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32号 名和哲夫 葛西と鹿村  村上春樹



  葛西善蔵と嘉村礒多


                名 和 哲 夫



 私小説の起源は、明治期の田山花袋であるというのが通説である。わざわざそう書くのは「別れた妻に送る手紙」の近松近江がその起源であるという人もいるからだ。

いずれにしても、その後を受けた大正期が私小説の確立した時期であるということには変わりはない。

明治期から大正期に移る中で、その中でも「破滅型」の私小説の系統を引き継いでいったのが「奇蹟派」と呼ばれる人々であり、広津和郎、宇野浩二そして葛西善蔵であった。その葛西の後に出たのが嘉村磯多である。

田山がその私小説の素材に悩んだのに対して(実は僕自身は、田山は「破滅型」とは言い難いと思っているのだが)、葛西は自らの実生活を犠牲にして悲惨を作りだすという方法で「私小説演技」とも言われかねない方法で自分の作品世界を作り上げた。また嘉村は自分が持つ変質的な素質を増加させるという方法で私小説を作りだしている。

 葛西善蔵と嘉村礒多はよく似ている、とある意味、僕はそう思う。当然だと思う人もいるだろう。二人は師弟関係にあった。嘉村が葛西の晩年に口述筆記を担当しているのだ。

 ここに二冊の本があり、僕は二週間の間に一冊ずつ読んでみた。二冊とも講談社文芸文庫である葛西善蔵は『悲しき父 椎の若葉』、嘉村礒多は『業苦 崖の下』である。感想を言えばこの二冊を通読したとき、嘉村の方が小説として完成されていて面白いと僕は思う。それはどこからくるのだろう。

 二人は十歳違いである。弘前と山口という偶然にも本州の両極から妻子を捨てて上京、二人とも愛人を作り、貧乏で、その生活を自ら描いて小説とし、そして二人とも四十一歳と三十六歳で早世している。師弟的関係である二人だが、その作風には微妙な違いがある。例えば、谷崎精二は言う。

「葛西の文学は人間の文学であるが、嘉村の文学は変質者の文学である。」

 先に述べておくと、僕の二人のその違いの概要はこういうことだ。

 葛西善蔵は、「作」(小説)を作ることがまず人生で優先事項であって、そのために周りの人を巻き込んで「作」を作り上げた。そのためある意味、実生活に先行して、「作」がフィクションを含んだ形で作られて行く。いわゆる平野謙のいう「私小説演技説」を地でいく形である。

「生活の破産、人間の破産、そこから僕の芸術的生活が始まる。」

 つまり、酒も女も困窮も「作」のためにしでかしたことであった。人々の回顧録によると、人間的には良い人であったらしい。というのは、あくまでも演技であるので性格的に大きな破綻があるわけではない。例えば彼は愛人を作るが彼としては、郷里に残してきた妻子と愛人と一緒に住みたいと願うような人間なのである。

 一方、嘉村礒多は違う。嘉村は、まず小説に規定されるような自分自身の悩みがある。それが生涯のモチーフであった。彼の生活破綻は自ら招いたものとは異なる。

 秋山駿は言う。

「母子の間の不可思議な呪詛、処女願望、自分の生の出場所の拒否、生活の革命―こういう、最初から原形的にドラマを内在させるものとして、主人公の生を設計したのである。これは私小説の新しい一歩であった。」

また、宇野浩二はこう書いている。

「葛西は一生苦しんでゐた人間のやうに思はれ勝ちであるが、それは寧ろ彼に指示していた嘉村の方で、かういふ比ひのさまざまな得を生涯どの位してゐたるか知れない。」(「文学の三十年」)

         ※

 葛西善蔵は明治二十年青森県弘前市生まれ、東洋大や早稲田大学の聴講生となり、同人雑誌『奇蹟』のメンバーとなる。大正元年に「悲しき父」を八年に「子をつれて」を発表し、作家としての地位は確立していくが、子は養えず、喘息の療養のため、鎌倉建長寺の塔頭宝珠院に住み、食事を運んでいた招寿軒の娘、浅見ハナ(おせい)と同棲。

