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国木田独歩(間島康子) 31号<特集 明治の文学>




国木田独歩


 

  ―人間独歩・もうひとりの明治人―



                                        間島康子

        (「群系」31号所収)




 「夢想。離婚。絶望。怠惰。借金。」

 明治二十九年のこれが国木田独歩の一年だった。年の初めに己に約した事を、何一つとして成就できなかったと悔いている。その年の師走三十日の夜半に、書いている(「欺かざるの記」)。独歩は二十六歳だった。


 「国木田独歩」という名に対するイメージがある。国木田独歩と言えば「武蔵野」が浮かぶ。

 さて、少しずつでも独歩を繙いてゆくと、固定観念通りのものが現れる、やがて、未知の部分が顔を出す。それは、一人の人間が決して単一の要素で成り立っているのではない、という当然と言えば当然のことであるかもしれない。が、意外な面を知り、それに多少なりとも触れてなお、根底に流れるもの、通底するものは、独歩という名を裏切るものではない。

 独歩はただ自然に「詩趣」を感じて歩いていただけではない。


・民友社後援の青年協會会員となる。

・キリスト教に傾倒しクリスチャンとして洗礼を受ける。

・松下村塾を模し、田布施(山口県)の小学校分教場に波野英學塾を開き、放課後近隣の子弟に英語、数学、作文を教えた。

・青年文學會に関係。

・自由党機関紙『自由』へ入社。

・大分県佐伯の鶴屋學館教師となり英語、数学を担当。

・民友社に入り徳富蘇峰の『國民新聞』の記者となる。

・日清戦争の時、従軍記者として軍艦千代田に乗艦し、その際従軍戦記「愛弟通信」を『國民新聞』に三十二回にわたって連載する。

・「高潔、多感、眞摯、無邪氣にして且つ同情に富み、學と文を兼て、戀愛の幽邃、哀深、悲壯、にして春月の如き消息を解する女性」として佐々城信子に恋し、熱烈な謂わば怒涛疾駆の勢いで恋から結婚、そして離婚を体験する。

・北海道空知川沿岸の土地を購入し、信子と移住する計画を立てるも叶わず。   

・渡米を図るが実現せずに終わる。

・榎本治子と再婚。

・報知新聞社入社。

・星亨の機関紙『民聲新報』に編集長として入社。

・矢野龍溪に招かれ書肆敬業社入社。 国木田哲夫の編集で『東洋畫報』創刊。

・敬業社と絶縁し、発行所を近事畫報社と変更し、『東洋畫報』を『近事畫報』と改題。

・日露戦争開戦に当り、『近事畫報』と並行し臨時増刊号として『戰時畫報』を発刊。後、『近事畫報』は『戰時畫報』と改題されて発行。

・近事畫報社から『婦人畫報』創刊(これは現在も存続)

・近事畫報社経営難で解散。獨歩社を興す。(『新古文林』『近事畫報』『婦人畫報』等を引き継ぐ。

・獨歩社破産。

・大久保在住の文士の懇親会大久保会を組織し、第一回会合を自宅に開く。



 右に挙げた事柄は、明治四年(一八七一)に生まれ、明治四十一年(一九〇八)に三十八歳で没した独歩の十八歳からの履歴である。彼の文学活動については敢えて外して並べてみた。

 ここから分かってくることは、独歩のかなり多角的な面である。

それらの歩みの中で関わりをもった人物も多岐に亘っている。

今井忠治、大久保余所五郎、中桐確太郎、田村三治、金子馬治、水谷真熊(以上学友など)、牧師植村正久、徳富蘇峰、宮崎湖處子、田口卯吉、矢野龍渓、新渡戸稲造、高岡熊雄、白仁武、内村鑑三、田山花袋、松岡(柳田)國男、太田玉茗、西園寺公望、徳富蘆花、幸徳秋水、星亨、与謝野鉄幹・晶子、高山樗牛、島村抱月、大町桂月、戸川殘花、水野葉舟、二葉亭四迷、島崎藤村、徳田秋聲、真山青果等々。


