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森しげの三越小説(野寄勉) 31号<明治の文学>


 『三越』の森しげ女 「チチエロオネ」

      

        ―国木田治子「嬉涙」とともに―




野寄 勉


   (「群系」31号収載)


 

 

 『吾輩ハ猫デアル』などの装幀でも知られる画家・橋口五葉(明14〜大10)の生誕一三○年を記念した展覧会が、平成二三年六・七月、千葉市美術館で開催された。四○○点に及ぶ展示作品には今展の目玉である大作『黄薔薇』や代表作の木版画『髪梳ける女』だけでなく、三越呉服店による賞金一○○○円の懸賞広告画一等作として話題をさらった『此美人』も含まれていた。膝上に開かれた「衣がへ」の文字のある春信風の浮世絵本の女性と鏡映しながら陶然たるまなざしを正面へと転ずる、当時流行の二百三高地を結った、立体的な厚みを感じさせる婦人をくるむ着物や帯、直線的な椅子に施された文様にとどまらず、壁に咲き乱れる図案化された石楠花までもアール・ヌーヴォー風の『此美人』(原画は油絵)は、明治四四年二月、審査員満場一致で当選が決定、四月一日から三越三階バルコニーに展示されるにとどまらず、店名が入った石版の絵札(ポスター)となって新橋・上野などの駅頭に貼られただけでなく、併合されたばかりの朝鮮や中国諸地、欧米各国に送られ、三越の店名やイメージの売り込みに貢献した。

山本武利の『広告の社会史』(昭59・12 法政大学出版局 )は、日露戦後の経済発展、とりわけ軽工業の生産力の増大による多種多様な衣類・日用品の大量供給は、それらを売り込むための話題性のあるポスターの重要性と連続していたと概観する。博報堂や日本広告株式会社(のちの電通)といった広告代理店は既に活躍していた。日露戦以前の広告は、売薬、化粧品、出版物、タバコといった、産業構造中、いわば脇役的な規模の小さな商品を扱うにすぎなかったが、呉服屋が発展した百貨店が扱う衣類、雑貨は、当時の基幹産業であった繊維・紡績業に直結しているため、百貨店の売上は日本経済の発展をバロメータであった。そのまま百貨店広告の重要度は、従来の商品広告の比ではなかったのである。

 「大逆事件」がフレームアップされ、『青鞜』が創刊される明治の四○年代とは、近代意識の重要な転回点であった。資本主義経済の発達によって新しい「もの」が氾濫する大都市ではそれまでにない文化が生まれようとしていた。芝居や遊里に限られていた人々の楽しみに、「買い物」が都市生活者の楽しみのひとつに加わったのである。大正初期に大きな反響を呼んだ「今日は帝劇、明日は三越」という有名なコピーに三越と並び称された、日本初の本格的洋風劇場・帝国劇場が落成(ちなみに劇場内の室内装飾や緞帳、その他調度品、舞台衣装すべて三越が調製)し、石造りの日本橋が開通したのも、この明治四四年であった。

 『此美人』ポスターが貼られた同じ四月、前月創刊されたばかりの新しいPR(Public Relations)誌『三越』(五万部〜昭八・1まで約20年間毎月発行)の第二号――表紙は〈千両額〉と掲げた、ほかならぬ『此美人』であった――に、森鴎外夫人・茂子、筆名しげ女(明13〜昭11)の「チチエロオネ」が、長谷川時雨(明12〜昭16)による一幕の戯曲「錦木」と国木田独歩未亡人・治子(明12〜昭37)の「嬉涙」に先立って巻頭に掲載された。四○○字詰原稿用紙十枚程度の「チチエロオネ」は、あたかも五葉描く、アール・ヌーヴォー美人イメージを湛える女主人公が、衒うかのように三越讃美を繰り返し、新しい消費文化のあり方を提起する。古代に材を採った時雨の戯曲に“三越”はむろん登場せず、治子作品中の“三越”はその必然性に乏しい。明治末期の百貨店の展開に、奇しくも同世代の三人は、それぞれの作家性をもって参画していたのであった。


