『群系』 (文芸誌)ホームページ
漱石と鑑三の講演 大堀敏靖 31号<明治の文学>
講演録に見る明治
―漱石と鑑三
大堀敏靖
(「群系」31号収載)
戦後十四年に生まれた私にとっては、特攻兵士の戦中も遥かな昔に感じられるが、明治といえばさらに遡って、相当暗いイメージの昭和の戦前、少し明るい大正のさらにまた向こうの話で祖父母の生まれた時代に当たる。ほとんど歴史読本の世界のこととしか認識できないはずだが、私の住む岐阜県各務原市に隣接する愛知県犬山市には「明治村」があり、子どものころからたびたび社会見学などで訪れ、明治帝のお召し列車、帝国ホテル、漱石、鴎外が時を異にして住んだという居宅などは親しんできた。だからむしろ、昭和の戦前よりは明治の方が明確なイメージをつかめる分、身近に感じられるかもしれない。またここで取り上げる二つの講演録は「古典」として読み過ごすにはあまりにも心を捉えられてしまったもので、今回読み返し見ても、やはり引き込まれて新鮮なパワーをもらうことができる。明治は私にとって近い時代なのかもしれない。私が明治っぽい古い人間なのかもしれない。
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漱石の『私の個人主義』は厳密にいうと大正三年十一月、学習院輔仁会において行われ講演であるから明治ではない。しかし、慶応三年、江戸時代の最後に生まれ、明治の時代とともに齢を重ねて、人間、思想形成をしてきた漱石であるから、明治から二年と少し隔たったとしてもやはり明治の言葉をもって明治の考えを披瀝したものといっても差し支えないと思う。
録音技術もない時代の講演をよくこのように再現できたものだと不思議に思うが、後で述べる内村鑑三の講演は速記で記録していたらしい。途中(笑い)や(拍手満場大笑)など臨場感ある再現になっていて、その場に居合わせた聴講生のような気分になる。わたしは母校の百周年記念に大隈重信の演説の録音テープのコピーをもらったが、大正期には録音技術が既にあったので、あるいは漱石の肉声も残っているのかも知れないと思ったがユーチューブで彼の骨格から割り出した「肉声」を聞くことができる。この講演も速記録である。
小説家というのは本当に正直に自分を語る。漱石はなかなか本題に入らずに講演に招かれた経緯を語るがその年の春に、十月頃に講演をという話が学習院からあったらしい。半年後のことだからなんとかなるだろうと考えているうちに九月に胃潰瘍がまた悪くなり、一ヶ月間病床に伏せって、十一月の末に延期してもらい、何を話そうかとまとまらないままこの頃書画に没頭していたようである。二、三日前になっても考えるのが「面倒で堪らな」い、「不愉快だった」と言っている。いよいよ当日になって、「それで今朝少し考えを纏めてみましたが、どうも準備が不足のようです」と言っている。初めて職を得た高等師範でも「貴方はあまり正直過ぎて困る」と校長の嘉納治五郎から言われたらしい。「準備不足」くらいは政治家や教育者でも言うが、「面倒」とか「不愉快」などということは聴く側の人間にとっては際どい発言で、自分たちがバカにされているような誤解を与えると計算すれば政治家や、教育者はこういうことは言わない。しかし、漱石はためらわず言ってしまう。これが小説家というものだろう。漱石が別の講演『文藝と道徳』で述べる「自然主義的道徳」にかなったことになる。学生相手に高飛車に出て高い位置から高説を捲くし立てると言うような態度はとらない。「どうぞお付き合いください」と寄席芸人に近い話しぶりである。
