『群系』 (文芸誌)ホームページ 

30号 野口存彌 佐多稲子・その生きるという経験



佐多稲子・その生きるという経験



      野口存彌


          (「群系」30号収載)



 とくに意識はしなくても、陽ざしの明るさや強度はおのずから人間の感覚に深く刻みこまれるものらしい。佐多稲子は『年譜の行間』(昭和57年)の冒頭で、生地長崎の自然環境の特徴を太陽の光りが満ちていたことだとしたうえで、「その光は、透明ではなく、黄色くて、厚ぼったい、密度の濃い明るさ」だったと述べている。

 ロシアとの戦争が始まった明治三十七年に佐多稲子は生まれた。父田島正文は十八歳で佐賀県立佐賀中学校の五年生であり、母高柳ユキは十五歳で佐賀県立佐賀高等女学校の二年生だった。「時に佇つ」(『群像』昭和50年1月号〜12月号)の記述によって、ふたりの家は佐賀市内で隣りあっていたことが判明する。恋によって結ばれたが、あまりに若い両親だった。妊娠した母は周囲の人びとの困惑のなかで長崎にある父方の祖母の生家にいって出産した。

 父は母に対して丁寧な言葉遣いで、「ユキさん、ユキさん」と呼んでいたというが、このような結果になった以上、日々の生活を成り立たせるために両親には働くことが最も重要な課題になった。父は中学校を卒業すると、進学を断念して三菱長崎造船所に就職した。祖母の妹も同居し、二年後には弟も誕生して家族がふえた。母は勧工場と呼ばれる物品の販売所に勤めに出た。

 大人たちに囲まれて生長していく課程で、佐多稲子は知らず識らずのうちに他人の心理の動きに敏感になっていった。やがて子供にとって最大の不幸に見舞われることになる。過労がたたり、母の身体には結核の症状があらわれた。佐賀の実家に戻り療養に努めていたが、佐多稲子が小学校に入学した年の夏に、二十二歳という年齢で亡くなってしまった。その時のことについて、


あたしは取りすがって泣いたという記憶はありません。大人たちの右往左往している中で、母親はもういなくなるんだ、死んだんだなあと思ったとき、悲しくなって、裏の空地の井戸のところで、ひとり、あたし、泣きました。なんだか、夕暮れのような、妙に全体が黄色っぽく、しいんとしていたという感じで、そのときのことを覚えてます。


と『年譜の行間』に記述している。ここでも黄色っぽいという色調が指摘されているが、大き過ぎる不幸に出会った場合、内心の衝撃によって外界の風景に向ける眼差しが虚ろなものに変わり、外界に存在するすべてのものが凍りついて静まり返ったような状態に映ることがある。佐多稲子が井戸の傍で泣いたのは、必ずしも夕暮れの時刻だったとは特定できず、その時、たまたま感じとめたのが黄色っぽく映る日射しの特徴ということだったのかもしれない。

 母は亡くなる前に佐多稲子に、「ヨクベンキョウヲシテ/ヨイオクサンニナルヨウニ」とカタカナの手紙を書きのこしていた。小学校一年生の娘の将来のために願ったのが幸福な結婚だったことが判明する。

 父は『中央公論』等の雑誌を購読していて知識欲の旺盛さを示す一面があったが、他方、佐多稲子が「典型的なお坊ちゃん育ちで、遊び好き」(『年譜の行間』)だったと指摘しなければならないような面もあった。その後、父は何度か新しい女性を家に迎えたが、いずれの場合も円満な関係を持続させることができなかった。そうした事情から長崎には居づらいと感じるようになった模様である。佐多稲子が小学校五年生の時、三菱長崎造船所を退職し、佐田秀実をたよって東京に出ることにした。佐田秀実は父の弟で、佐多稲子からみれば叔父であり、伯母の婚家の籍に入って佐田姓になっていた。この叔父が向島小梅町に上京した一家の落ち着き先となる家を見つけてくれた。佐多稲子は牛島小学校に転校した。

 ところで、ひとりの人間が作家として確立するまでの経過を検証してみると、年少の時期に近親者のなかに文学的素養の深い人物が存在したという事実がしばしば見受けられる。そのような近親者に接することのできた経験自体が、やがて文学に志すうえに大きな方向性を与えるものになるのは確かだった。佐多稲子にとって佐田秀実はまさにいま述べたような意味をもっている人物だった。

 「早稲田と叔父の思い出」(『佐多稲子全集』第十六巻収載・初出誌未詳)と「ふたたび叔父のこと」(『早稲田文学』昭和44年2月号)によれば、佐田秀実と佐多稲子とには十一歳の年齢差があった。早稲田大学に入学したものの学費が続かず、中退している。島村抱月の主宰する芸術座の会員になり、演劇評を書いたりした。早稲田大学教授の中桐確太郎らとともに『叫』という雑誌も発行した。そのうち、ある友人の好意で埼玉県深谷にある友人の実家の小間物店に就職し、番頭のような仕事を担当することになった。そのあいだに「凶器」という表題の百五十枚ほどの創作を書き上げることもした。しかし、脚気を患うようになり、向島小梅町の家に戻って療養に努めていたが、心臓脚気という病名で大正五年に二十五歳で亡くなった。

 向島小梅町は堀辰雄も住んでいた町である。牛島小学校では佐多稲子と堀辰雄は同学年だったが、そうした事実を知るのは後年になってからだった。

 父は仕事が見つからず、一家は貧窮のどん底に落ちこまなければならなかった。佐多稲子は小学校五年生で通学をやめた。少しでも収入を得なければならず、小学校に通うかわりにキャラメル工場に働きに出た。この体験が、のちに小説家としての第一歩となる「キャラメル工場から」(『プロレタリア芸術』昭和3年2月号)に形象化される。


 ある日郷里の学校の先生から手紙が来た。

 誰かから何とか学資を出して貰うよう工面して??大したことでもないのだから、小学校だけは卒業する方がよかろう??と、そんなことが書いてあった。

 付戔がついてそれがチャンそば屋の彼女の所へ来た時??彼女はもう住込みだった。??それを破いて読みかけたが、それを掴んだままで便所にはいった。彼女はそれを読み返した。暗くてはっきり読めなかった。暗い便所の中で用もたさず、しゃがみ腰になって彼女は泣いた。


 ここに引用したのは「キャラメル工場から」の結末に記述されていることである。主人公は三人称で登場しているが、この三人称の少女はとりもなおさず佐多稲子自身である。賃銀があまりに安い、キャラメル工場は退職していた。浅草の中華そば店の住込み店員に職種が変わっていたが、郷里の小学校では級長をつとめていただけに、かつての教師が佐多稲子が置かれている境遇に胸を痛めたものらしい。小学校には通わず、けなげな姿勢で仕事にはげんでいたが、母が亡くなってからというもの、心のなかには外面に表出させることなく耐えていたものが存在して、それが耐えきれずに涙となって眼からあふれ出たのだと思われる。内面に閉じこめておいたものが悲しさにほかならなかったことが実証される。

 すでに佐多稲子には誰からの庇護を受けることもできないきびしい環境のなかで、自己一身だけをたよりに生きるための苦闘が始まっていた。年譜(『佐多稲子全集』第十八巻収載)をみれば、叔父秀実が亡くなった時は上野池之端にある料亭の清凌亭で奥向きの小間使いとして勤めていた。

 ようやく父は叔父の死の翌年に兵庫県相生町の播磨造船所に就職先が決まり、家族を向島小梅町の家にのこしたまま、単身で赴任した。佐多稲子はこんどはメリヤス工場に住み込んで、昼も夜も働いたということである。

前掲の年譜の大正七年(十四歳)の項には、


一家の切羽詰まった困窮を見かねて、相生の父のもとに芸者になりたいと手紙を出す。それを機に、父は相生に稲子を引きとる。祖母は叔母と共に東京に残り、弟は働きにでる。相生では、家事と父の身の回りの世話をしながら、つかの間の平穏な少女時代を気ままに過す。この少女時代の経験が、のちに小説『素足の娘』のモチーフとなる。


と記載されている。『素足の娘』は昭和十五年に「書きおろした長編叢書」として新潮社から刊行されている。

 こうして相生にいって父の許で生活を始めているあいだに、貸本屋から借りてくるらしい近代文学系統の小説を次々に乱読することになった。また、短歌をつくり短文を書いて少女雑誌に投稿した。最初に活字になって掲載されたのは『少女の友』に投稿した短歌だったそうである。

 大正八年に、父は佐賀の女学校を卒業している南里ヨツという女性と何度目かの結婚をしている。佐多稲子はあたらしい継母になじんで裁縫を習ったりした。

 結局、その地でそのまま少女期の二年間を過したあと、大正九年に相生を去って上京している。幼時から自分をとりまく状況の激変にもみくちゃにされていた佐多稲子にとって、その二年間だけは平穏な日々に恵まれたことが他のなにものにも替え難い救いになったと言える。とりわけ、文学書を乱読できたことが間もなく芥川龍之介と出会う契機をもたらしたという事実を指摘しておきたい。

 上京した佐多稲子は以前にも勤務した上野池之端の清凌亭を訪ね、座敷女中に採用してもらった。ある日、店に入ってきたのが芥川龍之介だった。小島政二郎が同行していた。新聞や雑誌の写真で芥川龍之介の顔を知っていた佐多稲子は同僚に「あれは芥川龍之介という小説家だわ」と話したところ、その同僚が「先生を存じあげてる者がおりました」と芥川龍之介に伝えた。それ以後、時々、芥川龍之介が訪れるようになって、店のほうでも佐多稲子を芥川龍之介のいる座敷の担当にしてくれた。

