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村上春樹『1Q84』について


                          ―物語の力≠ニは何か―

     
                                  永野 悟

       
                         (「群系」25号・2010前期号・7月)収載より



  村上春樹『1Q84』の評価は早々から高かった。

 「現在の他の日本の小説家の作品とは桁違い♀u絶している」(加藤典洋)(注1)、「作家生活三十年の間に培った村上春樹の技術のすべてを注ぎこんだ作品」(沼野充義)(注2)、「表現によって歴史を乗り越え、歴史とは異なったもう一つ別の世界に独自な形を与えようとする」(安藤礼二)(注3)、「いままでの都市小説の集大成であるけれども、それと同時にそこから世界文学のほうへと脱け出そうとする」(松本健一)(注4)、というように、構想・内容においても、表現手法においても注目された。

 確かに、二人の男女の出会い(出会えるかどうか)を基本軸としながら、その生い立ち・家族、そしてともにカルト的な宗教団体に関わって行く話は、時空間、人物、出来事をさまざまに配して、予想外の展開もあり、読者の興味をつないで飽きさせない。のみならず読み場においては、読者を感動≠ウせる一くさりもいくつかある。 これらをどのように読みとるかは、世代・性別のみならず読み手の小説への見方、あるいはたどってきた人生、その歴史観などの点で異なるだろう。だが、単なる好みを超えた評価軸を明らかにしなければなるまい。

 とりあえず評価軸となる要素として、作品における物語$ォ、人物の造型、そしてほとんどそうあったかと思わせる事実(歴史的)の依拠性、というものがあろう。

 周知のように、作品は「1984年」という実際の歴史的過去を扱っている。それも、4月から12月という区切りを付けられ、場所も東京とその周辺を主とした時空間だ。人物も当時、ともに29歳から30歳を迎えようとする男女(川奈天吾と青豆雅美)だ(逆算すると、彼らは1954年前後の生まれとなる)。

 このような、歴史的事実性によって、読者はまず作品を「リアル」な小説と受け取る。実際、作者によって、細かい時日(デイト)と場所(トポス)が指示される(それも、「首都高速三号線」とか「三軒茶屋」とか、「自由が丘」(青豆の前の住まい)とか「高円寺」(青豆の後の住まい、と同時に天吾の住まい)とかである。

 このように細かく指定される事実性は、人物の造型もそれにのっとる。天吾が『空気さなぎ』と題する、ある女子高校生の書いた新人賞小説を、さらに書き加えて芥川賞対象にしろと言いつける編集者小松は当時40歳、これも逆算すると1939年生まれ、つまり60年安保世代であり、その17歳の女子高校生(美少女「ふかえり」こと、深田絵里子)の父親・深田保も同様な世代だ。大学闘争に関わって教授を解雇された深田はある自足的な協同体(平等をめざすコミューン=jの運動に入って行く(後に宗教的な団体になり、彼は教祖的なリーダー≠ノなっていく)。さらに、「マダム」と称される麻布の柳屋敷≠フ七〇代の貴婦人と、それに仕える四〇位のシベリア生まれの在日の「タマル」も、相応の出自とキャラクターの輪郭を与えられている(特に、後者は、青豆と同様、読者には印象深い)。これらには、実際のこの国の戦争と戦後の影が色濃く印影されている。


 だが、これが「小説」か、いわゆる「リアリズム」に則った作品か、というと、大いに違和があろう。本のそれぞれには作者自身によって、「a novel」と冠され「(長編)小説」と名打たれている(作品名を記すと『1Q84 a novel BOOK 1<4月-6月>』、などとある)。が、この長い作品の本質は「物語(a  story)」であり、それゆえの「エンターテインメント」性にあることは、先の加藤典洋も沼野充義も早々に指摘していることである。

 青豆(その名前から、「ジャックと豆の木」を連想される)は、スポーツクラブのインストラクターをやっているとされるが、実は「必殺仕掛人」であり、いわゆる極悪な人物を急所に針を刺すことで、ほとんど急病死のような見せかけで殺す。この、筋において不可欠のハードボイルドタッチはエンターティメントであり、「リアリズム」とは違う。また、天吾とのそもそも出会いが、同じ町の同じ小学校の同級生でともに十歳の時に、手を握り合い、見つめ合った、その瞬間の「愛」の感情をともに二〇年間抱いてお互いを想い、出会いを追うという筋は(これも、「七夕」の出会いを想起させる)、ほとんどあり得ない(あり得る、と思わせるのも、作者の「手」だ)。