    *


「欺かざるの記」は長い長い日記であるが、それは自身の備忘録というよりも、思索し続けた独歩の精神史と言える。明治二十六年二月四日より始まり明治三十年五月十八日で終わっている(独歩の二十三歳から二十七歳に当たる)。

 生涯にわたって記されたものではなく、読んで長く感じるのは、興味を惹くような具体的な出来事がほとんど綴られていないことによる。第三者、読者からすれば山あり谷ありのドラマを読む方が面白いに決まっている。勿論、全くの平坦ではなく、動向や交友関係などは知れるのであるが、常に「吾とは何ぞや」、と問い続けているのがこの「記」である。

 そのような記述の中、後半になって佐々城信子(有島武郎『或る女』のモデルとなった)との恋愛、結婚、そして離婚の経緯が出てくる。この部分では、それ以前の独歩の堅固で理想に満ち満ちた姿が打ち砕かれ、女々しいほどに惑いぬく様子が記されている。むしろ読む者に好奇心と共に安堵を与えるようなものである。

この期間中には、日清戦争(1894‐95)があり、二十四歳の独歩は、国民新聞社従軍記者として軍艦千代田に乗艦し、『國民新聞』に「愛弟通信」を連載したり、『家庭雑誌』に「わが土曜日の夜」、「頭巾二つ」を発表したりしている。二十五歳、三月五日に呉に帰還している。



 国木田独歩。幼名龜吉、十九歳の時哲夫と改名。いつ独歩という筆名を使うようになったのかは正確には分からない。十九歳ころから雑誌に短い評論などを書いており、「國木田哲夫」、「鐡斧」、「てつぷ」などの署名が見られる。

 しかし、明治二十八年八月十六日に「此兩三日 新體詩を得ること四五、獨歩吟、沖の小嶋等なり」とあり、その名が生まれつつあることが分かる。「源叔父」が、明治三十年八月十日の『文藝倶欒部』に載った時には、「獨歩吟客」とある。「今の武蔵野」(後「武蔵野」と改題)が、『國民之友』に発表された時、明治三十一年一月十日からと思われる。 

 少年の頃から山野を歩くのが好きであり、自然に目を向け瞑想することが多かったこと、青年となり常に思索に耽っていたことからすると、その名はいかにも相応しく思われる。日記においても、「独り、独立自尊、独居、独座、独吟」等の言葉が随所に見られる。そのような言葉は、「茲に生存する吾」を中心に置き、神、宇宙、自然など「宇宙自然の美と眞と、人間至情の愛と誠との深味を靈に沁み渡る程に味ひたし」、と高邁な精神で日々を送ることを旨としていた独歩の特色がよく出たものである。「嗚呼只だ一歩、吾は只だ一歩の確実堅固ならんことを希ふ」という記述もある。


 独歩の駿河台袋町の下宿の書架には「エメルソン、バーンス、ゲーテ、論語、王陽明、莊子、英國史」が連ねてあった。さらに独歩の読書は、ワーズワースやユーゴー、シェイクスピア、カーライル、トルストイなどに及び、中でもワーズワースとカーライルに傾倒していたことが分かる。

明治二十八年五月二十七日には以下のように書かれている。


 先づカライルを打ちたる光と等しき光を受けてシンセリティの域に至らんことを務めん。次ぎにウォーヅウォースに由りて自然の美と人情との交通の眞理を學ばん。最後にクリストイエスの十字架に由りて~を父と呼び得るの大信仰に達せん。

 此れ已に吾が多少の經驗なり。更らに進んで此の道によらんことを欲す。


 彼は真摯に思索し続ける人間であったが、同時に日々進歩を望む人間だった。頭の中には常に「理想」を掲げていたが、机上の空論として終わらせていたとばかりは言えない。信子との関係が破綻し、多少なりともその煩悶から解き放たれた時点で、独歩は書いている。


