『群系』 (文芸誌)ホームページ 


文芸誌にみる「3・11」と過去の大災害  

           

           ―メディアと作家はどうみたか―


                                             永野 悟    (28号収載。ネット版・横書き)



 3月11日の東日本大震災はマグニチュード九・〇という大地震であり、死者・行方不明者1万9488人(11月10日現在)は、一九九五年の阪神大震災同6437人の三倍以上、原発事故も伴って国内外に甚大な影響を与えた。この大災害では溺死が92%以上を占めたという。阪神大震災では建物倒壊による圧死等が83%、関東大震災(一九二三年)では死者・不明者10万5385人のうち、火災による死者が87%、というのと比較すると(「社会実情データ図録」インターネット)、被害の相違がわかり、今回の津波がいかに激甚だったかがわかる。
 吉村昭はつとに、『三陸海岸大津波』(一九七〇年)、『関東大震災』(一九七七年)を著しているが前著によれば、地震に伴う大津波は、近代三つあるという。

  明治二九年(一八九六)の津波(死者2万6360人)
  昭和 八年(一九三三)の津波(死者2995人)
  チリ地震(一九六〇)の津波(死者 105人)
 
 全部三陸沖であるが、今回その巨大津波がテレビやインターネット(You tube)で目前に映し出され、津波の恐怖がまざまざ感じられた。過去にない原発事故も伴って、マスコミは連日報道でもちきりである。
 だが活字媒体(雑誌)はどのように災害を扱ったのか。これはインターネットやテレビ(ラジオさえ)がなかった関東大震災などとの比較の上でも(ラジオは一九二五年に初放送)、また問題を考える意味でも重要である。関東大震災で、東京は変ったし(近代都市になった)、日本の近代も、文学も変わったといわれる。はたして、今回の大災害で何が変わるのか(変わるきざしがあるのか)、文芸雑誌や作家作品で比較検証してみたい。

 総合雑誌はさすが大きく特集がなされていた。「中央公論」は《3・11と日本の命運》のタイトルのもと、〈「戦後」が終わり、「災後」が始まる(御厨貴)や〈阪神・淡路大震災との違いは「人災」であること〉(内田樹)などの論文を載せ(5月号)、6月号では〈震災2ヶ月のいま、考えるべきこと〉という特集名のもと、「復興は時間との勝負である」(越澤明)を巻頭に掲出している。「文藝春秋」では《総力特集 国難・東日本大震災と闘う》と題して「関東大震災と東日本大震災」の鼎談(半藤一利・保阪正康・御厨貴)をまず掲出している(5月号)。
 両誌に特徴的なのは、災害の検証よりも従前の主張を繰り返しているということだ。左翼の退潮を受けた保守台頭がそのまま反映されている(「中央公論」は一九九九年経営危機に陥り読売新聞に身請け、傘下になった)。

 では文芸誌ではどうだったか。が主要雑誌では直後に3・11を特集として取り上げたのは見受けられなかった。わずかに、「群像」5月号には、「東日本大震災 特別寄稿」とあって二人の名前があった。作家・高橋克彦(岩手在住)はエッセイ「東日本大震災」2p)、東北学≠打ち立てた、赤坂憲雄は「海のかなたより訪れしもの、汝の名は」(14p)を寄せていた。赤坂は特に海嘯≠ニいわれた津波を、柳田国男を引いて海辺の民の伝承を語り、さらに災厄・犠牲≠フ話で、戦後のゴジラ、ナウシカ(「風の谷のナウシカ」)の意味を問うていた。
 また、6月号になって「文学界」は、巻頭に辺見庸の詩篇「眼の海―わたしの死者たちに」掲載。同誌8月号に、震災に関しての「特別対談 菅原文太×丸山健二」を掲載した(菅原は仙台出身、丸山は長野県出身・在住だが、青年時代は仙台の電波専門学校で過ごした)。
 だが「新潮」や「文藝」などは前々からの企画・寄稿を通していた。要するにメディアの一つとしては、文芸誌はこの段階では「特集」するまでは考えなかった、ということだろう(ここが、関東大震災との大きな違いといえよう。後述)。
 ようやく8月号になって、「すばる」同号には、二三の関係論文が見受けられた。陣野俊史の「「3・11」と「その後」の小説」は、3・11以降の文学はどうあるべきか実践的に検証しているし、池澤夏樹は、「春を恨むことはできるか」は、自然と人間の問題を提起している(後に『春を恨んだりはしない-震災をめぐって考えたこと』中央論新社、として刊行)。また、鈴木貞美も「宮澤賢治からの新たな通信」の中で、明治二九年(一八九六)の三陸地震の前に生まれ、昭和八年(一九三三)の昭和の三陸地震の後に亡くなった賢治(一八九六‐一九三三)の、自然へのディレンマをその詩篇に見ていく。農学者としての自然征服と、大地への耕作自体を冒涜と感じる感性は、生きようとする「生の盲目的意志」が、「宇宙の意志」から来ると考え、「解脱」を考えた
という。 これらを見ていくことで、今日の問題を考えたいが、その前に過去の大災害は、どう扱われたのか、当時の新聞、文芸雑誌や作家の文章をみていこう。