実はこの学習院も就職先の候補の一つで、モーニングまで拵えて準備をしていたが落ちてしまって、高等師範、松山中学、熊本第五高等学校と教師を務めるうちにロンドン留学の話が持ち上がったというあたりから本題に自然に入っていく。マクラの振りから自然に本題に入っていく落語の手法である。留学を国から命ぜられるくらいの英語力があり、授業は厳しくてもふだんはやさしい先生だったという漱石であるが、自分では「魚屋が菓子屋に手伝いに行ったようなもので」、「わたしには不向きな所だとしか思われませんでした」と回顧する。そればかりか、さらに次のように教育者としての自分を否定している。
教育者であるという素因の私に欠乏している事は始めから知っていましたが、ただ教場で英語を教える事が既に面倒なのだから仕方がありません。私は始終中腰で隙があったら、自分の本領へ飛び移ろうとのみ思っていたのですが、さてその本領というのがあるようで、無いようで、どこを向いても、思い切ってやっと飛び移れないのです。…
大学で三年やった英文学も「何が何だかまあ夢中」でそもそも文学というものが、「図書館に入って、どこをどううろついても手掛がない」まま、「教師になったというより教師にされてしまった」と吐露している。
そしてこの霧に閉ざされたような気持ちのままロンドンに留学し、さらにロンドンの霧に覆い尽くされて部屋の中に閉じこもり、発狂したなどとも噂され、苦悩の極点に達したところで、漱石は「自己本位」という開き直りともとれる悟境に至る。
「自分はこう思うのだから仕方がない」「自分は日本人としての風俗、人情、習慣、国民性からこう感じるのだから、英国人と矛盾が起きても仕方がない」という日本人としての自分の知性、感性を中心軸に据えて、外物と対決していくという姿勢を持つに至った漱石は「この自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました」という。外来思想や他人の言に振り回されるのではなく、己の知性、感性を拠点として、本当に自分が求めるもの、本当に自分がしたいと思うことを見出すまではどこどこまでも突き進まなければいけないことを学生たちに勧めている。
何かに打ち当たるまで行くという事は、学問をする人、教育を受ける人が、生涯の仕事としても、あるいは十年二十年の仕事としても、必要なんじゃないでしょうか。…もしどこかにこだわりがあるなら、それを踏潰すまで進まなければ駄目ですよ。――もっとも進んだってどう進んで好いか解らないのだから、何かに打つかる所まで行くより外に仕方がないのです。
こうした体験を経て始めて本当の「個性」というものが出てくるのだと漱石は言う。
「夏目さん」といって漱石を慕っていた白樺派の代表格の武者小路実篤を高校時代に好んで読んでいた私はこの個性重視、開き直りともとれる自己肯定には心から賛同できる。自分を誤魔化して他と協調したところが何になる。私の前に世間を代表して立ちはだかる父を筆頭に世間の大人は己の本性を捻じ曲げて、付き合いたくもない人間と付き合い、言いたくもない言葉を口にして名刺を交換している。生活のため、金銭のため止むを得ないとしても、そんな生き方をめざすべきではない。そんな生き方は敗北者の生き方と言っていい。世間知らずでも構わない。己の本性に忠実にウソのない本当の生き方がしたいと高校時代の私は心から思い、自分が今している受験勉強こそは世間並みの実にくだらない無価値なものだと判断して放擲した時期があった。
私の中学の同級生だった男も同じように進学校に進んだが私と同程度、あるいはそれ以上に煩悶し、家庭でも荒れ狂っていた。とうとう受験勉強を完全に放棄して大学へは行かず単身上京してしまった。雑誌社、コピーライター、放送作家などをするうちに小説など書き始めて、そしてとうとう直木賞まで取ってしまった。今かなり売れている奥田英朗である。彼は偉いと思った。なぜなら自分の意思を貫き通したからである。
私は受験勉強を無価値と批判はしたが、大学で文学を勉強したいという妥協的な希望をもって勉強に復帰し、二浪して大学に入った。が、文学ではなくて政治学であったから、変節も甚だしく武者小路や志賀直哉、それから奥田からすれば一笑に付される「自我」しか持ち合わせなかった。
