霧に溶けてゐる言葉、/白い野茨(のばら)の花から/しづかに匂って来る言葉、//これだ、この秘密だ、/ながいこと尋ねてゐたのは。//野茨よ、野茨よ、/この素朴で声のない言葉。(「野茨の声」)


夕霧に溶けている白い野茨の花が、夕霧に溶けている白い野茨の花として、静かにあるかなきかに匂って、在る。そのものを、そのものとして、感じる、受け入れる、むしろそのものになる。そのとき、「素朴で声のない言葉」が聞こえてくる。そうしたことが、願われている。だが人はよく、風に、光に、木の葉に、なれるだろうか。なりえたとして、そのときもはや人は、人ならぬものであるだろう。とはつまり、ここにあるのは〈草木山川悉皆成仏〉とは微妙に異なる感性だということであって、それは白秋との違いでもある。


草の実が/パチリ、弾(はじ)けた。//はッとした、わたしは。/はるか向うで/わたしの声。(「草の実」)


秋の瞳にうつるは/透きとほる昼の月、/ああ、遠い国の岸に/芒(すすき)のやうになびいてゐる/わたしの生命(いのち)。(「秋の瞳」)


巨人あり、/おごそかに、ほら貝を吹く、/一日(ひとひ)われ、海辺にたちてそを聴けり。/そはひろごりて、渚に、岸に、/雲の際(きは)まで反響(こだま)する/太古の音いろ、/あやしき海の唄なりき。/――唄は語りき、きれぎれに/生を死を、/昔を今を、/なべての国の言葉なき言葉もて。/をりからの落日(らくじつ)に/水平のかた、ノアの方船(はこぶね)あらはれ隠れ、/コロンバスの帆船かがやき消えぬ、/現身(うつそみ)は涙にぬれて幻のごとく。……(「海音」第一連)


 「はるか向うで/わたしの声」がするのであれば、ここにいるのは、わたしではない。わたしの生命が「遠い国の岸に/芒のやうになびいてゐる」のであれば、ここにはわたしの生命はない。ここに在るのは「現身」であり、「現身」の源は、「はるか向う」「遠い国」にある。海辺に立って海鳴りに幻を見た、のではない。生と死と、昔と今と、「なべての国の言葉なき言葉もて」すべてを語る唄の中で、今ここにこうしてある自らこそが哀しい幻なのだということが、露わになったのだ。すでにここに、大木惇夫の戦争詩を支える構図は出来上がっている。

 ここにこうしているのは「現身」であり、「現身」の本源は、「はるか向う」「遠い国」に在る、というのは、プラトンのイデア論に似ている。詩全集の「略歴」によれば、大木惇夫は植村正久の洗礼を受け、キリスト教に入信していた。先に「ここにあるのは〈草木山川悉皆成仏〉とは微妙に異なる感性だ」と記したゆえんである。この時点では、彼は主客二元を前提とした西洋的な自然詩人であって、「ノアの方船あらはれ隠れ、/コロンバスの帆船かがやき消えぬ」とあるような広がり、すなわち「なべての国の」という広がりがそこにはあって、先に引用した「祖国」に見られるような「国知らす神の御手より/うつそ身はただ藉れるなり」という視野の狭さ、ひとつの国=日本に閉じられた狭隘さは、見られない。今ここにこうして在る自らへの執着を離れるとき、その自らをも含む、類としての人間のありようを、普遍的な「生を死を、/昔を今を」、はるかに見渡すという事態が生じてくる。これは中原中也にも見られる事態だが、次の詩などは、ほとんど中也ではないか。ただし〈道化〉はないが。


雨の日の遊動円木/びしょびしょ濡れて、ただ光って、/動くは低い雲ばかり。/雨の日の遊動円木/鐘が鳴っても、昼休みでも、/ゆすぶるものは風ばかり。/雨の日の遊動円木/落ちる銀杏葉(いてふは)、ゆうかりの葉、/雀が吹かれて乗るばかり。/雨の日の遊動円木/びしょびしょ濡れて、もう日も暮れて、/八ツ手の花が見てゐるばかり。(「雨の日の遊動円木」『秋に見る夢』)


