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  注 

   1 本稿で、「  」は原文の引用、また《  》は

   抜粋、意訳、現代仮名遣いへ変換での引用、

   / は「中略」の表記を示す。

   2 坊ちゃんがうらなり歓送会で「御出立はいつで

    す。是非浜まで御見送りをしましょう」という場面

    は、漱石が自らの寂しかった出立をネタに自嘲的

    にパロディ化したものだろう。



  引用参照文献

  1  内田道雄(一九七六)

    「諷語と笑いと―『坊っちゃん』論」

     (『国文学十一』学燈社)


  2  川嶋至(一九八一)

    「学校小説としての『坊っちゃん』

     (『講座夏目漱石2』有斐閣)

 

  3  夏目漱石(一八九二)「中学改良策」

      東京大学文(科大学)学部教育学提出論文

 

  4  綱島梁川(一九二三)『梁川全集 第八巻』

     春秋社

 

  5  夏目漱石(一九一四)「私の個人主義」

     (学習院大学講演)

 

  6  夏目漱石(一九〇七)「僕の昔」

     (『趣味2卷2号』)


  7  松根東洋城(一九一七)「先生と俳句と私と」

     {『渋柿 四四号』}

 

  8  水野広徳(一九九五)「自伝」

     (『水野広徳著作集第八巻』雄山閣)

 

  9  今井嘉幸(一九七七)

     『今井嘉幸自叙伝 五十年の夢』

      神戸学術出版

 

 10  新垣宏一(一九八一)

     「住田昇の松山日記について」

     『四国女子大学研究紀要28号』


 11  横地石太郎・弘中又一(一九二〇)

     {新垣宏一(一九八二)

     「横地・弘中書き入れ本『坊っちゃん』について」

     『四国女子大学紀要 第2巻第1号』}


 12  夏目鏡子(一九二八)『漱石の思ひ出』、

      改造社


 13  村井俊明(一九一七)「教員室に於ける漱石君」

     (『渋柿 四四号』)


 14  川島幸希(二〇〇〇)『英語教師 夏目漱石』

      新潮社


 15  夏目漱石(一九〇八)「名家の見たる熊本」


 16  夏目漱石(一八九五)「愚見数則」


 17  秦郁彦(二〇〇四)『漱石文学のモデルたち』

       講談社


 18  小宮豊隆(一九四二)『漱石 寅彦 三重吉』

      岩波書店


 19  中村英利子『漱石と松山』

      (アトラス出版二〇〇一)

 

 20  渡部政和(一九一七)「『坊ちやん』時代」

     (『渋柿 四四号』一九一七・十二)


 21  林原耕三(一九七一)『漱石山房の人々』

      講談社


 22  夏目漱石(一九〇六)「断片」(漱石全集収録)


 23  夏目漱石(一九〇六)「趣味の遺伝」

     (『帝国文学』)


 24  相川良彦(二〇一一)

    「小説『坊っちゃん』の成り立ちと赤シャツの虚実」

     『群系』28号


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漱石先生と松山中学生との関係の虚実


         ―『坊ちゃん』のもう一つの真相 ―



                           相川良彦(「群系」29号収載)





一 はじめに


 『坊っちゃん』は、「なもし」を語尾につける「生温い言葉」遣いの、「悠長」「気楽」で、「つまらん」田舎の中学校が舞台である(注1)。そこの教師は「御世辞」「弁舌」が巧みで、「姑息」に「胡魔化」しつつ、「策略」を弄して他者を貶める、「裏表」のある「曲者」が多い。校長は「勿体ぶって」教師の人徳重視の精神論を長々と談じる事大主義である。そこは何事も「情実」が絡み、「書生流に淡泊には行かない」「油断の出来ない」社会である。

生徒は「ひねっこび」て「減らず口を利」き、徒党を組んで教師に「蔭でこせこせ生意気な悪いたずらをし」、「口うるさく監視」する。そのくせ罰を逃れるため「嘘」をつく、「卑怯」で、「下劣」で、「けちな奴等だ」。

 他方、彼らに対向する主人公はと言えば、「正直」で「純粋」だが、口下手で「智慧が足りない」ため、「坊っちゃん」とか「小僧」扱いされ、よく「癇癪」を破裂させて「無鉄砲」に喧嘩する。また、婆やの清への情愛だけは深いけれど、概して人間関係には「無頓着」である。

 『坊っちゃん』は、中学校での俗物教師及び生徒と世間知らずの新前教師坊っちゃんとのトラブルを、主人公が実歴譚として語る一人称小説である。教頭などの陰険な企てや生徒の仕掛ける他愛ない悪戯に対し、坊っちゃんが正義感を燃やし立向かう。そこに読者は、「単純」「潔白」な坊っちゃんが身辺何処にでもいる小賢しい俗物どもと、潔く対決し揶揄罵倒するのを「痛快」に感じる。又、それは表裏で意味の背反する「諷語」に似た逆説的な作用により、坊っちゃんがドンキホーテのように真面目に奮闘すればするほどお門違いで、読者はそこに滑稽を感じるという喜劇仕立てなのである。

