『群系』 (文芸誌)ホームページ
32号 間島康子 高村光太郎論
高村光太郎―「好い時代」の光太郎
間島 康子
自分は大正という時代を、明治のやうな大きな時代とは思はないが明治に蒔いて置いたさまざまなものを
取り入れて、明治だけの大きさはないにしても、質的にはなかなか輕蔑できない好い時代と思つてゐる。
佐藤春夫は「わが龍之介像」(精文堂 昭和三四年)の中で右のように述べている。そして、その時代を代表するには芥川龍之介が一番ふさわしいと言っている。
高村光太郎は、明治・大正・昭和と生きた人であり、芥川がおよそ十年ほどの作家生活で自死により大正の世を去ったにしても、二人は同時代人として互いの存在を意識しない訳にはいかなかった。
「おい、君知ってゐるか、君と僕とは高村光太郎に依つてレオナルドとミケランゼロに比べられてゐ る・・・」
(君は佐藤で、僕は芥川である。―筆者注)
あるいは、
・・・高村光太郎がロダンの藝術か何かを云つて、大きな未完成の美といふやうな言葉を使つたのに對して
芥川は座談で大きいにも小さいにも未完成の美などといふものはあるべくも無いと云つてゐた。
佐藤春夫によれば芥川は詩も書いたが、それは「終に詩魂の自らな流露を見る事は出来ない」、と芥川の文学に断を下している。「あれは美しいが詩の押花であらう。あれを立派な詩と思ふのは本當の詩を知らない人に限る」。別の言い方をすれば、「知性で組み立てて~經で書く」のが特質であったということになる。
光太郎は彫刻について次のようにきっぱりと言い切っている。未完成の美もあると考える言葉ではないだろうか。
「彫刻の本性は立体感にあり。しかも彫刻のいのちは詩魂にあり。」
これは彫刻に限らず、詩作、ひいては生き方そのものにも及ぶものであり、詩魂さえあれば、表れ方はさまざまでよいということであると思われる。
ここでは、高村光太郎と芥川龍之介を比較することが主眼ではなく、大正時代という「好い時代」を経て次の時代をも生き続けた光太郎の「好い時代」を見てみたいということが目的である。
明治四十一年國木田独歩の死と、永井荷風の「あめりか物語」の出版との前者は偶?自然主義の終局を暗示するが如く、後者は次の時代を約束するかの如く、文學史上、時代の轉換を記憶すべき重要な年である。便宜上自分が大正期と呼ぶ文學時代も實は明治四十一年からはじまつてゐる。
佐藤春夫による時代を年代ではなく、実質内容で捉えるこの区分は、光太郎にとっての活動の流れにも大体当てはまる。
ニューヨーク、マンハッタン215 West 57 Street に“The Art Students League of New York” という美術学校がある。この学校の、五十七丁目の通りを挟んだはす向かいには、カーネギーホールがある。数ブロック東に行けば、五番街、二ブロック先の五十九丁目には、そこから北に向かって広がるセントラルパークの入り口がある。マンハッタンの中心と言ってもよい位置にあり、繁華な場所である。
高村光太郎は、明治十六年(一八八三年)に生まれているが、明治三十九年(一九〇六年)二十四歳の時に横浜から貨客船に乗って、北米に向かった。バンクーバーに上陸し、そこから大陸横断鉄道でニューヨークに着いた時には、日本を発ってから二十日余りが経っていた。二月も末だった。自費の苦学生であった光太郎は、デザインの夜学に通ったり、美術館、図書館にも足繁く通ったりしている。苦学生とは言え、後ろには大きな父、光雲が付いていたのではあったが、光太郎は「ただ餓鬼のように勉強した。」
私の精神と肉体とは毎日必ず「生まれて初めて」のことを経験し、吸収した。世界中が新鮮だった。
(「父との関係」)
十月には先述のLeagueの夜学に通うようになる。翌年五月には特待生となり、免除された学費を受け取る。その間、彫刻家ガットソン・ボーグラムの通勤助手に雇われたり、画家白瀧幾之助、柳敬助、彫刻家荻原守衛らと知己になったりしている。
