『群系』 (文芸誌)ホームページ
32号 市原礼子 外狩雅巳
大正期の民衆派の詩人たち
―白鳥省吾・福田正夫・富田砕花らー
市原礼子
日本詩史の中で「口語自由詩」がどのようにして、詩の在り方を求めて来たのか。その過程に、大正期の「民衆詩」の発生があることを見逃してはいけない。文語定型詩の決まり事から逃れて、日常の言葉で自由に、庶民の哀歓を表現したいという動きが、大正の民主主義的な風潮と連動して起きていた。
日本の近代詩は、外国の詩の翻訳から始まった。明治十五年に訳詩集『新体詩抄』、明治二十二年に『於母影』、明治三十八年に『海潮音』が出ているが、これらは当然ながら文語体で訳され、七五調のリズムの定型詩になっている。
大正八年にホイットマンの詩集『草の葉』が富田砕花により訳される。同年に白鳥省吾も『ホイットマン詩集』を訳する。大正九年に福田正夫が『トラウベル詩集』を、富田砕花が『カーペンター詩集』を訳する。これらの詩は口語散文詩に訳された。三人の訳者、富田砕花(1890〜1984)、白鳥省吾(1890〜1973)、福田正夫(1893〜1952)は「民衆派」の詩人といわれる人たちだった。
「民衆派」の呼称のいわれは、大正七年に福田正夫が起こした雑誌『民衆』に参画した詩人たちが、平明な言葉で農民や庶民の生活や自然を表現、民主的な思想の発露した作品を発表したことによる。その活動は約十年間続いた。彼等が傾倒したホイットマン(1819〜1892)の『草の葉』(1855年)は本国のアメリカでも、従来の韻律を無視した新しい自由な詩、散文詩の出現ということで賛否両論を持って迎えられていた。形式だけでなくその内容も、ありとあらゆる人達の、あらゆる事、あらゆる自然が歌われ、「自由詩の父」と呼ばれた。ホイットマンが日本に紹介されたのは明治二十五年で、夏目漱石(1867〜1916)による。民衆派の詩人たちは、『草の葉』に大きな影響を受けた。
白鳥省吾は民衆詩の特色を三つあげている。@現代に対する情熱を持ち、同時に未来に飛躍する肯定的精神。A着実なる現実味、ひいてはそれまでの詩人が気づかなかったあらゆる人間、あらゆる事実に詩を見いだす広範な取材。B言葉の自由で平明であること、などである。
北原白秋(1885〜1942)は民衆詩派の詩を「詩としての気品も香気も韻律も乏しき、散文系の自由詩であり、行分け形式を取り払うと散文になる。これが詩であろうか。」と批判した。
これに対して白鳥は「詩の自由なる表現へ! 詩壇はこれに十余年を費やして歩いて来た。今更、自由詩の徹底的自由、新しい詩の世界の凱歌に対して、世迷言を言う古き詩人よ、立ち去れ」と返し、また「新時代の詩人の大多数は自由なる詩にその表現を求めている。生活そのものが詩である新時代の詩人にとって自由詩は当然すぎる表現である。詩の基調には思想があって始めていい詩が確立される。根本に於いて思想なき社会性なき詩がどうして心ある人を感動させ得ようか。」と主張した。
また福田正夫は「平明な言葉によって深い感情と思想とをうたい、詩を現実の人生に即して生むことを求める。そこに詩の根元がある。感情はこれを高くし、思想はこれを深くするであろう。」とした。
それでは彼らは実際に、どのような詩を書いていたのか、大正期に書かれた詩を一遍ずつ紹介したい。
農村の夕暮 福田正夫
農村の夕暮だ、
静かな沈黙の中に生活を感ぜしめるのがいまだ、
見ろ、まだ稲を刈って群がある、
娘が立ち上って自分をみた、
豊かな頬だ、ゆたかな眼だ――清らかさがいっぱい動いている様だ。
悠かに鍬を肩にして家路を辿る農夫がいる、
刈った稲の束を背負ったかみさんが子供の手を引いてあとに連く、
重いだろう、しかし楽しそうだ、
わらっているじゃあないか。
働くことだ、
凡ては働きのあとで生まれる、
闇はいま来る、
しかしそこには反対に永遠の光とよろこびとが来るのだ、
働け……働け、
日は暮れるしかし農村はいま働きのあとにめざめている。
詩集『種播く者』より
この詩が書かれた背景について、詩集『種播く者』の跋より引用したい。「この詩集は、大正五年から七年にわたっての作を集めてある。この時代を私は小田原在石橋に教員をしていた。……たった一人の先生で、一年から四年までの単級を受持って、雑誌『民衆』の刊行に力を尽くしたりしながら、養子として福田家のためにも随分苦しみ、その間に村の事業をおこしたりしていたのである。」 そのような中で二十代の福田は、農村の人々や自然に呼びかける。