漱石の講演はそこから後半に入って行く。
金鉱のような自己を掘り当ててそれを発展させていくところに個性があるのだが、その発展のさせ方に漱石は注文をつける。聴講者は学習院のお坊ちゃまたちで、将来世に出てから相当の地位につき、権力と金力を行使して、世間を渡っていく可能性の高い前途有為の学生たちである。「権力と金力とは自分の個性を他人の上に押し被せるとか、または他人をその方面に誘き寄せるとかいう点において大変便宜な道具」だが、「その実非常に危険」だという。その「危険」はやがてはその個人にも及ぶが対社会的意味においてである。権力を濫用して人に無理やりに不本意な生き方をさせることは自分の個性から発したことであるが、他の個性を圧殺することになる。他の個性を尊重していない。金をちらつかせれば人の良心も買収できる場合がある。
新自由主義の規制緩和の中で、ホリエモンや村上ファンドは金儲けを人生の目的と勘違いしてしまった。「金儲けは悪いことですか?」「幸せも女も顔も金で買える」と言い放った。己の個性の伸展のため、金を無責任に使うことは社会を腐敗堕落させる可能性がある。漱石の言う「個性」は彼等のような勘違いを戒めたのだろう。
@他人の個性の尊重、A義務をともなった権力(権利)の行使、B責任観念の伴った金力の応用、これが漱石の言う「個性」の伸張への条件で、つまり高度な「人格」が裏打ちされなければならないことを強調している。漱石が留学したイギリスでは個人の自由が保障されているが、他の自由も尊重するように、また自由に伴う義務の観念を幼いころから教育される。England expects every man to do his duty.というネルソン提督の言葉を引用している。
平成の現代においても「個人主義」というとエゴイスティックというニュアンスが多分にある。当時なら尚更で、皇族の子弟を含む上流階級の学生たちはおそらく個人の自由よりは家や国を重んじる気風の中で育ってきた者が多かっただろうから、漱石はこの講演にはかなりの勇気が必要だったはずである。学校当局からは「貴方のいうような個人主義なら結構です」と評されたらしいが、際どいものがあった。だから後半では誤解のないよう懸命に「個人主義」に条件をつけているようにも見える。
そして当然「個人主義」に対置するものとしての「国家主義」にも言及することになる。しかし、これは対置すべきものではなく、「私共は国家主義でもあり、世界主義でもあり、同時にまた個人主義でもあ」るのであって、国家が危急の時は個人主義は制限され、国家が安泰のときは個人主義に傾き、また世界の平和を願うのも自然なのだと言っている。胸にメダルを提げる、がちがちの国家主義団体の発会式によばれた漱石は、違和感を感じて登壇すると次のように言ったという。
国家は大切かも知れないが、そう朝から晩まで国家国家といってあたかも国家に取り付かれたような真似は到底我々に出来る話ではない。…国家のために飯を食わせられたり、国家のために顔を洗わせられたり、また国家のために便所に行かせられては大変である。…一体国家というものが危くなれば誰だって国家の安否を考えないものは一人もない。…
前にも書いたが国家を重視する仲間に囲まれ、就活でさえ、「反国家的」と干渉される中に呻吟していた私はこの漱石の言葉に救われた人間である。国家の独立を賭けて日清・日露と戦い、条約改正を成し遂げ、近代国家として名実ともに生まれ変わることができた日本は大正期に入るとそれまでの緊張感が緩み、漱石の講演はその先駆をなして、その後のデモクラシーの高揚につながっていったのかもしれない。