 天吾も、小学校時代からからだも大きく、スポーツも勉強も出来て、特に算数においては「神童」という過去を持っている。要するに二人は美男・美女(青豆は少しその要素に欠けるが)であって、いわゆる「a boy meets a girl」(松本健一)の青春物語の枠組みなのである。


 しかし、作者はそれらの「型」にそれぞれ、周到な色付けをしている。すなわち、天吾も青豆も互いに想い合うような、孤独な過去があったのである。青豆は、両親が「証人会」と呼ばれる宗教団体(「エホバの証人」を思わせる)に属し、熱心な布教活動をしていた。毎日曜には、その宗教活動に青豆を同行させた。食事にしろ就寝時にしろ、「お方さま」と天の神を祈る所作をする。それがもとで、彼女はクラスメイトからいじめられ、孤立していた。天吾も母が幼い時に亡くなり、父親に育てられたが、その父の仕事がNHKの集金人(いまは口座振替)なので、幼い時から日曜毎には少年の天吾を付き添わせた(子供を連れていると、客の払い≠ェいい)。互いに、ほとんどの日曜をふつうの子とは違った過去を持っていた。同じ町(市川市)のどこかで二人は、互いの姿を垣間見た。それから「同じ立場」ということで、二人の情感は芽生えていった。


 奇数章に語られる青豆(天吾は偶数章で語られている)のその生は、確かに数奇でありせつなくもある。おとなしいどこにでもいるようなふつうの若い女性がどうして殺人鬼≠ノなるのか。その展開を語る筋道は、多少のリアリズムともいってよかろう。ほとんど物静かな彼女は布教活動から逃げて、一人親戚の家(足立区)だかに行ってしまう。成長した彼女はソフトボールの選手としてインターハイまで出た。友人のいなかった彼女にただ一人語りかける友が出来た。大塚環という勉強も出来る美人だった。ともに旅行まで行って(ホテルで、遊び半分から互いのからだを触り合った)、親友になれた。が青豆が体育大学を出て、スポーツドリンクの会社へ入ったのに、一流の私立大学法学部を出た環はその後、結婚してしまう。

 青豆が人を殺すという「手」に出たのは、限りないほどの環への愛からであろう。資産家のボンボンと結婚した幸せなはずの環は、ある日自殺してしまう。彼女のからだには、幾条もの傷跡があり、ほとんど夫の倒錯愛の犠牲になっていたのだ。青豆の復讐≠ェ始まる。彼の家に行ってそいつを容赦ないしかたで殺したのであった。

 その彼女の行為を知ることになった、麻布の老婦人が彼女の手腕・資質を見抜いてさらにその行為をそそのかす手立てに出た。すなわち、必殺仕掛の依頼である。

 青豆の人生を基本的にあやまつこの行ないを加速させ、さらに読者にまで、行為の「正当性」を訴えるのはこの老婦人の「あなたは正しいことをした」という言葉であろう。この元貴族出身の彼女は、レイプや虐待など性犯罪で女を死なしめた男に復讐心を持っていた。それは彼女自身が娘をそうした行為によって失ったからであった。

 都心の超一等地に大きな屋敷を持ち、ガラス張りの温室があり、貴婦人はそこで蝶をいくつも放ち、ハーブティーを飲みながら、静かに青豆に話しかけたのだった。青豆はいまは会社を辞め、インストラクターになっているがマーシャルアーツ(格闘技)の指導だけでなく、筋肉トレーイニングも得意技としていた。だが、この長けたテクニークこそが、彼女のアイスピックでの殺人を助長させたともいえる。

 苦しいとき、今は亡い環を想う彼女の姿はせつない。こうして親友を想うことで、禁欲≠保ち、目的の行動に自らを駆り立てるのだ。極悪のレイプ魔を静かにあの世へ運んだ後の、「逃亡」生活は(特にbook2の終わり近くで、カルト教団「さきがけ」のリーダー≠殺した後)の日々は、読者の共感をそそるものであった。作品の重要部分をなすのは、ほとんどこの青豆の、教団リーダー殺害とその後の息を詰めた逃亡生活、彼女の心理にあったといってもよい(その意味では、『罪と罰』に似ているともいえよう)。

