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野寄 勉 荷風と歌舞伎座 明治篇 <明治の文学>
荷風と歌舞伎座 明治篇
野寄 勉
(「群系」31号収載)
四月二日、五代目となる歌舞伎座の開場を時宜と刊行された関連本・雑誌※1は、いずれも明治二二年一一月に開場した初代の建物に触れている。采女ヶ原と呼ばれていた二千坪の大名屋敷の跡地を政府から払い下げてもらった相座主である福地源一郎 櫻痴居士(天保12〜明39))と千葉勝五郎の、開場までのいきさつも興趣に富むが、帝国劇場に対抗して純和風に改築した二代目が開設されるまでの二二年間木挽町にそびえる千八百人が入る三階建ての洋風大建造物に、荷風 永井壮吉(明12〜昭34)が、明治三三年から翌年にかけて座付作者見習いとして十か月を過ごしていたことは、歌舞伎座の歴史に興を添えるものである。
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荷風の母・恒(文久元〜昭12)は、漢学者の娘でありながら、息子に、芝居や小説に親しむ下地を幼い頃から培っていた。母に連れられ乳母に抱かれ久松座、新富座、千歳座などの桟敷で芝居に親しみ、息子が尺八を習えば母は琴を合わせた。それが父・久一郎(嘉永5〜大2)からの漢詩文とは異なる、母子文化であった。思春期に至ってもその影響は霧散することなく、病気による長期の休学が、遊芸への関心を一層高め、果ては吉原放蕩へと拍車をかけた。人情の機微を知ろうと落語家に弟子入りした時より、学業放擲後、劇作家を目指す意欲は高かった。
徴兵検査に不合格になった明治三三年 春、木曜会を通じて懇意になった生田葵山(明9〜昭20)の紹介状を持って、虎の門にあった三宅青軒(元治元〜大3)邸を訪れ知遇を得、『文藝倶楽部』という発表の場を与えられた。『文藝倶楽部』は明治二八年、大橋乙羽(明2〜明34)によって創刊され、乙羽逝去後は青軒が主筆として采配を揮っていた当時最も勢力のある文芸雑誌であった。かつて一葉の「たけくらべ」(明29・4)※2、柳浪の「今戸心中」(明29・7)という敬愛する作家の作品が掲載された誌面に、自作が活字になる喜び※3は、いかほどのものであったろうか。さっそく「おさめ髪」を、六月号に寄せている。
青軒はさらに歌舞伎座の立作者であった福地櫻痴を紹介してくれ、櫻痴の直弟子・破笠榎本虎彦を請負人として歌舞伎座立作者見習いになった。この時代、座付作者でなければ上演脚本は書けないしきたりがあった。劇場運営に関して浪費傾向があった櫻痴は、借金の整理を条件に座主の地位を剥奪され、一介の狂言作家になっていた。とはいえ、河竹黙阿弥(文化13〜明26)歿後の竹柴系の勢力を押さえた〈あの時分の桜痴居士は、伊藤博文と同じくらい〉えらく、〈幕府でも御目見以上の身分の人ですから、いばることは板についていますよ〉とは、相磯凌霜の聞取り「荷風思出草」(昭30・7 毎日新聞社)。成功作に「春日局」「鏡獅子」がある「池之端の御前」のお声がかりとあれば、この青年は別格の客分扱いすればよいと他の四人の作者は判断、それに気づいた壮吉は破笠に、旦那芸のつもりはない、どうか楽屋古来の慣例に従い遠慮なく使役してもらいたいと懇願する。破笠は櫻痴に相談、黙阿弥の直弟子で櫻痴に次ぐ作者部屋の実力者であった早川七造の預弟子となって、芝居にはなくてはならない拍子木の入れ方――東京では昔から木を打つのは作者部屋で勤めた――を含め、楽屋万事の教えを受けることになる。狂言堂・二世桜田左交による拍子木の打ち方の虎の巻ともいうべき『拍子記』の写本を貸してくれたのも七造である。
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無給の作者見習いとしての出勤は、七月一一日初日の中堅クラスによる盆興行の稽古から。朝早くから麹町一番町の自宅から徒歩で木挽町へ通った。幕ごとに二丁を入れマハリとシヤギリの留を打ち、幕明幕切の時間を日記に書き入れ、不意の連絡の際には各部屋に触れ歩き、作者部屋への来訪者に茶を出し草履を揃え、立作者の羽織をたたみ食事の給仕をなし、始終付き添った。閉幕後は日比谷公園で、毎日一人拍子木の打ち方の練習をした。
