『群系』 (文芸誌)ホームページ 



小説『坊っちゃん』の成り立ちと赤シャツの虚実 



                                     相川良彦 (「群系」28号収載)





 一 はじめに


『坊っちゃん』は戦後文庫本販売累計が五百三十五万部以上で、映画化(五回)や演劇化もされ、更に模倣小説やモデル探し論も続出、はては漫画やミュージカルまで出された、我国を代表する国民文学である。(1)

 本作は一九〇六年の発表時、日本人の俗悪さを叩く、痛快でユーモラスな小説だと好評だった。ただ、文壇からは「通俗文学」と見られ評論対象外とされて、「文学研究者がいくらこの小説を分析し探究して見たつて、その中に鬼も佛も潜んではゐない」(2)といった自然主義文学觀からの否定であった。賛否いずれともに寸評であった。

次に、第二次大戦後から一九五〇年代にかけては、戦争を経ても衰えない人気を見直され、「卓抜せる傑作/典型的な日本人を描いた作品」(3)「古典/国民文学」(4)等々の総論的で丁重な再評価批評が諸大家から献上された。


 高度経済成長期(一九六〇)から現在までの間、分野を拡げつゝ専門分化した研究論文的な評論が増加する。本論は、その中の暗い漱石に照明を当てた【伝記的アプローチ】による評論を取上げ、叙述のスタートとしよう。

いわゆる暗い漱石の評論は当初、俗物性と超俗性とを併せもつ漱石の「悲痛を極める自己批判」(5)といった内容の、総論的な観念論であった。それに対し土居健郎は精神医学の視点から、次のように主張した。坊っちゃんは男らしく正直だが、親の愛を受けずに育ったので容易に人に甘えられない。そのため、甘えをこととする世人に対する批判精神が強く、自己流を貫く。そうした坊っちゃんが唯一甘えられたのが婆や清であった、と。(6)

 平岡敏夫も、坊っちゃんに脅迫観念・被害妄想の徴候を見出し、次の特徴を指摘した。@生徒との関係が断絶し、冷淡・憎悪と言っても可笑しくない、A清との関係が恋人と見紛うほど情愛にみちており、その死のイメージと重ねる時、嫂・登世への漱石の愛が想起される(7)。

 後者の特徴Aは、漱石伝の江藤淳『漱石とその時代』(新潮社TU一九七〇・V一九九三)で本格的に追究された。それは漱石を明治という時代の変動期に親から見捨てられ育った人間と捉え、その視点から作品を評した。それは、《日本の批評家が西洋に比べ、社会学と心理学の知識に乏しいと嘆》いて漱石が著した『文学論』(一九〇七)の延長線上にある、【伝記的アプローチ】(別言すれば、作家論的な視点)による作品評と性格づけて良い。

 《『坊っちゃん』は、漱石が初めて試みた「コンフェッション」の文学だった。だが、その「コンフェッション」は、「綽名」の世界でのみ吐露されるものなのだ。ただ、この告白小説の中で例外的に一人だけ「綽名」で呼ばれていない人物として婆や清がいる。この「綽名」で呼ばれない清だけが、「坊っちゃん」の正体、その隠蔽された部分を共有している。 / 清という存在が、『坊っちゃん』という作品のファルス(笑劇)の世界と「コンフェッション」(作者の実像)の舞台裏という二重構造を教唆している。そして、その「コンフェッション」の中身は嫂・登世への漱石の愛である》(注1)

 このように江藤は、本作に潜む嫂への漱石の「禁忌の愛」の存在を浮き上がらせ、そこに「綽名」を結びつけて解釈した。それは門弟・森田草平への書簡で、本作執筆前に「コンフェッション」文学を推奨し(森田宛書簡一九〇六・二・十五)、脱稿後に島崎藤村『破戒』を絶賛しながらも、「モーチーヴが少々弱い」とし、『坊っちゃん』と「正反對のもの」とした指摘と符合する(森田宛書簡一九〇六・四・一)。『破戒』は同じ告白スタイルだが、虚構であり、作者の藤村自身を告白してはいないからである。この「禁忌の愛」は漱石作品にしば??現れる三角関係と罪意識を読み解くキ―概念のように思われる。

だが、「禁忌の愛」は江藤の意に反し本作に限れば当て嵌まらない、と筆者は考える。何故なら、江藤は@確かな根拠として「綽名」と《菩提寺の墓で坊っちゃんを待つ》との清の遺言を挙げている。ただ、綽名で呼ばれない者には清の外に少年時代の近所の子供や松山中学校の書記もいるので、揶揄対象でない者には綽名を付けなかったと解釈することも出来る。また、遺言は清のモデルを漱石の実母と見る通説を否定するものでもない。

