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草原克芳 『砂の女』と『箱男』 

  


 『砂の女』と『箱男』 ―二人の失踪報告書―



                          草原克芳(「群系」29号収載)




■ 「物語作家」「随筆作家」を否定する新たな文学の構築


 先日、スウェーデンのノーベル賞委員会の委員長ペール・ベストベリーなる人物が、「安部公房が急死しなければ、ノーベル文学賞を受けていたでしょう。非常に近かった」(二〇一二年三月二一日読売新聞)と述べたとの取材記事が出ていた。

 さらに「三島由紀夫は、安部ほど高い位置まで近づいていなかった。井上靖は、真剣に検討された」という。一方で、安部公房自身は、候補として並べられる井上靖、井伏鱒二を、それぞれ「物語作家」「随筆作家」とこきおろしていたという。つまり、安部は自らの小説作品を、「物語」「随筆」と区別していたことになる。日本人でも満州辺りで育つと、物言いがハッキリしてくるらしい。


 とうとつに、ノーベル賞選考の逸話を持ち出したのは、文学の評価基準や、文学とは何なのかが見えにくくなっているのが、近年の世界的な風潮らしいと思ったからである。

「芸術至上主義・古典主義作家」三島由紀夫と、「前衛作家」安部公房、さらに井上靖、井伏鱒二、少し時代を経て村上春樹が、この賞の候補者である。川端康成、大江健三郎は受賞者だが、それ以前にも谷崎潤一郎が候補に名を連ねていた。政治が介在しないとは言えなくもない著名な賞と、文学の価値評価の問題を一緒にすることは危険かも知れない。

しかし、まんざら無関係ともいえないだろう。少なくとも文学的価値基準の集合的無意識の顕れ、ぐらいの意味はあるはずだ。

 一体、文学の価値評価とは何を尺度とするものなのか。

このぼんやりと視界の定まらない霧の風景の中に、安部公房の作品について、恐る恐る観測気球を上げてみることにする。

 ――『砂の女』は面白い。『箱男』はつまらない。

 まずはこう、断定してみたい。

 「面白い」「つまらない」というのは、極めて荒っぽい断定法だが、一読者としての私の実感である。それは、読者=評者から個的に発せられる「読み」のリアリティ創出の試みでもある。この小文ではこの軸を一巡りすることにする。それによって、「文学の魅力、面白さとは何か」という、あやふやで、素朴で、無謀な問いを探ってみたい。


■ 現代の神話と肉化された思想――『砂の女』


 『砂の女』(一九六二年)は、高校教員の主人公・仁木順平が、ハンミョウの昆虫採集の途中に砂丘の村に迷い込み、砂穴の底に住む女との生活を始める話である。仁木は、「砂」のように味気ない灰色の日常から逃れ、辺鄙な村落に辿り着いた。そこでこの人物は、もうひとつの「砂」、物理的な「砂」の迷宮に迷い込む。

 この村は、砂の密売を業としており、主人公は「砂掻き」作業を手伝わされるハメになる。賽の河原、蟻地獄、シジフォスの神話、不条理の哲学、タンタロス――読者は、足元で微妙に変形する「砂」から、さまざまなメタファーや寓話を読み取る誘惑を、押さえきれない。

「砂の側に立てば、形のあるものは、すべて虚しい。確実なのは、ただ、いっさいの形を否定する砂の流動だけである」

 この作品で最も魅惑的なのは人間心理や人物造型以上に、むしろそれらを打ち消す否定力としての「砂」の存在感である。啄木に言わせれば「握れば指の間より落つ」ところの、何の変哲もない日本的情感の染みついた砂である。しかし、この砂の一粒一粒、流砂の描く波紋と、「疎外」「自由への渇望」「逆説的な愛」「定住と失踪」のモチーフが、見事に交感している。  

 仁木順平は、得体の知れぬ砂の包囲に対して、損得勘定や契約概念といった「社会」を持ち込んで、いちいち、あらがう。この高校教師の心が、法律や常識、世間体、貸借対照表に支配されていることが強調される。しかし、不定形に風紋を描き、流動的で無機的な「砂」が、この教師のちっぽけなアイデンティティーを、なし崩しに包囲する。ここでは社会や組織という枠に支配された男性の滑稽さが、客体化されるのだ。

