『群系』 (文芸誌)ホームページ 

樋口一葉  ―その声を聴く


                                          間島康子(30号収載)







 二十四歳六か月という生命はあまりにも短い。

 最近の女性の平均寿命が八十六歳を超えていることからすると、あっという間の人生のように思われる。

 しかし、樋口一葉の残した文学、「奇跡の十四か月」に書かれた作品、それらが生まれるまでの一葉の「生」を見てみると、決して長さではないと言えそうである。折りたたまれた襞の間に、濃く生きた証しが隠されている。

 襞の間に普通の人間が生きる二倍、いや三倍の時間があったのではなかろうか。それはまた、数々の不可能を生きる時間でもあった。


 「にごりえ」の中に一葉の声を聴いてみたい。

 「にごりえ」は、暗い宿命を負った銘酒屋「菊の井」の酌婦お力が主人公である。なじみ客であった源七と立ち行かなくなっているときに、上客として現れた結城朝之助に己の出自、育ちを明かしながらも、結局はどうにもならぬ身であるという諦念に沈んでゆく。お力への未練を断ち切れない源七は、自暴自棄となり、女房のお初にしつこく詰られ、一粒種の太吉と共に離縁してしまう。やがて、お力は無理心中の片割れのように源七に切られ、源七も切腹して果てるというものである。

 この手の話は、昔は小説の中の話、とどこか遠い現実味のない出来事のような気がしていたが、近頃は似たような事件が頻繁に起き、ニュース種となって世間を騒がしている。殊更に特別とは言えないものになっているが、一八九五年九月に発表されて以来、この話は一葉の代表作の一つに挙げられ、今や古典と呼んでもいいものとして位置づけられ、読まれている。その魅力は何であろうか。


 一葉は、一八九二年三月、半井桃水発刊の『武蔵野』一号に小説「闇桜」を発表後、全部で二十二作品(内「裏紫」は未完)を遺している。それらの中でも一八九四年十二月に『文學界』に発表された「大つごもり」辺りから、作品内容に磨きがかかってくる。前年七月、生活苦を打開しようと下谷竜泉寺町に引っ越し、荒物雑貨・駄菓子屋を開業するもうまく行かず、終焉の地となる本郷丸山福山町に転居するが、「たけくらべ」の連載が完成する一八九六年一月までの、後に言われる「奇跡の十四か月」には、それまでの一葉の身に起こった(見聞を含めて)あらゆるものから取捨選択され、抽出されて文学として成った作品が紡がれている。一葉の実感、体験から物語はふくらみをもち、発展を見、立体的で確かな像を結ばせている。「にごりえ」は一八九五年九月『文芸倶楽部』に発表されたものである。

二十二の小説のほかに、四千首の和歌、随筆もあるが、中でも一葉日記は、その生活、心情と共に一葉という人間は「何」であったのか、「どう」であったのかということを知る上で非常に貴重で、興味あるものである。その中に作品の秘密のようなものが隠されていると推測される。


 「にごりえ」は、冒頭から「おい木村さん信さん寄つておいでよ」と、活写の妙をもって始められる。そのポンポンとした物言いから、読者はすでにお高の声音を聴き取り、目の前にまるで舞台のように現れる情景を見ることができる。お高の独り言のような述懐をいなすような口ぶりで声を掛けるのは、主人公お力である。


 一葉が終焉の地として住んだ家は、本郷丸山福山町であった。そこは新開地で、樋口家の左側の家は鈴木亭という銘酒屋であった。一葉は、そこの門柱のお料理仕出し・・という看板を頼まれて書いた。「にごりえ」のお力のモデルとされるお留がそこにいて、よく男への手紙の代筆を一葉に頼んだという。

一葉は、そのような場所にいて、女たちを見ていた。見ていただけではなく、代筆することによって、女たちの気分や溜息までも実感することになったのだろう。

 

   となりに酒売る家あり。女子あまた居て、客のとぎをする事うたひめのごとく、遊びめに似たり。つねに文 書きて給はれとて、わがもとにもて来る。ぬしはいつもかはりて、そのかずはかりがたし。

                                           (「しのぶぐさ」)


