『群系』 (文芸誌)ホームページ 

森鴎外・小説の問題 野口存彌 31号<明治の文学>



 森鴎外・小説の問題 


     ―「舞姫」まで、「舞姫」以後


    野口存彌


    (「群系」31号収載)




 たとえどういう人であっても、生きるという営為は自己を主体としてその人自身の人生を生きることであり、他者の人生を生きることではない。それでいて、生まれもった本来の自己をそのまま貫きとおすことができるのかと問えば、不可能に近いという解答しか見出せないように思われる。家族をはじめとして周囲からのさまざまな要請を受け入れるのを迫られる場合もあれば、社会的な制約が存在していて本来の自己を貫きとおすことができないのを悟らせられる機会も多い。そうした経験を積み重ねた結果として、本来の自己は後天的に形成される自己と入れかわってしまうという問題が生じるのを指摘することができる。

 大正十一年七月、病臥していた森鴎外はみずからの生命の終焉を自覚すると、軍医同士で親しかった賀古鶴所に次のような遺言を口述筆記させた。


 余ハ少年ノ時ヨリ老死ニ至ルマデ一切秘密無ク交際シタル友ハ賀古鶴所君ナリコゝニ死ニ臨ンデ賀古君ノ一筆ヲ煩ハス死ハ一切ヲ打チ切ル重大事件ナリ奈何ナル官憲威力ト雖此ニ反抗スル事ヲ得スト信ス。余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス宮内省陸軍皆縁故アレドモ生死別ル丶瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ辞ス森林太郎トシテ死セントス

 墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可ラズ書ハ中村不折ニ委託シ宮内省陸軍ノ栄典ハ絶対取りヤメヲ請フ手続ハソレゾレアルベシコレ唯一ノ友人ニ云ヒ残スモノニシテ何人ノ容喙ヲモ許サス


 この引用のなかで、とくに注意をひくのは「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」という文言である。林太郎は鴎外の本名であるが、文言を通して先に述べたような生まれもった本来の自己と後天的に形成された自己という問題が浮かび上がるのが感じられる。鴎外が自己とはなにかという問題意識をもった文学者だったことも明瞭になる。

 後天的に形成される自己が生まれもった本来の自己から隔絶してしまうと、一種の仮装された自己となり、極端な場合にはそれは非自己とでも呼ぶべき状態を呈するに至る。鴎外は生涯の最終段階で後天的に形成された自己を全面的に否定することにより、生まれもった本来の自己に還ろうとしたことが推測される。

 文久二年に島根県石見地方の津和野で生まれている。明治維新の六年前である。森家は代々、津和野藩主亀井家の御典医をつとめていた。鴎外は明治維新の前年に藩校養老館に入学し、論語を習い始めた。

 新しい医学を修得するためにはドイツ語を学ぶ必要があるのを知った鴎外の父は、明治五年に数え年十一歳のわが子を連れて東京に出た。このドイツ語を学ぶ動機に関して、「ヰタ・セクスアリス」(『ミ』明治42年7月号)では「これはお父様が僕に鉱山学をさせようと思つてゐたからである」というように事実が置き換えられている。それ以後、鴎外は生涯を通して一度も津和野には帰還していない。現実に津和野で過したのは生誕から十一歳までの十一年間にすぎないことになる。それだけに遺言のなかで上京して以降、学問を究め、さまざまな分野で次々になしとげていった厖大な業績を「石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」という文言によって意志的にことごとく放擲してしまおうとする態度には、一種の壮絶ささえ覚えさせられる。

 既刊の各種年譜をみると、明治五年に上京してからの学歴は次のとおりになる。

 明治五年(11歳)進文学社に入学する。

   七年(13歳)東京医学校予科に入学する。

   十年(16歳)東京医学校と東京開成学校が合併して東京大学医学部が設立され、その本科生となる。(賀古鶴所はその時の同窓だった。)

  十四年(20歳)東京大学医学部を卒業する。

 この学歴からは鴎外が文学を専門的に学ぶという機会がなかったことに気づかされるが、学校教育以外の場で文学を学んでいたのを知らなければならない。東京医学校予科に在学していた時期に鴎外は寄宿舎に入っているが、「ヰタ・セクスアリス」には十四歳の主人公が寄宿舎生活のなかで頻繁に貸本屋から本を借りて読みふけったことが語られている。


 日課は相変らず苦にもならない。暇さへあれば貸本を読む。次第に早く読めるやうになるので、馬琴や京伝のものは殆ど読み尽した。それからよみ本といふものの中で、外の作者のものを読んで見たが、どうも面白くない。人の借りてゐる人情本を読む。何だか、男と女との関係が、美しい夢のやうに、心に浮ぶ。そして余り深い印象をも与へないで過ぎ去つてしまふ。併しその印象をうける度毎に、その美しい夢のやうなものは、容貌の立派な男女の享(う)ける福で、自分なぞには企て及ばないといふやうな気がする。それが僕には苦痛であつた。


 このように馬琴などの戯作者文学の作品を読むことから、鴎外に文学との関わりが始まっていた。

 また、「ヰタ・セクスアリス」には、こういうエピソードが記述されている。やはり十四歳の時に互いに自宅が近かったことから尾藤裔一(えいいち)という少年と親しくなった。


裔一は平べったい顔の黄いろ味を帯びた、しんねりむつつりした少年で、漢学が好く出来る。菊地三溪を贔負(ひいき)にして居る。僕は裔一に借りて、晴雪楼詩鈔(せいせつろうしせう)を読む。本朝虞初新誌(ほんてうぐしょしんし)を読む。それから三溪のものが出るからといふので、僕も淺草へ行つて、花月(くわげつ)新誌を買つて来て読む。二人で詩を作つて見る。漢文の小品を書いて見る。先づそんな事をして遊ぶのである。


 尾藤裔一は東京医学校予科で同級だった伊藤孫一がモデルである。鴎外はこの少年との交友のなかで、漢詩の専門書を熱心に読んだり漢詩を作ったり漢文で作文を書いたりする過程を通して、文学との関わりを深めていったことが判明する。なお、「ヰタ・セクスアリス」には尾藤裔一が野卑な言辞を極端に嫌うことや、『晴雪楼詩鈔』をいっしょに読んでいて真間の手古奈をうたった詩があったことから、尾藤裔一の母が継母であるのを知っている主人公が「君のお母様は本当のでないさうだが、窘(いぢ)めはしないか」と尋ねる場面も描かれている。

 小堀桂一郎氏は『森鴎外 ?日本はまだ普請中だ』(平成25年)で元軍医中将山田弘倫の著書『軍医としての鴎外先生』(昭和9年、のち『軍医森鴎外』と改題)をとりあげ、「題名通りに鴎外の軍医としての公生涯に主眼を置いた点で最初の注目すべき側面観であった伝記の中には、明治十四、五年頃に『源氏物語』五十四帖の中の和歌を漢詩に訳した、とか、浄瑠璃本の『朝顔日記』を漢訳した、といふ森の身近に居た陸軍省同僚の思ひ出が紹介されてゐる。何れも伝聞のその又伝聞の如き情報で、そのまま信ずるには躊躇する底のものであるが、その国学上の教養が(よくある型として)『古今集』『百人一首』の愛誦に留まる程度のものではなかつたことを示唆してゐよう」と説いている。鴎外が年少の時期から漢詩や漢文にも、また日本古典にも深い理解をもっていたことが明らかになる。

 外国文学と向き合うのは、東京大学医学部を卒業してから陸軍省に入省し、ドイツに留学した時である。早くからドイツへの留学を希望していて、軍医という職業を選択したのも、ドイツ留学をさせてもらえるという期待があったからだったことが考えられる。

 陸軍省に入省したのは明治十四年で、それから三年が経過して、鴎外のドイツ留学の夢は実現した。陸軍衛生制度調査と軍陣衛生学研究という目的を与えられて、明治十七年に横浜からフランス船でヨーロッパへ向かった。ドイツではライプチヒ、ミュンヘン、ベルリンなどに滞在し、研究生活に勵んだ。とくにホフマン、ベッテンコーフェル、コッホなど当時の世界的権威といわれる学者から直接指導を受けて最新の知見を学んでおり、大きな成果を得ることができたとみて差し支えない。

 前掲の小堀桂一郎氏の著書によれば、鴎外は昼間は大学の実験室に入って指導教官から与えられた研究題目に取り組むものの、夜、自室に戻れば文科生とは異なり、聴講したノートを整理するといった作業の必要もないので、時間が自由に使えた。そこで鴎外は語学力を活かしてドイツ文学とドイツ語に訳された西洋文学の作品に次々に読みふけったというのである。小堀氏は鴎外の「独逸日記」から明治十八年八月十三日の頃を引用している。


 飯島(魁、動物学専攻)の去りてより、余は其旧室に遷れり。架上の洋書は巳に百七十余巻の多きに至る。鎖校(夏期休暇のこと)以来、暫時閑暇なり。手に随ひて繙閲す。其適言言ふ可からず。盪胸決眦の文には、希臘の大家ソフオクレエス、オイリピデエス、エスキユロスの伝奇あり、?麗豊蔚の文には仏蘭の名匠オオネエ、アレキイ、グレヰルの情史あり、ダンテの神曲は幽味にして恍惚、ギヨオテの全集は宏壮にして偉大なり。誰か来りて余が楽を分つ者ぞ。


 このなかに用いられている盪という漢字は辞典にもなかなか見当たらないが、意味は蕩と同じではないかと考えられる。そして、例句として蕩心という熟語があり、「心をまどわしとろかす」と説明が付されている。「蘯胸」の意味もほぼそれと同じだと判断していいように思われる。