 揶揄罵倒された松山と松山中学の人々が、なお本作を愛好するのは、作中で揶揄罵倒されても、それは喜劇仕立てのあやだと受取るからである。そのため、漱石がスィフト張りに創作の裏に秘めた真情を見過してしまう(1)。尤もこの創作の裏を読んで、坊っちゃんの揶揄が喜劇仕立てのあやに留まらず実際に《生徒を憎悪さえしているようだ》(2)とする論者も一部には存在する。

揶揄が喜劇の誇張(或は反語)的表現か、真情かを見定めるため、本稿は、大学生から松山中学に至る時期に、教師であった漱石が生徒と如何なる関係にあったかを検討し、漱石と生徒との関係の真実を明らかにする。それによって喜劇仕立てのカモフラージュの背後で漱石が何に怒り、誰の所業を揶揄罵倒したかの真意を探ろう。



二 松山中学赴任までの経緯

(一)漱石「中学改良策」の主張

 漱石が東京高師等の非常勤講師を辞め松山中学へ赴任した理由について、諸説が並立している。@失恋、A徴兵回避の転籍を苦、B二股就職活動の紛糾を苦、C管理主義的な東京高師に嫌気、D神経衰弱、E留学資金貯蓄の為、F結核の転地療養、等である。どれも状況証拠であって確定的ではないので、理由をもう一つ加えよう。

 それは、大学生・漱石が中学校制度の改革に興味と実践志向を持っていたという平凡で真面目っぽい事実である。漱石は、東大履修科目の教育学への提出レポート「中学改良策」(一八九二)において次のように主張する。

@国家主義教育の是認と中学校の制度改革……當今の「憐れなる」国際状況下の我国において国家主義の教育は是認される。その教育効果が最も上がるのが中学校である。だが、明治前半期の中学校は制度的に不備で、教師の人材も不足している。

A教師の改良……當今の中学校教師は《学識浅薄なる流浪者多し。東大の卒業生、或は高等師範学校の程度を高めて、之に中学教育の事を托すべし。嘆かわしいのは、中学校教師は道徳的に劣る者が多く、また大抵は腰掛け的に就くだけでなるべく好地位を得て転職したいと望んでいて、全力で学校のために取り組む姿勢がないことである。ただ、身分不安定で薄給とあれば、そうなるのも人情である。「俸給を増加して且つ終身官たらしめ安んじて力を教育に尽くさしむべし」。少年の教育において、「道徳は知識よりも遙かに尊きもの」である。

B生徒の改良……現今の中学生は漢学の素養がないので、「武士風の気象」がなく「徳義上の根本」を欠き「勝手次第の我儘」である。地方の中学は「見識もなき癖に一層生意気な處もある」。人徳の高い人物に倫理を講義してもらうべきだ。ただ、「無理なる校則は廃すべし」(3)

 右記@の国家主義教育の是認と中学校の制度改革は、このレポートの作成が日清戦争の緊張が高まった一八九二年で漱石も国家を背負うエリート大学生として国粋主義的であったこと、漱石本人も中学校制度不備のため廻り道をした体験があったことが影響していよう。

また、A、Bの道徳教育の説から、漱石が漢学を人格の礎としたこと、更に一八九〇年公布の儒教色濃い教育勅語の影響と、立身出世主義に被れず中学教育への生真面目な実践志向を持っていたこと、等が認められる。

 


(二)漱石講師への辞職勧告騒動――大学生時代

一八九〇年九月、漱石は設置一年目の文科大学(東大文学部の前身)英文学科へ入学した。その年の同学科入学者は漱石一人、文学部全体でも十余人という大学創成期である。そして、二年生(一八九二年五月)から学生ながら東京専門学校(早稲田大学の前身)の非常勤講師に就いた。東京専門学校での漱石の講師ぶりについて、漱石の英文学講義を受けた綱島梁川(後に少壮気鋭の評論家)は日記に次のように記している。

《午後始めて新任の講師夏目氏のビーカーの講義を聞く。弁舌は明快でなく、講釈の仕方も未だ巧みでないけれども、整然として穏和に綿密に述べられるところや、不明部分について霧を晴らすようにさっぱりと説明する。とに角かなりの力量ある講師と評すべきだ》(4)

 漱石講師は学生に好評で、その要望により講義時間を増やされもしたが、怠けた学生を厳しく叱ったこともあった。そのうち親友・子規から意外な知らせが届く。漱石への辞職勧告運動が学内で起きているというのである。

