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古谷恭介 シャーキャノオト(5)
シャーキャ・ノオト(5)
原 始 仏 教 残 影
古 谷 恭 介
再び母体に宿らない道
苦行をやめたシャーキャ(釈迦)は、まず食事をした。頭脳明晰であるためには適量の酸素と適量の栄養が最低限必要だろう。脳も生物体の部分なのだ。飽食は頭脳活動に害をおよぼすだろうが「健全な精神は健全な肉体に宿る」という言葉もある。河で水浴して身を清めたあと、付近の村に住むスジャータという娘がもってきた乳粥をもらって食した。それは衰弱した彼の脳と体を隅々まで潤しただろう。乳粥(キール)は牛乳に米を入れ、ぐつぐつと柔らかく煮て甘みをつけたもので、現在でも祭のときに食したり、病人に食べさせたりする。「スジャータ」をコーヒーにいれるクリームの商品名に使っている会社があるが、巧いネーミングといえようか。
近くで苦行をしていた五人の仲間は、シャーキャが食事をするのを見て「彼は堕落した」として去って行った。シャーキャは、一人でガンジス河中流の南にあるウルヴェーラーという村へ行き、もっぱら菩提樹の下で瞑想に耽る生活を始める。近くにガヤーという古い町があった。この町は、のちにブッダガヤーと呼ばれるようになる。そこで覚者(ブッダ)となったからだ。このとき彼は三十五歳だったという。
もっとも、現在の地元の人はヒンドゥー教の立場からボード・ガヤー(覚りのガヤー)と呼ぶそうだ。この町はヒンドゥー教の聖地でもある。ヒンドゥー教の聖者がそこで啓示を受けたという話があるのだろう。この土地がシャーキャの覚りの場所だったということが確認されたのは、イギリス人カニンガムの発掘(一九世紀後半)によってである。十世紀ごろからイスラム教徒が侵入してきたとき仏教徒が、聖所となっていた遺跡を埋めて隠したのだという。ここに限らず、インドにおいて全般的に仏教遺跡の旗色は悪い。インドの仏教遺跡は異教徒に破壊され、信徒もほとんどいなくなって、長い間地下に埋もれていたのだ。それらの多くは西洋人によって一九世紀以降に発見された。仏教遺跡や仏像の破壊はいまもアフガニスタンその他のイスラム圏で続いている。バーミヤンの石仏爆破は記憶に新しい。バーミヤン(カブール西方)は、仏教が栄え仏教美術が華開いたガンダーラに近い。
シャーキャは毎朝、托鉢をして食事を手にし、日中は樹下で自問自答する生活に切り替えた。禅僧は、自問自答などとんでもないというかもしれない。「ヨーガや坐禅はすべての雑念(ぞうねん)を放棄して心を澄んだ状態にするのだ。自問自答など問題外だ」というだろう。たしかに坐禅にはそのような一面もあろう。しかしわたしのような凡人は、その説に全面的には従うわけにいかない。シャーキャは人生のあらゆる問題、自然や人間関係のあらゆる現象について、つきつめて考え、思索し、自問自答したに違いない。「覚る」ことは「知る」ことではなく、広い意味での感覚の領域の知覚であることは否定しないが、「知る」「考える」という領域での徹底した追求、模索、もがきの沼の中からしか、彼の知覚は生まれてこなかったと考える。彼が覚りを開いたあとに人々に語った言葉の数々は、その具体的論理性から見て、そのような過程を経ない限り生まれるはずはない。彼の覚りは天から落ちてきた神の声や啓示とは明らかに異なる。
彼は一、二年の瞑想で「満月の夜に」または「暁天に明星が現れたとき」に突如として覚ったことになっている。その日は太陽暦の十二月八日だったとの説もある。それも中東や西洋の宗教家と異なり、自分一人で覚ったのだ。神の啓示も覚りも脳内現象という点では同じではあるが、どのような思考過程を経て、何を覚ったのか、なぜそうなのかを最古の仏典は全くといっていいほど説明していない。だから二千五百年もの間諸々の解釈が生まれ議論がなされてきた。一つの解釈が一つの教義を生み一つの宗派を生む。それらはまた分裂し互いに争う。