『群系』 (文芸誌)ホームページ 

30号掲載 星野光徳 芥川賞鹿島田真希批判



受賞作なしにすべきだった今回の芥川賞


       ―鹿島田真希『冥土めぐり』について



                               星野光徳



                 *本文地の部分は黒字、鹿島田作品の引用は青字にしました。



     1


 今年の上半期芥川賞作品を『文藝春秋』誌上に読む。鹿島田真希『冥土めぐり』がこの一四七回受賞作に決まったときは、前回の田中慎弥『共食い』のときのような騒ぎもなく、マスコミの扱いも小さかった。黒井千次が二十五年間も務めた選考委員を辞したが、石原慎太郎が捨て台詞を吐いて選考委員を辞めた前回ほどの話題にもならなかった。

 しかし、もし石原慎太郎が選考委員を続けていたなら、今回の芥川賞候補作品・受賞作品に対してどのような悪態をついたかが想像される。つまり、それほどの、或いはその程度の、と言いうる現代日本の新人の〈小説状況〉を示す一例が今回の受賞作であるように思えたのだった。

 感情移入して読むこともできず、感銘を受けることもなかったのだが、そういう作品が芥川賞を受賞して一定の話題の作品のように眺められてしまうこと自体の問題について考えさせられてしまう。

 ストーリー、つまり創作された物語が面白くないというのではない。いえば、物語に読者を連れ込む文体の問題といえる。


 「奈津子」は八年ぶりに、脳に障害をもった夫「太一」と旅行に出ようと思い立つ。そこは今の奈津子にとっては忌まわしい、自分が子供の頃、両親と弟と四人で行った高級リゾートホテルで、とくに母にとっては祖父・祖母との輝かしい過去を象徴する場所だった。母はそのホテルのサロンで踊る若い祖父と祖母の古い八ミリフィルムをすり切れるほど眺め、過去の家族の栄光を奈津子に繰り返し語って聞かせた。しかし、当時は高級リゾートホテルだったそこは、今や一泊五千円の保養所に成り果て、奈津子は色褪せてしまった(に違いない)そこに再び行ってみようと思ったのだ。

 小旅行に向かおうとする新幹線車中での太一の無作法で無垢な振舞い。思い出す母と弟との地獄のような生活。

元スチュワーデスだった母は、事業に成功した祖父のもとで何不自由のない暮らしをし、すべてを失った今でもかつての「お姫さま」のような暮らしを夢見ている。働こうともしない弟は甚だしい浪費癖があり、やはり夢物語にしがみついている傲慢な人生の落伍者だ。それでも二人はかつて味わった贅沢のままに暮らそうとし、「自分たちは特別だ」と思い込んでいる。母は奈津子も自分と同じスチュワーデスになって、男たちからチヤホヤされる「お姫さま」になることをずっと望んできた。その奈津子が区の職員に過ぎない太一と結婚し、さらに太一が障害者となってしまったことは、その収入を当てにしていた母と弟にとって信じ難い事態だったわけだ。


  弟の借金で母親がとうとうマンションを手放さなければならなくなった日のことを奈津子は鮮明に覚えている。もうとっくに太一は働けなくなっていた。夫婦は太一の年金と奈津子のパート代で、小さなアパートに暮らしていた。だけど、急に呼び出されたのだ。母親の爆発した不満を受け止める、その生贄として、腹いせとして。あんたの旦那のせいよ! 奈津子と太一がマンションを訪れるや否や、母親は絶叫した。あんたが二束三文にもならない旦那を持たなければこんなことにはならなかったんだからね! 娘が金持ちと結婚して、新しい家でも建てると思っていたのだろう。そのことに今まで、寸分の疑いもなかったのだろう。太一は、居間のフローリングの床で正座をして、下を向いてうなだれていた。それなのに、どうしてなにも言わなかったのだろう。奈津子は思う。太一は人に好かれる。障害者になってから特にそうなった。どこで転んでも助けられ、パトカーに送られて家まで帰って来たこともある。あいつはしたたかで図々しい奴だ。弟は憎たらしそうにそう言った。