Leagueは現在も同じ場所に存続しており、ビルとビルに挟まれた古色を帯びた石の建物を、画材を抱えた画学生達の出入りする姿が見られる。時々学生たちの展覧会が行われ、私も見に行ったことがある。国吉康雄、イサム・ノグチらもここで学んだり、教授したりしている。
私の知人にもそこに通っていた人たちがいる。余談ではあるがその中の一人から聞いた話がある。画学生はいつの時代でも大体が苦学生である。従って、ヌードモデルを使う場合にも、必ずしも若くてきれいなモデルを雇うことができず、かなり齢のいった人生を感じさせるような体を描くというようなことがあるという。また、モデルの方でも事情があり、若くはなくとも若い画家の卵たちの前で仕事をする必要があるのだった。
自ら進んでの留学ではなかったようだが、ニューヨークに一年四ヵ月いて、そこから、ロンドン、パリを経験したことは、光太郎にとって大いなるカルチャーショックであったことは確かである。散文「父との関係」の中でそれぞれの地で感じ取ったことを記している。
アメリカで得たものは、結局日本的倫理観の解放ということであり、ロンドンでは真のアングロサクソンの魂に触れたように思い、いかにも「西洋」であるものを感じたが、それはアメリカでは感じなかった一つの深い文化の特質だと思ったとしている。パリでは、インターナショナル的西洋を感じ、魚が適温の海域に入ったような感じであったという。
留学以前から、光太郎は単なる彫刻家ではなかった。小さい頃から文学が好きで、俳句、短歌、書道にも大いなる関心を向けている。短歌は与謝野鉄幹の新詩社に加わり、『明星』に短歌のみならず、感想、戯曲、翻訳などを載せている。更にロダンを知り、ロダンに傾倒し、帰国後、大正五年(一九一六年)には、訳編『ロダンの言葉』を刊行している。とにかく、光太郎は知識欲、好奇心旺盛で勉強熱心な人であったようで、留学中も美術を中心に様々な文化に接し、心惹かれ、熱中する。パリではヴェルレーヌ、ボードレールに打たれ、ルネッサンスの詩人ロンサールから当時の詩人たちの作品までをも読んでいる。
「自伝」の中で光太郎は、「自分の中には彫刻的分子と同時に文学的分子も相当」あり、どちらをも「おし殺すわけにはゆかない。」と言っている。「自分のような心理状態のものは十五、六世紀ルネッサンス時代にはざらにいた」のだと述べている。つまり、光太郎はルネッサンス時代にいたような男で、何かの範疇にちんまりと大人しく収まっている事は出来ず、自分の興味の向いた物事には深度のある取り組み方をしていった。どのような場面においても徹底せずにはいられない。それは光太郎の持つ生命力の強さにつながっているように思われる。
明治四十二年(一九〇九年)、パリに住み、イタリアを見て、ロンドンから帰国した光太郎は、佐藤春夫が区分した大正期の文学は「明治四十一年からはじまっている」、とするその既に始まっていた大正文学時代に戻ってきたことになる。欧米を呼吸し、パリで「完全に大人になっ」て戻ってきたのである。
考えることをおぼえ、仕事することをおぼえ、当時の世界の最新に属する知識に養われ、酒を知り、女をも知り、解 放された庶民の生活を知った。そしてただもっと安心して、底の底から勉強したかった。
(「父との関係」)
真剣でまともな意志をふくらめて帰ってきた光太郎の前に現れたのは、旧態依然の美術界・父光雲であった。それらとの食い違いに愕然とする。
光太郎は暴れる。
その年の二月には「スバル」が創刊されていた。それは森鴎外を顧問格と擁し、吉井勇、木下杢太郎、北原白秋、長田秀雄らによる反自然主義、芸術至上主義を掲げるものだった。光太郎はそこに短歌、評論、翻訳を次々に発表していった。吉本隆明は当時のスバル派の中の高村光太郎について次のように述べている。
当時、スバル派の一隅にあった石川啄木は、自然主義の衰弱とスバル派、白樺派の興隆をうながした四十
年代はじめの時代的な危機を、幸徳事件の突発とその終末とのうちに、洞察しつくした唯一の詩人ということが