 また先に引用した「独逸日記」には鴎外がすでに百七十余冊の書籍を収集していたことが記されていたが、小堀桂一郎氏はそのことに関して、


右に記したギリシャ古典悲劇、ダンテ、ゲーテ全集等を揃へた見識は立派なものだが、挙げてゐる当代フランス作家の(情史)は謂はば取るに足りない通俗小説である。その辺りの玉石混淆の読書生活が、如何にも欧州文学世界の椋鳥らしい面白い所であり、微笑ましくもあるのだが、その濫読状況は必ずしも時間の浪費ではなかつた。寧ろ選り好みの生ずる以前の間口の広さが、後年の『諸国物語』纂訳の土台になつてゐると高く評価してよい。


と述べている。文学者になるための条件として濫読の時期を経験することが不可欠であるが、鴎外はドイツ留学中にもっぱら西洋文学を濫読するという経験をしていたことになる。医学の研究に勵み、同時に西洋文学に読みふけるという日常の繰り返しは、そのこと自体が西洋文明に深く没入する日々だったことを示している。

 ドイツ留学は明治二十一年までつづけられるが、一方では『シンポジウム日本文学13 森鴎外』(昭和52年)で出席者の磯貝英夫氏が、シンポジウムは鴎外がドイツでよく吸収したものの面だけの話になったが、逆に彼がつかみ得なかったものは何だったのだろうか、という問題を提起している。確かに鴎外が受容できなかったものが存在していて、シンポジウムの他の出席者がそれに関して解答している。三好行雄氏は「鴎外は日本の近代作家の中でキリスト教に対してもっとも冷淡だった作家の一人でしょう。で、ドイツはたしかあの頃は一八八〇年前後ですが、ビスマルクがカトリックを弾圧した。つまり、宗教上の問題をはらんでいた場所へ行っていながら、キリスト教をほんとうに魂にかかわる信仰として考えたことがあったかどうか」という見解を表明している。

 小堀桂一郎氏は「『独逸日記』の中にちょっとしたドキュメントが一つありますね。ドレスデンの軍医学講習会の仲間で、いい人だけれども非常に気性の激しい友人がいて、しょっちゅう鴎外をつかまえて、おまえはせっかくドイツにいながら、なぜキリスト教に改宗しないのかというふうに叱りつける。いつまでも化外の民(Heide)でいるのかというわけです。そういう一種の攻勢なり圧迫なりは周囲からかなり加えられていると思うのです。それに頑として動じなかったということは、これは鈍感でいたのではなく、意識的に自分を持していたのではないでしょうか」と答えている。

 明治期の知識人には外国に赴くという経験をしていないものの、キリスト教の感化を受け、キリスト教信仰を受容した事例も決して少なくはない。近代精神が確立されていく過程で、キリスト教が果たした役割は多大なものがあったと言える。それだけに鴎外の場合は、キリスト教に対する姿勢の特異さが極立っている。鴎外の作品には福音書からの引用が見当たらないが、聖書を読む機会はなかったのだろうか、と考えさせられる。

 しかし、鴎外がヨーロッパ文明から受容しなかったのは、キリスト教だけにとどまらなかった。勝本清一郎が『座談会 明治文学史』(昭和36年)の「鴎外」の項で指摘していたような問題がある。まず鴎外が自然主義に関心を払わなかったという点である。

 明治十八年(一八八五年)にフランスからの影響で、ミュンヘンでドイツでは最初の自然主義文学運動として雑誌『ゲゼルシャフト』が創刊されている。明治十九年(一八八六年)から明治二十年(一八八七年)まで、鴎外はミュンヘンに滞在しているが、新しい文学の動向に関心を示さなかった。ゾラの作品が翻訳されたりソラについての研究書が刊行されたりしてドイツで自然主義文学の影響が本格化するのは一九九〇年代に入ってからなので、結局、鴎外は自然主義文学に接する機会はなかったことになる。

 さらに勝本清一郎は鴎外の代名詞のように扱われているハルトマン(1842〜1906)の美学に対しても古い美学だという判断を示している。鴎外が各分野で古いもの、新しいものをすべて見渡したうえで基礎となる古いものを受け入れるほうがいいと選択したのではなく、単に新しいものを知らなかったのだと述べている。

 そういう見解に立って、鴎外がニーチェ(1844〜1900)を知らないまま帰国してしまったことも問題にする。その当時、イプセン、ストリンドベルク、ドストエフスキー、トルストイ、ゾラなどヨーロッパ各国の天才たちに対抗して、「近代精神のドイツ的表現としてもち出し得るもの、ドイツ人の中で珍しく天才的なものは、ニーチェだったんです。そのニーチェを知らないで帰ってきたことです」と勝本清一郎は述べる。

 鴎外には結論だけを先に見て受け入れるか受け入れないかを判断しようとする傾向がある。予め、どういう結論にたどりつくか判らなくても真実を追求しようとする姿勢がみられないとしている。

 勝本清一郎の批判はなおもつづいていて、ハルトマン美学とそれ以後の新しい美学をめぐって見解を展開している。「当時のドイツの一般的な雑誌にはデッケンズ風の家庭小説などが載って、社会主義的人道主義的思潮の芽が出始めている際です。つまりあまり文学的特色のない時代にドイツにいたので、またこれと言ったよき文学的指導者にもめぐり逢わなかったので、さすがの鴎外もこれという文学の勉強をしていないのではないかと私は思う」と鴎外自身の文学との向き合いかたを問題にしたうえで、次のように述べる。


美学の方にもやはり遺憾な事情がありますね。鴎外は、一方では医者なんですから、それに関連して正式に美学も勉強したとすれば寧ろハルトマンなんかをつかむわけはないわけです。ハルトマンは思弁的メタフィジックな美学のいちばん末流だと言っていいので、新しい美学としては、フェヒナーの「美学入門」が発表されたのがすでに一八七六年です。それまでの上からの美学に対抗して下からの美学が提唱されて、実証的、経験科学的美学といいますか、あるいは心理学的美学といいますか、そういう新しいタイプの美学がドイツでは起っているので、医学を勉強した鴎外としては学界の事情に明るければ当然これにとっつかなければいけないはずです。カントの美学を勉強して、のちの批判主義の新カント派美学の素地をつかんだとでも言うならまた別ですが、思弁的哲学や美学の末流を鴎外がありがたがったということに、非常におかしなことだと思うのです。


 勝本清一郎は具体的にはハルトマンの美学とフェヒナーの美学とを対比させて論述していることになるが、ハルトマンの代表的著作である『無意識の哲学』が刊行されたのは一八六九年で、フェヒナーの『美学入門』はその七年後の刊行ということになる。

 「妄想」(『三田文学』明治44年3月〜6月号)にはドイツ留学時代の経験が回想的に語られている。ニーチェやショーペンハウアーに短く触れた記述もみられるが、とくに目立つのはハルトマンに関する記述である。ハルトマンの本を読むことを考えついた時の状況について、こう説明している。


 或るかういう夜の事であった。哲学の本を読んで見ようと思ひ立つて、夜の明けるのを待ち兼ねて、Hartmann(ハルトマン)の無意識哲学を買ひに行つた。これが哲学といふものを覗いて見た初で、なぜハルトマンにしたかといふと、その頃十九世紀は鉄道とハルトマンの哲学とを齎したと云つた位、最新の大系統として賛否の声が喧(かまびす)しかつたからである。


 引用の冒頭にある「或るかういう夜」とは、心に空虚感を覚えて慰藉になるものを探し求めていた時期があって、そういう状態に陥っていた際のある夜という意味である。この引用をみれば、鴎外はハルトマンの著述を最新の哲学と受けとめて読んだことが判明する。その時点で最新のそれはフェヒナーによって著わされているので、勝本清一郎が指摘していたように鴎外が人文科学の分野での指導者にめぐりあわなかったことから生じた誤解だったと考えなければならない。

 勝本清一郎は鴎外がニーチェなどを知らなかったことに関しても次のように述べて、『座談会 明治文学史』の「鴎外」の項でのこうした問題についての発言を終えている。


ニーチェの場合でも、もしドイツにいた時にこれを読めば直ちに既成価値の否定に恐るべき不逞精神を感じて毛嫌いしたでしょうが、この場合は単純な意味で知らなかったのです。鴎外はドイツにいたときはニーチェとかキェルケゴールとかいうものの存在を教えて貰える環境にいなかったんです。しかしそういう保守的な環境のそとのドイツでは、事実として、哲学上の実在主義的なものがつぎつぎに打出されていたわけですね。鴎外は仮にキェルケゴールやニーチェは別としても、そういう実存主義的なものの考え方にはぜんぜん触れることなしにドイツから帰国したと思う。


 勝本清一郎の指摘している点から判断すれば、卓越して明哲な知性の人と言える鴎外に、一面では大きく欠落している部分が存在することが明瞭になる。キリスト教から自然主義、さらに美学や哲学のジャンルに亘って、鴎外が受容しなかったのはヨーロッパを支配している近代精神の根幹を形成するものばかりである。それらを受容しなかったとすれば、単に知らなかったという理由以外に、鴎外自身が意志的に拒んだものもあるように推測される。その場合、なにを根拠に拒んだのかが問題となる。ヨーロッパに赴いて絢爛とした西洋文明に接触した時、内面で葛藤を経験しなければならなかったことは当然、想定できる。そこで思い合わされるのは鴎外が遺書のなかに書いた「石見人」という用語である。この用語は十一歳の時に上京するまで、自然環境に恵まれた石見地方の一隅にある津和野の町でのんびりと成長したというようなことはまったく意味していない。

