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星野光徳 「1Q84」論(26号)







再論 村上春樹


『1Q84』 の世界



星野光徳





 村上春樹『1Q84』のBook1・2が昨年の5月に発売されるや爆発的なベストセラーとなり、夥しい『1Q84』論までが出回ったのだったが、現代の神話のような物語はこの二巻で完結しているとは思えなかった。だが今年4月、Book3が刊行されるに至って、新たな結末とこの作品をめぐる様々な言説も見渡されるようになった。Book1・2を読んだ段階で、私は従来の村上作品とのつながりから或る感想をもったが、Book3が付け加わったことで、そこに多少の変更が生じたのも事実だった。この物語は従来の村上ワールドの延長上にありながら、決定的に逸脱していく要素を孕んでいたのかも知れない。仕組まれた物語の一つ一つの奥行きが深まったというのではなかったが、村上ワールドが拡大していることは確かだった。

 




    T Book1・2


 村上春樹『1Q84』Book1・2は2009年5月の発売後2ヶ月余りで200万部を超えたベストセラーとなった。村上は今や日本のみならず世界的にも人気作家だという。とりあえず国内だけを考えても、こういう人気作家は稀有だ。ノーベル文学賞作家・川端康成、大江健三郎にさえ短期間でこれほどのベストセラー作品はなかった。いわば人気歌手のベストヒットCDか人気ゲームソフトのように、短期間に圧倒的な大衆の支持がなければこういう現象は起きない。いわゆる純文学ではこういう現象は起きないものだ。読者は村上春樹の描く物語をそれほどに待望していたのだろうか。

 恐らく読者は、見通しのきかないまま変貌するこの世界についての(娯楽性のある)物語を求めていた、とはいえるだろう。

 つまり、『1Q84』は大衆受けするエンターテーメントである。勿論、現代の読者大衆は昭和期以前の大衆ではない。単なるエンタメではここまでの現象は起きないだろう。つまり、この長編小説はただのエンタメでもないのだ。村上春樹の初期作品以来のモチーフ(ささやかな日常の底の意想外な物語)に、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』(85)以降のパラレルワールド(現実とズレたもう一つの世界)の物語、八〇年代以降に拡大したポストモダン的言説(旧来の規範の崩壊と欲望の解放――新しい物語の生成)、オウム真理教事件の衝撃(95)、さらには作者の実父の死、などが絡み合い、そこにふんだんな娯楽的要素を盛り込んだ、渾身のエンタメ、といえるものだ。

 この、村上作品が立っている位置にこそ、むしろ日本の現代文学の、あるいは現代社会と文学の接点の、問題が見えているのかも知れない。


 『1Q84』というタイトルから読者が連想するのは、ジョージ・オーウェルの反ユートピア小説『1984』(1949)だろう。この作品では、1950年代に起こった核戦争を経て、1984年現在、世界は三つの超大国によって分割支配され、紛争が絶えない。作品の舞台となる「オセアニア」(かつてのイギリス、南北アメリカ、オセアニア)では、ビッグブラザーの支配下、市民生活はすべて国家による厳しい管理下に置かれ、その行動は双方向TVによってすべて監視され、互いに密告するシステムが働いている。歴史記録がつねに改竄され、言語も簡略化・統制され、個人の記憶も失われていく。体制に疑問をもった主人公は、国家を支配する党の実態を知るが、密告によって逮捕され拷問と再教育の末に党を愛しながら処刑されていく。同じ作者の『動物農場』もそうだが、いわば冷戦期のスターリン的全体主義国家思想を告発批判した書だ。

村上の『1Q84』は当然ながらオーウェルの『1984』を何らかのヒントにしているが(作中でもオーウェル作品に言及する部分がある。リトル・ピープルはビッグブラザーのもじりだろう。)、管理社会告発が村上作品のテーマではない。「1984」という記号が物語におけるアナザーワールドの喩として用いられただけで、「1Q84」は村上の登場人物たちが紛れ込んでしまう異世界という設定だ。


 ところで、実際の一九八四年とはバブル景気前の転換期で、日本の国際収支は史上最高の経常黒字を記録し、人口が1億2千万人を超え、平均寿命が男女とも世界一になった年だった。グリコ森永事件、ロス疑惑事件発覚、大江健三郎が芥川賞選考委員を辞し、江夏豊がプロ野球を引退した。前年には東京ディズニーランドが開園し、全国で校内暴力事件が起こっていた。アカデミズムの世界だけでなく、商業文化の分野でもポストモダン旋風が旧来の価値観や論理を否定し始め、多くの日本人は建前よりも本音、自分の欲望を公然とさらけ出し始めていた。ファンタジックな幻想と欲望が混合されて、何が現実なのかが見えにくくなる時代だった。