講演の最後で付言する形で漱石は「国家的道徳というものは個人的道徳に比べると、ずっと段の低いもの」「だから国家の平穏の時には、徳義心の高い個人主義にやはり重きをおく方が…当然」と言っているがこれは鋭い国際政治の洞察で、現代においても国家は基本的にエゴで動いており、民間の交流の方が礼節を重視して麗しいものがある。漱石の主張は正しい。これを漱石の国家主義の否定、個人主義の称揚と見るのは早計だと思うが、文庫の解説者はどうも誤解しているようである。
また、この含蓄に富んだ講演は現代にも示唆的だと思うが、私が気になるのは「個人主義」には徒党を組まない分「淋しさ」を伴うと漱石が繰り返していることである。
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『後世への最大遺物』の講演が行われたのは明治二十七(一八九四)年、日清開戦の直前だった。内村鑑三は開戦時は主戦論者であったが、講演ではそのことに全く触れられていない。また、講演はキリスト教を信ずる青年の集まりである第六回夏期学校で行われたものだが、キリストの福音を講義するような内容ではない。キリスト教に無縁な人間、あるいは反発する人間が聴講しても十分傾聴に値する普遍的な内容だった。森敦が繰り返しこの講演録を読んだことを始め、内村自身が記しているようにこれを人生の指針として志を立てた青年があまたいた。私は最近読んだばかりだが、平成の壮年が読んでも感動するには十分な迫力と説得力がある。
人間がこの世に生を享けて生きた証を遺そうとするのは、キリスト信者にとっても自然なことで、現世的欲望を捨てきれない世俗の考えではない。
「わが愛する友よ、我々が死ぬ時には、我々が生まれた時より世の中を少しなりとも善くして往こうではないか。」(文学者ハーシェル)
出来るならば我々の生まれた時より此の日本を少しなりとも善くして往きたいではありませんか。…
清貧や受難を礼賛し、現世的成功や名誉欲、金銭欲を捨てなければ信仰は深まらないという立場を内村はとらない。健全で寛容な信仰の態度だったと思う。
内村は後世に遺すべき価値あるものとして、「金銭」、「事業」、「思想」、「生涯」の四つを提示する。
まず、「金銭」である。莫大な資産が残ればその金を運用することで様々なことができる。後世がそれを有益に運用することによって救われることになる。子どもばかりでなく、社会に遺していく。フランス商人ジラードはアメリカに渡って成した財をもって、世界一の孤児院を作ることを念願し、生涯で溜めた二百万ドルを遺して二つの孤児院が建てられた。また著名な慈善家ビーボデーはやはり生涯で溜めたお金で黒人のための教会を造った。こういう目的をもってならば金儲けは奨励され、後世への遺物となるという。
金を儲けることは己れの為に儲けるのではない。神の正しい道に依つて、天地宇宙の正當なる法則に徇つて、富を國家の為に使ふのであると云ふ實業の精神が我々の中に起こらんことを私は願ふ。…
これを読んだ私はたいへん力を得た。生活に必要以上の金儲けは何か不道徳なような印象が拭いきれない。しかし、儲けた金を何か慈善事業のために社会に還元するならば、金を儲けて蓄えることは疚しいどころかむしろ奨励されるべきものだということは大変心強い考え方だと思った。
私は小学生のときから白鳳の昔建てられた五重塔(現在はその礎石と舎利容器しか残っていない)を町に再建したいと念願してきた。もしも私が蓄財に成功しその念願ために金を使うならば、内村のいう後世への遺物となりうるのではないかと思った。
それにしても宗教者が金儲けを奨励するとは奇異にも思うが、清らかな目的をもって、正当な手順を踏んで集められた金によって、崇高な目的の為に金が生かされることを内村は奨励しているのである。西欧にはノーブレス・オブリージュという伝統があり、資産家は大抵その大半を寄付に充てたり、ボランティア活動を積極的に行い、貴族の従軍という気風もある。漱石も講演の中で学習院の生徒たちに訓戒した「金力に伴う責任」というのは特にイギリスの貴族に著しいこのノーブレス・オブリージュを言っていたのだろう。清らかな金は確かに後世への遺物となり得る。
