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佐藤隆之 漱石の歴史観など- 「それから」「点頭録」- 25号<夏目漱石特集>


漱石の歴史観・文明観・天皇観・戦争観

   

          ―「それから」「点頭録」を中心に―


   

        佐藤隆之



 「それから」(『東京朝日新聞』明治四二年六月二七日〜一0月一四日)の「十三の六」に、主人公代助が「現代的滑稽の標本」だと思う一つの話に、平岡が語る形で幸徳秋水のことが語られる。


 幸徳秋水と云ふ社会主義の人を、政府がどんなに恐れてゐるかと云ふ事を話した。幸徳秋水の家の前と後に巡査が二三人宛(づゝ)昼夜張番(はりばん)をしてゐる。一時は天幕(てんと)を張つて、其中から覗(ねら)つてゐた。秋水が外出すると、巡査が後を付ける。万一見失ひでもしやうものなら非常な事件になる。今本郷に現はれた、今神田へ来たと、夫(それ)から夫(それ)へと電話が掛つて東京市中大騒ぎである。新宿警察署では秋水一人の為に月々百円使つてゐる。同じ仲間の飴屋が、大道で飴細工を拵えてゐると、白服の巡査が、飴の前へ鼻を出して、邪魔になつて仕方がない。


 この程度の叙述並びに「それから」以降の作品からも、漱石が幸徳秋水や連載終了の翌年起こる大逆事件に関して、どういう意識を持っていたかが探りにくい。実際、漱石研究でも大逆事件との関わりをきちんと論じている論文は管見では殆ど見つからない。しかし、代助の言う「現代的滑稽の標本」の話に幸徳秋水を見張る巡査のことが取り上げられるということから、国家権力を対象化している冷ややかな視線を読み取ることは可能かも知れない。漱石が有名な博士号辞退の経緯から、国家権力に対する懐疑や不信感に当たる心情を抱いていたことは、伊豆利彦『漱石と天皇制』(有精堂、平成元年九月一0日)等にも指摘されている。幸徳秋水に関してどういう感情を抱いていたかはわからない(大逆事件発生の渦中に漱石が修善寺の大患で死にかけていたことも、事件や秋水に関する発言が少ない原因になっている)が、少なくともそれを弾圧する国家に対する批判的視線が存在していたことは間違いなかろう。

 漱石の国家並びに明治政府への批判的視点を証明する叙述を他に探してみよう。まず、代議士を巻き込んだ疑獄事件「日糖事件」の際に、「英国大使が日糖株を買ひ込んで、損をして、苦情を鳴らし出したので、日本政府も英国へ対する申訳に手を下した」という新聞からの紹介ではあるが、政府の弱腰かつ外国への迎合的姿勢への批判が見られる。また、「日糖事件」より前に出て来る叙述だが、大隈重信の学生迎合の姿勢に対する批判的な代助の態度も書かれている。そして、最も痛烈な日本批判、文明批判は、平岡との会話で代助が語る以下の部分である。


  「何故働かないつて、そりや僕が悪いんぢやない。つまり世の仲が悪いのだ。もつと大袈裟に云ふと、日本対西洋の関係が駄目だから働かないのだ。第一、日本程借金を拵らへて、貧乏震ひをしてゐる国はありやしない。此借金が君、何時になつたら返せると思ふか。そりや外債位は返せるだらう。けれども、それ許(ばか)りが借金ぢやありやしない。日本は西洋から借金でもしなければ、到底立ち行かない国だ。それでゐて、一等国を以て任じてゐる。さうして、無理にも一等国の仲間入をしやうとする。だから、あらゆる方面に向つて、奥行を削つて、一等国丈の間口を張つちまつた。なまじい張れるから、なほ悲惨なものだ。牛と競争をする蛙と同じ事で、もう君、腹が裂けるよ。(中略)精神の困憊と、身体の衰弱とは不幸にして伴つてゐる。のみならず、道徳の敗退も一緒に来てゐる。日本国中何所(どこ)を見渡したつて、輝いてゐる断面は一寸四方も無いぢやないか。悉く暗黒だ。其間に立つて僕一人が、何と云つたつて、何を為(し)たつて、仕様がないさ。(中略)そりや今だつて、日本の社会が精神的、徳義的、身体的に、大体の上に於て健全なら、僕は依然として有為多望なのさ。(以下略)」


 この部分は代助が働かないことへの自己弁護の発言であることは確かである。しかし、そこに語られる日本批判、明治政府批判は、漱石の講演「現代日本の開化」(明治四四年八月一五日、和歌山県会議事堂、同年一一月『朝日講演集』に収録)で語られた、日本の外発的開化が西欧の内発的開化とは違い、かなり無理をして「一等国」の仲間入りをしようとした上滑りなものであり、そこから来るひずみのようなものが国民を苦しめているという指摘と相通じている。そうすると、この代助の発言には漱石の本音がかなり反映されている、と言ってもよかろう。

 国家に対しては批判的視点を堅持していたと言ってよい漱石だが、天皇制や天皇そのものに対する視点はどういったものだったか。作品としては『こころ』(『東京朝日新聞』大正三年四月二0日〜八月一一日)の先生が「明治の精神」に殉じたというものが、最も天皇制に近付いた発言と言ってよいものかも知れないが、これも「明治の精神」という漠然としたものに抽象化され、具体的な天皇観を読み取ることは難しい。

