『群系』 (文芸誌)ホームページ 

「群系」31号 

  (2013年7月25日刊行!)



目 次


 特集T《明治の文学》

 特集Uは《映画-もう一つの生》


特集《明治文学》   


 明治期の出版・新聞ジャーナリズムと文学

            永野 悟12


 裏読み・二葉亭四迷 

          ―中村光夫の「蛮力」―

                  澤田繁晴8


 幸田露伴の「観画談」                                     

                     荻野 央 4


 森鴎外・小説の問題 

          ―「舞姫」まで、「舞姫」以後

              野口存彌30


 森しげ(鴎外夫人)の三越小説 

          野寄 勉7


 漱石と鑑三

    ― 講演録に見る明治 

                  大堀敏靖11

 

 国木田独歩

   ―人間独歩・もうひとりの明治人―

                  間島康子10


 石川啄木と平出修、秋瑾

    ―内田弘『啄木と秋瑾

          - 啄木歌誕生の真実』から  

                   安宅夏夫12


 泉鏡花「風流線」

―社会通念への強烈な批判と恋愛至上―

                 小林弘子 7

 

 荷風と歌舞伎座・明治編

         野寄 勉 5

 

 田山花袋について今考える             

        名和哲夫 2


 黒岩涙香と『萬朝報』の時代

    ―批評・啓蒙・プロバガンダ―


                草原克芳25


  《都市ノート》明治の遺構     

           永野 悟  1


 《写真ノート》ジャコメッリの詩          

           間島康子 1


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特集U《映画―もう一つの生》

 わが町、わが青春の映画たち                  

             土倉ヒロ子 4


 映画を「愉しむ」ということ                    

             赤穂貴志3


 「フェリーニのローマ」〜監督の愛した都〜           

             荻野 央 3


 イギリス映画「もうひとりのシェイクスピア」           

           澤田繁晴 3


 映画「下町(ダウンタウン)」 プレスシート           

                野寄 勉5


 山本薩夫「ドレイ工場」について

          外狩雅巳 1


 ゴジラの巨大な影の下に 

―敗戦日本の集合的無意識―  

                草原克芳  5


 イメージの宝庫 映像の力                    

           取井 一2


 【映画アンケート】  

  邦画ベスト3  洋画ベスト3 

        同人・読者 12


 言  弁護士会の闇  第11回                 

             杉浦信夫 7


【書評】

澤田繁晴著『炎舞 文学・美術散策』について

         名和哲夫 1


【書評】

岩谷征捷著『島尾敏雄』―にんげんを凝視める旅― 

               石井洋詩 2


【書評】

武藤武美著『プロレタリア文学の経験を読む』  

           草原克芳 2


【紹介】

辺口芳典詩集『とかげのテレパシー、きつねのテレパシー」 

                   マイケル1


《音楽ノート》

ショパンの音楽なら   

          井上二葉 1


《演奏ノート》

トークコンサート「野口雨情の詩曲」  

                  佐藤文行  1



《論考》

 島尾敏雄論

《病院記》の一側面 ―〈私〉の変容のドラマとして

                 石井洋詩 16


 横光利一「火」論 

           中川智寛 2


伊藤桂一

『生きている戦場』に対する菊村到の書評

                     野寄 勉 3


詩集『ねう』の世界(前半)

     〜間島康子小論〜 

                     荻野 央 8


シャーキャ・ノオト(4)  

   -原始仏教残影-

                    古谷恭介  7


 地動海鳴(3)  

            長野克彦  5


 村上春樹

『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』について

                      星野光徳7


 『群系』三〇号刊行記念パーティーの記録

            編集部2




《創作》

 ヤンバルの風   

                 稲垣輝美7

 花束を  

                  小野友貴枝6


 一匹の猫からはじまり、一匹の猫でおわった話       

                   市原礼子 9

 その日の太宰治 

                  名和哲夫2


  天正遣欧少年使節

    -西彼杵半島をめぐって-(紀行)

         柿崎 一 10


お嬢吉三にはなれない 

                   土倉ヒロ子 3




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「群系」31号  (2013年7月25日刊行!)


<31号・同人による短評>


                                                    2012.9.16. (9.18追加)


 9月8日(日曜)の合評会の資料となった、同人相互の<短評>です。 ご意見・感想は、次のメールアドレスへ。  snaganofy@siren.ocn.ne.jp


目次掲載順に掲出しています。目次は、31号目次へ とあるところをクリックください。作品自体も徐々にアップしていっています。





特集《明治文学》 同人短評  

 

「明治期の出版・新聞ジャーナリズムと文学」(永野悟)を読んで


                             澤田繁晴


 日本における近代文学のあり様を捉えるに当り、明治期を三期に分け、第T期を新聞の創刊期、第U期を雑誌の創刊期、第V期を日露戦争以降の戦時物一色の時代(日本人が一体感をこれ程までにもった時代はなかったのではなかろうかーー筆者注)としている。

 明治時代の新聞における連載小説が三面記事の〈続き物〉の延長線上に生まれ、当時の作家には新聞記者との兼業が多かったという指摘はその通りであろう。文学として、あまり褒めた話ではないが、この様なところが実際であったのだろう。

 だとしたら、政治・経済史を正史、文学史を裏面史として捉えた場合にそこに登場する文学者をもう少しダイナミックに捉えることも当然可能なことであったろう。客観的な事実の羅列に終始するのではなく、そこに蠢く有象無象、生きた人間が抜けているような気がしないでもない。裏面史なら、裏面史らしくもう少し面白く活写することも可能であったろう。他でもない文学なら文学らしくである。萩原朔太郎の『日清戦争異聞(原田重吉の夢)』等を突破口に使うことができた筈である。これを「捨ておく」、「問題にされなかった」と学者風に述べるだけでは、他人事を一歩も出ていない。特集の巻頭文としては良いが、優等生的であり、行儀が良過ぎたように思う。

 


市川直子


 永野悟「明治期の出版・新聞ジャーナリズムと文学」を読んで


1、「文学と政治社会の関連」(6頁)をみていくのは、興味深い。

2、新聞の創刊年・廃刊年を明示してくれているので、速さが見えやすい。

3、「人々がメディアを通していかに戦争を『体験』し、それによって人々の世界観がどう変容したのか」(16頁)、「メディアと民衆の共犯関係」(17頁)に興味が湧いた。

4、「日清戦争期のメディアと民衆の共犯関係は、現在の日本(あるいは中国)社会にとっても示唆的といえよう。」(17頁)で、何が示唆されているのか、とくに「社会に鬱積した不満」(17頁)の検証なり、解消方法みたいなものに、さらなる関心が向いた。



澤田繁晴氏の『裏読み・二葉亭四迷』を読んで

      

                         荻野 央


この作品には”中村光夫の「蛮力」”というサブタイトルがついているが、澤田氏の見ている二葉亭の実象と、中村光夫と言う批評家のなかに見る二葉亭の実象の批評が並行して書かれてある。そこで読者としてはどちらを読むのかと言うことになるが、どのように読むかがいまひとつ分かりにくい。たぶん中村光夫に見いだした「蛮力」という言葉がキーになるのだろうが、中村は二葉亭を「なんとか努力して」評価しようとしても、二葉亭と「一心同体」であるという心根が浮かんでしまうと書かれてある。ここのあたりで「蛮力」との関わり合いが分かりにくいのだ。「蛮力」が作用していると言うのであれば、この言葉の解説が、つまりそれがどのようにして作用するのかと言う風に。