漱石は、その驚きの心情と辞職の決意を、次の正岡子規宛返書(一八九二・一二.一四)で表明している。

《運動の一件お手紙にて初めて知り少なからず驚きました。しかし学校よりは未だ何等の知らせもなく辞職勧告書なども未だ届いていません。お報せに接するまでトンとそれに気づきませんでした。この間私に対する運動がある等と本当に思ってもいないで過ごしていたとは、我ながら随分お目出度いものです。むろん生徒が生徒ですから辞職勧告を受けてもあながち私の名誉を傷つけるとは思っていないが、学校の委託を受けながら生徒を満足させることが出来なかったとあっては、責任の上また良心の上より言っても気持ち良くないので、この際断然と出講を辞任する決心です》

 ただ、この辞職勧告運動は噂に留まって現実化せず、漱石は松山中学赴任までの三年弱のあいだ講師を続けた。けれどもこの件から漱石が受けた傷は深く、聴衆の態度への過敏さや自己の教師資質への懐疑を生む元になった。後には名講演・名講義で東大随一の人気を博した漱石だが、その時でさえ《分らなければ私宅へ尋ねて来い、説明する》(5)と断ったり、「教師がいや」と言い続けたところに、漱石の脅迫観念の痕跡を見出せる。


(三) 漱石の二股就活の顛末――大学院時代

一八九三年一〇月大学院に進学した漱石は、非常勤講師のバイト先を増やそうと就職活動をした。だが、それが思わぬ波乱を引き起こす。この頃は漱石の神経衰弱が昂じた最初の時期で、それが松山行きにも繋がるため、当時の事情を見ておこう。漱石の回顧によれば、

《私のようなものでも一高と、東京高師から殆んど同時に口が掛りました。私は一高へ周旋してくれた先輩に半分承諾を与えながら、東京高師の方へも好い加減な挨拶をしてしまつたので、事が変な具合にもつれてしまいました。私は私の先輩である一高の教授へ呼びつけられて、此方へ来るような事を云いながら、他にも相談をされては、仲に立つた自分が困ると云って譴責されました。私は年が若い上に、馬鹿の肝癪持ですから、いっそ双方とも断ってしまおうと考え、其手続きを遣り始めたのです。

すると或日当時の一高校長から、一寸学校迄来てくれといふ通知があつたので、早速出掛けて見ると、その座に東京高師の嘉納治五郎校長と、それに私を周旋してくれた例の先輩がいて、相談は極った、此方に遠慮は要らないから東京高師の方へ行つたら好かろうという忠告です。私は行掛り上否だとは云えなかったが、腹の中では厄介な事になつたと思ったのです。

嘉納さんに始めて会った時も、そうあなたのように教育者として学生の模範になれというやうな注文だと、私にはとても勤まりかねるからと逡巡した位でした。嘉納さんは上手な人だから、否そう正直に断られると、私は益貴方に来て頂きたくなったと云って、私を離さなかったのです》(前掲5)

 右文末の漱石と嘉納のやり取りは、坊っちゃんが狸校長へ新任辞令をつき返す場面に似ており(但し、嘉納校長は狸校長より役者が一枚上だったようだが)、『坊っちゃん』へ転用されたとするのが定説である。

この新たなバイト先となった東京高師は、教師養成機関の頂点に位置づけられた規律を尊ぶ全寮制の学校で、教師に対しても高い倫理性や徳性を求めた。それが、漱石には窮屈で堪らなかったのだが、週二回出講の講師稼業を一年半続けた。『坊っちゃん』の《そばや団子を食うな》《温泉泳ぐべからず》のエピソードは、大凡そ東京高師時代の窮屈さを松山中学時代に見聞したエピソードに粉飾し直して創作されたと考えられる。

そして、意外さで漱石の周囲を驚かせた、松山中学赴任となる。「学校を出てから伊豫の松山の中学の教師に暫くいつた。あの「坊ちやん」にあるぞなもしの訛を使ふ中学の生徒はこゝの連中だ」(6)へと舞台が移るのである。

 


 

三 松山中学教師期の二つの事件と漱石

(一)住田校長の排斥運動と辞任

一八九五年四月、漱石は学友・菅虎雄の斡旋で、アメリカ人教師カメロン・ジョンソンの後任として松山中学の嘱託英語教師になった。松山中学は、一八七八年に愛媛県立中学として創設されたが廃校となり、その後に私立中学として再生、それを一八九三年に再び県立へ移籍した、県唯一の公立中学校であった。未だ中学校制度がしっかりとは確立しておらず、漱石の着任時も県立への移管二年めで、学校の混乱が続いていた。教え子・松根東洋城は当時の松山中の様子を次のように回顧している。