できる。
(中略)
スバル派は、その時、啄木と比肩しうる近代意識をもった二人の詩人、高村光太郎と木下杢太郎を擁している。
近代意識をもった光太郎は「父との関係」の中で、当時の自分についてこう書いている。
常識打破、順俗軽侮のこれら青年の一団(スバル派の青年たちのこと―筆者注)は勢いのおもむくところ、
いわゆるデカダン派と称せられる行動性を持つに至り、その発露はパンの会となって、当時の一部の文芸、
芸術界を震撼させた狂瀾怒濤時代を現出させた。私は帰国すると丁度それにぶつかり、忽ちその渦中に
まきこまれた。それに刺激されて私の晩稲の青春が爆発した。一方勉強もよくしたが、さかんに飲み遊び、
実に手のつけられない若者となり、パリの社会になれた生活を目安にして、あらゆる方面の旧体制に楯つ
いた。自分ではこの世のうそっぱちを払いのけて、真実をひたすらもとめていたつもりでいたのである。
正直な感想であろう。
彫刻家たる光太郎は、帰朝後、美術面で自活の道をあれこれ模索していたが、なかなか思うようにはならなかった。先の光太郎の述懐のように、「手のつけられない若者」は、女性との放埓な逸話(いわゆるモナ・リザなる、吉原の妓若太夫、真野しまとの恋愛事件)や、黒枠事件(長田秀雄・柳敬助の入営祝いの旗に黒枠を書き萬朝報に非難される)などを残す。この辺りから、短歌では表現できぬものを詩によって盛んに表しはじめる。
明治四十四年(一九一一年)一月、「スバル」に「失はれたるモナ・リザ」、「根付の国」など五篇を発表している。
根付の国
頬骨が出て、唇が厚くて、目が三角で、名人三五郎
の彫つた根付の様な顔をして
魂をぬかれた様にぽかんとして
自分を知らない、こせこせした
命のやすい
見栄坊な
小さく固まつて収まり返つた
猿の様な、狐の様な、ももんがあの様な、だぼはぜ
の様な、麦魚の様な、鬼瓦の様な、茶碗のかけらの様な日本人
この詩は、明らかに日本の外を見てきた人のものである。現在ですら外を経験した者の目には、彼我の違いが色々な形で映るものである。百年前の日本が、日本人が心ある、志ある青年にとってこのように見えたことは確かなことであったろう。草野心平は、「如何にも『僕流』のスタイルである。・・・感情と思想とを混淆さした新しい智慧の詩の系譜が『根付の国』あたりから発足したのである」(「高村光太郎の詩業」)と述べている。
私は草野心平が「『僕流』のスタイル」というとき、彫刻家としての光太郎を思う。短詩ということもあって、「根付の国」と名付けた言葉の彫刻のように読める。余分なものを削ぎ、装飾を剥ぎ日本を簡明な言葉で造形した。それはやりきれない程にかなしく、痛々しいまでに彫った日本批評の像である。しかし、その否定の形の裏側に、自分をもその中に含めて彫ったのだと思える。光太郎の「触角の世界」という芸術論の中に、次のような文章が見られる。
彫刻家は物を掴みたがる。掴んだ感じで万象を見たがる。彼の眼には万象がいわゆる「絵のよう」には映って
来ない。彼は月を撫でてみる。焚火にあたるように太陽にあたる。樹木は確かに一本ずつ立っている。地面は
確かにがっしりそこにある。風景は何処をみても微妙に組み立てられている。人体のように骨組みがある。筋肉
がある。肌がある。そうして、均衡があり、機構がある。重さがあり、軽さがある。突きとめたものがある。
「根付の国」に書かれたものは、光太郎が帰朝後、見、「突きとめた」日本、日本人だったのである。
最近、光太郎の彫刻展を観ることがあったが、その堅固で質感のある造形物の中から迫って出てくるものは、真に光太郎の精神のように感じられた。彫刻と詩と、決して乖離したものではなかった。
「パンの会は江戸情調的異国情調的憧憬の産物であった。」と「パンの会の回想」で木下杢太郎は述べているが、もう一人、北原白秋も同様な事を云っている。光太郎も彼らとともに暴れていたのだけれど、その作品は彼らのものとは違っている。伊藤信吉はその違いを『道程について』の中で次のように述べている。