 浦西和彦は「関東大震災と文学」(「國文學」平成元年臨時増刊)の中で震災の報道と作家の動向を紹介している。焼失を免れた唯一の新聞、「東京日日新聞」大正十二年九月二日付には、次のような見出しが躍ったという。「強震後の大火災/東京全市火の海に化す」「日本橋、京橋、下谷、浅草、本所、深川、神田殆んど全滅死傷十数万/電信、電話、電車、瓦斯、山手線全部杜絶」「*安政以来の大地震」―。*安政2年(1855年)10月2日)
 ここで「電信、電話、電車、瓦斯」とあるのに注意したい。普及したてのそれらライフラインが途絶して、帝都は真っ暗闇、瓦解した建物から人々の呻きが聞こえ、食糧は供給されず、そして新聞社の印刷機は壊滅、情報がない中に、いわゆる「流言飛語」がでてくるのである。不逞鮮人≠ェ放火、暴動を起こしている、等等で、町は不安と恐怖につつまれ、実際、軍隊や警察、そして自警団が朝鮮人や社会主義者虐殺に奔ったのである。平澤計七は9月5日警察署内で、大杉栄・伊藤野枝らは同16日に連行され、憲兵隊甘粕正彦によって殺害された(が新聞報道されたのは25日になってからだった)。
 この大天災はこのように、人事の不穏を伴っていた。今回の3・11と比較して目につくのは、それらを含めた雑誌の特集の多さと作家のそれぞれの文章だ(今日の災害では作家の出番はない。それぞれ報道記者・キャスター、そして「専門家」が、解説する)。
 「中央公論」は《前古未曾有の大震・大火惨害記録》、「改造」は《大震災に遭遇して》、「文章倶楽部」は《凶災の印象/東京の回想》、として直後に大特集を組み、火災で発売号が焼尽した「文藝春秋」(大正12年1月創刊)は、十一月号に芥川、菊池、横光らの文章を載せた。「太陽」(博文社)十一月号も「大杉殺害事件批判」に数論文を載せている。また女性向け誌「婦人公論」も十一・十二特大号に震災特集を組み、伊藤野枝追悼も編んでいる。
(ちなみに、震災の直前に有島武郎が軽井沢で心中しており、「白樺」も廃刊になっている)。さらに翌年以降も震災関連の特集が続き、作品も多く発表された。
 震災の様子は、特に田山花袋『東京震災記』(一九二四年刊)に詳しい。代々木に住んでいた花袋は震災直後から何度もその被災地に足を運んでいる(記述は翌年からで三月刊)。なぜ書いたのか。時とともに変わらぬ自然が訪れたが、「この世の終わりか」と思われたあの時が忘れられぬからであった。代々木から千駄ヶ谷へ抜けて九段に出るあたりから被害は目についてきた。向こうからくる人に下町の惨状を聴く。神田も日本橋も丁稚奉公の昔から知っていただけに、その崩壊の様に唖然とする。なんとか隅田川を越えようとすると多くの人だかり。特に「被服廠」の悲惨は聞いていた以上だった。火に追われて岸頭の舟にいった人、橋げたからそのまま落ちかかったさま。四万人近くの被害者を出す現場に行く前に見る悲惨が記される。厩橋や吾妻橋、あるいは隅田川にそそぐビール会社横の枕橋・源森橋付近の被害がひどい。「私はそれを見ることが出来なかった」というが、そんなはずはなく現実を見たままに書いたルポライターの目がそこにはあった。ところどころに人々の話やうわさが挟まれるが、実際の見分が身に迫る。「頭から血のだらだら滴っている若い男を皆し
て昂奮してつれていく」のに出くわす。巻末の解説にあったが、花袋が伝えるのは、「現場の空気」だろう。「この空気のなかに満ちているのは、死の音であり、温度であり、臭いである。人々の泣き叫ぶ声、強烈な熱風、皮膚が焼け爛れる臭い」―。
 後年の作家であるが、吉村昭の『関東大震災』はより克明で、当時の生存者からの聞き書きの再現が、驚くほどのリアルさで迫る。養父母とともに大八車で被服廠跡の広場へ非難した青年が忘れ物をして戻った見たときは一面火の海であった。人を掻き分け父母を探すが、もう遺体を踏みわけるしかないほどだ。また或る人は、つむじ風に空に浮かんで地面に落とされた、遺体の山の間から辛うじて助け出された。火は三日間燃えくすぶった。遺体は腐乱がすすむ。その処理に市川や草加にまで人夫募集をした(日給二円の相場に五円)。しかしそれでも間に合わない。警視庁は緊急の命を出した。いちいち運ばないでその場での火葬処理であった。
 越中谷利一の『一兵卒の震災手記』(昭2)は治安確保のため出動した騎兵隊の一兵士の手記のかたちだが、そこには、「戒厳令勤務―それは一言にして云えば***なる帝国軍隊の、鮮人と社会主義者に対する弾圧、虐殺に過ぎないではないか」と、伏字はあるもののひそかな断定が見られる。そしてその「鮮人との戦いの後、次のような吐露をしている。「自分の前によろよろと両手を合わして跪いた彼等、国を奪われ、国を追われ、酷使と侮辱虐遇の鉄鞭に絶えず生存を拒否されつつ流浪して、今喰うに食なく、宿るに家なき―彼等をどうして此の**〔銃剣〕で冷酷無惨に突くことができようか」―。
 また、先の「改造」特集収載の藤澤清造「われ地獄路をめぐる」は、震災後四日目に訪れた吉原の実況であった。ある池の辺にきて見てみると、「もう私の体中が麻酔剤をかけられてしまっ」た。多くの女たちが寸分の隙もないほどに池面いっぱいに重なっていたのだった。正視できない状況を彼女らへの同情と悲憤で綴る。
 さらに、翌年一月刊行の「種蒔き雑記―亀戸の殉難者を哀悼するために」には無署名の「平澤君の靴」が載る。「石油と薪」を積んだ荷車を引いている巡査たちを見かけたので行く先を聞いてそこへいってみると多数の鮮人惨殺現場であった。そこに先夜拘引された平澤君の靴を発見し、彼の殺害を確信する―(金子洋文筆とされる)。
 目前の悲惨をそれぞれの目で見た報告があった。
 この大震災は翌年以降、後藤新平東京市長のもとで都市復興がなされていくが、文学の方でも、「文芸戦線」が六月に、横光や川端らの新感覚派の「文芸時代」が十月に創刊された。いわば、新時代を創っていったのだ。
 こうした関東大震災にくらべ、このたびの東日本大震災ではどのような文学の動きがあったのだろうか。「3・11」のケースに戻って検証しよう。