 そして、もう一つ。この小説の二人の主人公(青豆と天吾)はもうすぐ三十歳であるが、彼らが十歳で決定的なつながりをもった年――一九六四年とは、前年にケネディ大統領が暗殺され、ベトナム戦争が泥沼化し、東京オリンピックが開催された年だ。(四方田犬彦は、作品冒頭で語られるヤナーチェックの「シンフォニエッタ」のファンファーレとそれを聴く国道三号線駒沢あたり―かつてのオリンピック競技場―から、1Q84はオリンピックのあった1964のアナロジーと読めると言った。)

いずれにせよ、この小説の二人の主人公は、日本経済が未曾有の成長を示し、多くの日本人が〈豊かさと自分らしさを求めて走り、それを見誤る時代〉を生かされた世代だ。『ねじまき鳥クロニクル』の主人公も三十歳で物語が一九八四年の出来事であったことを思えば、作者はこの年号と時代に、オーウェルからのヒント以前に、特別な意味を付与していたのかも知れない。



     U


殺し屋・青豆  更新される過去

『1Q84』の奇数章の主人公は(村上にしては珍しく)青豆という名の女性だ。高級スポーツクラブのインストラクターであり、裏の仕事として性暴力の犠牲になった女たちのための(「必殺仕掛人」さながらの)殺し屋でもある。特殊な針で首筋の脳下部の一点を刺すことで相手を「あちらの世界に送り込む」独特の技術を磨いてきた。一九八四年四月、裏の仕事に向かうために首都高速道路三号線の緊急避難用階段を降りた青豆は、仕事の後、過去の記憶が一部消えている(過去の現実が更新されている)ことを意識する。青豆は時折高級バーで漁った男と享楽的なセックスもするが(その意味合いはまさにポストモダンのものだ)、本当に愛した相手は十歳のときに心を通わせた一人だけだ。ある夜、彼女は空に浮かぶ二つの月を見る。(二つの月を見るということが1Q84年に入り込んでしまったことのしるしだと読者には後に分かるのだが)


天吾の物語  ふかえりとの出会い

偶数章は、予備校で数学を講じ小説家を目指す天吾が主人公だ。(つまり、青豆の物語と天吾の物語が交互に語られていくのだが、その二つの物語が交叉し、結びつくところにこの小説が成立する。)天吾は辣腕編集者・小松と組んで、原石の輝きを秘めた文学新人賞候補作品をリライトする。それは十七歳の美少女・深田絵里子(「ふかえり」)が書いたとされる『空気さなぎ』という小説だが、実際の「ふかえり」はディスレクシア(読字障害)であり、謎の多い少女だった。

「ふかえり」の父・深田保はある大学の教員だったが、60年代の終りに学生たちと毛沢東を信奉する極左セクトを組織し、逮捕されて大学を追われた後、ユートピアを目指す農業コミューン「タカシマ塾」(あのヤマギシ会がモデルであることは確かで、村上が早大在学中に早大教授を辞してヤマギシ会の理論的支柱となった人物が投影されているようだ。)に入り、更にそこから分離して山梨県の山中に独自のコミューン「さきがけ」を作りあげた。「さきがけ」から元々の革命派「あけぼの」が分裂する頃に何かが起こり、「ふかえり」は父の友人だった元文化人類学者・戎野(えびすの)のもとに預けられた。その「あけぼの」グループは三年前、山梨山中で県警・自衛隊と銃撃戦を行い壊滅した。(ここにあるのはあの連合赤軍事件のイメージだろう。)しかし、その重大な事件を天吾はなぜかはっきりとは思い出せない。(このことこそ彼が1984年から1Q84年に入り込んでしまったことのしるしなのだが。)深田保を中心とする「さきがけ」は穏健派として残ったのだが、その後宗教法人となって外部との交渉を絶ち、現在ではカルト教団となって組織を拡大しているらしい。

「ふかえり」を預かった戎野には、「さきがけ」での体験が投影している『空気さなぎ』を世に出すことで、まったく音信のない友人・深田保の消息を確かめたいという狙いがあるらしい。『空気さなぎ』の中に登場するリトルピープル、空気さなぎは実際にある、と「ふかえり」は言う。

 天吾は戎野宅から戻る電車の中で、小学校4年の十歳の頃、心を通わせた少女を思い出す。その少女は、戒律の厳しい教団「証人会」(「エホバの証人」がモデルだろう)の信者である母親によって布教に連れ歩かれていた。母を亡くした天吾もその頃NHK受信料集金員だった父に連れられて歩き回らされていた。二人は誰もいない放課後の教室で束の間手を握り合い、奇跡のような交感を果たした。

(予想されたことだが、青豆と天吾は十歳のときの記憶で結びつく。それは予想されたこととはいえ読者がちょっと息を呑む展開だ。)