これらの詩人たち(木下杢太郎と北原白秋―筆者注)の異国頽唐趣味は、強烈な自我意識によって時代
と環境とを否定する態度ではないし、それの抑圧や敗亡によって生じる内的葛藤でもない。そういう意味での生
の意識の惑乱でもない。両者の間には「放埓」と「自己解放」という契合点があったけれども、その実現において
一方は趣味性としてのデカダンであり、他方は生の意識の衝迫からくるデカダンだったのである。
「結局父の脛を齧りながら暴れていた」(「父との関係」)、と当時を振り返る光太郎であるが、そのデカダンは決して無秩序なものではなかった。大正三年(一九一四年)に出版された『道程』に見られる生の意識(北原白秋に見られる詩的意識ではなく)はそのことを物語っている。そしてその意識はずっと変わらぬものであった。
大正三年(一九一四年)、最初の詩集『道程』が抒情詩社から自費出版された年、長沼智恵子との結婚披露が行われ、二人は共棲生活に入った。有名な『智恵子抄』の智恵子はどのような女性であったのか。
光太郎と智恵子は明治四十四年(一九一一年)十二月に初めて出会った。ニューヨーク留学中に光太郎は柳敬助や萩原守衛らと知己になっているが、柳敬助夫人が智恵子と日本女子大学校の同窓であった。
高村智恵子さんのことでは、どうも私が仲人をしたと云われるので困ってしまうのです。敬介は最初から高村
さんに智恵子さんを紹介しろと言っていました。これは会うべき人として生れてきた位に思っていたようです。とこ
ろが高村さんはその頃遊びがひどくて、女子大のお友達などのなかには”あんな吉原なんかに行く人に智恵子
さんを紹介するなんてとんでもない”という人もいましてね…。そのうち高村さんから小橋三四子さんを通して智
恵子さんを紹介してほしいって言ってこられましたので、私もそれではやはり敬介の言っていたように、これは会
うべき人であったんだな、と思ってご紹介したわけです。(中略)いろいろありましたけれど、高村さんがあれほど
深く智恵子さんを大切にして最後まで変らなかったということは、ほんとうに智恵子さんも幸せでした。
(『創立当時の思い出』柳八重子談日本女子大学図書館友の会発行 一九八〇年)
最近、光太郎の彫刻を見たと先に書いたが、その時智恵子の紙絵も見た。同じ作者の二百枚近い絵が一堂に会する時、そこにはその作者の実体のようなものが醸し出され、特別の雰囲気を作る。それは一人の詩人の詩が集められて詩集になって見えてくるものがあるように、この一室は智恵子の持ち味を十二分に伝えていた。
室生犀星が、「高村光太郎―わが愛する詩人の伝記」の中で、高村家を訪れたときの智恵子の応対について、「女」という主語を使い、その高飛車な様子を綴っているが、それも智恵子ではあったのだろう。それを読むとき、「作り物」の智恵子を感じる。犀星の作り物というのではなく、智恵子が智恵子自身で作った「作り物の自分」であるように読める。
高村光太郎といふ類のない不思議な人間によって、みがき上げられた生きた彫刻を見たのは、ただの、この
三度の面会だけであった。
実際に見た人による観察であるから、「作り物」は光太郎の鋳型に自ら嵌まった智恵子であるというより、光太郎と智恵子の共同の「作り物」であったというのが、本当のところであったかもしれない。
紙絵から感じ取られるものは、決して取りつく島がないような、気取った冷淡なものではない。私が作品から受けた印象は、犀星とはむしろ逆のもの、やさしげで包まれていると泣きたいような気になってくるものだった。画家を志し、セザンヌばりの絵を描いていたが、思うような芸術の高みには達し得なかった智恵子であったが、狂気の下に本然としての才、感覚というものがしっかりあったのであろう。
見渡したところ智恵子の作は造形的に立派であり、芸術的に健康であった。知性のこまかい思慮がよくゆ
