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【書評】戸塚麻子著『戦後派作家 梅崎春生』

                                                              永野 悟


 全五章の構成からなるが、梅崎春生(一九一五−‐一九六五)を作家として確立させた「桜島」「日の果て」は第二章〈戦後〉にあり、第一章は〈戦前〉として、いわば作家の出発点というべき対照的な二つの作品、「地図」(昭一一)、「風宴」(昭一四)を提示・分析している。前者は三島由紀夫ばりに、“華麗なる死”を夢想する「花作りの一家」の人物とその没落を描く。もっとも「花」というメタファーのもとに陶酔的な美と死を描くのは、のちの作品に徴しても例外的で、その前の習作の詩「死床」(昭八)と併せて、時代の滅亡期の危機・不安の所産と位置付け、著者はむしろ後者の「風宴」に作家の原質をみている。

 「風宴」は、本郷辺りに住む「私」と、彼が行き通う「天願」という先輩の交流を描いている。生活を立て直そうとしながらも自堕落な日々を送ってしまう「私」や、下宿の娘の死をめぐる顛末を書く筆致には、梅崎の虚無的な死生を感じさせられる。注目したのは作品の“風景描写”には梶井基次郎の影響がみられるという指摘で、「ある心の風景」との比較がされている。ただ梶井の場合は、外界と主体の分離があって、主体(主人公)による外界の感受、認識が内面を形成していく面があるのに対して、梅崎の場合の外界は作者の心情を表現するための手段であり、「風景」は「私」の心象の延長でしかない、としていることだ。これは、「私」の内面にこだわりそれを創作の根源とする点で、この作家が戦後派にはめずらしい「私小説作家」といわれる所以でもあるが、のちの作品にみられるエゴイズムやニヒリズム、イロニーという態度と関連していく。

 第二章〈戦後〉は、第一節に「桜島」(昭二一)、第二節に「日の果て」(昭二二)、第三節に「蜆」(昭二二)が分析されるが、「桜島」で冒頭から論じられる〈イロニー〉は作家の重要な創作態度の指摘といえる。死を意識した塹壕の中の暗号員といった閉鎖的な設定もあろうが、所与の存在としての世界、あるいは現実に対する違和、その結果としての〈イロニー〉という精神態度、それを著者は「現実感」の二つの語句、「リアリティー」と「アクチュアリティ」(木村敏)の概念で説明している。前者は既成の所与の現実(感)をいうが、後者は「関与している人が自身でアクティヴな行動によって対処するしかない」現実(感)をいうとして、戦前の梅崎は前者の立場、いわば「ロマンティック・イロニー」(日本浪漫派など)に属していたが、この中での「無限の留保」「現実への嘲笑」は、この「桜島」で転換した、主人公の「感傷」もむしろ作家の自己相対化の武器となっており、現実の絶対的な体験をつかみとる実感、その実存的な真実となさしめている、と分析している。

 だが、作家の原質(葛藤と虚無)はむしろその後の「蜆」に現出しているのではないか。終戦直後の買い出し、満員電車の中、閉じられないドア口で必死にふんばっている「おっさん」が、はずみでついに車外に落下する。残していった重いリュックサックを「僕」が家に持ち帰るが、中からプチプチと幽かな音が聞こえる。開けたところ、中にはたくさんの蜆があった―。この〈蜆〉を満員電車の国民、作品を荒廃した世相への風刺、ととらえる向きもあったようだが、著者は、むしろ外套を取り替えた男の後日をふと夢想する主人公に、エゴイズムとニヒリズムを見る。椎名鱗三が作品を、梅崎の前期ニヒリズムの頂点と評価したというように、「蜆」はニヒリズムとそこからの脱出との絶えざる相克の形を描いた。

 「戦後派」としての創作は、しかし〈行き詰まり〉を迎える。第三章〈戦後の終焉〉は、五〇〜五二年ころの作家を、時代状況とのからみで分析している。このころから「逆コース」と言われだしたし、「書けなくなった」のも、時代に応じた「文体」の問題と作家にも自覚されてきていたのだった。そして、もとよりあった、外界や他者との関連でどう生きるか(ともすればニヒリズムに陥りやすい)、というテーマを、作家は「関係回復」あるいは「憎悪の結びつき」の視点から〈フィクション〉(「童話」に見られる“自由な”方法)で創作していったのだった。「山名の場合」に見られるユーモアは、そうした方法からにじみ出たもので、ついで「Sの背中」の落語的な語り口、そこから感じられる俗物的なエゴは自然に笑いを誘う。そうした延長の結果として、第四章〈大衆社会化時代の到来〉の、「ボロ家の春秋」(昭二九)が書かれ、直木賞受賞(昭和二九年下半期)にもなったのだったが、ここには著者が目次項目でも示すように、他者の関係の上での「オセッカイ」や「契約」、「騙す/騙される」、そして「憎悪」が描かれ、結果、巧まざるユーモアをかもしており、梅崎文学の一つの方向ともいえよう。