シャーキャは形而上学的テーマについての論議、論争を嫌っていたのだが…。人間は言語によって複雑な概念や思考を表現することに習熟してきたが、他者へ正確に伝えるという点では、まだまだ未熟なのだ。直弟子ですら師の真意を誤解し、場合によってはねじまげる。すべての物書きは、自分の考えを他者に正確に伝えることに絶望すら覚えているはずである。かくいうわたしも、そのご四十五年間の彼の言葉の中からそれを想像するしか方法をもたないことも事実である。何百年も後代の僧侶や学者の構築した解釈や理論に全く頼らないことは不可能であろう。だが、わたしはわたしなりに原点趣味にこだわりたい。ともかく彼は真理を覚ることにより、輪廻から解脱し「再び母体に宿ることのない」人間になったとされている。
スッタニパータの第一章は「蛇」と題される項で始まる。いまもそうだろうが、当時のインドには蛇がたくさんいて、ある意味で人々にとり親しい存在だった。蛇は霊の力をもっていて神々や人々を護ってくれるのだ。畏敬と恐れと愛着の対象だった。
シャーキャは修行者たちに語る。
『蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する行
者(比丘)は、この世とかの世をともに捨て去る。蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである』
怒りが起こることは当然のこととして認めている。それを制することの重要性を説いている。「かの世」の意味はよくわからない。「解脱」という概念と「捨てる」という概念は違うような気がするし、「かの世に」に行って生まれかわることなく、この世に戻らないことが解脱ではないかと思うのだが…。あるいは「かの世」は世俗的な未来を意味するのか。
『奔り流れる妄執の水流を涸らし尽くして余すことのない修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。(蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである)』
『無花果(いちじく)の樹の林の中に花を探し求めても得られないように、諸々の生存状態のうちに堅固なものを見出さない修行者は、この世とかの世をともに捨て去る。(以下同文)』
『想念を焼き尽くして余すことなく、心の内がよく整えられた修行者は、この世とかの世をとも に捨て去る。(以下同文)』
『走っても疾すぎることなく、また遅れることもなく、<一切のものは虚妄である〉と知って愛欲を離れた修行者は、この世とかの世をともに捨て去る。(以下同文)』
これらは空(くう)の思想を語った最初の言葉かもしれない。色即是空の色はこの世の一切のものを意味するらしい。あらゆる事象は縁起(原因と条件)によって生成しており、永久、恒久の実体はないと仏教では考えるのだという。したがって、何ものに対しても執着を捨てよと説くらしい。むずかしい概念だが、われわれの目にし、感ずるものは、たまたまそこに在るだけであって、もともとあったわけではなく、またいずれは消えてしまう空虚なものということだろうか。
『この世に還り来る縁(えにし)となる〈煩悩から生ずるもの〉をいささかももたない修行者は、この世と かの世をともに捨て去る。(以下同文)』『五つの蓋を捨て、悩みなく、疑惑を超え、苦悩の矢を抜き去られた修行者は、この世とかの世をともに捨て去る。(以下同文)』
訳者(中村元氏)の註によると「五つの蓋」は貪欲、いかり、こころの沈むこと、こころのそわそわすること、疑い、だという。
「ダニヤ」という項にはこんなやりとりもある。
悪魔バーピマン(バラモン僧など他宗派の修行僧のことか)がシャーキャにこういった。
「子のある者は子について喜び、また牛のある者は牛について喜ぶ。人間の執着するもとのものは喜びである。執着するもとのもののない人は、実に喜ぶことがない」