    《教師と生徒とは、よくごた??していて、生徒は教師

     に中々心服しない、通り掛かる教師を綽名に呼び立てる

     などはありふれた事になつていた。一、二松山出身の者

をのけては教師は何等畏敬の念を以て迎へられるどこ

ろか「余所者」として生徒に翻弄せらるゝ者が多く、面

白くない風習であつた。自然師弟の関係の温かいなどゝ

いう所は至って少なかつた》(7)

実際、松山中学はごた??続きであった。漱石赴任の数年前の山嵜忠興校長の転任事件は、修学旅行先で地元中学生と喧嘩して途中帰還させられた五年生が、腹いせ混じりに起こした校長排斥運動だった。理由は他愛もなかったが、生徒が校長を出し抜き県知事へ直訴したのが効を奏し、騒ぎの責を負って校長は転出させられた(8)。また次の、後任の住田校長の排斥運動は漱石在任前年から在任中にかけて起きた。以下、ことの経過を辿ろう。

住田(一八五八生)は鳥取県出身、東京師範卒。熊本県師範学校教頭を経て、一八九三年二月に松山中学校長へ転入した。この山嵜前校長の後任として乗り込んだ住田ではあったが、自らも大規模な排斥運動に出会わす。この排斥運動に加担した生徒・今井の回顧により、その経緯を紹介する。

《改校早々二回の学校騒動に見舞われたため、あたかも革命後の国家のよう、秩序にも残念ながら乱れがあり、自然と先生達に対する学生の態度も、漱石先生の前任地の高等師範あたりと気風が違ったであろう。

山嵜校長の後釜に来た住田という人物は、元来高等師範出身の謹直一方で、あまりにコセ??する。しかも学生にも評判の善い先生を止めさせて、東京高師閥の同類を引張り込む。教頭としてやって来た沢というのが無能で、化学の実験に度々しくじるのが笑い種となった。

この度の騒動の目的は新任校長と共に、此等の一味を束にして放逐したいという大ストライキとなった。後日聞いた中に、この騒動の発源地は山嵐という噂もあった。この騒動で住田校長は退場し、人事また一新、漱石先生の登場もその影響というべきである》(9) 

もと??松山中学は自由な校風だった。住田はそこで排斥運動で乱れた校規粛清のために県当局が送り込んだ校長と見られた。その住田は、高等師範風の管理主義を強めた上に、高等師範閥や前任地・出身地閥で子分を次々に招集し、地元出の教師と生徒の反感をかってしまった。

騒動の発端は、住田が京都・東京へ公務出張した一八九四年六〜七月にかけて起きた。ただ、この時の排斥運動の直接的ターゲットは留守を預かった沢教頭で、沢は休職となって九月七日に転出した。

だが、騒動はこれで鎮まらず、一〇月には生徒が一斉に神社に立てこもり、住田校長の修身の授業をボイコットする事件が起きた。地元紙は、校長と県参事官・浅田知定とが共謀し悪事を働いていると中傷した。

こうした状況に直面して、住田は招集した子分教師をみな他県の学校へ転任させ、替わりに地元教師や生徒をも納得させる力量のある人材を招聘する方針に転じた。その眼鏡にかなったのが、東大理学部卒の横地石太郎と東大文学部卒の漱石だった。横地は住田の辞職半年後に嫌々校長を継ぎ、後に山口高商校長となった実力のある教育者だった。漱石は一高同期の菅虎雄が内務省出向の浅田参事官と同じ久留米出で親しかった関係からリクルートされた。だが、住田排斥運動は鎮静化しなかった。

横地と漱石は本人の希望で嘱託教師という身分で、月給八十円であった。住田校長の月給六十円、沢前教頭五十五円、また漱石と同時期に着任した若い五名の教師の月給十八〜二十円だったから、厚遇である。財源は前任のお傭外国人教師ジョンソンの月給百二十円であった。

これが、漱石の松山中学着任時の松山中学の実態である。そして、半年後の九月二十八日、住田は転勤先を見つけないうちに知事へ辞任を申し出、一〇月中旬盛大な送別会と見送りを受け、松山を去ったのだった(10)。


(二)バッタ事件

『坊っちゃん』において、バッタ騒動とその処分をめぐる職員会議は重要なエピソードである。この職員会議の様子は、漱石も出席した宿直教師・伊藤朔七郎の晩酌問責の一件で開かれた職員会議のやり取りを参考にしたようだ(梅木忠朴の英語授業ボイコット事件との説もある)。この晩酌事件を当事者の生徒の一人である今井嘉幸の回顧談により紹介する。なお、バッタ事件はこの晩酌事件と漱石着任前に宿直の伊藤が寝間にバッタを入れられた事件とを漱石が抱き併せて、一つのエピソードに仕立てたのである。