一二日初日の十月興行は、櫻痴補作による『信長記愛宕連歌』、中幕に『鬼一法眼三略巻 』、第二番目に『小夜時雨天網嶋』。五代目尾上菊五郎(天保15〜明36)の信長・虎蔵・治兵衛、九代目市川団十郎(天保9〜明36)が光秀・鬼一を演じた。この時の番附から〈永井壮吉〉の名が狂言作者の連名に加えられた。
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壮吉は歌舞伎座作者部屋に入るに当たり、〈貴座楽屋へ出入被差許候上者劇道の秘事楽屋の一切の密事決而口外致間敷候依而後日の為一札如件〉と証文を提出していた。にもかかわらず、「拍子木物語」(明33・12『文藝倶楽部』)で『拍子記』の存在を明かし、木を打つ作法とそれにまつわる逸話を披瀝した。昔の若者にはちょっと意気な風俗をして舞台で拍子木を打ちたいがために親の勘当を受けた者も少なくなく、夜になると人通りの少ない向島や聖天山で打ち方の練習をしたものだが、この頃ではそんな馬鹿な真似をするものは無いようだとの謂いに、〈一体に古式と云ふものがすたれて先ずどうでも可い主義になつて了つたから、従つて木の入れ方なども兎や角う云ふものが少くなつたが、昔は中々六ケ敷いものだつた。〉が続くところから、自身の日比谷通いが昔人の粋を受け継いでいることへの自負がうかがえる。
明くる明治三四年、一三日初日の正月興行では、重体説まで流れた菊五郎が回復したので音羽屋一門を以て、一番目が櫻痴補作の『増補 玉藻前』、二番目 黙阿弥の『鼠小紋春着雛形』。この「鼠小僧」は題材が題材だけに検閲がやかましく、筋が変えられ台詞が削られての上演だったが、菊五郎の意欲とは裏腹に『玉藻前』ともども不評、そんな世評を背景に、荷風は「歌舞伎座の春狂言」を『今文』(明34・2)誌上で手厳しい批判を加える。すなわち、歌舞伎座は演劇改良の要求を満たそうと、建築からして旧来の劇場と大きく異なる日本第一の劇場なれど、その舞台で演じられる劇には満足できぬと、『玉藻前』幕ごとの問題点を摘出したうえで、劇の本分たる台詞に耳を傾けるものがないのに、活歴の名のもと服装などという劇の枝葉へのこだわりを批判。そも前後統一のない悪作である院本自体を一向改善せざるは、〈この座の作者の意、余の甚だ了解に苦しむ所とす。〉と、櫻痴を真っ向から指弾した。返す刀で、黙阿弥に、ありきたりの脚色と台詞に野卑極まるものがあるのは残念と、今後好世話物の出現を期待する。前年一月、三木竹二編集による演劇雑誌『歌舞伎』が創刊され、劇評が模索されていた時期であったにせよ、入門して半年の二二歳の見習いが、勤め先の上演脚本を批判したわけだ。掲載誌『今文』の会則が自称する特色の一つに〈大家の論説評釈歌文等を掲載すると共に会員又は一般読者の論説評論歌文其他何種を問はず随意の投書を歓迎して厳密に精選編集し趣味と実益との無尽蔵なる事〉とあるから、会費を払い且つ一定水準に達している作品であれば活字にしていたらしい。読者が限定されていたとすれば、歌舞伎座関係者には知られにくいと考えたのかも知れない。
役者に対しては、座頭である菊五郎を〈塀外の辻番で爺に呼止められ、花道際に直立して屹と向ふを睨みての思入、及びコレと押へて四辺を見廻す身体の形、大向ふの見物と共に只感服の外無しとす。〉これは、十年後の小説『冷笑』(明42〜43「東京朝日新聞」)の中で、〈…二番目は鼠小僧だ。音羽屋がまだ目に残って居るやうぢや、とても今の若手のやつは見られまいよ。わすれられないね、僕が丁度見習に這入つて初めて木を打出した時分だつけ、辻番の親爺を突転ばして其の儘駕籠に乗ッて花道へ出る。其の付際でひよいと駕籠の簾を上て、『とつさん』と向ふを見ながらぴつたり掌を合して拝むのが、合図の幕切になるんだが、僕にやとても気合が呑み込めないんで、引返しのツナギのばかり打つて居た。〉と、中谷丁蔵の語りにそのまま活かすことになる。
