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32号 小林弘子 野寄勉 草原克芳






大正期の泉鏡花             小林弘子


荷風と歌舞伎座 大正篇        野寄 勉


谷崎潤一郎と<非知>の陰翳      草原克芳













 浪漫主義作家の面目を新たに


            −大正期の泉鏡花−


     小林弘子



 泉鏡花の文学は明治期に一応の完成をみた、といわれる。たしかに、明治二十五年のデビュー作「冠(かんむり)弥左衛門(やざえもん)」以来、若い世代の絶大な人気を得て流行作家となり、次々と書き継いだ「外科室(げかしつ)」「照葉狂言(てりはきょうげん)」「義血?血(ぎけつきょうけつ)」「化鳥(けちょう)」「高野聖(こうやひじり)」「風流線(ふうりゅせん)」「婦系図(おんなけいず)」など、よく知られる代表作は、ほゞ明治期に集中している。どれも、独特の幻想美と反骨のロマンチシズムで貫かれ、鏡花ならではの文学世界へと今も読者の心を引き込んでゆくものばかりだと思う。

  しかし、師・尾崎紅葉の死(明治三六)以後、自然主義文学の台頭につれて、古いタイプの戯作者、硯友社の生き残りと目された鏡花は、文壇の片隅に追いやられた形となり、体調を崩して明治三十八年から足掛け五年間を、相州・逗子に流謫者めいた日々を過ごさざるを得なかった。その間も「春昼(しゅんちゅう)」「春昼後刻(しゅんちゅうごこく)」「草迷宮(くさめいきゅう)」など、本来の作風を一層深くした作品をのこし、明治末期には花街の人情世界「白鷺(しらさぎ)」「歌行燈(うたあんどん)」の傑作を書くも、自然主義系からは所詮、通俗小説との低い評価しか得られぬまゝに推移していったのだった。

 明治六年生れの鏡花は大正元年には、まだ数え四十歳。この時期、自然主義主流とはいえ、一方で、どの流派にも括れない鏡花の才能を高く評価し支持する人も少なくなかった。

 評論家・田岡嶺雲は「鏡花は独り怪誕の叙事を実有らしく感ぜしむるの手腕あるのみならず、却て又現実なる卑俗なる事実をも、詩的に神秘的に描写するの手腕を有す。」(「鏡花の近業」)と、自然主義作家には不可能な、奇跡のような鏡花の文章(表現力)だと絶賛した。

 また芥川龍之介は「先生の作品は、?殊に先生の長編は大抵或議論を含んでゐる。「風流線(ふうりゅうせん)」、「通夜物語(つやものがたり)」、「婦系図(おんなけいず)」、?篇々皆然りと言つても好い。その又議論は大部分詩的正義に立つた倫理観である。(略)僕の信ずる所によれば、この倫理観は先生の作品を全硯友社の現実主義的作品の外に立たせるものである。のみならず又硯友社以後の自然主義的作品の外にも立たせるものである。(略)」(「『鏡花全集』に就いて」)と、中学生時代から愛読していた鏡花文学の特質と魅力を簡潔に述べている。

 明治四十二年に朝日新聞に連載された「白鷺(しらさぎ)」は夏目漱石の推輓によるものであり、反自然主義の都会派「三田文学」を主宰する永井荷風も、同誌に鏡花作品「三味線(しゃみせん)堀(ぼり)」(明治四三)「朱日記(しゅにっき)」(明治四四)を掲載して厚意を寄せた。これらが端緒となって、大正時代は三田派の水上瀧太郎、久保田万太郎をはじめ、里見ク、谷崎潤一郎、佐藤春夫、芥川龍之介、画家の鏑木清方、小村雪岱、鰭崎英朋らが鏡花を熱心に支持し、結果的には鏡花復活へと導いたのだった。そのかぎりでは鏡花は一時代の流行に惑わされることはなかったと言えよう。

 大正期には名作「日本橋(にほんばし)」(大正三)や「由縁(ゆかり)の女(おんな)」(大正八〜一〇)、「賣色鴨南蛮(ばいしょくかもなんばん)」(大正九)、「眉(まゆ)かくしの霊(れい)」(大正一三)と気を吐き、変わらぬ筆力を見せている。

 また大正期のあらたな展開は、何といっても戯曲の制作の多いことがあげられよう。「紅玉(こうぎょく)」(大正元)、「夜叉(やしゃ)ヶ池(がいけ)」(大正二)、「恋女房(こいにょうぼう)」(大正二)、「湯島(ゆしま)の境内(けいだい)」(大正三)、「海神別荘(かいじんべっそう)」(大正三)、「天守物語(てんしゅものがたり)」(大正六)、「日(に)本橋(ほんばし)」(大正六)、「山吹(やまぶき)」(大正一二)、「戦国茶漬(せんごくちゃづけ)」(大正一五)など十一篇を数える。明治期の「婦系図」や「白鷺」などは他者の脚色による上演だったが、大正期は新劇の創作上演が一種のブームを迎えた時期と重なるように、鏡花自らが脚本を手掛け、時には演出もするなど、耽美主義の主張はいよいよ不変に、非日常の別世界へと観客を導く手腕を力強く印象づけた。

 大正十二年九月一日に関東全域を襲った大震災の罹災記「露宿(ろしゅく)」(プラトン社月刊『女性』特集・十九氏による「文壇名家遭難記」中)では、幻想作家のルポルタージュとして思いがけない一面が発揮された。独特の流麗な文体の中に、実体験ならではの貴重な証言と人間観察を随所に織り込んで、人情家・鏡花らしい筆致は鴨長明の『方丈記』にも擬せられる。

 大震災後、この年五十代を迎えた鏡花は「生涯の決算」を意識するように、帰郷の機会が増え、昭和期には故郷金沢に取材した作品の発表が目立っている。

 大正期をしめくくる十四年七月、芥川龍之介の名文「目録開口」を得て『鏡花全集』全十五巻(春陽堂)の刊行開始。五月には、その予告を兼ねた『新小説』臨時増刊「天才泉鏡花」号が発行された。同時期の文芸座談会から、関係する話題発言を拾ってみよう。「新潮合評会」(『新潮』大正十四年五月号)から抜粋。当時の鏡花評の一端がうかがえる。


 広津和郎「鏡花全集の内容見本の序文は芥川かね。芥川の外に、あゝいふ文章を書く者は居ないと思ふのだが、尤       も芥川と思って読んだ為かも解らんが。……誰も斯ういふ文章は書けないだらうと思ってさ。(略)」

 徳田秋声「泉君の読者といふのは、芸人の贔屓客みたやうなものだらう。」

 宇野浩二「芥川とか、水上瀧太郎とかいふチャンとした人がどういふ風な意味で鏡花に感心されるのか……」

 徳田秋声「一種の迷信的のもので、所請る“ひゐき”といふのだらうね。批判なしで心酔したといふやうにね」

 中村武羅夫「泉さんの作の好きな人は酔はされるのでせう。泉さんの作には」

 徳田秋声「酔はされはしないね」

 千葉亀雄「あの時代には酔はされました。(略)僕らなどあの文章まで暗誦したものです」

 宇野浩二「まだ何も考への足らない文学青年なんかが見ると、何でも彼でもよいものに違ひないと思ひあやまりはしな        いか、(略)文学の邪道には違ひないね」

 徳田秋声「しかし天才といへば天才だ。畸形的ではあるが」








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 荷風と歌舞伎座 大正篇


                    野寄 勉




 三十三歳から四十七歳までとなる永井荷風の大正十五年間。それに先立つ明治四十一年までの五年弱に及ぶアメリカ・フランス外遊中、彼の地でオペラを中心に精力的に観劇体験を重ねたことによって劇作の意欲を募らせていた。帰国後の「あめりか物語」、漱石の懇請によって朝日新聞に連載した「冷笑」や「すみだ川」など多くの作品を矢継ぎ早に発表して注目を集めていた荷風は、旧知の小山内薫を通じて親しくなった二世市川左団次を介して河竹黙阿弥家に養子になりたい希望を伝えた。申し出は辞退されたが、「蟲干」(明44・9「三田文学」)や「三人吉三廓初買につきて」(大4・2「三田文学」)で、時代の風俗を忠実に写生する黙阿弥讃美は揺らぐことはなかった。