 このことは『年譜の行間』に記述されているが、芥川龍之介と言えば、全身で文学を体現しているような作家にほかならなかった。佐多稲子がこの時期にどういう仕事に携わっていようとも、心を魅するばかりに文学というジャンルが存在するのをすでに知っていた以上、最初に出会った作家が芥川龍之介だったことの意義は想像以上に大きいものがあったとみられる。

 清凌亭での日々には読書する時間は皆無だった。本を読むという行為には、読んだ本について語りあえる対話の相手の存在することが欠かせない条件になる。清凌亭にはもとよりそれに当てはまるような同僚は見当たらなかった。清凌亭を退職し、向島小梅町から向島曳舟に移っていた実家で、祖母、叔母や弟と同居することにした。

 たまたま新聞に丸善の求人広告が掲載されているのを見た。小学校高等科を卒業していなければ応募資格がなかったが、佐多稲子は履歴書に高等科卒業と書いて提出した。幸いにも採用されて、化粧品の販売係に配属が決まった。これまで清凌亭に勤務していたことは隠しておく必要があった。

 これらのことも『年譜の行間』に記載されているが、丸善に入社してみると確かに読書ができるようになった。朝夕に市電に乗っているあいだが貴重な読書の時間だった。休日には同居している祖母や叔母に浅草に演劇を見にいってもらい、佐多稲子はひとり家に残って思うままに読書にふけった。読むのはヨーロッパの作家の翻訳小説が多かった。本は買わずに丸善の男性社員から借りて読むのがほとんどだった。社内で男性社員と話を交したりしていると目立つので、本を借りたり返したりするのも市電の中だった。

 佐藤喜美という同僚と親しくなったが、アナキズムの洗礼を受けていて、佐多稲子が、アナキズム思想について初めて聞かされたのは彼女からだった。昭和三十七年に刊行された『青春放浪』(宮坂出版社)という編著があるが、各編には表題を付けずに何人かの作家が自伝として執筆した文章を収載している。佐多稲子も寄稿していて、佐藤キミという表記でその友人のことを採りあげている。佐藤キミを佐多稲子は「私の一番親しかった友だち」だったとしたうえで、次のように述べている。


佐藤キミという女性は、丸顔の小さな口許に愛嬌のある、いつもにこやかにしている娘だったが、私、肺病よとすましていうところはアナーキであった。事実彼女は大柄の背を丸めぎみにして、のどもかすれ、動作は緩慢であった。どうせ死んだっていいのよ、と笑っていっている。今、大杉栄が洋書部から帰っていったわ。大杉栄の目はすてきねえ、と彼女自身目を輝かす。二重橋の奥は伏魔殿だってよ、と不逞な言辞をささやくときも、彼女はいつものようにいたずらっぽく笑っている。そのことを今も覚えているから、二重橋の奥は伏魔殿だってよ、と聞いたとき私には一種の気持の動きがあったのだとおもうが、格別不逞だとおもわなかった。


 不逞だとは受けとめなかった理由に関しては、当時の庶民には「二重橋のうわさは常に卑猥をまじえて不逞であったからである」と説明されている。階級という用語を聞いたのも佐藤喜美からだった。しかし、佐多稲子自身は社会は「階級」ではなく、「秩序」によって成立していると考えていた。従って、自分が貧しいのは「運命」なのだとあきらめていたというのである。

 その認識は、「規範店員」(『文藝春秋』昭和5年6月号)にみられる「社会主義は無秩序なもののように思えた。彼女は階級の差別を、秩序だと思っていたのだ」という記述によって補うことができる。丸善に勤務していた当時、貧富の差は階級闘争によって解決すべき問題だとは少しも考えていなかったのだった。

 このころ、男性の社員から勧められて生田春月主宰の『詩と人生』を読むようになった。佐多稲子は詩を書くことを思い立ち、作品を送稿すると『詩と人生』誌に掲載された。「夜思美(よしみ)」というペンネームを用いたということである。

 関東大震災では佐多稲子の住んでいた向島曳舟の家も被害を受け、半壊した。そこで牛込納戸町にあらたに部屋を借り、丸善に通勤した。一方、佐藤喜美は病気が進行したためすでに退社していたが、本所菊川町で材木商を営む実家にいて震災に遭遇した。炎に追われ近所の池の中に入って生命は助かったものの、病状がさらに悪化して遂に悲惨な死にかたをしてしまった。

 丸善での日々は単調な仕事の繰り返しであり、身体の疲労というより、なにかしら精神的に疲労感を覚えるようになった。年齢も二十歳に達していた。ちょうどその時、職場の上司から縁談がもちこまれた。大正十三年三月に佐多稲子は小堀槐三と見合いをし、翌四月に結婚した。

 『佐多稲子全集』第十八巻収載の年譜の大正十三年の項に、次のように記述されている。


小堀槐三は二六歳、慶応大学の学生であった。東京麹町区飯田町六丁目二四番地の九段の高台にあった大きな屋敷と、別に貸地として広大な敷地を所有していた。小堀には二人の兄がいたが、長兄は禁治産者で廃嫡となっており、次兄は他家の籍を継いでいた。そのため、小堀は若くして小堀家の当主になっていた。稲子夫婦は結婚すると同時に、九段の屋敷には住まず、蒲田の蓮沼に新世帯を持つ。夫小堀の、肉親との財産争いによる疲れや、病的な嫉妬心のために、結婚生活は陰惨を極める。


 この引用のなかで小堀槐三の「病的な嫉妬心」が指摘されているが、『年譜の行間』のなかの記述をみると、そもそも縁談を持ちこんだ職場の上司は、小堀槐三の姉婿にあたる人だったらしいことが判明する。小堀槐三は必ずしもその姉婿を信頼していなかった。自分の財産を見張るために佐多稲子を差し向けたのではないかと邪推していた。佐多稲子に向かって、姉婿と関係があるだろう、といった疑いまで口から発したりしている。小堀槐三は自分の妻となった佐多稲子と姉婿とのあいだに不倫の関係まで想定していた。ここにみられるのは嫉妬心というより、さらに卑劣な猜疑心というよりほかなかった。先程引用した年譜の結末部に、結婚生活は陰惨を極めるものになったことが記されていた。愛や信頼を欠いた結婚である以上、それは当然の帰結とも言えた。

 大正十四年二月のある日、夫婦は自宅の寝室でチアールという睡眠薬をのんで自殺を計った。結婚してからまだ一年も経過していなかったが、すでに佐多稲子は妊娠している身だった。翌日午前、意識不明に陥っているところを女中によって発見され、付近の医師がかけつけてきて、ふたりとも危うく一命をとりとめた。この事件は新聞にも報道された。

 父が上京してきて、佐多稲子は父とともに相生の家に帰った。その四か月後には女児を出産している。

 「柱」(『婦人之友』昭和10年7月号)は父を中心にしてその当時の日々を描写した作品である。父は修三、佐多稲子は多枝という人物名で登場している。父は職場から帰り、夕食の席につくと晩酌をしながら多枝に向かって、いままで訊かないでいたが、いったいお前はどうして死ぬ気になったのかね、と尋ね始める。親兄弟に相談してくれればお前のために考える者がいるじゃないか、厭なら厭で家に帰ってくればいいじゃないか、と問いつめるように言葉をつづける。多枝はそこに坐ったまま、ぽたぽたと涙を落とすが、その時、心によみがえっていたのは、自分の家と婚家とで釣り合いがとれなかったことから受けなければならない屈辱感だったと説明している。

 「夫さえ向う側の、その他人ばかりの屈辱の中で、薬を飲んだ自分が、胸をしめられるように、可哀想に思われてきた。資産のあるということのために見極めの基準を失って失敗した、ということが多枝を芯から打ちのめしていた」と記されている。三年間の会社勤務の疲れで将来への希望を失っていた当時、資産家から望まれて結婚するということは、自分に与えられた唯一の脱出口のように思われた。だいいち、結婚にあたっては父さえも思いがけない良縁だとよろこびをあらわし、自分の家もこれでだんだん落ち着いていくだろう、と語ったほどだった。

 小堀槐三との結婚は佐多稲子にとっては、まさに失敗体験にほかならなかった。婚家は多少の財産のために常時トラブルの絶えない家であり、夫はそれが原因で「神経衰弱から一種の性格破綻者」になっていたとも「柱」に書かれている。

 この失敗体験は佐多稲子に資産家とはどういう実体のものであるのかを身をもって学ばせる結果になった。のちに「大衆」という用語を使うようになるが、そこに感じさせられるのは佐多稲子のあたたかい眼差しである。しかし、その裏側には深刻な体験や苦渋にみちた曲折があって、そこで初めて社会に貧富の差があるのは当然だと是認する認識から脱却していたことを知る必要がある。

 離婚の準備が進められ、出産した女児は婚家に渡さずに佐多稲子の側で引き取ることにした。「柱」をみると、家の中には祖母と継母のほか、「おとし」という名前の女性がいるが、これは叔母である。この叔母は二回ほど名前が出てくるだけで、ほとんど動きも示さず、作中人物としては宙に浮いた存在である。

 佐多稲子は自身の歩んでいく方向は相生ではなく東京にあると判断していたので、女児は実家に預けてでも上京したいという意志をもっていた。実家には女手は十分あるので、女児を育ててもらうのは困難なことではなかった。