 天吾は今でも、あの父が本当の父ではないことを証かすような記憶に襲われる。一歳半の自分が見ている母と父以外の男の性的なシーン。父を嫌い、小5のときに集金同行を拒否してから天吾は殆ど一人で生きてきた。「自分の本来の居場所はここではない」という思いで。

 『空気さなぎ』は新人賞を受賞し、ベストセラーとなる。受賞記者会見での「ふかえり」の美しさと神秘的な態度がマスコミをつかんだのだ。


カルト教団とリトルピープル

 裏の仕事の依頼人である富豪の老婦人から青豆が次に受けた依頼は、あのカルト教団の教祖が標的だった。老婦人が運営するセーフハウスに匿われていた少女「つばさ」は、教祖から想像を絶する性暴力を受けて教団から逃げ出してきたのだった。教団では十歳の少女たちに組織的なレイプが行われているのではないか。「つばさ」は抜け殻のようになっていたが(このことは後に彼女が本当に被害者だったかどうかという謎につながるのだが)、老婦人はかつて実の娘を性暴力によって失った記憶から、どうしても「つばさ」を助けようという信念を抱いていた。

しかし、夜、眠った「つばさ」の口からリトルピープルが何人も現れ、白く柔らかな繭のような空気さなぎを作り出す。(ここで読者は、この作品がSFファンタジーの側へ流れ込んでいくのではないかと思わされるが。)

 

天吾に忍び寄る危機

 『空気さなぎ』をリライトして以来、天吾は自分の小説を書き進める。それは『空気さなぎ』から啓示を受けた、月が二つある世界の話だ。「ふかえり」は自分に何らかのメッセージを伝えるために送られてきた存在なのか。しばらくして、「ふかえりが行方不明になった」という連絡が小松から来る。『空気さなぎ』が世に知れ渡ったためにリトルピープルにとって不都合が起こったのか。彼女は教団によって誘拐されたのか。(「ふかえり」は戎野の指示で身を隠していることが分かるが。)天吾の前に現れた、ある財団を名乗る異様な風体の男(牛河)は、天吾の才能に助成金を出す代りに全てを忘れろと言う。そして二年も付き合ってきた年上のガールフレンドも天吾の前から突然姿を消す。小説で「過去を変更しても、未来は変更できない。」小松とも戎野とも連絡が取れなくなった天吾は、二十年前に心から手を握り合った少女・青豆をまた思い出す。


教祖の霊能とリトルピープル

 「つばさ」を保護するセーフハウスの番犬が何者かによって無残な殺され方をし、「つばさ」が失踪する。「さきがけ」の仕業なのか、リトルピープルが動き出したのか。青豆は教祖を殺す最後の仕事に命をかける覚悟でその日を待つ。失敗した場合の自殺用拳銃まで用意して。

 筋肉が硬化する病にかかっている教祖に特殊なストレッチ治療を施す役として対面する青豆。最後の仕上げにかかろうとして、しかし何かが青豆をためらわせる。置時計を浮き上がらせて霊能を示す教祖は「あなたに命を奪ってもらいたい」と言い、彼の話は青豆の決意を鈍らせる。教団の少女たちは霊能にあずかろうとして彼と交わりにくるということ。失踪した「つばさ」は実体ではなく観念に過ぎない。幼かった娘がリトルピープルを呼び入れ、そして彼がその力を受け入れたこと。しかし、友人に預けた娘は今、ある人物とともにリトルピープルに対する「抗体」を作った。教祖はリトルピープルの代理人となり、娘は世界のバランスを保つために反リトルピープル作用の代理人となった。「抗体」とは小説『空気さなぎ』であり、ある人物とはあなたが思い続ける天吾だ。

世界はどこかで1Q84年へと切り替わったのだ。

あなたと天吾はある必然によってこの世界に導かれた。

「わたしを殺してくれたら、天吾くんの命は助けよう」と教祖は言う。それは青豆か天吾のどちらかの死を選べという取り引きだ。

(リトルピープルの正体は分からない。多分それはこの世の悪意といえる精霊のような存在なのか、と読者は想像する。その意志には逆らえない、というような。)


天吾が入り込む猫の町

 天吾は思いついたように南房総・千倉の認知症療養所にいる父を訪ねる。電車の中で天吾が読む『猫の町』。それは名も知らないドイツ人作家が書いた古い物語だ。

 一人の青年が列車の旅の途中で或る無人駅に降りる。

人の姿はなく、そこは猫の町だった。青年は好奇心から町に滞在したが、三日目に猫たちが人の匂いに気づいて騒ぎ始める。隠れていた青年のそばまで猫は近づくが、青年の姿は見えないらしい。翌日彼は町を出ようとしたが、列車は駅に停まらない。駅も青年もそこに存在しないように。そして彼は知る。自分が失われていることを。そこは猫の町などではなく、自分のために用意された、この世ではない場所だったのだ。

(村上の作中物語はつねに暗示的だ。『ノルウェイの森』における「阿見寮」のように、その療養所はこの世ならぬ場所なのかも知れない。いや、それは天吾自身が「失われていく」兆候なのかも知れない、と読者は思う。) 

 天吾は認知症の父に、自分はあなたの子なのか、母は本当に出産後間もなく亡くなったのかと問い質したかったのだ。父は「母親は空白と交わってあんたを産んだ。私がその空白を埋めた」と言う。(この空白とは何を意味するのか?)