 生活の悲惨の中でそれを逆手に取ったような文学を創作して行く。破天荒、酒乱、生活破綻の中で四十歳の頃には体調を崩し、口述筆記に頼らざるを得なくなる。

 そのとき、口述筆記にあたった者の中に、嘉村礒多がいたのだ。嘉村礒多が口述筆記にあたったものとして「酔狂者の独白」がある。

 さて、鎌田慧はこう言う。

「善蔵はいわばみずから悲惨をつくりだし、たかだかそれを描くのに自己の生涯を賭けたにすぎない。無頼といわれ、頽廃と呼ばれ、破滅とされたが、それはもとより本人の覚悟するところであり、生活の辛酸は苛烈な記録の酵母菌として望むところでもあった。」

 葛西の処女作「哀しき父」、次の「悪魔」を読むと彼の生涯のテーマがほぼ出てくる。「哀しき父」ではこう書かれる。

「孤独な彼の生活はどこへ行っても変わりなく、寂しく、なやましくあった。そしてまた彼はひとりの哀しき父なのであった。哀しき父―彼は斯う自分を呼んでいる。」

「熱は三十七八度の辺を昇降している。堪え難いことではない。彼の精神は却って安静を感じている」

「彼は静かに試作を続けようとしている。」

 「悪魔」では、「俺達の生活は斯くのごとく無様で、無味で、虐げられて居る。俺達は霊魂と芸術とを持って居る種類の人間なんだ。俺達はその絶対を信じないではどうして一日だった斯の生を続けていられよう。」と書く。

 貧困、一家離散、病気、酒、芸術への信念(妄信とも言えよう)がこの頃から描かれ、やがて自分自身の悲惨な有様を描き出す「子をつれて」等の時代、最後にはある意味、心境小説に近い、自分の半生を懐古しつつ、「我輩の葉は最早朽ちかけているのだが、親愛なる椎の若葉よ、君の光りの幾部分を僕に恵め」という「椎の若葉」の時代へと移って行く。

        ※

 一方、嘉村礒多は、明治三十年、山口県生まれ、大正七年、藤本静子と結婚、結婚が決まった時は喜んだが、彼女の結婚前の男性関係の噂を聞き、不仲となる。この「処女願望」が彼の作品のテーマの一つとなる。小川ちとせと駆け落ち、大正十五年中村武羅夫の主宰する雑誌「不同調」の記者となり、葛西善蔵の口述筆記を担当する。その様子は、「足相撲」に記載されている。

 昭和三年に「業苦」、「崖の下」を発表している。昭和八年死去。

 葛西がそうであったように、嘉村の代表作「業苦」にはその後の彼の小説に書かれているものが既に内包されている。だが、葛西はそれを「作」を作るためにあえてしでかした事であるのに対して、嘉村の場合は、原罪的に自分の中にあったのである。つまり、色黒で母に愛されなかったこと、その代わりに愛を受けるべき妻が処女でなかったこと、今の生活からの脱出、それらのこれからの嘉村の作品の主題が自分の中のものとしてあった。

 急な引っ越しで愛人と崖の下の家に住まざるを得なくなった名作「崖の下」。そして、「秋立つまで」「途上」と彼の作品は葛西とは違って成熟していく。最後の「神前結婚」は両親、愛人(妻となる)、子供が神社の前で盃を交わす。全ての和解といった形で個人的には好きだ。例え、「神意に深く呪われてある」としても。

 葛西が晩年になるに従って身辺雑記的になるのに対して嘉村は明らかに作品の物語性が進化している。もっとも仕方がないのであって、葛西は体を壊して書く事ができず、酒を飲み生活のために絞り出すような口述筆記に頼るしかなかったのだ。