 それに対して、父がこの段階で佐多稲子をひとりだけ上京させるのに不安を感じたことが、「柱」には描かれている。むしろ一家をあげて上京すべきではないかと考えるようになった。

 佐多稲子の自殺未遂事件があってから一年が経過して、大正十五年初頭に一家をあげての上京が実現する。父は自身の意志で勤務先の造船所を退職して東京に赴くことに一種の晴れがましい感情さえいただいていた。小さな駅に大勢の職場の同僚が見送りにきてくれて、見送る側にも上京する一家に羨望の念をもつ人がいるほどだった。

「柱」には一家が上京し、東京で新しい生活を開始したところまでが描写されている。父を中心人物にして物語が展開する過程で、佐多稲子の自殺未遂事件の背景がおのずから浮き彫りになっている作品だと言える。

 一家は駒込神明町に家を見つけて住むことに決まった。父は東京電燈会社に就職することができた。一方、佐多稲子は自宅に近い本郷動坂のカフェー紅緑で女給を募集する貼紙を見て応募し、採用された。

 このカフェーで雑誌『驢馬』の同人と出会うことになった。そのなかにやがて佐多稲子の運命を変えることになる窪川鶴次郎がいた。窪川鶴次郎は「『驢馬』の仲間たち」(『展望』昭和24年12月号)に、「『驢馬』は田端の室生(犀星)さんのところへ出入りしている人たちによって、大正十五年四月に創刊された。同人に中野重治・窪川鶴次郎・西沢隆二(ひろし・ぬやま)、堀辰雄、宮木喜久雄らがいた」と記述し、この五人だけは創刊から昭和三年五月まで同人をつづけたが、ほかに同人の出入りが多少あったと記している。誌名は堀辰雄の発案によった。島崎市誠氏は『論集 中野重治』(平成20年、同書「驢馬の頃」)で、室生犀星が印刷費の一部を負担していたことを指摘している。「しかも、その印刷費を安くあげるために金沢の印刷所を紹介し、そこへ宮木喜久雄を行かせるのだが、その経費も犀星の持ち出しであったようだ」とも述べている。室生犀星自身は『驢馬』に三回ほど俳句、詩篇等を寄稿している。

 窪川鶴次郎と宮木喜久雄が共同で住んでいた家で編集会議を終わらせると、同人たちはたびたびカフェー紅緑を訪れていた。中野重治が最年長で最年少の宮木喜久雄まで、いずれも知性あふれる若々しい青年たちだった。

 中野重治と窪川鶴次郎はそれぞれ金沢の第四高等学校の文科と理科に在学していた当時からの知己だった。とくに中野重治の妹、中野鈴子が窪川鶴次郎に思慕の念を寄せていたという事情もあった。同時期に第四高等学校に学んだ石堂清倫は『わが異端の昭和史』(昭和61年)に、学内に社会思想研究会が生まれたことを述べたうえで、出席者のなかに「中野や窪川鶴次郎の顔も見られたが、どちらも熱心な方でなかった」と記している。その後、中野重治は東京帝国大学独文科に進み、窪川政治郎は中退して上京し、貯金局に勤務していた。

 すでにプロレタリア文学運動が開始されていた。フランスに留学し、パリ法科大学を卒業してから第一次世界大戦直後の進歩的な文化運動だったクラルテ運動に参加するという経験をした小牧近江が大正八年に帰国すると、『種蒔く人』を創刊して狼煙をあげた。最初は郷里の秋田で、まもなく東京に移って発行をつづけ、プロレタリア文学とよばれる分野の執筆者を集めて作品を掲載した。しかし、関東大震災のために終刊を余儀なくされた。

 そこでプロレタリア文学の関係者は大正十三年六月に『文藝戦線』を発刊した。この雑誌は系譜的に『種蒔く人』の後継誌と判断して差し支えないが、そこにはやはり『種蒔く人』が『文藝戦線』に変わらなければならない理由もあった。大和田茂氏は『社会運動と文藝雑誌』(平成24年)で、いまの問題を説明するために『文藝戦線』創刊号の巻頭に掲載された青野季吉「『文藝戦線』以前(「種蒔き社」解散前後)」に触れている。

 青野季吉は『種蒔く人』が『文藝戦線』に変わらなければならない理由を三つあげた。そのなかでも、「『震災中に起った社会的事実』すなわち社会主義者、労働運動家などへの虐殺や弾圧などを経験し、『同人中に無産階級解放運動の執るべき道に関して』齟齬が生じ一致した行動がとれなくなったこと、ゆえに、『文藝戦線』は『文藝方面の共同の戦線をつく』ることに限定してやっていきたい??このように青野は『文藝戦線』の出発に先立ち『種蒔く人』の運動を総括し、新雑誌出発の方向性を示した」と大和田茂氏は述べている。プロレタリア文学の問題は単に文学というジャンルだけの問題ではなく、なまなましい社会状況に対応するために政治活動をどうするべきかというもうひとつの課題と密接に結びついていて、その点にプロレタリア文学としての困難さがあったのを考えなければならない。

 『文藝戦線』は昭和六年に『文戦』と改題されるまで刊行が続行したが、文壇では大正十三年に『文藝戦線』の創刊とほぼ同時に『文藝時代』が発刊され、新感覚派と呼ばれる一群の作家が華々しく登場していた。新文学を創出しようとする機運が盛り上がっていた。

 前掲の窪川鶴次郎「『驢馬』の仲間たち」によれば、大正十四年秋ごろ、中野重治は小石川にあった福井県人会の寮から桜木町の新人会の合宿所へ引越している。新人会に関しては、山田清三郎『プロレタリア文化の青春像』(昭和58年)に「一九一八年(大正七)の秋、東京帝大の学生と卒業生の有志が、大正デモクラシーの風潮のなかで、社会科学の研究、デモクラシー運動の展開を主要目的として生まれた団体で、赤松克麿、宮崎龍介らを中心とし、吉野作造教授を顧問として雑誌『デモクラシー』を発刊、二二年に卒業生と分離、学生団体となり、このころから新人会はマルクス主義の方向に進出、その研究と宣伝、普及に従事することになった」と記述されている。昭和三年まで存続している。新人会の合宿所に引越しする際、中野重治にかわって窪川鶴次郎が引越車についていったそうである。窪川鶴次郎には中野重治が新人会の仕事をしていることだけは判ったが、具体的な内容については知らなかったと述べている。

 大正十五年一月に共同印刷の争議が始まると、中野重治は新人会の会員として献身的に活動した模様である。石堂清倫は「新人会時代の中野重治」(『新日本文学』昭和54年12月号)で、「中野が共同印刷争議に動員されたのには、労働者の生活を知って一人前の運動家になる条件をつくるという含みが指導部にあったものと思われる」と述べている。その直後、中野重治が室生犀星を通じて、文学をやってゆけないので『驢馬』の同人を退きたいと伝えてくるということがあった。この時は結局、退会の意向を撤回したが、窪川鶴次郎は、


中野は、あのとき、なぜ文学をやってゆけないと思ったのか、その後このことについて一度も話していないし、このことに関係のある文章を一度も書いていない。あるいはまったく非プロレタリア的な『驢馬』の同人たるを反省したのか、共同印刷の争議に参加して高まって来た階級的情熱から、そのまま「実際運動」に入ってゆかざるをえないような事情なり勧誘でもあったのか、文学よりも「実際運動」を「第一義」と考えさせられるような経緯でもあったのか、当時さかんだった福本イズムの知識階級の役割に対する過重評価の偏向が、考えかたのうえで、これらのことと何らかのつながりがあったのか。??


と「『驢馬』の仲間たち」に記述している。

 この中野重治の動向は山田清三郎が前掲の『プロレタリア文化の青春像』で次のように指摘している事実によって説明できるのかもしれない。大正十五年二、三月ごろ、新人会系の芸術グループと外部の芸術関係者が結合してマルクス主義芸術研究会が結成されて、在学生から中野重治も参加したというのである。このように同人のなかで中野重治ひとりが突出して政治活動に携わっているという状態をかかえたまま、『驢馬』は刊行された。

 中野重治はその第二号(大正15年5月)に突如として詩篇「夜明け前のさよなら」を発表した。


僕らは仕事をせねばならぬ

そのために相談をせねばならぬ

然るに僕らが相談をすると

おまはりが来て眼や鼻をたたく

そこで僕らは二階をかへた

露地や抜け道を考慮して


こゝに六人の青年が眠ってる

下には一組の夫婦と一人の赤ん坊とが眠ってる

僕は六人の青年の経歴を知らぬ

彼らが僕と仲間であることだけを知って居る

僕は下の夫婦の名前を知らぬ

ただ彼らがこの二階を喜んで貸して呉れたことだけを

 知って居る


夜明けは間もない

僕らはまた引っ越すだらう

鞄をかかへて

僕らは綿密な打合せをするだらう

着々と仕事を運ぶだろう

明日の夜僕らは別の貸布団に眠るだらう


夜明けは間もない

この四畳半よ

コードに吊されたおしめよ

媒けた裸の電球よ

セルロイドのおもちゃよ

貸布団よ

蚤よ

僕は君たちにさようならを言ふ

その花を咲かせるために

僕らの花

下の夫婦の花

下の赤ん坊の花

それらの花を一時にはげしく咲かせるために


 この詩篇には一人称の「僕」という人物を中心に捉えて、政治活動に携わっている人の強靭な使命意識が形象化されている。「僕」がいるのは家主の好意で借りられた二階の四畳半の部屋である。時刻は夜明け前である。「僕」は眼ざめて、やはり政治活動に携わっている何人もの青年たちが眠っているこの部屋から立ち去ろうとしている。その時、眼にとめずにいられなかったのは、コードに吊るされたおしめを始め、階下で就寝中の家主一家の日常を支えている生活用品である。そうした生活用品で象徴される日常性こそ、政治活動に専念する人が常に犠牲にしていたものに違いなかった。「夜明け前」はいまが新しい時代、または新しい社会が誕生する前だという意味にも受け取ることができる。