九月、「さきがけ」に警察の捜査が入り、天吾は連絡をよこした「ふかえり」を高円寺の自分のアパートに隠れさせる。「わたしたちは力をあわせなくてはならない」と彼女は言う。「リトルピープルがさわいでいる」異変の前兆に「ふかえり」は気づいている。

「あなたは猫のまちにいった。オハライをしなければならない」激しい雷鳴の夜に、天吾は「ふかえり」と交わる。

次の日、彼女は天吾の心を読み、「あなたがさがしているひとはすぐちかくにいる」と言う。青豆の行方を探そうとする天吾は夜空に浮かぶ二つの月を見る。


小説『空気さなぎ』

 使命を果たした青豆は身辺に異変を感じながら、老婦人が用意した高円寺のマンションに身を潜める。彼女は教祖を殺し、自分の命を放棄することで天吾の命を救うことを選んだのだ。用意されたマンションの部屋には、天吾が加担した(と教祖が言った)小説『空気さなぎ』が置かれていた。(それがどんな物語であるのか、読者はここで初めて粗筋を知る。)

  山中の「集まり」で両親と暮らす少女。そこは外の世界とは違うと大人たちは言う。シホンシュギとブッシツシュギから離れて、心をオセンされないように生きる世界だ。世話を命じられた盲目の山羊を死なせてしまったことで、少女は罰として土蔵に閉じ込められる。三日後の夜に死んだ山羊の口から六人のリトルピープルが現れ、空気さなぎを作ると言う。空中から糸を取り出して作るそれは白い繭のように大きくなる。「誰にも言ってはならない」と一人が言う。後日、少女はどうしてもそれを確かめたくなって土蔵に行くと、さなぎの中に見えたのはもう一人の自分だった。

「それは君のドウタ(心の影)だ」「二つの月が心の影を映す」とリトルピープルが言う。

  不吉を感じて逃げ出した少女は、父の友人だった画家のもとに行くが、翌日、二つの月を見る。少女の身辺に絶望的な不幸が起こる。それはリトルピープルからの警告だった。少女はその秘密を解き明かすために、自分で空気さなぎを作ろうとする……。

 これは「ふかえり」が体験した現実だ、と青豆は確信する。しかもこれは天吾が立ち上げた世界だ。二つの月を見ているのは私だけではない…。

(しかし、このファンタジー作中小説が新人賞に値するほどの作品なのか、という気もするが。)


二人は再会することなく、物語は終わる?

 天吾は高円寺の児童公園で夜空に浮かぶ二つの月を見上げる。自分は何かの加減で現実の世界を離れ、『空気さなぎ』の世界に入り込んでしまったのか。青豆もこの近くで二つの月を見ているのだろうか。

 マンションのベランダに出て二つの月を見上げていた青豆は、通りを隔てた児童公園で一人の青年が同じように月を見上げていることに気づく。あれは天吾だ…しかし、階段を降りていったとき、もうそこには天吾の姿はなかった。これでいいのだ、と青豆は思う。

 翌朝、青豆は自分が入り込んだ世界の出発点を確かめるために、あの首都高速三号線の非常用階段があった場所に行く。しかし、そこに非常用階段はない。

「出口はふさがれてしまったのだ。」青豆は朝の首都高速道路で拳銃を取り出し、何度も練習してきたように銃口を口に咥えると、かつては嫌ってきた「証人会」のお祈りを唱えて引き金を引く。

 父の体に異変が起こっていると連絡を受けた天吾は、もう一度千倉の療養所に向かう。昏睡状態の父に向かって、これまでの人生を長々と語る天吾。父が検査室に運ばれた後にベッドに現れる空気さなぎ。中に見えるのは十歳の青豆だった。その手には微かな温もりが残っている。

  

     V

 

 小説はBook2(第二巻)でいったん終わったかに見えたが、これには続編があるのではないか。そう思ったのは私だけではあるまい。

 「リトルピープル」、「空気さなぎ」とは何だったのか。「ふかえり」の「ドウタ」はどうなったのか。姿をくらました小松は、また、「失われた」と伝えられた天吾の年上の愛人・安田恭子は、どうなったのか。