 開拓社に入るべきか。このまゝ閑居して讀書すべきか。

 心みだれ動くのみ。

 世を退いて讀書修養のこと第一なれども、余が性は此の事に堪え難く、常に活動を好み、變動を愛す。


 事実、彼は行動している。

 先に年譜から拾い上げた数々の活動履歴からもそれは窺える。親しい友人たちと頻繁に往き来し、時には互いの所に泊まったりしている。談論風発、大いに話が弾み、気が付くと夜も更け暗闇を帰るに帰れない、というようなことがあったからかもしれない。当時の通信手段の手紙の往来も盛んであった。


 独歩は銚子で生まれている。父は國木田貞臣、通称専八、母は淡路まん。二人にはそれぞれ妻子、夫があった。独歩(幼名龜吉)は最初まんと夫雅治郎(あるいは權次郎)の長男として入籍。専八は妻と離婚。まんの夫死亡後まんと龜吉を國木田家に送籍。亀吉を庶子と改め、三男辯三郎を廃嫡して龜吉を嗣子とした。

出生時は複雑であったが、以後独歩の家族関係は落ち着いており、波乱らしい波乱はない。父専八は独歩が五歳の時、東京裁判所詰の司法省十四等出仕であった。その後山口、広島、岩国、萩、舟木などに転勤となる。独歩は十七歳で上京、下宿生活を始める。八歳違いの弟収二とは仲が良かったようで、よく共に行動していることが記されている。明治二十七年には、柳井で印刷業経営を企画しているが、その際も収二を動かしている。収二は独歩にとって伴走者のようであったろうか。独歩の後を追って歩いているようである。家族にとって独歩が、特別突出した存在、役割を担った者という風には見えない。互いに労わり合いつつ、程よい結びつきがあったように見受けられる。


 独歩は新制なって動き出した日本の国のその時代とともに歩み、「吾」を探しながら何事かを成さんとしていた心ある青年であった。知識階級にあった独歩は、このように家族や社会との関わりも持っていた。

 

 「欺かざるの記」には、自分の精神的基盤、核とする思想・理念を打ち立てることとともに、就くべき職業についての考察も繰り返し出てくる。独歩の経歴から察しられるように、自分の天職は―教師、政治家、新聞記者、そして詩人―の中にあると考えていた。中でも「詩人」たることが最もふさわしいと感じていたようである。

 二十二歳の日記に謂う。


  吾は断然文学を以て世に立たんことを決心せり。

しかし、青年の心は揺れる。従軍の任務を終え國民新聞社に復帰し、『國民之友』の編集担当していた頃、明治二十八年五月十二日には次のように書かれている。

  今は吾れ大に苦しみつゝあり。則ち吾れ政治家たる可きか。事際家足る可きか、豫言者たる可きか。是れなり。

  國家の多難なるは吾をして前者たらんしめとし。人生の觀察は吾をして後者たらしめんとす。

 

 これが書かれた翌月六月九日、独歩は佐々城本支・豊壽夫妻主催の従軍記者招待晩餐会に出席し、長女信子を知ることになる。その時信子は十七歳、独歩は二十五歳であった。八月十一日小金井に遠出し、二人は愛を確かめ合った。母豊壽の反対など紆余曲折を経たが、十一月十一日徳富蘇峰の尽力で結婚式を挙げる。逗子で新婚生活を送るが、それは裕福に育ってきた信子と理想主義者独歩との極貧生活であった。翌年三月二十八日に逗子を引き上げ、東京麹町の独歩の両親の許に同居。この転居は「全く父の病氣のためなり。」とある。四月十二日は安息日であったため教会に行く。不承不承の信子を促し、弟収二と三人で出かけたが、散会後信子は友人に会うと言って別れ、失踪してしまう。浦島病院にいる信子と面会するも、信子は戻ることを拒否、四月二十四日には離婚となる。