 長々と引用したが、どこかリアルでないと感じるのは私だけだろうか。現実にこのような家族がいるかどうかはともかく、娘とその夫に向かってここまで利己的な罵言を投げつける母親の姿は却ってリアルではない。母と弟の理不尽さと、その理不尽さから傷も受けない太一という存在を対照したかったのだろうが、そこは「太一は人に好かれる」と表現されるべき箇所だったろうか。「だけど、急に呼び出されたのだ」の「だけど」も、何やら収まりの悪い表現だ。

 しかし、そのような母と弟から自分は逃げられない、と奈津子は思ってきた。奈津子はただ黙り、非難も、幻想は終わっているのだという事実も口にしない。それも読者には不自然なことだ。封建時代ならばいざ知らず、現代においてこれほどの苦痛を強いる家族ならば、逃げ出さない方がおかしい、と読者は思う筈だ。そういう不自然に対する疑問が、この小説への違和となり、頁をめくる速度を遅らせる。つまり、ここまで読んできた段階で、私は小説世界に入り込むことができなかった。

 

  太一の手術は、脳に電極を埋め込む、という大掛かりなものだった。(略)手術に伴う危険はいかにも大きそうで、奈津子は時間がほしいと思った。だが、医者は手術の希望者は多いが、たまたま次の週にキャンセルをした人がいるから、早く決断してほしいと言う。それを断ったら、五年後になってしまう、と。

  その時、太一がぽつりと言った。しゅじゅつします、と。僕は、しゅじゅつを、します、と。震える舌で。ねえ、全身麻酔をして、脳に電極を埋め込むんだから、もう少し、よく考えてみましょうよ、奈津子はなだめた。しかし太一は、再び、しゅじゅつ、します、と言った。体は弱くても、心は強固だった。


 太一の、ときには頑ななまでの、つまりは自己完結する意志や信念といえるものは、「心は強固だった」という言葉で済まされていいのか、と思わずにはいられない。その「心の強固さ」を、太一に残された精神の証としてもう少し描写してほしいところだ。


  結婚してからも、二人のアパートには頻繁に、弟から電話がかかってきた。大事な話があるから今すぐに来い。こういうことは何回もあった。奈津子はいつも抵抗できない。――あのホテル、最上階のフレンチを予約したんだ。なにしろ大事な話だからな。これは口実で、本当は食事がしたいだけなのだ。またカードを使うか、母親がいつもお金を入れている引き出しから盗むかしたのだろう。ドレスコードがあるからちゃんとしてこいよ。弟は覚えたてのその言葉を使った。奈津子はいつものように、正装して、口紅を塗る。

  二人はホテルのロビーで待ち合わせをして闊歩する。まるで恋人同士のように。そして高価なシャンパンを飲まなければならない。

  弟はシャンパンを飲み干す。そして言う。ああ、なんて旨いんだ。俺は高級なものを食べている時が一番幸せなんだ、生きている心地がするんだ。弟は自分が生きていると思っている。そしていつもの話が始まる。おいおいお前、いつになったらあいつと離婚するんだよ。お前はなにもわかっていない。(略)働きもしない、家でなにもしない。そんな男をどうして好きになれるっていうんだ。――なにもしていない男でも死んでいるよりはましだ。弟は太一の生活に嫉妬しているのだ――俺たちのためになにもしない男を、どういう理屈で好きになれるっていうんだ。


 私はこういう部分に、やはりつまずく。弟の傲慢と理不尽を描きたいのだろうが、「死んでいる」としか思えない酒びたりの弟の命令に従って、なぜ奈津子は嫌悪する虚栄の場所に出かけて行くのだろう、と思ってしまう。読者にそう思わせるのは、奈津子がそうしてしまう理由が(不合理だろうと理不尽だろうと)、小説として納得できる形で描かれていないからだ。

だが、描かれていなくても、読者は想像する。奈津子がドレスアップし、口紅を塗って、弟の虚妄の贅沢に付き合わされているとき、太一はどこで何をしているのか。

区役所のパート勤めの妻が着飾って夜に外出していく姿を太一がどんな気持ちで見送っているのか。奈津子はそのことを考えないのか。太一には何と言って家を出てくるのか。読みながら、確かにひどい弟だと思わされるが、奈津子もかなりおかしいぜ、と思ってしまう。

