『群系』 (文芸誌)ホームページ
裏読み・二葉亭四迷
−中村光夫の「蛮力」−
澤田繁晴
(「群系」31号所収)
一般論であるが、「あの人は詩は上手(うま)いが、小説は駄目だ」といったことがよく言われる。原則論としては
このようなことは起こり得ないと思われる。Aの分野に秀でた人は、Bの分野にも秀でているはずである。とこ
ろが実際には、「小林秀雄の評論には力があるが、小説は下手(まず)い」とよく言われ、これが一時的なものでは
なく、一生引きずるようなことも起こっている。多少の違いであっても、分野が異なると、微妙な別の資質が必要と
されるのであろうか。おそらく馴致度が低いためにこのようなことが生じるのであろうが、そんなに簡単なことで
はないのかも知れない。文芸評論家で名を上げた人が、小説を書くのは勇気のいることである。いつも他人の小
説の粗探しさえもしていた人が、小説を書いたりすると、小説家達はこぞって鵜の眼鷹の目になることは必定であ
るからだある。文芸評論家の中村光夫がある時小説を書いた。『わが性の白書』という題である。小説中の言葉
を捩(よじ)ると、「へえ、中村先生、?外を気取ったのか」と誰でもが思うようなタイトルである。ところが、実際は違
っている。これは、この小説の主人公(永田了介)の文学仲間で、亡くなったばかりの小説家・杉戸一彦の遺作の
タイトルであり、あろうことか、そこで扱われているいるのが、杉戸と了介の妻のいつ子との恋愛だというのだから
手が込んでいる。文中に作者中村を思わさないではおかない主人公永田を描写した次のような箇所がある。
ジャーナリズム復活の波にのった明快な文学論は、たちまち彼を文壇の第一線の批評家にした。擡頭す
る戦後文学の擁護者の立場をとったことも彼の存在を派手にした。
引用の後半には引っかかる点もないわけではないが、大筋では中村とズレはないのであろう。そんなことより
も私がここで言いたいのは、小説にこのような巧妙な設定を施した中村のことである。評論家として売り出した
時と同じような巧緻が、小説の中にも見受けられるということである。技を掛けるに巧みな人なのである。私の
冒頭の一般論の出て来たのもこれあったが故である。
中村光夫の二葉亭に関する一連の文章を読んでいると、二葉亭の自叙伝「予が半生の懺悔」が嘘ではないか
と思われてくる。
第一「浮雲」から御話するが、あの作は公平に見て多少好評であったに係らず、私は非常に卑下していた。今
でも無い如く、その当時も自信というものが少しも無かった。然るに一方には正直という理想がある。芸術に対す
る尊敬心もある。この卑下正直、芸術尊敬の三つのエレメントが飽和した結果はどうかと云うに、(中略)
これは甚(はなはだ)しい進退維谷(ジレンマ)だ。実際的(プラクチカル)と理想的(アイデアル)との衝突だ。で、そ
のジレンマを頭で解く事は出来ぬが、併し一方生活上の必要は益々迫って来るので、よんどころなくも『浮雲』を作
(こしら)えて金を取らなきゃならんこととなった。で、自分の理想からいえば、不埒な不埒な人間となって、銭を取
りは取ったが、どうも自分ながら情ない。愛想の尽きた下らない人間だと熟々自覚する。そこで苦悶の極、自ら放
った声が、くたばって仕舞え(二葉亭四迷)!