きわたり、感覚の真新らしい初発性のよろこびが溢れてゐた。そして心のかくれた襞からしのび出る抒情のあ
たたかさと微笑と、造形のきびしい構成上の必然の裁断とが一音に流れて融和してゐた。
光太郎の「智恵子の紙絵」のなかの言葉である。
智恵子(長沼チヱ)は明治一九年(一八八六年)に生まれている。生家は福島県二本松に近い、旧奥州街道に面した大きな造り酒屋だった。
智恵子は新興の酒造家の、分限者としてのいくらかの気負いと、それにまつわる羨望の取り沙汰と、なにが
しかの翳りを持つ入り組んだ家系の血と、そんな精神の風土のなかで、何不自由ない少女時代を送りました。
(北川太一編『アルバム 高村智恵子―その愛と美の軌跡』)
智恵子は、静かだが勝気で頭のよい、闊達さもある少女だった。福島町立高等女学校から日本女子大学校家政学部に進んだ。ここで智恵子は本領発揮したと言おうか、内なる声に目覚めたと言おうか、智恵子となって弾ける。家政学部に籍を置きながら、洋画の教室にせっせと通うようになる。
学生時代の智恵子さんですか?ええ、あの頃は”天才”ということばがはやりましてね、長沼さんは変った方
で天才的な人だなんて言われていました。絵が上手で、私も家庭週報のカットなんかよくお願いしましたし、
長沼さんも気持ちよく描いてくれました。 (「高村智恵子さんのこと」 前出 柳八重談)
家政学部からはみ出た「天才」は、文藝会(今で言う学園祭、文化祭のようなものと思われるが、明治三十九年の秋季文藝会には山階宮妃常子殿下をはじめとする九人の宮家からの出席者が御用掛や附人らを伴って来賓として出席するなど、物々しく、華々しいものであったようである。)で背景を描く仕事を受け持ったが、十一月の冷え冷えとしたコンクリートの地下室で一人、襷掛けで長い袖をくくりあげて、小走りに素足で背景を描いていた。学校関係の雑誌の表紙や口絵の装飾画を描いたりもしていた。卒業後も国には帰らず、女流画家として太平洋画会の画塾に通っている。
明治四十四年、平塚らいてうが『青鞜』を発刊したが、その時の表紙絵を描いたのが智恵子だった。二人は日本女子大学校の同窓であった。当然青鞜派との浅からぬ交わりもあったが、当時の智恵子は「最も新しい女画家」として、注目を浴びていた。利発で活発な面も持ち合わせていた智恵子であったが、平塚らいてうの多分学生時代のことと思われるが、こんな一文がある。
とにかくこのひとの打ち込む球は、まったく見かけによらない、はげしい、強い球で、ネットすれすれにとんでくるの
で悩まされました。あんな内気なひと―まるで骨なし人形のようなおとなしい、しずかなひとの、どこからあれほど
の力がでるものか、それがわたくしには不思議なのでした。
(昭和三四・四「智恵子さんの印象」)
道程
僕の前に道はない
僕の後ろに道はできる
ああ、自然よ
父よ
僕を一人立ちにさせた広大な父よ
僕から目を離さないで守ることをせよ
常に父の気迫を僕に充たせよ
この遠い道程のため
この遠い道程のため
この詩が発表されたのは、大正三年(一九一四年)、『美の廃墟』の三月号においてだった。原文は一〇五行ある。それを読めば「道程」の内容は、より分かり易いだろう。「実に手のつけられない若者だった」自分を通り抜けたところに生まれた詩だった。
原文のなかに、「あのやくざに見えた道の中から/生命(いのち)の意味をはっきり見せてくれたのは自然だ/僕を引き廻しては目をはぢき/もう此処と思ふところで/さめよ、さめよと叫んだのは自然だ/(中略)そして其の氣魄宇宙に充ちみちた/驚いてゐる僕の魂は/いきなり「歩け」といふ声につらぬかれた」とあり、光太郎にとっての自然の意味、終生を貫いたその理念に目覚めさせた瞬間が表わされている。
けれども、一〇五行の詩からは、この「道程」から受ける緊張感、確固たる自己の屹立、孤独を覚悟した潔さのようなものを然程感じることは出来ない。この詩にいわゆる詩的なフレーズはない。倫理的、宗教的、或るカリスマ的強さが、人の心に刺さってくる。