 奈津子は思い出のホテル――保養所で、太一の故郷である北海道の料理を食べ、あの八ミリフィルムで何度も見せられた十五階のガランとしたサロンに行き、太一が温泉から出て来るのをじっと待ちながら、母と弟との苦役のような日々をフラッシュバックのように思い出す。

しかし、母と弟の虚栄・理不尽・傲慢・打算・無自覚・他者への依存を非難するように思い出しながら、そこに加担していた自分は何者なのかを考える姿は描かれない。

 かつて奈津子が上司から性的嫌がらせを受けて、会社を辞めると告げたとき、母は怒り狂って娘を殴打し、その上司を訴えて慰謝料を取れと叫んだ。


 「呆れた。どうしてあなたは私のためになにもしてくれないの? 私はただお金がほしいだけなのに。哀しい。思いやりのない子ね。どうしていつもそんなに親不孝なの? 私を愛してくれてないの? 娘なのに」

  これが母親の一番の嫌悪であり、一番の焦燥なのだ。目の前に一瞬ちらついた金が、雲散霧消してしまうこと。

 「もうやめて!」

 (略)恐怖を感じた奈津子は「私に近づかないで」と、近くにある座布団やティッシュボックスを投げて母親と距離をとった。しかしやがて捕らえられて、二人はしばらく揉みあった。

  その時、弟が声を挙げて、窓ガラスを割った。

  叫び声を挙げて、次々とガラスを割っていく。こうなると、母娘も手がつけられない。


 奈津子は初めて母に抵抗したのだろう。しかし、読者はもううんざりしながらも気づかずにはいない。繰り返し思い出される母親の身勝手の無意味にではなく、奈津子のある種の〈欠落〉に。

 つまり、そのようにも読めるのであり、そのように読まねばならないのかも知れない。太一の純真と無頓着によって照らされるのは、母と弟の執着心ではなく、奈津子の決定的な〈欠落〉なのだと。

 二人は翌朝、ホテルを出て、バスで美術館を訪ねる。安心できる絵があり、目を背けたくなる絵がある。何枚もの絵の前で、奈津子は「脅えたり、安堵したり」しつつ、最後には「他の人が美しいというものを見て、癒されようとしていた自分は不自然だ」という思いに至る。生きる基準は他者の中にあるのではない。


  一つの絵を見て、なんらかの印象を覚えても、やがてそれは過去になる。奈津子は怖くなくなった。解釈の難しい、不気味な、不愉快な絵であると感じることはある。だが奈津子はそれを見ることができた。もちろん、それはただ直視できるというだけで、それ以上の深い意味はなにもわからなかった。だが奈津子は、意味のわからない絵は、見るに耐えないのだという心の状態から抜け出したことに気づいた。


 やや説明的な描写は気になるが、奈津子はやっと自己の〈欠落〉とそれに対する(母や弟に対する、ではなく)怯えの正体に気づいたということだろうか。しかし、確かにそうだといえるわけでもない。

 それから二人は海岸に行く。太一は杖をついて砂浜によろけながら、「明日ね、電動車椅子の操縦試験があるんだよ」と言う。


 「車椅子が来たら、外国にもどこにでも行けるんだ。どこへでも、だよ?」

  太一は砂浜に座ったまま、どこへでも、と興奮して手を横に広げた。

  どこへでも、と太一が言った瞬間、波が砕けた。奈津子は濡れるのもかまわず 隣に座った。波の音をもう少し聞いていたくなった。


(略)

  きっと太一は海を怖いと思ったことがないに違いない。奈津子は暴力のようにあらゆるものが変化することを恐れる。この海ですらも。だけど太一は、そんなことはないみたいだ。今までもそうだった。きっと彼にとっては、全てが満ち引きなのだ。