 島崎市誠氏は前掲の『論果 中野重治』で、北川透氏が中野重治のそれ以前の作品と比較しながら、この詩篇に批判的見解を述べたことをとりあげている。「『感情』を感じさせる言葉のみが、緊張感なく全面に押し出されているだけで、それらは誰にも通じるが、誰をも以前のようには感動させないのである」と北川透氏の見解を紹介している。「感情」という用語は「主観」と言い換えても、あまり違いはないように思われる。

 プロレタリア文学には、作品の中に避けがたくアジテーションの要素が入りこんでしまうという厄介な問題がある。アジテーションの要素を全面的に排除するのは至難に近いとさえ言える。

 窪川鶴次郎は中野重治のこういう傾向の詩篇を初めて読んだと「『驢馬』の仲間たち」で述べている。それでも中野重治が「夜明け前のさよなら」という詩篇を書かなければならない必然性は理解できたそうである。平常から中野重治のありかたをそのまま自然に受けとめていたからであるのに違いなかった。

 のちになって、芥川龍之介からは中野重治にぜひ会いたいという意向が伝えられてきた。その意向を同人に知らせたのは堀辰雄だったと考えられる。??

 こうした『驢馬』の同人たちの動向にカフェー紅緑で勤務のあいだに視線を向けていたのが佐多稲子だった。いずれも知性にあふれ、情熱的で若々しい青年たちだった。侃侃諤諤と文学論を交していることが多かった。

 佐多稲子は小学校五年生の時から通学せずに働きに出て、庶民とよばれる人のあいだで生きてきた。資産家に嫁いだ経験から、庶民とはかけ離れた位置にいる資産家の実体も知悉していた。しかし、『驢馬』の同人たちはそれらとは異質の人たちだった。このような知識人タイプの青年を初めて見たような心持ちがした。年齢的に若々しいということは、とりもなおさず未来に富んでいるのを意味する。同人たちが未来に描いているのは文学というジャンルを実現させることだった。『驢馬』の印刷ができ上がると、佐多稲子は窪川鶴次郎からもらって読んだ。カフェー紅緑で目撃したのは、まさに文学が生成されようとする現場にほかならなかった。文学というジャンルが自分に近づき、自分が文学に近づいていくのを佐多稲子は自覚させられた。

 そういう経過のなかで佐多稲子は知らず識らずのうちに窪川鶴次郎に心を惹かれ始めた。『年譜の行間』で「彼の孤独さに対して、自分で気付かず、なんか、そちらの方へ気持が流れるの……」と語っている。窪川鶴次郎も第四高等学校を中退して上京するまでに深刻な経験を経ていた。医師だった父親が早く亡くなり、そのあと母親も亡くなって他家に養子に預けられたが、そこを飛び出してきたというのである。当時の佐多稲子は無口で、同人の誰とも言葉を交すようなことはしておらず、同人のあいだの会話から自然に耳に入ってきたことだった。

 他人の孤独さに反応するということは、自分自身が深い孤独感をいただいていたからである。しかし、ふたりのつながりは意識的に次の段階を踏まなければ生まれることはない。『年譜の行間』には佐多稲子が思い切った行動に出たことが記述されている。清凌亭に勤務していた際も、客の膝をたたくとか、肩に触れたりする行為は、絶対にしてはならないときびしく躾けられていた。それにも拘らず、他の人もいる場所で、きれいな髪ね、と言い、窪川鶴次郎の真黒な髪を撫でたというのである。

 それを契機に窪川鶴次郎から手紙を受け取り、佐多稲子も返事を書いた。いっしょに道を歩く機会があって、佐多稲子は自分の境遇を窪川鶴次郎に話した。窪川鶴次郎はそういう佐多稲子を受け入れて、ふたりの新しい生活が始まった。その時期は『驢馬』が創刊された年の夏だったと『夏の栞』に記されている。それはちょうど元号が大正から昭和にあらたまった時期にかさなる。最初、佐多稲子はこの事実を実家には隠しておいたが、室生犀星夫人が稲子の父に話にいってくれたことが『年譜の行間』に記されている。

 ふたりが借りたのは上根岸の音無川の傍にある住宅の二階の部屋だった。佐多稲子は勤務先を浅草のカフェー聚楽にかえた。窪川鶴次郎は昭和二年初めまで貯金局に勤めているが、当時、佐多稲子としては「窪川鶴次郎の文学への希みを自分の希みともすることに満足していた」(『夏の栞』)ということである。

 『夏の栞』によると、中野重治が芥川龍之介を訪ねたのは、昭和二年六月のことである。中野重治はその経緯を『むらぎも』(『群像』昭和29年1月号〜7月号)に記述している。主人公安吉は中野重治自身で、芥川龍之介は葛飾という人物名に置き換えられているが、葛飾を訪ねた安吉は、唐突に「君が文学を止めるとかやらんとかいってるのはあれや本当ですか?」という質問を受ける。

 安吉は混乱した思いに陥りながら、「いえ、そんなことありません」と否定する。葛飾は「そう、それなら安心だけれど」と言い、つづけて「そんなことわきからとやかくいうべきことじゃないかも知れませんがネ。しかし僕らとしちゃ、やっぱりやってって貰ひたい!」と述べている。この問答を芥川龍之介と中野重治の対話だと考えると、いかにも興味深いものになる。文学活動と平行して政治活動を進める過程で、中野重治に迷わなければならないような事情があったのは確かである。それに対して芥川龍之介の言葉は、それなりに的確な指針を与えるものとなったと判断して差し支えない。

 佐多稲子もやはり堀辰雄を通して、芥川龍之介からの会いたいという意向を聞いた。そこで堀辰雄と窪川鶴次郎に伴われて芥川家に出向いた。「芥川龍之介の死」(『新潮  45+』昭和59年5月号)によれば、その七年前に上野の清凌亭で何度か接した際と比較して、芥川龍之介の姿は異様なほど憔悴して見えた。心身がすっかり消耗してしまったような印象を与え、見るからに痛々しいばかりだった。コップにサイダーを注いでくれる芥川龍之介の手が慄えていた。


その夜、芥川の私に話しかけたことは七年前の思い出話ではなかった。のっけから、「あなたの自殺を計ったときは、何を飲んだのですか」という問いであった。私に自殺未遂という過去があることも、芥川は堀辰雄から聞いていたのである。私はその睡眠剤の名を答えた。折り返しに「また死にたいとおもいますか」と。この問いを私は確かに奇異に感じた。だが「いいえ」と言っただけである。(略)「また死にたいとおもいますか」とたずねられて「いいえ」と答える私は、そんな問いかけをする芥川に対していささかの抵抗を感じ、いいえ、しか言いようのない自分にはじらいを感じた。だから私は、芥川の問いを奇異にも感じたのである。


 この引用のなかで佐多稲子は「奇異」という用語を二回使っている。芥川龍之介の姿のみならず、問いかけてくれた言葉の内容もまた不可解なものに思われた。

 「芥川龍之介の死」を発表して二か月後に、再度芥川の死に触れて「古いときのこと」(『文学界』昭和59年7月号)を発表している。芥川家に出向いた夜、実際は芥川龍之介から三つのことを尋ねられたが、「芥川龍之介の死」にはそのうちのひとつを書き落としてしまったというのである。

 「芥川はもうひとつ『その後、身体は丈夫ですか』と問い、私の、丈夫です、と答えるのに、『それは大変いい』と云ったのである」と佐多稲子は述べるとともに、「書き落としに気づいたとき私は、残念にもおもい、何か悲しい気さえした。それは大変いい、と云われたときの温かく聞こえた感じを覚えていたらしい」と記している。佐多稲子が尋ねられたのはそれらの三点であるが、すべて稲子自身の未遂に終わった自殺の経験に関してだった。

 結果的にその僅か三日後の昭和二年七月二十四日未明に芥川龍之介はみずから生命を絶った。夕刻、カフェー聚楽の二階で身仕度を整えていた際、階下の調理場から「芥川龍之介が自殺した」と叫ぶ大声が聞こえてきて、佐多稲子は弾かれたように階段をかけ下りた。コックの覗いている夕刊の記事を見た。芥川龍之介が田端の自宅でヴェロナールを致死量のんだというのである。

 窪川鶴次郎の「『驢馬』時代の堀とのこと」(『文藝』昭和28年8月号)に、「たしか亡くなる四日くらいまえに芥川さんは当座のために四十円立てかえてくれたことがあった。帰りしなに二階の書斎から出て暗い階段にかかったとき、先に立った芥川さんはうしろへ手をまわすようにしてそれを私に渡してくれた」という記述が存在する。先に記した佐多稲子が芥川家に出向いた時のこととは別個の話と思われ、窪川鶴次郎のその経験は四日前ではなく、もっと何日か前のことではないかと想像される。