明治四十三年九月、「平維盛』」明42・9「三田文学」)が、高島屋の本塁・明治座における先代左団次追善興行に上演された。これが荷風の戯曲の初上演である。

 初代歌舞伎座(明22年開場)は、桟敷のうしろ一面を開けっ放しにしているせいで、外からの雑音に遮られて台詞が聞こえない瑕瑾を指摘しつつ、〈巴里で云へばまづオペラ座と云ふ処だね。〉と、〈オペラ座が、交際界の貴婦人の肩を見に行く処〉であるごとく、〈歌舞伎座は新橋の芸者を見に行く処だ。田舎の人が東京見物に一度必ず来て置けばいゝ処だ。〉(「歌舞伎座の桟敷にて」明43・11「三田文学」)と、観劇以外に劇場が果たす役割に洋の東西がないことをいささかあげつらい気味に指摘するが、荷風自身もまた、大正元年諒闇中の九月二十八日に結婚する、湯島聖堂裏の材木商の娘・十歳年下の二十三歳の齋藤ヨネとの見合いの場は、ほかならぬ歌舞伎座であった。

 明治三十三年から翌年にかけ狂言作者を目指していた二十一歳の折、十か月ほどとはいえ歌舞伎座内部の人間であったがゆえに、さまざまな思いが交錯していたことであろう。「或る劇場の運動場にて」(明43・12「三田文学」)には、〈兎に角今日吾々の来べき劇場は歌舞伎座と明治座だけじゃありませんか、其処がつまらないと云ったって行くべき処は他にない、仕方がないから何とか方法を発見して其れに満足するやうな諦めをつけるのが肝腎だ。(略)日本の劇場の建築が不完全なら、不完全なだけに、舞台の燈火と桟敷外の外気の光線との錯乱によって、不思議な意外な色彩の現象に接する事が出来るでせう。〉〈皮肉な観劇法〉でもって〈非美術的〉に眺めるという慨嘆をとおり越した諦観が表明された。


       *


 大正期の歌舞伎座に触れようとすれば、四年の歳月をかけて改元前年の三月一日に開場した帝国劇場に触れないわけにはいかない。渋沢栄一ら実業家たちが、上流人士たちが伝統演劇を鑑賞できる劇場をと、旧来の興行関係を一切排除して丸の内三菱ヶ原に建坪六百四十五坪、ルネッサンス式フランス風様式五階建ての鉄骨建築を白煉瓦で包み、内装は要所に大理石を使用し、旧来の升席でなく千七百の椅子席を設置した。茶屋出方は廃止された。三越が「帝劇を見ずして芝居を談ずる勿れ、三越を訪れずして流行を語る勿れ」と新聞広告を打ったごとく、大正消費文化を象徴する場所になった。開場式に出席した荷風は建築は褒め(「帝国劇場開場式合評」(明44・4「三田文学」)るが、運営者に芸術が解る者がいないうちは芸術上の収穫は当てにできず、すれば劇場というより日本人が社交を修養する場となる可能性に期待する。(「帝国劇場批評」明44・4「太陽」)こののち、荷風作品の多くは、この帝国劇場で上演されることになるが、だからといってこの劇場に格別の思いを抱くことはなかった。

先んじて洋風建築であった歌舞伎座は帝国劇場と差異化をはかるべく古代日本の宮殿式に大改造され、帝国劇場開場八か月後の十一月にリニューアル・オープンした。正面車寄せは唐破風、天井は檜の格組、銅葺の釣庇、左右平屋も破風造りにするなど、徹底的に日本風の意匠が追及された。

ちなみに大正のスタートとともに始まった荷風の結婚生活は親の体面のためだけであったので、父・久一郎が死去するや否や五か月前に結婚したばかりのヨネを離婚。翌大正三年八月、結婚前から交情を深めていた愛人・新橋巴屋の八重次(藤蔭静枝)こと金子ヤイと、市川左団次夫妻の媒酌で再婚する(六か月で離婚。荷風の浮気が原因)。

 さて、この大正三年三月十四日の日記「大窪だより」に、次のくだりがある。


  念入りに細工物いたすやうな心持にて、旧劇の脚本や浄瑠璃こしらへるつもりに御座候。尤もどこからも依頼されたる訳には無之候へども、独りでコツ  と細工致し居候時の心持が自分だけにては何とも云へぬ程愉快に御座候。


と、上演される当てはなくとも楽しみとしての創作に意欲を表明している。その結実が『三柏葉樹頭夜嵐(四幕)』(みつかしはこずゑのよあらし 大3・3『三田文学』)、『三巴天明騒動記』(みつどもゑてんめいさうどうき 大3・4『三田文学』)である。前者は六年後、帝劇で上演されることになるが、後者は序幕と二幕目第一場までの未完作で単行本に収められることもなく、後年手ずから遺棄される。この二作の発表と前後して、改装を経た第U期歌舞伎座を訪れた記述が、三月二十八日の項にある。


  花道揚幕の処より電気仕掛にて役者の顔だけ明く見せんとするは誰の御趣向にやつまらぬ悪戯に御座候。板羽目の破れより夕日がさし込みたるやうにて不 体裁この上なし。花道暗しと申すなれば市川家十八番の如き狂言にては殊に昔の面灯が望ましく御座候へども今は何事も云うて甲斐なき世の中なれば我等は 唯だ口を呟むより外致し方無之候。


と、趣向への不満及び諦念を隠さない。

 大正十五年間の年譜中、実に多くの芝居関連の動向が散見されるのはひとえに、二世市川左団次(本名・高橋栄次郎)との異常ともいえる深い交情を因とすることは、既に近藤富江が『荷風と左団次』(二○○九 河出書房新社)で指摘しているとおりであるが、その左団次も含め斯界から荷風に対し、たびたび狂言の執筆が要請された。求められること自体はうれしくあるものの、要請に沿いうる作がものにできぬもどかしさは、執筆意欲減退の表明として「日乗」中、幾度となく記される。あたかも、そのもどかしさをまぎらしつつモチベーションを維持させるような松莚・市川左団次との濃密な交流であった。


 〈大正八年白樺派の出現以来、文壇での荷風の影は薄くなっている。〉(近藤)中、〈感興年と共に衰へ、創作の意気 今は全く消滅せり。〉(四月六日)と言いながらも挑んではいたようで、二週間後には〈狂歌と浄瑠璃の述作ほどむづかしきものはなし。〉(同月十九日)と、呻吟している様子がうかがえる記述があるかと思えば、〈この頃、折々脚本に筆とりて見たきやうな心地す。〉(五月十日)と意欲がもたげたりもする。岡鬼太郎より〈新作の脚本を需めらる。病来意気銷沈 筆を執るに堪へざれば辞したり。〉(十月七日)風月堂で偶然逢った夫人連れの菊五郎は〈余に逢ふ毎に新作の脚本を求む。厚意は謝する所なれど、今日の劇場は既に芸術を云々する処にあらず。余脚本の腹案なきにはあらねど筆持つ心なし。〉(十二月二十日)と頑なかと思えば一週間後、来春明治座で岡の新作の小猿七之助を演ずる左団次が着附仕草の参考にしたいと、登美夫人を同伴して来訪してくれば、所蔵する人情本春画の類を開陳している。

 大正九年も、〈松莚子に招がれて東仲通末広に飲む。清潭子も亦招がる。河合武雄のために新作脚本を需めらる。〉(三月三十日)と、荷風に対する斯界からの脚本執筆要請が切れることがなかったことを『日乗』は録す。五月は帝国劇場で、「帝劇女優劇十年記念興行」として、六年前の『三柏葉樹頭夜嵐』が沢村宗十郎、沢村宗之助、尾上松助及び劇場女優らによって十五日間二番目狂言として上演された。自作上演に発奮したのか、『開化一夜艸(二幕)』(かいくわひとよぐさ 大9・7『新小説』)が執筆される。十二日〈腹案成る。〉十八日〈脱稿。〉と、かなりの早書きである。脱稿五日後、偏奇館に移居。『三柏葉…』上演の際に種々のトラブルと直面したのか、巻末には「無断興行不許」「上演心得事」と「礼金の事」を付記するものの、本作が評価・上演されることはなかった。荷風自身も満足できる作品ではなかったようで、原稿はのちに廃棄される。