光太郎の変わらない生の意識の原点が、ここに見られる。その意識は単に詩や彫刻などの芸術に限られたものではなかった。
その意識を確固たるものにしたのは智恵子との出会いだった。光太郎も困った若者であったが、智恵子の方にも「青鞜」の一員として、新しい女の一人として悪意に満ちた世評があった。しかし、本人に会った光太郎は、智恵子の自然に打たれたのだった。
…ぱっと人生の窓が開いた。私は急に変わった。今までなんであんなに汚く遊んでいたのだろうと感じ出し、
昨日までのやけ酒や、遊びがまるで色あせてしまい、ただこの女性の清新な息吹に触れることだけが喜となっ
た。(中略)私の精神も肉体も洗われるように清められ、これまで気もつかなかった力が心の底から芽生えて
来た。この女性が私を信ずる力の強さで私は初めて自分で自分の本性を見ることが出来た。
(「父との関係」)
このような強い気持ちで始められた二人の生活であったが、智恵子は病弱であった。結婚四年後に智恵子の父親が没し、その翌年には智恵子は湿性肋膜炎で二度入院している。大正十一年の春からは健康がすぐれず郷里に帰っている。駒込のアトリエでの生活は、窮乏生活であって、「両親にも分からず、友人にも知られない貧との戦を押し通して、ただめちゃくちゃに二人で勉強した。」のであった。
大正五年五月五日の『婦人週報』の「女なる事を感謝する点」というアンケートに智恵子はこう答えている。
私に恋愛生活(現在の)が始まってから、始めてさういふ感じを意識しました これは一つの覚醒です。其の他
にはまだ私には経験がありません。「女である故に」といふことは、私の魂には係りがありません。女なることを思ふ
よりは、生活の原動はもつと根源にあつて、女といふことを私は常に忘れてゐます。
光太郎は女である智恵子を愛したのだろうか。精神分裂症を発症して逝った智恵子のその因子は何であったのか、確かではない。しかし、それが現れる以前の智恵子に光太郎は異常を視ていた。
思ひつめれば他の一切を放棄して悔まず、所謂矢も楯もたまらぬ気性を持つてゐたし、私への愛と信頼の強さ
深さは殆ど嬰児のそれのやうであつたといつていい。私が彼女に初めて打たれたのも此の異常な性格の美しさで
あつた。言ふことができれば彼女はすべて異常なのであつた。 (「智恵子の半生」)
光太郎は「異常」を愛したのだった。智恵子に明らかな異状が現れたのは昭和六年だった。それまでの智恵子は「異常ではあつたが、異状ではなかったのである。」「彼女の半生の中で一番健康を楽しんだのは大正十四年頃の一二年間のことであった。」とある。
その後、『智恵子抄』が著され、戦争協力詩の発表、花巻市の粗末な山小屋での独居生活、詩集『典型』の出版と光太郎は昭和を生きていく。
動かしがたいものを根源に探る触角が、一番はじめに働き出す。それの怪しいもの、もしくは無いものは?むとつ
ぶれる。いかに弱々しい、または粗末らしい形をしたものでもこの根源のあるものはつぶれない。詩でいえば、例え
ばヴェルレエヌの嗟嘆はつぶれない。ホイットマンの非詩と称せられる詩もつぶれない。そんなもののあってもなくて
もいい時代が来てもつぶれない。通用しなくても生きている。性格や気質や道徳や思想や才能のあたりに根を
置いている作品はあぶない。どうにもこうにもならない根源に立つもの、それだけが手応えを持つ。この手応えは
精神を一新させる。それから千差万別の道が来る。 (「触角の世界」)
「好い時代」である大正時代の光太郎の時代は、個人的にも「好い時代」であったように思われる。それは、「異常」を愛し、愛され、やがてそのために外には現れることのない悲惨を自ら引き受けなければならなかったとしても、一つの完璧な「自然」の思想、そして美を築くための伴侶、共犯者に出合ったのであるから。
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