執着するもとのものが喜びであって、それがない人は喜ぶことがないというのは、奇妙な表現に思われるが、原文(パーリ語)を読む能力はないから、やむをえない。意味は想像できる。
師(シャーキャ)は答えた。
『子のある者は子について憂い、また牛のある者は牛について憂う。実に人間の憂いは執着するもとのものである。執着するもとのもののない人は、憂うることがない』
厭世思想との差は紙一重だ。彼がこのようなネガティヴな思想に到達した理由はわからない。
しかし、この世のすべての悪、不幸、悲しみが人間の「欲望=煩悩」に基づく執着によって引き
起こされていると考えたことは確かだろう。意思の弱い人間が欲望だけを捨てることはむずかし
いから、欲望と執着を発生させるもとのものである財、地位、名誉欲、性欲、食欲など、そして
家族すらも捨てるべきだという結論に達した。愛着は執着の変形であり、それは欲望を生みだし、
育て、葛藤と不幸と苦しみを生み出すというわけだ。それが真理かどうかは別にして、一つの論
理ではあろう。
『諸々の邪(よこし)まな見解にとらわれず、戒(いましめ)を保ち、見るはたらきを具えて、諸々の欲望に関する貪りを除いた人は、決して再び母体に宿ることがないであろう』
「再び母体に宿ることがない」とは、迷いの生存にもどることはないの意であろうが、これが輪廻からの解脱を意味するかどうかは、この言葉に限っていえば、はっきりしない。
神々のいない生活
インドには六月から十月にかけて激しい雨季がある。その間、古代インド人たちは活動できなかった。ヒマラヤ山脈を越えてやってくる乾燥した熱い空気はインドの大地を灼きつくし、そこへベンガル湾やインド洋、アラビア海から冷たい湿った風(モンスーン)が吹き込む。モンスーンは北上してヒマラヤ山脈にぶつかり雲を興して大量の雨をもたらす。ヒマラヤ山脈は東西二千五百キロにまたがり、八千メートル級の山々が聳えている。巨大な壁であり、世界の屋根とも呼ばれる。
彼らは雨を避けて何人かで集まり共同生活した。樹下の草葺き小屋か、岩窟のような場所だったか。そうした生活を雨(う)安(あん)居(ご)と呼び、その粗末な場所はのちに精舎(しょうじゃ)と呼ばれるようになる。雨安居は修行僧だけのものではなかった。それは雨宿りなどという生易しいものではない。来る日も来る日も、ものすごい豪雨が降り続き、そこら中が湖沼や池になり、川も氾濫し、道も水浸しになる。
蓄えをしない修行僧たちは何日も食べない日が続いたはずだ。それでも雨が小止みの朝には、シャーキャも弟子たちとともに托鉢に出掛けただろう。そして一日一回の食事をする。彼は弟子たちに尊敬されていただろうが、自分を含めて集団内に序列をつくらなかった。生産に従事せず、何物も所有しないから共産主義でもない。
そこに生活する間、彼らは多くの会話を交わした。主としてシャーキャが話をし、弟子たちが聴き、質問する。やりとりの詳しい過程が記されていると理解しやすいのだが、残念ながらそれはごくわずかである。弟子たちは師の言葉を覚えやすいように詩句の形にして、暗誦するようになる。原始仏典の原型である。
雨季が終われば、旅に出ることもある。町や村々を回り人々と話をすることもあっただろう。だが修業は自分自身の解脱のための行為だから、在俗者との接点は少なかった。会話は原則として師や同輩との間だけで行われたはずだ。シャーキャにとって神のような絶対者の概念は存在しないから、話の内容は、生きる姿勢、心の持ち方、身の処し方などだ。すべての欲望を捨てて生きることが、心のやすらぎ(ニルヴァーナ=のちに入滅、涅槃の意味にまで拡大)と輪廻から解脱する道であり、覚者(ブッダ)になる道だと説いた。初めのうち相手のほとんどは修行者だった。彼らも修行を積み、覚ることができればブッダになれるのだ。ブッダという呼称はジャイナ教やバラモン教なども共有する言葉だったが、しだいに仏教だけで使われるようになる。
