『群系』 (文芸誌)ホームページ
幸田露伴(荻野央) 31号<明治の文学>
幸田露伴の『観画談』
荻野 央
(「群系」31号収載)
【本題に入る前に】
幻想譚は怪異談の非なるもの、すなわち恐怖そのものを目的にしない。その噺は幻覚に意味を与えるのだ。炉辺で婆から聞く噺が孫たちに、不思議でたまらないとでもいう不審顔にさせ夢を与える意味を。では”まぼろし”とは何だろう。条理に合わぬ非現実な存在を単に暗喩として指しているだけのことなのか。
”そこ”に在るものは、現実に非らないことを識られているのにもかかわらず、あたかもいるかのように己の影を落とす。これはあり得ないことだ、と理性が拒否する。でも、理性の退屈さ見抜いているようで、子供たちはその噺に影の動きを、影絵を演じる或るものの動きと声を自然に納得して受け入れているのだ。彼らが感じた不可解なものの内容を、大きくなるにつれて忘れてしまうか、遠い思い出の片隅に置かれてあることだろう。それが皮肉にも、本来の”まぼろし”の噺の意味かもしれない。
尾崎紅葉と並び一つの時代を画した露伴(1867-1947)は硯友社の柱、尾崎紅葉と時代を二分した「天才」と呼ばれ、昭和に死ぬまでの長寿を授かった。「観画談」は露伴晩節の逸品(1925)であり、怪しげな仕立てでありながらも恐怖無く、妖気漂わせる。
いっぽう最後の小説集『幻談』は昭和十六年に、”漫筆雑文”(露伴が言うところ)調の作品集『游塵』は二十二年に出ている。時代を制していた「自然主義リアリズム」と対峙して譲らない、良き意味での固陋ぶりを、わたしは見たように思う。
”露伴固有の幻想性と驚異に対する誘惑が混雑している形式を取る文学”とする批評がある(川村二郎)けれども、では、無尽の塵の数が游ぐと認めるとはどういうことなのか。
露伴に現前する、あらゆるものは光明の靄に浮沈して、作家はなんとかそれらの態様を筆で描出し、とっつきにくい古語、仏教語の撒かれた文章のひとつひとつが、作家の固有として幻想譚の一部を為しているのである。
「観画談」は教訓めいたものを含むという批評があるが、しかし考えてみれば、およそ幻想譚の境域には、作者の「魔術的な認識」(注1)と、遊泳する無尽数の塵の意識しか無いのだ。善悪・優劣・汚濁と清廉、無垢と腐敗性などの理法による境いめは存在しない。求めよとした教訓は見当たらないのだ。創作の対象は、ただ光の中に散らばる多種多様な塵芥であり、それらは泳ぎ続けるだけで、観る者はただ一人のみである。すなわち、
幸田露伴か、または、大器先生。
それに比べると、『幻談』は、水死人が握って離さない「野布袋」なる優れものの竿を奪ってしまった、釣客と船頭の話で、その竿以外に何も釣れなかった日の翌日、前日と違って、どんどん釣れるのだ。同じ池に昨日の盗んだ竿のよく似た長いものが水面に出たり沈んだりしている処に出くわして二人は驚く。舟の屋根に置いてあった昨日の竿が、そこにあるようで無いようで分からなくなる。ほどなくそれと認めた昨日の竿を池に戻すと言う話である。この日に釣竿の「ような長いもの」が水面に浮沈する様がなんとも静かな不可思議に満ちていて怖い。まさに妖譚だ。本作よりも恐怖の度合いが高い。
【本題】
さて大正十四年に発表された『観画談』。読み進むうちに、深い恐れと神秘に満ちた”あやかし”を覚えてしまう。
主人公「大噐晩成先生」は貧ずしい家に生まれ、大学入学がかなわず働いていたが、ようやく「勉学の佳趣」に浸る嬉しい日々を送ることができた。しかしついていないことに、勉学に励む先生は原因不明な病(神経衰弱か慢性胃炎のような)を得てしまい、しかたなく保養地を求めて旅立つことになった。とにかく先生は金が無いので、贅沢に治癒できる場所がなかなか見つからない。温暖な房総半島をぐるり、へめぐり歩いて、とうとう東北の山中まで来てしまった。旅先で知り合った人に或る寺を紹介される。その寺には万病に効く霊泉があると言うのだ。地元の婆さんに道を教えられて先生は険しい山岳を、雨の中を歩いていく。
間遠に立っている七、八軒の家の前を過ぎた。どの家も人がいないように岑閑としていた。そこを出抜けるとなるほど寺の門が見えた。瓦に草が生えている。それが今雨に濡れているので甚く古びて重そうに見えるが、とにかくかなりその昔の立派さが偲ばれると同時に今の甲斐なさが明らかに現れているのだった。