A亡嫂への愛を窺わせる状況証拠として、清の手紙を恋文と勘違いした下宿の婆さんに対する坊っちゃんの否定するでもない生返事が挙げられる。それを、勘違いを滑稽に見せる喜劇の常套的レトリックと見るか、或は、江藤のように漱石のホンネの吐露と見るかは見解の相違であり、いずれの論もありえる。

B墓所は最終稿で漱石が書換えており、重要事でなかったとの見方もある(8)。

そこで本論は、漱石を生立ちと時代・社会相から捉えて作品解釈する江藤のアプローチ法に拠り、『坊っちゃん』の成り立ちと、作品の中で赤シャツの虚実がどのように使い分けられているかを明らかにする。具体的には、

 まず、教師時代の漱石において江藤が見落した漱石の人間関係とその苦悩を捉える。次に、そうして捉えた漱石の実像と本作ストーリーとを比較して、実歴譚風に語られた赤シャツの事実と虚構とを仕分ける。更に、その虚構の裏に漱石がどんなモチーフを隠し、また何を本作のメインテーマとしたかを明らかにする。



 二 執筆の契機と背景の事実

(一) 執筆の契機

 英国留学から帰り英文学研究に携わっていた漱石が小説を書き始めた個人的契機について、親しかった高浜虚子が次のように証言している。当時漱石は神経衰弱に罹っており、その不機嫌に困った鏡子夫人から頼まれ、虚子が気晴らしの一策として漱石へ「ホトトギス」誌への執筆を勧めた。それに応じて漱石は小説を書き始めて、機嫌が俄かに良くなった、と言うのである(9)。

他方、漱石が『坊っちゃん』を書く社会的契機は、「英語学試験委員」辞任をめぐる文科大学(東大文学部の前身)との対立であった(10)。それは、事務的に通知された無報酬で英語試験の監督や採点を受け持つ試験委員への委嘱依頼を漱石が断り、大学と対立した事件であった。

具体的には、一九〇六年初め、「英語学試験委員嘱託依頼」の事務文書が大学から漱石へ郵送されてきた。だが、多忙な漱石は断り状を返した。ヘタすると免職になりかねない大学側からの依頼の拒否は、漱石に不安と高揚感をもたらした。門弟への次の書簡がそれを暗示する、

「君弱い事を云つてはいけない。僕も弱い男だが弱いなりに死ぬ迄やるのである / 天下に己れ以外のものを信頼するより果敢なきはあらず。而も己れ程頼みにならぬものはない。」(森田草平宛書簡一九〇六・二・十三)

 二月十四日、漱石は留学仲間で教授の姉崎正治から、この件での教授会の意向と友人としての忠告を立ち話で聞き、その後に次の書簡を送った。

《辭任の理由は多忙といふ事に歸着する。僕は週三十時間近くの課業をもつており、多忙は誰にも納得してもらえよう。次に僕は講師で、講師には担任させた仕事以外の負担をかけないのが礼儀である。その代り講師は教授のような権力がなく、担任の授業以外の事に口を出さない。語学試験の規則だって、教授会で勝手に決めておいて、その労力負担だけ講師にやれという理屈はない。何等の権利もない講師が擔任以外の事を命令的に押しつけられてヘイ??と従う義理はない》(姉崎正治宛書簡一九〇六・二・十五)

《夫で悪いと云うのは大學が御屋敷風御大名風御役人風になってゐるからだ。けしからんと思ふなら随意に思ふがよい、學長には、講師でもそんなに意の如くにはならない奴のいる事を承知させるがいゝのだよ》(森田宛書簡一九〇六・二・十七)

このようにエスカレートして、遂に《答案の採点を小生に御命令ですが、留学経験豊富な教授の担当される方が實力判定には適切》との断り状(一九〇六・二・二三)を坪井九馬三文科大学長に送りつけて、けりとなった。

『坊っちゃん』は、漱石がこの一件による興奮の未だ醒めやらぬ三月十五日頃に書き始め、二週間弱の短期間で一気呵成に書き上げたものである。


(二) 背景としての漱石の職場待遇

大学と漱石の対立は、実は「英語学試験委員嘱託」問題以前から存在した。それは、虚子が《機嫌が悪かったのは学校に対する不平が主なものであろう》と述べたように(再掲9)、非常勤講師の取扱いに対する不満であった。