しかしながら金を儲けるということは誰もができうることではなく、経営の才覚がなければ多額の金を集めて、浄財として寄進することもできない。ごく限られた人にしか残しえない後世への遺物ということになる。
そこで次に提示されるのは「事業」である。「事業」の中でも特に「土木事業」を内村は言っている。
講演の行われた箱根の近くの山の裾にトンネルを掘って湖水を引いて沼津方面の水田の灌漑の便を図った兄弟がいた。鎌倉時代の話である。その兄弟は「我々はこの有難い国に生まれて、何か後世に遺して逝かねばならぬ。それゆえに我々に何かできることをやろうではないか」と話し合った。「しかし、我々のような貧乏人では何も大事業を遺して逝くことはできない」と兄が言ったが弟は「この山をくり抜いて湖水の水を取り、水田を興してやったならば、それが後世への大なる遺物ではないか」と言った。それで兄も納得し、弟は上から兄は下からトンネルを掘り始めた。百姓仕事のかたわら兄弟は幾十年をかけて地道に掘り続け、四尺というから一メートル二十センチくらいのずれがあったがついに貫通し、それによって五ケ村何千石の田が潤って米を収穫できるようになったという。
内村は他にアフリカの探検をし、アフリカの地理を明らかにした宣教師のリビングストン、イギリスの近代を切り開き、またアメリカの元をつくったピューリタンのクロムウェルの功績を掲げている。
私の住む岐阜県の南西部は揖斐、木曽、長良の三川が合流して伊勢湾に注ぐ低地に当り、江戸時代までたびたび堤防が決壊する水害に見舞われてきた。そこで幕府は外様である薩摩にはるばる美濃まで来させての堤防工事を命じた。外様いじめの一つで、薩摩は協議して謀反の決起を起こすべきだという意見も出たが、ここは従う外ないということになり、家老平田靱負(ゆきえ)ら約千人の薩摩武士たちが手弁当で美濃までやってきた。工事は二年近くに及び、その間五十五名が抗議のため自害、三十三名が病没するという悲惨な工事になった。薩摩は数十万両という莫大な借財を余儀なくされた。家老平田も工事の完成をみて自害した。岐阜県庁に行くと丸の中に十字の島津の家紋が飾ってあるが、鹿児島と岐阜は姉妹県で、「岐阜の人間は鹿児島には足を向けて寝られない。鹿児島県人に会ったら必ず感謝の言葉を述べなさい」と私は塾の生徒たちに言っている。
幕命とはいえ、薩摩藩士の献身がなければ治水はならなかったのであり、さらにその精神は後世に遺って両県人を今も感動させている。これも内村の言う後世への最大遺物に違いない。
しかしながら、「金銭」を溜めることやその金の使う「事業」も才能や境遇という条件がそろわなければ誰にでもできるものではない。それらを成しえない人は一体何を後世に遺すべきかというに内村は「思想」を遺せると次に提起する。紙と墨、今ならパソコンとUSBメモリがあれば「事業」を起こす力がなくてもその思いを綴ればこれを後世に半永久的に伝えることができる。
二千年前ユダヤの漁夫や世に知られない人々によって書かれた『新約聖書』は後世を変革し続けている。また『日本外史』を書いた頼山陽は「日本を復活するには日本をして一団体にしなければならぬ。一団体にするには日本の皇室を尊んでそれで徳川の封建政治をやめて仕舞って、それで今日謂う所の王朝時代にしなければならぬ」という思想を持った。『日本外史』は史実的には怪しい部分もあったが平易な文章で情熱的に書かれた歴史小説のような作品だったため幕末の志士たちに広く読まれ、与えた影響は甚大だった。これが倒幕維新という大事業の原動力になったといっても過言ではない。
『人間悟性論』を書いたジョン・ロックは「人間というものは非常な価値のあるものである、又一個人というものは国家よりも大切なものである」という思想を持ってそれを著作として遺した。ロックの考えはルソー、モンテスキューに受け継がれ、フランス革命、アメリカ、イタリアの独立というヨーロッパ、新大陸に及ぶ大事業の原動力となったといえる。遺された「思想」の力は甚大なものがある。