これが有名な二葉亭のペンネームの由来である。確かに正直ではあるのであろう。しかし、ここから「正直」以外
のことを見い出そうとするには、中村光夫のような「蛮力」が必要とされる。続く談話はこれ以上に面白い。
翻訳になると、もう一倍輪をかけてこういう苦労がある。――その時はツルゲーネフに非常な尊敬をもってた時
だから、ああいう大家の苦心の作を、私共の手にかけて滅茶々々にして了うのは相済まん訳だ、だから、とても精
神は伝える事が出来んとしても、せめて形なと、原文のまま日本語に移したら、露語は読めぬ人も幾分は原文の
妙を想像する事が出来やせんか、とこう思って、コンマも、ピリオドも、はては字数までも原文の通りにしようという
苦労までした。
現在は、多少の「ぶり返し」があるのかも知れないが、学者の間で一時、原文に忠実な翻訳ということで、二葉
亭が言うような翻訳が幅をきかせていたことがあった。 二葉亭の人生観となると、面白さを通り越して涙なく
しては読めない。主客共々「泣き笑い」である。
その中に、人生問題に就いて大苦悶に陥った事がある。それは例の「正直」が段々崩される、その他
種々のことで崩される。つまり生活が次第に崩してゆくんだ。そして、こんな心持で文学上の製作(ママ)に従
事するから捗のゆかんこと夥しい。とても原稿料なぞじゃ私一身すら持耐られん。況や家道は日に傾い
て、心細い位置に落ちてゆく。老人共は始終愁眉を開いた例(ためし)が無い。その他種種の苦痛がある。苦痛と
云うのは畢竟金のない事だ。冗(くど)い様だが金が欲しい。
併し金を取るとすれば例の不徳をやらなければならん。やった所で、どうせ足りっこは無い。ジレンマ!
ジレンマ! こいつでまた幾ら苦しめられたか知れん。
中村光夫は、どうにかして二葉亭を掬い上げようとして必死であった。しかし、結果は、名人の手から水が漏
れるかの如くでもあった。このような努力を続ければ続ける程、また別の結果が見えて来てしまう。所謂、その
心根が見えて来てしまうというヤツである。自分もまた二葉亭と一身同体であるという心根がである。中村光夫
によって、日本現代文学の草創期の巨匠に改めて呼び戻されてしまった二葉亭。 二葉亭にと言うよりも、中村
のしようとしていることを快く思っていない人はいたであろう。しかもその中に思いつきでうっかりしたことを
喋ってしまった丹羽文雄がいた。この人なぞは血祭りにげられてしまった恰好の鴨であった。中村光夫には、
冷静を装いつつも、慇懃無礼な物言いで日本文学史を混乱に陥れるようなところがなかったであろうか。
後には、日本文学史上の至宝とも言うべき佐藤春夫さえをも、その正当な位置から引き摺り下ろそうとし
た。これを「蛮力」と言わずして、何を「蛮力」と言うべきか。
佐藤春夫はかつて、浪漫派に軸足を置いて文学史を書き直さなければならないと言っていた。それとは微
妙に違った意味においてではあるが、日本文学史は書き直さなければならないとは思う。多くの人が言うよ
うに、日本文学には、他に類例を見ることができないような繊細微妙なところがあり、それだけにとどまら
ず、人類の新たな可能性を示唆するような要素を数多抱懐しているようにも思う。
〇
中村光夫は、その著『二葉亭四迷』(河出文庫 昭和二十九年十二月二十五日)の冒頭において二葉亭の文
学的業績を総括して見せている。
今日からみて二葉亭四迷の名が、明治文学史上いはば表玄関の地位をしめることは誰も疑ふまい。
明治二十年から三年間にわたつて書かれた「浮雲」の一作、およびその間に発表した「あひヾき」
「めぐりあひ」などのツルゲエネフ紹介のみをもつても、彼の業績は文化史上不朽であろう。
事実、彼はおそらく明治文学がわれわれに伝へた最大の独創たる言文一致体なる新文学の創始者であり、ま