彼の話には奇怪な神々も出てこないし、礼拝も呪術も祈祷も、超自然的奇跡もない。最古の仏典に奇跡物語が登場しないのは、うれしいことだ。われわれの目に触れる多くの仏教書が奇跡、不思議、神懸かり的な話、ある種の難解な哲学に満ちているのと対象的である。修行者や僧が葬式行事などの祭祀にかかわることなど論外だった。多くの修行僧がシャーキャの回りに集まるようになる。彼らには何の儀式もなく、祈りすらなかった。祈るべき対象は存在しなかった。現在の寺院から礼拝や祭祀を除くと何が残るのだろうか。
『瑞兆の占い、天変地異の占い、夢占い、相の占いを完全にやめ、吉兆の判断をともにすてた修行者は、正しく世の中を遍歴するであろう』
『わが徒は、アタルヴァ・ヴェーダの呪法と夢占いと相の占いと星占いとを行ってはならない。鳥獣の声を占ったり、懐妊術や医術を行ったりしてはならぬ』
まるで現代の科学者の態度である。彼のいう「医術」がどんなものであったかはわからない。インドには昔からアーユル・ヴェーダ医学というものがある。それはヨーガの理論に根拠を与えるもので、チベット医学や中国医学ともつながっているといわれる。現在でも専門の大学があって、その理論に注目する西洋医学者も少なくないと聞く。わたしに判断する力はないが、二千五百年前は医術と称するかなりいいかげんなものもあっただろう。シャーキャはそれを拒絶した。彼は死の直前にひどい食中毒にかかり、脱水症状を起こしたが、医者の治療を受けた気配はないし、呪術者の祈祷を受けた気配もない。
占星術その他の占いは現在の文明国でも大流行している。迷信にもっとも遠いはずの若い男女が占いやカルト宗教に群がっている。わたしはテレビで心霊手術の光景を観たことがある。術者は皮膚に傷をつけることなく、腹の中から血まみれの病巣を取り出して見せた。空中から指輪を取り出すインドの聖者は、この間まで実在していて、多くの人に尊敬されていた。わが国からもたくさんの人が彼に会うために出掛けた。彼を賛美する書物も出版されている。人類は本当に進歩しているのだろうか。
『かれらは希望し、称賛し、熱望して、献供する。利得を得ることによって欲望を達成しようと望んでいるのである。供犠に専念している者どもは、この世の生存を貪って止まない。かれらは生や老衰をのり越えていない、とわたしは説く』
六人の教団
シャーキャはベナレスというところへ行き、郊外のサールナート(鹿の園=鹿野苑(ろくやおん))に滞在した。彼はそこで自分を捨てた五人の仲間に会い、たちまち彼らを教化してしまう。右のような思想を説いただけで、修行僧たちを心服させることができたわけではあるまい。たぶん彼はそのほかにいろいろなことを話したのであろう。しかしそこには哲学的、形而上学的な話は全くといっていいほど含まれていなかった。現代のわれわれの実生活において、特定の人物を尊敬し、心服するとき、いちばん大きなきっかけは、その人物の人格に親しみを感じ、生き方、言動に感銘を受けることにあるのではないだろうか。シャーキャは人間を含む生物への憐れみ、優しさ、公平、謙譲、冷静、無欲などを保ち、みずからの生活を厳しく律する人格者だったのだろう。思想はよくわからなくとも「この人について行こう」と彼らは思った。後世、親鸞は「自分は師(法然)に騙される結果になろうとも信じる」という意味のことをいっている。ある言説を信ずるためには、そのくらいの大飛躍が必要なのだ。その根底には人間的信頼がある。もっとも心理的飛躍をしたら必ず真理に近づけるというわけではない。
この土地に集まったシャーキャを含む六人の集団を、学者たちは仏教教団の成立と説明している。京都の金閣寺は「鹿苑寺(ろくおんじ)」というが、教団の成立したこのサールナートという場所の名をもらったのかもしれない。およそ九百年後のAD三九九年にここを訪れた法顕(ほっけん)(中国僧)はそこに僧院があったことを報告しているし、六三三年に訪ねた玄奘三蔵も鹿野伽藍に千五百人の僧侶が学んでいるのを見た。
意外というべきだろうか、最初のころのシャーキャは人々に自分の考えを説き、教化することに躊躇したとされている。彼はこう考えたのだろう。