まず、そこに至る経過を述べると、漱石は松山中学から熊本・五高へ転勤の後、二年をロンドンで国費留学生として暮らした。帰朝後は本来なら留学を推薦した五高へ戻るべきだが、漱石は敢えて東京居住を望んだ。その結果、東大、一高、明治大学を掛け持ち、週三十時間の非常勤講師稼業により生計を立てることとなった(11)。

 漱石の主な勤め先であった東大文学部は当時独立の文科大学として存在し、学長をおいていた。一九〇四年九月時において、哲学・史学・文学の三科に分かれ、常勤の教授は十七名、助教授は八名、また卒業生総数は八六名(一九〇四〜〇六年度の平均)であった。科目のうち外国文学と外国語学は、漱石着任以前の時期まで非常勤の外国人講師が担当した(12)。

 東大は開学当初、特権と権威を独占し、本邦学術諸分野の創成を担った。そのため東大文学部は教授半数が漱石と同年以下と若いのに、権威主義的でヒエラルキーも強かった。それは、読売新聞が井上哲次郎を《学閥を形成し、群弟子に尊敬せらる》と評した点からも垣間見られよう(13A))。そして、二十世紀になり文部省が全国学校体制整備や思想統制を強めるにつれ、東大は特権の独占を目減りさせたが、そのぶん大学自治を唱え官僚制的組織を堅持した(14)。漱石前任の非常勤講師ラフカディオ・ハーンが経費削減策のため辞令一枚で減俸通告され、辞任するに至った経過はそのヒエラルキカルな権威主義を示す一例である。

さて、学生期や留学を通じ対等に付合ってきた友人・知人の教授面が、漱石を不愉快にした。教え子・金子健二は当時の漱石を次のように回想した。

《英文科は日本人の教師を教授に任命されなかった。漱石先生はこの屈辱を強烈に意識され、その皮肉は幾度も井上哲次郎、坪井九馬三等の文科大学の最高スタッフに向けて辛辣に発せられ、また、いわゆる弱輩の口ばしの未だ黄色かった姉崎正治氏等々が、既に堂々たる大学教授の肩書を持っていられたのに対して教室やご自宅で風刺的に批評されたことが幾度もあった》(15)

 「英語試験委員」辞任は、漱石の日頃の不満が噴出したものだった。だが、それは「大學でいつ僕を免職するかも知れぬ。僕の眼中には學生も學長も教授もないから、其位の事はいつ僕の頭の上へふりかゝつて来るかも知れん」(瀧田哲太郎宛書簡一九〇六・十一・十六)との不安を漱石に募らせた。

というのは前例があった。当時文科大学の学生に人気の講義があった。非常勤講師の漱石「シェークスピアの諸論」と斎藤秀三郎「語学・英語」とであった。斎藤は正則英語学校の創立者で、辞書文法書を編纂して学校英語を創った明治・大正期を代表する英語学者である(16)。

二つの講義の人気の背景には日英同盟締結(一九〇二)による英語・英国文芸熱(川上音二郎・貞奴のシェークスピア上演)の高揚という世相の影響もあろうが、何よりも二人は講義上手だった。加えて、斎藤は成績評価に厳しかったので、学生は準備に時間を取られた。

その余波で、他の教授達の講義を受ける学生が減り、受講態度もおざなりになった。これに不服の教授会が、工部大学(東大工学部の前身)中退で文科大学教授との馴染みの薄い斎藤を一九〇五年十二月に解雇した。次に、その矛先が教授会の委嘱に楯ついた漱石に向けられても不思議はない。その不安が講義嫌いや文学創作志向と相俟って、漱石を非常勤講師の辞任・転職(初めは読売新聞社、但し、条件が合わず中止)へと向わせたのである。

なお、東大から漱石へ教授就任の打診が来たのはこの一年後で、文名急騰し朝日新聞社への移籍交渉中のことであった(白仁三郎宛書簡一九〇七・三・四)。」



三 赤シャツの虚実

(一) 松山中学の赤シャツのモデル候補達

東大との対立による高揚感と不安の中で漱石が『吾輩は猫である』の後作のネタに思い浮かべたのが、十年前の松山中学時代だった。本作はそこの教師達の人間関係をストーリーの中心に据えたかに見える。

漱石は松山の知人に登場人物は「空想的」と書いた。

「赤シャツも野田もうらなりも空想的人間に候 津田の所は少々書き候が過半はいい加減なものに候 実歴譚でもない様に候」(10)(村上霽月宛書簡一九〇六・四・一二)