 「妄想」には次のような記述がある。


西洋人は死を恐れないのは野蠻人の性質だと云つてゐる。自分は西洋人の謂ふ野蠻人といふものかも知れないと思ふ。さう思ふと同時に、小さい時二親(ふたおや)が、侍(さむらい)の家に生まれたのだから、切腹といふことが出来なくてはならないと度々諭(さと)したことを思ひ出す。その時も肉体の痛みがあるだらうと思つて、其痛みを忍ばなくてはなるまいと思つたことを思ひ出す。そしていよいよ所謂野蠻人かも知れないと思ふ。併しその西洋人の見解が尤もだと承服することは出来ない。


 鴎外が「石見人」という用語にこめた内容は、いまの引用文のなかに存在するように思われる。鴎外はそういう内容のものとしての「石見人」であることを根拠にして、ヨーロッパ文明に向き合ったのではないだろうか。その姿勢にあるのはいわゆる近代精神とは別種のもので、むしろ反近代とでも呼ぶべききびしい規範をもつことを要請するものだったので、おのずから鴎外には拒まなければならないものも見えていたはずである。

 先程の引用の前後で鴎外が述べていることを要約すれば、自我の充足、あるいは自己が自己として生きているのかということへの葛藤だったように思われる。「自分の生まれてから今までした事が、上辺(うはべ)の徒(いたづら)ら事(ごと)のやうに思はれる。舞台の上の役を勤めてゐるに過ぎなかつたといふことが、切実に感ぜられる」とまで記している。ヨーロッパ社会のなかで一日一日を生活していたあいだに、鴎外は仮装された自己を生きているのではないかという問題に衝きあたっていたことが明らかになる。

 四年間にわたるドイツ留学を終える時が訪れた。国際赤十字会議に出席したりドイツの軍医制度の実情を視察するために前年の七月からベルリンにもきていた石黒忠(ただ)悳(のり)とともに、明治二十一年(一八八八年)七月に帰国の途についた。石黒忠悳は軍医本部次長で鴎外の直接の上司にあたり、のちに軍医総監、陸軍省医務局長を歴任し、退役後は日本赤十字社長に就任して子爵を授けられている。

 鴎外自身がベルリンにいたのは明治二十年(一八八七年)四月以降のことで、ベルリン滞在中のある時期からひとりの若いドイツ人女性と知り合い、生活をともにする日々を過したという問題をかかえていた。留学生と現地の女性とのあいだにその種の問題が発生するケースは必ずしも珍しい事例ではなく、留学生が故国に戻る時は、金錢を支払って愛人としての関係を清算していくのが通例だった。しかし、鴎外は女性に対してそのような行為をとることなく、七月二十九日にマルセイユから横浜に向かうフランス船に乗った。

 一方、愛人の女性もそれより早く七月二十五日にドイツのウェーゼル川に面した港町のブレーメンからドイツ船に乗り、鴎外の動向と平行して日本に向かった。ふたりの行動は打ち合わせをしたうえだったと判断するよりほかない。

 鴎外の乗った船は九月八日に横浜に到着し、女性の船は四日遅れて九月十二日に横浜に着いた。女性は東京に向かい、築地のホテル静養軒に入った。ドイツ人女性を横浜から築地のそのホテルまで案内した人が存在したことになるが、案内した人として鴎外が候補に挙げられる。当然、鴎外をはじめ鴎外周辺の人がその女性への対応に追われることになる。ドイツ人女性は本名がエリーゼであることがのちに至って判明するが、鴎外の妹、小金井喜美子が女性の名前をエリスと呼びながら次のように記述している。


エリスという人とは心安くしたでせう。大変手芸が上手で、洋行帰りの手荷物の中に、空色の繻子とリボンを巧に使つて、金糸でエムとアアルのモノグラムを刺繍した半ケチ入れがありました。帰朝の時後を慕つて来たのはほんとです。横浜どころか築地のホテル迄も来たさうです。叔父さん(注、鴎外の弟、森篤次郎)と一緒に逢ひに行つたり、船迄送つたのは宅の主人(注、小金井良精)です。成程小柄な美しい人だつたと申しました。舞姫の中に「この常ならず軽き掌上の舞をもなしえつべき少女」とあるのも頷かれます。快よく帰国したのは、主人が一二度行つて話す中に、家庭の偽らぬ様子がわかつてあきらめたのださうです。其頃はまだあちらの人達に日本の国情がよくわからず、幾分生活状態を買ひ被つて居たのだと聞きました。(「森於莵に」・『文学』昭和11年6月号)


 これをみると、ドイツ人女性は比較的簡単に森家の側の説得に応じて本国に帰っていったように受け取れるが、女性が横浜港から帰国の途についたのは十月十七日である。女性を帰国させるのに三十五日という日数を要したことになる。

 また、いまの引用ではこの女性は鴎外の意志とは関わりなく、鴎外の家を富裕な家のように判断して勝手に追いかけてきたことになっている。裕福ではない家の子女だとすれば、経済格差をのりこえて、いきなり富裕な家に受け入れてもらうのは不可能なことを本能的に自覚しているはずである。そうであれば、日本に来航するというような行動は最初から起こさなかったとみなければならない。その女性がはるばる日本まで渡ってきたのは、裕福な家かどうかという問題とはなんらかかわりなく、鴎外の家が自分を受け入れてくれるのを確信していたからだと考えざるを得ない。それだから、森家の側が彼女を説得するに三十五日を必要としたのであり、その日数はまた鴎外自身が彼女との別離を決断するのにも必要だったと言える。

 小金井喜美子は「兄の帰朝」(『鴎外の思ひ出』収載・昭和31年)でも、鴎外がドイツから帰国した時に触れ、エリスへの対応に家族が飜弄されたことを述べたあとで、


 十月十七日になつて、エリスは帰国することになりました。だんだん周囲の様子も分り、自分の思違へしてゐたことにも気が付いてあきらめたのでせう。もともと好人物なのでしたから。その出発に就いては、出来るだけのことをして、土産も持たせ、費用その外の雑事はすべて次兄(注、森篤次郎)が奔走しました。前晩から兄と次兄と主人とがエリスと共に横浜に一泊し、翌朝は五時に起き、七時半に艀舟で本船ジェネラル、ウェルダーの出帆するのを見送りました。在京は一月足らずでした。

 思へばエリスも気の毒な人でした。留学生達が富豪だなどといふのに欺かれて、単身はるばる尋ねて来て、得るところもなくて帰るのは、智慧が足りないといへばそれまでながら、哀れなことと思はれます。


と記述している。このようにここではドイツ人女性を知能程度の低い人だったとまで言おうとしている。それにとどまらず、小金井喜美子の「次ぎの兄」(『森鴎外の系族』収載。昭和18年)には、近親者のあいだで交された「エリスは全く善人だね。むしろ少し足りない位に思はれる。どうしてあんな人と馴染になつたのだらう」「どうせ路頭の花と思つたからでせう」という会話が記録されている。ドイツ人女性をさして「路頭の花」とよぶのはそれ自体、侮辱したことになるが、いまの会話はそうした「路頭の花」のような女性であれば別れる時はたやすく関係を解消できるので交情を深めたのだという意味になって、二重に相手を侮辱しているとみるよりほかない。

 『森鴎外覚書』(昭和15年)という著書のある成瀬正勝は、昭和四十七年に「舞姫論異説 ?鴎外は実在のエリスとの結婚を希望してゐたといふ推理を含む」(『国語と国文学』同年4月号)を発表して、小金井喜美子の証言に対して鋭く疑問点を指摘した。鴎外は自身の小説の第一作としてドイツ人女性とのあいだに生じた問題を素材にして、「舞姫」(『国民之友』69号付録・明治23年1月)を書いたが、成瀬正勝の論考は作品論として「舞姫」を論ずるというよりも伝記研究のジャンルに近い。論考の主眼としているのは、サブタイトルにあるとおりで、「鴎外は親が許せば、エリスと結婚するつもりで帰つてきたのだ」という判断を示し、論拠も挙げている。鴎外の帰国と平行して日本まで来たドイツ人女性について、それまで成瀬正勝のような見解が提出されることがなかったのが、不思議にさえ感じられてくる。なお、成瀬正勝の『森鴎外覚書』に関しては、「日本における鴎外学を樹立した最初の記念塔とでもいうべき地位を占める」(吉野俊彦『鴎外・五人の女と二人の妻』・平成6年)という評言がある。

 ドイツ人女性を説得する際は、賀古鶴所も協力した。十月十四日に鴎外は賀古鶴所に書簡を書いた。その女性が横浜からドイツ船で故国に戻る三日前のことである。


御配慮恐入候 明旦ハ麻布兵営え参候 明後日御話ハ承候而モ宜敷候 又彼件ハ右顧左眄ニ遑ナク断行仕候 御書面ノ様子等ニテ貴兄ニモ無論賛成被下候儀ト相考候 勿論某源ノ清カラザル 故ドチラニモ満足致是候様ニハ収マリ難ク其問軽重スル所ハ明白ニテ人ニ議スル?モ無御坐候

  十月十四日 林太郎

  賀古賢兄侍史


 この書簡は鴎外自身がドイツ人女性について述べた唯一の資料である。小説として書かれた「舞姫」は別として、これ以外には鴎外がその女性に関して記述した資料は存在しない。しかし、ここに記されていることは書簡を受け取った賀古鶴所でなければ理解できない部分があって、解釈しようとする研究者を悩ませてきた。