  この人は特別な人なんだ。奈津子は太一を見て思った。今まで見ることもなかった、生まれて初めて見た、特別な人間。だけどそれは不思議な特別さだった。


 あれれ。この期に及んで初めて夫の「特別さ」に気づいたというのだろうか。いまさら? 「この人は特別な人なんだ」? その「特別さ」に気づくために、あの忌まわしい場所への旅行があったというのだろうか。読者は、それがどのような「特別さ」であるのかを読むために、ここまで読み進んできたのではないのか。つまり、最後の鍵となる脳に障害をもった夫の描き方は容易に想像できる範囲を出るものではなく、その「特別な」ありようが充分に描かれていたとは思えない。

 物語は平穏な日常に戻った二人を語って終わる。太一は電動車椅子で新しい小世界を開き、奈津子は母が新しい服を送ったと電話を寄こしても「ありがとう」と答えることができる。「その服は別に着なくてもいいのだ、そういう選択肢もあるのだ、とやっと気づいた」というわけだ。

奈津子はやっと自己の〈欠落〉に気づいたといえるのだろうか。作品の結末は彼女のこれからを暗示はしても、ただそれだけのことだ。やや大げさなタイトルの「冥土めぐり」は、過去の地獄を経巡った末に、一種の救いと覚醒に至る、奈津子の心的遍歴といいうるものだったのだろうか。回想―出来事の振幅はそれなりに見えたが、ドラマ自体の振幅はさほどではなかった。今は零落した忌まわしい過去と対面し、改めて気づかされた無垢な心によって救われる物語? そんなものは過去にいくらでもあった。


     2


 作者・鹿島田真希は全くの新人ではない。大学在学中に文藝賞を受賞し、その後、三島由紀夫賞、野間文芸新人賞を受賞した、いわば大物常連新人とでもいうべき書き手だ。

しかし、この作品への芥川賞授賞に反対票を投じた選考委員は、村上龍ひとりだったようだ。石原慎太郎が抜け、黒井千次が抜けたとはいえ、新委員が加わった他の八人の選考委員は消極的にであれ、授賞を支持したわけだ。


  受賞作「冥土めぐり」は宗教的な暗示が色濃い作品だ。同時に、経済的な豊かさを剥ぎ取られてもなお虚飾と虚栄の夢を捨てられない浅ましい人たちを描くことで、経済力以外のアイデンティティを持ち得ていない日本の縮図としても読める。(略)日本中どこにでも在りそうな、繁栄と凋落を象徴する舞台設定が効果的である。夫は言語の能力に劣り、「理不尽」や「矛盾」という抽象的な言葉は理解できないが、ささやかな喜びを無限の幸福に繋げていける無垢な男として描かれる。車椅子が来たら外国にもどこにでも行けると無邪気に話す。自分が置かれている状況を認識できない夫は、しかし聖愚者として救済者となる。作者のもっとも伝えたい「奇蹟」を、不器用なまでに真っ正面から書いている。                       (高樹のぶ子)


  鹿島田さんの「冥土めぐり」にも、不意打ちや前向きの種明かしがあった。途方もない言動を繰り返す母と弟に語り手の徹底的な受け身を対比させ、「受け身」と「受け入れること」のちがいを示してくれる夫を中間に据える、この構造に狂いはない。(略)《聖なる愚者》としての夫の存在を前提にすべてを構築しているところ、また啓示の光を浴びる前に「この人は特別な人なんだ」といった説明が添えられるところに勿体なさを感じるけれど、大切に抱えてきたと思われる主題を描き切っていて、受賞にふさわしい一作だと思う。

                           (堀江敏幸)


 鹿島田さんは奈津子の語りをうまくコントロールし、陳腐になりかねないテーマの壁を超えてもう一歩先の地点に到達している。奈津子は家族の記憶を標本にし、ガラスケースに納め、半ば無機物化した形で保存している。夫と旅をしながらガラスケースを一個ずつ取り出して眺めている。その行為と、夫と二人で美術館を見学する場面が重なり合うあたりから、物語は大きくうねりだす。言葉の通じない場所に生きているかのようだった夫が、重大な意味を帯びはじめる。夫の発作こそが、彼女の記憶を標本化するために必要な薬剤となったのだ。作品全体を覆う緊迫した不穏さは、独自の魅力を放っている。              (小川洋子)