 ファンタジック・エンターテーメントが浸透する村上の物語に、リアリティー上の説明を求めるのはナンセンスだと言われそうだが、ファンタジーだろうとエンタメだろうと、一つのフィクションの内部で完結する(説明のつく)世界でなければ完成した小説とはいえない。

そしてまた、天吾の〈失われた母〉、〈代用された父〉という問題はどう考えるべきなのか。認知症となった父の言った「空白」とは何のことか。それは作品の中心テーマにかかわるのではないか。


 繰り返していえばこの作品は、青豆の殺し屋物語と美少女の小説を完成させる天吾の物語を並行させ、そこにオウムを彷彿させるカルト教団とその教祖の謎、さらにリトルピープル・空気さなぎという神秘な力、変換された世界「1Q84」というパラレルワールドを組み合わせ、しかも二人が二十年を隔てて求め合ってきたという純愛物語の軸を貫くことで(小学校時代の思い出から二十年を隔ててなお相手を想い合うというのはファンタジーでしかないが)、よく仕組まれたエンタメかミステリーのように読者をつかむ。しかし、文学として読むならば、明らかにその底には、かつて「証人会」を棄教して親を棄て、更にカルト教団の教祖を殺害する青豆と、育ての父を見捨てた天吾の、いわば〈父殺し〉のテーマがある。それは『海辺のカフカ』における〈父殺し〉のテーマから繋がっているのかどうか。

 『海辺のカフカ』は、明らかにギリシア悲劇『オイディプス王』をベースとした物語で、主人公・田村カフカは〈父殺し〉を果たすかに仕組まれていたが、父子の対決の構図は曖昧だった。いえば、『海辺のカフカ』は村上が初めて〈父殺し〉のテーマを導入した作品ではあったが、古典劇の構図を借りただけで、〈父との対決・乗り越え〉が描かれたとはいえなかった。中心はむしろ〈母〉の喪失と奪還幻想だったのではないか。

 この『1Q84』においても、〈抑圧的な権威・権力としての父との対決〉という物語は避けられ、むしろ〈父の不在〉が語られただけではなかったか。青豆に語りかける「さきがけ」教祖の言葉は神秘化されて、〈打倒すべき抑圧者としての父〉のものではなかったし、天吾に語りかける父親の言葉も象徴化されて、いわば捉えどころのないものだった。〈母〉の問題が語られることもなかった。つまり、この物語のテーマとして浮上してくるのは〈父殺し〉ではなく、〈打倒すべき父の不在〉だったのではないだろうか。

 沼野充義は『文学界』(09年8月号)・特集「『1Q84』を読み解く」において次のように評した。

   村上春樹の世界には、こうして乗り越えるべきもの、対峙すべきものとしての父=王(教祖)というモチーフがくっきりと浮かび上がってきたにもかかわらず、その一つ上の審級が不在だということだ。つまり宗教や信仰を扱う場合には避けて通れない一番大きな問題、超越者(これを必ずしも神とよばなくてもいい)が見当たらないということである。

いや、そうだろうか。神との対決どころか、父との対決も巧みに避けられていたのではないか。

 現代の物語文学といえる『1Q84』では、文学の長年のテーマであった〈父との対決〉ではなく、対決すべ

き父が見えないという、そのこと自体がテーマであったと読むべきではないのか。打倒すべき抑圧だと思った相

手が実は「空白」だったというのが、青豆と「さきがけ」教祖の対決シーンの意味であり、天吾と父親の対面シー

ンの意味ではなかったろうか。

 抑圧的な〈中心〉が失われた時代の空白――それが一九八四年という時代だった、ということだろうか。青豆

も天吾もその空白を呼吸していた、といえなくはない。しかし、〈空白〉とは無ではない。いや、むしろ、それは

空白と見まがう何かであったというべきなのか。

 それにしても語り残された問題が多すぎる。続編が想像される所以である。私は2009年の9月にそう書い

た。



     W Book3

 

 ところが、というべきか予想通りというべきか、2010年4月になって続編Book3が刊行され(作者は否定しているがやはり予定されたことだったのだろうか?)、外国語への翻訳版を含めてこれもまた爆発的な売れ行きを示した。そしてそれを追いかけるように何冊もの「『1Q84』をどう読むか」読本が発表され、さらに作者へのかつてないロングインタヴュー(新潮社 季刊『考える人』2010年夏号)特集までが刊行された。つまり、ここへきてやっと『1Q84』Book3までの全

体とそれへの反応までが見渡せるようになったわけだ。だが確かに、Book3は斉藤美奈子によって「Book1・2で広げられるだけ広げた物語を畳めるだけ畳んだ」(朝日新聞文芸時評)と評されたような展開だった。Book1・2で完結したとはいえない物語は、完結に向かったのだろうか。残された謎は解き明かされたのだろうか。


生きていた青豆 物語は深化したか?