自主 富田砕花
自分はすべての名に於いて
このみづからを愛する。
茫漠として大気の如く
とらえ難いみづからというものを。
時として
自分は黙って
このみづからの活動をながめる――。
とらえ難い大気の兄弟のみづからはつねに自由である。
戦場のような
都会の大騒擾のなかにあって
みづからは焚く
褸のような香を、生命の壺から。
また、
暴風雨の原頭に
夜をこめて怯まず、めげず抗い通した
草のいたいけな葉片からみづからが微笑して歓喜の太陽に對って新しい日の灌奠をする。
戸外の焦燥をよそに
海の底のような動揺を絶した
夜の室に閉じて、梢にさわぐ風に耳そば立てて
みづからが重くみづからを凝視する。
生命あって
どんなところにも呼吸している
みづからよ、
そのかたちは無く、つねに自由である。
詩集『地の子』より
富田砕花は他の民衆派の詩人とは少し違うようだ。その作品は多彩で、多面的である。その表現はおおらかで明るいが、漂泊者を感じさせるところもある。ホイットマンの影響を感じる。
殺戮の殿堂 白鳥省吾
人人よ心して歩み入れよ、
静かに湛えられた悲痛な魂の
夢を光を
かき乱すことなく魚のように歩めよ。
この遊就館のなかの砲弾の破片や
世界各国と日本とのあらゆる大砲や小銃、
鈍重にして残忍な微笑は
何者の手でも温めることも柔げることも出来ずに
その天性を時代より時代へ
場面より場面へ転々として血みどろに転び果てて、
さながら運命の洞窟に止まったように
凝然と動かずに居る。
私は又、古くからの名匠の鍛えた刀剣の数数や
見事な甲冑や敵の分捕品の他に、
明治の歴史が生んだ数多い将軍の肖像が
壁間に列んでいるのを見る。
遠い死の圏外から
彩色された美美しい軍服と厳しい顔は、
蛇のぬけ殻のように力なく飾られて光る。
私は又手足を失って皇后陛下から義手義足を賜わったという士卒の
小形の写真が無数に並んでいるのを見る、
その人人は今どうしている?
そして戦争はどんな影響をその家族に与えたろう?
ただ御国の為に戦えよ
命を鴻毛よりも軽しとせよ、と
ああ出征より戦場へ困苦へ……
そして故郷からの手紙、陣中の無聊、罪悪、
戦友の最後、敵陣の奪取、泥のような疲労……、
それらの血と涙と歓喜との限りない経験の展開よ、埋没よ。
暖かい家庭の団欒の、若い妻、老いた親、なつかしい兄妹姉妹と幼児、
私は此の士卒達の背景としてそれらを思う。
そして見ざる榴散弾も
轟きつつ空に吼えつつ何物をも弾ね飛ばした。
止みがたい人類の欲求の
永遠に血みどろに聞こえくる世界の勝鬨よ、硝煙の匂いよ、
進軍喇叭よ。
おお殺戮の殿堂に
あらゆる傷つける魂は折りかさなりて、
静かな冬の日の空気は死のように澄んでいる
そして何事も無い。
詩集『大地の愛』より
遊就館は靖国神社の境内に併設されている軍事宝物館で、西南戦争の後に構想が出て、明治十四年に竣工、翌十五年に開館されている。関東大震災で損壊を受けたが、昭和七年に再建された。明治、大正年間に日本は三つの戦争を経ている。この時期に白鳥が多くの反戦詩を書いていることは驚きである。
私はこの三人の詩人の、名前が冠された賞があるのは知っていた。この度、はじめてその詩をじっくりと読んでみた。昭和になり、一旦は消えてしまったかのように思われた民衆詩の精神は、今では現代詩の中で伏流のようにゆるやかに拡がり、詩のすそ野をなしているような気がする。平明な言葉で現実の人生に即した詩を書く。そこに思想、メッセージを込めることができれば詩が深まる。まさに、詩の書き方の基本の一つであるような気がする。もちろんそれだけでは、詩が詩として成り立つわけではない。行分けであろうが、散文であろうが、本当の詩には、心に響くものが必要だ。今回、民衆派と言われた詩人たちの詩を読むことにより、先達の詩作の積み重ねの上に、現代詩があり、今の自分の詩があることに、改めて気付かされた。
【参考文献】
日本詩人全集32 明治・大正詩集 新潮社
富田砕花全詩集 富田砕花先生全詩集刊行会
福田正夫全詩集 福田正夫全詩集刊行会
詩の在りか―口語自由詩をめぐる問い 佐藤伸宏 笠間書院
現代詩人群像―民衆詩派とその周圏 乙骨明夫 笠間書院
日本の詩歌28 訳詩集 中公文庫
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プロレタリア文学から
外狩雅巳