 灰色の「苫屋」のような小屋に現れる女の砂まみれの裸体が、奇妙に生々しい。いきなり登場する全裸の女のエロティシズムは、それまで過剰なまでに描写されてきた「砂」によって縁取られることで、めざましいものとなる。この寡黙で無表情だが生活力のある女は、東洋的、アジア的な女の偶像のようにも思え、後半部には奇妙な存在感を増してくる。


 奇怪なハニートラップによって、「砂掻き」を強制された男が相手にしているのは、砂の形をとった「不条理」「無限」「宇宙」であり、ここに描かれるドラマは、合理的価値観の根拠を崩される体験――現代の「地獄めぐり」であろう。

 男は《希望》と名付けられた鴉捕りの罠により、砂まみれの日常からの新たなる脱出を試みるが、それもかなわない。果たして世界全体が、ロート状の蟻地獄なのか。『砂の女』からは、カフカや、カミュの作品のみならず、旧約の『ヨブ記』や、ギリシャ悲劇、日本の作品では『山椒魚』、『抱擁家族』の皮肉な滑稽さをも、重ね合わせることもできるだろう。


 安部公房は、受賞を競りあう井上靖、井伏鱒二を、「物語作家」「随筆作家」と否定した。安部の「小説・文学」と、「物語」「随筆」の違いは何か。

 『砂の女』からはさまざまな寓話、比喩を想起させつつ、ひとつの意味性に収束しないという、いい意味でのもどかしさが疼く。しかし、この創造的な多義性こそが『砂の女』の魅力なのであり、ここに文学の魅惑、知的悦楽というものを再確認することができる。

 作家は、無意識に味わってきた生の経験を、言語による〈世界模型〉の中に流し込む。その〈世界模型〉を通して、自己存在の深部へと錨を垂らす。そこに静謐な叡智が感じられる。

ことにラストにおいて登場する《希望》と名付けられた鴉捕りの罠が、「砂の毛管現象」により、偶然にも「水」を生み出す逸話は、素晴らしい。砂丘全体がポンプになりうる「貯水装置」の発明により、「砂」から「水」が生み出される逸話からは、現代文学には珍しい宗教的性・神話性すら感じられる。


 「彼は、砂の中から、水といっしょに、もう一人の自分をひろい出してきたのかも知れなかった」

 

 この一節は、安部の他の作品ですら見当たらないような金言だ。自己破壊からの自己救済。この言葉と、小説空間を埋めている何百tもの砂の重量が、均衡している。読者は、〈砂のニヒリズム〉が、〈水の生命力〉へと浄化・還元させる精神の錬金術を目撃するのだ。

 ラストで主人公は、自分の発明した留水装置への想いを共有したいばかりに、砂の村に留まることにする。砂のメールストロームの渦底で展開される自由の弁証法の結末だ。

 こうした作品を読まされると、文学とは何と深く魅惑的なものかと、いまさらながらに思うのである。

 「小説の価値評価などいまどきナンセンス、何が文学で何がそうではないかなど、どうでもいいこと。それぞれの好みで読めばいい」というような利いた風なセリフが、空々しく聞こえてくる。


■ 『箱男』――知的饒舌の詰まったダンボール


 『箱男』(一九七三年)は、いちいち粗筋を再確認する必要はないほど著名な作品だ。一人の男が匿名となり、ダンボール生活を始める物語である。

 導入部は素晴らしく斬新である。この作品が発表された当時の読書界は、これぞ現代文学、カフカを継承しつつ、それを乗り越えんとする国際作家の傑作登場か、といったときめきを覚えたはずである。

 イントロでは「上野の浮浪者一掃 けさ取り締まり百八十人逮捕」などという新聞記事のパロディが、効果的に使われている。ところが、三分の一以上読み進むと、読者は首をひねり出すのである。

 この「ぼく」一人称の物語は、堂々めぐりを繰り返すばかりで、主題も状況も、いっこうに進展しない。才気や機知といったものは、導入部のツカミでしか機能してくれはしないのだ。作家の創造のリビドーが小説の根幹を貫いているような充実した感銘は、ここにはない。

 小説ではやがて、「箱男」に加え、「偽箱男」や、「看護婦」などが登場し、道具立てだけがにぎやかに増えてゆく。しかし小説空間を埋めているのは、イメージや厚みのある描写ではなく、概念的な知的饒舌である。「見る者・見られる者」「匿名性」「存在証明」「帰属意識」うんぬん、かんぬん……。