たある意味で「浮雲」以来十数年にして初めて文壇の主流と化した自然主義運動の先駆者であった。
この評価に一点の難ありとせば、これが中村光夫以前のものではなく、中村光夫以後のものであるという
ことであろう。
しかし、先にも見たように二葉亭は文学だけを一途に追った人ではなかった。彼も紛れもなき明治の一男児で
あった。全人的なものを追い求め、そこに文学も偶々入り込んで来たにしか過ぎない。「先駆者の苦悩」は、自
身の文章からも明らかである。
その時の苦悶の一端を話そうか。――当時、最も博く読まれた基督教の一雑誌があった。この雑誌で
は例の基督教的に何でも断言して了う。たとえば、 この世は神様が作ったのだとか、やれ何だとか、平
気で「断言」して憚らない。その態度が私の癪に触る。・・・・・・よくも考えないで生意気なことが
云えたもんだ。(中略)で、非常な乱暴をヤッ了(ちや)った。こうなると人間は、獣的嗜欲(アニマル・アペタイト)だ
けだから、喰うか飲むか、女でも弄ぶか、そんな事よりしかない。(中略)全く獣的生活に落ちて、終には盗賊(どろ
ぼう)だって関わないとまで思った。いや真実(ほんとう)なんだ。
が、そこまでは豈夫(まさか)に思い切れなかった。人生は無意味(イノセンス)だとは感じながらも、俺のやってる事は偽だ。
何か光明の来る時期がありそうだとも思う。要するに無茶さ。だから悪い事をしては苦悶する。・・・・・・
為(し)は為ても極端にまでやる事も出来ずに迷ってる。
このように言ってはいるが、かなり極端なところまでは行ったようである。坂口安吾の「白痴」との遭遇と相
通じるところがあったように思う。
それでかれこれする間(うち)に、ごく下等な女に出会っ た事がある。私とは正反対に、非常な快活な奴で、
鼻唄で世の中を渡ってるような女だった。無論浅薄じゃあるけれども、そこにまた活々とした処がある。
私の様に死んじゃ居ない。で、その女の大口開いてアハハハハと笑うような態度が、実に不思議な一種
の引力(アトラクション)を起させる。(中略)で、私はこんな事を考えた。――こういう実例を眼前に見て、苦し
いとか、楽しいとか云う事は、人によって大変違う。例えば私が苦しいと思う事も、その女は何とも思わんかも知ら
ん。(中略)死を怖れるのも怖れぬのも共に理由のない事だ。換言すれば、その人の心持(メンタルトーン)にある。
即ち孔子の如き仁者の「気象」にある。ああ云う聖人の様な心持で居たならば、死を怖れて取り乱すこともあるま
い。(中略)
そこで心理学の研究に入った。
古人は精神的(メンタリー)に「仁」を養ったが、我々新時代の人は物理的(フイジカリー)に養うべきではなかろうかという考えになった。
心理学、医学に次いで、生理心理学を研究し始めた。これらに関する英書は随分蒐(あつ)めたもので、殆ど
十何年間、三十歳を越すまで研究した。・・・けれどもその結果、どうも個人の力じゃ到底やり切れんと
悟った。ヴントの実験室(ラボラトリー)、ジェームズの実験室、それらが無ければ、何時迄経っても真の研究は覚束ないと思い出した。そんなら銭の費(かか)らん研究法をしなくてはならんが、それには自分を犠牲にして解剖壇
上に乗せて、解剖学を研究するより仕方がない。(中略)そしたら、学術的に心持(メンタルトーン)を培養する学理は解らんでも、その技術(アート)を獲(と)ることは出来やせんか、と云うので、最初は方面を選んで、実業が最も良かろうと見当を付けた。(中略)
幾多の活動上の方面に接触していると、自然に人生問題なぞは苦にせずに済む。(中略)明治三十六年の七月、日露戦争が始まると云うので私は日本に帰って、今の朝日新聞に入社した。そして奉公として「其面影」や「平凡」などを書いて、大分また文壇に近付いて来たが、さりとて文学者に成り済ました気ではない。
〇
ここで、二葉亭の少年時代を少し見ておく。