 大正十年一月七日、岡鬼太郎、川尻清潭ら左団次のブレーンの集まり「七草会」が発足し、以後毎月開かれることになる。興行毎に新作上演を望んでいた左団次のために脚本を提供したり、新作をあっせんすることを第一に招集された集まりであった。第一回の会合で薦められて書き下ろされた明治座三月上演作『夜網誰白波(二幕)』(よるのあみてらとしらなみ)は、十九日に早くも脱稿し、三十一日には「拙作脚本の事につき松莚子岡氏と竈河岸の八新に会す。」以降、打ち合わせと稽古を経て三月五日、明治座で初日を迎えるに至った。八日、木村錦花は三百円もの脚本礼金を持参する。気を良くしたのか、荷風は次作に取り組むものの、〈脚本の執筆意の如くならず。苦心惨憺たり。〉(五月四日)、〈脚本苦心 懊悩深し。〉(五月二十三日)

 大正十一年の帝国劇場は、六月に「旅姿思掛稲」を羽左衛門・梅幸によって、七月に「煙」改題「伯爵」を守田勘彌・市村亀蔵らが、十二月は左団次に「秋の別れ」が上演されてはいるものの、荷風の評伝家・秋庭太郎は〈写実的な現代劇に自信を失った荷風は、大正期に入るや、狂言作者の前歴を活かすが如く大正三年から十年までに黙阿弥張りの世話歌舞伎の脚本三篇と、清元所作事浄瑠璃一篇とを発表したが、これは荷風の江戸趣味時代の好事的自慰的文業であり、文壇的に云々せらるべき作品ではなかった。〉、〈明治末期から大正中頃までに発表した荷風の近代劇、歌舞伎劇、浄瑠璃劇の何れにも評判作はなかった。〉(『新考 永井荷風』昭58・3 春陽堂)とにべもない。


         *


 歌舞伎と新劇は劇場も俳優も分けねばならぬ。概して舞台は高さと奥行が足らず、なによりも舞台の生命である電気の設備が日本の劇場は不完全、との談話を掲載した「新劇と劇場」(大10・10『人と芸術』)が発表されるとなんの因果か、十月三十日朝七時半、第U期の歌舞伎座は舞台内棟二階の電気室での漏電により出火、八名の死傷者を出し四十分で灰燼に帰す。これが機になったかのように、執筆できぬ懊悩が、というより執筆自体を『日乗』に録すことはなくなる。

歌舞伎座は焼失後ただちに再建が決定し、大正十一年六月に着工、上棟までこぎつけた翌十二年九月に大震災にみまわれる。揺れによる倒壊は免れたものの、夜七時半、銀座方面からの猛火は木挽町一帯を舐め尽くし、八月二十日頃に搬入したばかりの舞台・花道に使う八万円分の木曾檜が燃えたため鉄骨の梁が溶け、大屋根が落ちた。東京市の復興計画に基づく区画整理で道路が拡張され再建計画が頓挫せぬよう、松竹は内相後藤新平に直談判して指定を免れた。

第V期歌舞伎座は大正十三年十二月に竣工、翌十四年一月に開場した。奈良期の典雅壮麗に桃山期の豪奢絢爛を合わせた意匠。鉄筋コンクリートによる三階。収容人数二千四百七十四名、左右の桟敷席などを除き椅子席になった。耐震耐火建築であったが、昭和二十年五月の空襲でも外面を残して焼失する。それはまだのちの話である。

 この第V期が開場してからの荷風の歌舞伎座への関与は深まる。狂言を書きあぐねる以上、震災を好機となし芝居興行には関係すまいと思ってはいたが、事情がそれを許さない――という「事情」とは左団次とその周辺との交流であろう。書けないにも関わらず、これまで以上に深みにはまったきっかけが、本郷座の二月興行で南北の「勝相撲浮名花触」(かちずもううきなのはなぶれ)で歯入屋権助という悪党役に扮する左団次の稽古取締役(舞台監督)を依嘱され務めたことである。この芝居の評価は高く、うるさ型の劇評家連も手放しで褒めた。弐百円の礼金を贈られた荷風は『日乗』に〈意外の巨額一驚すべし〉と綴っている。近藤富江も荷風は戯曲作者としてより、演出家としての感覚を評価しているが、第V期歌舞伎座においては稽古ざらいを頻繁に見るばかりか、作者部屋や事務所にも出入りを繰り返し、七月興行に出演する左団次の『東海道四谷怪談』準備に日参している頃にいたっては「ほとんど梨園の人の如き」(六月十六日)とまで記すまでに至る。

 そんな中、柝を打つ極意の秘伝書「拍子記」を川尻清譚に委ねている(三月二日)のは象徴的である。作者見習いの青年期に兄弟子・早川七造より借り受け模写した、狂言作者を目指した若き日の夢のモニュメントといえる「拍子記」を人手に渡したことは、座付き作者の道の棚卸しとも解せようが、思うように書けないことの屈託・もどかしさは屈折しながらも埋火のようにくすぶっていたにちがいない。

 六月三十日、歌舞伎座の座付作者に岡鬼太郎が適任か相談されたのに続き、十二月十七日には巌谷小波の長男・松竹社員で劇作家・演出家の巌谷三一を立作者にどうか相談された際、一抹のやるせなさ、諦観はかすめなかっただろうか。

大正期の歌舞伎座が第U・V期の建物であったことと、〈大衆文化が花開いたとされる大正時代は同時に二代目、三代目の「若旦那」の時代でもあった〉(長山靖生『大帝歿後』2007・7新潮社)ことを符合させれば、初代歌舞伎座も知る四十六歳の立ち位置は、自らも明治の(まずは)成功者たる父が築いた遺産を相続した二代目でありながら、今や後進に進むべき道を指し示すところにあったのだ。父に対する反抗としての芝居道への執心も、父が残した資産があってはじめて維持されるものであった。“若旦那”は、父離れするにあたり父を当てにするという矛盾を抱えながら、いつしか中年になっていたのであった。今更とはいえ、二十一歳当時の宿願であった歌舞伎座の座付作者・立作者になることを荷風本人が少しも望んでいなかった、とは言い切れまい。歌舞伎座で荷風作品は上演されてはいない。左団次をとおして梨園に、また歌舞伎座が身近になったのに相反して、これといった会心作を書き上げられない自分へのふがいなさがなによりの因にちがいないのだが、若気の至りとはいえ、禁令を無視して幕内の内情を公表した挙句自ら飛び出していった人間を歌舞伎座の作者部屋が迎え入れてくれそうもなかった。若き日に抱いた夢がもはや幻になった諦念の反動か、自作脚本を興行にごり押ししようとする動静には手厳しい。

 木曜会の席上で聞いた話として、以前にも帝劇に自作脚本が上場された折もゆすりがましい所業をなした山本有三が松竹キネマ会社に自作を活動写真に仕組み替えたと因縁をつけ興行を差し止めた上、三千円の賠償金を獲たという風評を〈近頃文士の悪風恐るべし〉(七月九日)と。また歌舞伎座と帝劇に脚本を売りつけておいて上場延期を機として損害賠償金を強請した菊池寛を〈品性甚下劣の文士〉(十一月十三日)とみなし、歌舞伎座の舞台稽古を見に行った折、二月興行の中幕が谷崎純一郎の旧作「信西」になったのは、当初座主は山本有三の戯曲を左団次に演じさせようとしたが、あまりの愚作ぶりに岡鬼太郎をはじめ、当の左団次も拒んだため(大正十五年一月三十日)と、容赦なく悪罵を書き連ねる。

 大正十四年の総括として、〈執筆の気力、つい消磨し、心欝々として楽しまず。淫蕩懶惰の日々を送りて遂に年を越しぬ。〉(十二月三十一日)〈消磨〉するくらい机の前で格闘したものの、その成果が実らなかった悔しさ・ふがいなさが縷々と綴られる。