 箱の内側の落書きや、記述ノートにより、独我論と外界、他者性の問題にまで、踏み込みかけている。なるほど、現代文学のアイディアとしてはOKだ。

 しかしそれらの思想が、小説として肉化されているとは言い難い。唖然とするのは、安部公房文学論で語られそうな言葉が、なんと「箱男」本人によって、先回りして早口に語られていることである。

 少なくとも『砂の女』では、このような事態は起こらなかった。主人公・仁木順平の饒舌は、不条理な砂丘の空間の中で、彼の小市民的インテリとしての輪郭を、明確に際立たせる効果があった。圧倒的な「砂」の前に、表層的な理性など無力だという暗示があった。ところが『箱男』の「ぼく」は、小説の主題をバスガイドのようにアナウンスしてくれるのである。評者へのエサなのか、過剰サービスなのか、さもなければ作者自身の方法論的不安のように見えてくる。いったい、いつから安部公房の主人公は、安部文学の解説者に成り下がったのだろうと、読者はいぶかるのである。


 というわけで期待してページを開いた『箱男』を、半分、いや、三分の一も読み進めると、このダンボール箱は、すでに無残にも解体しかかっているのではないかという疑惑を、打ち消すことができなくなる。


「箱から出るかわりに世界を箱の中に閉じこめてやる」

「じっさい箱というやつは、見掛けはまったく単純なただの直方体に過ぎないが、いったん内側から眺めると、百の智恵をつなぎあわせたような迷路なのだ」


 こんな説明も、無力な弁護士による最終弁論のように聞こえてしまう。

 しかし重要なのは、ひとつの主題を象徴的に深化させる強さであろう。

 

「箱はぼくにとって、やっとたどりついた袋小路どころか、別の世界への出口のような気さえする」

 

 まさにこの一点、『砂の女』の作家の創造力をもってすれば、この一点を熟考し、掘り下げ、練りに練りあげて、哲学的深みを持った現代の神話を作り上げることが可能だったのではないだろうか。

 しかし、残念なことに、『箱男』は、いわゆる「アタマで書かれただけの小説」の悪いところが、すべて集約したサンプルのようだ。私はこの手垢まみれの用語は、好きではないし、日本には「カラダで書かれただけの小説」「皮膚感覚で書かれただけの小説」が多すぎるとも思う。この言い回しは、己の創造力の乏しさを棚に上げ、ごまかすような隠れ蓑になりかねない。にもかかわらず『箱男』に関しては、残念ながらその類の評を肯定せざるをえないのである。

 長年リアリズムで鍛えあげてきたどこかの同人誌の私小説作家が、安部公房をはじめて読んで、それがたまたま『箱男』であったとしたら、そこには起こりうる限りの最悪の事態が予想されるだろう……。

 

 『箱男』の最後のページを閉じた後、安部作品に好意的な読者ですらつぶやくはずだ。ひょっとしてこの作家は、『砂の女』の穴の底で掘り当てた、あの輝かしい〈創造の源泉〉を、どこかで見失ってしまったのではないか。安部公房は作家として、かつて秘めていた暗い内圧力を失ったのではないか、と。

 ある意味では『箱男』は、予言的な作品ですらある。平成の現在、東京都内の至るところの公園や駅に、ダンボールに棲む「箱男」は存在するし、社会現象的な意味でこの作品の風景は、都市生活の荒廃を予告している。しかし、「箱」の空虚な設計図的解説からは、とってつけたような印象はぬぐいえず、『砂の女』の獲得した深い神話性・象徴性を示してはいない。読者は、『砂の女』の随所で感じた息苦しい不安や、ミステリアスな胸騒ぎを、『箱男』に感じない。換言すれば「文学」を感じない。これは、作家が主人公の「箱男」を知的主体として描いてはいるが、感情的・意志的主体としては扱いきれていないことと、あながち無縁ではないだろう。


 『箱男』は、安部公房的な作品を書こうとして失敗したエピゴーネン作家の作品のように見えてしまう。あるいは、いずれ書かれるべき安部公房の傑作の設計図が、未消化の概念のまま、投げ出されている印象を受ける。そこには「存在の深部へと錨を垂らす静かな叡智」が感じとれない。上下の垂直軸に向かう形而上学的ミステリーの面白さがない。