 林尚孝『仮面の人・森鴎外』(平成17年)には、これまでとりあげてきた成瀬正勝の論考を長谷川泉がいまの書簡を根拠に否定したことが紹介されている。


長谷川泉は『鴎外文学の位相』(一九七四)で、「賀古鶴所宛鴎外書簡にある「其源の清からざること」とあるのは、「エリスとの交情が最初から結婚を前提としての交際や恋愛関係ではなかったことを暗示している。すなわち、鴎外にとっては行きずりのかかわりあいであったことを示唆している」と述べて、成瀬説を批判した。成瀬の死によって、この批判への反論はなされなかった。


 この引用をみると、長谷川泉が「其源ノ清カラザル 」という文言をドイツ人女性との交情をさしたものと解釈していたことが判る。ここで疑問として浮かぶのは、鴎外が自分とドイツ人女性との交情を「其源ノ清カラザルコト」などと発言したりするだろうか、という点である。そのようなことはあり得ないと考えるほうが常識にかなっていると思わざるを得ない。

 「舞姫」の作中人物としてエリスと名づけられ、小金井喜美子もエリスと呼んでいたドイツ人女性の本名が判明したのは、昭和五十六年になってである。中川浩一、沢護の両氏が横浜で発行されていた週刊英字新聞 The Japan Weekly mail に掲載されている乗船者名簿の調査にあたった。その結果が朝日新聞昭和五十六年五月二十六日の夕刊に報道された。ドイツ人女性の本名はエリーゼ・ヴィーゲルトだった。

 中川氏、沢氏は国文学の専門家ではなく、それぞれ地理学と日仏交流史の研究者である。(なお、新聞には報道されなかったが、両氏による発見以前に、英字新聞を調査してエリーゼの名前にたどりついていた研究者のいることが判明している。)

 本名が明らかになると、次にはそのドイツ人女性についての具体的なディテールの調査が課題になる。エリーゼがどういう女性だったのか、実像の解明が待たれることになる。

 その課題を解決したのは文筆家、飜訳家の六草いちか氏だった。六草いちか氏が着目したのは教会簿の調査だった。「第二次世界大戦でほとんどの資料が焼失してしまったベルリンで、豊富な情報がそこに残っていたのだ」と述べ、探求するために一途にかけめぐった明け暮れを著書『鴎外の恋 舞姫エリスの真実』(平成23年)の巻末で、


 今回のエリーゼ探しのために私が行ったのは、州立、連邦、王立、教会、市立の各公文書館および虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑資料館に出向いての調査のほか、ドイツ船舶博物館、ドイツ移民博物館、ハーバック・ロイド社、生物博物館、聖マリア教会、墓地管理局などへの電話および書面による問い合わせであり、国立図書館、フンボルト大学、ベルリン研究所、ベルリン工科大学の各図書館には数えきれないほど足を運んだ。

 ときに無駄足に終わり、ときに予期せぬ発見が待っていた。教会簿の記録といってもエリーゼ一家の場合、ベルリン市内だけでなくポーランドにまで及ぶ広範囲に記録が分散しており、それらの調査のどれが欠けても、また、どの順序が違っても、発見に至ることはなかったとさえ思われる。


と語っている。

 六草いちか氏の奔走によって明らかになったエリーゼ・ヴィーゲルトについてのデータを簡略に紹介させていただきたいが、一八六六年九月十五日に現ポーランドのシュチェチンで誕生している。鴎外より四歳年少であることが判明した。父親の職業は銀行員で、出納係のような業務を担当していた。誕生の翌月の十月十四日にシュチェチンの聖マリア教会で洗礼を受けている。間もなく一家はベルリンに出ることになり、エリーゼ誕生の二年後に妹のアンナが生まれている。

 当時の住所も判明したが、「その後の消息として発見できたのは十年後の一八八〇年版住所帳においてで、そこで父フリードリッヒが死亡した可能性が浮上した。翌年にもヴィーゲルト一家の記載があり、そこには母マリーの旧姓が書かれていたことから、この記録がエリーゼ一家のものであると確定できた。また、一八八一年版においては未亡人を意味する “Witwe(ヴィーヴェ)? の省略形、“Ww? が記されていた。これによって、この時点で父フリードリッヒが亡くなっていたのも確実と考えられる」と六草いちか氏は記述している。

 ところで、鴎外はエリーゼがドイツに帰っていってから一年三か月後に「舞姫」を発表するが、主人公は太田豊太郎、ドイツ人女性はこれまで述べてきたようにエリスという名前で描写されている。小金井喜美子は本名がエリーゼであるのを知っていたはずであるが、終始、エリスという名前を用いた。「舞姫」に登場する女性と名前が同一であることから、「舞姫」が鴎外のドイツでの実体験を色濃く反映させた作品であるかのように受け取らせる原因をつくった。小金井喜美子が最初からエリーゼと呼んでいれば、その後の事態もかなり変化していたことが想定される。

 小堀桂一郎『森鴎外 ?日本はまだ普請中だ』の収載年譜によれば、鴎外は明治二十一年九月に帰国してすぐ陸軍軍医学舎教官に任じられているが、この年十二月の項には「陸軍軍医学舎の名称改り新たに軍医学校教官兼陸軍大学校教官陸軍衛生会議事務官に補せられる」と記載されている。

 翌明治二十二年に入ると、医学論文とならんでヨーロッパの文学作品の飜訳を次々に発表するようになる。同じ年八月には『国民之友』58号付録として訳詩集『於母影』を刊行した。

 通説では日本の近代詩のはじまりに位置づけられているのは、明治十五年に外山正一、矢田部良吉、井上哲次郎という東京大学の学者によって出版された訳詩集『新体詩抄』である。それら三人が文学の専門家ではなかったという事情もあって、鴎外は有美孫一宛ての書簡(明治22年10月12日)に「矢田部、外山等の新体詩は詩に非ず」と記し、『新体詩抄』の訳詩に対しては批判的見解を明らかにしていた。ヨーロッパの小説の飜訳を進めていた鴎外は、たまたま『国民之友』主宰の徳富蘇峰から依頼を受け、韻文の飜訳の可能性に挑戦したのが『於母影』だと考えられる。ドイツ滞在中に収集した各詩人の作品を知己の文学者と分担して飜訳し一冊の詩集に編纂したのだった。

 訳出の対象となった原詩のもっている詩想の深さをどれだけ適格に表現できたかが問われることになるが、『於母影』は島崎藤村や上田敏に多大の影響を与える結果になった。

 鴎外永眠の直後、市村?次郎が『明星』大正十一年八月号に回想記を寄稿している。


 私が森君と相知つたのは明治二十二年、井上通泰君が私の学友で、井上君から賀古君に通じ、私は森君と近付き担つたので、森君は私より三つ四つ年上だと思ひます。

 それが段々と懇意になり、何か一つ文学の雑誌を出さうぢやないかと相談したが、それにしては同盟者がなくてはいけないといふので、落合直文君を入れ、今少し広くといふ意味で山田美妙、三上参次君なぞも網羅しようと云つて時々集会しました。愈々発行する前に何か一つ試みたいと思つてゐると、徳富猪一郎君から『国民之友』の夏期付録へ何か書かないかと話があつた処から、それでは一つ世間を驚かして遣らうと云ふので、詩と歌を書くべく半分をし、賀古君が云つたやうに英国と独逸、支那と日本のものを選んで、落合君が『笛の音』といふ調子の好いもの、井上君は少し短いもの、小金井夫人(注、小金井喜美子)も或る部分、森君が西洋物を飜訳して漢詩に直し、私は『平家物語の中の鬼界島の俊寛』を矢張漢詩に長く作り、会の名を新声社とした処から、SSSで、誰の名も出さずに投書したのです。


と述べている。なお、この市村?次郎の文章には表題は付されていない。

 いまの引用から判明するのは、『於母影』の刊行が鴎外にとって文学者としての活動の進捗を図るうえで、重要な知己と出会う機会となったという事情である。とくに落合直文に関しては「故落合直文君に就て」(『明星』明治37年2月号)で、鴎外自身が「落合君と交際してから、物を書くのに、テニヲハや仮名遣に気を注けなれば((ママ))成らぬと云ふことを知ツたのであります。それから落合君に聴きながら直しました。併し今も猶直りきらないのです」とまで述べていることに注意したい。

 鴎外には『於母影』収載作品以外に、鐘礼舎の筆名でゲーテの「のばら」を次のように訳出している事例もある。

 ひとり さける のばら、あはれ。あかぬ いろを

 たれが すてむ。のばら、のばら、あかきのばら。」

 いかで ひとえ をりて ゆかむ、されど をらば

 てをや ささむ。のばら、のばら、あかき のばら。」

 ひとり さける のばら、あはれ。てをば、させど、

 つひに をりぬ。のばら、のばら、あかき のばら。」

(『国民之友』96号・明治23年11月)


 このように三音の反復によって詩篇全体が成立しているが、鴎外がどれほど深く詩を愛好していたかが判るとともに、韻文を訳出すること自体の愉しさを知っている人だったのではないかという印象を与えられる。

 昼間は職場で執務する。夕方帰宅すると、夜は深更まで机に向かい、医学論文の執筆とヨーロッパの文学作品の飜訳という、性格の異なるふたつのジャンルについての仕事に没頭していた。内田魯庵は「森鴎外君の追憶」(『明星』大正11年8月号)で、鴎外が夜四時間以上就寝したことがないと聞いていると述べたうえで、