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 今から三四○年前の延宝元年(1673)に三井高利が開店し、日本橋・駿河町で店舗を拡大した三越(三井の越後屋の意)の前身・越後屋は“越後屋に帛さく音やころもかへ” と宝井其角に吟じられた現銀正札販売の導入だけでなく、広告・宣伝も巧みであった。雨の日に店のシンボルマークの入った雨傘を客に貸すサービスなどは、“ごふくやの繁昌を知る俄雨”なる川柳を生むほどであった。幕末維新の動乱期も三井家の事業は発展、銀行・商社・鉱山業で財閥としての基盤を確立していく。本家本元の呉服業は、大福帳式の勘定から福沢諭吉『帳合之法』を受けた洋式簿記方式への変更や高学歴社員の採用、そして広告・宣伝活動の一層の活性化を断行、独自の展開を見せた。企業の宣伝媒体としての雑誌メディアは、明治一一(1878)年の『芳譚雑誌』など一九世紀後半より発行されてはいた。明治三三(1900)年には書籍輸入商の丸善が創刊した『学燈』を、明治三四年に入社し編集を手がけた内田魯庵は高級文芸誌として刷新、注目を集めていた。この『学燈』と並んで、常に話題になったPR誌を発刊していたのが、ほかならぬ三越であった。三越はPR誌メディアに、単なる宣伝にとどまらない、自分らしさ〜こうありたい自分をモノの消費によって獲得する場としての消費社会の形成上、看過あたわぬ役割を課した。そこでは「自分らしい」ライフスタイルがカタログ的に提示されたのであった。

 明治三二(1899)年、着物の新柄の紹介に加えて尾崎紅葉の小説や下田歌子のエッセイといった文芸作品も掲載する三五○頁に及ぶ『花ごろも』と題した非商品のPR誌をつくったのちも三越は『春模様』、『夏模様』、紅葉自らが編集した『氷面鏡(ひめかがみ)』、『みやこぶり』、明治三六年八月からは月刊の『時好』、明治四一年四月からは『三越タイムス』などと、女性を意識した読みやすいPR刊行物を次々に発行、“着物の柄には流行がある”という意識を人々に植え付けた。店で扱う商品の宣伝に併せて、その商品にふさわしい生活文化を提示するメディアとして、自らが創出した流行を発信・鼓舞し、流行品とは生活に欠かせないものとの考えを定着させる。従来の買うべきものが特定されたうえで来店する固定客ではなく、素敵なものを見つけ出すために百貨店を訪れる習慣を不特定客に浸透させ、商品の大量生産でもって、喚起された購買意欲に応じていった。※戦後、流行の創出・発信は婦人雑誌が、都市のイベントや各種情報はタウン誌が、商品販売は通販カタログがそれぞれ分担することになるが、戦前期までの百貨店のPR誌は、これらの機能を包括して、ライフスタイルをガイドし、近代化を推進していったわけである。

 瀬崎圭二の「三越刊行雑誌文芸作品目録」(平12・1『同志社国文学』)を見ると、書き手の多彩ぶりがうかがわれる。森鴎外は、文芸的色彩を強めた『三越』創刊号(明44・3)に「さへづり」、同年七月号には「流行」という、ともに三越が登場する作品を寄せている※。もとより既に詩「三越」(明40・1『趣味』/明40・2『時好』に再掲 ただし筆名は「腰弁当」))もある、三越の諮問機関である「流行会」の会員※でもあった鴎外の影響下、妻・しげも夫に寄り添うように、『三越』に小説を発表することになる。既に小説集『あだ花』(明43・6 弘学館)を刊行していたしげは閨秀作家として、当時相応の評価されていた※。なにより鴎外夫人というネームバリューは三越にすれば魅力的であったろう※。他に起用された作家の作中における“三越”の登場のさせ方はつつましいものであったり、まったく顕れなかったりする中で、創刊第二号の『三越』としては最も行ってほしかった“三越とはどんな場所であるかを知らしめる”企図に、しげは「チチエロオネ」で、次のように応えたのであった。


     「チチエロオネ」


 新婚一か月目の若夫婦が連れ立って三越を訪れる話。若奥様は洋室でピアノを奏で、洋行帰りの夫は女中が取り次いだ電話を取る上流階層。留学から戻ってすぐ結婚したので、三越は初めてという夫に対して、若奥様の桜子は気分の悪い時も行って眺めるだけで直ってしまうというほどの常連。番町の実家から二人の写真を撮るよう電話があり、今評判の三越の写真部を利用することに相成った。

 二階の着物売場で馴染みの番頭と気軽にやりとりする桜子は、自分と違って着物の柄を即決する夫に目を見張る。三階にある茶室や応接室を案内し、美しいメイドがいるからと食堂へ誘ったのち、写真部の敷物はつるつるしているので転ばぬよう注意を促しながら写真室へ向かう。 


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 〈若夫婦はたわいもない話をしながら写真室へ這入つて行つた。〉で結ばれるが、作品自体、たわいない会話で終始する。「三井が三越になって非常に立派になったね」とは、明治三七年、「三井呉服店」から「三越呉服店」として三井から独立、デパートメントストア宣言を行ったことに符合するといった具合に、作品の随所で三越は案内され、称揚される。