Book2の結末において首都高速三号線上で拳銃自殺したはずの青豆は(実は、その瞬間自分の名を呼ぶ声を聞いたことで引き金を引かずに)死ななかったというのだ。(そりゃあズルイぜ、と思った読者も多かったはずだ。)

 Book3の1章は、かつて天吾に助成金と交換に『空気さなぎ』リライトの一件を忘れろと迫った怪しげ

な人物「牛河」を登場させる。リーダーを殺された教団「さきがけ」は、この異様な風体をした元弁護士に青豆

を探し出すよう命じたのだ。(牛河という同じ名の人物は『ねじまき鳥クロニクル』にもワタヤノボルの秘書として登場していた。Book2にチョイ役のように登場した牛河の視点と行動を拡大して導入したことで、物語は新しい膨らみを持ちえたと

いうべきだろうか。それとも物語の糸をつなぐ解説の視点が導入されたのだというべきだろうか。青豆と天吾を

追い詰める脅威となる牛河の視点を導入することが新たなストーリー展開を可能にしたのは確かだろうが、異物

のような牛河の物語が語られることで作品全体の物語の奥行きが深まったといえるのだろうか。)

 牛河は持ち前の忍耐力と勘で、麻布の老婦人の素性から青豆の過去、さらに小学校時代の天吾とのつながりま

でを探り出す。小学校時代の青豆の担任まで訪ねて少女時代の青豆像を探る展開は〈物語としてのリアリティ〉

を補強したとはいえるだろう。

 青豆はあの老婦人の用意した高円寺のマンションに身を潜めて、この1Q84年の世界でもう一度天吾に会う

ために、一度天吾を見かけた児童公園を見張り続ける。(しかし、川奈天吾が現れるのを待ち続けなくても、老

婦人の有能なボディーガードであるタマルに天吾の現在の居場所を調べさせることはできた筈ではないのか?)

 

妊娠していた青豆

 青豆が身を潜めるマンションのドアを叩き、執拗に支払いを督促しにくるNHKの集金人。姿を見せないその謎の声は「さきがけ」の手先かリトル・ピープルか、あるいはまさか、NHKの集金人を永年勤めていた、天吾の父…?と読者は想像する。物語の世界構造は単純ではない。そして、二つの月が浮かぶ1Q84年の世界では何が起こるか分からないというかのように、青豆は自分が妊娠していることに気付く。それはあのリーダーを殺害した雷鳴の夜に受胎したものだ。リーダーの命を奪う代りに一つの命を身ごもるという取り引き? そしてなぜかそれは天吾の子だ、と青豆は確信する。(あの雷鳴の夜に「ふかえり」と交わった天吾の精子が青豆の胎内へとワープした? 1Q84年とはそこまで摩訶不思議な世界だったのか。)


幻覚の中で青豆を感じる天吾

 十一月、天吾は千倉の療養所で眠り続ける父親に付き添う。もう一度空気さなぎに包まれた青豆と出会いたいという願いからだが、そこは「ふかえり」が危険だと言った「猫のまち」だ。その時期「ふかえり」は天吾の高円寺のアパートに身を潜めていたのだが、その部屋にも,あの執拗なNHK集金人が来てドアを叩く。

 天吾は療養所で親しくなった三人の看護婦と飲み会に行き、「ハッシシをやろう」と、若い看護婦・安達クミの部屋に誘われる。クミは小説『空気さなぎ』を繰り返し読んだと言い、「ハッシシやったとき私がドウタで、空気さなぎにくるまれて、外側にマザの姿が仄かに見える」と言う。天吾はクミと一緒に大麻樹脂を吸い、生まれて初めての感覚の中であの小学校の教室を幻視する。そこでは青豆が彼の手を握り、天吾は「夜が明けたら…ここを出ていくんだよ。出口がまだ塞がれないうちに」と言う声を聞く。(『海辺のカフカ』にも同じような台詞があった。Book2の最後の場面で青豆は「出口がふさがれた」と言った。ここでは1Q84年からの出口なのか、「猫のまち」からの出口なのか。それが塞がれるとはどういうことか。)

 天吾は翌日、千倉を離れるのだが、最後に眠り続ける父に向かって「もう僕のうちのドアをノックしないでほしい」と語りかける。しかし、二週間ぶりに戻った高円寺のアパートにすでに「ふかえり」はいない。