転じて大正十五年、たとえば七月下旬、左団次が避暑で東京を離れている間も歌舞伎座に日参し、ふだん観る機会が少ない人形芝居を連日楽しんだように、歌舞伎座に足を運んだのは三十一回と前年の二十八回より増えてはいるものの、帝劇の冷房批判(七月十七日)と照合させるように歌舞伎座の涼しい穴場を紹介(八月十三日)したりと、観劇マニアの一人ではあっても、もはや〈ほとんど梨園の人の如き〉佇まいはうかがえない。


         *


 昭和三年八月二十四日、〈勢力日に従って消滅し行くが如き心地す、其中突然劇疾に襲はるゝやも測りがたしと思ふが故、〉人から借りた書籍は返送し、草稿は落ち葉とともに庭で焼こうとしたが近所迷惑を懸念して夜、隅田川に棄てるも拾われて失敗。翌夜、再度試みる。「日乗」は永代橋上から投棄した作品名を列挙する。紐で束ねられた「三巴天明騒動記」「開化一夜草」、そして「桜川春宵月」と「極彩色夜絵屏風」と題した脚本は、〈やがて闇の中にかくれ失せぬ〉。

 三日後、同じ場所に捨てたのは、〈少年の頃作りし漢詩草稿一巻、 上紀行一巻、紅蓼白 録とやら題したる逗子鎌倉の遊記一巻、小説紅箋堂佳話の草藁なり〉続けて〈いづれも死後人に見らるゝことを願はざるものなり〉と、自らの文業として録されべからざるものとして、若書きのものと並ぶのが、多くの狂言脚本であったわけである。

 荷風五十歳、芝居にかけた明治の夢を追いかけた大正時代は、かくして大川に水葬されたのであった。





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        谷崎潤一郎と<非知>の陰翳


                            草原克芳


 谷崎文学「=無思想」説は、ほんとうか?


■谷崎潤一郎という小説家には、「批評性」がないというのが定説らしい。批評性のみならず、「知性」「思想性」が欠如しているというのだ。谷崎潤一郎が、日本文学史を代表する大作家であることは間違いないが、知的な要素がおよそ欠けた「非知」的な文学者だという奇妙な評価である。そのむかし白痴美という言葉があった。現代ではこの熟語は差別語に分類されているのかキーボードを叩いても一発変換ができない。それはともかく、谷崎文学のぜんたい的な印象は、どうも「大輪の牡丹のような白痴美人」というイメージで定着しているらしいのだ。

 とはいうものの、そもそもが日本の明治・大正時代の作家が、漱石・鴎外・二葉亭あたりを例外として、それほど思想性に富んでいたであろうか。白樺派にしたところで、「思想・批評」というよりも、むしろ本能的な修養主義・人格主義であり、大正期の文学者達のひとつの共通志向ともいえる個人主義にしたところで、他の作家たちが潤一郎と比較して、特別に秀でているとも思えず、それほど「知的」でもないだろう。あえて無思想や批評性の乏しさをいうならば、同じ耽美派作家でも、泉鏡花のような作家の方がふさわしい。しかし鏡花の場合は、ことさらに「無思想」を糾弾されることはない。これは一体、どういうわけなのか。

加えて、谷崎文学の「通俗性」うんぬんがよく指摘されるが、通俗性を指摘している批評家なり、作家なり、研究者なりが、それをいえるほど「超俗的」な文学者なのか。そもそもが、世俗の海に批評的に切り込み、そこから人物像を造型し、人生の象徴的シーンを表象化せることこそ、小説の王道ではないのか……というような素朴にすぎる疑問も湧いてくる。

――先日驚いたことがある。

 この雑文を書くために、漫然とネットサーフィンをしていたところ、アジア系留学生らしき名の記された修士論文の中で「谷崎潤一郎は、無思想・批評的知性が欠如した文学者」と、初っ端から何のてらいも躊躇もなく断定されていた。すでに「谷崎=非知」は自明の定説として、外国人日本文学研究者にも、了解済みのことらしい。これはいささかショックであった。わたし自身は長い間、谷崎潤一郎こそ、日本文学史の中でも、もっとも批評的で、思想的で、知的な作家だと考えていたからである。

何もいまさら大谷崎の名誉回復を図るというのではない。小説家における「知」とは何かという問題が曖昧化されてしまうとき、内在的な批評というものも極めて不鮮明なものとなってしまうのではないか、と懸念する。それ以上にゆゆしき反作用として、小説作品の中に、感覚、感性、情念に密着しない「思想」「知」「概念」が蔓延り、根を失った空虚なイミテーション文学が大手をふるうことになるのではないか。

 何しろその一留学生は、誰かに教え込まれた通り、あるいは蓄積された文書や論文データの山をそのままに盲信して、「谷崎文学は、知的要素に乏しい」というアプリオリな前提から、自分の谷崎文学の研究を開始しなければならないのだ。このような奇妙な評価が固定し、構造化してしまっている淵源とは、いったい何なのか、そして、作家における知性・批評・思想の機能や意味とはどのようなものなのかについて考えてみたい。


  中村光夫『谷崎潤一郎論』

■たとえば中村光夫に『谷崎潤一郎論』(昭和二六〜七年)という著書がある。ここから「谷崎文学〈非知〉説」に該当するような言葉をランダムに拾ってみよう。

「彼の文学から智性や批評精神の薄弱、社会意識のほとんど非人間的なまでの欠除などを指摘するのは容易なことです」

「谷崎が『老いて衰えぬ不屈の、而も丹念な精進』で、芥川のように『左顧右眄』しない彼の知性の鈍重性を本当に皮肉ぬきの芸術家の幸福に高めたのは、さきに僕等の見たところです」

「谷崎がその表現に逆用した資性上の欠点とは具体的には何かというと、それは彼には少なくとも知的な意味での青春がなかったということに帰着すると思われます」

 このような「谷崎‐非知」観は、中村の『谷崎潤一郎論』(昭和二七年)の中で、いくらでも散見される。それこそうんざりするほど出てくるので、中村は本気で心底、そう思っていたのだろう。それにしても「知的な青春がなかった」とは曖昧な言い草である。

 読者が違和感を覚えざるをえないのは、彼の『二葉亭四迷伝』や『論考・小林秀雄』などで示された冷静にして愛情豊かな批評的アプローチが、谷崎論では、ひねくれているともとられかねない否定的表現の羅列になっていることだ。この文豪に傑作名作があるのは認めるが、作家の知性だけは何としても認めないという構えである。しかしそこでいう知性(中村表記は智性)とは何か――。

 中村光夫はこの谷崎論の発表と前後する時期、つまり、あまり文学観に変化があるとも思えぬ『風俗小説論』(昭和二五年)において、流行作家の丹羽文雄を血祭りに上げている。そこで丹羽という作家の無思想性を突いている中村の「悪意」は、むしろ的確、かつ効果的であり、爽快とすらいえるものだ。正論を基盤として、多少の「悪意」の香辛料が利かされているといったテイストである。これは教えられるところはなはだ多い評論書だ。この『風俗小説論』と谷崎文学については、後にもう一度ふれてみたい。とりあえずは早足で文学史を一巡りして、「谷崎‐非知」説のアルケオロジーの素描を試みてみよう。


  佐藤春夫の『潤一郎、人及び芸術』

■事の始め、「谷崎‐非知」説の発端は、どうやら佐藤春夫の『潤一郎。人及び芸術』(昭和二年)らしいのである。『田園の憂鬱』『都会の憂鬱』で知られる小説家の佐藤春夫は、犀利で共感力に溢れた批評を書くことでも知られている。その内容はいわば、作家の資質論であり、人物論であるが、小説家が他の小説家の書斎を覗き込むような親密さと無遠慮さ、愛情と皮肉が渾然とした批評文となっており、むしろ後発の「小林秀雄‐中村光夫」の谷崎論の方がいささか貧相に見えるほどだ。年来の友人でもあり、夫婦スワッピングの相手であり、「谷崎‐佐藤」と並べると、どうもスキャンダラスな印象がつきまとうが、何よりも谷崎潤一郎という稀有な作家の才能や小説作法について、佐藤春夫はこれ以上ないほどの深い理解を示しているという書きぶりだ。しかし逆に、これが今日までひとつの「定石」として作用してしまった感がある。それを決定的にしてしまったのは『潤一郎。人及び芸術』に対して、この「定石」という言葉を使った小林秀雄の谷崎論であろう。これで本格的に「谷崎‐非知」説は定式化する。佐藤のあずかり知らぬところである。

