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小林弘子 泉鏡花「風流線」論 31号<明治の文学>



泉鏡花「風流線(ふうりゅうせん)」

   

       -社会通念への強烈な批判と恋愛至上-



小林弘子


   (「群系」31号収載)




 旧制第一高等学校の生徒で数え十八歳の藤村操(みさを)が「万有の真相は、曰く不可解」のいわゆる「巌頭之感」を残して、日光・華厳の瀧に投身自殺したのは明治三十六年(一九〇三)五月のことであった。彼が死に先立ち、巌頭の一樹を削って記した名文の遺書が、世に一大センセーションを引き起こしたことは、いまもよく知られている。


 悠々たる哉天壌。遼々たる哉古今。五尺の小?を以て此大をはからむとす。ホレーショの哲学竟(つい)に何等のオーソリチーを価するものぞ。万有の真相は唯一言にして悉(つく)す。曰く「不可解」。我この恨を懐いて煩悶終(つい)に死を決するに至る。既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。始めて知る、大なる悲観は大なる楽観に一致するを。


 それまで、切腹や心中はあっても、これほど明確に哲学的理由を示しての自殺はなかったこの国で、近代的自我を巡る象徴的な事件として、世間の話題が集中したのだった。この事件は明治の哲学の概念を決めたといわれ、以後、華厳の瀧への後追い自殺が続出(その年だけでも十一人)し、そのことで社会問題ともなった。

 しかも藤村操の遺体は、なかなか見つからず、五月二十二日の自殺から一ヶ月以上も経った七月二日、同じく華厳の瀧へ身を投げた早大生の遺体捜索の途中に、ようやく発見されたのだった。それが種々の憶測を呼び、「当初より藤村操生存説が取り沙汰され、以後さまざまなる〈生ける藤村操〉が創り出された」(高橋新太郎「巌頭の感の波紋」)というのも、生存のかすかな可能性に望みをかけた大勢の人の気持ちの反映であったろうか。

 叔父の那珂通世博士(高等師範学校教授)が『万朝報』(五・二六付)に寄せた一文によれば、操は五月二十一日の朝、学校に行くとして出たまゝ翌日にも帰らず、机の引き出しに書置を見つけて大騒ぎとなり、諸方へ問うも分からず。その夜、日光の旅館から郵便あり「不孝の罪は、御情の涙と共に流し賜ひてよ。十八年間愛育の鴻恩は寸時も忘れざれども、世界に益なき身の生きてかひなきを悟りたれば、華厳の瀑に投じて身を果たす」との趣意が綴られてあったという。

 黒岩涙香(『天人論』著者)や徳富蘇峰(「国民新聞」社主)をはじめ、操と同級だった安倍能成、岩波茂雄ほか知名匿名の人士ら多くの追悼文や所見がマスコミに紹介され、大きな論議を呼んだ。

 そのほとんどが日露開戦前の、国家主義と個人主義の煩悶に揺れる時代を背景に、高い理想を求めるあまりの厭世的哲学的自殺だったと解釈し、本人を擁護または称揚する論調と回想文が目立っている。そして一周年の翌三十七年には、操自身と名乗る「書簡」(本人が生きて綴ったとする)まであらわれ、東京朝日新聞がそれを連載して、変わらぬ関心の高さが示された。


登場人物に「その後の藤村操像」投影

 明治三十六年十月二十四日から『国民新聞』に連載が始まった泉鏡花の長編小説「風流線」(翌三七・三・一二まで)は、いち早くこの風聞をモチーフとして取り入れ、作中の主要人物・村岡不二太のうえに藤村操の像を、作者独自の感性によって生き返らせている。

 「巌頭の感」から足掛け三年を経て、いまは加賀・鞍ヶ嶽の山中に、鉄道工事を請け負う無頼の工夫集団「風流組」の守り本尊として彼は生きていたとする。しかも、彼が自殺の理由を「哲学」らしく見せたのは世を欺くためで、じつは恋を妨げられた絶望の故であったという、大胆な設定である。

 本作によれば、死に切れずに潜行するうち彼は、たくましい男に変貌を遂げていた。彼自身「迷(まよひ)に迷をかさねた結果、思ひ切つて悪魔、外道になつた」と述べ、世の不正な権力に立ち向かうには、より強烈な「悪」を以てしなければならないと思い至ったという。自ら悪霊の権化となり、何者かによって滅ぼされることを覚悟し願いながら、悪行の限りを尽くすというものだった。それは、自分の偽りの死が多くの追随者を招いたことを呵責し、罰を受けて死ぬための秘かな方便でもあったが……。

 その不二太を追って東京からはるばる鞍ヶ嶽にやって来た恋人・小松原龍子(旧金沢藩主侯爵の令嬢)は、「私は夫婦(いっしょ)になる気だもの」と打ち明け、これで問題解決とばかり安心したように彼に微笑を送るのだった。対する不二太の答えは、こうである。