 独歩は信子と会って以後、生身の人間としての幸福感に酔う。やがて夢破れ、それまでとは別の苦悶に打ちひしがれるのであるが、この信子との事は独歩を詩人たる道に導いた確かな出来事と言ってよいのではないであろうか。


 寝ても覚めても信子の幻影から逃れることができずにいた独歩であったが、明治三十年一月二十日の日記には己を鼓舞するように次のような言葉が見られる。


 高き感情に住まんかな。

 自由なる思想に住まんかな。


 自然にほとぼりの冷めていくなかで、田山花袋や松岡(柳田)國男と交わりながら、己の進むべき道を固めてゆく。明治三十年四月には次のように書かれる。


  二十三日夜の九時。

  我身を詩人の一人と思い定めつ、或物書き成さんとして此の地に來りぬ。或物とは何ぞや。あゝ或物とは何ぞや。

  過ぎし幾歳の事件、眼閉づれば幻と浮びて鮮やかに現はれ來る。山や河や、言ふまでもなし。彼の人の事、此の人の事、三年昔の一夜の事、二年前の朝の事。あゝ何物か詩料ならざる。これを描きて詩と成し上げん術もがな。

  經歴以外の事を誰か書き得ん。現ならざりし事を誰か夢み得ん。  


 五月。独歩は日光にいる。田山花袋と一緒に照尊院にいる。

十三日。

 今日「源叔父」の清書を了はりぬ。半紙三十枚なり。


十八日。

 十四日より十五日にかけて湯本に遊びぬ。

 本日「源叔父」を太田氏まで送りぬ。

 菊地氏より來状ありたり。

 昨日父上より來状ありたり。

と結ばれて、「欺かざるの記」は終わる。

 

 冒頭に挙げた無残な一年を通過し、次第に平静を取り戻して「欺かざるの記」は閉じられる。 

長かった独歩の心の記録は、読み終わってみると意外な清々しさを残す。そこから独歩を離れる物語は始まってゆく。


    *


 信子との結婚にも表れているように、国木田独歩の真摯さは常に理想を掲げながら、その理想と自己の狭間で苦悩し続け、理想が妄想となるようでもあった。

 しかし、吾とは何ぞやと懸命に生の意味を探りながら、くどくどしく書き連ねてはいるものの、内面がそれほど複雑な人間ではなかった。むしろ、率直で一心不乱に進んで行く青年であったと思われる。夢想家で自信家でありながら、その底には詩心が通っており、一途さがあるために清爽な印象が残る。

「欺かざるの記」は全くの告白の記ではない、独歩の詩人作家としての変遷を読むことができる。少しずつ作家「国木田独歩」となっていくことを読み取ることができる。弟との散策や旅行、友人との交わり、あるいは折々の生活、風景の中に、やがて書かれる作品の「詩料」が散りばめられている。独歩は観て、拾っているのである。「詩料」は、生命を帯びて立ちあがりはじめる。


     *


 「源叔父」が書かれる。小説としての処女作だった。独歩が自身で解説しているように、岡山県佐伯で出会った渡船業を営む「源叔父」と「紀州」と呼ばれる十五、六歳の乞食に材を採った話である。別々に在った二人を結びつけて話を作っている。歩いて出遭い、琴線に触れた人物を独歩は書かずにはいられなかった。

文語調で書かれており、時代がかっているので、読みにくい点がある。しかし、実在した人物でありながら、まるで幽冥界にでもいるような不可思議な気を漂わせている。お伽噺のようにも読める。


 この「源叔父」に限らず、独歩の「詩料」となる人物たちには抑えた独特のトーンを持った人物が多い。勿論、独歩という濾し器を通り、さらに醗酵してできたものであろうから、全くそのままに実在したはずはない。きらびやかに際立った人物が出てくることはない。明らかに変人というのではなく、もしかしたら隣にもいるかもしれない人、その人の内部に隠れながら最もその人である部分が、妙な具合に動き始めるようだ。