 ところで嘉村の「足相撲」には葛西の「酔狂者の独白」を口述筆記した頃の心境が記述されているので紹介する。

「でも、おあしをくずす前に、一応Z・K氏にお礼を言う筋合のものだと気が附いて、私はその足で見附から省線に乗った。」

 『酔狂者の遺言』と文中に書かれる談話原稿をもらうために嘉村は葛西のもとを訪れるが、蕎麦を食べ残したことでご機嫌を損ね、三度目の訪問で喋ってくれたが嘉村の小説家願望を聞いて、「断じてなれませんな」と言われる。それでも毎日通い作品を仕上げる。ある日、酔った勢いで足相撲をするが、嘉村は勝ち逃げのような形で逃げる。

「この何年にもない痛快な笑いが哄然と上げたが、同時に、そう長くは此世に生を恵まれないであろうZ・K氏―いや、私がいろいろな意味で弱り勝ちの場合、あの苛烈な高ぶった心魂をば、ひとえに生涯の宗と願うべきである我が狸州先生(かれは狸州と号した)にずいぶんご無礼だったことが軈て後悔として残るような気がした。」

 嘉村の自虐的でありながら、実は高慢で不遜な人柄とともに葛西への思いが表れている。

 平野謙は言う。

「彼が師事した葛西の作品は、人間もそうであったが、何処か余裕があり恍けたところがあったので、嘉村の芸術よりも葛西のそれの方が大きかったと言われた所以であろうか。嘉村の作品は、人間もそうであるが、恍けた味どころか余り余裕がなさ過ぎた為に読者に息苦しい感じを与えた。」

 葛西が自ら悲惨を作り出していったのに対して、嘉村は自らその素質を持っていたように思える。葛西が生活を犠牲にして小説を作っていったのに対して、嘉村は、逆に創作を手段としていたのではないか。そこが大きな相違点であり、それがその作品に現れているのではないか。だが、葛西がいなかったら嘉村はいなかったのではないのか、とも思う。

         ※

葛西善三が破滅型私小説作家として「作」を重視して、生活を破綻させていったのに対して、それに接し、その悪を引き継ぐ形で、しかしながら、嘉村磯多は原罪という自らのテーマを小説の中で昇華させていった。

 葛西善蔵、嘉村磯多のような心境小説と違う破滅型の私小説は、平成の今となって、嘉村の後を受けた車谷長吉や西村堅太のような形で現れてきている。しかしながら、車谷長吉は今は大衆小説を書き、西村堅太は芸能人化している。葛西も嘉村も悲惨の中で早世した。あえて言うなら、それこそが、彼らの文学を至高のものへと高めているような気がする。

 そしてそれが大正という時代だったのである、と思えてならない。葛西は悲惨であったが文学の仲間と楽しそうである。嘉村は孤独に感じるのだ。嘉村は正確には大正の作家ではない。





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 多崎つくると浜松



                名 和 哲 夫




 村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を読んで、僕は三つの事を考えた。一つはポール・オースターの「幽霊たち」に似ているということ、次にタイトルがストーリーの概要を表しているということ、そして最後にもう一つ。

 どうして「浜松」なのか? ということである。

 主人公である名字に〈色彩を持たない〉多崎つくるは、ある日故郷である名古屋の〈色彩を持つ〉四人の親友たちから絶交を言いわたされる。絶交の原因は、つくるはそのことを長い間知らなかった(知らされなかった)が、つくるが親友のうちの一人の女性「シロ」(ユズ)を薬を飲ませてレイプした(とされている)ことであった。この物語は本人が長い間知らされなかったその事実(とされていたこと)について他の残された三人の親友たちを順に尋ね廻り、その人生と心の空白を補完するための巡礼の物語といえる。

 さて、それはともかく、僕が問題にしたいのは、シロ(ユズ)がその後住んだ「浜松」のとあるマンションで殺害されてしまうことなのである。なぜよりによって浜松なのだろう。小説の本題ではないのだが。