 先に文芸雑誌の反応の少なさを言及したが、あげた主要誌以外に、論壇誌なみの特集を組んだのは、「文芸思潮」誌夏号(アジア文化社)であった。特集 
東日本大震災≠ニして、巻頭に40pもの震災現地の写真特集を一挙掲載、その後、「座談会 大震災と文学」(井口時男・富岡幸一郎・菊田均/五十嵐勉)
45p分を掲出している。
 また、「現代思想」(青土社)5月号も《特集 東日本大震災》として柄谷行人を劈頭に一冊全部を論文でうめだ。週刊誌や各種のグラフ誌(新聞社系)などもたくさんの写真を掲出した。刊行本では、『天変動く 大震災と作家たち』(インパクト出版)は三陸沖大津波と関東大震災の原典を収載し資料的にも主張的にも価値があった。
 吉本隆明や鶴見俊輔らの名も見える『思想としての3・11』(河出書房新社)では、巻頭の佐々木中論文が注目される。津波・原発で売文する風潮をまず戒め(マスコミの圧力でもあった)、事態をどう考えるか論じる。 
 今回の大震災を「天罰」だといった首長もいたが、「天譴」だとした先例もあった(近松秋江)。いずれも文明批判ではあろうが、こうした「天」に帰する考えは由来宗教によってきたものとして、佐々木は西洋の例をあげる。リスボン大地震(一七五五)は六万人が亡くなったそうだが、それが諸聖人の日であったことで、人々は動揺した。なぜ神に命を賭して仕えた聖人を祭る日に、神の罰を受けねばならないのか。こうしたところから、ヴォルテールはじめ、ルソー、カントにいたるまで、神学への批判、神の存在への懐疑が始まったという。さらに示唆深い指摘は、大地震によって、「根拠」が根本から覆されたということだ。根拠とは、理性、土台であって、ドイツ語では「グルント」という。これは英語のgroundにあたり、「大地」「土地」のことで、足を踏む、この大地こそが根拠であり、理由、理性を働かせる何かであった。だが、リスボン大地震で、この「根拠」が揺らいだ。キリスト教にあっては、神は善であり、万物の存在の理由であった。それに根本から不信が萌したのである。
 佐々木はさらにある小説を例にひく。一八世紀ドイツの作家(ハインリヒ・クライスト)による「チリの地震」という短編だ。スペイン統治下のサンチャゴを舞台にしているが、ここには根本的な転換が描かれる。不義の夫が投獄される。処刑の鐘が鳴り響くその瞬間地震が起こる。処刑台も壊れ、牢獄も瓦礫の山になった。大混乱の町中を妻と子供を探しに奔走する。流言も飛び交う中、やっと再会を果たす。するときわめて奇妙な描写が展開される。美しい夜のとばりが下りて、かぐわしい香りと銀の光が輝き渡った、というのだ。二人を抑圧、断罪していた法も秩序も、大地震がすべて消し去ったあとのシーンだった。「世界の終わりだ」と叫ばれていたその瞬間に、人間精神の方こそが美しく開花したのでは、という。

