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 土屋慶 平野啓一郎『一月物語』 



 平野啓一郎『一月物語』 


          ー女というフィギュールー


                          土屋 慶(「群系」30号収載)
 
                        


 美はうつろいやすい。それは淡く霞む様だ。だが彼岸に幻想を見なくては、私たちは生きて行くことができない。ロマンチシズムとはそういうものだろう。夢見る頃を過ぎても、とはよく言うが、欲望を譲歩することは生きる意欲を萎えさせる。たとえ、それが幻想であったとしても。せいぜいAKBに夢を見たまえ。現実を知れ、というのではない。欲望が持続するには適度な距離が必要であるということだ。もしもそれが、実現し難いものならば、なおさら君たちの欲望は燃え上がるだろう。恋愛とは不可能なものだ。そして不可能であるがゆえに可能である。ロラン・バルトは言う。「エロティシズムとは衣服の裂け目から見える白い肌である」と。

 欲望が挫折する瞬間、君たちは幻滅するだろう。欲望から醒めたとき、君たちは現実と立ち会うだろう。だが、どんなに挫折したとしても、君たちは欲望することをやめない。たとえそうなったとしても、ふたたび夢を見始めるだろう。

 日本の近代文学において女性のフィギュールを幻想として描いた作家は大勢いる。泉鏡花、谷崎潤一郎、川端康成等、思い浮かべるだけでも数限りない。そしてそれが、幻想として描かれる以上、「女」という形象に対して適度な距離がある。触知されるか、否かの瀬戸際で彼女たちはいつも彼岸にいる。「マザコン男が文学している」とはよく言ったものだ。ジュリア・クリスティバ的にいうと小説の出生地は女である。彼らの描く女は一様に「母性的なるもの」の変形である。

 たとえば、宮崎駿にしてもマザコン=ロリコンである。だが、勘違いしてはならない。君たちが愛しているのは「あなた」ではない。君たちが愛しているのは君自身の欲望である。たとえば、ストーカーの心理機制はそこにある。他者の心の動きなどには目もくれず、自分自身の欲望=無意識を他者に投影して、彼女達を追っかけまわす。それは、他者そのものではなく、君たちの無意識にある「母性的なるもの」を外界に投影したイマージュである。したがって婚姻は不可能だ。自分自身の欲望とどう婚姻するというのか。

 たとえば、平野啓一郎の『一月物語』はこうした恋愛の不可能性を如実に語っているように見える。それは、あたかも泉鏡花の作品のように、幻想と現のあわいを描いた作品であり、無意識=闇への、いわば冥界下降譚である。文字通り主人公の「井原真柝」は己自身の内部の闇へと降りていく。「真柝」が分け入る「森」は異界であり、日常の時間秩序や空間認識に従わない場所であり、そこはあたかも夢の領分のように時間や空間が歪む世界である。そこはエロスが渦巻く場所である一方で「死」が住まう場所でもある。そして「真柝」が「何故かしら懐かしい」と思うのは、この作品における「真柝」の訪れる場所が、自身がそこから生まれた「故郷」であり、決して到達することのできないものだからである。

 ヒロインの「高子」は、作者である平野自身の内部にある「母性的なるもの」=「女性的なるもの」そのものである。彼女は蛇を孕んだと言って聞かない気の狂った母親の「滝子」の娘であり、「不吉な力」を携えた絶世の美女である。だが、「真柝」にとっては、美と死、エロスとタナトスの化身である「高子」と対面することは、自分自身を「高子」に殺めさせることを意味してしまう。

 「高子」との距離は「高子」の父親である「円祐」という僧侶の「沈黙」ひとつで分け隔てられている。彼女との逢瀬は成就することがない。なぜなら「真柝」が愛しているのは自分自身の欲望であり、自分自身のある意味では分身だからである。

 自身の破滅と引き換えることになるにもかかわらず、「高子」との対面を狂おしいまでに求める「真柝」は、自分の全人生をかけて、「高子」との逢瀬を実現させようと必死にあがくのであり、「小屋」の戸口を一枚隔てたところまで近接するが、望みはかなわず結局は息絶えてしまう。 

 それは、始めから不可能なのである。あるいはこう言い換えてもよい。「真柝」が「高子」に恋焦がれるのは、その距離ゆえであり、その距離自体が、「高子」との愛を可能にしているのだと。先に私はストーカーの心理機制について述べたが、「真柝」が自覚するのは「俺はあの女を愛している。この上なく愛している。世界には、愛したいと云う情熱しかない。愛されたいと云う願いは、断じて情熱ではない筈だ」ということである。

 (『一月物語』は処女作である『日蝕』と同様、確信犯的に近代文学を反復した作品だが、いかに知的に、観念的に操作された作品にしても、ここまで深い理解とともに反復されると、それは見事というしかない。だが、翻って男が母の形象を思慕するということを原型にした作品が多くの近代小説に形を変え、品を変えて変奏されるのは、この国の、ある意味では未成熟性を意味しているといってもよいのではないか。現実原則を無視して快楽原則が露呈化するというのは、前提として父権制の機能失調がある。明治期以降、西欧から移入された近代社会の人間関係の原理、あるいは大文字のロゴスが定着しきっていないことの現れだろう。)




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