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追想に    

     (母の死に) 
                            (母 1925.4.30.-1999.7.24)


                            永野 悟


                           「群系」12号(1999年刊行)収載
 


 母身まかりにける秋、野分しける日、もと住み侍りける所にまかりて

                            定家

   玉ゆらの露も涙もとどまらず 亡き人恋ふる宿の秋風



 元気だったどころか、ほんの四五日前に息子はその手料理を食べ、雑談をしたばかりだった。又、その前前日には、パソコンを見に行く弟と秋葉原の街を歩いたばかりなのであった。だが久しぶりに息子たち二人に会って話し合えたのも、事態への皮肉な巡り合せだろうか。母は風呂場の手前で思わぬ転倒をし、一人亡くなった。


 全く相性の合わない親と子であった。息子の関心事と彼女の関心事は一八〇度違っていた。また生活構造も違っていた。会うと何かいさかいになることがままあった。彼女も我の強い方であった。それでも彼女は週に二度は息子の部屋の掃除・洗濯をしにきていた。息子はそれを感謝よりもむしろ親孝行の一と思って許容してきていた。
 息子はふだんその親を思うことはほとんどなかった。父に比べ、旅行だのの写真の多い彼女のその写真をまじまじ見つめることもなかった。だが杉並のアパートから、いまの大島に移るとき「富士見が丘には千回以上通ったことになるね」といわれて、ハッとしたことがあった。



 父が十一年前亡くなって以来、寡婦になった彼女はその回向を手向ける他、自分の生活に、三味線や俳句、読書会など彩りを添えるようにした。シルバーパスを手にしてからは東京のあちこちに出掛けていたみたいだが、息子は母のためにそれを好ましくなど思っていた。だが、あまり弱音をはかなかった彼女が一度「お前がたよりだから」とつぶやいたことがあった。以来一見負けん気な母は半分は息子のために生きた。


 事態の起こった七月の金曜日、息子は長い一学期も終わって、どこか息抜きにと思って、偶然来合わせた浅草行きのバスに乗った。浅草観音のほうずき市が催されていて、人だかりでいっぱいだった。ゆかた姿もあって、いい夏の風情だった。実のついたほうずきの枝や鉢植えが二千円ばかりで売り出されていた。買ってみようかなとの思いが脳裏を掠めたが、やめにして、映画街の方へ行ってしまった。

 常日頃母とは連絡をとっていたのである。自分のところへ来たのか(朝の食パンを買ってくれたか)の確認もかね、二日に一度以上は帰りがけにPHSを掛けていたのだ。
 その夜も掛けたのだったが、留守番電話であった。以来何度掛けても留守電であった。がこれが息子に母の居宅へ行くのを妨げてしまった。母を発見したのは四日後であった。せめてあの日、ほうずきの枝を買っていれば、との思いが残った。この夏は後の整理にかまけられた。


 悲しさよりも悔しさである。直後に母は何だったのだろうという思いがずっとあった。が、少しわかった点がある。それは生活者だったということだ。残った部屋、品々には、衣食住に手を抜かない大正生まれの粋があった。一番大事な生き方であった。


 団地のベランダには植木があって、初秋に風鈴などが鳴ると、あるじのいなくなった部屋の空白感がいや増しに感じられた。



 亡き人を恋うるテラスにふとよぎる初秋の風にぞおどろかれぬる






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