(いっぽうP21上段で、中村は文学史的評価を与えている、と記述されている。この二つの、相対するように見える記述の意味するところが分かりづらく感じてしまった。)




幸田露伴の「観画談」(荻野央氏)


                         野口存彌 


 幸田露伴は慶応三年に生まれ、昭和二二年に亡くなられました(1867-1947)。私の少年時代に明治維新前に生れた方が現存されていたという事実に驚きを覚えます。

 私は露伴に関して詳しく知らないので、教えていただくつもりで、荻野央さんの「幸田露伴の『観画談』」を読みました。格調を伴った文体で書かれた論考ですが、記述にややむずかしさを感じさせられる箇所がありました。結びの二行も、はたしてどういう意味なのでしょうか。

 露伴には北海道滞在時代という時期があって、そこでは実際家としての手腕を発揮していたようです。英語も読め、数学もよく出来たそうです。そういう露伴が、「観画談」(大正十四年)のような怪異にみちた幻想譚を書いた点に、まさに露伴の問題があります。

 『座談会 明治文学史』でもさまざまな露伴が論じられていますが、「露伴」の項の終結の部分で、勝本清一郎(1899-1967)が、


  露伴が人間社会の場で一つの成熟した考えや生き方を形成したことはよく分るんですが、ただその形成した場所はといと社会の周辺の、人間のあまり混雑していない場所です。西洋の思想家も時にそういう場所へ出て行きはするが、また近代社会の、人間の混在twitterしている場所へ戻ってきます。この世の中心地で何をするかが重大関心事です。露伴はそういう戻りかをしないで片道で終わっています。人間のちまたで人間くさく突きつめるべきものが、むしろ避けられていることに問題があったんですね。


と述べていました。




野口存彌「森鴎外・小説の問題」短評


                         間島康子


 いつもながら、綿密な資料に基づいた展開の仕方で内容の濃い御作と思います。今回は、「本来の自己は後天的に形成される自己と入れかわってしまう」、ということに焦点を当てて、?外について書いておられます。

 鴎外は「自己とはなにかという問題意識をもった文学者だった」ために、最期には「石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」、と唯一の友人であった賀古鶴所に遺言します。そう言い残すことの証として、明治期の知識人で留学経験がなくともキリスト教の感化を受けた者が少なくない中で、ドイツ留学をしたにも拘らず鴎外はキリスト教を受容できなかった点を挙げておられます。また、自然主義に関心を払わなかったことについても、「キリスト教から自然主義、さらに美学や哲学のジャンルに亘って、?外が受容しなかったのはヨーロッパを支配している近代精神の根幹を形成するものばかりである。それらを受容しなかったとすれば、単に知らなかったという理由以外に、鴎外自身が意志的に拒んだものもあるよう」だと推測されています。

 石見人として死ぬという思いに至る線上に、受容できない西洋近代精神があり、さらに、それを「舞姫」の中に立証しようとされています。鴎外は、執筆動機に文学的衝動以外に実用性を孕ませている。エリーゼ問題を過去として、完結したものとして書いていると述べています。「舞姫」の主人公である太田豊太郎が本来の自己の存在を自覚する点、ドイツで起きた事、日本に帰国後起きた事、それらの位置や時間をずらしながら、実体験ではエリーゼとの恋愛に非常な葛藤を経た上で、エリスとエリーゼ、豊太郎と?外に距離を持たせながら創られた作品と見ておられます。

 

 明治の時代に海を越えてついてきたエリ−ゼの存在は特異なものには違いないでしょうし、そのようにするからには、必死の恋愛があったのは確かなのではないでしょうか。しかし、それを貫くことはできなかった?外の苦悩は本当はどれ程だったのでしょう。

 軍医として華々しい経歴をもちながらも、空虚を抱え、苦渋に満ちた内面を持った?外は最期には本来の自己に帰ろうとした。

 立派な軍医としての生涯だけでも、人には容易ではないと思われますが、もし鴎外に文学がなかったとしたらどうであっただろうか、ということも考えさせられました。





野口存彌「森鴎外・小説の問題」短評


                           草原克芳


前半と後半の構成になっていて、前半は鴎外が知的に何を摂取し、何を拒絶したか。後半では、その人生と生活において、何を拒絶し、何を受け入れたか。その二つの角度から鴎外の全体像に迫った評論となっています。

特に興味深いのは、前半部「―「舞姫」まで―」において、鴎外がニーチェ思想を受容しなかったという点。あの知的好奇心旺盛な鴎外のドイツ留学体験ということからすると、これはむしろ意外な感を受けます。野口さんは文中で勝本清一郎の「ニーチェを知らないまま帰国してしまった」との説を紹介します。また、勝本は、当時の先端を行くフェヒナーではなく、ハルトマンの美学を読んでいることを揶揄し「学界の事情に明るければ当然これにとっつかなければいけないはず」といいます。しかし、注意深く読んでみると、筆者の野口さん自身は、必ずしもこの説に全面的に同意しているわけではないようです。

事実、「ニーチェも「酔わせる酒」に過ぎない」という鴎外自身の言葉も残されていますから、まったくニーチェ思想に無関心であったとは思えませんし、明らかに読んだ形跡はあるわけです。いつ読んだのかは不明なので、ほんとうに、ドイツ留学時代に「ニーチェを知らないまま帰国」したかどうかもわかりません。研究家・専門学者ではなく、文学者・創作家が何を読もうが、それは自らを肥やすための体質的な読書になるはずであり、したがって勝本清一郎の「学界の事情に明るければ当然これにとっかなければいけないはず」というのも、あまりにも研究者的な視野狭窄に陥っているのではないかと思われます。

この野口さんの評論を読むことにより、むしろ私などは、「鴎外はニーチェ受容を隠蔽したのではないか」との邪推すら起こってくるわけです。鴎外研究については不勉強なので、少々、検索してみると、小堀桂一郎が「小倉時代の鴎外がニーチェに強い関心を持っていた」などという文にも、すぐに突き当たります。

■とはいえ問題は、そんな読書体験の詮索ではなくて、本論のアプローチが示しているように、明治の先駆的知識人である森鴎外が、何を受容し、何を拒絶したかという一点にこそある。それが鴎外の人と文学の全体像に、いかに作用してくるかというところが、今日のわれわれに意味を持つところであります。

しかしこの鴎外論で面白いのは、こういった鴎外の知的側面と並行して、心情的・生活的側面、つまり「エリス問題」を連動させているところです。


■後半部は、「「舞姫」以後」となります。

六草いちか氏などの『舞姫』の新しい伝記的・考証的な発見を踏まえ、鴎外のエリス(エリーゼ)との関わりを追究します。これは単なる一文学者の恋愛体験に留まらず、日本の知識人が西洋的な恋愛や、社会的要素をもふくめた男女の関係性をどうとらえるか等の問題ともオーバーラップしてくるはずであり、私小説的詮索以上の意味を持つものでしょう。わざわざドイツから船旅で、日本にまで恋人を追ってきたエリーゼ・ヴィーゲルトを、鴎外は拒絶します。森家の家名と彼自身の将来性との天秤にかけて、といっては不当でしょうか。

「ニーチェも「酔わせる酒」に過ぎない」と鴎外がいったならば、「エリーゼも「酔わせる酒」に過ぎない」のかどうか。現在の感覚で推し量ることは難しいことです。いずれにせよ、非情な矜持を持って一定の冷静さを演出していたのがこの文豪の一側面であるとはいえそうです。そこまでして守ろうとした「鴎外の内面」とは、一体なんなのか。