(だが青豆の悲劇は、さらに、赤坂のバーで知り合ったあゆみもまた失ったことである。向こうから声をかけてきた、ぽっちゃりした小柄の愛くるしい子であったが、彼女もある性犯罪で惨殺されてしまう)。

 

 この青豆に比して、天吾のキャラクターは影薄い。いまは予備校の数学講師をしているが、また小説家をもめざしている。その手腕を先の編集者小松に見出されて、女子高校生の書いた『空気さなぎ』(この奇妙な名の由来は後で出る)という小説に手をいれていくのだが、この加工≠し終えて、作品は見事「芥川賞」になるのだが、そのとき、フットライトを浴びる原作の女子高生ふかえり≠、小松は天吾に引き会わせるのだった。

 二人はある日曜、「中央線」に乗って、ふかえりの言う「センセイ」に会いに行く。実は、ふかえりの父の同僚の大学教官で、父深田保よりも十歳ほど年上だったが、ふかえりと同様の娘がいる。深田に共鳴していたが、その協同体が分裂した後、宗教団体めいてきたとき、ふかえりがその協同体(山梨にあった)から脱出した後の面倒をみていたのであった。


 ふかえりと『空気さなぎ』の話こそは、『1Q84年』という作品を、リアリズムから一躍、跳躍させる新しい試み、いわば新たな文学の出現(または、荒唐無稽のファンタジー)となる、作品の核になるエピソードだ。

 小説『空気さなぎ』は、実はふかえりの実体験をもとに書かれた小説なのだが、話の進むにつれて登場人物は皆このふかえりの書いた虚構の世界に入っていくことになる。現実が小説(虚構)をなぞる、というか、その虚構(小説)世界に現実が浸食されていくというべきか。(例えば皆がある種、幻想的な、現実離れした感覚になっていく)。だが、この構想・手法は果たして、方法として成功していようか。

 「空気さなぎ」は、物語として次のように語られる。

 ふかえりは、両親と共に幼い時から、俗世間からは隔絶した自足した協同体で暮らしていた。協同体内部では、身分の隔てなどなく皆平等だが反面、規律を犯した者には容赦がない。まだ少女だったふかえりが、ヤギの面倒をちゃんとみなかったことで、ヤギが死んでしまう。ふかえりへの罰は蔵の中に十日間だか閉じ込められたことであった。昼も暗く、夜はほとんど星しか見えない暗い世界にいたふかえりは、不思議な体験をする。死んだヤギの口から、小人たちが何人か出てきて、まるで蚕の繭のような空気さなぎ≠作るのだった。はやしの掛け声をかけながら小人たちは手を空にかざし糸≠出す(虚空から練りだす糸なのだ)。ふかえりにも手伝うように言う。だが作業はだいぶ時間がかかり、ようやく「空気さなぎ」が出来るころ、罰がとかれ、ふかえりはこのリトル・ピープル≠ニ空気さなぎと別れる。この「空気さなぎ」とは、実は現実の人物とそっくりな人物を作ることであった(ふかえりは、自分にそっくりな少女が透けて見えるのを見た)。実はこのコピーは「ドウタ」と呼ばれ、本体は「マザ」と言われた。ふかえりはこの「ドウタ」を残して、協同体を脱出した。からがら一般社会に逃げ出してきたふかえりは、父の同僚の「センセイ」のところに世話になった。

 「リトル・ピープル」が何ものかは謎だが、この世にあの世界からの「声」を伝える者、さらにあの世からこの世(生の世界)を支配するもので、決して縁起いいものではない。ヤギの口はいわば両世界の通路だったのだ。


 これらの話は荒唐無稽のようだが、読者は必ずしもそうとも思われず、むしろ話の奇異に誘われてか、その世界に自然に入ってゆく。これは、作者の力量なのか、はたまた「物語の力」というものなのだろうか。

 ここで、物語の話譚の類型、あるいは神話(myth)類型とでもいうものを参考に考えてゆきたい。インターネットで調べると、こうした類型には次のようなものが掲げられていた。

・異類婚姻譚

・課題婚譚

・貴種流離譚

・元型(アニマ・アニムス、影、永遠の少年と少女)