《松山中学寄宿舎の誇りは、その自治寮であることだった。体操教師伊藤舎監が干渉好きで、自治寮の悩みとなった。ところが毎夜本館の小使室で寝酒にひたるという評判が立った。虎次は親友川上と謀って現場を取押えようと示し合わせた。或夜小使室に川上が行くと、茶瓶に怪しきものが沸いている。棚には肴の膳が乗せてあるとの報告だ。しめたと両人は小躍りして小使室に行き、押入れの中に隠れ潜んだ。今か今かと両人は待ったが狙う相手はなか??やって来ない。小使が内通したと見える。両人は遂にしびれを切らして押入れを出て、川上は酒と肴を分捕として持ち去った。

 翌朝になって、勇敢な川上は酒と肴を盛った膳を、小笠原流に差し上げて、虎次と並び進み、食堂に現われ、伊藤舎監の面前にうやうやしく供えた。舎監はいつもの通り食堂においてや、寄宿同に向って、朝飯の監督を始めたところだ。

『それは一体何ですか』と初めからしょげて、日頃の闘志に満ちた態度そっち除けの伊藤舎監をきっと見つめて、『おやご存知のはず。昨晩のご馳走で、小使部屋から食堂で上がるよう持参しました』と気の強い川上との問答に、起き抜けから委細を知った学生等は、拍手して囃し立てた。

虎次等両名は食後舎監室に呼ばれた。案に相違して、老母のことなど持ち出し、免職を恐れる伊藤舎監の妥協振りが、気の毒に思われた。拡大を恐れたためか、両三日後に虎次は校長室に呼ばれ、ここでも意外と穏便な妥協案が勧告された。そしてその学年末、伊藤舎監は丁度出来た郷里の分校に転任して、老母へ孝養の終りを全うしたはずだ》(再掲9)

 この対応に当たった校長代理・横地のメモによれば、一八九六年一月二十二日夜の出来事であった。学校当局は翌日に対策を協議し、生徒側に対して謝罪状の提出と伊藤へ突き付けた辞職勧告書の撤回、伊藤に対して舎監辞任・転勤させる形での決着を図っている(11)。

これら事件から、当時の松山中学の生徒騒動が自由民権運動の余韻さめやらぬ社会風潮の下、校内教師の対立も絡んだ政治的運動だったことが分る。とても少年の無邪気な悪戯に留まらない。他方、学校当局は組織絡みで生徒管理を強めたが、生徒が一旦騒動を起こすと、事なかれ主義から弱腰になり慰撫と妥協に終始した。


(三)松山中学在任中の漱石

漱石の松山中での教師振りにつき二種の証言がある。

一つは、漱石夫人の「黙々として勉強してゐたものらしうございます」(12)、同僚教師・村井俊明の《何かに無頓着な人で、職員室においてすら、関係ないといった風に超然としていた》(13)などといった、校内事情に無関心で、隔絶して一人で勉強にいそしむ教師像である。

この時期の漱石はと言えば、四月に赴任して早々に松山の美女との見合話が持ち込まれる。それは「當地出生軍人の娘を貰はんか??と勧むるものあり/思案せしが少々血統上思はしからぬ事ありて御免蒙」ったが(正岡子規宛書簡一八九五・五・二六)、その後も見合を勧められ、七月には「此頃女房が貰ひ度相成候故 田舎者を一匹生獲る積りに」なっている(斎藤阿具宛書簡一八九五・七・二五)。この見合が八月五日で、場所は県参事官の浅田宅、相手はこれまた美女で評判の地元判事の四女であったようだ。ただ、これは、その女性が「慎みのないのに閉口し」て、漱石から断っている(再掲12)。

また、その三週間後の八月二五日に結核を再発した正岡子規が転地療養で漱石の下宿に転がり込み、五十日余同居する。これが漱石の俳句を端緒とした文学開眼へと繋がるから、刺激に充ちた時期であった筈である。

もう一つは、教え子の証言する、学識が深く親切で真面目な教師像である。今井嘉幸は語る。《先生の発音たるや、前任者英人ジョンソンのそれとそっくりで、学生は度肝を抜かれた。ある時、一読した上訳して見よと当てられた。拙い読方の後、ボツ??訳を附け始めた。先生は途中で嘴を容れた。「その字にそんな訳はないぞ」「それでも字引にあったがなもし」「何の字引だ」「棚橋一郎先生の字引じゃがなもし」「そうか、直しておけ」 ギャフンと参った。教場を出て叫んだ。「今度の先生は偉いぞう! 字引を直せちゅうがあ!」夏目先生の評判は午休の間に満校を風靡した》(再掲9)

 また、松根も回顧している。《謹厳で真面目な先生に対しては流石いたづらな生徒も毫も乗ずる隙を持ち得なかった / 英語の教授は忠実で親切でしかも生徒の智力脳力を量ってよく納得するように教えられた》(再掲7)