「楽屋十二時」(明34・4『新小説』)では、朝八時から夜八時まで一時間刻みで、歌舞伎座内の様々な部署の内情が活写される。当人が読めば、さながら絵に描かれた自分の姿を見るような面映ゆさを感じたことであろう。
〈自分は今少しく其の内幕の事を書いて見やうと思ふ。〉とは「芝居の囃子」(明34・6『新小説』)の書き出し部。最初こそ囃子方すなわち唄歌い、三味線弾き、鳴物師の役割分担、系統、階級などの詳述だが、附帳の写しを披瀝するにとどまらず、鳴物の誂えが喧しい役者を実名で挙げ、欲の深い芸人は名前だけ出し金を取り、弟子に代理をさせる怪しからん者が多いとか、立三味線や立唄になっている者は、給金も多いうえ、弟子の給金の上前をはねるから奢った生活ができる、などの内幕暴露は、若さゆえの浅慮にせよ、入門時の証文など忘れたかのような筆勢である。にもかかわらず、ただちに馘首されることはなかった。指弾された側にも、この若者の指摘に思うところがあったのかも知れぬ。あるいは、このあとほどなくして櫻痴一党が歌舞伎座を去ることを考慮すれば、少なくとも櫻痴周辺には、この若造の歌舞伎座批判を寛恕する空気が瀰漫していたのかも知れぬ。一連の荷風評伝で委曲を尽くした秋庭太郎(明40〜昭60)は、反骨精神が表面化した最初とし、翌三五年の「地獄の花」「新任知事」を根拠に、暴露的傾向は、荷風なりの正義感から発せられたものとする。
三月興行は二○日初日の団菊合同芝居。一番目に『俗説美談黄門記』。中幕に『大徳寺焼香』。団十郎は途中発熱、衰弱著しく、菊五郎も尿中に常に蛋白が出て安心できる健康状態ではなかったが、この興行は当たった。五月も団菊顔合わせで一六日が初日。福助の五代目中村芝翫の襲名披露があった。一番目は黙阿弥作の『世響太鼓功』中幕『山門五三洞』二番目『箱書附魚屋茶碗』大切『六歌仙』が上演された。体調捗々しくないとはいえ団菊晩年の至芸を身近に見続けた僥倖は、斯界を語るに際し強みとなった。
この時期、荷風は六篇の小説を『文藝倶楽部』などに発表している。硯友社張りの習作ではあるが、横溢する執筆意欲は、地味な見習い修業を倦ませるものがあったのかも知れない。『歌舞伎座百年史』(平5・7 歌舞伎座)には〈到底拍子木叩きの辛抱は出来ないといって、歌舞伎座を辞めてしまった。〉とある。
明治三四年四月、日出國新聞は櫻痴を主筆に迎える。歌舞伎座を退いたのは、活歴嫌いになった団十郎が櫻痴とあわなくなったからとも。高弟・榎本虎彦や荷風も櫻痴を追い、歌舞伎座を去って日出國新聞に入社した。ゆえに、歌舞伎座七月興行の番附に〈永井壮吉〉の名はない。月給十二円で同紙の三面雑報の記者となった壮吉の同僚には岡本綺堂(明5〜昭14)や条野採菊(天保3〜明35 鏑木清方の父)がいた。櫻痴が、自分に対する批判を活字化した荷風を新しい仕事口へと連れ出したことは、相応の評価をしていた証左といえるかも知れない。雑報記事のほか、四月一九日から五月にかけての三三回、明治三十年初頭の淨閑寺いわゆる投げ込み寺を背景にした春水ばりの北廓小説「新梅ごよみ」を連載(中絶未完)したが、その『日出國新聞』は経営難を理由に、九月突然櫻痴や虎彦とともに、わずか五か月で解雇した。荷風が望んだ歌舞伎座 作者部屋への復帰※4は叶わなかった。作者部屋に残った黙阿弥派の面々は、荷風を櫻痴派と見なしただけでなく、在籍中に上演作を批判し、内幕話を雑誌に発表した作者見習い風情の、分をわきまえない所業を忘れていなかったのである。
※1 渡辺保『私の「歌舞伎座」ものがたり』(平22・2朝日新書)、渡辺保『明治演劇史』(平24・11 講談社)、中川右介『歌舞伎座誕生』(平25・3)、『東京人』(平25・5)、『和楽』(平25・6)など。
※2 『文学界』(明28・1〜29・1)掲載を『文藝倶楽部』(明29・4)が補正再録した。
※3 明治三二年一○月、柳浪名義で「薄衣」が掲載されたことはある。
※4 榎本虎彦は櫻痴歿後に、再び歌舞伎座付作者に復帰、立作者になっている。大正一五年一一月に五一歳で歿するまで活躍し、代表作「名工 柿右衛門」を残した。