・死すべき定め

・浄化(犯した罪の浄化(カタルシス))

・ハイヌウェレ神話(死体から作物が生まれる)

・見るなのタブー

 これらのいくつかが、作品にはあてはまるような気がする。例えば、「課題婚譚」は、かぐや姫に求婚する貴公子に姫がさまざまな難題を出したこと、あるいは、オオクヌヌシがスセリヒメを娶るとき、父スサノヲからさまざまな試練を課せられた話、などだが、これは(性は逆だが)、青豆が天吾と結ばれることを夢見て、いまの難局を忍ぶのに通じる。「貴種流離」も、天吾にあてはまるかもしれない。なにしろ「神童」だったのであり、あの疎んじていた父からも、実はこよなく「愛されていた」事実が死後、その遺品(写真や表彰状を大切に持っていた)からもわかった(この展開の珍奇はこう考えれば多少納得できる)。

 「元型」はユングの説だが、そのうち、男が無意識に持つ女性的なイメージを「アニマ」というが、それは、美しく魅力的な乙女である。これは天吾が美少女ふかえりを想う(後半青豆に転化!)ところ(雷の夜、交接する)、また逆に「アニムス」は、女が無意識に持つ男性的イメージのことだが、これは、後半夜の公園をのぞきながら、天吾の大きな腕、広い胸に抱かれたい、と何度も思うシーンが思い浮かぼう(「パシヴァ」と「レシヴァ」の比喩もこの派生形といえよう)。「影(シャッテン)」とは自我を補完する作用を持つ元型で、肯定的なもの、逆に自我が受け入れたくない否定的な側面のものもあるという。Book3の主役ともいえる牛河には、この「影」が彼の自意識に何度もちらついていたともいえそうだ。

 「死すべき定め」は、不老不死≠フ対であり、神や王権、生死について長くかきくどく「リーダー」の説諭(遺言?)中に見られよう。そして、「ハイヌウェレ神話」は、死体から食べ物などが出てくるという意味で、死んだヤギの口から、「リトル・ピープル」が出来る場面が想起される(彼らは食べられるものではないが。毒?)。

 

 神話や物語というものは、小説における話とは違って、作者によって「作られた」ものではない。それは「言い伝えられた」ものであって、あるいはさらに「そのように感じられる(信じられる)ものであって、読者は(聞き手は)、その話をそのまま受け入れる。ほとんど、受容に理屈など差し挟まらない。

 そう考えると、この『1Q84』のさまざまな奇異な話も、「物語」の自然として了解される。作者はそうした了解≠ェあるものとして、「空気さなぎ」を編み出したのであり、「リトル・ピープル」を措定し、1Q84#Nを仮構したのである。


 作品に戻ろう。

 ふかえりの作品『空気さなぎ』は、実は青豆にも読まれていた。そして、青豆の周辺に起こる禍々しい事件もその小説をなぞるかのようだった。青豆の仕事のよいアドバイザーでもあった、スキンヘッドの筋肉男タマルが可愛がっていた愛犬が、腹の中から爆発して死んだのも「リトル・ピープル」の仕業とされる。青豆は宗教団体「さきがけ」のリーダーを殺害するよう、老婦人から指令されていたのだ。この教祖は、幼い少女を何人もレイプし、性器をぼろぼろにさせてもいた(老婦人の所で「保護」された十歳のつばさは、精神の障害もきたしていた)。リーダーを殺された教団から青豆は追われる身になるわけだが、「リトル・ピープル」も影のように身に添う。

 実はこうした立場に追い込まれているのは、現実世界が変移したからだった。いまいる世界は、今までの世界と違う。この年は1984年であるはずだが、異世界、いわば1Q84年≠セと名付けたのは青豆であった。

 『1Q84』年とは、現実の「1984年」と対照される、いわばパラレルワールド、である。作者は、巧妙な筋立ての中に、いつの間にか読者をその虚構の世界に引っ張り込む。その世界とは、「月が二つ」ある世界であり、ほとんど現実の世界と同じなのだが、どこか違うという世界だ。青豆も天吾も相手を想う中で、この「月が二つ」ある世界を何度も確認している(作品終末、青豆と天吾が逃走していくとき、首都高から見えたガソリン広告のトラが左右逆になっていた、という箇所がある)。