びしょびしょ濡れて、ただ光って、揺すぶるものと言えばただ風ばかり、乗るものと言えばただ風に吹かれた雀ばかり、日が暮れて、八ツ手の花がただ雨に濡れてそこにあるように、ただそこにあるばかりの遊動円木――。それは、虚無の側から捉えられた現身のありようだ。歓喜の側から捉えられた姿は、次のように歌われる。これは白秋/犀星だ。


雪原越えて/灌木の林のほとり、/うつそ身は、舞踏の足どりいとも楽しく/今、聖楽の谷に降(くだ)る。//そこにしも新しき脂(やに)の香湿り、/そこにしも命の樹ありて/埋(うづ)みて熟れし神秘の木の実、/われは、合掌礼拝す。//あはれ、そは、純白無垢の乳を湛(たた)えし/うすくれなゐの甘き無花果(いちじゆく)、/啄(ついば)みて、啄みて、啄めど、なほ/一顆にて尽きるなき法悦の美食。//創造の主に感謝せむ、/噴水のこんこんとして谷に湧く時、/われは讃へむ、/こは、げにも地上の天よと。(「地上の天」『カミツレ之花』)


 この作品で「うつそ身」の「われ」は、「聖楽の谷」の「命の樹」の「熟れし神秘の木の実」を、法悦とともに食している。遠い国の生命との繋がりを断たれていた虚ろな「うつそ身」が、「地上の天」にあっては生命を取り戻すことができる。この作品の「創造の主に感謝せむ、/噴水のこんこんとして谷に湧く」が、先の「祖国」の「国知らす神のいぶきに/成りなれるかの山河の/渓がはの さやけき水の/めぐり来て瀬のたぎつなり」に変わるとき、すなわち「創造の主」が「国知らす神」へと閉じられるとき、戦争詩が成り立つのだ。「地上の天」――冒頭に引用した「遠征前夜」の大木自身の「解説」に、次のようにある。大木惇夫は戦場に、天と地の合体を見た。


  南海の星空の美しさ、星々は明るく、大きく、手がとどくかと思はれるほど、近く照りかがやいてゐた。オリオン星座も、東京の夜空に見るそれとは違つて、あの端麗な三つ星が、更に他の霧のやうな、烟りのやうな星雲の燐のほめきのやうな光芒を放つて、それが南国特有の暑さと香気に咽せながら、あたかも、その瞬間、天と地上とが合体すかの思ひがあつた。


     三


 こうして「地上の天」は「祖国」に繋がる。そして、繋がらない。「噴水のこんこんとして谷に湧く」ことを「うつそ身」として「創造の主」に感謝していた詩人は、戦場において「うつそ身」を「国知ろす/神のみ手より」「ただ藉れるなり」と歌う。なぜか。そこが「戦場」だからだ。国と国とが戦う場において、正義は一方の側の正義でしかなく、彼は敵だ、敵を殺せ、という場面においては、神もまた、わが神となるしかない。

 そのように狭く閉ざされようとしながら、しかし『海原にありて歌へる』に、大木惇夫がその詩的出発にあって感受=認識しようとした自然の理法、存在の言葉は、少なくともその余韻はなお濃厚に、響いている。『海原にありて歌へる』は、決して時局便乗の戦争詩集ではない。生きていることそして死ぬことの根底を問うその眼差しは、「国知ろす/神」を透かして、「遠い国の岸」に向けられている。次の「雨の歌」などは、金子光晴あるいは吉岡実を想起させるものだ。


雨(ウヂヤン)、雨(ウヂヤン)、雨(ウヂヤン)、/氷柱(つらら)の礫(つぶて)のやうに/燃える肌(はだへ)の沐浴のやうに/椰子のみどりに光る雨(ウヂヤン)、/散るよ、ミモザの花(コンパン)、/ぬれるよ、猫(クチイン)/黒い処女(ペラワン)、腰布(サロン)/懶(ものう)い午後(ひるさがり)の/訴へやうもない郷愁の/渋甘い無花果(アムコ)の味覚、/さらでも切ない/やるせない/滅びゆく国の音楽(「雨(ウヂヤン)の歌」第一連)