森君の家の傍に私の知人が住つてゐて、森君の書斎の裏窓が見えるので、此裏窓に射す燈火(あかり)の消えるまで自分も競争して勉強するツモリでゐたが、どうしても夫まで起きてゐられないで、イツ燈火が消えるか知らなかつた。或晩深夜に頭が覚めて寝つかれないので、何心なく窓をあけて見ると、森君の書斎の裏窓はまだボツカリと明るかつた。『先生マダ起きてゐるな、』と眺めてゐると、其中にプツと消えた。急いで時計を見ると払暁の四時だつた。『之ぢやア迚(とて)も競争が出来ない。」と其後私の許へ来て話した。


と記している。そこに表現されているのは後年になってからの習慣ではなく、体力的に充実していた青年期から鴎外が実行していた生活行動だと判断して差し支えない。

 赤松登志子と婚約した時、エリーゼがドイツに帰国してからまだ僅か一か月しか経過していなかった。明治二十二年三月九日に鴎外と同じ津和野の出身で明治政府の要人である西周の媒酌で結婚式を挙げた。赤松登志子は海軍中将、男爵赤松則良の長女で、明治四年に生まれ、鴎外とは十歳の年令差があった。この結婚に関しては、長男という立場にいる者は本人の意志とはかかわりなく周囲を固められてしまうと、それに従わざるを得ないという事情があったのを考えなければならない。

 だから、「舞姫」には実際の行動としては逆らうことのできなかった結婚への憤懣も反映している面があるのではないかという推論も成り立つように思われる。極端に言えば、「舞姫」を執筆すること自体が赤松登志子との結婚に対する意志表示なのかもしれない。事実、「舞姫」という作品を構想し、執筆を始めるのは赤松登志子と結婚してからだったと判断するのが妥当である。

 ここに「舞姫」の執筆動機に純然とした文学的衝動以外に実用性という問題が孕んでいるのを認める必要が生じる。「舞姫」に次いで、「うたかたの記」(「柵草紙」11号・明治23年8月)と「文づかひ」(「新著百種』12号・明治24年1月)を発表し、それら三篇以後、鴎外は現実に約十八年間、小説らしい小説をまったく書かずに過した。文学的衝動に燃えて小説を書いたとすれば、明治二十三年から翌二十四年にかけて三篇の作品を発表しただけで文学的衝動がことごとく解消してしまうというのは、奇妙な事態というよりほかない。

 こうした実用性の問題に関しては後でまた触れるが、鴎外が「舞姫」を書くのは、二葉亭四迷によって近代文学最初の口語体小説が発表されてから間もない時期である。小説を書こうとする営みの前面には、小説言語をどのように処理するのかという困難な問題が待ちかまえていた。「舞姫」はそういう小説言語の創出の問題から始まって、全体として鴎外が熟考をかさねた末に成立した結晶体とでもいうべき様相をみせている。

 「舞姫」の書き出しは次のとおりである。


 石炭をば早や積み果てつ。中等室の卓(つくゑ)のほとりはいと静かで、熾熱燈(しねつとう)の光の晴れがましきも徒(いたづら)なり。今宵は夜毎にこゝに集(つか)ひ来る骨牌(カルタ)仲間の「ホテル」に宿りて、舟に残れるは余一人のみなれば。

 五年(いつとせ)前の事なりしが、平生(ひごろ)の望足りて、洋行の官命を蒙り、このセイゴンの港まで来(こ)し頃は、目に見るもの、耳に聞くもの、一つとして新ならぬはなく、筆に任せて書き記しつる紀行文日ごとに幾千言をかなしけむ。当時の新聞に載せられて、世の人にもてはやされしかど、今日になりておもへば、穉(をさな)き思想、身の程知らぬ放言、さらぬも尋常(よのつね)の動植金石、さては風俗などをさへ珍しげしるしゝを、心ある人はいかにか見けむ。


 鴎外は時代の要請でもあった口語体の文章に拘泥することなく、文語体を採用して新しい小説言語を創出したと言える。文語体であっても概念的な叙述にならず、具体的な描写が可能であるのを実証した。そのうえ、一種の雅文調で、そこに自身の二十歳代後半という年令的な若さと感覚の清新さが映し出されているように受け取れる。

 鴎外は明らかに自分とエリーゼの交情を素材としてとりあげながら、実在の鴎外ならびにエリーゼから最大限まで隔だった位相に、太田豊太郎とエリスというふたりの登場人物を造型した。太田豊太郎は軍医ではない。もし「舞姫」が陸軍の軍医とドイツ人女性との交情を描いた作品になっていれば、陸軍省内部で問題化し大きく波紋をひろげる結果になるのは明白だったからである。

 先程の引用のなかにあるセイゴンはサイゴンの名で知られているベトナムの都市である。独逸滞在を終えて帰国の途につく太田豊太郎は、イタリア半島の最南端に近い港町のブリンジイシーから乗船したことになっている。スエズ運河を通過して印度洋に出る。因みにスエズ運河は一八六九年に開通している。船は印度洋を東へ東へと航行をつづけてサイゴンに到着した。

 乗客達は街のホテルに宿泊するために下船していった。太田豊太郎ひとりだけが船を下りず、船室に閉じこもったまま回想にふけっている。沈痛な表情で独逸滞在中の日々を思い返している。

 「舞姫」には太田豊太郎の帰国の旅はサイゴンの港までしか描かれていない。数年ぶりに日本の土を踏む太田豊太郎の姿は描写されていない。

 鴎外はなぜそういう設定にしたのだろうか。鴎外自身に則して考察すれば、鴎外の帰国より四日遅れて横浜に到着したエリーゼの動向を語るのを回避したかったからである。鴎外のドイツからの帰国とエリーゼの来日は、一体化した行動とさえ言える。鴎外にとってそれはなまなましく切実な経験であり、作品化すべき題材だったが、対世間という観点に立てばそのことを描くのはほとんど不可能に近かった。

 もう一点は、鴎外はエリーゼの問題をすでに完結した過去の話として描きたかったのだと思われる。現在進行形の描き方はしたくなかった。サイゴンに到着した船のなかでの回想という枠を設定して、そのなかでエリーゼの問題を扱えば、それは過ぎ去った一定の時間のかなたにあって、もはや完結している話として処理することが可能になる。

 先に太田豊太郎の職業は軍医ではないと述べたが、作品の中に学歴は法学部の出身と記されている。卒業後に「某省に出仕して」と記されているが、おそらく司法省ではないかと推定される。ドイツに派遣されたのは、ドイツ語、フランス語が堪能なことから、ドイツの実情を視察するように命じられたからだった。ベルリンに滞在しながら役所を訪問しては資料を受け取ってきた。その資料を分析しながら報告書を作成して日本に送付するのが太田豊太郎の日常の業務だった。彼は余暇の時間に聴講料を払って大学の講義を聴講することにした。大学の自由な学風に触れているあいだに、ある種の内面的変化が生じた。太田豊太郎は本来の自己が存在するのに気づいたのである。これまでの自己は仮装された自己に過ぎなかったのを悟った。大学での聴講も法科の講義よりも「歴史文学」のジャンルに関心が移行していった。官僚の一員としての任務と個人的な関心に基づいた勉学とのあいだに葛藤が生じていた。

 一方で、太田豊太郎には留学仲間と反目するという事態も発生していた。「彼人には余が?(とも)に麦酒(ビール)の杯をも挙げず、球突きの棒(キュウ)をも取らぬを、かたくななる心に慾を制する力とに帰して、且つは嘲り且は嫉みたりけん」というのである。

 太田豊太郎のドイツでの日々が快適なことばかりではなかったのを知らされるが、エリスとよばれている少女と出会うのは、そういう生活を過していたある日のことである。時刻は暮方だった。「獣苑」(注、動物園)を散索しての帰途、灯火のきらめく街路を通り抜けて古い寺院の前に差しかかった時だった。一人の泣いているドイツ人の少女を見かけた。

 「今この処を過ぎんとするとき、鎖(とざ)したる寺門の扉に倚りて、声を呑みつゝ泣く一人の少女あるを見たり。年は十六七なるべし。被りし巾(きれ)を洩れたる髪の色は、薄きこがね色にて、着たる衣は垢つき汚れたりとも見えず。我足音に驚かされてかへりみたる面(おもて)、余に詩人の筆なければこれを写すべくもあらず。この青く清らにて物問ひたげに愁(うれひ)を含める目(まみ)の、半ば露を宿せる長き睫毛(まつげ)に掩はれたるは、何故に一顧したるのみにて、用心深き我心の底までは徹したるか」と記述されている。

 当然のように太田豊太郎は、少女が泣いているのは何故なのだろうという疑問にとらえられる。自身の大胆さを自覚しながら、「何故に泣き玉ふか。ところに繋累(けいるゐ)なき外人(ひとびと)は、却(かへ)りて力を借し易きこともあらん」と言葉をかけてみた。


 彼は驚きてわが黄なる面(おもて)を打守りしが、我が真率なる心や色に形(なら)はれたりけん。「君は善き人なりと見ゆ。彼の如く酷(むご)くはあらじ。又た我母の如く。」暫し涸れたる涙の泉は又溢れて愛らしき?を流れ落る。

「吾を救ひ玉へ、君。わが恥なき人とならんと。母はわが彼の言葉に從はねばとて、我を打ちき。父は死にたり。明日は葬らでは?(かな)はぬに、家に一錢の貯(たくはへ)だになし」

 跡は欷歔(ききょ)の声のみ。我眼はこのうつむきたる少女の顫ふ項(うなじ)にのみ注がれたり。


 このように太田豊太郎の問いかけに反応して答えた言葉から、少女は父の死という事態に直面して、それにどう対処すればいいのか、方途がみつからないという状況にいることが判明した。