「思想」を伝えるには文学に依るしかなく、「文学といふものは我々の心に常に抱いて居るところの思想を後世に伝へる道具に相違ない。それが文学の実用」と内村の文学観が述べられる。したがって『源氏物語』のような文学は「美しい言葉を伝えはしたが、日本の士気を高める為には、何もしないばかりか我々を女らしき意気地なしになした。あの様な文学は我々の中から根こそぎに絶やしたい(拍手)」と否定している。芸術一般を「女のやる事」として割り切っていた大正生まれの、私の父のような文学観である。内村の遺した著作は文学といえると思うが、この講演録自体も「後世への最大遺物」だったといえる。そしてその文学観は実用的で、倫理色の強いものだった。
そして最後に提起されるのが「生涯」である。
「金銭」や「事業」や「思想」を遺すことも成程尊いことには違いない。しかし、それらは諸刃の剣のようなところがある。必ずしも後世にとって益となるとは限らない。悪として作用する場合もある。また、この三者は誰にでも遺せるものとは言い難い。特別の才能、才覚がなければ遺しえない。しかし、最後に提示される「生涯」は誰でも努力によって遺し得るものでこれこそが「後世最大の遺物」だと内村は言う。しかし、これには条件がつく。「此の世の中は是は決して悪魔が支配する世の中にはあらずして、神が支配する世の中であると云ふ事を信ずる事」「希望の世の中である事を信ずる事」「歓喜の世の中であると云ふ考を我々の生涯に実行して、その生涯を世の中の贈り物として此の世を去ると云ふこと」そういう信仰者の「生涯」である。
関係ないこと事かもしれないが、「歓喜」という言葉から私はベートーヴェンの「第九」を連想し、そういえばこの講演の構成は「第九」の四つの楽章の構成に似ていると思った。それまで提示してきた「金」、「事業」、「思想」が否定され、誰にでも遺せる最大の遺物として、歓喜に貫かれた「生涯」が提示される。それは、苦悩と戦い(アレグロ)、その解決を得て(スケルツォ)、祈る(アダージョ)が第四楽章に至ってチェロとコントラバスの重低音で否定され、歓喜の合唱へと導かれていく「第九」に酷似している。内村は「第九」を聴いており、講演にその構成を取り入れたのかもしれない。
後世の人々を感動させ、勇気を奮い起こさせる「生涯」として、カーライルと二宮尊徳、メリー・ライオンという女教師が挙げられた。
カーライルはその心血を注いで書いた著作『フランス革命史』を原稿の段階で友達に読ませた。するとその友達が又貸して、借りた友達の友達がテーブルの上に置いておいたのを何も知らない女中がストーブの火の焚き付けに放り込んで何十年の労作をものの三、四分の間に灰にしてしまった。これを聞いたカーライルは衝撃を受け、十日ほど呆然としたが、「これくらいのことでへこたれる人間の書いた本など大したものではない。もう一度書き直せ」という内心の声を聞き、努力の末、前にも増して素晴らしい『革命史』を完成させたという。
二宮尊徳については『代表的日本人』でも取り上げており、その半端ではない生き方に内村が尊敬して止まない求道的人物の一人である。
メリー・ライオンは日本の武士のような生涯を送り、ミッション系女学校の女生徒たちに次のように訓戒していた。
「他の人の行くことを嫌ふ処へ行け、他の人の嫌がる事を為せ」
ストイックの極致のような言葉である。凛冽の気に満ちた言葉である。こういう言葉を教育できる人は自身、自分に厳しい人に違いない。変革の力を持った言葉と「生涯」であるといえる。
人生や世界の背後にキリスト教の信仰に裏付けられた神の存在を信ずることのできた内村は、艱難に打ち勝つ生き方こそが「後世最大の遺物」となり得ると述べるのである。