――では、いまや国際的な谷崎観をも土台で支える佐藤の置き土産である「定石」とは、一体どのようなものか。

■『潤一郎。人及び芸術』において、佐藤はまず谷崎との出会いから始める。「二十歳ばかりの青年」であった佐藤は、荷風の絶賛を浴びて『刺青』『麒麟』などで華々しく文壇デビューした谷崎に、一読者として歓呼の声をあげた。同時に佐藤は、嫉視と羨望に近い感情を持つ。「僕はその頃三田の学生」で「人の悪口ばかり言って暮らしていた」と、佐藤は懐かしく回想する。谷崎贔屓でありながら「悪口を言わずにはいられない僕」という二十歳の青年のライバル的心理はよくわかる。その三田の学生であった佐藤の谷崎評が「好漢惜しむらくは、思想を持たぬ」の一言であった。

 つまり、谷崎よりも年下で一学生である佐藤が、デビュー直後の谷崎を羨望し、なおかつ贔屓にしながら放った牽制球、文学青年らしいケレン味にあふれた評価が「好漢惜しむらくは、思想を持たぬ」だったのである。

――この佐藤の回想記的挿話が、谷崎評価において「定石」化してしまったようである。佐藤はその当時の心理として「内心自分が物を書けば、此の男には分かるだろうという気持ちがしていた」というシンパシーを持っていた。こうした佐藤春夫の谷崎評は、反自然主義の同志としての共感に満ちたものである。

佐藤の持つ谷崎のイメージは、「半身が天才で半身が山師」という、おそらくは潤一郎自身をも悦に入らせたであろう、オスカー・ワイルドふうの芸術家像であった。谷崎の看板となった「悪魔主義」の評や、佐藤のいわゆる「シャラタニズム(山師的性向)」はその印象を表している。谷崎という突如現れた「天才」の描く小説空間は、自然主義作家たちには見られない「極楽鳥のように華美な」夢幻境であった。

「凡そ明治四十年前後の我が国の文壇程平坦で無味淡泊に近い世界を文学の上で喜んだ時代は珍しいことであらうと思ふ」と佐藤は回想する。自然主義全盛時代は、一切の夢幻と主観、誇張と力説を否定し「無技巧の技巧」という流行語が流行ったという。明治末は「一種の芸術的恐怖時代」であったとすら糾弾する。社会的にも「恐怖時代」であった大逆事件の直後の状況とこれはパラレルであった。まさに、そんな「時代閉塞の状況」(啄木)に飛び出してきた異端児が、谷崎潤一郎であった。『刺青』『麒麟』をひっさげて登場した谷崎は、文学の世界から失われて久しい「夢幻と主観」を奪還したのである。

■佐藤春夫は、このエッセイで谷崎の「悪魔主義」の空疎をいい、それが偽悪の仮面に過ぎず、仮に潤一郎を「緻密な思索家また内面的懐疑家」として論じた場合、該当する作品が見当たらないと断定する。確かに谷崎の「悪魔主義」は、ポーズであろう。「悪魔」はキリスト教文化圏に発生した概念であり、神に対立する神学的存在であるわけだから、日本の風土においては、形而上学的意味合いを剥ぎ取られ、「意匠」になるのは当然である。しかしそれは単に、空疎なだけの紋章、シンボルに過ぎないのであろうか。わたしは谷崎の「悪魔主義」「偽悪家ぶり」は、きわめて批評的・方法論的ポーズであり、一種の賞味期限つきの作業仮説のようなものだと思う。つまり、日本の儒教道徳や、封建制の残滓や、明治国家の虚構性(何なら「共同幻想」といってもいい)、修養主義などの偽善の体系の胡散臭さを突くためのとりあえずの好都合なコンセプトが「悪魔」だったのではないのか。

 言い換えれば、この時期に「悪魔」を標榜するのは、文明批評、批判精神ゼロでは、叶わないことである。それはむろん、ボードレールのようなカソリックへの逆説的な神学としての悪魔主義ではない。西洋文化から引用してきた使い勝手のよい(と谷崎潤一郎自身が考えた)仮面が、「悪魔主義」ではなかったのか。そこに限定するなら、谷崎の文壇戦略はきわめて有効だったのであり、少なくとも、明治から大正初期にかけて、精神的な「時代閉塞の現状」に風穴を開ける効果はあったわけだ。つまり谷崎潤一郎は、佐藤とはまったく別種の批評的知性にあふれた文学者なのである。


  小林秀雄『谷崎潤一郎』の視点

■佐藤春夫の谷崎論が優れていたのでついつい長くなってしまった。この論に比較すると、小林秀雄の『谷崎潤一郎』(昭和六年)は弱い。というよりも、佐藤の論を「定石」ということにしてしまい、それを担保として、むしろ自分の青春期のバイブルであったポオ、ボードレールへのオマージュを語っているようなフシがある。

「『饒舌録』という本がある。この本が人々を引きつけるのは、一般に多くのエッセイに見られる様な、自由な無私な判断力でもなければ、独断的な強い理解力でもない。ここに示された作者の理智は、あれほどの深い博識と深い教養とを持った人でありながらと思えば、およそ智的感性を欠如していると私は感ずるといっても失礼な言葉だとは思わぬ」

 小林は、詩人のポオ、ボードレールが一流の詩を書くとともに、一流の評論を書いたことに言及する。その詩や批評文は「数学者の冷徹を帯びた理智と神秘家の憧憬を蔵した感性との果散な結合」であり「彼らの制作は人生観上全く智的な熱烈なドグマの上に立っている」と指摘する。しかしそれは谷崎の芸術との本質的な交渉を「断じて持つ事はできない」と決めつけ、「別段あらを捜そうと努めなくても、谷崎氏の作品から容易に見て取れるのは、批評精神の薄弱である」「殆ど奇異とさえ見える薄弱である」とまで言い放つのである。

――しかし、どうであろう。谷崎の「批評精神の薄弱」をことさらに奇異とするなら、他の作家をもなぜ批判しないのか。ここには一種の〈騙し絵〉的錯覚があり、まさしく谷崎の反自然主義的な夢幻の世界こそが「批評精神の薄弱」の幻を現出しているのではあるまいか。例えば『魔術師』に登場するアンドロギュノス的な美少年(美少女?)魔術師の描く異国的な楼閣や森林のイリュージョンのように。そもそもこの幻の発明者は谷崎の資質への深い理解に基づく佐藤春夫の視点であった。小林秀雄も中村光夫もこの「定石」を疑ってはいない。いないばかりか、安心して語っているようにすら見える。いわんや、現代のアジア系留学生の谷崎論に於いてをや……。

■奇妙に思うのは、小林のこの同じモノサシは、志賀直哉の文学を論じる場合は、プラスに働いていたのではなかったか。つまり、志賀という作家の自意識、否定的分析力の欠如を、むしろそれだからこそ健康な「原始」の強靱さを持つ文学と賛美した同じモノサシではないのか。同時代の性格破産者による自意識の表現を嫌悪し(これは小林自身が、かつて『一つの脳髄』『女とポンキン』などの小説で、さんざんやった経験から来る近親憎悪か)志賀文学を賛美するくせに、まったく別の方向性で、豊饒なる原始的リビドーを形象化しえた谷崎には、「智的感性の欠如」を宣告する。小林は、谷崎と志賀に対して、それぞれ同一つのモノサシの向きを、器用にひっくり返して使っている。