二十歳の青年作家の「地上」が刊行されたのは、大正八年です。島田清次郎が三年間で五十万部の総売り上げを大正十二年七月なでに記録したことは、現在なら三百万部、五百万部に匹敵するでしょう。
大正時代は大衆時代だといえるでしょう。
世界大戦で苦しんだ欧州の経済事情にかわり、工業化が進み労働者が大量に生れました。電話・ラジオ・映画等の情報産業も急成長し、プロレタリア文化もその波に乗りました。
明治憲法の下での天皇制絶対主義国家への異議申し立ても大正デモクラシーで発信可能性が開けたつかの間の時代でありました。労働者が自覚し、権利と生活向上を求める運動が進み、それが文学作品に描かれました。
労組に結集し、階級的に成長する中でプロレタリア文学も目的意識的な運動となってゆきました。独自の舞楽理論の科学的深化を急発達させました。マルクス主義の成果としてのロシヤ革命の時代背景がありました。
マルクス主義が理解され活用されてゆく過程とあわせて労働運動を、プロレタリア文労も深化発展したのが大正時代でしょう。
そして日本共産党が結成されます。この党の文化政策に指導された方針の下で徳永直や小林多喜二が作品を発表してゆきます。
労働者階級が社会の主人公になるための政治プロセスにそった作品を書きました。
「太陽のない街」(昭和四年)は工場労働者の組織的闘争の実態を描写しました。徳永直は作品の中かで正しい闘争方針をおこなえず敗北する運動から不屈に再起する未来を示そうとしました。
「蟹工船」(昭和四年)は帝国海軍の正体を書きました。立ち上がる労働者群像を描きその圧殺者としての国家権力を指摘した小林多喜二は共産党の方針を文学作品として完成させました。
世界の共産主義運動を進めたコミンテルンの統一戦線方針の確立が遅れ帝国主義に押されてしまいました。
それを守ることに傾き、世界革命は達成できませんでした。スペインでの勝利も最後には潰されました。日本も又戦時体制になり、プロレタリア文化は息の根を止められました。
この失敗は教訓になったのでしょうか。
戦後の「政治と文学」論争も不完全だと思います。多喜二作品の欠点を見つけ揚げ足取り的な方向に進んでしまいました。
そして、平成の現在。
情報産業の発展で新しい大衆化になっています。双方向通信や電子書籍等々の中で文学も変化しています。
一方、働く人の状況も又変化しています。非正規雇用労働者が三分の一を超え、労働運動も低調になっています。働く人の権利と生活向上を求める気持ちも大きくは広がりません。国も国民の意向に反し統制国家への動きを強めています。
小林多喜二の「蟹工船」が読まれブームが起きましたが、権力と資本への反抗運動には進みませんでした。出版資本の勝利でした。
なぜでしょう?
私は労働者文学の指針が無いからだと思います。時代を正しく認識し作品方向を示すことが出来ないからだと思います。プロレタリア文学を継承した戦後の新日本文学会は宮本百合子百合子の発信した「歌声よ起これ」からの出発でした。
新日本文学会の後身を自称する民主文学の月刊誌「民主文学」九月号で牛久保健男氏は「狭小邸宅」(「すばる」)等々の文芸誌作品で描写されるゲンダイの労働者について論じています。
氏はかつてのプロレタリア文学は「労働者を階級闘争のなかに位置付けて描くということに、作家も、文学運動も苦心した」と書いています。そして「文学には思想≠ェ必要だ」と結論付けています。「頭を挙げてたたかう姿を描い」たとして、民主文学の作品を評価しています。
私は悩みました。
あの「政治と文学」論争がもう一度行われると考えているのだろうか。それほど思想が文学を導けるのだろうか。
原発問題等々で現代作家が発言していることはニュースになっています。作品の主題にもなることでしょう。
作家たちはどんな思想を元にして国家に向けて作品を創り上げるのでしょう。
大正の文学を特集するとき、プロレタリア文学について一言をと思い立ちました。しかし過去の文学を研究し、独自の発見や解釈を出来るほどの力量はありません。
私は十五歳から働き続けました。労働者として多くの工場で肉体労働を行いました。
労働組合を結成し生活向上と権利行使を要求し激しい運動を行いました。その中でプロレタリア文学に出会い、愛読者となりました。自作も発表しました。その自作に対しての評価として、「思想がない」と言われたと理解しました。
同人雑誌で私の作品が仲間に「負け犬根性の小説」と評価されたことがありました。
プロレタリア文学から何を学べば良いのでしょうか。