 さてここで先にあげた、陣野俊史の「「3・11」と「その後」の小説」(「すばる」8月号)をみていきたい。 「3・11」以後の、変質≠、文学(小説)はどのように描いていけるのだろうか、という命題のもとに綴っているのだが、ここには今日のこの国の状況(実体的、かつ精神的な状況)が示されているとともに、文学(小説)はどこまでそれを表現できるだろうか、という限界(あるいは可能性)が問題にされているようだ。
 地震(大災害)は起こりうるものであり、続いて起こった原発事故は、これからの日本人に相当な影響を及ぼすだろうということ、そして、これらのことは、過ぐる戦争の見方にもスイッチの切り替えがあったはずだとし、陣野は、村上春樹の今回の原発事故への言及を引く。

 「戦争によって焦土と化した日本を再建してきました。 その原点に再びわれわれは再び立ち戻らなければならないでしょう」 (カタルーニャ国際賞受賞スピーチ)。

 この「焦土」は、津波によって壊滅した東北の沿岸、また多くの人々が故郷を離れいまだ収束の気配すらない原発の惨状、と対比しうる。すなわち、戦後の「焦土」に現在の惨状(これこそ「第二の戦後」だ)を対比・同一視すること、これが、文学の方法としてありうることとして改めて提起している(アナロジー・類推の方法)。
 またこのことの例に、陣野は、堀田善衛による『方丈記私記』を例にあげる。いうまでもなく、鴨長明の『方丈記』は源平の戦乱の中にあった飢饉・地震・火事の様相を克明に描いているのだが、堀田はそれを昭和二十年三月の東京大空襲に対比・類比して描出していくのである。そして両者に共通の思い、「浮雲の思ひ」を提示する。つまり、「古京はすでに荒れて、新都はいまだ成らず」に続く、「ありとしある人は皆浮雲の思ひをなせり」からの言葉、地に足のつかない、浮わついた感覚をさしているが、これが今日のそれでないとどうしていえようか。