 芥川龍之介の自殺はひとりの著名な作家の死であり、それ以外のことではないとも言えた。それにも拘わらず、巨大ななにかが倒れたかのように社会に衝撃がひろがっていった。時期的には大正が終わって、昭和という時代が始まったばかりだったが、この新しい時代の多難さを予告する出来事として受けとめられた。

 『驢馬』は昭和二年三月発行の第十号以後、休刊していたが、同人たちも一様に深刻な衝撃を受けた。そうした衝撃を通じて、時代が激しく変化しようとしているのを実感させられた。新しい時代に対応する姿勢として、左翼運動に参入することをひとりひとりが考え始めた。同人たちのなかでも堀辰雄だけは異なっていたが、たとえば窪川鶴次郎は前掲の「『驢馬』時代の堀辰雄とのこと」で、「昭和二年の末ごろから私は労農党の実際運動に入ってしまった」と述べている。

 佐多稲子は第十号に田島いね子の名前で「薄けぶり」「プラットホーム」の二篇の詩篇を発表していた。約一年近い休刊の時期を経て、昭和三年二月に第十一号を発行したが、巻頭には芥川龍之介の遺作の詩篇を掲載している。佐多稲子も窪川いね子に名前を変えて「小鳥たちの眠り」を、また第十二号(昭和3年5月)には「朝鮮の少女 一」「朝鮮の少女 二」といういずれも詩篇を発表している。この第十二号をもって『驢馬』の刊行は終わった。

 『佐多稲子全集』第一巻には丸善に勤務していた当時、『詩と人生』に投稿した詩篇と『驢馬』に寄稿した詩篇のあわせて十一篇、そのほか『火の鳥』『詩神』に掲載された詩編三篇が収録されている。

 このうち、『詩と人生』に最初に掲載された「灯」(大正11年10月号)を引用してみたい。


 おお誰か

 私の胸の塔に

 灯をつけて下さい

 暗を好んだ私でしたが

 あまりの淋しさに

 今は灯をとぼしたい


 また、『驢馬』の最終号となる第十二号に掲載された「朝鮮の少女 二」は次のような詩篇である。


 電車はだだっ広い暗い街を走っていました

 下町の場末へ向うその電車には

 みんな夜の働きから疲れて帰る人ばかりでした

 それらの人のにぶい視線を集めて

 桃色の上衣を着た朝鮮の少女が一人

 腰掛の上に胡坐(あぐら)をかいて熱心にお錢をかぞえていました

 飴はみんな売れたのでしょう

 銀貨が彼女の掌にならんでいました

 少女はやがて分別気な面持でお錢を懐へしまうと

 かたわらの空になったボール箱の包をとって上下に強

  くゆすりました

 包の間からゴム毬がポンと抜けて跳びだしました

 この時人々の生気のない顔にやさしい微笑が浮かびま

  した

 向い側にいた小父さんは毬を拾っておどけて一つ弾ま

  せました

 彼女はいやあようと駄々っ子のように甘えた声をあげ

  て腰掛から下りると

 膝と膝の向い合った真中の狭い道で無邪気に毬をつき

  始めました

 走っている電車の床は張り切っていて

 ゴム毬は弾みすぎるようでした

 前かがみになって毬を追う彼女の背中には

 縮んだ髪の先に赤い布が長く垂れて揺れていました。


 引用した二篇を対比すると、「灯」は自分の孤独さを自覚している内面的位相から発想されていた。「朝鮮の少女 二」では職場からの帰途にたまたま市電のなかで見かけた、故国を喪失し日本に来ているひとりの朝鮮の少女からモチーフを?んでいる。いや、?まずにはいられなかった。子供ながら、飴を売って生計を補っているらしい。健気で、しかも無邪気そのもので子供っぽい姿に映る。飴が売れて空になった箱に入っていたゴム毬が弾んで箱から跳びだしてしまった。少女は車内で毬つきを始める。周囲にいる疲れた表情の乗客に、思わずやさしい笑顔が浮かんだ。自分自身の孤独さを問題にするのではなく、ここには朝鮮の少女へあたたかい共感を注いでいる作者がいる。

 この詩篇の発表で佐多稲子の『驢馬』の時代も終わる。「時と人と私のこと」 ?(『佐多稲子全集』第二巻「あとがき」)で、「『驢馬』の同人たちと出会い、そのひとりであった窪川鶴次郎と結婚生活に入る頃を、『わが青春の時代』と私は云うのだが、それは変則な青春だったにはちがいない。私はそのときすでに離婚のあと、幼児さえ連れている境遇だったのである。が、青春を、美しい希望のときとするなら、『驢馬』同人との出会いに始まる一時期ほど、若さにあふれ、求めるものに希みを持ったときは、私のそれまでには決してなかったことなのだ」と述べている。同じ「あとがき」の別の個所で、やはり『驢馬』の時代について「もっとも美しかった時期」という表現を用いている。当時、実際には一日一日を愉しさを自覚し充実感をいだきながら過ごしていたことが想像され、それらの日々から時間が経過した時点で振り返ってみると、美しかったという判断になるのかもしれなかった。

 佐多稲子は文学書ばかりでなく、社会科学の本も読むようになった。「あたしは、エンゲルスの『空想より科学へ』『家族私有財産及び国家の起源』や、レーニンの著書などを読んで、社会に対して見る目が変り、資本主義社会というものの仕組みを知った」(『年譜の行間』)ということである。当然、貧富の差が存在するのは運命だというような認識からは脱却することになった。

 「キャラメル工場から」が掲載されたのは日本プロレタリア芸術連盟の機関誌だったが、中野重治の勧奨によって最初、七、八枚程度の随筆を書いた。しかし、題材からみて随筆のままでは惜しいので、もっと長く小説として改稿するように言われ、その言葉どおりにした。

 山田清三郎『プロレタリア文学史』下(新版・昭和41年)には次のような評言がみられる。


「キャラメル工場から」は、おそよ「プロ芸」の芸術運動理論からは、かけはなれた、自然発生的な作品であった。それはこの時期にあらわれた、他のどのプロレタリア文学と比べても、素朴で、自然発生的なものだった。全無産階級的政治闘争意識とか、目的意識性とかいったものは、薬にしたくもなかった。けれども、そこには、作者の体験をもとにして、前の細井和喜蔵が世にうったえた「女工哀史」に共通する虐げられた庶民の少女の世界が、しかもどんなに苦しくとも世にでて、いきていかなければならないかの女らの世界が、つつましく、ひかえ目なことばで、かたられていた。


 さらに山田清三郎は「『キャラメル工場から』は、しかしながら、『プロレタリア芸術』にのった作品のなかでは、もっともすぐれたものの一つであった。生活の中からうみだされた作品の強さを、この作はかけ値なしにもっていた。自然発生的な『キャラメル工場から』が、理論的にはもっとも『左翼』的に尖鋭だった『プロ芸』の機関誌にのった全作品のなかで、いちばんすぐれたものであったのは、それじしん、『プロ芸』理論にたいするきびしい反批判でなければならない」と記述している。

 絶賛とも受け取れる山田清三郎のこれらの評言には、佐多稲子の文学的性格が的確に指摘されていると言える。「プロレタリア文学がなかったならば、あたしは物を書かなかったろう」(『年譜の行間』)と佐多稲子自身が語っているが、山田清三郎の評言にはプロレタリア文学といえども、文学作品として自立していなければならないという考えかたが根底にある。そういう考えかたは佐多稲子にも共通する問題意識となっていて、「プロレタリア作家はロクなものを書かないと言われてはプロレタリア文学全体の恥になる」(『年譜の行間』)という自覚をもっていた。

 因みに、山田清三郎は同じ書物のなかで、こういう指摘もしている。プロレタリア文学運動は文学における階級関係の問題をあまりに単純化し、敵か味方か、ブルジョア文学かプロレタリア文学かという尖鋭なかたちで進められてしまった。従って、「理論的には、文学の歴史性をみとめながらも、『浮雲』の二葉亭四迷からも、『破戒』の島崎藤村からも、長塚節の『土』からも、有島武郎の『カインの末裔』からも、そして『輪廻』の森田草平からも、宮本百合子の初期の作からも、学びあるいは批判的に摂取する必要を十分にはしらなかったばかりでなく蔵原惟人によるささやかな試み??それも中絶した??や、中野重治による啄木研究(一九二四『啄木断片』)くらいをのぞいては、近代日本文学の史的研究さえも、ほとんどおこなわれなかったのではないかとわたしはおもう」と述べている。これは終始、プロレタリア文学の内側に立っていた人の声として、重要な発言である。

 そこで先程、山田清三郎が触れていたように、自然発生的に書かれたプロレタリア文学の作品がすぐれた成果になり得たのは何故なのかという問題を検討してみなければならない。佐多稲子の場合はまず自然発生的に書かれたことによって、アジテーションの要素が入りこむのを免れているという点を理由のひとつにして差し支えないように思われる。また、自然発生的に書かれたために、作者の人間を見る眼や、社会をとらえる眼に客観的に「正しい」と感じさせるものを表現するのが可能になったのではないかということが、もうひとつの理由として考えられる。

 この女性作家を誕生させたのは中野重治であり、「文学的自叙伝」(『新潮』昭和14年4月号)によれば、「キャラメル工場から」という表題をつけてくれたのも中野重治である。ほかにも佐多稲子の文学的才能に気づいた人がいた。