 今はフィンランドに住む四人の友人の一人クロ(エリ)はこんなことを言う。

「でもどうしてユズは一人で浜松に行ったりしたんだろう」

「ユズが浜松に越したのは、私がフィンランドに移ってすぐのことなの。その理由はわからない。私たちは定期的に手紙のやりとりをしていたけれど、そのいきさつについては何ひとつ説明してくれなかった。ただ仕事の都合で浜松に引っ越すことになったと書いてきただけ。仕事なら名古屋でいくらでもあったはずだし、あの子が知らない土地で一人暮らしを始めるなんて自殺行為に等しいことなのに」

 もちろんピアノ講師を仕事にしていたシロ(ユズ)が楽器メーカーのヤマハ本社がある浜松に住むのは設定上それほど不思議な事ではないのかもしれない。大体、浜松は名古屋と東京の中間に位置してもいる。

 ところで、村上春樹の『国境の南、太陽の西』では、浜松に隣接する「豊橋」という街がこれもまた特異な登場の仕方をする。主人公が高校時代つきあっていて「ひどい別れ方をした」大原イズミが三十六歳になって、独りで子どもたちに怖がられながら住んでいるのが「豊橋」のマンションなのである。

「よくわからないな。なんで豊橋なんかでイズミに会うんだよ。どうしてイズミがそんなところにいるんだ?」

 つまり、村上春樹は地方都市をこのように「使う」のである。「どうしてそんなところに行ったりしたんだろう(いるんだ?)」というような場所として。


       ※


 「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」という小説について、実は何人もの人が「名古屋」が主要な舞台なのかということをこんな風に書評で書いている。

 名古屋は特殊な街である。名古屋は世界の日本である。(清水良典「「魔都」名古屋と、十六年の隔たりの意味」)

 そのくせ、名古屋出身の登場人物はなぜ名古屋弁を喋らないのか?(伊藤剛「色彩を持たない名古屋の街と、彼らの忘却の土地」)

 そういう書評を読んでいたら、ますますどうして「浜松」がシロ(ユズ)が殺される場所として選ばれたのだろうということが気になってきた。もしかして浜松という街はそういう街だと思われているのだろうか。もしくはそれにふさわしい街と世間一般に思われているのか。実は僕は浜松に住んでいるのだ。

 ふさわしいと言えば、こういうことかもしれない。浜松という街は孤立した孤高の街であると。つまり、浜松は、東海地方とか関東地方とかそういった地方には属していない(と僕は思っている)。(ただし、浜松の人は東海地方に属していると思い込んでいる人が多い。)

 三田誠広は、『天気の好い日は小説を書こう』で「地名を書くだけで見えてくるものがある」として、浜松には「松菱」というデパートがあって名前からして恥ずかしいが、そういう具体的な名前、つまり「浜松」という地名を出すだけで見えてくるものがあるとする。

 また、諸岡知徳は、夏目漱石の「三四郎」について、「浜松駅」を「このとき初めて三四郎は「真実に熊本を出たような心持ち」を感じる」場所だとし、

「故郷から名古屋での一夜、浜松での「真実に熊本を出た様な心持ち」、そして東京での新しい生活。九州と東京との二つの世界の境界として浜松駅を位置づけることができる。新しい世界への入り口であり、二つの世界の結節点が、浜松駅なのである。」としている。(「新聞小説の境界 ―西遠地方/一九〇〇年代」)

 僕は浜松に住み、同じく在住であった藤枝静男を研究しているが、彼は昔の浜松をこのように言っている。

「浜松はストリップとステッキガールと暴力とオートバイの町だというレッテルもあった。つまり、西部の街だというのだ。」

 今の浜松は、相変わらず東京と名古屋の間に位置し、どちらの文化圏にも属さない、こういう小説に「使われる」ような、地方都市なのかもしれないなと僕は思う。





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