 「(貴女に)一目見たい、逢ひたいと、思はんことといつたらなかつたけれども、未だ嘗て一度も、世帯を持たうの、寝ようのといふ考へを起こした覚えはないのです。」

 龍子のためには生命も惜しくない自分は、「貴女が此まゝ僕の横面へ唾(つば)して、フイと見棄てて去ってくれれば、それが即ち引導を渡してくれる善知識」なのだとして、留めを刺してほしいと懇願するのだった。

「なまじ、龍さんが(僕を)見棄てないから、何より其が執着の種なんだ」と。

 それを聞き、龍子もまた「私はね、いっしょでなくつちや(貴方を)死なせないから!」と、どこまでも不二太に随いていくと応じるのだった。二人は「悪」の本尊として風流組に受け入れられ、荒くれ工夫らの精神的支柱となった。鉄道工事の棟梁である鉄道局技師・水上規矩(きく)夫(お)は不二太の旧友である。彼は不二太の手腕をよく知っており、工事遂行のため不二太の力は不可欠と判断、風流組の現場監督・長靴の大将屋島藤五郎をして「(工事が)出来上りましたら、鉄道は生きて、霊を保つて、石炭を焚かないで汽車は動きましよう、線路は夜も光りませう、実に愉快であります。」と歓喜させるのだった。

 規矩夫は職能一途であると同時に、不二太と同じく恋に絶望した青年でもあった。相手は、金沢に「お救い小屋」を建てて困窮する人を養い、洪水で流された橋を架け直すなどして人々に「活如来様」と呼ばれる慈善家・巨山(おおやま)五太夫の夫人美樹子であり、地元実業家の令嬢でもあった。手取川河口・芙蓉湖の巨山別荘に心晴れぬ日を送る美樹子は、自分を慕う幸之助少年を伴って別荘を出、規矩夫と再会を果たすものの、二人の感情はすれちがいに終わらざるを得なかった。

 巨山五太夫の裏の姿は、善の皮を被った悪そのものであり、権力と結んでの金品収奪や、人間を動物にたとえての差別意識を当然として、度を過ぎた好色も俗物の証であるらしい。不二太は乞食僧に扮し、市内要所に掲げられた巨山の「慈善活動」協力要請の建札を次々と墨で塗り消し、まったく別の呼び掛けに書き改めて行く。


    記

一、県下に限り人を殺さむとして能はざる御方は申出  でらるべし

一、県下に限り火を放たむとして能はざる御方は申出  でらるべし

一、凡て県下に於て法の故に社会の制裁の故に敵の抵  抗力の故に人道あるが故に其他あらゆる事情の下  に為さむと欲して為し得ざる御方は申出でらるべ  し

一、当組合は各位に代りて各位の希望を満たさむこと  を誓ふ勿論適当なる実力あり云々

 その下に「風流組」と署名した。巨山お救い小屋の仕事着に記される「博愛」の文字に対し、鉄道工夫らの半纏には「風」または「流」が染め出される。「善・博愛社」と「悪・風流組」の対立激化の中で、善悪の立場はむしろ逆であるのが次第に明らかになってゆく。冨者が貧者に施すのが「慈善」であるなら、その冨を生む一方で貧を放置する制度こそ問題であるのに、制度をそのまゝにしての慈善はすべて偽善であるというのが、作者泉鏡花の考えである。その実践者としての村岡不二太であり、水上規矩夫だといえよう。金沢の古い封建性と閉鎖性を打ち破るのは交通、すなわち鉄道にほかならず、北陸線(風流線)が既製の特権社会を変えるという熱い期待が込められているのだった。そして風流線完成の暁には、かねて死を願っていた美樹子や不二太をはじめ幸之助、巨山五太夫ら多くの登場人物が自殺・焼死・制裁的事故などで世を去り、芙蓉湖別荘から間一髪で河童の多見次に助け出された龍子も不二太を追って死ぬことを予感させる。新時代到来と波乱万丈のうちに物語は閉じられる。


現代に通じる鏡花の社会観

 「続風流線」(明治三七・五・二九より一〇・五まで)と合わせ、四百字詰原稿用紙に換算して約一、〇〇〇枚といわれる、鏡花作品中の最長編である。筋の要約はかならずしも容易ではないが、入り組んだ構想と伝奇性は、しばしば中国明代の長編小説「水滸伝」に擬せられる。百八人の群盗が梁山泊にたてこもって官にたてつく物語である。「風流線」執筆時の鏡花は数え三十歳。後に「刻心、精励、十一月よりして翌年一月二月にわたりて、毎回殆ど夜を徹す」(春陽堂『明治大正文学全集』十二巻「『泉鏡花篇』小解」昭和3)と述べ、「この開封を、神楽坂通りの郵便に托して、寒月の下を戻る、午前三時半…前記、六十回の朝刊に印刷されたるを、薄き衾を担ぎて読む、寒威凛烈、手足をすくめながら、血の湧き、心の躍りしを、今も忘れず。」と当時を壊想している。