松山中学着任の当初、漱石は「小生就任以来既に四名の教師は更迭と相成……何事も知らずに参りたる小生には余程奇体》(神田乃武宛一八九五・四・一六)と教師の三割が交替する事態を訝しがったものの、学内事情に「無頓着」に過ごした。すぐに降ってわいた見合話や子規との交流など個人的出来事に気を取られたろうし、また中学の英語教育自体にも熱心だったからである(14)。



四 漱石が生徒嫌いになった理由

 一八九五年四月九日に漱石は松山に着き、教師生活を始めた。漱石は当時の印象を後にこう振り返っている。 

「松山の中学に初めて教員となつて赴任した当時は、学生は教師に対して少しも敬意を払つてゐなかつたから、教員といふものは恁ういふものかと思つてゐた。が熊本に行つて、熊本の学生の敬礼に先づ感じた。あんな敬礼をされた事は未だ嘗てない。余程礼儀に厚い / 軽薄で高慢痴気な所がなく寔に良い気風である」(15)

 松山中学の荒れた状況を知らず、中学教師も初体験だった漱石は、教師へ敬意払わない生徒を見てこんなものかと思っていたというのである。他方、生徒達は漱石を、東大出の学識が深い超エリートで、謹厳でかつ英語の教え方も巧みと見たから、さほどの悪戯も仕掛けなかった。

漱石は当初、松山中学校生に悪い印象を持たなかった。例えば、狩野亨一宛書簡(一八九五・五・一〇)で「當地着依頼 教員及び生徒間との折合もよろしく」と書き、斎藤阿具宛書簡(一八九五・七・二五)では、「学校も平穏にて生徒も大人なしく授業を受け居候 小児は悪口を言ひ悪戯をしても可愛らしきものに御座候 / 此度山口高等学校より招聘を受け候へども當地の人間に對し左様の不親切は出来悪く候へば一先辭退仕候」と書いた。

この引用文末尾にあるように、漱石は松山への愛着とロイヤリティをこの書簡を書いた七月末頃までは少なくとも持っていた。この後、八月下旬〜一〇月中旬にかけて子規との五十日余の同居生活に入る。

 ところで、秋に入ると一転して、漱石は当地を離れることを望むようになる。漱石は正岡子規(宛書簡一八九五・一一・六)に次のように書く。

《この頃愛媛県には少々愛想が尽きました。どこかへ巣を替えたいです。今までは義理と思ってずいぶん辛防したけれども ただ今では口さえあれば直ぐ動くつもりでいます。貴君の生れ故郷ながらあまり気風の良い土地柄ではありません》

また同月、漱石は松山中学の校友会誌に次の所見を載せている。

   《今の学生は学校を旅館のように考えている。金を出し

て暫らく逗留するにすぎないので、厭になればすぐに宿

を移る。こうした生徒に対して校長は、まるで旅館の主

人、教師は番頭丁稚のようである。主人の校長すら、時にはお客の機嫌を取らなければならず、ましてや番頭丁稚において言わずもがな。徳をもって生徒を教育するどころか、解雇されないのをもって幸福と思う有様である。生徒が増長し、教員が下落するのは当然だ》(16)

どうして、七月末まで良かった松山への印象が十一月には急転悪化してしまったのか。その理由を示唆した回顧の書簡を、漱石は狩野亨一(宛書簡一九〇六・一〇・二三)へ送っている。

《世の中は下等である。人を馬鹿にしている。汚ない奴が他の云う事を顧慮しないで衆を恃み勢に乗じて失禮千萬なことをしている。こんな所にはおりたくない。だから田舎へ行ってもっと美しく生活しよう  ――これが大いなる目的であつた。しかるに田舎へ行って見れば東京同様の不愉快なことを同程度に受ける。 熊本に行ったのは、人を遇する道を心得ない松山のものを罰したつもりである》

 ここで漱石は《衆を恃み勢に乗じて失禮千萬なことをしている……汚ない奴》として、松山では誰を想起したのか。その手掛かりを、『坊っちゃん』の中に覗い知ることができる。例えば、バッタ事件で徒党を組んで悪戯をするわ、詰問には白を切るわの寄宿生に対し、主人公は、《誤魔化して、陰でこせこせ生意気な悪いたずらをして、話せない雑兵だ、卑怯だ。こうなれば隠れている奴を引きずり出して、あやまらせてやる》と口を極めて罵っている。ここから《衆を頼む汚い奴》の中に、少なくとも生徒が入っていると考えて間違いはないだろう。

他方、当時校長であった住田昇を漱石はどう捉えていたか。「坊ちゃん」モデル論通説は、住田が校長であり、かつその風貌が狸然としていたことと、生徒に不人気だったことから、狸校長のモデルだったと見做している。だが、一部のモデル論は、漱石が住田に「好意を持っていたふしがある」とし、その状況証拠を挙げている(17)。