牛河も呑みこまれる1Q84の世界 

牛河は青豆との接点から天吾をマークすることを思い立ち、そのアパート一階の空き部屋を借りて、玄関ホールを出入りする人物を忍耐強くカメラで監視する。天吾が千倉に行っている間に、牛河は玄関を出ていく「ふかえり」を目撃する。ファインダーを通して牛河を貫いた少女の視線は、この醜い現実主義者の感覚をさえ変形させる。語られる牛河の内面や思い出は案外に退屈だが、彼が潜み続ける部屋にまであの執拗なNHK集金人がやって来るのは、牛河もまた1Q84年の世界に呑み込まれたことを示すものだ。それを証すように、ある夜、玄関を出る天吾を尾行した牛河は、天吾が立っていたあの児童公園の滑り台の上で夜空に浮かぶ二つの月を見る。


追跡される追跡者 青豆の覚悟

 青豆は、かつて「証人会」の信仰を拒否した自分が「神」を信じていることに気付く。自分の中の小さなものを誰かが狙っている。私はこの小さなものを守らなければならない…。天吾がまた現れるかも知れない児童公園を見張り続ける青豆は、「老婦人の屋敷の周りを嗅ぎ回っていた福助頭」とタマルが言ってきた男が、夜の児童公園の滑り台上に立っているのを見る。その福助頭の男(牛河)を尾行した彼女は、彼が入っていったアパートの郵便受けに「川奈」という文字を見出す。それは天吾なのか、天吾はこんなに近くにいたのか。


さきがけの意図 さまよう父の意識

 「わたしたちは見られている」という手紙を残して「ふかえり」は天吾の部屋を去った。それは彼女が牛河の監視に気付いたということだったろう。しばらく音信のなかった編集者・小松から連絡があり、彼は九月半ばまで「さきがけ」によって監禁されていたのだと天吾に語る。彼らは『空気さなぎ』の出版打ち切りと「ふかえり」との絶縁を求めてきたのだ。それが出版されたことで「声が彼らに語りかけることをやめた」からだ。彼らは「声」を取り戻そうとしている――新しい預言者を求めているのだ。教団から逃げ出した「ふかえり」は本人だったのかドウタだったのか…。天吾は自分がすでに「強い流れ」に巻き込まれていると感じる。

 その深夜、天吾は父が亡くなったという連絡を安達看護婦から受け、早朝、千倉に向かう。父が「法定相続人」宛てに残した封筒には、生まれて間もない天吾を抱く母親の写真が入っていた。若い母は、あの年上のガールフレンド・安田恭子に似ている。

「お父さんは誰かにメッセージを送っていたみたい」と安達看護婦が言う。昏睡している筈なのにベッドの枠をドアを叩くように叩いていた、と。(やはり、青豆、ふかえり、牛河の潜んだ部屋のドアを叩いたNHK集金人は天吾の父の遊離した意識だったのか。それも1Q84年の世界だからこそ起きる事態だが、この遊離した父の意識の意味するものも不明だ。私には、何でも起こりうる1Q84年の世界という枠組みの中で超自然的な事態を意味ありげに絡ませるという以上の意味を認めることができなかった。)


牛河が調べた天吾の母 消される牛河

 牛河は天吾が二歳になる前に死んだ母のことを調査していた。天吾には伝えなかったが、彼女は夫を捨てて別の男と逐電し、長野県の温泉で絞殺されたのだという。(すると、天吾を襲っていた白昼夢のようなイメージは、幼児だった彼の実際の記憶だったということか。天吾の本当の父はその男だったのか。「母親は空白と交わった」と父が言ったのはそういう意味だったのだろうか。

 私には、この母の逐電挿話はなくもがな、と思えた。

実際にかつてそのような事件があったというなら、天吾もそれを知るのは時間の問題であり、〈失われた母〉のテーマは不倫逐電事件に矮小化されてしまうだろう。)

さらに千倉で火葬場に同行した安達クミは、以前自分は一度死んだと語ったのだが、今でも男に首を絞められる夢をみると言う。(つまり、安達クミは1Q84年の回路を通って、失われた天吾の母につながるのか。天吾はハッシシの幻覚を得るために「母」と交わったということか。それは『海辺のカフカ』にも描かれたテーマだった?)

そしてとうとう牛河は監視カメラファインダーに顔を隠した女を見、青豆だと確信するが、青豆が連絡したタマルによってアパートの部屋で葬り去られる。そのプロの手口はなかなかにリアルだ。


意外にも平凡に見える結末とは青豆は『空気さなぎ』を繰り返し読み、教祖が言った言葉を思い出すことで、自分は天吾と巡り会い結ばれるために、この1Q84年の世界にいるべくしているのだと確信する。教祖は命と引き換えに、天吾との回路を開いて、後継者を私の中に宿したのかも知れない。この子を守り、天吾と三人で生きていこう。