けれど、登場人物に実在モデルがいると見て、その後にモデル探し論が続出する。それらモデル探し論はモデルの実像を知る有用な情報を提供したが、モデル探しに目を奪われ見当外れの人物をモデルと見做して、作品の理解を狂わせてもいる。ここでは、既往のモデル探し論が陥った誤認の是正から解説を始めよう。

モデル探し論の原典文献は、@同僚教師の横地石太郎と弘中又一が一九一九年頃に『坊っちゃん』の言動描写記述の虚実判定を交互に書入れ比較した『書入本』(略称)(17)、A弘中が渡部政和(山嵐のモデル)を追悼して一九三五年に書いた「弘中手紀」(略称)(18)の二つである。

その他の既往のモデル探し論では、B秦郁彦『漱石文学のモデルたち』(講談社二〇〇四、『秦モデル』と略称)がモデル探し諸論を踏まえて体系的にモデル達を順位付けたので、モデル探し論の決定版と位置づけられる。

さて、『書入本』は、赤シャツのモデル候補に挙げられた横地が、その嫌疑を晴らす為、『坊っちゃん』の言動記述(エピソード)個々について、事実と虚構の仕分を、弘中を誘って書入れたものである。大半は両名が淡々と虚構(フィクション)と事実とを仕分け、事実なら誰が該当者かを補足説明している。ただ数場面で、二人が赤シャツを特定する必要条件三つを詰めて議論しており、その場面だけは弘中がイニシャティブを握っていた。

@ 教頭ポストについて、横地は教頭が自分ではなく、西川忠太郎(英語)だったと主張した。だが、弘中は、教頭は首席教諭の俗称で、その立場にいたのは漱石着任半年前までは沢幸次郎(化学)、その後、西川、ついで横地の順で就いたから、三者ともモデルたりうると述べた。

A 赤シャツ着用について、弘中は《西川も着用せり。恐らく沢も着用せるならん。横地氏が着たるや否やは確なる証拠無し。まず無罪放免ならん》と書いた。だが、後年刊行の「弘中手記」では横地も着用と書いている。

B 容姿と性格を、弘中は《盤大面でホホホと笑うのが赤シャツを西川にアイデンチファイする唯一の特徴である。但し性格は似ておらぬ /性格は転出した沢の描写である、漱石は沢の性格を伝え聞いたのだろう》とした。

『秦モデル』は弘中の主張を鵜呑みにし、一位沢、二位横地、三位西川とランクした。沢は漱石と面識がないのに赤シャツモデルとされたのである。

次に、横地と弘中の思惑に比較的左右され(詰めた議論の)なかった残りの赤シャツのエピソードについても、二人は虚実(及び事実の場合該当者は誰か)を判定した。それをスコア化して数え、赤シャツのモデルの該当者とそのスコア割合を示せば、次のようになる(注2)。

(一) 該当者の判明割合は四九%だった。また、赤シャツのエピソード(言動描写記述)で判明した該当者は七名(スコア合計一六・七)だった。

(二) その該当者別スコア順位とシェア%(スコア合計一六・七で該当者別スコア小計を割った百分率)は、一位西川三五%、二位横地三一%、三位漱石二〇%……と続き、沢は最下位七位二%である。赤シャツエピソードの該当者は、西川と横地を含め七人もいたのである。

さらに、赤シャツのモデル候補を良く知る教師や生徒の証言を挙げよう。弘中は『書入本』で既述のように西川=赤シャツ説を否定したし、渡部も「”赤シャツ“の西川君は、小説とは全く違ったお人柄であった」と語った(綽名はピッグ)(19)。また、横地=赤シャツ説について、教え子・安倍能成は「全くのうそであり……八の字の口髭の外に山羊髯がまばらに垂れ下がり、「天神様」といふ仇名……であつた」(20)と述べ、同僚教師・中堀貞五郎(地理)も「どうも合はんです」(21)と語った。

このように赤シャツエピソードの該当者は七人いて、その中で有力な西川や横地をモデルと見る説は二人を良く知る者達により否定された。『秦モデル』は沢を赤シャツのモデル候補一位にランクづけたが、それは苦しまぎれの選択だったのである。ここから、赤シャツは松山中学教師ではなかったのでは? との疑いが湧いてくる。

そう言えば漱石の執筆契機は東大との対立だった。「宿直を逃れるなんて不公平があるもんか。勝手な規則をこしらえて、それが当り前だと云う様な顔をしている」との主人公の台詞は、「試験委員」辞任時の東大(姉崎宛書簡一九〇六・二・十五)への漱石の抗弁と同じでないか。