 日記の叙述中から天皇制に関わる部分を探してみると、たとえば、明治四五年六月一0日の項に、「皇室は神の集合にあらず。近づき易く親しみ易くして我等の同情に訴へて敬愛の念を得らるべし。夫が一番堅固なる方法也。夫が一番長持のする方法也。」と書き、七月二0日の項に、「晩天子重患の号外を手にす。尿毒症の由にて昏睡状態の旨報ぜらる。川開きの催し差留められたり。天子未だ崩ぜず川開を禁ずるの必要なし。(中略)もし夫臣民中((衷))心より遠慮の意あらば営業を勝手に停止するとも随意たるは論を待たず。然らずして当局の権を恐れ、野次馬の高声を恐れて、当然の営業を休むとせば表向は如何にも皇室に対して礼篤く情深きに似たれども其実は皇室を恨んで不平を内に蓄ふるに異ならず。」と記す。これらのことから言えることは、漱石は天皇(この場合は明治天皇)に対する個人的敬愛や親近感というものを大事にし、その対象として天皇制や皇室を容認しているが、その天皇制や皇室を利用する当局(明治政府)に関しては批判的視線を向けている、という立場である。すなわち、天皇制というものに対して直接の可否を問うということはせず、消極的に容認する立場、そして、天皇制という大きな殻は脱ぎ捨てて、天皇が一個の個人として国民に向かうべきだ、という考え方を持っていた、その意味では漱石は冷静な個人主義者(国家主義者に対する意味としての)である、とまとめてよかろうか。

 「それから」には、直接の戦争批判らしき叙述は見られないが、「軍神広瀬中佐」に対するやや批判的な表現が見られる。


  広瀬中佐は日露戦争のときに、閉塞隊に加はつて斃(たお)れたため、当時の人から偶像(アイドル)視されて、とうとう軍神と崇められた。けれども、四五年後の今日に至つて見ると、もう軍神広瀬中佐の名を口にするものも殆んどなくなつて仕舞つた。英雄(ヒーロー)の流行廃(はやりすたり)はこれ程急劇なものである。と云ふのは、多くの場合に於て、英雄とは其時代に極めて大切な人といふ事で、名前丈は偉さうだけれども、本来は甚だ実際的なものである。だから其大切な時機を通り越すと、世間は其資格を段々奪ひにかゝる。露西亜と戦争の最中こそ、閉塞隊は大事だらうが、平和克(こく)復の暁には、百の広瀬中佐も全くの凡人に過ぎない。世間は隣人に対して現金である如く、英雄(ヒーロー)に対しても現金である。だから、斯(か)う云ふ偶像にも亦常に新陳代謝や生存競争が行はれてゐる。(以下略)


  ここは厳密に言うと、戦争批判というより、世間の流行の飽きっぽさ、英雄の栄枯盛衰が語られている部分であるが、時期的な例として「広瀬中佐」が取り上げられたにせよ、漱石が軍人や戦争嫌いであったことの傍証くらいにはなりそうな箇所である。

   もう一つ、戦争関係の発言として注目して良い箇所は、「広瀬中佐」の話より前に出て来るものだが、代助とその友人寺尾との発言として、「代助が、文学者も恐露病に罹つてゐるうちはまだ駄目だ。一旦日露戦争を経過したものでないと話せないと冷評(ひやかし)返した事がある。すると寺尾は真面目な顔をして、戦争は何時でもするが、日露戦争後の日本の様に往生しちや詰まらんぢやないか。矢っ張り露西亜文学を鼓吹してゐた。」という戦争批判並びに日本批判の見られるところである。

 「それから」より七年後の「点頭録」(『東京朝日新聞』大正五年一月一〜二一日)には、第一次世界大戦に関する感想が次のように述べられる。


    「何んな影響が出て来るか、来て見なければ無論解りませんけれども、何しろ吾々が是はと驚くやうな目覚ましい結果は予期しにくいやうに思ひます。元来事の起りが宗教にも道義にも乃至一般人類に共通な深い根柢を有した思想なり感情なり欲求なりに動かされたものでない以上、何方が勝つた所で、善が栄えるといふ訳でもなし、又何方が負けたにした所で、真が勢を失ふといふ事にもならず、美が輝を減ずるといふ羽目にも陥る危険はないぢやありませんか」

    (中略)

     何れの方面から見ても手段は目的以下のものである。目的よりも低級なものである。人間の目的が平和にあらうとも、芸術にあらうとも、信仰にあらうとも、知識にあらうとも、それを今批判する余裕はないが、とにかく戦争が手段である以上、人間の目的でない以上、それに成効の実力を付与する軍国主義なるものも亦決して活力評価表の上に於て、決して上位を占むべきものでない事は明かである。

     自分は独逸によつて今日迄鼓吹された軍国的精神が、其敵国たる英仏に多大の影響を与へた事を優に認めると同時に、此時代錯誤的精神が、自由と平和を愛する彼等に斯く多大の影響を与へた事を悲しむものである。    


  戦争は本来、思想等の影響によるような大きなものを人にもたらすことはなく、目的以下の手段に過ぎないものだが、今回の戦争並びに軍国主義が人々に多大の影響を与えた結果になり、それを悲しむという趣旨である。すなわち、漱石は、戦争並びに軍国主義は思想等より低級で人々に多大の影響などもたらしてはならない、という批判をしているのである。「それから」以降も漱石は、戦争に対する批判的視線を堅持していた、と判断してよさそうである。竹盛天雄「漱石―『点頭録』に触れつつ」(『別冊國文学 夏目漱石必携U』〈學燈社、昭和五七年五月一0日〉、七頁)によると、漱石が「この戦争を、『人道』『宗教』『文明』のためのものと見ていない。『自分はただ軍国主義の発現として考へるより外に翻訳の仕様がなかつた』と捉えている」と紹介されている。やはり、漱石は戦争否定論者であった、というまとめ方ができそうである。



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