 二人は児童公園の滑り台の上で再会する。そして、あの非常階段を降りるのではなく逆に登ったところに首都高速三号線は確かにあり、夜空に浮かぶ月は一つだ。

 ただし、「さきがけ」によって回収された牛河の死体の

口から、また六人のリトル・ピープルが現れ、空気さなぎを紡ぎ出すという展開が付け加えられているが――。


     X


 改めて眺めれば、これは、孤立した生を送ってきた青豆と天吾が二十年を隔てて巡り会うために、1Q84年という異世界に入り込み、いわば何でもありの巨大なメビウスの輪のような危機的回路を通って再生する物語だったと読める。確かに、この長編物語の構造は単純ではない。比喩と隠喩と引用と換喩(AはAであるだけでなくBでもあり、BはBであるだけでなくCでもあるというメタファ)を張り巡らした、いかようにも深読みできそうな物語だ。

 実際、「『1Q84』をどう読むか」読本の類では、


@宮崎駿と並んで、村上の作品は「奇妙なわかりにくさ」の魅力に満ちた、戦後の日本社会の経験とその精神史を背景に作られた精華(加藤典洋)

A「さきがけ」教祖殺害をめぐる物語は、天皇制システムを脱構築(解体)しようとしたもの(安藤礼二)

Bリトル・ピープルとは、オウム事件以後、管理願望へと変化した大衆(私たち)の集合的無意識を寓話化したもの(石原千秋)

C これまで抵抗するにせよ屈するにせよ文学を支配してきた「父権制イデオロギー」(私たちを支配するあらゆるシステム)からの脱却を目指した物語(内田 樹)


などと解読されているようだ。作品をどう解読するかは読者の自由であり、様々な解読が可能だという点が村上ワールドの特徴でもある。


 私自身はBook1・2までを読んだ時点で、この作品のテーマは〈打倒すべき父の不在〉=〈抑圧的な中心の空白化〉だと述べた。青豆の父も、天吾の父も、そして「ふかえり」の父=教祖も、乗り越えるべき敵などではなかった。しかし、抑圧的中心が空白であろうと、抑圧がなくなったわけではなく、むしろ増大しているのだ。作者は、一つ一つの〈父〉が集合して(?)実は巨大なシステムと化し、正義も邪悪もそこでは相対的なものでしかない、あるいは正義も邪悪も同根でしかない(それゆえにこそ人々はその混沌に不安を抱いているのだが)という世界像を描いたのではなかったか。新たに見えてきたものを付け加えるならば、〈父〉(抑圧的システム)の空白化とは〈父〉の消失では勿論なく、〈父〉の遍在化というべき事態だった。

村上春樹がエルサレム賞受賞(2010年2月)のスピーチで、自分は「壁」の側ではなく「卵」の側に立つと語って、巷間ではイスラエルによるガザ地区攻撃への批判として称えられもしたが、「壁」とはパレスチナ原理主義による自爆テロをも含むはずであり、その言葉は「壁」と「卵」は相対的でしかないと解読されるべきだった。「壁」はいつ「卵」となるか分からないし、「卵」はいつ「壁」となるか分からない。「1Q84の世界」とは、つまり、そういう世界ではなかったか。善なるものと邪悪なるもの、認識するものと認識されるものとが実はいくらでも入れ替わる世界――そこでは抑圧されるものは抑圧するものでもあるのだ。

 すでに何人もの評者が述べたことだが、DVやレイプによる被害者のために「復讐」を繰り返す青豆とそれを「正義」とする老婦人は、見方を換えれば原理主義的なテロリストでもある。しかし、「さきがけ」の教祖殺害の場面で躊躇した青豆は、自分が「正義」だとは思えなかった。善も悪もない混沌のうちに、青豆は教祖を殺害したのだったろう。さらにBook3において、高円寺のマンションに潜み続けるしかない青豆は牛河によって読み解かれる対象であり、千倉の療養所で眠り続ける父に語りかけるしかない天吾は、意識だけになって浮遊する父ほどにも行動できない存在となっていたのではないか。結末では再会し新しい世界を生きていこうと決意する青豆と天吾のこれからの物語は、決して明るい未来などを目指すものではない。いわば〈善〉を目指したかに見える二人は、理想の共同体を目指した「さきがけ」が邪悪な集団と化したように、そのまま新しい〈邪悪〉に転化するかも知れない。

 抑圧的システムとしての〈父〉は至るところにいる、しかしその中心は空白というこの世界で、村上は善悪の境界の消失を描くことで、いわば〈善悪の彼岸〉へと脱出する可能性を物語化したといえなくはない。

 しかし、リトル・ピープルの正体は謎のままだし、失われたという天吾の年上の愛人、「ふかえり」のマザとドウタはどうなっていくのか、何よりも青豆の生むことになる子供はどうなっていくのかは分からない。この先にBook4があるのだろうか。(了)




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