 三越に出向くだけで気分がよくなるのは桜子一人の心性でなく、「三越へ来て不機嫌が直りけり」(明41・5『時好』)といった川柳もあったほど。二十円もしないお召一反買うにしても、何百反となく番頭に出させて「もう少し好い柄が三越にないということはないわ」と、売場机の向う側へ廻って気に入ったものを見つけるまで自分で探すと桜子はいう。客の求めに応じて取り出して見せる――できるだけ少ない品数で客を満足させるのが番頭の腕の見せ所とされた、従来の方法では大量の客にさばく新しい商売は成立しないと、明治三三年、陳列場――ショーケースに商品を入れる――方式にした。直接商品を手に取って、「ほら、こんな好いのが隠してあるではありませんか」と番頭を苦笑させる桜子の貪欲な消費態度は、夫の恬淡ぶりによって一層際立つ。「三越へ来て奥様の天下なり」(『時好』明41・5)という川柳があるように、買い物に時間がかかる妻の付添に手持無沙汰になる夫が予見される。茶室を紹介する際、身体が小さい自分は小部屋が好きという妻に夫は、いくつも茶室を建てている父の機嫌取りにお茶の相手をしてあげると喜ばれるよと返すが、それには応えず、傍らの竹の間の応接所※を案内する。「まるで田舎者が東京見物に連れて歩かれているようだね」と呆れさせるも、感謝されたと受け取った妻は、返礼にフランスに行った時はよろしく、と貪欲さにブレはない。食堂に入れば、使嗾され困惑しながら見ぬふりして見る〈雪のような西洋前掛けをしている、十五六の娘〉の美人ぶりの品評を迫られたりと、店内では終始、妻が主導しているのも、百貨店における消費の主役が誰かを伝える。作中でも〈三越の写真部の器械が大変よろしい〉と評される三越の写真部は、明治四○(1907)年に食堂とともに開設されている。優れた技術によって得意先を多数抱えていた写真部は、「チチエロオネ」の四か月後、買い物の合間に撮影して一時間で仕上げる「一時間写真」の営業を始める。はがき判三枚一組一円で、急ぎの客以外にも珍重され好評を博する下地つくりを果たしたことになる。

 かくのごとく、店内を巡るという趣味を創ろうとする三越の意図に沿った「チチエロオネ」だが、四か月後の「岸」(明44・8)、そして、しげ女にとっては最後の作品でもある「お鯉さん」(大元・10)には、“三越”を一切登場させていないのは、百貨店を社会貢献の場と考え、利益を文化活動にもちいて社会に還元していくべきだという、三越側の、もう一つの企図を汲んだ結果と思われる。こと「岸」がしげ女作品中でも異色作であることも含め、森しげ文学の概観は、別考を要するだろう。

 というのも、森しげに対するハラスメントは「半日」(明42・3『スバル』)の“悪妻”モデルとしてのフレームアップだけでなく、二四作まで確認される「森しげ女」作の小説もまた、鴎外の関与が推断のまま、佐藤春夫・中野重治・平野謙らによっていたずらに貶められ、評価はようやく始まったばかりであるからだ。ただ、もし「チチエロオネ」にも鴎外が関与していたならば、この手放しの三越礼賛は鴎外に容認されたことになると同時に、鴎外作の「流行」へと逆照射してみる必要が生じよう。ともあれ、文学は広告・宣伝にどう取り込まれるか、あるいはどう取り込むか、PR誌だけでなく企業の広報活動に今日の作家たちも応じている現況を考える契機となることは間違いない。


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比較参考として、「チチエロオネ」ほどは三越案内臭があからさまでない作品を紹介しておきたい。「チチエロオネ」と併載された国木田治子の「嬉涙」である。そも、治子の文筆活動は、結婚五年目の二十五歳の「貞ちやん」(明36・1『婦人界』)を最初として、明治四十一年六月、独歩の死後も続けられた。三十六歳で地方紙に連載した通俗小説をまとめた長編『小夜千鳥』(大3・3岡村書店)を出版するも、三子を養うために(本作が縁なのか)三越の食堂部に勤務、晩年は文壇を遠ざかる。独歩を偲ぶ文章を多くものしているが、代表作といえるのは独歩の死後二か月後から『万朝報』で連載を始めた「破産」であろう。これは前々年、近時画報社から独歩社に移行する際に味わった経営不振の塗炭を描いた記録体小説である。独歩研究の資料価値のある本作は、このたび限定復刊された『明治文学全集 第82巻「明治女流文学(二)」』(昭40・12筑摩書房)にも、森しげ女の初期作「波瀾」「あだ花」とともに収録されている。しかし独歩関連でない、すなわち〈独歩夫人・未亡人作〉を必ずしも反映させていない創作も興味深い作品が少なくない。「嬉涙」にしても読者として想定された客層である上流ないし中流上層階級が醸す雰囲気が感受せられるからだ。