 それは堀辰雄で、「キャラメル工場から」の発表のあと、堀辰雄がフランス語を教えてくれることになった。今後、小説を書いていくためには外国語も覚えたほうがいいと窪川鶴次郎をはじめ、他の『驢馬』の同人だった人も後押ししたらしい。堀辰雄は「自分でアテネ・フランセに入学の手続きをし、月謝も払って、教科書を買ってくれ、その上、通学の定期券まで買ってくれて、それを持ってあたしのところへ来てくれた」(『年譜の行間』)と佐多稲子は語っている。個人教授をする人も頼んでくれて、代々木に住むその人の家に何度か通ったことがあった。最後には堀辰雄自身が向島の自宅でメリメの短篇集を読んでフランス語を教えるということまでしてくれた。「キャラメル工場から」より四十七年後に発表された「時に佇つ」では、冒頭で堀辰雄からフランス語を学んだ思い出をとりあげている。

 治安維持法が制定されたのは大正十四年だったが、その法律によってプロレタリア文学関係者にも激しい弾圧が加えられるようになった。昭和三年三月十五日には日本各地で千六百人以上の人が一斉に検挙されるという事態が発生した。これは三・一五事件とよばれているが、山田清三郎は前掲の『プロレタリア文化の青春像』で、検挙の「とばっちりをうけた間接的犠牲者??その家族、縁者、知己、友人などを加算すると、その数はおびただしいものにおよんだことは容易に想像できる」と述べている。

 弾圧に対抗するためにも、「キャラメル工場から」が掲載された『プロレタリア芸術』を機関誌として発行している日本プロレタリア芸術連盟は、蔵原惟人らの前衛芸術家連盟と合併して、全日本無産者芸術連盟(略称ナップ)が結成された。昭和三年五月のことである。機関誌として、あらたに『戦旗』が創刊されて、プロレタリア文学の中心的な発表舞台となった。中野重治「春さきの風」がその年の『戦旗』八月号に、小林多喜二の「一九二八年三月一五日」が十二月号に掲載された。いずれの作品も三・一五事件を題材化している。佐多稲子の『戦旗』への最初の寄稿は昭和四年九月号に掲載された「煙草工女」である。その一方で「レストラン洛陽」を同じ月の『文藝春秋』に発表した。

 「レストラン洛陽」は佐多稲子が勤務したカフェー聚楽がモデルになっている。作者は華やかな雰囲気の客席を描かずに、終始、二階にある女給たちの仕度部屋に焦点を当てている。二十人ほどの女給がいるが、どの登場人物が佐多稲子に当てはまるのかが特定できるようには描写されていない。作者は仕度部屋に出たり入ったりしている女給たちの姿を万遍なく見ているだけである。そのため、作品としての強調点は存在しないと言える。女給のひとりが兵営から脱走した兵士と榛名山で心中するという事件を起こすが、その事件を強調するように作品を構成するということもしていない。派手なカフェー文化の裏側で働きながら生活している女給たちの姿を坦坦と描くことを主眼にした作品のように思われる。

 結末に夏江という女性を登場させている。女児がひとりいて、近所に部屋を借りて生活している。夏江は最近、泥酔していることが多く、仕度部屋に横になっている。女児が母親を迎えにきたところで作品は終わる。

 この夏江には川端康成の初恋の少女だった伊藤初代が当てはまる。佐多稲子が同じ職場に伊藤初代がいた事実を知ったのは後年になってからで、『年譜の行間』や「古いときのこと」でこの女性(伊藤ハツヨと表記されている)について述べている。

 小堀槐三とのあいだに生まれた長女は佐多稲子の父の家で育ててもらっていたが、昭和五年には長男が誕生している。育児にもはげまなければならなかったが、結果的に「レストラン洛陽」が文壇への登場作となり、『改造』『中央公論』にも作品を発表するようになった。

 昭和六年に前述した全日本無産者芸術連盟(略称ナップ)が解散し、同年十一月に日本プロレタリア文化連盟(コップ)が創設された。しかし、翌七年三月に日本プロレタリア文化連盟にも弾圧の手が及び、関係者が次々に逮捕されるという事態に至った。書記局に属していた窪川鶴次郎も蔵原惟人や中野重治、壺井繁治らとともに逮捕された。保釈になって自宅に戻ってくるのは、昭和八年十月である。『昭和文学全集』第十九巻(昭和39年、角川書店)に佐多稲子の自筆年譜が収載されているが、その年譜から窪川鶴次郎の逮捕後、保釈になるまでの記載を引用したい。


 昭和七年(一九三二) 二八歳

三月文化団体に弾圧があり、窪川鶴次郎は中野重治、壺井繁治などとともに検挙された。「何をなすべきか」を「中央公論」に発表??これにて「恐怖」(発表誌未詳)「幹部女工の涙」「祈?」「小幹部」と発表してきた東京モスリン工場争議を題材とした五部作は終った。四月、次女達枝、誕生。父正文、脳を病んだ。四月号より「働く婦人」の編集責任者となった。日本共産党に入党。小林多喜二、宮本顕治、西沢隆二、杉本良吉などとともに非合法の連絡によって、日本プロレタリア文化連盟および日本プロレタリア作家同盟の活動をした。父正文が廃人となり、継母ヨツの実家佐賀へ、正文、ヨツ、葉子が帰った。十二月、淀橋区(現・新宿区)戸塚町に移転。


 昭和八年(一九三三) 二十九歳

二月、小林多喜二が築地署で虐殺され、「二月二十日のあと」を執筆(「大衆の友」に発表)。プロレタリア文化運動に対するはげしい弾圧の中で「働く婦人」の編集委員をつづける他、「プロレタリア文化」「大衆の友」の最終号では編集責任者となった。十月、窪川鶴次郎保釈となった。


 この年譜が明らかにしているように窪川鶴次郎が不在だった一年八か月の期間に、佐多稲子は驚異的というよりほかない旺盛な活動の日々を過ごした。自身の持っている能力のすべてを出しきったという観さえ呈している。原稿を書き、雑誌を編集しながら、次女を出産し、ふたりの子供の育児にはげんだ。十条の家から早稲田に近い戸塚に転居した。もちろん窪川鶴次郎がいる豊多摩刑務所をたびたび訪ねて面会している。とくに目立つのは日本共産党に入党し、非合法活動に参加していることである。しかし、入党の経緯に関しては詳しく語ることは避けている。

 昭和八年二月二十日に地下活動をしていた小林多喜二が逮捕され、築地警察署で虐殺された。治安維持法に違反した容疑とはいえ、その人に対して他の者が殴打したり蹴ったり気絶させたりする権利は存在しない。築地警察署の署内には暴行を制止しようとする人がひとりもいなかったのだろうか。

 佐多稲子は小林多喜二の死を、他人事ではない事件として誰よりも深刻に受けとめた。それは「時と人と私のこと」?(『佐多稲子全集』第一巻「あとがき」)に、「私はこの小林と三、四日前まで秘密に逢っており、その最後の連絡場所も、小林の逮捕された赤坂の、表通りからひとつ裏側の、料亭の並ぶ道であった」と記述しているとおりの事実があったからである。この引用に、佐多稲子が参加していた非合法活動の一端をうかがうことができる。

 「二月二十日のあと」(『プロレタリア文学』昭和八年五月号)によれば、小林多喜二の死を知ったのは、その日の夕刻、中條百合子(宮本百合子と同じ)の家にいて、たまたま「小林多喜二氏、築地署で急逝」という夕刊の記事を見てだった。中條百合子が「また、殺しやがった」と言い、ふたりは泣いた。中條百合子の言葉は、岩田義道が前年にやはり虐殺された事実を踏まえている。

 佐多稲子が新聞に出ている築地病院に電話をかけて、遺骸はすでに阿佐谷の小林多喜二の自宅に運ばれたことを知り、その家を訪ねてみることにした。中條百合子といっしょだったが、作中に誰とは名前が特定されていないものの、途中で同行者がふえている。小林多喜二の家に着くと、黙って部屋に入り、遺骸の傍らへ寄った。

 小林多喜二の母が安田博士といっしょに多喜二の着物を脱がせていた。普段着らしい銘仙絣の着物を着ていたそうである。佐多稲子と中條百合子が手伝った。中條百合子が「おっ母さん、気を丈夫に持っていらっしゃいね。多喜二さんは立派に死んだのだから」と言葉をかけた。「二月二十日のあと」には小林多喜二が十一か月ぶりに自分の部屋に帰ってきたという記述があるので、社会の表面から姿を消して地下活動に専念していた期間は十一か月だったことが明らかになる。ズボン下をとり除くと、皮下出血で両膝から大腿部にかけて、べったりと暗紫色に変わっていた。こめかみや顎の下部にも傷があった。小林多喜二の母は泣きながらその傷あとを撫でて、「ここを打つということがあるか。ここは命どころだに。ここを打てば誰でも死にますよ」と言葉を吐いた。

「二月二十日のあと」には、非合法活動の連絡をとるために小林多喜二と会っていたことは記述されていない。それは当時、いかなる親しい人にも語ってはならない、絶対に守るべき秘密だった。その一方で佐多稲子も周囲の人から守られていた。