一に、住田は若い漱石を力量ある人材として破格の厚遇(月給が校長より二〇円高く、学校雑務を免じ午後三時に帰宅可能な嘱託教師)で招聘した。それは、前任地で講演し(教育体制批判と誤解され、松山転勤の原因となっ)た住田の持論の実践であったが、教師資質向上のための待遇改善等を唱えた漱石の大学生時のレポート「中学改良策」の主張と奇しくも一致していた。

二に、事大主義的な説法を嫌った漱石だが、「中学改良策」では人間教育・修身の必要性を唱えた。この点で、修身を担当した住田に、好意をもった可能性がある。

三に、住田の相談相手だった県参事官・浅田知定は、漱石の親友・菅虎雄の同郷知己で漱石を松山中学に斡旋し、漱石の見合いの仲介もした。また、もう一人の相談相手の高等師範校長・嘉納治五郎も漱石が大学生時に二俣受験で窮地に陥った時、寛容に非常勤講師に雇ってくれた恩人だった。漱石は人脈的に住田と近いのである。

四に、漱石お気に入りの道後温泉を、「坊ちゃん」の中で漱石は「住田温泉」と命名している。

だから漱石は、好感していた住田校長を辞任に追い込んだのが生徒とそれを裏で操った教師(渡部ら)だと知り、急に彼らを憎むようになったと想われる(再掲14)。生徒が徒党を組み校長を排斥する行為は、東京専門学校でその災禍に会いそうになった漱石には殊更に「物の道理が分りもしない癖に」(18)、「礼儀」を欠く「失礼千万」で「軽薄で高慢痴気な」暴挙に思えたのだ。

松山中学の後任教師・玉虫一郎一宛書簡(一八九六・七・二四)の「松山中学の生徒は出来ぬ癖に随分生意気に御座候間 可成きびしく御教授相成度と存候」と云う生徒酷評や、中学離任式の辞として伝わる漱石の次の挨拶は、生徒への憎悪を明確に示している(事実、四月十日の三津濱出立の見送人は中学関係では横地だけであり(注2)、漱石はその後二度と松山を訪れなかった)。

《なぜ私はこの中学を棄てて熊本へ去るかとの問に答えれば、それは生徒諸君の勉学上の態度が真摯でないという一事につきる。私はこの一言を告別の辞とすることをはなはだ遺憾に思っている。生徒諸君は、必ずこの事ことついて思い当る時が来るであろう》(19)

 以上のように理解すれば、渡部を山嵐とするモデル論通説に対する、渡部と漱石の奇妙な態度が納得される。渡部は、善い役なので喜んで良さそうなのに頑なに否定し続け、また、漱石追悼へ寄せた文も短くて、「先生の在職僅に一ヶ年 加之担任の学科も相違し 随て余り交談をも致さゞりし為め 深き印象の今日に残りたるもの無之候」と妙によそ??しい(20)。

 漱石の方も、「困るのは松山中学にあの小説の中の山嵐と綽名の教師と寸分も違はぬのがゐるといふので 漱石はあの男のことをかいたんだといはれてるのだ、決してそんなつもりぢゃないのだから閉口した」と何やら忌々しげである(再掲6)。二人の強い否定は、漱石と渡部が敬遠・反目した仲と見れば、納得できる。

 なお、松山中学教え子で漱石と師弟関係を続けた者は、純粋な人柄を愛された俳句の門弟・松根東洋城や新潮社編集主任・高須賀淳平など少数である。《才走った、政治家的な面が嫌い》(21)な漱石は、立身出世組の多い松山中学の教え子とは打ち解けて付合はなかったようである。



五 むすび

 可愛らしいと思っていたのに、無礼にも校長排斥運動を起こした松山中学の生徒に対する憎悪、それが『坊っちゃん』執筆における漱石のモチーフの一つであった。ただ、それをあからさまに露呈するのは、師弟愛を信じて疑わない社会通念に反するタブーである。にもかかわらず、漱石の怨念はこのタブーを敢えて破り、憎悪を書いた。一九〇六年に漱石が書いた次の「断片」メモが、その決意の論拠を今に伝えている。

   《人間は朝から晩まで仮面を被っている/大人の様で若

い面がある。中学生の仮面である/自分にも人にも愚に

見える仮面がある。教師の仮面である/

   ▲道義上醜なる者、怪なる者、卑なる者を容れて平然た

る者を広いと云い、世間では賛辞に用いる/清濁併呑む

と云う事はほめられるべきでない》(22)

         とはいえ、生徒への憎悪(モチーフ)を露わに書けば良

俗に反し、読者の反撥を食う。そこで、漱石は諷語(の表裏背反)の創作技法を適用し、憎悪を隠した。漱石は述べている、《表裏二面の意味を持ち、表面の意味が強ければ強い程、裏側の含蓄も漸く深くなる。大笑の奥には熱涙が潜んでいる》(23)、と。