■本稿における二つのアプローチから見えてくるものとは、一体どのような光景か。近代日本、明治国家そのものの構築者の一人であった森鴎外、「公人」としての鴎外は、内的なもの、情的なもの、存在の真髄をラジカルにつきつめる思想や、自らの根拠を崩しかねないものに対しては、注意深く距離を置いたといえそうです。それはかならずしも、明治の立身出世的なエゴイズムから来たものとばかりはいえないでしょう。鴎外に好意的にいうならば、後進国日本に生まれた自己の能力への社会的責任感と、高い自負心から来るもののように思われます。ニーチェも、エリーゼも、「公人・鴎外」の自己形成を崩しかねない「危険思想」であった。

ニーチェの哲学そのものは、ヨーロッパの共同幻想、キリスト教思想、そこから構造化した一般道徳そのものを、分析・批評・脱構築した哲学でしょう。また、外国人女性との恋愛、結婚という問題は、鴎外の生活基盤である地方の名家であるところの森家や、若くして作りあげた彼自身の評価、地位、信用といったものを失いかねない〈危険物〉でありました。しかし、文学とはしばしば、このような〈危険物〉取り扱いの過ちや、大怪我から産み出される鬼胎であります。


■鴎外と比較して面白いのは、夏目漱石、そして萩原朔太郎です。漱石はもちろん「内発性の欠如」の指摘から、鴎外の内面の「空虚」と対照的です。また詩人の朔太郎は、十九世紀末から、二十世紀初頭のヨーロッパのデカダンス、退廃美学、すなわち自らの足場そのものを崩しかねない崩壊感覚的思想に耽溺した読書傾向を持つ、数少ない存在でありました。とくに朔太郎のアフォリズムなどでよく言及されているのは、ショーペンハウエルとニーチェです。

この野口さんの論考は、一種の円環構造を示しており、ラストでは鴎外の空白期を経て、晩年の明治の偉人としての権威が描写されます。つまり、イントロの「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」へと連結されます。この遺書で恐ろしいのは、むしろ最後の四行かも知れません。彼自身が生涯をかけて獲得したさまざまな栄誉を、墓碑銘として書き記すことを、固く固く拒んだ、一人の男の異様な孤独が、そこには滲み出しているからです。


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野寄 勉氏「森しげ(鴎外夫人)の三越小説」


                          大堀敏靖

(短評)

 百貨店(デパート)というと、東京では知りませんが、地方ではショッピング・モールやスーパー、コンビニに押されて、閉店する老舗も多く、高島屋でさえ、そこでアルバイトをする教え子に聞いた所客足はさっぱりだということです。

 しかし、明治末の三越(三井の越後屋の意)は近代日本の文化を牽引するという自負の下にたいへん勢いがあったことがこの論考を読んでよくわかりました。

 そのPR誌『三越』に掲載された、森鴎外夫人、国木田独歩夫人の「三越紹介小説」に論考がなされています。特に森夫人の小説「チチエロオネ」では当時の三越デパートの様子が手に取るように活写されていることがわかります。

 特に重要だと思われたのは、このPR誌『三越』が「単なる宣伝にとどまらない、自分らしさ=こうありたい自分、をモノの消費によって獲得する場としての消費社会の形成上、看過あたわぬ役割を課した」また、現在の婦人雑誌、タウン誌、通販カタログの役割を包括して「ライフスタイルをガイドし、近代化を推進していった」という指摘です。

 利益の追求のみに止まらない文化の担い手としての自覚が経営者にあったということ、そして一部の富裕層に止まらず庶民にまで文化が浸透し、日本全体の文化のレベルアップに貢献したことが読み取れます。

 野寄さんは伊藤桂一の戦争文学に一貫して取り組まれていますが、常に客観的、学問的に精緻に論をまとめられますので敬服しております。戦争文学、花柳文学にこだわられる動機をぜひ、私的にはうががいたく思います。(大堀)

 


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大堀敏靖氏「漱石と鑑三」 リポート 


                          間島康子

                     

 夏目漱石と内村鑑三の講演録を通して明治を考える、というその視点が先ず面白いと思いました。

 漱石の『私の個人主義』は以前読んでいますが、鑑三のものは、今図書館に予約中で、近日中に読んでみるつもりです。


 漱石が「明治の言葉を持って明治の考えを披歴した」と言われているのは確かにその通りでしょう。けれども、その「明治の考え」は、現在にも十分に通じるもので、私はその内容をとても新鮮に感じました。「小説家というのは本当に正直に自分を語る」、というのはすべての小説家がそうであるのかは分かりません。ただ、漱石は、落語が好きだったようでその話しぶりは、自然に身についていたのだろうと思います。正直すぎて困られても、現在のようにメディア慣れしたコメンテイタ―などと違って、流行言葉になっている「ぶれない」ものが芯にあったから、堂々と自分の言葉を語ることができたのでしょうし、聴衆にもそれが伝わったのだと思います。


 『後世への最大遺物』は倫理色の強いもののようですが、今読む価値はありそうです。


 私は国木田独歩を通して明治をみましたが、混沌としていた世の中で、心ある人たちが試行錯誤しながら前を見て歩いていたことは、何だかとても初々しい時代であったという印象を持ちました。


 大堀さんのご文は分かり易く、ご自身の背景や考えも明確に出ていて、良かったと思います。






間島康子氏   


国木田独歩――人間独歩・もうひとりの明治人―


                                安宅夏夫


 「明治人は、凄い。中で独歩もまた100万ボルトで焼け死んだ」――そうだったのだ、と間島さんのこの1篇から受けとめました。

 独歩35年の命が、目指した仕事――多面的であり、また関わった多彩な群像を最初に総覧。独歩のその都度にドラスチックな人生階梯を360度のパノラマにしてみせています。

 「複雑な人間ではなかった。むしろ、率直で一心不乱に進んで行く青年であったと思われる。夢想家で自信家でありながら、その底には詩心が通っており、一途さがあるために清爽なな印象がのこる。」

 独歩の生涯を「欺かれざるの記」に吐露されている「精神史・思索記」を基盤にして、ハイライト・佐々木信子との「出会いと別離」が象嵌されます。

 「教師生活」から「記者・文章家」へ、「2度の結婚」、日清・日露の戦争との関わり。代表作「源叔父」「酒中日記」「牛肉と馬鈴薯」と辿って、二葉亭にみちびかれての「やはり独歩を独歩たらしめている「武蔵野」」を俯瞰・細行(鳥の眼と虫の眼・巨細に)分析、その手続きには過不足なく、独歩の人と作品を全的に見せます。

 漱石との比較が終わり近くにあります。漱石は「独歩を寺田寅彦に教えられて、急ぎ本屋に買いに」行ったのでした。「巡査」「運命論者」が良いーー後者と漱石が大好きだったスチーヴンとを 合わせて書いています。前者は漱石の「アンチリアリズム」、また「夢10夜」に通底していると私は感じます。 間島さんは一番ラストで一葉を引いて「(ともに)真面目な魂の「詩の心」は宿っていた。瞬く間に現れ、去って逝った一葉にはこれが宿っていた。形は違うが、独歩にもこれが宿っていた」「遠くなっていく時代から差しこむ光の中に、人の形の影が立っているのが見える。」と記しています。このエンデング、そのエコーに私は耳澄ませています。