 小田切秀雄「ひとつのことを」(『群像』平成十年十二月号)に次のような記述がある。満州事変以来、弾圧強化策が進められていたが、そういう状況への対処の誤りということもあって「社会主義の前衛だった革命運動・文学運動の全面的な解体・敗退となった。佐多は、この運動の最後の中心部の一人として、ほんの一握りのメンバーにまで追いつめられながらもよく闘って屈しなかった。このときの詳細は戦後の長篇『歯車』につぶさに描きだされている。佐多は共産党員であることをだれもがもらさなかったため(宮本百合子や本庄陸男もそうだった)、留置場暮しだけですんで、作家生活を続けるように」なったということである。『歯車』は昭和三十三年十月から翌三十四年四月まで「アカハタ」に連載された作品である。

 勝本清一郎が平野謙との対談「ハリコフ会議のころ」(『文学』昭和39年4月号)で、人民戦線思想を話題にとりあげながら、小林多喜二について述べていることがある。


小林多喜二君というものの一生を貫いて、原始共産主義というか、初期共産主義の思想だった人で人民戦線思想以前の型の作家だったということだけは、事実上の問題としてはいえる。つまり小林君からいけば、プライベートの生活もなしで、党生活者というか、党に献身した生活を貫いた人ですね。そのかわり、共産主義者以外の人に対しては容赦しない考え方だったわけでしょう。すべてのインテリゲンチアにしても、あるいは技術者にしても、芸能人にしても、自から刻苦して、共産主義への道を歩かなければいけない。その行く手に十字架があろうとなんだろうと、その道を歩めという方針を貫いて、自らその範を示した人ですね。この精神力はたいへんなもので、それはずいぶん同情もしなければいけない人だけれども、ただ人民戦線思想のほんの一かけらもない人だったということはいい得る。


 小林多喜二の死に関しては許されざる残虐行為をはたらいた警察当局をどれほど非難しても非難しきれないものがあるが、いまの勝本清一郎の見解は、小林の側にはどういう問題があったのかを明らかにしたものと言える。そのうえで、勝本清一郎は小林多喜二を守る方法があったのではないかと考察をめぐらしている。平野謙との対談のなかで、ヨーロッパの運動のしかたと比較して日本の場合をこう語っている。


日本の文学運動なんか、安全なところに誰かがいると、みんなが足を引っ張って、より危険なところへ押しだして、戦死をすればみんなが喝采するけれども、これを保護しようという考え方が非常に少ないんですね。その点日本共産党の運動のいちばんの根本の欠陥は、野坂さんが日本に帰ってきたときに、愛せられる共産党にならなければいけないと言ったでしょう。しかしこれでもなお足りないんで、まず人を愛する共産党にならなければだめだというのが僕なんかの最後の結論なんです。まず自分が犠牲になっても人を愛し、人の安全、生命を保護する配慮をしなければいけないのに、みんな足の引っ張りっこをする非常に険悪な状況にあるんだな。だからそこの差なんですよ。で、小林君なんかは、ああいう壮烈な最後を遂げるけれども、ああいうところへ小林君を追いこんじゃいけないんだな。ああいう才能をもった作家だったんだから、もっと保護をしなければいけなかった。それが、小林君の主観如何にかかわらず、運動の至上命令です。


 この勝本清一郎の発言にみられるのは、実際にすぐれた作品を発表してプロレタリア文学運動の推進者となっている作家が同時に政治活動の責任者として行動し、地下活動までしなければならなかったことに対する問題意識からの指摘である。それは小林多喜二をそのような位置に立たせざるを得なかった組織の側の問題だったということになる。

 因みに、勝本清一郎と平野謙との対談の表題にあるハリコフ会議とは、昭和五年(一九三〇)十一月にウクライナのハリコフで開催された国際革命作家同盟第一回大会をさしている。日本からは日本プロレタリア作家連盟(略称ナルプ)を代表して、勝本清一郎、藤森成吉が参加した。

 小林多喜二が虐殺されたその翌日の朝、佐多稲子は豊多摩刑務所を訪ねて面会室で窪川鶴次郎と会った。小林多喜二の死について話そうとしたところ、看守に口を抑えられたことが「二月二十日のあと」に記されている。

 先にも述べたことであるが、この年の十月に窪川鶴次郎が保釈となって戻ってくるまでのあいだ、佐多稲子は非合法活動にも携わり、日々、極度に緊張を強いられる日常を経験していた。『年譜の行間』収載の年譜(佐多稲子研究会編)の昭和七年の頃には「小林多喜二、宮本顕治、西沢隆二、杉本良吉、手塚英孝と非合法の連絡をとり、文化連盟の活動に奔走。壺井栄と交友がはじまる。九月、文化連盟婦人協議会の会合で、宮本百合子等とともに、次女達枝を連れたまま渋谷署に検束される」という記載がみられる。夫が不在の家庭で育児にもあたりながら、いったん外に出れば全身の力をすべて出しきって、プロレタリア文学を担う一員として活動した。非合法活動にも携わった。佐多稲子そのものが熱情のかたまりと化したようにも映るが、それははたしてなんだったのだろうか。

 『夏の栞』に「窪川鶴次郎が、前衛組織からの離脱を表明して、保釈となった」という記述がみられるが、昭和八年十月に窪川鶴次郎が自宅に戻ってきた時点になって、自分がこれまであのように活躍できた理由を悟ることになる。夫が不在だったことによって、佐多稲子は夫に拘束されることなく時間を有効に使い、自由に活動することができた。その結果として、自己を確立することができたという自覚さえうまれていた。繰り返して言えば、そうした状態が実現したのは夫が家にいなかったことによってだった。

 『年譜の行間』収載の年譜の昭和九年の項には佐多稲子が「この年、坂本署に一週間ほど留置される」、また昭和十年の項には「五月、戸塚署に逮捕され、六月に保釈される」という記載がみられる。後者の場合はまず中條百合子が逮捕され、翌日の朝、佐多稲子も逮捕されたということである。「時と人と私のこと」?(『佐多稲子全集』第二巻「あとがき」)に、


私の取調べの最初は、他の署に留置されている若い女性の活動家が、私に「赤旗」を手渡した、ということについてであった。当時「赤旗」を読むということは、それだけで追求の口実になるのである。しかし中條百合子と私の検挙はやはり文化連盟の活動にあった。「働く婦人」の内容が、連盟発行の雑誌中、最も先鋭である、という口実によって、共産党の活動を宣伝、促進した、という追求であった。が、このときも私の非合法組織とのつながりは浮び出ていなかった。また、私に「赤旗」を手渡ししたという女性を、私は実際に知らなかった。この押し問答のとき、警視庁から出向いていた係の刑事に平手打ちを喰った。


と記されている。警察の取調べで佐多稲子が暴力をふるわれたのはこの時だけだということである。刑事は佐多稲子に「赤旗」を手渡したと言っている女性が拘留されている警察署に電話をかけ、その女性を電話口に呼び出して尋ねたところ、直接手渡ししたのではないという返事が返ってきた。そのため、このことはこれで済んだ。

 新聞に佐多稲子が逮捕されたという記事が掲載されて、警察署に見知らぬ読者から救援金が送付されてきた。刑事のひとりが、こういうことが起こると煩雑になるから他の署へ廻したほうがいい、と課長に提案している声が聞こえた。戸塚警察署から他の署へ移されたら家族のいる自宅からは遠く離れてしまうことになる。「この野郎、と私はおもったが、このときも黙って、肩つきで対抗していた」(「時と人と私のこと」?)と記している。この場面に、特高警察の取調べに若い女性と言っていい佐多稲子がどのように対処したかが端的に示されている。先程、窪川鶴次郎の不在のあいだに全力を挙げて活動した結果として自己を確立することができたと自覚するようになったと述べておいた。確かにそのとおりで、だからこそ取調べの刑事に対して内心で気魄をこめて「この野郎」と発語することによって、自分が置かれているきびしい状況に耐えるのが可能になったのだった。

 佐多稲子の場合、過酷な環境のなかで政治活動を貫いたことにより確立させた自己が、そのまま作家的主体を形成させるという結果をもたらすに至る。自己を確立させたという自覚が比較的容易に作家的主体に移行していったとみることもできる。そのことをとりあえず実証するように、佐多稲子の父を描いた「柱」は、戸塚警察署にいて取調べの合間に書き上げたということである。

 まもなく釈放されて自宅に戻ることができたが、そこには窪川鶴次郎もいれば、ふたりの子供もいる。もうひとり老女もいる。次に触れる「くれない」(『婦人公論』昭和11年1月号〜5月号。『中央公論』昭和13年8月号)にお豊という老女が描かれているが、その老女は主人公明子の実の祖母となっている。さらに女中もいた模様である。しかし、いずれにしても佐多稲子は妻として、或いは母としての役割を果たすことを求められた。そういう家庭の状況のなかで、作家として作品も書かなければならなかった。

 この葛藤が「くれない」が書かれる必然性をもたらした。「私には、書きたくないとおもいながらやはり書き出すという作品がほかにもあるが、『くれない』はこのおもいの最も強かった最初のものである」(「時と人と私のこと」?)と述べている。

 あまりに切実な題材だっただけに逆に書きたくはなかったが、その反面、切実な題材だったからこそ作品にせずにいられなかった。

 「くれない」の作中で佐多稲子に該当する妻は明子という名前で登場する。当然、夫は窪川鶴次郎ということになるが、作中での名前は広介になっている。

 元旦の夜、長男の行一を連れた明子が、岸子という友人とともに東海道線の列車に乗る場面から「くれない」は始まる。行先は国府津の海岸にある岸子の実家の別荘である。夫と妻のあいだで子供の存在は緩衝剤の役割を果たすし、作品の冒頭でのこのような設定は小説としての奥行きを感じさせることにもなる。