  谷崎VS花袋――反自然主義の戦略家

■中村光夫は谷崎には「知的青春」がなかったという。この知的青春の意味はわかりにくいが、「小林―中村」の批評が表現のテイストや形式は異なるとはいえ、しばしば共通の問題意識から論を展開している傾向を踏まえると、自意識の葛藤劇という問題として推定できる。小林のいわゆる「ポオ、ボードレールを苦しめた否定的な分析的な力」である。確かにこの自意識の刃は、谷崎の場合、自身には向かなかったかも知れない。とはいうものの、たとえばその否定力が直接的に表現されれば、どのような作品が生み出されるのか。その好例は前出の『一つの脳髄』『女とポンキン』などの小林秀雄初期の小説であろうし、あるいはヴァレリーの『テスト氏』がそうかも知れない。そこに登場するのは、自意識で自らを切り刻み痩せ細ったインテリの自縄自縛の姿である。より構築が大型で本格小説的なものを挙げるとするなら、ジイドの『贋金つくり』であろうか。しかしこの方向性は「作者‐主人公」の構造として、一種の袋小路の不毛感、閉塞感が、濃厚である。批評知とは、しばしば作家の想像力にとって両刃の剣となるのだ。

■谷崎が文壇にデビューしたのは明治の末、『刺青』発表は明治四三年の十一月(二四歳)である。いま読んでもその文章の密度、張りつめ方は密度が高く、ひさしぶりに再読して感銘を深くした。「それはまだ人々が愚かという貴い徳をもっていて、世の中が今のように激しく軋みあっていない時分であった」という『刺青』冒頭の一文は、明治文学の先行世代につきつけられたアンチテーゼとも読み替えることができよう。つまり輸入文化や急ぎ足の「さかしら」ぶりに突きつけられた一句として――。この文は、詩のようにふと湧いた冒頭句に過ぎないかもしれないが、「愚かという貴い徳」とは、その後の谷崎全集そのものを象徴するエピグラムとすら思われてくる。また、このデビュー作においては、刺青師の「清吉」と「娘」との関係が、後の代表作の男女の見事な元型となっているのに驚かされる。

――しかしここで筆者が言及したいのは、『刺青』(十一月)発表の直前(九月)に、同じ「新思潮」に掲載された「『門』を評す」という評論である。この『門』とは、いうまでもなく同年の前半に発表され話題を読んだ漱石の作だ。論の体裁は漱石文学へのオマージュの形を取っているが、中身を読んでみると、どうも漱石にかこつけて自然主義一派を叩いているふうにも読み取れる。

「『蒲団』の作者にいわしたなら、頭から『拵え物』だと評するかも知れぬ」

「誰やらが『漱石は自然主義に近くなった』といったことを覚えている。もし『門』を読んでこの言をなす人があれば、それは大いなる謬りだといわねばなるまい」

「先生(漱石/筆者註)の小説は拵え物である。しかし小なる真実より大いなる意味のうその方が価値がある」

■『刺青』の中に谷崎文学の元型のすべてがあることに驚く以上に、実作の直前に発表された「『門』を評す」の中に、谷崎の一貫した「アンチ自然主義」文学観が戦略的に確立されていたことに驚かざるをえない。つまり谷崎は、すでに田山花袋や自然主義一派を仮想敵国としてはっきりと照準を定め、理論・実作ともに整備した上で文壇に登場したわけである。

この戦法は付焼刃的なものではなくて、その後も大正六年『小僧の夢』で、小説家をめざす少年「庄太郎」が語る芸術文化への願望や小説論がモノローグ的に展開されている。丁稚奉公している「小僧」が、彼自身の生活とは無縁な小説論をとうとうと語り、自然主義の本家であるモーパッサンやゾラと、日本の自然主義との違いをすら語っているのだ。いささか小説としては生硬であり不消化ではあるものの、この時期の谷崎の文学観がよくわかる作品である。全集未収録であるのは、議論が勝ちすぎていることを作家本人が不満としたのであろうか。(谷崎自身は府立一中を一年から三年に飛び級するほど学力優秀ながら、父の事業の失敗により高等小学校で廃学の憂き目にあった。本作には、思春期の頃の谷崎自身のリアルな不安が反映されている。実際には、築地精養軒主人宅での家庭教師などで、活路を見出している)

 このような反自然主義的方法論をスタート時点から掲げた作家を、ことさらに「批評性がない」「知的青春がなかった」といえるであろうか。むしろ他の日本のどのような小説家よりも、戦略的かつ批評的なデビューを果たし、のみならずそのヴィジョンを生涯の創作において強靭に貫いてみせた見事な実例というべきではないのか。

■以上は、谷崎の小説創作における批評知、つまり方法論についてである。では「小林‐中村」の解釈では、谷崎が持っていないとされる「批評」の意味を、「文明批評」と解した場合、どうであろう。はたして谷崎文学には、「文明批評」が欠如しているのであろうか。

――『小さな王国』(大正七年)を例にとる。

 この作品は、大して取り柄があるとも思われぬ転校生「沼倉」が、次第にクラスの人望を得て「沼倉共和国」を形成していくという物語である。沼倉は独自の貨幣を発行し、教師をも支配する権力を持つ。「権力と貨幣が形成する小空間の物語」は、当時、ロシア革命成功の余波もあり、吉野作造の時評に取り上げられて共産主義との関連で語られた。また、伊藤整によって「この作品は少年の世界に形を借りたところの、統制経済の方法が人間を支配する物語である」と評された。谷崎は、このようなアレゴリカルな手法を前面に出すことは少ないが、この種の社会批判の視線は『痴人の愛』などにも、随所にうかがえる。谷崎自身、このようなモチーフの作は、もっと書こうと思えば、書けたであろう。ただ、自然主義的、あるいは白樺派人道主義的作品が幅をきかせていた当時の文壇において、風刺的作品自体があまり高い評価をえられなかったことは想像できる。

■しばしば同じ耽美派的作家でも、谷崎には文明批評はないが、永井荷風にはそれがあるというようなことが云々されるが、荷風に果たして『小さな王国』のような作品が書けたであろうか。谷崎作品の多くは「小空間における力関係の逆転の物語」である。その多くが男女間のエロスを主軸として展開されているので、「力」の構造が目立たないだけだ。マゾヒズムもサディズムも密室における最小単位の「政治」であろう。谷崎の『小さな王国』は、芥川龍之介『河童』(海外では芥川の代表作とされているが、日本での評価はいまひとつ)と並んで、明治大正期の近代化しつつある日本国家を風刺したきわめて密度高い文明批評的な作品といえるのではないか。


 中村光夫『谷崎潤一郎論』が意図的に避けているもの

■ここでもう一度、とっかかりの中村光夫の谷崎観に戻ってみたい。『谷崎潤一郎論』が意図的に避けているものがある。それは『風俗小説論』の中心主題である「人間典型」という問題である。

『風俗小説論』(昭和二五年)は、戦後ジャーナリズムの繁栄にともなう純文学的価値観の崩壊、創作の類型化やオートマティズムから文学を守ろうとする潔癖なまでの論理展開のゆえに、独特の緊迫感が感じられる好著である。前段では小栗風葉『青春』と島崎藤村の『破戒』における人物造型の比較、近代小説における主人公と作家自身の主体の関係を解き明かす。また、フローベールの写実主義から始まり、モーパッサン、ゾラなど本家本元の自然主義文学が、いかにして田山花袋『蒲団』に見られる「〈主人公=作家〉自作自演劇」に堕すことになったか、その過程を解明する。自然主義の矮小化された誤解から生まれた小説作法(本来の「主人公‐作家」の関係構造の無理解)を解き明かし、日本特有の「私小説」概念が形成される過程の解剖図は見事である。最後にこの論理を延長してゆき、詰め将棋のように当時の流行作家丹羽文雄の「風俗小説」を撃つというシナリオである。

――中村光夫の文学論では、しばしば主調低音のように「人間典型」の造型への希求が鳴り響く。欧米の大作家は、思想的葛藤から「人間典型」という象徴の域にまで高められた人物像を造型し、『赤と黒』のジュリアン・ソレルや、『ボヴァリー夫人』として永遠化している。それら象徴的人物像を生むには、作家の思想が必要であるが、それは内と外を融合した表象であるがゆえ、社会性を反映した結晶体となる。しかし日本文学にはそのヴィジョンも達成もない、というところに彼の不満があるらしい。