 一八九一年、一葉は、後に恋人として意識した半井桃水に会い、小説執筆の指導をしてもらうようになる。翌年桃水の発刊した『武蔵野』一号から三号に、「闇桜」、「たま欅」、「五月雨」を発表するが、一葉の家の経済状態は悪化するばかりであり、また、桃水との関係を中傷されるような事態にもなり、小説を他の場所に発表しつつも、金策に追われる日々を過ごすようになっていく。そんな中で、一葉は決意する。


   かつや文學は糊口の爲になすべき物ならず。おもひの馳するまゝ、こゝろの趣くまゝにこそ筆は取らめ。

いで是より糊口的文学の道をかへてうきよを十露盤の玉の汗に商ひといふ事をはじめばや

                                             (「につ記」)


 四面楚歌のような状態にあったが、一葉の文学への決意は次第に固まってゆく。

 こども相手の小さな商売でいつまでも糊口を凌がれる訳もなく(却って借金は嵩んでいった)、かと言って、大衆に媚びるような小説は書きたくない。商売に打ち込んだのは三か月だけで、『文學界』に「琴の音」を発表する。

 

   わがこゝろざしは、國家の大本にあり。わがかばねは野外にすてられて、やせ犬のゑじきに成らんを期す。われつとむるといへども、賞をまたず、勞するといへども、むくひを望まねば、前後せばまらず、左右ひろかるべし。いでさらば、分厘のあらそひに此一身をつながるゝべからず。去就は風の前の塵にひとし。心をいたむる事かは、と、此あきなひのみせをとぢんとす。


 「塵中につ記」に右のような決意を記し、翌一八九四年五月には本郷区丸山福山町四番地に転居する。


 樋口一葉(戸籍名 奈津)は、一八七二年(明治五)、樋口則義、たき(両人とも甲州大藤村中萩原出身)の第五子(第四子は死亡)、次女として、内幸町一丁目の東京府庁構内(現在の千代田区)の長屋で生まれた。両親は故郷を捨てて、村の出世頭である真下専之丞を頼って江戸に出てきた。真下専之丞は、則義の父八左衛門と中萩原村の寺子屋の兄弟弟子であった。専之丞は八左衛門と同じ百姓であったが、刻苦精励ののち武家株を購って真下家を相続した。やがて江戸城内で途方もない出世をした人物であった。

 則義は真下専之丞を目指した。則義が八丁堀同心株を買って、旧体制幕臣の身分となったのは一八六七年(慶応三)七月であった。その三か月後には大政奉還となり、旧体制の崩壊が始まった。則義は一八八七年(明治二十)まで官吏であったが、傍らで不動産業、金融業にも手を出していた。幼少期の一葉の家は、決して貧しい時ばかりではなかったが、時世につれ転居を重ねながら、次第に窮していった。


 一葉は生涯に一度もその地を踏まなかったが、両親の故郷について、「ゆく雲」の中で次のように表している。

 

   ・・・大藤村の中萩原とて、見わたす限りは天目山、大菩薩峠の山々峰々垣をつくりて、西南にそびゆる白妙の富士の峰は、をしみて面かげを示めさねども冬の雪おろしは遠慮なく身をきる寒さ、魚といひては甲府まで五里の道を取りにやりて、やう???の刺身が口に入るくらい・・・


 そのような厳しい気候の土地を捨てて、立身出世を夢見て、一葉の両親は故郷を出てきたのであった。


 「にごりえ」は一から八の段によって、小気味のよい筆の流れで悲劇へと運ばれてゆく。

 佳境に入った六の段で、それまではぐらかしていた生まれを、お力は結城に語る。


   三代伝はつての出来そこね、親父が一生もかなしい事でござんした(中略)親父は職人、祖父は四角な字をば読んだ人でござんす、つまりは私のやうな気違ひで、世に益のない反古紙をこしらえしに、版をばお上から止められたとやら、ゆるされぬとかにて断食して死んだ(中略)十六の年から(中略)一念に修業して六十にあまるまで仕出来したる事なく、終は人の物笑ひに(後略)