 都市の殺伐さが、心象風景の「詩」として料理されていれば、そこに「文学」が現出するだろうが、この作品はそうはなっていない。「箱」はもはや「砂」のように謳いあげられ、象徴化されることはない。しかしこれは奇妙なことだ。

 かつて自ら、「仁木順平」に化身して、さらさらと崩れる砂の斜面に滑り落ちていった安部公房は、この作品では、「箱」の中に潜り込んでいないのである。腕組みをした不機嫌な演出家のように、「箱」の側面に立ちつくし、早口でぼそぼそと何かを説明しているのである。その結果、文字通り「アタマで作った小説」になり果てた。

 好意的な読者は、『箱男』後半部の荒唐無稽は、たとえばアンチロマン風の知的仕掛けに満ちた文学的冒険ではないかと思いたがるだろう。しかし正直なところ「ドタバタ喜劇的な荒唐無稽」の印象が強いのである。


■ 地獄めぐり・胎内めぐり・鏡の間


 『砂の女』と『箱男』――いったい何がどう違うのだろう。作者に何が起こってしまったのか。ことによると『砂の女』という作品のみが、例外的な奇蹟・恩寵の類だったのだろうか。

 しかしこの作家は、ゆっくりと〈創造の源泉〉から外れていったのではないようだ。この事態はどうやら『砂の女』で国際的名声を確立したわずか二年後の『他人の顔』(一九六四年)から起こっているように思われる。

 

 『他人の顔』

 ――「顔を失った男の自己証明」――

 

 なるほど、現代文学らしい斬新な設定とはいえる。しかし小説としての中盤からの失速、奥行きのなさ、空転する知的饒舌など、『箱男』のゆゆしき症例が、すでに前兆として現れているのに驚かされる。

 『他人の顔』の繃帯を顔に巻いた主人公の知的饒舌に忍耐強くつきあっていても、魚が針をくわえた瞬間のピンと張った「引き」は、なかなか訪れて来ない。読者は弛緩しかかった釣り糸を、紙面にだらしなく垂れたまま、溜息をもらすしかない。

 無論この作品にも、「顔」や「仮面」、「存在証明」や「社会の中の匿名性」、「自己存在の根拠」などという、いかにも安部的なキー・コンセプトは随所にちりばめられている。しかし、現代社会を考察する「考えるヒント」の叩き台になりえても、それは「文学」のもたらす知的悦楽や、情動やリビドーをも巻き込む、あの秘められた愉楽とは別のものであろう。


 換金作物としての目的がはっきりとしたエンターテインメント小説の与える面白さと、文学作品の面白さは、一線を画する。しかし、その味の違いの自覚が、意外に曖昧なのである。「文学」の魅惑とは、いってみれば〈知的秘めごと〉の魅惑である。

 それは、読むという行為が、そのまま自己の内部階段に降りてゆくことを意味し、それゆえに、きわめて個人的なものであり、ド・クインシーではないが、どこか阿片吸引者の悦楽めいた孤独なやましさがつきまとう。

 しかもこれは、一度味をしめたら、決して忘れられない中毒性の快楽である。(だからこそ、「純」文学の読者も作家も、絶滅寸前だといわれながらも、なかなか絶滅しないのである!)

この種の読書体験には、子宮や産道を経てゆく悩ましい肉感があり、一種の「地獄めぐり」「胎内めぐり」の気配と陰翳を持つ。

 それは何故か――。


 英国の小説家E・M・フォスターは、次のように指摘する。


 「下層にひそんでいる個性は、じつに不思議なものだ。完全なバカといった面も多分に備えているが、これなくして文学はない」

 「人間がときどきここまでバケツを下ろしてみなければ、一流の作品はできないのである」

 「ここ」というのは、「深層の個性」「下層にひそんでいる個性」「精神の故郷」のことである。(『無名ということ』フォスター評論集)

 勿論、フォスターがいっていることは、ゲーテの言う「個から普遍へ」という精神原理と接近している。


 読者は、文学作品において、不定形で未分化の「深層の個性」「下層にひそんでいる個性」と出会うのであり、いまだ光線の射し込まない意識下のゲル状の「自己」、しばしば血液や汚辱にまみれた「自己」が、小説空間という「鏡の間」に、まざまざと映し出される。