 ふかえりの「空気さなぎ」のような幻想世界が現実となる世界。あるいは、天吾に即していえば、彼が愛読し、認知症になった父を見舞う電車の中で読んだ外国小説『猫町』の世界。一種、「迷宮」(ラビリンス)というか、あるいは、「魔界」というのか、そうした領域に人物たちは(読者たちも)入りこんでいるのである。それは、いわゆる「物語の力」(いいかえれば、話を受容する私たちの心理)に依拠しているといえるのではないか。この作品の心理描写は作者の作家的力量(「書く力」)といってもよかろうが、全般の結構、物語の流れは、ファンタジーのありようを知悉した作者ならでは、「配置」「組み換え」であって、独自性というものではなかろう。


 最終章は、青豆と天吾の1Q84≠フ世界からの脱出と二人の愛の確認ということであったが、今までの盛り上がりに比してあまりに凡俗な終わり方であった。青豆の苛烈な生、と秘めた気持ちに見合うほどの大団円だっただろうか。世界の出口≠ニしての首都高速の待避スペースに非常階段を上ってたどり着けた二人であったが、渋滞の中タクシーを拾う。そして現実の1984年に戻って来られたこと、そして二〇年の思いが結実したことで愛の確認≠するがその場が、赤坂の、よりよって来年にも解体されという話の超高層ホテル、それも「一つの月」を思いっきり見ることのできる特等の部屋であったという終わり方は、物語の必然とはいえ、あまりに工夫のないものではなかったか。


 失敗は、終わり方の陳腐だけにあるのではない。そもそも青豆に心から想われる男の人物造型に問題があったといえよう。先にもいったように天吾は影が薄い。彼を印象付けているのは彼の同伴者≠スちである。一人は、bbok3でその秘密が明かされる父であり、もう一人は(二人は)、四十歳の人妻の「ガールフレンド」であり、ふかえりである。天吾は週三日の予備校の最終日、毎金曜夜にこのガールフレンド≠ニ交わる(さらにあろうことか、雷の夜、同宿していたふかえりとも交わる)。

 しかし、物語はこんな優男と青豆との純愛の方向に語られる。青豆は教団の追手から身を隠すために老婦人とタマルが手配した高円寺のマンションに逼塞して暮らすが、彼女は自身の身に感じるものがあった。身ごもったのだ。そうした経験もないのに、青豆はそれを、天吾の子と信じる。想像妊娠と思われるが、青豆の真摯な思いこみに読者もその「受胎告知」を受け入れざるを得ない。

 それを後で聴いた天吾は、青豆の妊娠の裏付けとして、雷の夜のふかえりとのことが思い当たる。だが、六条御息所の生霊ではあるまいし、いわばこの交感≠ヘ果たしてそのようにとれるか。

 父の見舞い・死別を通しても一貫して自分中心であり、(ある日その気もないのに、一人の小柄な看護婦と一夜をともにする)、ほとんど倫理的にも×なこのキャラクターは作者が意図したのか、女の純愛≠フ相手として、あまりに不適切と思える。

 さて、BOOK3に出てくる牛河-彼は教団から青豆の行方を調査するよう頼まれた裏社会の人間だが-、こうした第三の視点を取り入れたのは物語の複層性、別のアングルが入ってよかった。醜男なのに、人一倍自意識家の心理はよく書けていたが(アパートに泊まりがけで探偵は印象的)、非情にも作者は物語の展開の必然で、殺させてしまう。残念だし、一片の同情はあろう。

 牛河は運命≠ニもいえる。しかし、天吾の父は無言のまま死に、ガールフレンド≠燗艪フ失踪をしてしまう。ふかえりだって何時の間にか舞台から去ってしまう。この登場させた人物の始末をつけない無責任さ、いくら失踪≠竍無意識≠ェ好きだって、これはルール無視だろう(「失踪」も筋立ての一つ、というのか)。(了)




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 村上春樹『1Q84』

  発行日
    BOOK1:2009年5月30日

BOOK2: 2009年5月30日

BOOK3:2010年4月16日


  (注1)「文学界」2009年8月号

  (注2)「文学界」 同上

  (注3)「読売新聞」2010・5・8 夕刊

  (注4)『村上春樹 都市小説から世界文学へ』 

       2010・2・10 第三文明社






























































































































































































































































































































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