「酒中日記」の中にこんな言葉がある。


  親とか子とか兄弟とか、朋友とか社會とか、人の周圍には人の心を動かすものが出來て居る。まぎらすものが者が出來て居る。(中略)

だから人情は人の食物だ。米や肉が人に必要物なる如く親子や男女や朋友の情は心の食物だ。これは比喩ではなく事實である。


 その、それほどひねて意識されてはいない独歩の手管、というのが適切でないなら独歩の術は、冠せられた題名に自分の先入観を以て読んでいくと、裏切られることになる。それは、意外性である。展開の仕方に独特なものがある。意表をつくのである。推理小説の中のトリックのような意外性とは違うものだが、騙されて不快ではない読後感を持たされる。「女難」や「正直者」、「号外」など、そのように思わされるものは多い。


 自然と人事の一体ということが、独歩の文学の芯となっていたもので、それを周りが「自然主義文学」と括ることは独歩にとってそれほど重要なことではなかった。むしろ主義を否定していた。


 「牛肉と馬鈴薯」は当時の社会を敏感に感じる目覚めた青年たち七人が、理想と現実を牛肉と馬鈴薯に例えながら小気味よいテンポで茶々を入れながら語り合う話である。岡本という人物が独歩である。多少おどけた皮肉の籠った調子の、ほぼ会話だけで成り立っている小説である。社会や女性に対する見方など話は佳境に入る。岡本は自分の願い、本音を吐露する。それは、「習慣の眼が作るまぼろし」から逃れて、宇宙の秘儀に驚異したいということである。「吾とは何ぞや」。この問いをただ口から出すのではなく、心から発したい、驚く人でありたいと岡本は言いながらも「やはり道楽でさアハッハッヽヽッ」、と苦痛を隠して笑って終わる。独歩が愛読したカーライルやワーズワースから体得した思想や哲学が岡本を通して語られている。


 独歩の小説は短いものがほとんどだが、それぞれから独歩が持つ多面性をみることができる。

けれども、やはり独歩を独歩足らしめているものとしては「武蔵野」を挙げたい。


 「武蔵野」は、信子との悲恋の産物であると言えるが、そこに信子が具体的な姿で出てくることはない。その存在、そのことは?にも出さず、悠揚迫らぬ態度で筆を運んでいる。一篇の大きな詩として読むことができる。

その詩の中で武蔵野を、古来よりの日本の美とは違うものとして表している。二葉亭四迷訳ツルゲーネフの「あひびき」に影響感化されたことは、文中に二か所も堂々と落葉林の情景部分を引用して述べている。

確かに万葉の時代から謳われた武蔵野は、風になよやかにそよぐ草原の美である。更に日本画に見える木と言っては、枝ぶりのよい松の緑の美である。

 若し武藏野の林が楢の類でなく、松か何かであつたら極めて平凡な變化に乏しい色彩一様なものとなつて左まで珍重するにたりない・・

「あひびき」の微妙な叙景の筆の力によって、落葉樹の林の美に気付かされたと独歩は言う。明治になって翻訳によってもたらされた西洋が、独歩にとっては武蔵野の林の美であった。明治においてこれは全く独特の詩的感性による体得と言えるのではないだろうか。


 「武藏野の俤は今纔に入間郡に殘れり」

 文政年間に出来た地図で見た事がある、と国木田独歩は「武蔵野」を始める。

 

 武蔵野という地名、そしてその字面、響きは独歩の時代からさらに百十五年を経た現在においても、何か特別な思いを抱かせる。草原の美は時代とともに変わり、明治時代には林となっていた地に、独歩は新たな美を見出した。それが今の私たちの武蔵野のイメージとなっていると言っても間違いではないだろう。