 安宅は、独歩を全力で追尋したのが啄木であり、更に犀星ーーなのだ、と(不意に・改めて)思いました。

 独歩と啄木をトレースしたいーー明治という「ある限界・厳戒態勢」をパラダイムに。大正のみじかいけれど、平成まで通関・伏流してきた「詩人のヤヌスとしての相貌」を追尋したくなります。間島さんのこの度の「独歩」は比喩でなく、その時代・明治の壮大なオーロラである、と痛みを感じ、大いに刺激されています。



間島康子氏


国木田独歩―人間独歩・もうひとりの明治人― 


                                岩木讃三


 国木田独歩を知り、また独歩について考える上でなかなか興味深い評論だと思った。少なくとも『武蔵野』に憧れて四半世紀前、東京西郊・武蔵野地域に移り住んできた私にとってはそうである。おそらく原稿用紙二十五枚ほどだと思うが、独歩という人物と『武蔵野』のことを凝縮して巧みにまとめていると思った。独歩を知ろうとする人には大いに役立つだろう。

 目を引くこととして、佐々城信子との結婚とその破局が「独歩を詩人たる道に導いた確かな出来事と言ってよいのではない」か(81頁)、と述べていることだ。また「「武蔵野」は、信子との悲恋の産物であると言える」(84頁)という主張も注目すべきことだと思う。私にとっては「そうだったのか」という一つの発見でもある。

 『武蔵野』について語る84〜85頁がとくに良い。

「独歩は新たな美を見出した。それが今の私たちの武蔵野のイメージとなっていると言っても間違いはないだろう」

 確かにそうなのだろう。私もそのイメージをそのまま抱いた人間の一人だ。筆者・間島氏には、今度は『武蔵野』自体を20枚ほどで解説していただけたらと思う。(2014.2.16.)





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安宅夏夫自注


 小林さんの担当の「石川啄木と平出修、秋瑾」

安宅が書きました。


 周知のように啄木研究で画期をなすのが「啄木―国家を撃つ」をコアとした近藤典彦(1938−)。「国際啄木学会」スタートの動輪として剛腕・細理の著を陸続と刊行。このたびの内田弘著『啄木と秋瑾』(2010刊)は、「啄木と平出」とが、あの時代の強圧されていたパラダイムの下をどう生きたかを、見事に透視・脱構築して書かれた途方もない著です。

「啄木歌」にはこれまでさまざまな「読み方・パラフレーズ」がありました。が、この内田の著でもって「啄木の人と作品」にあらためて瞠目させられました。「大逆」を鴎外(日記に拠る)・漱石(荒 正人の「漱石の毎日記録」に拠る)の二人が直接には「口を封じ」た謎も見えてくるようです。




野寄 勉 荷風と歌舞伎座・明治編


                             名和哲夫


 永井荷風というと耽美派で江戸情緒を描き、留学もしたが遊郭にも通った作家という印象、自分は昔墨田ユキという女優が出演した「?東綺談」という映画を見たことがある。本も「?東綺談」ぐらいしか読んだ事がない。

 この論はその永井荷風が若き頃に、歌舞伎座で作者見習いをしていたときのエピソードを紹介したものである。とても興味深く面白く読ませていただいた。明治篇ということは大正篇もしくは昭和篇が今後書かれる予定があるのか。ただ、気になったのはここに書かれていることがどこまでが一般的に既知のことなのか、研究されているのか、が自分が不学でわからないことだ。





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名和哲夫氏 「田山花袋について今考える」


                        草原克芳


 ■田山花袋について今考えるということは、小説のリアリティとは何なのかを再考することだろう。

評者の名和哲夫氏は、『蒲団』について、「私小説らしいところ、私小説らしくないところを併せ持つ作品」だと指摘する。

主人公の竹中時雄の描写は、回想形式であるのみならず、三人称を用いた(不徹底であるとしても)客観的描写であり、

事実から逸脱する部分が私小説らしくないという。

 ここに引用されたある女性評者は『蒲団』を読んで、「失笑」し「ため息」をつくばかりであり、

「センチメンタルな男の妄想」だと決めつける。

 しかしこれはあまりにも“普通すぎる”読み方であろう。

現代の男女の高校生に読ませても、ほとんどこれと大差ない否定的な感想が出てくるはずだ。

これではこの作品に過去の煤けた陳列品以上の意味を見出すことはできない。

つまり、本作品が当時の多くの作品とどのように異なるインパクトを持って出現したのかという肝心な謎が、見えてこない。

 一方、小谷野敦は、「罪」ではなく「恥」を描いたところが『蒲団』の新鮮さだったと評価する。

 ここに私見を加えれば、「恥」とは、維新以前のサムライ達が最も忌み嫌い、切腹せざるをえないような倫理の一線であろう。

 別の言い方をすれば、「面子」の問題である。 

 さて、これら二種の読みの違いは、はたして男女差ゆえの違いなのだろうか。

 そもそも、罪から自立した「恥」とは何か。


■当時の時代背景を考えると、花袋の小説空間を形成しているリビドーは興味深い。

おそらく、同時代の男たちは、まったく別の武張った方向で、「センチメンタルな男の妄想」を展開していたに相違ない。

国家と天皇に強烈な求心力を持たせ、序列や、位階や、勲章にこだわり、

外部に顕れる己のペルソナに「センチメンタル」にこだわっていたはずだ。

そしてこの時代の男ならば、芸者や妾を複数囲い、放蕩することこそが、男の甲斐性だったはずだ。

よくも悪くも田山花袋の新鮮さとは、このピラミッドを、“めめしく”ひっくり返してみせたことだろう。

あえて「面子丸潰れ」を演じたわけだ。

そのマイナスの輝きは、当時“いわゆる文学”のように思われた。

その暗い穴倉から、後の葛西善蔵、嘉村磯多、太宰治らが輩出してくる。彼らは皆、ゴーゴリの『外套』ならぬ、花袋の『蒲団』の隙間から湧き出してきた私小説作家たちだ。

その鉱脈は、花袋の嗅ぎ当てた「恥」の臭気から始まった。


■「性欲と悲哀と絶望が忽ち時男の胸を襲った」

 確かにこれらはすべて「社会的動物」である明治・大正の日本男児の「恥」の材料であったはずだ。

しかしその背景に、西洋の芸術、文学の権威が控えていたからこそ、その「恥」が輝かしいものになったはずだ。

名和氏が指摘するように、ハウプトマン、モーパッサン、ツルゲーネフの名前がちりばめられているのは、それらが単なる「恥」を勲章にまで高める権威づけのイコンであったからに違いない。

 

肉感性ある小説のリアリティとは、風景をカメラのように平面的に接写するところにはなく、

時代環境にあらがい、あえて抵抗することによって、定着されるものだ。

つまり、マイナスな心理であったはずの「恥」や「屈辱」や「絶望」を、小説場面に書き綴ることによって、抵抗線として描出される。

 名和氏は、小谷野敦に倣って、花袋は「罪」ではなく「恥」を描いたと指摘し、作品中に「恥の告白」を表出したとする。

 さらに「男性の本質的な部分を描いているのではないかと思う」と結んでゆく。

 そこから極論するならば、日本男性の近代的自我(の一部)は、「田山花袋/竹中時雄」が、女弟子の夜着と蒲団を抱きしめて匂いを嗅いだ瞬間に確立された。さらに、面子が丸潰れになるような告白をした瞬間に確立された――ともいえる。