(二) 赤シャツの真のモデル

 《ハイカラ野郎の、ペテン師の、イカサマ師の、猫かぶりの/ わん??鳴けば犬も同然な奴》という坊っちゃんの赤シャツへの啖呵は、漱石の朝日新聞入社の辞の次の一節を思い出させる――「大学で講義をするときは、いつでも犬が吠えて不愉快であった」。この犬は直接には東大で医学実験用に飼っていた犬を指すが、「吠える犬」の符合は赤門の中に実は赤シャツがいた。つまり、漱石は赤シャツの「赤」で赤門(東大)を暗示している。

そこで漱石が講師期の東大英文学科教官を洗おう。

 ハーンの後任には、漱石の外に上田敏がいた。上田は漱石より八歳年下で、東京高等師範との併任だった。江戸っ子で、若いながら漱石より既にずっと有名で、著書も多く、マスコミでも多彩に活躍していた。

この上田と漱石は同じ文科大学英文科非常勤講師だった為に世間からライバルと目されたが、実際に当人同士も反目していた。例を挙げておこう。

《授業中に(漱石)先生は最近の日本の口ばしの黄色い学者がしきりに西洋文学通を気取ってきざな態度で外国の新文学を批評している事実を指摘されたが、もしこの批評を帝大文科内の某、某、教授が伝え聞いたならば、どんなに憤怒するだろうと思った》(再掲15)

《敏先生の談話は堂々としたスケールの大きい意見で「淡泊だの滑稽だの俳味があるのというのは消極的なことで、人間が光明栄華、壮麗深刻、雄大悲壮を仰ぎ見ないようになるのは敗亡の声だ」というのであった。何やら文字以外に意味がありそうで面白い》(再掲13B)

 さて、赤シャツが誰かを示す証拠が『書入本』に残されている。次掲前文■に、『坊っちゃん』該当箇所(海釣りで坊っちゃんが魚を釣った場面)を、後文◆に、それに対応する『書入本』の横地の書込みメモを併記する。

■《一番槍はお手柄だがゴルキじゃと野だがまた生意気を云うと、ゴルキというと露西亜の文学者みたいな名だねと赤シャツが洒落た / 此小魚はまずく食べられぬので肥料になる。赤シャツは一生懸命肥料を釣っているんだ》

       ◆《ギゾーをゴルギーと思い違いをしたのでは。漱石は

ギゾーを釣上げて何という魚かと問うたので、余所では

ベラとかギザミと云うがこの辺ではギゾーと云うと答え

たら、偉い文学者を釣上たもんだなーと笑っておった。

ギゾーはヨーロッパ文明史を著し、我国英学者に大いにも

てはやされた人である》

ここから『坊っちゃん』では釣った魚の名をギゾーからゴルキ(架空の魚の名)へと漱石が書換えたことが分かる。では、漱石は何故にギゾーをゴルキと書いたか。横地は漱石の「思い違い」と見たが、《我国英文学者のもてはやしたギゾー》を我国英文学元祖の漱石が「思い違い」する筈がない。ゴルキに関わる人物が赤シャツのモデルで、その人物を揶揄しようと漱石は書換えたのだ。

実のところ、上田のゴーリキー訳について、重訳を疑う者や(再掲13C)、誤訳だとする批判(22)が、当時、マスコミを賑していた。漱石はこれをネタにして上田を揶揄したのである。

上田は数多の外国語の文学翻訳と最新の話題に絡む文芸評論で名高い新進気鋭の英文学者だったが、その派手なパーフォーマンスにマスコミや東大・文学関係者等からの反撥も強かった。次掲の前文に、当時のマスコミ等が上田へ献上した修飾語、真中にパーフォーマンスを現す一エピソード、後文にそれらの対照となる『坊っちゃん』中の赤シャツへの修飾語を併記してみよう。


マスコミの上田への外観・性格面修飾語とエピソード

■a綺麗に飾つて、八字髯の美しく b片手にパイプを弄くり c片仮名文字が一語に一つ位ゐ出て(23) d文芸の貴族主義 高雅をいひ(再掲13D)e気取り f洒脱を粧ひ g大の利口者 h吹聴、大風呂敷(再掲13E) 

■i或人上田敏君に向ひ、「君ハもう留学の時期ハ経過して居る位だらうが、どうしたのだ」と尋ぬれバ「イヤ其内命ハ無論ないでハないが、僅か三年の留学に往復の航路を徒に費やすのが惜しいから、僕ハ内に居て静に勉強する積りだ」と答へた(再掲13F)(上田は翌々年一年間欧州留学)