 独歩は武蔵野に美を感じた。


 美といはんより寧ろ詩趣といひたい、其方が適切と思はれる。

美ではあろうが、独歩はさらに「詩趣」、とより厳密な言葉を選んで表している。

武蔵野は林だ、と独歩は言う。それは北海道の林野とは異なる、ささやくような時雨の趣きのある林であると言う。林だけではない、林は野につながる林であり、野は畑であり、それらの間に散在する農家はそれらをさらに分割している。

 

 即ち野やら林やら、たゞ亂雜に入組んで居て、忽ち林に入るかと思へば、忽ち野に出るといふ様な風である。

自然と生活がかけ離れずにある点が、武蔵野の趣きを特異なものにしているのだ。


 武蔵野の自然の魅力を語った後で、独歩は三年前の夏の事を語る。或友と小金井の堤を散歩した時のことである。朋友は今は判官となって地方にいるとしているが、散歩した場所は正に信子と歩いた場所なのである。信子とのことはおくびにも出さずと先に書いたが、決して忘れてはいない。時を経て感情を昇華した上で書いている。その時のたのしかったことを、幸せを。過去の時に押し戻され流されはしないが、この場面には傷の深さにつり合う喜びの濃さが反映されていて、夏の光りがきらきら満ち溢れている。

 

 独歩は武蔵野の地理的範囲を説明する。それは独歩が認める武蔵野である。美というよりも詩趣を感じる武蔵野である。

 単なる季節の移ろいとともに変化する自然の美を愛でているだけではない。武蔵野をあらゆる角度から見ていて、土地の実体というものが表わされている。それは迫力となっている。独歩と言う人間の佳きものが無理なく出ていて、その本領が発揮されている。


    *


 それまでの閉じられた日本へ様々なものが流れ込み、それに敏感に反応してゆく青年の一人であった独歩。西洋の思想、哲学、宗教。それらの中から吾を問い続けた青年。その真摯さは時に夢想家でありすぎたり、自信家、野心家の面を現したりもしているが、人間の性に苦悩しながら、自分をも含めた人間観察、自然観察に鋭い目を向け続けていた。

 例えば漱石の描く人間は、読者にその人間像を結ばせ、読後にそこからさらに先の世界に連れて行くように示唆するところがあるが、独歩の描く人間は、熟した個性を描ききる点にある。それを散文と韻文との違いと言ってしまうのは乱暴すぎるかもしれない。資質の違いであろうし、独歩の限界であるのかもしれない。

しかし、国木田独歩という名を確かに文学史上に残しながら、意外に地味な感じに留まっているのは惜しい気がする。

 「武蔵野」を残した国木田独歩という人間には、血の通った視線が備わっていた。


    *


 以上のように国木田独歩を探ってきたが、今ひとり少しだけ記しておきたい人物がいる。それは樋口一葉のことである。当時一葉と独歩に何らかの接点を見出すことはできない。

 しかしながら、彼らは正に同時代を生きていたのである。独歩が明治四年七月の生まれ、一葉は翌年三月、およそ半年後に生まれている。生い立ちも違い、環境も異なる二人ではあったが、互いに文学への志を強く持っていた点では似ている。一葉は女ながらに一家を背負い、貧苦に喘ぎながらも、遂には「たけくらべ」「にごりえ」などの名作を遺した。そして明治二十九年、二十五歳の若さでこの世を去った。

 その頃独歩は信子を失い、絶望のどん底にいた。その不運はしかし、独歩の文学に反映されることになる。

 運命といえばそれまでである。世の常であることも、それはそうである。独歩とて、三十八歳の生涯だった。

 明治の新しい風が吹いていた。その風をどのように受けていたのか。二人にはどう吹く風であったのか。それぞれが残した文章の中にそれを読むことができる。

真面目な魂に「詩の心」は宿っていた。瞬く間に現れ、去って逝った一葉にはこれが宿っていた。形は違うが、独歩にもこれが宿っていた。


 遠くなっていく時代から差し込む光の中に、人の形の影が立っているのが見える。





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