 いわばここに、「文士の腹切り」のスタイルが確立されたのではないか。それゆえに、文学史的にも、後追いのハラキリが続出した。これは、明治国家の派手で誇らしげな膨張主義と対照されるべき陰画であろう。


■実作としての『蒲団』は、ある意味では、小林秀雄の『私小説論』と対をなしているようなところがある。

もちろん小林が最も意識したのは志賀直哉であろうが、その源流には花袋がある。

名和氏の批評が、田山花袋から藤枝静男にいたる多様な私小説を巡っての「問い」にこだわることで、小説の「リアリティ」や「私」の謎を探究し続け、その「問い」は自ずから『私小説論』に呼応していることは、意識しておいてもよいことだ。



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草原克芳氏 「批評・啓蒙・プロバガンダ―黒岩涙香と『萬朝報』の時代―」

永野 悟


 「明治の文学」特集の編集の段階で、新聞・雑誌などのジャーナリズムを論じようということになっていました。初期・中期の状況を永野が、「万朝報」を中心とした中期・後期の状況を草原氏が担当することになりました。

 全般にこの特集自体、相応に「明治」とそこに生きた人たちをあぶりだせたのではないかと思っています(何度もいうが、島崎藤村、北村透谷、があればなおよかった、です)。

 草原論文のよさは誰もが認めるでしょうが、その特徴の一つは文体≠ノありましょう。まるで、明治のその人々、「バルザック的」人物像がせりあがってくるような文章は、小説にもまさるものといえます。文体がテーマを呼び出しているような展開になっているともいえ、これは執筆者の才に帰すると同時に、主人≠スる黒岩涙香、その人の人物・キャラクターにも由来しましょう。本文でもいっているように、それこそ「明治」という時代が生んだ、一つの典型例でしょう。

 われわれは先に「大逆事件と文学」(26号)を特集しましたが、この明治末期の時代の結節点に至るまで、どのように社会が、政治が、世界が動いていたのか、調べ検証すればするほどドラマチックな劇がありました。本文にそっていえば、「相馬事件」。これは執筆者でなければ取り上げなかったかもしれません、が込み入った毒殺陰謀℃膜盾フなかに、古河財閥の暗躍、白樺派的なエゴの作家の棟梁とみられていた志賀直哉の懊悩の側面が見られました。また黒岩涙香の人とそのなり、趣味(ビリヤード)などその側面とともに、注目すべきは、「理相団」の結成のことでしょう。まだ制度や組織が固まっていない時期にこそ、こうした初々しいものに筆を費やすのは、涙香と万朝報の、めざすところと、そのはたてを予期させるものです。日露開戦の世論におされ賛成に転じるや、内村鑑三、幸徳秋水らは退社しますが、そもこれだけの人材をオルグしたことに、いまのマスコミとは天地の開きを感じます。

「二六新報」との角逐は、正義や理想ばかりではない、「まむしの周六」の側面も見させられますが、そのライバルの秋山定輔が主宰した向島白髭の2万人を集めた労働者懇親会イベント(明治36年)は特筆すべきことだったのではないか。いわゆる大新聞ではない、これらがもし呉越同舟の期があれば、いわばパリコミューンみたいな事態もありえたのではないか、と夢想させます(明治19年生れの啄木も17歳でしかなかった。がランボー<1854-1891>でさえ、このコミューン成立の1871年3月には、17歳だった)。

 サブタイトルの「批評・啓蒙・プロパンガンダ、さらに娯楽」は、マスメディアの特質をいうが、この出典はどこか言及があればなおよかった。またこれら要素は、メディアにかぎらず、学界・政界・官界にもいえようし、新聞媒体と絡み合った文学者たち、文壇にもつよく指摘できましょう。さらに、第二編・第三編とつづけて、これら作家・言論家に及ぶのは、氏に求められていることでありましょう。  




● 草原克芳「批評・啓蒙・プロパガンダ―黒岩涙香と『萬朝報』の時代―」を読んで


市川直子


1、文学の<本丸>とジャーナリズム、マスコミ、新聞、出版業界などの<外堀>(112頁)、「中心と周縁」しかも<中央の力の渦>が「ますます固定化され」(133頁)るイメージは、わかりやすい。

2、日本におけるジャーナリズムの「可能性 / 不可能性」(113頁)探っていくのは面白い。とくに不可能性の探求に興味が湧いた。不可能性に関することの1つは、「開戦した瞬間、ジャーナリズムや批評精神は、霧散してしまう。」「何度も何度も反復されるも、そこに学習効果はまったくない。」(119頁)「明治であろうと、昭和であろうと、平成であろうと、いつの時代でも同じことだ。」(124頁)だろう。ただ、そう断言できるか。できるとしたら、では、どうすればよいのか。「例えばインターネットの市民メディアや独立系サイトのよう」なメディアの重層性だけで「われわれが納得できる『ジャーナリズム』が実現する」のだろうか、と思った。著者は、社会主義者とクリスチャン「の同居する混沌たる培養池」のような「極端な呉越同舟ぶりこそが、明治論壇の鬱勃たるダイナミズムといえるだろう」としているので、明治論壇なみのカオスに近い状態が必要だと見ているように思えた。

3、3つの要素「批評・啓蒙・プロパガンダ」をものさしとして、各時代の様相を評価していくのは、論文調で興味深い。ただ、最初の方では「一般に」使われる基準とあるが、最後をみると、それは著者の視点から選ばれた基準であることがわかる。こうしたことは、最後ではなく最初に書く必要があるように感じる。最後の部分は(注)なのだろう。

4、黒岩涙香を支える3つの武器「語学 / 裁判 / 人権」とあるが、この順序なり意味なりを、もう少し知りたいような気がする。とくに「涙香の人権思想は、その当時、日本人がいかに英米による不条理な裁判にホゾを噛んでいたかという怒りが原動力となっている。」(114頁)という文だけでは、その人権思想が見えづらい。私見では、日本における人権思想の無さが「情的な沼沢地風的風土」をつくり「二項対立の問題ではなく、クリティックそのものが、不在となる」、少なくとも原因の1つだと思われるので、その部分をもっと知りたかった。また、「この辺は、米中の二大国に挟まれた現代の日本が国際的に抱える問題と比較しても、なかなかに興味深い。」(115頁)の「この辺」をもう少し明示して欲しい。とくに「世界の一等国をもって任じる明治政府は」(123頁)は、現在、世界の一等国をもって任じる中国政府は、と置きかえられそうな気がするので、一層のこと興味が高まる。5、「新聞・学会の風潮が、終戦直後<政府・新聞・国民>の三層間に、異常なギャップを生じさせた。」(127頁)で、いきなり「国民」という言葉がでてきて驚いた。



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特集U  映画-もう一つの生 <同人短評>



赤穂貴志


  土倉ヒロ子様「わが町、わが青春の映画たち」を読んで


 私の両親と同世代の方でしたので、感想を書くのは大変おこがましいのですが、親に聞かされた映画の昔話を思い出しながら読みました。

昭和30年代頃には、どこの街にも地元の映画館があったと聞いています。劇場が庶民の娯楽場という存在だっただけでなく、少年少女たちの情操教育の場にもなっていたのですね。

 思春期には、異性に対する興味と大人への背伸びが同居しています。異性への憧れをミーハーと書いておられましたが、この自然な感情が映画への入口になるのは、時代を超えた共通なものだと思います。