―人々は世俗人生の泥沼にもがいている。欲望と貪欲のために盲目になっている。彼らに自分の覚った真理がわかるだろうか。ひたすら破滅に向かって急いでいる者たちを救済しようとすることは無意味なことではあるまいか。闇の中に生活している者たちは真理を見ることができないのではないか。
真理を覚ったと確信をもっても、正しく理解されないと考えて、それを説くことを断念し、一人で生涯を終える聖者が現在でもいるそうだ。このような人をプラティエーカ・ブッダ(独覚者=自分だけのために真理を覚った者)という。だが伝説によれば、シャーキャは後述するある出来事があって、あえて民衆教化の道を選んだ。そして目的地の定まらない長い旅に出る。
再びマガダ国に戻ってきたとき、なんと千人もの弟子を引き連れていた。二百人以上の弟子を従えていた有力な修行者が弟子もろとも参加したというから、本当だとすれば千人いても不思議ではないが、どうも宗教にはこの手の話が多くて困惑する。だいたい千人の人間がぞろぞろ行列して旅をするなどということは、どう見ても現実的ではない。千人の者に食事を供するゆとりが当時の貧しい村々にあるはずがない。せいぜい数十人か百人くらいのものであろう。
学者の書いたものによると、実際には直弟子の多くが自分のグループを作り、シャーキャから離れて活動していた。シャーキャがそれを勧め容認したのだろうが、一つの町や村の養える修行僧の数には限界があったことも理由にあげてよいのではないか。またシャーキャには自分が大教団を作り、自分の思想を強制し、君臨するという考えは全くなかったらしい。彼は教団内部の異なった意見に寛容だったといわれる。
それは、論争を超越する彼の姿勢と人柄を示すものではあるが、のちに教団が千々に分裂し、たくさんの矛盾した(あるいはシャーキャのいわなかった)教説を登場させる第一歩でもあった。デーヴァダッタ(提婆達多)という弟子は教団を乗っ取りシャーキャを殺そうとしたと伝えられる。殺人を含め、極悪非道の行為をした者がブッダの言葉でたちまち改悛し、聖者になった話はたくさんある。かなり怪しい伝説群だが、これに類した分裂事件はいくつもあったのだろう。仏教はその初期において、やがて他の宗教に飲み込まれ、インドから姿を消すことになる芽をすでに内包していた。宗教教団といえども、組織を維持、発展させる中枢権力と強力な統制の努力がなければ長寿を保ち得ないことを、歴史は教えている。しょせんは人間集団なのだ。信仰世界も権力と無関係ではいられない。成功をおさめた宗教教団は、それ自体中央集権的であり、世俗権力とも結び付いた。発展期には権力と積極的に組んで異教徒を弾圧することが宗勢拡大の道であった。これはすべての大宗教に共通する歴史的事実だ。彼らは異教徒や異端者を武力によって皆殺しにすることさえ厭わなかった。発展期の宗教指導者は宗祖の哲学や思想と別の道を歩むのだ。
無常、中道
原始仏教思想の原点について、高僧や学者はいろいろな説を述べている。わたしの聞きかじったところでは、あるときは「論争の超越」といい、別のときは「中道」という。また「苦悩の根源の根本的無知の認識」というようなむずかしい話もある。それらは、いずれも正しく、すべて同じ根をもっているのかもしれない。しかし、わたしはやはり素朴に「人生についての無常観」が出発点だったと感じる。
『ああ短いかな、人の生命よ。百歳に達せずして死す。たとえそれより長く生きたとしても、また老衰のために死ぬ』
『人々は「わがものである」と執着した物のために悲しむ。(自己の)所有しているものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅するものである』
万物は流転するのだ。彼は変滅するものの中に自分をも含めていた。
『人が「これはわがものである」と考える物、それは(その人の)死によって失われる』
『夢の中で会った人でも、目がさめたならば、もはやかれを見ることができない。それと同じく、