 『詩全集第二巻』の保田與重郎「解題」は、「それは美しいだけでなく、何といふ不思議に、遠いところを思慕させる詩だらうか、何といふ創造の原始、ものの芽のもえ出すやうな軽やかさ、それこそ我が太古の御祖たちが、そこにいましたと慕はしく思ふやうな、そしていつかかなしいこの詩を、私はもの狂しい位に感動した」と記す。だがこの詩の、「滅びゆく国の音楽」を、たとえば「地のこゑ」(『風・光・木の葉』)の、「あをぞらに/微笑の影はあれども、/ほろびゆくもののこゑは/地にみつる。」に重ねて読むなら、すなわち、ありとあらゆる有限の地上の存在のこととして読むのであれば、「訴へやうもない郷愁」は、「我が太古の御祖たち」をも含みつつ、さらに広く遠いところ、いみじくも保田自身が言うように「不思議に、遠いところ」、「創造の原始、ものの芽のもえ出すやうな」世界誕生のゼロ地点を思慕するものとしてある。かつて詩人が歌った、「ああ、遠い国の岸に/芒のやうにたなびいてゐる/わたしの生命」という、その「遠い国」への郷愁だ。保田の言う「慕はしく思ふやうな、そしていつかかなしい」とは、有限であるものが無限に触れての感懐であるだろう。

 次の「ガメラン 東印度風物詩 その六」の「郷愁」にもまた、イデア=存在への郷愁が透けている。


満月に酔ひ痴(し)れて/じゃがたらの夜を行けば/たまゆらに ガメランぞ鳴り出でぬ、/しみらにも掻いさぐり/はた、高鳴らす その楽(がく)の音(ね)は、/ふるさとの かかる夜(よ)の/かかる夜の思ひ出に/顫(ふる)へつつ、咽(むせ)びつつ。/南(みんなみ)や、十字星、つくづくにうち見れば/げに遠し、かの雲の/赤道の、うなばらの、かなたの、かなた/国はあり、ふるさとはあり、/吾(あ)を待ちて 灯(とも)し揺(ゆ)るるを。//ためいきや、月のしづく、/張り裂けん胸を堪へ/さまよふは、人ならじ、われならじ、/籬(まがき)なる山梔子(コモゼ)の香/ただただに身に泌みて/遠方(をちかた)は、しろがねにうち烟(けぶ)る月明り、/郷愁は雪と降りつつ。

原註「ガメラン」 ジャワ固有の伝統的音楽


 大木は誠実だった。誠実が災いした。言葉ならぬ言葉を捉えようとする作品が、注文に応じて量産できるはずもない。そのことは『詩全集第二巻』の「附記」に、よく自覚されている。「主題とすべき精神は常に一つに決まってゐるのだから、数が多いだけに表現はとかく常套型に堕さざるを得ない」(「附記」)。国家社会への誠実が詩に対する誠実を上回ったとき、「なべての国の言葉なき言葉もて」語られるべき自然の理法は、わが神に吸収されていった。


あなたふと、うつそ神 統(す)べたまふ 大八洲(おほやしま)/はるけしや、ひろけしや/海原の、八汐路(やしほぢ)の、汐の、波の穂に/かがよふや、御吹息(みいぶき)の光およびて/あなうれし、よみがへる 起ちあがる アジヤ御民ら。(「日出づる国の大君」)


「一篇一篇をいい加減に書いたつもりはない」(「附記」)と大木自身が回想しているとおり、こうした詩もまた誠実に書かれていることを、わたしは疑わない。だがここでは言葉が上滑りをしているばかりであって、かつてのような、言葉ならぬ言葉を捉えようとする、命を削るような努力なしに、書かれ得るものだ。「引きもきらぬ新聞雑誌の依頼」(「附記」)を誠実に引き受けようとするあまり、「常套型」の作品が増えていった。

 戦争が終ったとき、大木はふたたび〈言葉〉=「なべての国の言葉なき言葉」を求める。当然であろう、「うつそ神」=昭和天皇が自ら神格を否定し、〈言葉〉は失われたのだから。『山の消息』(健文社、一九四六)の「あとがき」にあたる「山の消息 田園四季の記」の「秋」に、「自由の名に於て交流する世界の精神が、真理の名に於て共感する宗教と哲学と詩の精神が、再びわたしに返って来た。戦争の狂気よ。知性を蝕んだ熱病よ。とりわけロゴスとパトスとの問題がわたしを領して来た」とある。次の「言葉(ロゴス)」は、そうした思いで書かれた。