 『坊っちゃん』の赤シャツへの外観・性格面修飾語 

 a美しい顔、色男の問屋を以て自ら任じ b琥珀のパイプを磨き、見せびらかす c片仮名の唐人の名を並べたがる d(赤シャツの発言)高尚な精神的娯楽を求めなくてはいけない e気取って  f洒落た  g到底智慧比べで勝てる奴ではない  h吹聴、i嘘つきの法螺右衛門、ペテン師、表と裏と違った男


マスコミによる上田の外観・性格面を示す修飾語は『坊っちゃん』の赤シャツのそれとほぼ重なるので、上田を赤シャツのモデルと見て間違いなかろう(但し、逆は真ならずで、本作中の赤シャツの悪役ぶりを示す修飾語はマスコミによる上田への修飾語には見当たらないことに注意)。ただ、漱石が上田に反撥したのは、右記のような外観・性格が性に合わない以上に、同じ東大英文科非常勤講師でライバル関係にあったことが影響している。

自他共に認めるところであるが、漱石は東大ヒエラルキー体制の下でも学長や教授にへつらわなかった。そこへ英語試験委員の件で東大と対立したから、漱石が内心で免職やライバルに過敏だったとして不思議はない。

例えば、「学校と云うものは中々情実のあるもので、そう書生流に淡白には行かない……そこで思わぬ辺から乗ぜられる……現に君の前任者がやられたんだから、気を付けないといけない」という赤シャツの、坊っちゃんへの忠告がある。これは、世界的に有名で英文科学生の人気も格段に高かった前任者ハーンが賃上要求と学内付合いの拙さから教授会の不興を買い辞任した事件(再掲15)、から漱石が抱いた警戒心の吐露でもあったろう。

 他方、上田は「長者に取入る魂胆また抜目なく、嘗てその著「ダンテ」を萬年先生にデヂケートして後も、この人に対する態度ハ注意周到」(再掲13E)と新聞記事で揶揄されるほどに如才なかった。「大学なんてほんとうに下らない所です。学生も駄目だし制度もよろしくない。僕は大嫌ひです」(再掲13E)と学外で愚痴をこぼしつつ、学内では教授達に小まめに仕えていたのである。

また、上田は初めて西欧象徴派の詩を紹介した『海潮音』(一九〇五)など優れた学術業績があった。ただ、上田には《西洋の物を十人並より少し早く読んで紹介するだけが上田敏氏の身上らしい》(再掲13G)《果してよくその書を読みて充分にその意を会得して其言を示せしものなりや否やを疑わざるを得ない》(再掲13H)等の辛口批判もつき纏ったが。ともあれ、教授達と交誼があり学術業績もある上田が教授に抜擢される可能性は十分にあった。

これが、上田への憤懣を漱石に増幅させたのだろう。その憤懣を、漱石は松山中学でチラッと見た教師達の人間模様に見せかけて吐き出した。具体的には、上田を赤シャツ、学長を狸校長に見立てゝ揶揄嘲笑したのだ。

ここで、狸校長のモデルに触れよう。モデル探し論が狸校長のモデルと定説化した住田昇は東京高師卒、排斥運動で転出した前校長の後を受け松山中学へ一八九三年に着任した。そして、次々と招集した子分で周りを固め、東京高師流の管理主義で臨んだので、地元の教師と生徒の反撥を買った。

自らも排斥されるようになった住田は、方針を転じ招集教師を皆他校へ転出させ、有為の人材(横地と漱石)を松山中学に自分より高給で招聘した。だが、排斥運動が鎮まらない為、一八九五年十月自分の転勤先を決めぬまま退任した。その辞任前の手腕の卓抜と退際の潔さを弘中は《見事と敬服》と『書入本』に記している。

その点、「俗物だ、俗もこの位になれバ、文科大学の学長位にハなれる」(再掲13I)と漱石の揶揄した文科大学長の方が狸校長のモデルに適合する。

まず、坪井学長は@学長就任を画策、A学長として人格不足、専横・威張る校風を醸成、B他者の意見を聞かぬ独断的大学運営、C学長職に固執(再掲13J)、等と新聞でその俗物性を叩かれ、漱石とも衝突したので(坪井九馬三宛書簡一九〇六・二・二十三)、その最有力である。