二葉亭には、明治の子供らしく、小さい頃から慷慨愛国、殖産興業の気があったようである。十七歳の時には
東京外語語学校の露語科に入学している。
何でも露国との間に、かの樺太千島交換事件という奴が起こって、だいぶ世間がやかましくなってから
後、『内外交際新誌』なんてのでは、盛んに敵愾心を鼓吹する。従って世間の世論は沸騰するという時
代があった。すると、私がずっと子供の時分からもっていた思想の傾向――維新の志士肌ともいうべき
傾向が、頭を擡げ出して来て、即ち、慷慨愛国というような世論と、私のそんな思想とがぶつかり合っ
て、その結果、将来日本の深憂大患となるのはロシアに極まってる。こいつ今の間(うち)にどうにか禦(ふせ)いで置かなきいかんわい(中略)
私のは、普通の文学者的に文学を愛好したと云うんじゃない。寧ろロシアの文学者が取扱う問題、即
ち社会現象――これに対しては、東洋豪傑流の肌ではまるで頭に無かったことなんだがーーを文学上か
ら観察し、解剖し、予見したりするのが非常に興味のあることとなったのである。
私は、二葉亭という人物を見るに急であった。最後に作品を少し見ておこう。
文学作品としての『浮雲』
一、内容
諷刺文学としては面白いが、明治時代の劈頭を飾る作品としては、新生味に欠けるとは思う。
お勢の心は取りかへかたし 波につられて沖へと出る船に似たり
文三の力之を如何ともしかたししかたしといひて何事をもせずまたし得ず
是に於て乎文三は不安(・・)に煩されたり そのさまは余が浮雲を読みたる情に同し
然れとも尚ほ愚かにも望みを将来属せり 何となれは文三には如何にしてもお勢の縁か切れたり
とおも[ひ]得ねばなり(「落葉のはきよせ 二の籠」)
行き詰っていたのである。これでは中断も致し方ないであろう。
ニ、文体
『浮雲』第一篇冒頭に次のようにある。
しかし、熟々(つらつら)見て篤(とく)と点検するとこれにも種々(さまざま)種類
のあるもので、まず髭(ひげ)から書立(かきた)てれば口髭(くちひげ)頬髯(ほおひげ)顎(あご)の
髯(ひげ)、暴(やけ)に興起(おや)した拿破崙(ナポレオン)髭(ひげ)に狆(ちん)の口めいた比斯馬克(ビスマルク)
髭(ひげ)、そのほか矮鶏(ちゃぼ)髭(ひげ)、ありやなしやの幻の髭と濃くも淡くもいろいろに生(はえ)分(わか)る
その日の勤めを終え、自宅に向かう役人の姿の描写である。髭に続いて靴を含めた服装の描写がこれに続く。
そして決定的とも言えるのが全身像である。
弓と曲げて張(はり)の弱い腰に無残や空(から)弁当(べんとう)を振(ぶら)垂(さ)げてヨ
タヨタものでお帰りなさる、さては老朽してもさすがはまだ職に堪えるものか しかし日本服でも勤め
られるお手軽なお身の上 さりとはまたお気の毒な
ところどころに差し挟まれた涼風を思わせる諷刺の一文を除けば、江戸戯作とそれほどの違いはないように思
う。小説「平凡」(明治三十一年 二葉亭四十四歳)、自伝「予が半生の懺悔」(同年)になると言文一致も堂に
入ったものとなっているが、『浮雲』の初期段階では二葉亭の文体はまだ過渡期にあったのである。
作品『浮雲』の評としては、十川信介に勘所を押さえた解ものがある。
叔父の孫兵衛が横浜で働いている関係で、園田家の実権は叔母(孫兵衛の後妻)のお政が握っている
が、中心となるべき主人が不在という設定にも、新旧東西の価値が渦まき、精神的支柱を持たない社会
の縮図が描かれている。というべきだろう。(中略)終末部に近づくほど解体していく文三の「学問」の
姿には、まさに浮雲のように不安定な、近代日本のゆがみがおのずから表われている。
最後の部分に連動している二葉亭自身の言葉は、少し
前に見たばかりである。
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