 ところで、鴎外がこの物語の素材にとりあげた自身が現実に愛した少女エリーゼについては、先に六草いちか氏の克明な調査研究を紹介した際に、エリーゼの父親は一八八〇年(明治十三年)前後に死亡しているのが確認されたことを述べておいた。鴎外がドイツに留学する数年前に亡くなっていたことになる。実在のエリーゼのディテールを用いるのを回避して、作中人物としてのエリスを造型しているのを知らされる。こういう点に鴎外の性格的な慎重さを見るべきなのだろうか。

 太田豊太郎はとりあえず少女を家まで送ることにした。少女の家は寺院の筋向かいの建物の四階にあった。部屋の中から「誰ぞ」と尋ねる母親らしい人の声がして、少女が「エリス帰りぬ」と答えたので、少女の名前が明らかになった。入口の扉には「エルンスト・ワイゲルト」という表札が出ていて、名前の下に仕立物師と記されていた。それが死んだ父親の姓名と職業を示すものらしかった。

 部屋の中で母親と娘がなにか言い争っていたが、やがて太田豊太郎を招き入れてくれた。ベッドの上に亡くなった人が白い布をかけられて眠っていた。傍の机には美しい縅毯をひろげて書物と写真帖を並べ、花瓶には高価な花束が活けられていた。

 しかし、あす葬儀を営むためにはどうしても費用が不足しているということだった。太田豊太郎はポケットに入っていた銀貨を差し出し、さらに時計をはずして机の上に置き、「これにて一時の急を凌ぎ玉へ。質屋の使のモンビシュウ街三番地にて太田と尋ね来ん折には価を取らずべきに」と告げた。エリスは驚いた様子で、太田豊太郎が別れのために差し出した手に唇をあてて、はらはらと涙を流した。

 エリスが劇場の踊り子であるのが後で判明するが、鴎外はエリスの容姿について「彼は優れて美なり。乳(ち)の如き色の顔は燈火(ともしび)に映じて微紅(うすくれなゐ)を潮(さ)したり。手足の繊(ほそ)く?(たをやか)なるは、貧家の女に似ず」と描写している。端的に言って、鴎外はエリスを美しくて気品のある女性として描いている。

 この時の厚意に対してお礼を述べるためにエリスは太田豊太郎の部屋を訪ねた。それを契機に二人の交情が始まった。しかし、ふたりの関係について公使館等に告げ口をする日本人仲間が現われた。それによって太田豊太郎は公使から免職を言い渡されてしまった。不幸はかさなる時には重なるものであり、日本からは母親の死を知らせる書状が届き、太田豊太郎は悲痛な思いに沈まなければならなかった。

 免職になったことをエリスに告げた時、ふたりの関係が問題になり、それが免職の理由にされてしまったことについては話さなかった。エリスは自分の母親にはなにも語らないでほしいと言った。太田豊太郎が免職になり、学資を失ったことを知ると、彼を疎(うと)んじるようになるといけないからというのだった。太田豊太郎がエリスを熱愛するようになったのは、この時からだと記述されている。

 たまたま彼に救いの手を差しのべてくれた人がいた。日本人仲間として親しい相沢謙吉で、新聞社の通信員の仕事を紹介してくれた。さらにエリスが母親をどのように説得したのかは不明であるものの、太田豊太郎はエリスの家に同居させてもらうことになった。経済的には貧しかったが、日々が愉しかった。

 恋愛は出会いのよろこびに始まりながら、ある時点から別れの悲しみや苦しみへと向かう例がしばしば見受けられる。恋愛の経験をふり返る時、出会いのよろこびと別れの悲しみ苦しみとでは、いずれが切実な意味をもつものになるだろうか。

 「舞姫」には一か所だけ突出して「明治廿一年の冬は来にけり」という年月の表記が存在している。しかし、鴎外に則して考えれば、鴎外は明治二十一年九月に日本に帰国していて、その年の冬の来る時期には東京にいた。だから、もし「明治廿年の冬は来にけり」と叙述すれば、その時期には確かにベルリンに滞在していたことになる。実際の体験を遠去けて物語の進行を図るために、意識的に年月を一年送らせたということもあり得ないことではない。

 ある日、エリスが劇場の舞台のうえで卒倒するという事故が発生した。食物も嘔吐してしまうので、母親は悪阻(つわり)ではないかと言った。エリスはベッドに臥して静養につとめていたが、相沢謙吉から手紙が届いたのはそういう時だった。いま自分はベルリンに到着した天方伯に同行しているが、天方伯があなたに会いたいと言っておられるので、すぐ来ていただきたいという内容だった。さっそく車で指定の場所に赴くと天方伯に紹介してくれたが、天方伯から依頼されたのはドイツ語の文書を飜訳することだった。文書を受け取って退室したあと、相沢謙吉と食事をすることになった。

 食事のあいだに太田豊太郎はエリスと同棲していることを告白していた。相沢謙吉は何度も驚きながらその話を聞いていたが、決して責めたりはしなかった。しかし、最後に諌めるように「この一段のことは素(も)と生れながらなる弱き心より出でしなれば、今更に言はんも甲斐なし。とはいへ、学識あり、才能あるものが、いつまでか一少女の情にかゝづらひて、目的なき生活(なりはひ)をさすべき」と説いた。そのうえで、いまは才能を発揮して天方伯の信頼を得るのが大事で、たとえ相手が誠意ある少女だとしても別離を決断すべきではないかと勧めた。太田豊太郎はエリスへの愛を棄てることは不可能と考えながらも、情縁を断つと約束してしまった。

 相沢謙吉は太田豊太郎のエリスとの交情について、出会いから始まり同棲に至る経緯に太田豊太郎の性格的な優柔不断さを見てとっている。いざ別れる場合も、友人の助言のままに別離を約束し、エリスへの愛を貫ぬくことができない点にやはり優柔不断さを認めるべきかもしれない。

 ドイツ語の文書の飜訳はすぐ完成して、以後、何度も飜訳の仕事のために天方伯のいる宿泊施設へ通った。一か月が過ぎて、突然、天方伯があすロシアに向かうが、いっしょにいってくれないかと都合を尋ねられた。太田豊太郎は天方伯の意向に従うことに決めた。

 天方伯の一行に随行してペテルブルクに到着すると、フランス語に最も堪能なのが太田豊太郎だったので、通訳としても活躍して、天方伯の信頼を得ることができた。

 エリスからは毎日のように手紙が届いた。エリスのことを忘れはしなかったが、一方でこう考えていた。ドイツにきて太田豊太郎は確かに開放感を覚え、本来の自己のままに生きることができるとさえ感じた。しかし、足に糸が縛ってあって、その糸は役所の人に操られていたような気がするし、いまは天方伯の意向のままに動かされているような気もするのだった。

 家に帰ると、階段の途中でエリスが待っていた。太田豊太郎にすがりついて全身でよろこびを表現した。彼は手をとられて引っぱれるようにして部屋の中に入った。机の上には白い木綿の布や白いレースが積み重ねられていた。エリスは笑いながら白い布をとりあげた。それはお襁褓(むつ)であることが判った。


わが心の楽しさを思ひ玉へ。産(うま)れん子は君に似て黒き瞳子(ひとみ)をや持ちたらん。この瞳子。嗚呼、夢にのみ見しは君が黒き瞳子なり。産れたらん日には君が正しき心にて、よもあだし名をばなのらせ玉はじ。


 期待と歓喜に充ちあふれたエリスのこの言葉を聞いた太田豊太郎について「彼は頭(かうべ)を垂れたり」としか述べられていない。太田豊太郎は出産の一方の当事者である。相沢謙吉に向かってエリスとの別離を約束してしまった彼の心に、激しい葛藤が始まっていたことがうかがえる。

 天方伯がロシア視察の際の随行者を招待して慰労会を開いた。エリスとの別離は、その席で天方伯が持ち出した話題によっていっそう具体化していた。天方伯からはいっしょに日本に帰る気持はないかと尋ねられた。学問も語学の勉強をしていただけでは足りないし、あまり長くドイツに滞在していると、思わぬ関わりあいが生じて煩瑣になる場合があるというのだった。この折角の誘いにすがりつかなかったならば、日本とのつながりも断ち切られて、自分の身は広漠たるヨーロッパ大陸の都会の片隅に埋没してしまうかもしれないという想像が危機感を帯びて心を占めた。太田豊太郎は「承知しました」と答えていた。

 そのように返事をしたことを間違いだったとは考えていないのに、慰労会の会場を出た時から太田豊太郎は精神的に一種の錯乱状態に陥っていた。どの道を歩いているのか自分でも判らなかった。馬車に跳ねられそうになった。雪も降っていた。ようやく自分の帰る家に近づいた時、「我脳中には唯々我は免すべからぬ罪人(つみびと)なり」という自責の念が胸に苛んでいた。

 相沢謙吉との約束や天方伯へ返事したことを実行に移すのは、出産を間近に控えたエリスを置き去りにしてしまう結果になる。そう考えると、罪障意識は深まるばかりだった。

 家にたどりついた時、エリスは太田豊太郎を見て、「あ」と叫んだ。「どうしたのか、どうしたのか」と訊いた。

 太田豊太郎の顔は蒼然として死人も同然だった。帽子をなくし、髪は乱れて、衣服は雪や泥に汚れていた。口から声を発することができず、膝のあたりが頻りにふるえて、ついに床に倒れてしまった。