また、井上前学長も自分を批判した評論を載せた出版社に乗込んで、「そうな(自分が反抗す)れバ営業上御不利益になりませうぞと云ったとハ俗もここに至つて極まる」(再掲13K)と呆れられており、資格は十分にある。


四 小説『坊っちゃん』の組成

『坊っちゃん』は、職場の人間関係を取り扱うことの少ない我国文学にあって、それをまともに取上げた異色の小説である。漱石はそこで、綺麗事を言いながら上司におもねる東大同僚や権威・規則を嵩にきて講師に命令する学長の俗物性を揶揄しよう(モチーフ)とした。

職場の内部告発は日本社会のタブーであり、行えば軋轢を生むに違いない。けれども、漱石の憤懣と潔癖性はこのタブーを敢えて破らせた。その頃に書いた次の「断片」(メモ)が、漱石の決意を今に伝えている。

  《人間は朝から晩まで仮面を被っている/大人の様で若い面がある。中学生の仮面である/自分にも人にも愚に見える仮面がある。教師の仮面である/道義上醜なる者、怪なる者、卑なる者を容れ平然たる者を広いと云い、世間では賛辞に用いる/清濁併呑む事は誉められるべきでない》

ただ、東大同僚・上司の内部告発はやはり隠さなければならない。その為に漱石は、舞台を松山中学に見せかけて、実際の告発対象である東大をすっぽり隠した。と同時に、それを諷刺小説に仕立てて、憤懣を可笑味のオブラートに包んで見透かされないようにした。

さて、その漱石は本作のテーマ(「意図」)について、次のように述べている(「文学談」一九〇六)。

《坊っちゃんは愛すべき人物だが、単純すぎて現今の複雑な社会には生存しにくい。だが人が利口になりたがつて、複雑な方ばかりを良いと考へる今日、正逆の坊っちやんのような人物にも中々尊むべき美質があると読者に感じさせれば、それで作者の意図は達したと云うて良い》

 近代日本の社会と日本人(狸校長の事大主義・管理主義、赤シャツの功利性・根回しなどの政治的動き)に対し、漱石は江戸っ子(ホンネの正直さ、義侠や道義、率直な個人行動)をアンチテーゼに掲げ批判した訳である。

ところで、批判を、しかもそれを諷刺小説として書く場合、漱石は、次のようなスヰフト流の峻厳な心構えと見識を持つことを自らに課した。つまり、他人を批判する諷刺小説は、潔癖さで我が身をただし、正義に則り言動する者にしか、それを書く資格がないと考えるのである。

《スヰフトは強大な諷刺家である。彼は理非の?別に敏く、世の腐敗を鋭敏に感ずる人である。正義と見識を持った人である。眞の諷刺は正しき道理に依拠した批評眼をもって初めて出来ることである》(『文學評論』一九〇九)

 また漱石は『文学の哲学的基礎』(一九〇七)で文学を次のようにも講じている。

人間は、感覚そのものと知、情、意という精神作用を備えている。その四面の希求する理想は、感覚→美、知→真、情→愛・道義、意→荘厳である。だが、当代文芸(自然主義)は真の追求を優先し、本来互いに平等な筈の他の理想を害している。この四つの理想は人間いかに生きるべきかというテーマに帰着し、それを文芸家は人格として身に備えねばならない。

そして、文芸には理想を感覚的に表す手段として技巧の役割も重要である。発達した理想と完全な技巧が合致する時、文芸は極地に達する。文芸家は極致の文芸と理想の人格をもって初めて他者を啓発できるのだ、と。

ここで漱石は、文学における理想主義、人格主義、技巧重視、啓発志向を標榜する。そして、その応用としての小説『坊っちゃん』は近代社会の縮図である学校をリアルに描写しながら、その非を江戸っ子の美、尊厳、道義に立ち返って諷刺する、啓発的な小説となっている。

更に、漱石は『硝子戸の中』(一九一四)で自分の文学を次のように振り返る。

《私は自身については、比較的自由な気分で語れた。それでもまだ自分への色気を全く取り除き得る域に達しなかった。嘘を吐かないにしても、卑しい自分の欠点をつい発表せずじまいだった。私の書いたものは懺悔ではないけれど、私の罪はすこぶる明るい面ばかり写したことだろう》

ここに窺えるように漱石は、真の告白は容易くはないと自覚しつつ、誤魔化さず、自分流に自我を問うリアリズム文学を追求した。特に本作では、諷刺小説仕立てにより隠されたが、それだけに一層切実な、職業作家になる前の漱石の、社会との葛藤と憤懣とが告白されていた。