■一方『谷崎潤一郎論』の執筆は『風俗小説論』よりやや遅れた昭和二六〜二七年である。つまり『風俗小説論』の文学観を前提として、直後に谷崎文学を論じていることになる。だとするならば、『風俗小説論』において、中村が近代小説の理想とした「人間典型」の達成を、谷崎潤一郎の『痴人の愛』(大正十二年)のナオミの造型に見なかったのか――という素朴な疑問がわいてくる。


 大正末期に出現した『痴人の愛』という作品

■佐藤春夫の『痴人の愛』評価は、「大正末期の目新しい男女の風俗画としての佳作」というものである。これに対して、中村は秀作であることは認めるものの、どうも歯切れが悪い。『谷崎潤一郎論』の随所で「西洋文化の浅薄さと貧しさもまた今日の読者の眼を逃れられないでしょう」と批判し、作者の西洋文化理解が表面的であることをことさらに指摘する。

「風俗の目新しさがすでに失われた今日では、作者がハイカラぶって書いているさまざまな場面は、時の腐蝕を露骨に示す、貧困な感じしかあたえません」

「この大正風俗のハイカラな面を代表する記念碑とも言うべき小説が少なくともそのハイカラな世相を描いた部分は、今日では滑稽なほど古びて色あせた印象をあたえるのは、主人公の浅薄な「西洋崇拝」の感情が、そのまま作者によって肯定されているためと思われます」と手厳しい。

――しかし、ほんとうに、そうであろうか。

 むしろ大正風俗の軽薄さ、西洋の皮相的な転写に過ぎない『痴人の愛』の「ハイカラ」ぶりは、今日いかにもリアルに、説得的に、当時の日本人の生態を伝えているのではあるまいか。西洋文化の深い理解を持つインテリが登場してクドクドと理屈を述べたからといって、小説が面白くなるわけでも、深みを増すわけでもないだろう。

作者の知的教養と人物像創出の才をごっちゃにして論ずると、はなはだ奇妙なことになる。

例えば、夏目漱石の『虞美人草』のヒロイン「藤尾」の惨憺たる造型は、漱石の西欧文化理解の不足によるものであろうか。人物造型においては、「ナオミ」は、「藤尾」の比ではない生命力と立体感、溌剌たる自由度に達している。彼女に比べれば、「藤尾」は単なるいびつな概念の塔に過ぎない。(これはむろん先駆者の宿命である。後に漱石は『明暗』で「小林」や「津田夫妻」などで秀逸な造型力を示す)中村の筆の辛辣さは、ときに小気味よい芸にもなるが、しばしば不毛に空転し、ここではいらぬ「悪意」の表明に堕したように思われる。

■はたして中村がいうように『痴人の愛』の「浅薄な風俗」は色あせたのか――。われわれは、たとえば朔太郎の詩や散文詩の中の「ルナパーク」「パノラマ館」「動物園」の風景を、ナオミや穣治の生活に重ね合わせることもできる。明治末から大正にかけて、ビヤホールやデパートが出現し、日本にもようやく大衆消費社会らしきものが形成されつつあった。その賑やかなざわめきを、ナオミと穣治の嬌態がくりひろげられる寝室の窓の向こうに思い描くことも可能である。文明や文化はいつも皮相なレベルから伝播するのであり、それはファッションであったり、映画であったり、恋愛であったり、食生活であったりする。しかし中村は、穣治がナオミをアメリカの映画女優メリー・ピクフォードに喩えて賛美していることまであげつらい、穣治が理解する西洋が「いかにも浅薄」であると指摘する。しかしながら、われわれは『痴人の愛』を読むことにより、この時期、日本にもハリウッド映画を楽しむ層が出現したことを理解し、その女優に憧れる女や、自分の恋人を銀幕スターにたとえて悦に入る男達も出現したことを発見死、共感する。小説の作者自身もその風俗を享楽し、ときに熱狂した経験がなければ、肉感にあふれた小説は創作できないだろう。 

 しかも中村は「作者がこうした穣治の滑稽さに気づいていない」というのだ。なんと、ここで中村は、『風俗小説論』で田山花袋『蒲団』の主人公の竹中時雄を否定するのと同じ論法を使っている。確かに、時雄も穣治も、重症度の違いは別として、一種のフェティシズム癖を持つ「マゾヒスト」ではあるのだが……。しかし決定的に違うのは、谷崎自身が最後の締めの一文で「これを読んで馬鹿馬鹿しいと思う人は笑って下さい。教訓になると思う人はいい見せしめにして下さい」といっていることである。物語中でも終始そのようなユーモラスな筆致になっている。これもはなはだ奇妙な指摘である。

――では、肝心のナオミの人物造型についてはどうか。

「ナオミの溌剌とした妖気は作者の半生を通じた西洋への憧憬によって培われたもの」と一応は認めながら、

「ナオミの浅薄さと卑しさは、結局作者が憧憬し、生活した「西洋」の浅薄さと卑俗さに帰着するわけです。」とまたしても辛辣だ。しかしこれは小説の人物造型の仕上げに対する技術批評というよりも、むしろ、巷によくある人物評ではないのか。つまり、中村は、実在の人物の欠陥をあげつらっているような錯覚に陥っている。

ということは、つまり……小説家側の勝利なのである。これは芝居の悪役に対して、田舎侍が「成敗してくれようぞ」と叫びつつ舞台に駆け上がっているような光景だ。ナオミや穣治が軽佻浮薄であるというなら、それは日本人自体の西洋文化への憧憬が事実そうだったのであり、それが本作では見事に形象化されたわけで「ハイカラ」という浮薄な言葉が、すでにそのことを意味している。

■谷崎は、長年追究してきた「悪女と下男」「妖婦と幇間」というような男女一対の普遍的かつ象徴的な「元型」を掘り進めて来たのであり、それが大正末『痴人の愛』において、密度ある肉感と情感的な実質を得たのであった。 

谷崎の大正期は、不発な濫作の連続ともいえるが、震災後の大正十二年、それまでのマンネリズムを一挙にひっくり返すような大正文学の代表作を書き上げた。

『痴人の愛』――この作品は、日本文学の中でも珍しく人間典型を描いた作品といえるだろう。これは西欧の近代文学の王道ともいえる「作家が自分自身の血肉を盛り込んで、主人公、副主人公を造型する」(この文学観を啓蒙したのは中村光夫自身である)という基本的な方法論を、真っ向から実行し、それに成功した例であろう。今日読んでも、この「ナオミと譲治の物語」は、同時代の自然主義系の薄暗い小説群と較べて、華があり、色彩があり、脂肪と蛋白質とがたっぷりと含まれている。作家谷崎の感性、価値観のみならず、時代環境や風俗が、濃厚に塗り込められているのだ。しかし、一方ではこの作品を、通俗だと読む見方がある。しかし、単なる「風俗小説」が、同時代の表層的な事物が古びたとたんに陳腐化してしまうのに較べて、『痴人の愛』に描かれた風俗やファッションは、逆に「ナオミと譲治」の二人の立像とともに、鮮やかに蘇ってくる。これをいわゆる風俗小説と一緒にしてはいけない。丹羽文雄とは違うのである。『痴人の愛』の風俗は、小説として必要不可欠の「俗」である。

こう考えてくると、何もボヴァリー夫人とまではいわずとも、この作品は日本のマノン・レスコーを造型しえた作品であり、批評家中村光夫が憧憬してきた「人間典型の創出」を相当程度果たしているのに、あえて無視しているのではないか――という疑念が生じてくる。田山花袋『蒲団』をおとしめ、島崎藤村『破戒』こそが日本の近代小説の礎となるべきであったと嘆いた中村光夫は、『痴人の愛』について、『破戒』と同等、もしくはそれ以上の評価を与えても良かったはずである。