高校生くらいになると、大人が愉しんでいるものを覗いてみたくなります。巷にあふれた映画の中から、比較的格調高そうな文芸作品を選んで観てしまう心理は、自分の実体験から同感できました。映画を通じて大人の世界を垣間見てしまったことで、深い感銘を受けたり激しいショックを受けたりすることもありました。あのときの心臓の激しく鼓動する音は、フラットな心に強い免疫を与えている擬音だったのかもしれません。

 洋画において、ミュージカル映画に傾倒しながらも、人生の不可解さが哲学的に映像化された作品に感銘を受けたというところも共感を得ました。パゾリーニ監督『アポロンの地獄』などは、鑑賞後すぐに頭を整理できず、日常モードに切り替えられない状態に陥ってしまいます。

異性との映画鑑賞にこの作品を選びたくなる気持ちも分かります。この?みきれないモヤモヤした思いを、好きな相手と何とか共有したいという思いがそうさせるのでしょうね。

私の青春期(平成初期)は、邦画界が低迷していた頃でした。「軽く明るく」という風潮が蔓延り、重く深刻なテーマは避けられ、タレントが演技をし、素人が監督としてメガホンをとるような時代でした。そんな同時代には背を向け、銀座並木座や池袋文芸坐に通い、過去の作品群から映画のすばらしさを堪能する日々を送っていました。

成瀬巳喜男監督の『浮雲』や、木下恵介監督の『野菊の如き君なりき』のような不朽の名作を、若い時代にリアルタイムで鑑賞できたというのは本当に羨ましく思います。

思春期から青春期にかけて、映画全盛期を迎えられた世代の方々は、気づかぬうちに後の世代以上の「心の糧」を得られているのではないかと感じました。





草原克芳氏「ゴジラの巨大な影の下に―敗戦日本の集合的無意識―」 


蘇る怨念

                            取井一 


 数多くの日本娯楽映画の中で、半世紀以上前の1954年版映画「ゴジラ」ほど、おどろおどろしいリアリティを感じさせるものはない。

 そのリアリティについて、草原氏は、日本人の集合的無意識から「古事記」「日本書紀」まで話を掘り起こし、「3・11フクシマ以降」へと進み、「たかが一頭の怪物の死が、何故にかくも悲しいのか」ということを余すところなく解き明かしてくれている。

 ちなみにこの年、54年前後の日本映画状況は豊饒であった。「地獄門」はカンヌグランプリ、「生きる」ベルリン3位、「原爆の子」カルロビバリ平和賞、「山椒大夫」「七人の侍」ベネチア国際賞等々である。

 しかし、水爆実験によって出現した「ゴジラ」は単なるパニック映画でないし、960万人の日本人が観たということも、その今日性がわかるでしょう。



取井 一 「イメージの宝庫 映像の力」


                            土倉ヒロ子


取井さんらしく、アンケートの結果を総括しながら自らの映画経験と映画史なども織り込み映画というジャンルをわかりやすく解説されているかと思いました。

私など抜かしてしまった「独立プロ」作品なども挙げていただき、その時代背景などにも言及されているところが取井さんらしい視点だろうと思います。

フランスから起こった「ヌーヴェル・ヴァーグ」、アメリカの「アメリカン・ニューシネマ」の流れの中の作品も挙げて頂き、あらためて確認できました。もう一度見たい作品もかなりあります。

しかし、これらの映画に影響を受けた日本の監督の作品はどうなのか・・・私は大島渚、篠田正浩などの作品は評価しないのだが。いかが?

どんな映画でも、先ずは面白くなければ「映画じゃない」思うのです。

「勝ってにしやがれ」は新鮮だったけど、「愛のコリーダ」は何かいいとこありましたか?

このあたり、議論したいところです。

山田洋次の寅さんもの以外の作品はいいものがあります。駄作もあるけど。「幸福の黄色いハンカチ」は傑作でしょう。

「羊たちの沈黙」ってホラーなの?それなら、私の唯一のホラー映画体験になります。事実、この映画は怖かった。

我が家の男性軍は、このシリーズの大フアンなのです。しかし、スティーブン・キング原作の「スタンド・バイ・ミー」は何回みても感動します。友人たちと、わいわいいいながら観たい映画の一つになっています。





映画アンケート等について


赤穂貴志  

映画アンケートの結果は、興味深く閲覧させていただきました。

邦画、洋画ともに3本ずつという制約のある中、どのような基準で選ばれたのかというところに注目しました。

深い感銘を受けたもの、上映終了すぐに席を立てなかったもの、友人や恋人と共に鑑賞した思い出のもの、子どもの頃に初めて観たもの、近年の傑作群のものなど様々な選び方があったと思います。

その中でも、やはり個人的な思い出を辿りながら作品を選ばれていた方が一番多いという印象を受けました。どうしても感受性の強い思春期青年期に観た作品が中心になるのは当然だと思います。それにより、世代によって作品にばらつきがあるのも、また興味深かったです。

今回挙げられた延べ170本のうち、私は約7割を鑑賞済みでしたので、どの作品もいいものばかりという感想を持ちました。

映画は後世に残る芸術です。

製作後何年か経てもいい味わいが楽しめます。公開当時はさほど話題にならなかった作品が、後の世代の観客から「検証」され「再評価」されるというのも、この熟成がもたらす効果だと思います。

今回の草原さんの「ゴジラ」論における、奇妙な背びれを皮切りに展開したゴジラの出自に関する考察は、納得しながら興味深く読めました。

東京に現れたゴジラという龍神は、南洋で非業の死を遂げ、英霊として帰還することができなかった無名兵士たちの化身だった。当時の観客が、それにうすうす気づきながらもその「破壊者」を受け入れ支持し、「銀幕の鎮魂式」を静かに見届けていた。

このような眼からウロコの新説は、まさに後世の観客からの「検証」と「再評価」だと思いました。




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<論考> 同人短評



古谷恭介 「シャーキャ・ノオト(4) -原始仏教残影-」  について


長野克彦 


 数日前、悟氏から自作の直前の作品評をとの連絡があり、それは古谷恭介氏のもので、再読してなかなかのものだと恐れ入り、早速快諾の電話連絡をしたが、さてさてどう手をつけていいやら。

 私の作品の直後を見ると、これまた、慶応経済出の荻野央氏で、なかなか手ごわい、これは悟氏に諮られたと感じたくらいだ。


 「シャーキャ」などと最初は麻原彰晃でも出てくるのかと思ったらとんでもない、掉尾219頁5行目から末尾までが圧巻だ。世間一般、建前は釈迦は悟りを開いたものとされていると私は思うが、彼釈迦は、「苦行によっては覚ることはできない」と結論を出した。―とある。

 私は若い頃から疑い深い。仏教など信じたことはない。友人に「君は猜疑心が強い」といわれた。私は「懐疑心が強い」といわれたかった。恭介氏の記述に快哉を叫びたい。

 現在哲学のカナメ、現象学の泰斗フッサールの「イデーン」に「エポケー(判断停止)」とか、「括弧入れ」とか、「還元された純粋意識」などという用語が出てくる。これは禅に一脈通じるところがある。しかしながらエポケー、括弧入れ、還元などというのは、過去の一切の諸観念、諸思想を遮断して純粋に人間の混じりけのない「意識」そのものに達し、人間の存在意識を探求しようとするものだ。そこでは「覚り」や「救済」もエポケーされ括弧入れされてしまう。