愛した人でも死んでこの世を去ったならば、もはや再び見ることができない』
シャーキャは、だから絶望だといっているわけではない。無常について悲しみを感じるのは執着があるためだと説くのだ。欲望がなくなれば執着もなくなり、悲しみもなくなる。彼にとって「幸せ」とは「よろこび」ではなく「ニルヴァーナ=心のやすらぎ」なのだ。彼は『歓喜は束縛である』ともいった。ロウソクの火が燃え尽き、静かに消えることを意味していたニルヴァーナという言葉が、やがて、不安のない死、安らぎの死を意味する「涅槃」に転じて行く。彼は天国(浄土)について何も語っていない。江戸後期の良寛はある知人に「死ぬる節には死ぬがよろしく候」といった。寺院にいる袈裟を着た僧侶より、彼のような乞食遊行(ゆぎょう)僧(そう)の方がシャーキャの思想をよく伝えているような気がしてならない。
『わがものとして執着したものを貪り求める人々は、憂いと悲しみと慳(ものおし)みとを捨てることがない。それ故に諸々の聖者は、所有を捨てて行なって安穏を見たのである』
彼は自分だけが聖者だとは思っていなかった。
『死ぬよりも前に、妄執を離れ、過去にこだわることなく、現在においてもくよくよと思いめぐらすことがないならば、かれは(未来に関しても)とくに思いわずらうことがない』
「論争の超越」と「中道」は通底していると思う。
『ある人々が「最高の教えだ」だと称するものを、他の人々は「下劣なものである」と称する。
これらのうちで、どれが真実の説であるのか?』
『かれらはこのように異なった執見をいだいて論争し、「論敵は愚者であって、真理に達した人ではない」という。これらの人々はみな「自分こそ真理に達した人である」と語っているが、これらのうちで、どの説が真実なのであろうか?』
真理は無数にあり、そして全くないのかもしれない。その意味ではシャーキャを「真理を覚った者」と説明することすら正確ではないのかもしれない。
当時のインドでいかにたくさんの思想、哲学、宗教が現れ、熾烈な論争が行われていたかが想像される。シャーキャは、このような論争は無意味だとして、近寄らなかった。「滅びてしまった(死んだ)聖者はどうなるのか」という学生(がくしょう)の質問に、彼はこう答えた。
『滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる論議の道はすっかり絶えてしまったのである』
人間のような微々たる生物がいくら議論をしても、わかるはずのないものはわからないのだ。まして死んでしまった人間がどうなるかを、生きている人間が知ることは不可能である。「知ることができた」という人がいても、それは「こう考える」ということにすぎない。彼は思考というものの限界を知っていた。彼が覚りや解脱について語っても、天国(浄土)について何も語らなかったのは、そのためだろう。議論に値しないテーマについて議論することの無意味を感じていたのだ。諸仏典の中に浄土について説明した箇所があるとすれば、それは後世の僧侶の発明であろう。
『一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない』
『「わたくしはこのことを説く」ということがわたくしにはない』
実際にはいろいろ説いているのだが…。
彼は極端な説に近づかず「中道」を貫いたとされる。英語のことわざにモデレーション・イズ・ゴールというのがある。中国にも「中庸」という言葉がある。しかし仏教のいう中道は、中間や中立あるいは折衷ではないと僧侶や仏教学者はいう。対立する説のいずれにも与(くみ)せず超越するというのであろうか。ものの本には二元性の超越=中道=空だと書いてあった。何度読んでも、わたしにはよくわからなかった。頭が悪いせいかもしれない。アンリ・アルヴォンは仏教のことを無神論的不可知論と呼んだが、わたしは哲学問答や禅問答に近づくまい。わたしにはそれを理解する能力も資格もない。最古の仏典には、そのような哲学思想は少なくとも明確には書かれていない。 (つづく)