 意識がはっきりと回復するまでには何週間もかかっていた。そのあいだ、熱が出て譫語(うわごと)ばかり言っている太田豊太郎をエリスが懸命に介抱してくれていたというのである。しかし、彼が回復してみると、エリスのほうが病床に横たわっていた。エリスはすっかり?せ細り、血走った眼は落ちこんでいた。訪ねてきた相沢謙吉の助力で辛うじて一日一日を送っているという状況だった。

 エリスに何が起きたのだろうか。相沢謙吉が太田豊太郎と約束したことと、もうひとつ太田が天方伯の帰国に同行して日本に帰る予定になっていることをエリスに告げてしまった。その時、それは起きた。相沢謙吉の眼前で、エリスの全身に急激な変化が襲った。


俄に座より躍り上がり、面色さながら土の如く、「我豊太郎ぬし、かくまでに我をば欺き玉ひしか」と叫び、その場に僵(たふ)れぬ。相沢は母を呼びて共に扶(たす)けて床に臥させしに、暫くして醒めしときは、目は直視したるまゝにて傍の人をも見知らず、我名を呼びていたく罵り、髪をむしり、蒲団を噛みなどし、また遽(にはか)に心づきたる様にて物を探り討(もと)めたり。母の取りて与ふるものをば悉く抛(なげう)ちしが、机の上なりしお襁褓(むつ)を与へたるとき、探りみて顔に押しあて、涙を流してなきぬ。


と記されている。因みに、「豊太郎ぬし」の「ぬし」は尊称であるが、エリスは激怒のあまり完全に精神に変調を起こしてしまった。医師の診断ではパラノイアであり、回復の見込みはないというのである。太田豊太郎の病状は全快していたが、エリスは生ける屍と化していた。

 天方伯に随って帰国の途につく際、相沢謙吉と相談して、エリスの母親には生計を営むに足りる金銭を渡し、エリスの胎内にいる子供が生まれた時のことも頼んだ。「嗚呼、相沢謙吉の如き良友は世にまた得がたかるべし。されど我脳裡に一点の彼を憎むこゝろ今日までも残れりけり」と記述してこの物語は閉じられる。

 作品中に登場する天方伯は山縣有朋をモデルにしている。山縣有朋は当時内務大臣だったが、鴎外自身がドイツ滞在中に山縣有朋に会ったという事実は存在しない。

 山縣有朋の一行が欧米視察のために横浜を出発したのは、明治二十一年十二月二日である。鴎外がドイツ留学を終えて帰国してから三か月後である。

 山縣有朋はフランス、イタリア、ドイツ、オーストリア、ロシア、ベルギー、そして最後に大西洋を渡りアメリカを回って明治二十二年十月二日に日本に帰った。賀古I所は軍医として随行員に加わった。「舞姫」に描かれている相沢謙吉は賀古I所がモデルだと判断される。

 帰国の二か月後、明治二十二年十二月に山縣有朋は総理に就任し、第一次山縣内閣を組閣した。「舞姫」で鴎外は天方伯という名前に置き換えながら、まだ会ったこともなかった当時の最高権力者を作品の中にとり入れたことになり、その手法の大胆さに驚かされる。

 先に恋愛の体験にとって出会いのよろこびと別離の悲しみ苦しみとではいずれが切実な意味をもつものになるだろうかと述べておいたが、別離へと向かう「舞姫」の後半部の迫真性にはすさまじい気配を帯びている。たぶん作家的真実性がその部分に表現されているからであるのに違いない。エリスは妊娠するが、作品を展開させるのに必要な小道具としてのお襁褓の扱いかたなどは、単に想像力だけで描けるのだろうかという疑問さえ感じさせる。

 「舞姫」という作品を発想するうえで中核にあったのは、相沢謙吉を通じて太田豊太郎の別離の意志を聞いた際のエリスの発語である。「我豊太郎ぬし、かくまで我をば欺き玉ひしか」とエリスは叫んでいる。この発語は実在のエリーゼから鴎外自身が聞いたか、または鴎外周辺の人が聞いて鴎外に伝えた言葉のいずれかだと判断するのが妥当である。

 それではエリーゼはいつそのように発語したのだろうか。林尚孝氏は『仮面の人・森鴎外』(平成17年)で、その問題を解くうえで示唆にみちた解釈を提示している。エリーゼは鴎外と結婚するために来日したのであり、鴎外もその意向をもって日本に帰ってきた。しかし、鴎外は母親からはエリーゼと会うことを禁じられ、周囲の人からも別れるように説得されたので、ようやく別離を決断するに至った。鴎外の義弟、小金井良精が鴎外が書いた別れの手紙を届けるためエリーゼを訪ねた。その際のエリーゼの対応を林尚孝氏は次のように記している。


その手紙は、森一族の意思によつて無理に鴎外が書かされた別離の内容であつたものと推測する。若い女性の身でありながら五〇日をかけて単身で訪日し、手紙をもらうまで鴎外からは一言も別れ話を聞いたこともなかつた。第三者である小金井が思いがけない内容の手紙を持参したことで、エリーゼは鴎外の裏切りと卑劣なやり方に逆上するほどの怒りを示したのではないか。


 エリーゼが激怒して狂わんばかりの発語をしたのは、ドイツでではなく、日本でのことだったのである。それは明治二十一年十月四日のことであるのが、小金井良精の日記の記載から確認されている。そのままでは結着がつかないので、鴎外は陸軍を退職する旨の辞表まで用意して、この問題の解決を図った模様である。最終的にエリーゼを納得させるために彼女が横浜から帰国の途についた十月十七日までのあいだに、鴎外が彼女とどういう話を交わしたのかは判明していない。そういう経過のなかで、鴎外の賀古I所あての書簡に「其源ノ清カラザル故」という文言が飛び出したのであるが、これがなにを意味するのかは現在も解釈が分れている。

 六草いちか氏は『鴎外の恋 舞姫エリスの真実』で、同じ書簡にある「彼件ハ左顧右眄ニ遑ナク断行仕候」の「彼件」についても触れながら、


「彼件」が「ドイツへ追いかけていく件」であり、「清カラザルコト」に留学までさせてくれた国家を裏切り辞職しようとしていること」や「親の反対を押し切つての決断」などが当てはまるなら、不思議に思われるくらい少しの憂いも見せることなく、舷からハンカチイフを振つて別れていつたエリーゼの姿は、鴎外との再会の約束を信じた女性の姿だつたということになる。


と述べていることを紹介しておきたい。「ドイツへ追いかけていく」というのは、帰国したエリーゼのことをこんどは鴎外自身が追いかけていくという意味である。

 「舞姫」のなかでエリスが激昂して狂わんばかりの状態になり、そのまま回復不能の精神異常に陥ってしまったという設定は結局、鴎外が実在のエリーゼから可能な限り隔絶した存在としてエリスを描こうとしたところから着想されたものではないかと想像される。そのような設定にすれば、その女性は現在の鴎外とはまったく無関係であるのを示すことが可能である。

 『シンポジウム日本文学13 森鴎外』で、鴎外のエリス体験をとりあげて、磯貝英夫、小堀桂一郎、三好行雄の三氏がそれぞれ「鴎外のエリス体験の実体はよくわからないけれども、仮にあれが真の愛の体験であったとすれば、もっと本格的なものが書かれただろうと思いますね。とすれば、やはり鴎外のエリス体験はそういうものではなかったろうと、逆に推定できるように思います」「小金井喜美子氏の文章に出てくるんですけれども、鴎外がエリスをどう思っていたかというのを、『結局路傍の花と思っていたんでしょう』というような文句がありますね。ちょっとつんでみてあきてポイと捨てたんだと、乱暴な表現のようですけれども、あれが一番当たっているのではないでしょうか」「エリスとの関係自体は全くそうだと思います」という見解を示している。

 実在のエリーゼをそこで語られているような女性だと認識しているとすれば、近代文学の出発期を飾る最も重要な作品と判断していい「舞姫」も、とるに足らないドイツ人女性との交情を素材にして形象化された作品とみなければならなくなる。

 一般的に言って、女性には知識人の男性を理解できず、スポーツマンタイプの単純明快な男性しか理解できないという人がいる。もしかすると、かなり多くいるとさえ言える。仮りにエリーゼがそのような女性だった場合は、鴎外と同棲の日々を過すということも不可能と判断すべきではないだろうか。「舞姫」にはエリスが太田豊太郎と出会ってから、読む本が知的な内容のものに変化していったことが記述されている。エリーゼも知的な素質をもった女性だったのではないかと推定される。

 小堀杏奴『晩年の父』(初版昭和11年、新版昭和56年)には、最晩年の鴎外が志げに命じてエリーゼの写真や手紙類をどこかから持って来させて眼前で焼却させたことが記されている。また、杏奴が通う小学校の通学路にあった荒物店に勤務している少年店員について、鴎外がエリーゼに生き写しだと語ったことがあると志げから聞いたと述べている。

 その少年店員は当時十歳くらいだった杏奴より三、四歳年長だった。いまの話は後になって聞いたことで、その当時は杏奴は知る由もなかった。杏奴と弟の類がその少年と話をしていると、鴎外は微笑をたたえて、じっと見つめていたそうである。「何時もの陽光の降りそそぐように、晴ればれとした、あの、輝くような微笑ではなく、その笑顔には、今思うと、一抹(いちまつ)の、寂しい影が感じられたのである」と述べている。杏奴はその少年店員の顔をはっきりと記憶していて、「少年はいわゆる美少年というのでもない。ただかしこそうな、実に気持のいい顔としかいいようがない」というのである。やはり実在のエリーゼは賢い少年を思わせる怜悧な少女だったのである。