 以前私は本誌に、「大岡昇平『俘虜記』に現れた現象学」(18号)で、京大哲学科出身の若い俘虜に、田辺哲学か、ノエシス(考える作用)・ノエム(考えられたもの)、アインシュタインの光さえあれば十分ではないか、といってからかうところを書いた。似非フッサリアン田辺元は戦後親鸞に行った。碩学の梅原猛も親鸞だという。光は超越的であると同時に、相対的なものだ。実存思想の根底に意識を超越的なものとしてとらえないでどうする。




  



 星野光徳 村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』について 評


石井洋詩


「村上春樹に不案内な者のよき導き手として読みました。星野氏の村上春樹への関心の在り処が何であるかが明示され、それが一貫した論理と明晰な表現と適切な引用によって追究されています。さらに印象深い節句も随所に挟まれています。たとえば『ノルウェイの森』についての「人生の一点で無意識のうちに自分の中に刻まれてしまった間違い。『僕』はそれを解きほぐすこともできずに立ち竦む」という一節など。星野氏は『ノルウェイの森』と最新作の関係について、「他者を愛し愛されることの本質的な不可能性を思い知らされたかつての『僕』は、更にここで自己自身の了解不可能性と対面させられたのだと読めなくはない」とみて、「このテーマがここで達成されたわけではない」とその未完了を指摘し、その原因が「『つくる』が抱えさせられた絶望的空白―『シロ』の事件とその内面が充分に描かれなかったことによる」と述べています。登場人物の命名の意味や説明調の叙述についての批判も納得でき、通読後最新作を自分なりに読めた気にさせます。

 如上のように星野氏の読みを受け入れながらも、ある素朴な疑問が残ります。星野氏が言う「愛の不可能性」の「愛」とは何だろう。単なる「恋愛」ということなのか。また、自他の「了解不可能性」ゆえに「愛」は「不可能」になるのだろうか。逆に自他の「了解不可能性」を前提にするゆえに「愛」は成立し得るとは言えないのだろうか。「了解不可能性」の自覚の深まりが「愛」の深化を促すという自他の関係性はあり得ないのだろうか。」




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<コラム・ノート> 同人短評


間島康子《写真ノート》短評


井上二葉


自らも詩人であられる間島さんが、写真で詩を表したマリオ・ジャコメッリの展示会に行かれた時のことが書かれていて、興味深い。《写真ノート》のタイトルが、「ジャコメッリの写真」ではなく、「ジャコメッリの詩」とされているところに、間島さんの思いを感じる。マリオの写真には、「白と黒のなかに底知れぬ言葉がひそんでいる。」との事。それは、「単に対象を正確に?み取っただけではな」く、「対象をさらに高め、深め」ているのだそう。辺見庸氏は、マリオは「いかなる『実在』の対象を撮ろうが、すべて自分の内面の異空間として表現する。」と述べている(『私とマリオ・ジャコメッリ 〈生〉と〈死〉のあわいを見つめて』)。「ホスピス」の老人達や屠殺場の動物など、死にゆくものの現実を撮り、神父・聖職者への思いから神学校に足を踏み入れたりしたが、そこでも「かなしみを知る」ことになったのだという。「観終わった後、眼が、遠くへ、茫然と向いていくよう」だったという間島さん。それは、マリオの写真のテーマといわれる〈死〉からくるものだろうか。先の辺見氏の著書によると、「ジャコメッリにおいては死は生のなかにすでにして深く織りこまれた世界」であり、「死はこの生の時に浮遊している。ジャコメッリはそれを映像化しようとした。生と死のあわいにかれは眼をむけたのだ。」という。生と死といえば、最近読んだ、東大病院医師の矢作直樹氏の著書に、「私たちが生きている世界も、死んで行く世界も、その波動、振動数が違うだけで、じつは同じ『ここ』に存在しています。(中略)この世界は、三次元のこの世に幾重にもわたる高次元のあの世が重なり、高い次元は最終的には一つの普遍意識(大霊)になるといわれています。」と書かれている(『魂と肉体のゆくえ』)。マリオの写真が表す現実の「かなしみ」・「空虚」から、私達は何を見出すべきなのか。深く考えさせられる《写真ノート》である。






 井上二葉《音楽ノート》ショパンの音楽なら


佐藤文行


 今回の「音楽ノート」は1975年19歳で第9回ショパンコンクールに優勝したツィンマーマンの紹介で、このピアニストの楽器へのこだわりを読めば彼を知らない人でも興味を持ってしまいそうです。聴いてみたい!―と思いさっそくYouTubeユーチューブで「ツィンマーマン」を検索して11本の動画や録音を一気に聴いてしまいました。中にはインタビューが2本あり、彼の生まれ育ちを紹介、もう1本は50歳を過ぎたころのもの。この「ショパンの再来」とも見える美男だったピアニストの魅力を(英語ですが)十分に伝えていて、井上さんの曲解説に導かれたおかげで、僕はまた一人素晴らしいピアニストに出会うことが出来ました。読むだけで音が響いてきそうな《ノート》です。次回も期待しています。(楽器はほとんどがスタインウエイ。映像がないので自信はありませんが、オランダでのコンチェルトだけはベーゼンドルファーを使ったかも知れません。)




<演奏ノート>  佐藤文行氏


トークコンサート「野口雨情の詩曲」短評


間島康子

                       

 <ノート>はこれまで、ある作品があって、それをこちら側から評して書いたものが殆どだったと思いますが、佐藤さんの場合は、「野口雨情の詩曲」を演奏する立場としてのご文ですので、より具体的に伝わってくる力があります。

 以前一度、同人の方たちと吉祥寺でのコンサートをお聴きしています。野口雨情一人に限定してのコンサートも珍しいのではないでしょうか。最後の方では観客も一緒に歌い、楽しいものでした。知っていて歌える歌であることも、うれしいことでした。

 「別後」という歌は存じませんが、詩の言葉も切なげで、是非お聴きしてみたいものと思います。






杉浦信夫「弁護士会の闇」第11回


安宅夏夫


 「都合のいい時は法律を盾に取り、都合の悪い時は法律を無視でやる」−−これが日本の弁護士です。

第11回を迎えた杉浦信夫「弁護士会の闇」は、依頼人又は相手が法律に無知なのを良いことに、詭弁・恫喝で「大飯食っている種族・人種」を叩くものです。

 日本の弁護士の劣化はバブルが弾けてから殊に激しく、今日(9月6日「読売」)でも第二東京弁護士会所属・藤勝辰博弁護士(55)が依頼人から預かった1億5千万円を着服、と出ていて日常化しています。ネットで見ると「弁護士犯罪に苦しむ人」は大変に多く、鰻のぼり・天井知らずになっています。

 杉浦さんは、被害に遭った当事者の一人として「文芸誌を媒体に発表、出版」を目指している由、今号に書いています。山県有朋が「寝技で造った」と言われる日本の「国策は法曹を護り、人権を踏み躙る」もの。これは「自民が民主に変わり、民主が自由に戻っても」変わらない現下の「政治ほかと同じ」です。

 ベンジャミン・フルフォード『泥棒国家の完成』、カレル・ヴァン・ウオルフリン『日本/権力構造の謎』に学び、かの田中正造の「ねばり・気迫」を和顔でエンドレスにして行く筆者のペン先を追うのが、毎号楽しみです。「アベノミクス」は「大逆・ヨコハマ事件」に通底して行く要素・傾向にあり、誰もが「口に蓋される」−−安宅は文芸の場に居る者の一人として、そうはさせじと、「言葉の力」を深く説いた哲学者デリダ(この人は、つい先年死去しましたが、「哲学は言葉で表わす」と真に言いきりました)につながる杉浦連載に、改めて喜びを得て居るところです。