古びて貧乏くさい寺にたどり着いた先生を、驟雨のなか聳える山門が静かに彼を迎えて、先生はそのことに安堵して、”甲斐なさ”(露伴)を寺に感じ取りながら、地の果てまで来たような我が身に憐情を投影しているのである。
なかなか寝つけないその夜、先生の枕頭にぬっと現れた、老和尚と小坊主が言った。
「激しい雨のために増水し、境内まで水が来ております。別の僧房にご案内いたします」
それまで先生はこんなことを思っていた。
雨は恐ろしく降っている。あたかも太古から尽(じん)未来(みらい)際(ざい)(注2)まで大きな河の流が流れ通しているように雨は降り通していて、自分の生涯の中(うち)の或日に雨が降っているのではなくて、常住(じょうじゅう)不断(ふだん)の雨が降り通している中に自分の短い生涯がちょっと挿まれているものででもあるように降っている。で、それがまた気になって睡れぬ。
案内された部屋に一つの額を見つける。「橋流水不流」と書かれてある。橋流れて水流れずと先生は口の中でもごもご言い、昼間に渡った橋と渓(たに)川(がわ)に景観を思い浮かべたのである。刻は夜半の三時。
水はどうどうと流れる、橋は心細く架渡(かけわた)されている。橋流れて水流れず。サテ何だか解らない。シーンと考え込んでいると、忽ち誰だか知らないが、途方もない大きな声で、橋流れて水流れず、と自分の耳の側で怒鳴りつけた奴があって、ガーンとなった。
わけの分からぬ気の迷いに自嘲気味に、ふん、と先生はうっちゃっておき、床の間にある画にふと気づいたのである。様々な色が薄い霧を醸していて、よく見ると、楼閣、家々、樹木、滔滔と流れる水、遠くの山々とその稜線、動いている人々を認めた。幾つもの釣り舟が精緻に描かれていて、先生はランプを持って立ち上がり絵に身を寄せる。ランプを近づけてじろじろ見て、なかなか良く出来た絵だ、と感心していると、小船を漕ぐ老人が、無先生の目に入ったのである。いまや舟を出そうとしているところだ。
片手を挙げて、乗らないか乗らないかといって人を呼んでいる。その顔がハッキリ分らないから、大噐氏は燈火を段々と近づけた。
オーイッと呼ばわって船頭さんは大きな口をあいた。晩成先生は莞爾とした。今行くよーッと思わず返辞をしようとした。途端に隙間を漏って吹込んで来た冷たい風に燈火はゆらめいた。船も船頭も遠くから近くへ瓢として来たが、また近くから遠くへ瓢として去った。唯これ一瞬の事で前後はなかった。
屋外は雨の音、ザアッ。
その後先生は健康を回復したのだが、学窓の世界へ戻らずに、無名の市井の人に消えていったという。
あの場面…静かなほの明かりのなか、神秘な匂いに包まれて酔うように、その危うさの漂うなかに、絵のなかの老船頭の誘い声に、鑑賞者つまり絵の「外の人」の先生が船頭に応じている交感が二人を直接に連結して、幻覚に瓜二つの現実にまで仕上げる露伴の筆力は凄いものだ。
絵のなかの街の風景と絵の中の人々の生活と、い夜半にランプを握ったまま眺めている先生のそれぞれの現在。息を呑むようなこの対峙が、二つの境域が、先生のなかで融合を導いて、絵のなかの世界が先生のなかへ、そして先生も船頭の手を握って乗船することになる。
先生は絵の中へ失われていくわけではない。先生は境目を越えて、あちらに行くことができた。境域を越えたという実感にしか過ぎない先生の「体験」が、彼をしてふたたび市井に回帰していくことになる。この経緯に対して解釈はまさに多様であり、さまざまな感想の声を得るだろう。
いかなる場合であれ、体験が心に沈潜するということは、そうはなかなかないものだ、というところだろうか。
(終り)
(注1)独文学者、山本尤氏の言う”魔的シュールレアリスム”の概念は、ドイツの孤高の作家、エルンスト・ユンガー(1985-1998)の作品群に見られる魔術的なまなざし・視線に拠って立つ。ユンガーは、二つの大戦のなかで「生者と死者」に挟まれ、悪夢のような突撃を繰り返しながらも、その「所見が確定された瞬間にそれが神秘化され、アレゴリーの藪の中に導き入れられる文章、事物の表面的現象の背後に揺れ動くものを求める魔的シュールレアリスム」(山本)を生涯持ち続けた稀代の作であり自然学徒であった。
(注2)仏教語で、未来永劫、の意。
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