以上、本論は漱石を生立ちと時代・社会の中に位置づけることで、ストーリーの虚実を仕分け、その背後に隠された事実と、創作のモチーフ、及びテーマを知り得た。

より具体的に言えは、本作は松山中学の教師達に見せかけて、実は文科大学(東大)学長・教師達にはびこる事大主義・管理統制、功利的な諂い、思惑・策略的な組織行動を内部告発(モチーフ)するものであった。

 ところで、内部告発はえてして陰湿・卑劣さがつき纏うものである。それなのに、本作の読後感が爽快で、概して明るいのは何故だろう。それは、漱石がスヰフト張りの諷刺小説を書こうと、作家としての潔癖性と正義感を堅持していた為であり、人間のあるべき姿を求めていた為ではないか。本作のストーリー(フィクションの肉付け)がドタバタで雑言罵倒に溢れていても、その背後に作家・漱石の純潔な矜持とヒューマニズムを、読者が感じるからだろう。

このように、本作は近代の管理主義社会と功利的日本人を古き良き江戸っ子の人間性を掲げて批判する、英国文学風の諷刺小説(テーマ)と位置づけられる。



注 

      1 「  」は原文の引用、また《  》は抜粋・意訳等による

   引用、「/」は中略の表示。

        2 作中の赤シャツのエピソード(言動描写記述)について、横

  地と弘中がその該当者を誰と書込んだかを逐一カウントし

た。カウント集計方法はエピソード一箇所にスコア一を与え、その該当者が一人ならスコア一を、複数いたら人数で等分したスコアを与え、それを該当者別に集計した。


引用参照文献(初出)

1  山口泰生(二〇〇九)「『坊っちゃん』たちー「国民文学」表象の変容についての一考察―」

   『貿易風―中部大学国際関係学部論集 第4号』

2  正宗白鳥「「坊つちやん」について」(『文芸 2‐3』一九三四・三)

3  伊藤整「夏目漱石」(『現代日本小説体系 十六卷解説』一九四九・五)

4  井上靖「漱石の大きさ」(岩波書店『漱石全集』内容見本に寄せる一九六〇・五)

5  瀬沼茂樹『夏目漱石』(東京大学出版会一九六二)

6  土居健郎『漱石文学における「甘え」の研究』(角川文庫一九七一)

7  平岡敏夫「「坊っちゃん」試論」(『文学』一九七一・一)

8  小谷野純一「『坊っちゃん』解析」(『解釈』一九七二・一〇)

9  高浜虚子『漱石氏と私』(アルス一九一八)

10 竹盛天雄(一九七一)「坊っちゃんの受難」『文学』第三九巻第一二号

11 鈴木良昭『文科大学講師 夏目金之助』(冬至書二〇一〇)

12 東京大学『東京大学百年史』(一九八六)

13 読売新聞  A「井上哲次郎に與ふる書」「一九〇四・二・二一、

          B剣菱「藝苑時評」一九〇五・九・七、

                   C弧島「甲辰文学」一九〇四・七・十七

                  D弧島「文壇の保守党」一九〇六・十二・二三、

                   E正宗白鳥「漱石と柳村」一九〇五・一・二二〜二四 

                   F「隣の噂」一九〇五・四・十二、 

                   G徳田秋江「文壇無駄話」一九〇九・二・十四 

                   H弧島「乙巳文学」一九〇五・五・七 

                    I「隣の噂」一九〇六・四・十二 

                   J@一九〇五・二・十/三・三、A一九一一・十・三、B一九〇九・五・二十九、C一九一一・十・七 

                   K「隣の噂」一九〇三・七・三

14 松本清張『小説 東京帝国大学』(新潮社一九六九)

15 金子健二『人間漱石』(いちろ社一九四八)

16 大村喜吉『齊藤秀三郎伝』吾妻書房一九六〇

17 横地石太郎・弘中又一(一九二〇){新垣宏一(一九八二)

「横地・弘中書き入れ本『坊っちゃん』について」『四国女子大学紀要 第2巻第1号』}

18 弘中又一「山嵐君の追憶」(山本・永井編『政和先生追想録』一九三五)

19 近藤英雄『坊っちゃん秘話』(青葉図書一九八三)

20 安倍能成『我が生ひ立ち』(岩波書店一九六六)

21 大阪朝日新聞社「坊っちゃん座談会」(一九三二・二・九〜一四)

22 正宗白鳥「大学派の文章家」(『文章世界』第一巻第二号一九〇六)

23 匿名「初対面の文士」(『日本及日本人』一九〇八・一・一)



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