   「嬉涙」

 某新聞社の主筆であるこの家の主人の妹・十八歳の梅子は、郵便配達夫が玄関に投げ込んだ兄宛の無名の親展が女字ゆえ、同居する従弟の美代子とともに、兄と関係する女の存在を猜疑、兄嫁が憂慮することを懸念しているところに、女中のお咲がやってきて、昼間、三越から家では誂えた覚えがない、素人が着そうもないお召と帯が届けられ、受け取った奥様は自分に口止めしたきり部屋にこもってしまったと告げるので、兄に対する嫌疑はいや増し、兄嫁の哀しみを忖度する。

 帰宅した主人は、細君・花がいないところで美代子たちから渡された手紙に目を通すと、笑いながら舌打ちする。問い詰められると、お前たちも知っている友人の山田からだとあしらうが、二人の疑惑が払拭されたわけではない。主人は夕食後友人宅へ出かけようとする。花は夫を送り出しながらも、今夜話があるから早く帰ってきてほしいと泣き出しそうな様子。そこへ山田夫妻がやってくる。山田が打ち明けるには、この家の主人と自分が書いたものが案外よく売れ、追加された原稿料で、細君たちに着物を三越で誂えたが、どうしたいきさつからか届け先が間違い、山田の家に梅子と美代子の袴と花の帯が届き、いくら説いても納得しない山田の細君が、真相を明らかにしてくれるよう、呼び出しの手紙を出すも、待ちきれなくて夫婦で来訪。ここでようやくめでたく嫌疑が晴れたという次第。

 標題は、山田の留守中に届いた「御誂 三越」の紙包を前に泣いている細君を〈嬉泣きにしてはちと劇しすぎると思った〉と、結びの〈『山田様、御心配を掛けて済みません、兄様有難う御座います』と嬉し相に袴を手に取った梅子と美代子は顔を見合せて、思はず涙を拭いた。〉に拠る。「チチエロオネ」の主人公・桜子の妹の名前が「嬉涙」の主人公である「梅子」に設定されていることは偶然かは定かでない。当時の花柳界側から、素人衆の着物も玄人めいた誂えをするようになったと指摘されている※こととも符合する。企業のPR誌というメディアにふさわしく、深刻さに陥らない、むしろ他愛ないといってよい作品となっている。


※明治期の百貨店事情は、神野由紀『趣味の誕生』(平6・4勁草書房)、山本武利・西沢 保編『百貨店の文化史』(平11・12世界思想社)山岸郁子編『帝劇と三越』(平23・12 ゆまに書房)が詳細を極め、参考になった。深く感謝する次第である。

※その姿勢は、欧米のデパートを知った上で旧弊を慈しむ永井荷風に云わせれば、良い品物を買おうとする者は三越には行かない。三越にあるのは、すべて間に合わせものか、碌でもないものだけである。趣味ある人が、好みの縞柄や模様を買うならば、竺仙や大彦へ行ったものだ(「偏奇館劇話」大15・6『劇と評論』)、ということになる。

※鴎外は、その後も『三越』に「田楽豆腐」(大元・9)、「女がた」(大2・10)を、また妹の小金井喜美子は創刊号に「旅帰、末子の病、骨牌会」の他、「紅入友禅」(明45・4)を発表しているが、義姉ほどには、“三越”はあからさまではない。

※鴎外と流行会との関係については、山崎國紀「『流行』及び『さへづり』の周辺――鴎外と〈三越〉の関係」(『森鴎外研究』平元・12)に詳しい。

※「女流の観察だけあって、非常に細かなところがある。それに、題材を取り扱う態度が如何にも淡々として居て、描写に少しの厭味もない。」(「小説壇一歳の収穫」明43・12『新潮』)など。

※「チチエロオネ」を掲載した号の『三越』に併載される雪嶺夫人・三宅花圃女史の店内ルポルタージュ「三越見物」に、竹の間は〈なんどきかさしのぞいたらばボーイのやうな男が迂論ににらめた竹の間に這入る。おもつたよりは質素で當がちがふ〉と描出されている。

※前述の「三越見物」において、筆者は店内で多くの著名文化人と遭遇していることからも、ステイタス・イメージを喚起させることに意識的であったことが知れる。

※「花柳社会の衣装好み(一)・(二)」(『時好』明41・4/5)からもうかがわれる。新柳二橋・赤坂からの聞き取りに続く浅草の桝谷小ゑんは、〈近頃は素人衆が我々社会の真似をなさるやうになりましたのは、全く昔時と違ひ一列一体に粋といふ所をお好みなさる故でせうと思ひます。〉と結んでいる。



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