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二つの講演の概要は以上であるが、二人の講演を通じて明治を考えてみることがこの稿の目的である。
中高時代、明治の歴史は非常にわかりにくい時代として私を手こずらせた。十五代の将軍に貫かれた徳川時代のような筋が全く見えない。脈絡のない事項をひたすら暗記するのは苦痛であった。しかし、大学に進み、政治史を学ぶ中で「独立」というキーワードを与えられると目からウロコが落ちるようだった。福澤諭吉も中村正直も「自主独立」ということを繰り返し説いている。明治という時代はどこを切っても金太郎飴のように、天皇から政治家、経済人、一般庶民、女子供に至るまで、国家の「独立」を念頭に生きていた。
内村の講演の半年前、明治二十六年十二月二日樋口一葉が『塵中日記』に次のように記している。
条約の改正せざるべからざるなど、かく外にさまざまの憂ひ多かるを、…外にはするどきわしの爪あり、獅子の牙あり、印度、埃及の前例をひきても、身うちふるひ、たましひわななかるを、いで、よしや物好きの名たちて、のちの人のあざけりをうくるとも、かかる世にうまれ合わせたる身の、する事なしに終わらむや。…
今五千円冊に顔が刷られるほどの有名人であるがこの時の一葉はまったく無名の二十二歳の市井の一女子に過ぎなかった。
「国の独立」という喫緊の課題がある中で、滔滔と流れ入る西洋文明、西洋思想に漱石、鑑三という二人の知性はいかに向き合ったか。両者が徹底して真摯で、求道的であるために涙ぐましいほどのバランス感覚をもって、内面が吐露されているところに二つの講演の魅力はあり、また明治という時代をよく映していると思う。国家と個人、西洋と日本という二律背反といってもいい価値の相克の中で、両者はともに海外生活を経験し、懸命に生きる指針を見出そうと苦悩した。そして漱石は「自分本位」という、これは日本人として西洋人に対するための方便としても有効な、開き直りともとれる立場に至った。そして復古的な日本の牙城ともいうべき学習院で「個人主義」を堂々と主張する。
また、キリストと日本の「二つのJに仕える」ことを新渡戸稲造らと誓い合った鑑三は、独立志向が強く、教会に頼らない無教会主義の中で日本的なキリスト教を模索していたように見える。引用した講演の中の、後世への遺物としての「思想」を述べる中で鑑三は『日本外史』を書いた頼山陽と西洋近代思想の本家ともいうべきジョン・ロックを例に引いている。日本と西洋でバランスを取りながら、その折衷と発展をはかろうとしていたようにみえる。鑑三には講演の五年前の有名な「不敬事件」や日露戦争時の「非戦論」があるが、これらもぎりぎりのバランス感覚の中から、彼の良心に忠実な言動となって表れたものといえる。私は現代の「反戦平和」には疑問を持つが、キリスト者としての鑑三の「非戦論」は納得することができる。
漱石は「個人主義」といいながらも、金力と権力を高い倫理観の下に置く、ノーブレス・オブリージュを学生たちに求め、他の個性の尊重を促した。鑑三も後世に遺物を遺すということは、即ち自己の生きた証を遺すことであると同時にストイックな生き方を通じて国家社会に貢献する愛他的な生き方を称揚していたといえる。ここに明治の理想主義や浪漫主義を明確に読み取ることができる。
私はこの二つの講演に大変強い感化を受けた人間で、それはおそらく私が個性の尊重を強く容認、奨励される時代に特殊な事情によって国家という価値概念を与えられて煩悶していたという情況で読むことができたからではないかと思う。しかし、そういうことを差し引いても、二つの講演は極めて含蓄に富み、ラジカルに人の生を問いかけて迫ってくるものがある。
明治という時代のダイナミズムや活力、またそこには真面目で、求道的な緊張感が横溢していたことを改めて認識させられた。
(平成二十五年憲法論議が喧しい五月三日憲法記念日)