わが民の/生きの身の/あやふき日/あはれ、言葉(ロゴス)よ、/すこやかに/さやかに来れ。//(中略)//薔薇食(を)さむ、/飢うる時/ひとしほに/言葉にぞ飢ゆ、/青空の/言葉(ロゴス)を汲まむ。(「言葉」第一、四連)


 「秋」に、「頻々として、今次の戦争の真相なるものが伝はって来た。その度びごとに、愚かしかった自分を思った。昏迷の中から、反省が続いた。多くの欺瞞の前に、自分は一介の幼児でしかなかったのである」と記されている。だが、何が「欺瞞」であり、どのようなことが「愚かしかった」のかは、まったく記されていない。作品「言葉」に即して言えば、「わが民」という発想は自明のこととしてまったく疑われていないのである。

 冒頭に戻る。「長いこと詩を忘れてゐたのが、大木さんのあの詩で、詩の存在に気づき、詩が如何に大切なものかをはっきりと知ることが出来たのを喜んでゐます」――。浅野晃の「跋」によれば、「ある若い将校」は『海原にありて歌へる』への感動を、そう語ったのだった。「戦場」と「しっかり結びついてゐる」ところの「詩」とは、他の誰でもない、今ここにこうして在る自らが、生きていること、そして死ぬことの根底を問うような詩であるだろう、と先にわたしは記した。大木惇夫の詩とは、どのようなものであったか。「野茨の声」をもう一度、引こう――「この夕霧に溶けてゐる言葉、/白い野茨の花から/しづかに匂って来る言葉、//これだ、この秘密だ、/ながいこと尋ねてゐたのは。//野茨よ、野茨よ、/この素朴で声のない言葉。」――。自然詩人・大木惇夫が身を削るようにして尋ね求めた自然の理法は、戦場にあって、「国知らす神」、「うつそ神」と化した。彼は自らの求めるものを、狭く閉ざしてしまったのである。

 夕霧に溶けている白い野茨の花が、そのものとして静かに語っている「素朴で声のない言葉」=〈言葉(ロゴス)〉とは、「なべての国の言葉なき言葉」であり、決して日本なら日本に狭く閉じられるものではない(大木には『日本の花』という詩集があるのだが、そもそも大木作品における自然の理法は多く植物に留まっていて、無機の事物をも包括するに至っていない)。

 わたしたちが詩を求めるのは、わたしたちが個であるとともに、普遍でもあるからだ。わたしちは、今ここにこうして在る自らとして個であり、日本人あるいは日本民族とされることで特殊でもあるが、宇宙の内部、地球上の存在者として、普遍でもある。生きていること、今ここに在ること、そして死ぬことの根底を問うことによって、わたしたちは特殊を突き抜けて個から普遍へと繋がれる。わたしたちもまた夕霧に溶けている白い野茨の花のように、そのものがそのものとしてそのままに在る、そのような在りようを存在の中核に持つのであって、人はただ生活に追われ、目前のことがらに頭を支配され心を奪われるだけのものではないことは、ほんとうは誰でも知っている。(了)


*『海原にありて歌へる』の引用は『南方徴用作家叢書』G、『雲と椰子』は同I、それ以外は『大木惇夫全集』に拠った。







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『南方詩集』と『ガダルカナル戦詩集』             




市原礼子




 「昭和戦争文学全集」(集英社・全15巻・一九六四年刊)の第5巻は「海ゆかば」と題されて、一九四一年一二月八日から一九四五年の敗戦に至るまでの四年間に、海の上に出ていった日本人の記録が収められている。勝てないとわかっていながら、追い詰められて、アメリカと戦争を始めてしまった。しかし、開戦の勝利に酔う一般国民には、そんなことはわからない。南方の海洋上へ、中国大陸へと、言われるままに、また、みずから出兵して行った。拒否することは、だれも考えないし、できないことであった。当時の日本人の文学的な記録として小説・手記以外では、「海ゆかば」には二人の詩人の詩集が収められている。

 