 その奇怪とすらいえる感銘こそ、われわれが曖昧にも「文学」と名付けている得体の知れない実感そのものであろう。何しろ「深層の個性」「下層にひそんでいる個性」「精神の故郷」と出会うのだから、それなりの戦慄が伴わざるをえないのだ。これはかつて坂口安吾が、童話に隠されたむごたらしさの中に凄絶な美を見出し、「文学のふるさと」といった位相でもある。

 しかも、その未分化の情動、リビドー、「深層の個性」との出会いは、井戸の掘削のために最初にバケツを下ろした「作者」「小説家」との共犯によってのみ、はじめて成立するのである。その内奥の領域とは、作家の側からすれば、〈創造の源泉〉そのものであり、「登場人物」のホムンクルス達が産声をあげる煮えたぎった鉄鍋であり、ぐつぐつと振動する暗いフラスコである。


 文学作品とは、それぞれ主人公が、紆余曲折を経るところの架空の「地獄めぐり」「胎内めぐり」の追体験なのであり、この迷宮を通してしか、主人公(=読者)の自己発見・自己解放はない。

 意識の深層領域へと降りていくからこそ、「個」は普遍的位相へとつながり、瑣末な事象は象徴へと深められ、元型を暗示するような二重の実在感を帯びてくる。

その位相では、ひとつの人物や、ひとつの状況、ひとつのイメージが、近景でもあり、なおかつ遠景でもありうる遠近法のヴィジョンとなる。

 そして最良の文学作品は、しばしば古代の石造建築のような、堅固たる実在感を持って立ち現れる。ここまで来てはじめて「文学」なのであり、もしそれが死んだ、滅びた、不毛だというなら、現代の文化は、ひとつの芸術ジャンルのみならず、ひとつの〈叡智の形式〉そのものを、まるごと失ったといってもいい。


 ――この小文では、『砂の女』と『箱男』の二人の失踪者を追ってきた。

 一方は、地獄めぐりの果ての自己再生のドラマを生きた。他方は、地獄めぐりすらしていない。これはフォスターにいわせれば、井戸に「バケツ」が下ろされたかどうかという違いである。またこの路線の違いを比較することは、思想性のある小説の創作者が陥りがちな「罠」の確認の試みでもある。

 しかし、ないものねだりを云々するのはやめよう。むしろ、私小説的な感覚的トリビアリズムや、「身につまされる小説」を過大評価しがちな日本文学という抑圧的湿地帯に、これだけの硬質な造形美にあふれた〈砂漠の花〉を咲かせてくれた安部公房という確固たる創造力をこそ、評価すべきであろう。

現代の小説は、知的器械体操のアクロバットか、私小説の開き直りか、といった二分法の中に落ち込んでおり、さもなければ、想像力というよりむしろ空想力の産物とでも言いたくなるような薄味のファンタジーに堕している。

 広告コピーが何と叫ぼうが、本の帯がどんなに饒舌に語ろうが、それらはすでに、既視感の強い驚きのない風景である。

 かつて吉田健一は、「作品に感動しなければ、それを理解したことにはならず、そもそも読者にとって、作品は全く存在すらしていない」というようなことを、繰り返し語った。作家にとっては残酷な言葉であるが、これは真実だ。

 しかし多少とも「文学」の味読に通じたすれっからしの阿片吸引者が飢えているのは、感嘆すべき密度と奥行きを持ち、再読してなお、細部を吟味するに値する文学作品だ。

 この退屈にして殺風景な出版状況の中で、「知的アクロバット」系文学の元祖と思しき安部公房を再読してみる。すると、彼の作品の中でも、「アタマで書かれただけ」の作品と、そうとばかりは言い切れない、高次の象徴性を実現した作品との差異が、歴然としていることに驚かされる。

 さらには、そうとばかりは言い切れないどころか、そこに「文学そのもの」を再発見するとき、われわれの内奥の何かが開示され、更新される。

 その発見は、地図も、羅針盤も、ダウジング・ロッドも紛失した現代では、文学の新しさ、文学の実質とは何かを問い直すことに通じる。それは、個々の読者による「読み」のリアリティの確認でもある。

われわれはその「読み」の現場において、直射日光にあぶられた砂の層に隠されながらも、いまなお涸れることない清冽な「地下水」の輝きと出会うはずだ。

 そして『砂の女』と『箱男』の二作品は、いったい文学の何がわれわれを打つのかを明瞭に示してくれるヒントに満ちた、貴重な比較サンプルのように思えてくるのである。 


                                         (了)


  

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