 ただ、今回、作品を読んだ印象からも、梅崎文学の真骨頂は、最終の第五章〈高度経済成長の中で〉で論じられる「狂い凧」(昭三八)と「幻化」(昭四〇)ではなかったか。後者は晩年に書かれたこととその内容から、梅崎文学の集大成とか、「桜島」への回帰といわれていたが、著者は「新たな試み」を読んでいる。すなわち当初から問題にしてきた人間関係の不調和のテーマ以外に、かつての時間の取り戻し、過去との関係が問題視されてきて、「歴史意識」や「時間感覚の遠近法」のテーマが提示されている、というのだ。だがその点でいえば、「狂い凧」にこそ、その過去や戦争のことも書かれ、人間関係もむしろ“回復”の方向が見えるのではないか。作品は、主人公がバスから降りる際転んで「私」の見舞いを受ける「現在」の時間と、主人公(栄介)とふたごの弟(城介)との「過去」がないあわせに綴られるが、格別にことわりのないのに、読者に時間感覚の読み間違いを起こさせないほど、構成も緻密で、文体も自然で、著者の目次項目にあるような「家族」(兄弟の愛)や「故郷」(下関)、「運命」(弟が大陸で戦死)のことが巨細に描かれている。ここでは、〈私小説〉作家というより、著者が論じている「社会性」の広がりが強い。作品は、描写の手際とテーマ性、そして何よりも同時代をこのような時間的スパンで描いた点によって、「戦後派文学」の峰ともいえる。

 梅崎文学を時系列的に、時代状況も含め、仔細に検証・論及しており、その詳細な後注(だいぶ勉強になった)とあわせて、梅崎春生を「戦後派作家」としていま一度再認識させる力作といえよう。

                   (「芸術至上主義文芸」35号平成21年9月刊)


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戸塚麻子著

  『戦後派作家 梅崎春生』


目次
 はじめに
 第一章 戦前
   第一節「地図」 第二節 「風宴」
 第二章 戦後
   第一節「桜島」

      1 梅崎における〈イロニー〉
    2 軍隊批判とそこからの逸脱  

                            ―  〈桜島〉の〈日常〉
   第二節「日の果て」

       1  「日の果て」のモデル
    2  〈運命〉と〈絶対的なエゴイズム〉
    3  「独楽」から「日の果て」へ
   第三節「蜆」 

      1 「蜆」のエゴイズム
    2 〈イロニー〉と〈ニヒリズム〉

 第三章 戦後の終焉
   第一節五〇年前後

        1 「行き詰まり」
     2 「行き詰まり」の作品化

                      ―「偽卵」から「庭の眺め」「空の下」へ
     3 〈フィクション〉の発生  ―「山名の場合」
   第二節戦後の終焉 ―五二年前後
     1 「Sの背中」
     2 「春の月」
     3 「私は見た」

 第四章 大衆社会化時代の到来
    第一節「砂時計」

        1 「砂時計」の構成
     2 「カレエ粉対策協議会」
     3 栗山佐介―大衆社会状況における人間疎外
     4 複数の佐介
     5 平沼修蔵―転変する日本社会
   第二節「ボロ家の春秋」
       1 「ボロ家の春秋」以前
     2 都市と郊外
      3 「オセッカイ」
     4 契約
     5 騙す/騙される
     6 「憎悪」

 第五章 高度経済成長の中で
   第一節中間小説―五〇年代後半から六〇年代初頭
   第二節「狂い凧」

         1 「記憶」
     2 「狂い凧」梗概
     3 家族
     4 故郷
     5 運命
   第三節「幻化」

         1 「幻化」
     2 「出戻り女」
     3 「小母さん」
     4 子供
     5 女指圧師
      6 丹尾

 結論 

   「風宴」「桜島」「蜆」「私はみた」「砂時計」「幻化」
  むすびにかえて
   付録「魚の餌」「突堤にて」と「防波堤」
  註 引用作品一覧 あとがき 初出一覧

             論創社刊 2009年7月 2,500円+税