 物笑いになって死んだ祖父と、足が不自由で、人と交わるのが下手な気位の高い職人であった父親のことを明かす。

 この祖父、父、そしてお力という血の流れは、一葉自身の祖父八左衛門、父則義そして…という意識が下敷きになっていると思われる。樋口八左衛門は、四角な文字を読み、代言人の真似をして反故紙をこしらえ続けて一生を送ったという。村の水争い、江戸に上って老中伊予守に、村の百姓総代として籠訴えの直訴をしたという人物であった。父は母と駆け落ち同然に村を出て、士族となったのだった。


 主人公のお力は、「あの娘のお蔭で新開の光りが添はつた、抱へ主は神棚へさゝげて置いても宣いとて軒並びの羨やみ種になりぬ。」と言われたほどの女である。

お力が、冒頭に出てくるお高と比較されるとき、その美しさは際立ち、お高の二流あるいは三流の風体からその人間の凡庸さも同時に表される。お力は、お客に対して突慳貪で高飛車に振る舞うところを、美しい故と妬まれもするが、内心を知ってみれば存外にやさしいところがあり、朋輩からも「離れともない心持ちがする」といった本性を持っている。

 酌婦にならねばならぬ身の上であれば、誰にしても何かしらの不幸、謂れがあるのは当然であるが、お力の一番の不幸は、自分の内側にある荒野を覗いてしまったことであろう。それを一葉の筆は、五の段に見事に表わす。

 菊の井の下座敷に集まったお店者五、六人が都々一、端唄をうなっている場面である。その座敷からお力は突然抜け出す。

 

   我恋は細谷川の丸木橋わたるにゃ怕し渡らねばと謳ひかけしが、何をか思ひ出したやうにあゝ私は一寸無礼をします、御免なさいよとて三味線を置いて (中略) あゝ嫌だ嫌だ嫌だ、何うしたなら人の声も聞えない物の音もしない、静かな、静かな、自分の心も何もぼうつとして物思ひのない処へ行かれるであらう(中略)行かよふ人の顔小さく?擦れ違ふ人の顔さへも遥とほくに見るやうに思はれて、我が踏む土のみ一丈も上にあがり居る如く、がや?といふ声は聞こゆれど井の底に物を落したる如き響きに聞なされて、(中略)唯我れのみは広野の原の冬枯れを行くやうに、心に止まる物もなく、気にかゝる景色にも覚えぬは、我れながら酷く逆上て人心のないのにと覚束なく、気が狂ひはせぬかと立どまる途端、お力何処へ行くとて肩を打つ人あり。


 ここには、お力の心情、心理状態が、言葉では説明のつかない内面が、目や耳、足を使って、突飛とも思える行動を伴ってお力を町中に彷徨させて描かれる。

それは、自我意識を持った一葉自身の心象の投影としてみられるのではないか。貧極まった生活、断ち切らなければならなかった半井桃水への思い、中島歌子及びその一派との住む世界の違いへの自覚、と、二十歳前後の人間が背負うには過重な事どもが覆っていて、そのような時間を一葉は過ごしているのである。


 一葉は利発であった故に、年少の頃より志を持っていた。

  

  九つ斗の時よりは、我身の一生の世の常にて終らむことなけかはしく、あはれ、くれ竹の一ふしぬけ出しがなとぞあけくれに願ひける。 

                                               (「塵の中」)


 封建的男尊女卑の考え方が罷り通る世の中で、「父は人にほこり給へり。師は弟子中むれを抜けて秘蔵にし給へ」るほど、学業優秀だった一葉はその無念さを、日記「塵の中」に書く。

  

    十二といふとし、学校をやめけるが、そは母君の意見にて、女子にながく学問をさせなんは、行々の為よろしからず、針仕事にても学ばせ、家事の見ならひなどさせんとて成き。(中略) 死ぬ斗悲しかりしかど学校は止めになりけり。


 しかし、家事の手伝い、裁縫の稽古に月日を送りながらも、夜ごと机に向かうのをやめない一葉を見て、父は歌の道をすすめる。

 当時、女性にとっての学といえば、和歌か書であった。

十四歳の時、一葉は、中島歌子の歌塾「萩の舎」に入門したが、そこは上流婦人、令嬢たちの社交場でもあった。身分意識を感じざるを得ない中で「ものつゝみの君」と言われながらも、翌年一月の発会では、題詠の第一点をとる。「ものつゝみの君」とは、自分の才能を袖の下に隠してなかなかすぐには外にあらわさない、という意味で、歌塾での徒名であった。