 『南方詩集』は、神保光太郎(1905〜1990)がマレー半島で従軍し、昭南(シンガポール)日本学園の学園長をしていた時期の詩集とのこと。神保光太郎は「日本浪漫派」の詩人で国粋主義的といわれている。その作品には、占領者の視線で見た南方の自然と、子どもたち、青年、尼僧等に対する善意の感情が書かれている。

たとえば、「われは知らず」という詩には 昭南日本学園長就任の日に という副題がついている。そこには「…かかる異族のわかものを いかにみちびく われは知らず 父祖の国大和のこころを つたえんと…」ということばで占領者の、教育者としての立場が表現されている。

 また「或る日」という詩は 「たのんだのでもないのに あんないしようと とつとつとあるきだした青年 タミール族だという たくわえもなく職もなく まいにち あてもなく散策しているという あゆみはげんきだが そうきけばどこか疲れている おびえたまなざしである こんなわかものに 早く仕事をみつけて まいあさの うれしい出勤の喜びを味わせてやりたい シンガポールの山の手通り 遠く晴れ渡った空に 今日も 獅子のような雲がうかんでくる 人も通らない 風さえ通らない死のような静けさ 一人の日本人と 印度の青年とがあるいて行く」とある。

 そのまなざしは、やさしく保護的である。善意の感情が読み取れる。が、どこかいごこちの悪さをかんじてしまう。「父祖の国大和のこころをつたえんと」するが、南方の人たちはそのようなことを望んでいただろうか。神保光太郎とて、望んでここに来たわけではないかもしれない。月をみれば仲麻呂が、秋風がふけば芭蕉の句が思い出されるのであった。

 

 『ガダルカナル戦詩集』―前線にて一勇士の詠えるーは、吉田嘉七(1918〜1997)が一般兵士として参加した、ガダルカナル島の戦いから生まれた詩集であり、戦時中にただちに発表されている。戦争の後半、敗戦の色が濃くなってきている時期に、若い人々によまれ、深い影響を与えた詩集である。


 〈一月を食わずにありて、一月め米は届きぬ。…されどせめて一日早く なぜなれば届かざりしぞ。一握の米をつかみて、つつしみて墓前に供う。〉―「米」―


 〈…昨日散ったる戦友の いまわの言葉ただ一つ、わが機は未だ来らずや。〉―「わが機来らず」―


 〈汝が兄はここを墓とし定むれば、 はろばろと離れたる国なれど、 妹よ、遠しとは汝は想うまじ。〉…―「妹に告ぐ」―


 〈いくさする我にいやまし 弟の家守る日々は 激しかるらし。…〉―「弟を想う」―


 〈お母さん、私は今西の方をむいて居ります。…あなたの方をむいて居ります。…〉―「黄昏」―


 飢えに苦しみ、死んでいった戦友を思い、故郷の妹を思い、弟を想い、母を思う。戦場での若者の心情が吐露されていて、私は本当に涙を抑えることができなかった。この詩集を読み、当時の若者はどのような事を考えたのだろうか。「遠望日本」という詩には、〈この国のためにこそ〉ということばが何度もでてくる。当時、この『詩集』は万葉時代の詩の精神の復活を意味していたとのこと。その精神とは、どのようなものなのか。  


 「海ゆかば」はこの全集5巻のタイトルにもなっているが、『万葉集』巻十八の大伴家持の長歌から採られていて、帝に対する忠誠心がうたわれている。また、信時潔により歌曲にもなっていて、戦争中には出征兵士を送る歌として愛好され、戦意高揚に利用されたとのこと。多くの若者がこの歌により戦場に送り出された。また、ラジオ放送の戦果発表が玉砕を伝える際には必ず冒頭曲として流されたそうである。 

悲惨な、そして、貴重な記録である。この間の戦いで亡くなったひとは、日本では三百十万人、他の国の合計は二千万人という。いまだに世界では戦争が続いている。



【参考文献】

  「大東亜戦争の実相」瀬島龍三著 

  「日本浪漫派批判序説」橋川文三著

  「授業では時間切れになった日本史」歴史の謎を探る会編





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  石原吉郎の帰郷


           ―〈夜と霧〉を背負って

        


        間島康子





 私たちは内にさまざまなものを抱えて生きている。どのように平凡安穏に見える人の中にも、その人しか知り得ない感情があり、ドラマが隠れている。ましてや、それが戦争という時代の波に呑まれ、過酷な体験を強いられた時、どんなにそれに近づき覗いてみても、それを本当に理解することはできないであろう。