 じつは前年の夏も、岸子の呼びかけで明子の一家はその別荘を訪ね、滞在させてもらっていた。その時は広介も同行していたが、今回は家に残してきた。そのことに現在の夫と妻の関係がどういう状態にあるのかが示唆されているとも言える。夫と妻が置かれている現状は、国府津に到着するまでの車内で、明子が岸子に向って語る言葉で開示される。明子は、「自分の成長が、女房的なものにどうしても掣肘(せいちゅう)されそうなの。これはきっと、広介がこの頃のように家で仕事を始めたからだと思うの。以前はつまり、文筆の仕事をするのは、私が主だったでしょう。広介は外の仕事が忙しくて家には余りいなかった位ですもの」と述べた。また、夫と妻が家にいて仕事をすることによって互いに遠慮が生じ、結果的に仕事が自由にできなくなるとも語った。


「なんだか、お互いがお互いに気兼ねして十分手足を伸ばせないんじゃないかと思えて来たの。私は私の生活を持ちたくなったの」

「つまり、どうするの」

「私は、この頃、別れる、つてことを時に考えるようになったの」

 岸子は聞いて、ふむ、と言い、明子の顔を見ながら、むずかしい顔で、一度解いた腕をまた組んだ。


 こうした描写の背後にあるのは、明子の家庭のなかでの妻という立場と、その妻とは女房、もしくは世話女房とよばれるものでなければならないのかという問題意識の葛藤である。それはまた転向して政治活動からは退き、家にいて執筆活動をしている夫の広介との葛藤であり、そこに作家として作品を書きたいという佐多稲子自身の強い意欲が加わって、葛藤はますます激しくなる。

 国府津の海岸にある岸子の実家の別荘には二日ほど滞在して東京に帰った。自宅に帰れば、窪川鶴次郎と向き合わなければならない。窪川鶴次郎は不機嫌だった。元旦の夜、明子がひと言も断りなしに家を出ていったと言って咎め立てる。明子は「あの晩永見さんとどこかへ遊びに行く筈だったんだ。それが、永見さんが来ないので、その当ての外(はず)れた気持で私の態度まで実際以上に悪く取ったのよ」と反論する。ふたりは論争を始め、些細な感情のすれ違いが互いの生活態度への批判や、さらには一種の人格批判にまで突き進んでしまうことになる。

 明子がずばずばとものが言えるようになったのは「お前がえらくなったのだ」と広介は言い、「とにかく俺の留守だった二年足らずのうちにお前はすっかりえらくなったからな」と言葉を繰り返す。それに対して、明子は考える。


 二年間の留守中に、私はほんとうに、ひとりで暮す自由を味わった。

 それは何という悲しいことだったろう。夫を愛していながら、独り暮しの自由さを希ませる矛盾は、女の生活の何処にひそんでいるのであろう。見開いている目に涙が一杯あふれて来た。それを見て、広介は「馬鹿だなア」

 と、言ってその肩を抱いた。


 この引用のなかで、夫が不在だった期間に味わった自由さについて述べる際、思わず「私は」と一人称で書いてしまったようにも受けとれる。それだけ実感がこめられているとも言える。しかし、佐多稲子は過去を振りかえって、こうも述べている。


それは広介との恋愛で彼女が初めて自己を主張した、苦しく美しい思い出なのであった。広介と一緒にプロレタリア運動に参加して初めての春は三・一五事件で、生々しい新しい感情の興奮の中で、やはりこれを思い出した。その次の年は救援運動に加わっていて、労働者街に犠牲者の家族を訪ねる道に、またそのあとでは広介が病気で運動から身を退いている時の苦しい立場で井戸端で涙を流しながら、ふと、ああ春だと、心が悲しく慄えたこともある。広介が検挙された時も丁度この季節で明子は生まれた許(ばか)りの徹子を負ぶって警察へ差入れにいった。外は新緑にむせぶようで、彼女の感情がきゅっと圧搾されたこともある。彼女自身困難な情勢の文化運動の中に身をおいていて、幼児二人を抱えている母の感情で経験する闘争の日々の激しさは、それだけ、ふと立ちかえされる遠い思いに、その時は離れて暮らす広介への思慕も加わって微笑まれることもあった。


 佐多稲子の自由に作家活動をしたいという希求は、いまの引用にあるような他人のために献身的に尽した結果として掴んだものである。広介が述べていたように、佐多稲子はすでに作家として評価を受けていた。

 明子は政治活動をしていた時期の広介の生活を、自身の作家生活よりも一段高いものとし尊重していたという。広介のほうはみずからの文学的な情熱を自分がしない代りに明子の仕事にかたむけていた。

 『対論 日本プロレタリア文学運動史』(昭和30年)での中野重治の発言に、「元々文学好き」という窪川鶴次郎についての評言があるが、窪川鶴次郎はある意味で自身の文学への意欲を犠牲にして、佐多稲子の文学活動を支えてきたとも言える。しかし、「くれない」のなかで明子が「あなたは当り前の細君がやはり欲しくなったのね」と語らなければならないような事態が生じる。広介が女性問題を起こしていた。明子は夫の内面に作家として活動する妻ではなく、いわゆる女房型に該当するような平凡な妻を希求するものがあるのを感じあてていた。

 佐多稲子が作家としてはたしてなにをめざしているのかと言えば、そのことも「くれない」で明子に具体的に明確に語らせている。明子は友人の川田正子に、「私は書くわ。女のいろいろな苦しみや、悲しみを書くわ。ねえ、それでなければ私は救われないもの。どんなにたくさんの女がいろいろなことで苦しんでいるか知れないのね。私は書くわ」と述べる。この言葉に佐多稲子の強い意志が反映している。ここに示されているのは、自分自身が女性として経験しなければならなかった苦しみや悲しみを表現した作品が、女性全体の苦しみや悲しみを解決することに寄与するものでありたいという希いである。いまの言葉からは佐多稲子の文学全体に通じる性格を見出すことが可能である。

 作家である妻の考えていることが以上述べたようなものだとすれば、一方、夫である窪川鶴次郎は文学とどのように向きあっているのだろうか。その点も「くれない」で広介の発言を通して明らかにしている。


俺なんかは、これからどうにかして成長したい、と明け暮れ願っているんだ。たいした相違さ。お前はやめたい、と言えるし、おれの方はこれからなんとかして自分を築きたいと、まるで馬鹿のようにおもっているんだから。二年間の獄中生活でこのことがどんなに胸に詰っていったが、お前なんかにはわかるまい。もしもこのまんま死んだら、とそのことがどんなに恐ろしかったか。そういう焦燥というものがどんなに深刻なものか、獄中で自信を失くすのは、決まってこういうときなのだ。どんなことをしてでも、今度こそ仕事をしようとおもったのだ。今更、お前なんかに負けちゃいられないんだ。


 この広介の発言のなかに、お前はやめたいと言える、とあるのは、広介に女性問題が生じたことについて、「あなたにだけ罪は負わせはしないわ。これは私自身の悲劇なんです。だから、だから、なんだって、小説なんか書いたんだろう、とおもうわ」と語る明子の言葉を受けたものである。明子はここで自分が小説を書かずに、女房としての妻に徹していれば、問題は起きなかったのではないかと考えている。佐多稲子は広介にも十分発言させることによって、明子のありかたをも相対化している。佐多稲子の眼は各登場人物の内面の深層にまで達し、奥深くで葛藤しているものをつかみ出してきて、心理描写としてではなく、登場人物が会話している発語のなかで表現している。小説家として卓抜な力量を発揮しているといって差し支えない。

 「くれない」の結末で、広介の女性問題の相手に当初から別の男性がいたことが判明し、この問題は終わる。明子は夫と別れて現実にひとりで生きていくことになった場合、寂しさを感じなければならないのも想像している。しかし、夫と妻のあいだに生じた亀裂は依然としてそのままである。窪川鶴次郎の文学的成果はその後に達成される。小田切秀雄は『新潮日本文学辞典』(昭和63年)で、「文壇文学の作品と動向に密着しながら鋭い鑑賞力と粘り強い思考で時評と理論を書き続け、それをまとめた大著『現代文学論』(昭一四刊)、『再説現代文学論』(昭一九刊)は現代文学批評の古典となっている」と述べ、窪川鶴次郎の業績を高く評価している。

 また敗戦後は『新日本文学』を舞台に評論を発表している。その中に本多秋五が『続物語戦後文学史』(昭和39年)と『戦後文学史論』(昭和46年)の両方でとりあげ、「民主主義文学理論における巨大なホームラン・ヒット」(『続物語戦後文学史』)と評している「民主主義文学における創作方法の問題」(『新日本文学』昭和26年2月号〜3月号)と題された刮目すべき論考もみられる。

 一方、「くれない」は文字どおりの秀作である。同じ題材を後年になって書こうとしても、現在みることのできる「くれない」のような作品にはならなかったのでないかと考えられる。まもなく窪川鶴次郎と佐多稲子のあだにあらたな問題が生じる。しかし、軍靴の音が高くひびく戦争の時代が始まっていた。初心を貫こうとする姿勢から人間の真実に迫るという作家としての特徴を見失わないようにすることだけでも容易ではなかった。佐多稲子が「くれない」につづく問題をとりあげて長篇小説に取り組むのは、敗戦をはさんでおよそ二十年という年月が経過してからだった。



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