  (略)残り三篇は、それぞれ独自な世界が作り出されてはいた。が、方法的にはさほど見るべきものはなく、なかで鹿島田真希氏の「冥土めぐり」は主人公の母親の虚栄の象徴であった高級リゾートホテルが一泊5千円の区の保養所に落ちぶれ、そこを主人公が訪れるという物語の作りに強烈なアイロニーが宿って、力強い言葉の動きとともに、精彩のある一篇として結実している。            (奥泉 光)


  主人公奈津子の夫であり脳の病を発症している太一の、なんだかよくわからない性格や行動が、たいそう魅力的でした。なんだかよくわからないのに、この小説はとても切実だった。その切実さは、作者が小説にこめた思いの強さ、などというものからきているのではないと思います。そうではなく、作者の書き方、技術の手柄なのです。         (川上弘美)


 『冥土めぐり』を絶賛するような選評である。だが、本

当にそうなのか。『冥土めぐり』が描いたのは感動的な「奇

蹟」であったのか。その文体には「作品全体を覆う緊迫

した不穏さ」があっただろうか。「うねりだす」ような「力

強い言葉の動き」があったのだろうか。「作者の技術」と

いうほどの文体の妙を味わえたのだろうか。むしろ、こ

の作品の文体はフラッシュバックのような手法を用いな

がらも、回想と嫌悪の語りは案外に素朴なものではなか

ったろうか。ドキドキするような興奮も、見事な文章へ

の感動もなかったのではないか。

 「奇蹟」を描こうとしたのならば、夫の描き方が平板

だったのではないか。例えば大江健三郎作品における、

脳に障害を負った息子「イーヨー」の描き方を学んでほ

しいと言いたいほどだ。


  鹿島田真希の『冥土めぐり』は(略)構造は極めてシンプルだが、背後に神話的原型が見え隠れし、また一人の労働者が三人の無産者を養わなければならないという今日の日本が置かれた状況のリアルな寓話にもなっている。(略)おそらく、この作品は鹿島田本人にとって、過去の自分との訣別を宣言するものになるだろう。身体障害を抱えた夫の無垢な善人ぶりに救われたヒロインは新たな旅に出る準備を整えたのである。              (島田雅彦)


  私は「冥土めぐり」に登場する人物たちも風景も小道具も、みな作者の己心のなかで展開されているものとして読んだ。車椅子に乗っている夫も、零落したかつての名門ホテルも、主人公を縛りつづける母や弟も、どれも作者己心の劇である。この己心のなかで繰りひろげられる劇によって、主人公は死から生へと舵を切ることができた。(略)だが、どうしても諸手をあげてとはならないのは、鹿島田さんの小説につねに漂っているレトロな少女趣味が好きになれないからだ。けれども、そういう少女趣味的な世界に生理的に我知らず惹かれる読者は案外に多いことであろう。

                                    (宮本 輝)


 島田と宮本の評には、頷けないわけでもない。この作

品を現在の日本の寓喩として読むことは可能だし、すべ

ては作者の「己心」を映した虚構なのだといえなくはな

い。勿論、ここを起点として、鹿島田が今後どのような

飛躍を見せるかも分からない。案外、この作者は削ぎ落

とした文体で、巧みな短編を描くのに長けていくかも知

れない。


  受賞作の『冥土めぐり』については、わたしだけが「ノー」だったが、ティストとモチーフに対する違和感があっただけである。                                   (村上 龍)


 村上の批判は詳しく聞いてみたいところだが、想像できなくはない。この作品のティスト(設定・展開の味わ

い・文体の妙)もモチーフ(素材・動機)も見え透いている、という意味だったろうか。

 いずれにせよ、私に感動はなかった。文体の巧みさに感心するということもなかった。毎回の芥川賞選考の舞

台裏が想像されないでもないが、文藝春秋社は今回どうしても受賞作を出す必要があったのだろうか。


                                (2012・9)


トップへ    

戻る(30号のページ)へ