 石原吉郎は書く。

 「実際そこにいた人間にしかわからないこと」である

と。


 石原吉郎は「戦争犯罪人」として、重労働二十五年の判決を受け、「囚人」としてソ連最低の流刑地の一つである無人の密林地帯「バム」(バイカル・アムール鉄道)沿線の強制収容所に送られた。そこからさらに、ハバロフスクのラーゲリ、ナホトカへ移送され、シベリア八年間の抑留を経て帰国した。三十八歳の時であった。

 帰国後、石原は詩人として世に出たが、五十二歳の時、「肉親へあてた手紙」を発表するまでは抑留生活につい

て語ることはなかった。詩の中にだけ、「シベリア」は閉じ込められていた。



 「そこにいた人間にしかわからないこと」を、それではなぜ十四年経って沈黙を破って書き、発表したのであろうか。

 石原の弟への義絶の手紙は、必ずしも積極的に公表するものとして書かれたものではないようであるが、発表したことによって転換点が訪れたことは確かであった。

 この手紙には抑留生活がどのようなものであったかは、具体的にはほとんど書かれていない。むしろ、書かれていないだけに帰国後に受けた肉親、親族からの無理解、不条理な仕打ちに対して反応する石原の絶望的な心情は、シベリアでどれ程過酷な時間を積んできたかを、より一層浮き彫りにする。私たちは、シベリアと背中合わせの、表裏一体のことばを聞く。

 弟、そして親族という実在する者にあてて極めて(「なおそこにいくつかの重要な問題がきわめて不充分なかたちでしか語られていないことに気がついたとしても」)客観的に真情を語り、そうすることによって


 ささやかではあるが前進らしいものが起こったということに、私自身はまじめな意味でユーモアを感じます。そしてこのようなユーモアこそ今の私にとって大きななぐさめでもあります


と結論したことは、この手紙を一週間かけて書いたその間に、石原の絶望し泣き切って得た自分自身への処世ではないだろうか。


  〈すなわち最もよき人びとは帰っては来なかった〉。

  〈夜と霧〉の冒頭へフランクルがさし挿んだこの言葉

 を、かつて疼くような思いで読んだ。


とは、詩集『サンチョ・パンサの帰郷』のあとがきの書き出しである。石原吉郎にとって『夜と霧』は己の内面をまるで解剖図のようによくよく明かしてくれた書物であったに違いない。


 抑留生活で支えになったのは

 私は決して「犯罪者」ではないということ、いずれは誰かが背負わされる順番になっていた「戦争の責任」を背負った


という意識だったと石原は書くが、それに加えてフランクルの言う、「内面化への傾向」が著しい人間であったからではないか。石原は精神生活の高い「繊細な感情素質」を持っていたために「恐ろしい周囲の世界から精神の自由と内的な豊かさへと逃れる道」が開かれ、このようである時、「繊細な性質の人間がしばしば頑丈な身体の人々よりも、収容所生活をよりよく耐え得たというパラドックスが理解される」と述べられるそのケースに当てはまるのではないか。

 しかしそのために、「私たちが果たしたと思っている『責任』とか『義務』とかを認めるような人は誰もいない」ことを帰国した瞬間から思い知らされることになる。忘れ去られ、無視されて行き、しかしそれはさらに「シベリア帰り」という烙印を押され、「職場からしめ出され」るという「全く顛倒したあつかい」を受けることで「世間は実は決して忘れてはいなかった」ことを知る。何とも皮肉で、大きな不条理に突き当る。

 極北の凍土の上で、それでも石原は「未来」を信じていたはずである。フランクルは「未来を失うと共に彼(強制収容所の囚人)はそのよりどころを失い、内的に崩壊し身体的にも心理的にも転落」したのを見てきた。「責任」と「義務」を支えとし、石原にとっての未来はどのようにあったものか。

  かつて、まだ少年期を脱したばかりの頃、私は、貧窮にやせ細った姿で一人ルターの註解を読みつづける一人の青年を理想像として熱く思っていた。そのように内省的な少年は、青春といえる時期を持つことを許されず、シベリアで、くりかえしくりかえし(中略)滅びなければならない時が来たら、いつでもしずかに滅びて行こう