 アナロジーの方法はそれを出発点にすえる作家は少数だったとして、戦争をめぐって(いや、ここでは「核」をめぐってと限定しよう)として、次に陣野があげる方法は、メタファー(隠喩)である。
 これは卑近な話でいえば、ゴジラが1954年の第五福竜丸のビキニ環礁核事件で被曝した事件から産み出されたということがある。このように核や核実験の不安から生み出された文学作品は多いとして、陣野は、大江健三郎「アトミック・エイジの守護神」を例にその方法を述べている。
 それら以外に、いわば伝統的手法としても、「核の不安」は描かれてきたとして、80年代の、水上勉の「金槌の話」(郷里でゲンパツの日雇い労働をめぐる話)をあげ、林京子「収穫」(『希望』収載)には、東海村のゲンパツを素材に、声大きく反対の立場ではなく、人間たちの関係を描いていく、としている。
 そして、本論稿の主題ともいえるのは、次の「アナロジーでもなくメタファー」でもなく、「伝統的手法」でもない、「核の不安」を描く新たな手法が現れた、ということだ。
 それは、自らの既に出来上がった作品をもう一度、改めて震災後に手を入れてできあがるもの、で、陣野は、現代の二作家の例をあげている。川上弘美の「神様2011」
(「群像」2011年6月号)と、古川日出男「馬たちよ、それでも光は無垢で」(「新潮」同7月号)であって、ともに既に出来上がってそれなりの評価があるものに手をいれることで、旧作とは何かが根本的に違う作品が出来上がった、というのだ。
 陣野は作品を具体的にあげて例証しているが、つまるところ、「3・11」以降の、放射能による人心のビミョウな心代わり、それによるちょっとした所作の変異、それを問題にしているのである。
 古川は三年前に『聖家族』という、東北六県を舞台にした「まつろわぬものたち」の物語を書ききったのだが、今度の震災で、あれだけの小説を書いたのに、その方法への疑念をさしはさむ。新作「馬たちよ、それでも光は無垢で」の中で、東北の震災の風景を眺める主人公(「私」)が登場するが、これははたして「主人公」なのか、疑いがさしはさまれる。メガノベル『聖家族』の主人公には、むろん現実の作者「私」は投影していよう。しかしこの震災の現場に立つ私は、もはや物語の「主人公」ではない。小説ならざる散文の作品を書きつつあったのである。
 ある神社を訪れ、そこに「巨大地震の痕跡」を認め、移動してきた車に戻ろうとする。車にはもう他の三人が乗り込んでいる。三人だけではない。「隙間にきつきつに詰めて彼がいた」のだ。  

  書け。私はこれを書け。そこに狗塚牛一郎がいたのだと書け。五人目が。私たちの五人目が。イヌにしてウシである。『聖家族』の長男が同乗していたのだと書け。しかしそんなことを書いてしまったら小説だ。

 古川は新作でも、『聖家族』を反復しているのか。いや、そうではない。ここには、小説を踏み出す、「小説」ならざる、現実に踏み出さざるを得ない、対象・世界があったのである。
 拙い素描であるが、要するに、今度の震災・核は、アナロジーとして、かつての戦争・原爆と対比しうること、また、メタファーとして書きうること(これは今まで多くが書かれてきた。ただわれわれが読んでいないだけだ)、そして、心ある作家は自らの感性による伝統的手法で、それらを描いてきた。
 しかし、ここで問われているのは、これら「小説」(フィクション)を超える、書き方のありようだ。ルポルタージュといいうものか、報告といおうか。この文学の形式が、可能性をも問うものとして提起されている。        

「群像」9月号には、昨年来連載中の「戦後文学を読む」があったが(E)、石原吉郎「ペシミストの勇気について」というエッセイをめぐる、やはり同様の、表現の器≠フ問題に関する鼎談がある。山城むつみの言うように、石原の戦後直後の詩は、こうした彼のエッセイを読むことで深く納得がいく。むしろ、読者に与える衝撃力は、このエッセイの方にこそすごいものがあるという。
 ここには、小説より下位にあるとされたエッセイの効力の問題、を示唆している。あまりに苛烈な体験(シベリア流刑)は、人を黙らせ、長い時間が経った後、ようやく、エッセイのかたちでそれがやっと表白出来る、という事実があるのに納得する(戦後直後の詩篇・詩作は、とにかく、感情の流露に、詩しかなかったのだろう)。
だが、数十年して落ち着いたら、表現はおのずから、「エッセイ」を取るということなのだ。
 
 状況と、それを表現する文学の器=Aの問題。平時でない場合の方法、として今までの文学の王道であった小説という方法以上に、ルポやエッセイ、あるいは手記などはものをいうのだということを感じた。さらに「想像力」をもって自由に思索や想像の羽ばたきを持つはずの小説が、どのように羽根をもたげていくか、その場合もあることを考えた。





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永野悟「文芸誌にみる「3・11」と過去の大災害−メディアと作家はどうみたか

−」『群系28号』

主宰・永野氏の時宜を得た評論です。文学界が震災をどう捉えているかサーベ

イするには好都合でした。

やはり言及されるだろうなぁと思った鴨長明「方丈記」も採り上げられており、日本

人の無常観をどうしても考えざるを得ないものがあると思います。全体として視点、

捉え方にバランスのよさがあると思います。

また、5頁目の編集の辞も含め時代への誠実さを感じました。




文芸誌「群系」

     群系28号