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<創作>同人短評



稲垣輝美  山原の風(読後感想) 


                  小野友貴枝


 父と高校生になった娘が、遠縁の徳次郎を訪ねる、やんばるへの旅。3泊4日の様子が丁寧に描かれている。娘のわたしは、コノハチョウを捕まえたいと願ったとおり、酒を撒くと寄ってくるチョウを捕まえ場面、満夫の飼っている鶏を絞めて御馳走にする風土は戦後の私たちが体験していることである。徳次郎さんの戦争悲劇が中心になるのだろうがこれも北部の風土とともに淡々と描かれている。読後感は、描写のうまい作品はやんばるの風のように、柔らかい人間と風景が溶け込んで叙事的に仕上がっている。

最近、沖縄激戦の中に赴任した島田知事の「生きろ」というテレビドラマを見た後なので、北部か南部かと逃げまどった犠牲者の姿を思い返された作品にもなった



          


小野友貴枝さんの「花束を」の感想です 


                  市原礼子


 定年退職のお祝いに花束を贈られたのに、その花束をどこかに忘れてしまった。定年を迎えて一線を退く人の寂しさ、頼りなさの気分は感じ取れます。この作者の特徴は、そこに男女のラブアフェアをもぐり込ませるところですね。この作品では、匂わせるところで止めています。ラブアフェアを書くとどうしても俗っぽくなるので、私の個人的な好みでは、なるべくそれは無しにして、書いてほしいと思います。

 記念品の砥部焼のマグカップを忘れて、追いかけて来てくれた秘書に、返し忘れたロッカーの鍵を渡すところが、本当に退職するという実感が湧くところと思いました。実は、砥部焼の食器は私も好きでたくさん持っています。(砥部焼の窯元が私の実家の近く)。持ち重りのする存在感のある、普段使いの焼き物です。砥部焼のマグカップで現実感が増しました。

 退職後の仕事が、福祉相談と焼き物を教えることになりそうですが、次の話ができそうと感じます。この作者の短編集「愛の輪郭」では、働く女性の職場での葛藤を書いた作品に記憶に残るものがありました。




市原礼子  一匹の猫からはじまり、一匹の猫でおわった話


                  名和哲夫


 これは創作なのかたぶんそうではないのだろう。自分もマンションで猫を飼っている猫好きである。そういうこともあって、面白いし夢中になって読んでしまう。

ところで、会報に出て来る、いなくなった「ちゃちゃ」は「茶々」なのか。気になる。家の猫も部屋から出さないようにしよう。「ちゃちゃ」が戻ってきますように。

気になった点はただ一つ、たぶん事実を書いているためであろうが、やや長い感じがした。





天正遣欧少年使節  −西彼杵半島をめぐってー   柿崎 一


                           土倉ヒロ子


 この作品は序章を入れて4章で構成されている。日本の「キリスト教受容史」の中でも

「天正遣欧少年使節」は重要な歴史的事実であろう。少年4人が長崎の港を出たのは天正10年(1582)である。キリシタン大名の名代としてヨーロッパにわたり、渡航先では歓迎をうける。帰国は8年以上、後になる。

 柿崎氏は、この四人の栄光と、帰国後の苦難の生涯を簡潔にエッセイ風に語っている。

 4人の少年とキリスト教とのかかわりは、短編小説では表現できないだろう。テーマからいえば大河小説の題材かと思う。

 柿崎氏は序章(はしがき)の最後で次のように述べている。

 「その栄光と苦渋に彩られた足跡を辿ることで、歴史の真実の一端にでも迫れれば、彼らの心の叫びに応える一助ともなりえようか。」


 現在、四人の少年の像は簑島大橋のたもとに建てられている。

 「天正遣欧少年使節顕彰の像」昭和57年使節派遣4百周年を記念して。

 長崎県のこの地形は絶妙の容をしている。西彼杵半島、長崎半島、島原半島。

 柿崎氏は、冒頭でこの地形上の美しさを簡潔に表現し、読者を、その地に誘っていく。

 この地は日本のキリスト教受容史にとって欠かせぬ土地なのだから。

 

 もし、織田信長が本能寺で倒されていなければ、この4人の少年の運命は、これほど過酷ではなかったと思う。

 西方を指さす少年の像を、単なる観光名所にしてはならないだろう。作者は、よく、このあたりをおさえ、改めて日本人とキリスト教のかかわりに眼を向けさせるための意欲と緊張感をもって書いている。





土倉ヒロ子     お嬢吉三にはなれない   


                          稲垣輝美


 タイトルは歌舞伎狂言作者、河竹黙阿弥作 歌舞伎演目「三人吉三廓初買」の登場人物。「三人吉三」は、いずれも吉三郎(和尚吉三、お嬢吉三、お坊吉三)という名の三人の盗賊を中心に、彼らを取り巻く者たちの複雑な人間関係を描く、物語性の強い演目となっている。初演時にはあまり評判にならず、30年ほど経って一部の筋を省略し、「三人三吉巴白波」という外題で再演され、大評判になった。


*面白く読ませていただきました。

*登場人物の「僕」と愛子さんという、若者と老人の取り合わせは、いま世間を騒がせている「振り込め詐欺」をおもわせます。

*背景;主人公の僕の母は彼の出産後に死に、彼は祖母に育てられた。父は彼にとっては理不尽な人でしかなく、彼を育てた祖母は彼を甘やかして育てた。歌舞伎に夢中だった祖母の影響で、彼は小学生のころから歌舞伎のなかの悪人気取りで所作をまねたりしていた。そして成人したいま、祖母の影響で若い女には興味がもてなくなってしまった。

*物語;シニア専門のホストクラブの経営者もしたことがある僕は、三十歳の誕生日に駅のホームで獲物を待ちかまえていた。そこにあらわれたのが天涯孤独の愛子さんである。僕は早速、愛子さんに取り入り、その日のうちに愛子さんの家に上がり込む。愛子さんに親切にするたびに、僕の通帳の金額は増えていくようになる。とくに僕のマッサージはツボにはまっていて、これまでにも老女たちをうっとりさせてきたが、愛子さんにもそれを施し、ふうと艶な溜息をもらさせる。僕の、こうした老女たちとの暮らしは、一ヶ月から最長で半年。僕は老女たちの死期が近づいてくると、もっともな理由をつけて別れてきた。僕は彼女たちに、彼女たちにふさわしい最後の段取りの手続きまでさせ、完璧にして別れてきた。が一方、僕は老女たちの死に立ち会いたいともおもってきた。愛子さんは一ヶ月まえに、一千万円を僕にくれ、死ぬまでいてくれといった。いま愛子さんは僕のマッサージを施している手の下で死んだように眠っている。僕は祖母の死顔と愛子さんをダブらせて、死の床で祖母に聞いてもらいたかった祖母の好きだったお嬢吉三の台詞を思い出す。

*タイトルと関連する部分。現実の世界で歌舞伎的な悪を演じて見たかった。だが、僕は血をみるのは嫌いだから血みどろの生世話物のような悪人にはなれないだろう。(277p上段)・・・・・・僕はこの台詞は好きだが殺しは好まない。(278p上段)  




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