と、言い聞かせていた。言い聞かせてはいたが、「私自身が存在することに対する希望」は少年の頃の希求と変わらぬままに深くしまわれていた。「希望を求めるその姿勢だけが、おそらく人間をささえているのだ」と。


 生まれ故郷である伊豆という土地は、石原にとって「象徴的な意味をもって」いた。自分とつながる長い血統の土地で誰よりも、何よりも帰郷した自分を一番に理解してもらえると思っていた。そこに具体的ではないが、過去とつながる未来を渇望していた。


  滑稽にも、(中略)戦争責任の問題を何よりも、この自分の血に深いつながりのある土地で第一番に理解してもらえそうな気がして、胸が痛くなるような気持ちでバスを降りた。


 「よくぞ帰った」という単純であたたかいひと言を期待していたのである。しかしそれは無残にも打ち砕かれた。

 『夜と霧』の中で明かされるように、強制収容所の極限状況に置かれた人間は、あまりの過酷さ故に段階を踏んでそれまでの人間では考えられない人間になってゆく。


 ・人間はすべてに慣れ得るものである

 ・異常な状況においては異常な反応がまさに正常な行動である

 ・苦悩する者、病む者、死につつある者、死者・・これらは当たり前となりもはや人の心を動かすことができなくなる(無感動こそが囚人の心をつつむ最も必要な装甲であった)

 ・大多数においては、単に生命を維持するということに注意が集中する


等等、石原吉郎がどのように「内面化の傾向」がある人間であったとしても、そのような中に身を置いて生き延びてきたことには変わりない。悲惨なものを抱えつづけていたことには変わりない。


  ともかく非常に単純に、「ご苦労さん」といわれた言葉に満足し、「私たちは日本の戦争の責任を身をもって背負ってきた。誰かが背負わなければならない責任と義務を、まがりなりにも自分のなまの躰で果たして来た」という自負をもってそれぞれの家へ帰って行ったわけです


と綴る石原にとって、留守中に父親を亡くし、母親の扶養義務ができなかったということをはじめとして「家」にまつわる法律や道義上の問題、「赤」でないことの証明などの言葉を告げられた時の絶望は、どんなであったか。新たな凍土に帰還したに等しかったであろう。

 父親が健在であったら、それはどのように違っていただろうか。

 石原の「留守中」の意味をぶつける件は本当に傷ましい。


  私はその時、単に「留守中」であったでしょうか。私はその時、自分の義務と責任とから「開放」されていたでしょうか。 そうであるはずはない。あなた方が父の棺の蓋を掩いつつあったその同じ瞬間に私が何をしていたか、あなた方自身忘 れるはずはないし、忘れていいはずはないと思います。あなた方はそれをその時知っていただろうか。あらためてもう一度 聞きます。知っていたにしても「どれほど」それを知っていただろうか。


 帰国後の期待を無造作に毀されていった石原は、故郷の山河に惹かれやや暫く滞在し、墓地をうろついた。うろつきながら墓地との決別をきめた。そして、「これまでの妥協的で、不安定な態度とはっきり袂別して、最も本質的な問題のためには、これから一歩も退かないという決意」をもてたことに喜びを感じた。

 石原は人間(しかも肉親)によって、最も深い傷を負わされた。それは、戦争によって負わされた断絶の孤独をありありと見ることだった。そして、「人間関係をささえているかに見えるものが実は深い虚無」であり、それを「真正面から見すえることが人間が生きる意味」であると言う。

 石原の生活は次第に破綻していったと言われるが、このように妥協を許さず、余分なものをすべて削ぎ落としてしか生きられなかったことの必然であるのかもしれない。その生き方をうつして、石原の詩は難解であり、また、その言葉は切り結ぶように選ばれている。石原には虚構は書けなかった。

 生きることが詩であり、詩を書くことだけが生きることであったのかもしれない。



    はじまる


  重大なものが終るとき

  さらに重大なものが

  はじまることに

  私はほとんどうかつであった

  生の終りがそのままに

  死のはじまりであることに

  死もまた持続する

  過程であることに

  死もまた

  未来をもつことに 

                 (詩集『足利』一九七七年花神社刊)




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