 明治二十年代の文壇は、尾崎紅葉らの硯友社が中心をなしていた。彼らは、小説には政治性、社会性は必要ないとし、大衆向けの娯楽小説を書いていた。女性にとっては書くということ、自分を表現すること自体が現在からすると及びもつかない困難なことであった。

 しかし、北村透谷などの恋愛論などがあり、表面的に女性を持ち上げる傾向はできていた。そのような中で女流文壇では、若松賤子(夫岩本善治が『女学雑誌』主筆)が翻訳、小金井喜美子(森鴎外の妹)が創作、翻訳、大塚楠緒子(美学の権威帝大教授大塚保治の妻)が小説を書いていた。さらに、女流作家の先駆けとなったのが三宅花圃(旧姓田辺竜子 三宅雪嶽の妻)であった。花圃は小説、文学評論を手がけ、『女学雑誌』の特別記者でもあった。

 当時、文学に関心をもち、創作を試みる女性は、非常に限られた階級に属していたと言える。学問を身につけるための財力があり、知力があり、富裕な生活を営むことのできる地位にいた人々であった。また、彼女たちは西洋文化の影響の下に書くことを始めた。そういう人々の中に混じって、否応なしに自分の境遇を認識させられることは、負けん気な一葉にとってどんな思いを味わうことであったか。


 一葉が、はっきりと小説を書いて立っていこうと思ったのは、歌塾「萩の舎」の姉弟子であった田辺竜子(三宅花圃)の影響であった。花圃は処女作「藪の鶯」で認められ、原稿料三十三円二十銭(当時、月二十円で生活できた)を得た。そのことは一葉にとって魅力的なことであった。

 長兄の死により一葉は、十六歳で相続戸主となった。それとともに、これより借家生活となり、転居も度重なっていく。翌一八八九年、父則義の事業の失敗、発病、そして七月二十日に死去という一連の不幸に見舞われる中で、一葉は、「歌」ではなく「小説」を書くことに向かう。

 花圃の推薦により、一八九二年十一月(一葉、二十歳)『都の花』に「うもれ木」を発表することに成功する。この雑誌は日本初の商業文芸雑誌で明治二十年代の文芸誌の中心的存在だった。次作「暁月夜」の原稿料で、ようやく一葉は年を越す。


 お力が、自分を「気違い」と言う中には、親子三代の血のことは勿論、妻子があり甲斐性無しの源七を、見限りながらも心底捨てきれない「持病」のような気持ちがあることである。「逆上症」であり、「私はどんな疲れた時でも床へ這入ると目が冴へて夫れは夫れは色々な事を思ひます」という神経質な面は、座敷での奔放な振る舞いの下に隠している。

 源七の女房のお初は、何事もなければ良い妻であり母であるが、一向に夢から覚めない夫を執拗に責める。又、子どもの太吉の前でも、お力を「白鬼」呼ばわりし、父親と女の関係を憚ることなく言い募り聞かせている。

 しかし、子どものことである。ある日、太吉は「鬼」に買ってもらったカステラを持ち帰る。お初は激怒し、袋ごと裏の空き地に捨ててしまう。すべては弾き散る。源七はお初に離縁を突きつける。お初は太吉を連れて家を出る。(七段の鬼気迫る描写である。)

 源七の家庭を描く筆は、手酷い現実の真実を突きつけている。とすれば、お力とお力のいる場所は、お力自身の抱えている儘ならぬ現実があるにしても、あやかしの空間として描いている。源七はそのあやかしに魅入られたために迷い続け、真実を捨てることができないためにお力は、「持病」として引きずり続ける。


 結城朝之助は、実体のある、申し分のない男としてお力の前に現れるのであるが、お力の隠れて見えない姿を引き出すために、その聞き役として登場し、結局のところ、お力をお力のままに置き、別の場所に引き上げることなく終わる。お力がようやく色々な事を明かした後、お力に無理強いされ菊の井に泊まることになるのだが、その夜は、次のように表される。