 谷崎大正期のマンネリズム

■とはいうものの、確かに谷崎の側に非がないとはいえない。大正文学ということでいえば『刺青』は明治末であり、中期の傑作『痴人の愛』が出るのは、大正十二年、つまり震災後の作品である。その間の大部分の大正年間は、空疎で粗雑な自己模倣作品の連発であった。例えば『金色の死』(大正十四年)が「新青年」掲載の江戸川乱歩作といわれても、誰も驚かないだろう。昭和に入るが、自死直前の芥川との論争で槍玉に挙がった『日本におけるクリプテン事件』(昭和二年)なども、ほとんどマゾヒズム殺人の概略書のようである。したがって、同時代の佐藤春夫の『潤一郎、人及び芸術』(昭和二年)の皮肉まじりの評価は、仕方ないのかも知れない。しかし、不十分ながらも大正初期の『幇間』『饒太郎』における自己発見が、伏流水のように大正期ぜんたいの谷崎文学の底部を流れ、後に『痴人の愛』の河合穣治として造型されるのを確認すれば、これは後の大成のための長い雌伏期ともとれる。ましてや、ナオミの造型は、『刺青』の娘が成長し、より自信にあふれ、西洋かぶれして、おしゃれと媚態と化粧の仕方を覚えた姿であろう。ということは、大正のマンネリ時代、粗製乱造期も、昭和期の谷崎文学の豊饒な開花を準備する大いなる肥やしとなったわけだ。あたかも、燦然と輝く女郎蜘蛛を背にまとう『刺青』の町人娘が、死屍累々たる多くの男たちを美の生贄として吸い上げ、絢爛たる開花を誇ったように――。

■谷崎潤一郎の小説の欠陥として、心理分析が欠如していることがいわれる。これは佐藤春夫の谷崎論においてすでに指摘されていることで、「心理解剖」の不得手や、「外面の面白さにくらべ内面の空虚」を感ずるとの指摘がされた。佐藤春夫の論は詳細で、谷崎作品にも鮮明な心理描写があるが、それは心理解剖というよりも、構想の一部分であるという。「心理的妙趣というものは、寧ろ解決されない心の働きの面白みなのである」小説における心理的妙趣は「深淵の表のさざなみ」であると、きわめて的確に述べている。確かにこれは、谷崎の弱点ともいえる。しかし一方で、近代小説、現代小説における心理分析の過剰は、しばしば内面や深さを偽装する。人物造型にピントを合わせていない無自覚、かつ詳細な心理分析が、現代小説の中でいかに氾濫していることか。しばしば読者は「意識の流れ」だか、意識の朦朧だか、わからなくなってくる。もちろん、それが一種の詩的効果をあげている場合も認めないわけにはいかない。しかし往々にして文章の中で霧のような深さを演出しているに過ぎず、心理分析のための心理分析のようなオートマチズムに堕している場合も多い。(このあたりの心理解剖のルーティン化の議論は、三島由紀夫の『小説家の休暇』に詳しい。「誰もナルシスの水に映る影をはっきりとつかめず、はては心理の無限の沼底へ埋もれてしまうようになった」「心理の沼におちこんでアガキのとれなくなった内面過剰の小説」と、三島は風刺する。)佐藤のいうように、谷崎の小説においては、しばしば登場人物がマリオネット化している作品もあるにせよ、少なくとも人物像の輪郭を、文体の霧や、語彙の密生する湿地帯の中で見失ったことはないのである。


 「小説」――形象化させる智恵

■ここでこれまでの「谷崎=非知」説の確認事項を、まとめてみたい。

@佐藤春夫の『潤一郎。人及び芸術』によって、谷崎文学には批評性が欠如していると表明。

A小林秀雄『谷崎潤一郎』によって、佐藤説が「定石」とされ、谷崎という作家には、ポオ、ボードレール的な「否定の精神」がないとされる。

B中村光夫によって、「智性や批評精神の薄弱、社会意識のほとんど非人間的なまでの欠除」と指摘。

Cいまや(内外の)日本文学研究者によって、谷崎には批評的知性や文明批評性がないことが自明とされる。

――という構図となる。

■では、そもそもが文学や文学者にとっての「知」とは、何なのか。この小文の目論みは、評価の不公平をあげつらうことではなくて、小林や中村がいうような種類の「知」「自己分析知」「心理解剖知」のみが、文学や小説にとっての「知」なのかどうか、という疑問へのアプローチである。

『存在の耐えられない軽さ』『笑いと忘却の書』で知られるチェコ出身の作家ミラン・クンデラに『小説の精神』というエッセイ集がある。この中でクンデラは、『ドン・キホーテ』を挙げて、小説固有の「知」とは、イデオロギーや思想など「絶対」へと向かう精神ではなくて、イロニー、笑い、寛容、つまり相対化の性向にあると説く。これは論理化されることを拒む柔軟な批評精神とも言い換えられる。むろんそれは、小説における最重要な要素であろう。しかしここでは、小説の「知」について、もう一つ別の要素を挙げておきたい。

■先程ふれた谷崎文学に見られる〈象徴思考〉〈元型思考〉――とりあえずそのように言っておこう――とは、複数の作品で長期的に繰り返し顕れる同一イメージや、「元型」の表出、これらは小説の創作を通してのみ、意識の表層に顕れてくるものである。その意識化の機能、あるいは過程そのものを、仮に「小説の智恵」「小説の叡智」と呼んでみたい。つまり、小林や中村が、谷崎文学に見た「知/非知」とは小説的思考のある側面に過ぎず、文学の内包する「知」ぜんたいの深度、もしくは高度を測定するモノサシにはならない。また、一方、『存在の耐えられない軽さ』の作者がいう「小説の智恵」とは、主義主張やイデオロギーによって硬直化されないためのユーモアや、風刺、相対化の精神の謂いである。これに対して、小説に顕れる〈象徴思考‐元型思考〉とは、創作を深めるにつれ、地下水のように滲み出てくる内在的な小説の「知・叡智」のことだ。したがって、その深度・高度は、作者自身の自我をも超える。

■この〈象徴思考‐元型思考〉は、たとえば谷崎の『刺青』『痴人の愛』『春琴抄』を比較しつつ再読するときに見えてくるものであり、作品相互が大小の鮮やかな相似形を描いていることの発見から、読者が谷崎作品から何ごとかを感受する経験である。ときに人物であったり、ときに風景であったり、具体的な事物であったりするそのイマージュの絡み合った神経叢は、小が大を予感させ、大が小を包含する。フラクタル、ホログラムを連想してもよい。おそらくこの感銘は、小説、文学作品のみが与えるであろう種類の叡智である。創作活動そのものが、作家を導いてゆく「意識/無意識」的思考の表出となる。個々の作品が相互にコレポンダンスしあう二重写し、三重写しのイメージは、一つひとつの作品にさらなる奥行きの幻影を与える。そこにこそ、作家の生涯をかけた内的空間が透視される。

同じ事は、志賀文学にもいえるだろう。『和解』その他の短編群と、『暗夜行路』の見事な関連性である。私小説だからという単純な類似構造ではなく、構造的に相似形を成しているという驚きである。これはことによると、近代小説の属性ともいわれる詳細綿密な心理分析・心理解剖よりも、むしろ小説にとって根源的な何かではないだろうか。人間の心や魂といった、現在ではほとんど死語とされている領域について多くを語ってはいないだろうか。(カフカの『城』『審判』『掟の門』、トーマスマン『魔の山』『トニオ・クレーゲル』『ベニスに死す』の相互関連性を連想してもよい。)

■そして「小説の智恵」〈象徴思考‐元型思考〉は、人間の無意識を意識化させる営みであり、精神の「暗在系」を「明在系」に転換させる行為である。これによってわれわれは「作者/読者」という自他を超えた精神領域の何ものかに立ち会う。それは「無明」の蠢きを意識の〈鏡〉に映し出すことそのものが「明」であるとの認識にも通じる。近代市民社会が生み出した想像力と言葉の芸術「小説」の可能性とは、批判精神を持った市民をも納得させる的確で精妙な描写と、それを踏まえて浮上してくる「象徴/ヴィジョン/元型」の大いなる総合にあるのではないか。現象学的描写に支えられつつ、同時に、象徴的ヴィジョンをも内包した壮大なる「花も実もある嘘八百」(佐藤春夫)の芸術が小説である。そして谷崎文学はこの種の「小説の智恵」の宝庫といえる。この鉱脈がいまだ未開拓である以上、小説という鉱山は現代においてもなお採掘され尽くされてないと見るのである。  (了)



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