こうして漱石は、喜劇だからと見て軽く(或は逆の意味にさえ)受取る人間心理を逆手に取り、オーバーな揶揄で大向うの笑いを取りながら、生徒への憎悪を公然と吐くという離れ業をやってのけた。それは東大上司同僚への憎悪の隠し方(拙稿(24))とは、次の点で違う。東大同僚の場合は松山中教師のエピソードを多用して、さも松山中教師のように見せかけたのに対し、生徒の場合は諷語仕掛けを活かしオーバーに揶揄する形で逆の意味を浮き立たせ、真情を見えなくした。つまり、前者は松山中教師を囮にして東大上司同僚自体を隠したのに対し、後者は生徒へ揶揄罵倒を浴びせながら、それを諷語仕掛けの技と見せかけることで生徒への憎悪を隠したのである。

このように、漱石は表面的には幼稚でノロマな生徒の悪戯を面白可笑しく揶揄しながら、裏面で徒党を組み策謀を凝らす生徒への憎悪を公然と吐き出した。本作はその点で師弟愛を書くのを常とする学校小説の中にあって異色の存在である。と同時に、それは、漱石の空想の産物ではなく、旧制中学校制度創設期に全国で起きた生徒騒動の体験を素材にしており、当時の中学校の野放図な雰囲気の一端を図らずも今に伝える史料でもあった。

以上、本稿は漱石と松山中生徒との関係を実証的に追究し、それを『坊っちゃん』の師弟関係と比較対照させることで、本作の虚実を識別した。そこでは諷刺・喜劇の創作技法に拠りストーリーを虚構・構築し、漱石のモチーフである憎悪(真情)を隠したものであった。

なお、本作の人気が高い一因は、読者が本作の生徒の悪戯を管理体制確立以降の従順な中学生の無邪気なそれと外見的に錯覚し、気楽で滑稽な社会風刺小説と受取ったところにあろう。だが、その人気が、本質的には、学校という身近な舞台で、人間性を掲げて近代の管理主義体制及び功利主義的人間関係へ叛旗を翻した、本作のテーマに由来することは言うまでもない。



  

  1 本稿で、「  」は原文の引用、また《  》は抜粋、意訳、

    現代仮名遣いへ変換での引用、 / は「中略」の表記を示す。

  2 坊ちゃんがうらなり歓送会で「御出立はいつです。是非浜まで御見送りをしましょう」

    という場面は、漱石が自らの寂しかった出立をネタに自嘲的にパロディ化したものだろう。

 


引用参照文献


1  内田道雄(一九七六)「諷語と笑いと―『坊っちゃん』論」 (『国文学十一』学燈社)

2  川嶋至((一九八一)「学校小説としての『坊っちゃん』(『講座夏目漱石2』有斐閣)

3  夏目漱石(一八九二)「中学改良策」東京大学文(科大学)学部教育学提出論文

4  綱島梁川(一九二三)『梁川全集 第八巻』春秋社

5  夏目漱石(一九一四)「私の個人主義」(学習院大学講演)

6  夏目漱石(一九〇七)「僕の昔」(『趣味2卷2号』)

7  松根東洋城(一九一七)「先生と俳句と私と」{『渋柿 四四号』}

8  水野広徳(一九九五)「自伝」(『水野広徳著作集第八巻』雄山閣)

9  今井嘉幸(一九七七)『今井嘉幸自叙伝 五十年の夢』神戸学術出版

10 新垣宏一(一九八一)「住田昇の松山日記について」『四国女子大学研究紀要28号』

11 横地石太郎・弘中又一(一九二〇){新垣宏一(一九八二)

   「横地・弘中書き入れ本『坊っちゃん』について」『四国女子大学紀要 第2巻第1号』}

12 夏目鏡子(一九二八)『漱石の思ひ出』、改造社

13 村井俊明(一九一七)「教員室に於ける漱石君」(『渋柿 四四号』)

14 川島幸希(二〇〇〇)『英語教師 夏目漱石』新潮社

15 夏目漱石(一九〇八)「名家の見たる熊本」

16 夏目漱石(一八九五)「愚見数則」

17 秦郁彦(二〇〇四)『漱石文学のモデルたち』講談社

18 小宮豊隆(一九四二)『漱石 寅彦 三重吉』岩波書店

19 中村英利子『漱石と松山』(アトラス出版二〇〇一)

20 渡部政和(一九一七)「『坊ちやん』時代」(『渋柿 四四号』一九一七・十二)

21 林原耕三(一九七一)『漱石山房の人々』講談社

22 夏目漱石(一九〇六)「断片」(漱石全集収録)

23 夏目漱石(一九〇六)「趣味の遺伝」(『帝国文学』)

24 相川良彦(二〇一一)「小説『坊っちゃん』の成り立ちと赤シャツの虚実」『群系』28号


 

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