 

   雨戸を鎖す音一しきり賑わしく、後には透きもる燈火のかげも消えて、唯軒下を行かよふ夜行の巡査の靴音のみ高かりき。


 何と森閑とした夜だろう。

 この静けさは、ほろびにつながっている。静けさの中で、お力にはより一層深い諦めの念が訪れたのではないか。とは言え、一時なりともお力には静謐に満たされた時間が流れただろう。一方、源七は無明の刻に打たれ続けていただろう。


 一葉の文に省筆ということがある。描き過ぎない節度でもって、書かれた以上のことを想像させ、余韻を持たせる。全体がそうなのであるが、最終段八は、その典型的な箇所である。

  

  恨は長し人魂か何か知らず筋を引く光り物のお寺の山といふ小高き処より、折ふし飛べるを見し者ありと伝えぬ。


 樋口一葉の短い人生は、過渡期の混沌の煽りを真っ向から受け止めたものだった。新旧入り混じった世の中に在って、貧窮に喘ぎながらも大勢に惑わされることなく、自分の位置を見極めようとしていた。

 生きるためには、内職をし、商いをし、天啓顕真術師久佐賀義孝なる正体不明の人物と丁々発止渡りあうようなこともしている。乙女と老成を併せ持ち、世の中を渡っていた。名声を得てもそれに溺れることはなかった。

  

   不定の世なれば、目もたのまじ、耳もたのまん。位やんごとなきをも、何かはおそれん。はにふの小屋なるをも、何かおとしめん。名は実にあらず。実は名にあらず。せんずるに、あなどるまじきは世の中也。                                                           (「しのぶぐさ」)


 一葉の芯は実にこの姿勢で貫かれていた。

 言文一致が言われていた時代に、一葉は雅俗折衷体の擬古文で書き綴った。新旧両面を併せ持った一葉自身からほとびでるものを表すには、この文体でなければならなかった。

 

 「にごりえ」というタイトルは、当初の草稿では「ものぐるひ」「親ゆずり」という仮題が付けられていたという(山梨県立文学館所蔵の未定稿による)。「ものぐるひ」とすれば、お力と源七の間に生まれた男女の感情に比重が置かれることとなり、お力の内面に備わった不可侵の魅力が削がれることになったであろう。「親ゆずり」の場合は、単に血脈であるからという安易な説明に流れることになってしまうだろう。


   濁江のすまんことこそ難からめ

         いかでほのかに影を見せまし

                                  新古巻十一恋歌一1053

 なお『伊勢集』では、傍線(筆者)部分が、「影をだに見む」となっている。


 においたつような女、お力を中心に据えて、現実は変えようもない現実ながら、あわあわとした思いが底にあり、ひとすじ澄んだものへの希求が流れている物語は、凄惨な最期を迎える結末であっても、「にごりえ」と名付けられて、長く、聴くように読まれ続けていくだろう。




参考文献》


   樋口一葉『にごりえ・たけくらべ』 岩波書店 二〇〇三年

   樋口一葉『樋口一葉作品集』 昭和出版社 昭和五三年

   樋口一葉『現代日本文学全集4』 筑摩書房 昭和三一年

       『新古今和歌集 二』小学館 昭和58年

      *

   石山徹郎・榊原美文『評釋傳記 樋口一葉』 日本評論 昭和二一年

   西川祐子『私語り 樋口一葉』 岩波書店 二〇一一年

   和田芳恵『一葉の日記』 福武書店 一九八三年

   樋口一葉研究会編『論集樋口一葉V』 おうふう 平成一四年

   平田由美『女性表現の明治史』樋口一葉以前― 岩波書店 一九九九年

   渡辺澄子『日本近代女性文学論―闇を拓く』 世界思想社 一九九八年

   西尾能仁『一葉・明治の新しい女―思想と文学―』 有斐閣出版サービス 昭和五八年

   島木英『樋口一葉』 日本図書センター 一九九三年

      *

   『国文学』(樋口一葉) 学燈社 二〇〇四年



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