 いまだ封建的風潮の濃い地方都市・金沢と周辺を舞台に、若かりし鏡花の鋭い社会批判、民衆的反骨が明治の息づかいとともに読者の心に熱く伝わってくる、文字通りの大作である。連載を開始後まもなく師・尾崎紅葉が他界(明治三十六年十月三十日)し、深い悲しみの中にも、いっそう気を引き締めねばならない時期であった。「風流線」には、折から台頭著しい〈自然主義〉を向こうに回しての挑戦的意味合いなきにしもあらず。さらに日露戦争(三七年二月〜三八年九月)とかさなり、反体制的内容を持つとして連載中止の憂き目にあうなど、いろいろな困難に見舞われながらも、鏡花は書き継いで物語を完結。「風流線」は明治三十七年十二月、「続風流線」は同三十八年八月に、いずれも春陽堂から単行出版された。

 芥川龍之介は「風流線」に触れてこう述べている。

「先生の作品は、?殊に先生の長編は大抵或議論を含んでゐる。「風流線」、「通夜物語」、「婦系図」、?篇々皆然りと言つても好い。その又議論は大部分詩的正義に立った倫理観である。(略)僕の信ずる所によれば、この倫理観は先生の作品を全硯友社の現実主義的作品の外に立たせるものである。のみならず又硯友社以後の自然主義的作品の外にも立たせるものである。慈善は必ずしも善ではない。その貴族富豪の徒に自己弁護の機会を与ふるかぎり、だんじて悪といはなければならぬ。貧民はたとひ飢ゑるにしても、結束して慈善を却(しりぞ)ける所に未来の幸福を見出だす筈である。(略)」(「『鏡花全集』に就いて」)

 また評論家田岡嶺雲も「鏡花は独り怪誕の叙事を実有らしく感ぜしむるの手腕あるのみならず、却て又現実なる卑俗なる事実をも、詩的に神秘的に描写するの手腕を有す。」(「鏡花の近業」)と、自然主義作家には絶対不可能な奇跡のような鏡花の文章だと絶賛した。ちなみに後年、三島由紀夫は「『風流線』の通俗的布置を一挙に破砕するギリシア悲劇風な唐突な大団円は、新らしすぎて(!)当時の読者はおろか批評家にも理解されなかった。」(「日本の文学4・尾崎紅葉・泉鏡花」解説)と述べている。たしかに、主張はやゝ難解かもしれないが、警世の意気が熱く伝わってきて、現代にも通じる鏡花の社会観であろう。


  八十三年ぶりに明かされた藤村操自殺の真相


 藤村操の自殺から八十三年が経った昭和六十一年七月。朝日新聞(昭和六一・七・三付)掲載の記事が彼の自殺の真相を報じた。操には片思いの女性がいたといゝ、旅立つ直前の五月二十二日、本郷弥生町に住む馬島千代さんを訪れ「これを読んで下さい」と、手紙と高山樗牛の『滝口入道』を渡したという。手紙には「傍線を引いた箇所をよく読んで下さい」とだけ書かれてあった。主人公の時頼が自分の思う人「横笛」との結婚を、父の左衛門に許しをこう場面で、父は「人若き間は皆過ちはあるものぞ、萌え出る時の美しさに霜枯れの哀れは見えねど…」と諭したくだりである。

 操の書き込みには「そハ色ぞかし、恋にハあらじ 色ハ花よ、無情の嵐に散りもせむ、恋ハ月よ、真如の光に春秋のけじめのあるべしやは」とあったという。つまり、父は色の事をいっているのだ。恋は光であり、永遠なのだと。馬島家は藤村家と同じ北海道出身で、千代さんは操の母から茶道の指導を受けていたという。恋の永遠を千代さんに告げて死を選んだ藤村操への愛惜をあらためてかみしめざるを得ない。それにしても、鏡花の眼力おそるべし。「風流線」の村岡不二太が自殺をはかった真の理由を「恋をさまたげられた絶望の故」とした設定は、一部に風評された「失恋」とも微妙に異なる倫理の介入をほのめかしているだけに。後に千代さんは崎川氏に嫁ぎ昭和五十七年、九十七歳で亡くなった時、その遺品の中から操の手紙と一冊の本が出てきたのだという。四年後、子息の崎川範行氏(東京工大名誉教授)が明かした。遺品は日本近代文学館に寄贈され、同館に保管されているという。


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