 小金井喜美子「森於菟に」(『文学』昭和11年6月号)には、「舞姫」が完成した時、叔父が鴎外に依頼されて家族の前で原稿を読み上げる場面が描かれている。叔父が中音で読み始めたのを、家族一同が熱心に聞いている。この叔父とは鴎外の弟、森篤次郎をさしている。


だんだん進む中、読む人も人情に迫つて涙声になります。聞いてゐる人達も、皆それぞれ思ふ事はちがつても、記憶が新らしいのと、其文章に魅せられて鼻を頻にかみました。「嗚呼相沢謙吉の如き良友は世に又得難かるべし、されど我が脳裡に一点の彼を憎む心は今日まで残れりけり」。読み終わつた時は、誰も誰もほつと溜息をつきました。暫く沈黙の続いた後、「ほんとによく書けて居ますね」といひ出したのは私でした。お祖母様はうなづきながら、「賀古さんは何と御言ひになるだらう」、「何昨夜見えたので読んで聞せたら、己れの親分気分がよく出て居るとひどく喜んで、ぐつぐつ蔭言をいふ奴等に正面からぶつけてやるのはいゝ気持だ。一つ祝い酒をご馳走にならうと又夜が更けました。


 エリーゼをめぐる当事者の家族が「舞姫」の朗読をひたすら感動して聞いたというだけでは、異和感を覚えさせるものがある。「舞姫」にはエリスが太田豊太郎の裏切りを知って激怒し、そのまま不治の精神病患者になったことが記されている。そのことに対して作中人物である太田豊太郎の深い罪の意識も表現されている。それは鴎外自身の深刻な苦悩の表現でもあった。しかし、ほんとによく書けているというような感想では、家族が作中人物としてのエリス、或いは実在のエリーゼの悲しみ苦しみ、そして太田豊太郎、或いは鴎外自身の苦悩をどれだけ理解できたのか疑わしいことになる。

 もう一点、「舞姫」の執筆動機には実用性という問題を孕んでいたことに触れておかなければならない。「舞姫」の執筆を開始したのが赤松登志子と結婚した明治二十二年三月以降であるのは前にも触れた。「舞姫」は登志子が読むことを十分に意識しながら執筆されたものとみられる。いったい、登志子はどのような気持で「舞姫」を読んだのだろうか。当然、登志子に激しい反応が生じることになるが。「舞姫」の執筆動機に実用性という問題があるというのは、鴎外が登志子が示すであろう反応まで考慮に入れていたという意味になる。鴎外にとって登志子との結婚は不幸な結果になるが、「舞姫」が発表された明治二十三年一月は登志子が妊娠していた時期である。同年九月に長男於菟を出産したが、各種の年譜をみるとその月に離婚したという記載がある。当時住んでいた家から鴎外のほうが去っていったのだった。

 「舞姫」発表のあと、鴎外はしの年八月に「うたかたび記」を、明治二十四年一月に「文づかひ」を発表している。この二作について、小堀桂一郎氏は「対談 森鴎外を考える」(『森鴎外を学ぶ人のために』収載・平成6年、対談者 山崎国紀)で、


『舞姫』は、鴎外が女の心に初めて触れたということの悲痛の経験を表してはいるけれども、他方で『うたかたの記』にはミュンヘン時代の彼の青春、ほんとにあの時は楽しかったという青春の記憶があそこに形象化されている。そのどちらが意味が深いか、その点でもうちょっと大事なのは『文づかひ』は明らかに赤松登志子さんと気の毒な別れ方をしてしまった、それに対する鴎外の悔恨と、あれ以外にどうしようもなかったという弁明の気持ち、その意味できわめて悲痛な作品ですよ。


と述べている。「文づかひ」と対比すれば、「舞姫」の体験結晶としての意味は相対的に軽くなってはいないかというのが小堀桂一郎氏の見解である。

 それから十八年ののち、「半日」(『ミ』明治42年3月号)を発表するまで小説らしい小説を書いていなかったのは事実である。年齢的にみると、鴎外が三十歳から四十八歳までのあいだだった。

 「妄想」は五十歳の時に書かれているが、「自分がまだ二十代で、全く処女のやうな官能を以て、外界のあらゆる出来事に反応して、内には嘗て挫折したことのない力を蓄へてゐた時の事でもあつた」という記述がみられる。鴎外自身がベルリンに滞在していた時期を回想してそう記しているのであるが、作家にとって小説は基本的にはそのように心身が充実している時期に書かれるのが理想的である。内田魯庵は前掲の「森鴎外君の追悼」で、


私の思ふままを有体に云ふと、純文芸は森君の本領では無い。劇作家又は小説家としては縱令第二流を下らないでも第一級の巨匠で無かつた事を敢て直言する。何事にも率先して立派なお手本を見せて呉れる開拓者では有つたが、決して大成した作家では無かつた。


という判断を示している。なぜこういう評言が出てきてしまうのかと言えば、やはり活動の最盛期に長期にわたって創作行為と取り組まなかったことに起因している。

 それではその文学的な空白期に鴎外はなにをしていたのだろうか。既刊の年譜を見ると、明治二十四年に医学博士の学位を授与されている。以後、多数の医学論文を執筆するとともに、軍医という職務に精励する。ひたすら栄達への道を進みつづける。ついに軍医としてそれ以上はないという地位に到達する。小堀桂一郎氏の『森鴎外 ?日本はまだ普請中だ』には「明治四十年十一月十三日付で小池正直退任の後をついで第八代の陸軍省医務局長に就任した。階級も中将相当官である軍医総監に昇任し、軍医という職制の中での最高の地位に昇りつめたことになった」と記述されている。

 当然、それだけの地位に就き、すぐれた業績があれば、国家から勲章を授けられることになる。大屋幸世氏の「鴎外と勲章」(『鴎外への視覚』収載・昭和59年)には鴎外が受けた勲章が列記されている。


 明治27・11 勲六等瑞宝章

   28・10 勲四級金鵄勲章

       単光旭日章

   29・11 勲五等瑞宝章

   37・11 勲三等瑞宝章

   39・4 功三級金鵄勲章 勲二等旭日重光章

 大正4・4 勲一等瑞宝章

   4・11 旭日大授章


 このように記すと鴎外は赫赫たる栄誉にかがやいていた人にも見えて来る。しかし、大屋幸世氏は「我百首」(『ミ』明治42年5月号)から、


勲章は時々(じじ)の恐怖に代へたると日々の消化に代へたるとあり


を引用して、


解釈はあれこれできそうだが、多分、鴎外が得たもので言えば、前者が戦功による金鵄勲章などを指し、後者が瑞宝章などを指しているのであろう。そしてこの歌は単にそれだけのものとして受け取れることもできる。しかし「時々の恐怖」といい。「日々の消化」といい、何か穏やかでないものが感じられなくもない。特に「日々の消化に代へたる」には、鴎外固有の空虚感がある。


と指摘している。

 もとより鴎外は単純に勲章を好むような人ではなかった。赫々たる業績を上げる一方で、なにかしら深い空虚感を覚えてしまうような一面があったのは確かである。勲章で満足してしまう自己ではないのを意識していたと言える。

 十八年に及ぶ文学的空白期のあいだは、日本という国にとっても歴史上有数の危機に直面した時代だった。日清戦争と日露戦争のふたつの戦争を戦った。日清戦争の際はさらに台湾にも派遣された。明治三十二年六月には小倉の師団に転任となり、小倉に移住した。明治三十三年二月、賀古鶴所からの書簡を受け取り、新聞の切り抜きが同封されていて、離婚したのち弁護士と再婚していた登志子の死を知った。鴎外は明治三十三年二月四日の日記に、新聞に掲載されていた告喪文を筆写してから次のように記している。


鳴呼是れ我が旧妻なり。於蒐の母なり。赤松登志子は、眉目研好ならずと雖、色白く丈高き女子なりき。和漢文を読むことを解し、その漢籍の如きは未見の白文を誦すること流るゝ如くなりぎ。同棲一年の後、故ありて離別す。是日島根県人の小倉に在るもの懇親会を米町住吉館に催す。予病と称して辞す。


 この日記の記載によって登志子の人となりが判明するとともに、鴎外の受けた衝撃や悲しみの深さがうかがわれる。なお、吉野俊彦『鴎外・五人の女と二人の妻』には登志子にはあわせて十七人の兄、弟、妹がいたことが記されている。

 『即興詩人』の飜訳を完成したのも小倉時代であるが、小倉を引き上げて東京に戻る直前に、大審院判事、石黒博臣の長女、志げと結婚している。志げは明治十三年生まれで、鴎外とは二十一歳の年令差があった。志げにも銀行家の子孫と結婚した経歴があったが、その夫が遊興にふけるという問題があって僅か一か月足らずに離婚していた。

 このように文学的空白期にも鴎外は公的にも私的にもさまざまな経験を重ねていて、作家として作品の題材にとりあげ、形象化すべき問題が多数あったにもかかわらず、着手することはなかった。

 十八年間の空白期ののちに発表した「半日」は嫁と姑の対立を題材とした作品である。鴎外自身は「高山博士」という肩書付きで登場するが、それは一種の権威と化した存在になっていて、そこに自分自身を問おうとする姿勢はみられない。家庭のなかで夫もしくは父であるということは、それ自体がひとつの権威だと言おうとしているのだろうか。

 その後に書かれた「大塩平八郎」(『中央公論』大正3年1月号)の場合には、叛乱を起こした大塩平八郎が自身の心に「枯寂の空(くう)」を感じる場面が描写されている。それこそ空虚感の表現であり、焼打ちで燃え上がる火?や立ちこめる煙を見ながら、自分が本当にしたかったのは何だったのかを問おうとしていたように受け取れる。



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