『群系』 (文芸誌)ホームページ
名和哲夫 田山花袋 <明治の文学>
田山花袋について今考える
名 和 哲 夫
(「群系」31号収載)
大学時代、近代文学の演習の課題で田山花袋の「蒲団」が取り上げられたことがあり、結構内向的であった自分は主人公にそれなりに感情移入できたが、クラスメートの女子学生たちの中には気持ち悪いという声もあったと思う。ただ、今どきの女子学生はある意味こういうモノも理解できるのではないか。現在は多様なものを受け入れる時代なのである。ネットでみると、女子学生の写真と組み合わせた「少女病」の写真集や、YouTubeでアイドルが「少女病」を朗読していたりする。(「少女病」の方が短く読み易い。個人的には「少女病」や彼の旅行記の方が好きである。)
さて、文学史的に見て田山花袋は今なお現在重要な位置を占めている。島崎藤村などと自然主義文学を唱えて実践し、その代表作「蒲団」は私小説の先駆けとされている。(これについては私小説ではないとの説もあり、平野謙によれば、私小説の始まりは近松秋江の「疑惑」だとされる。近松の作品の方がよりストーカー的である。また「蒲団」と「疑惑」の違いは事実に近いかである。)
田山花袋の、特に「蒲団」への評価はまず評価者の性別によって異なるような気がする。
例えば尾形明子はこう書く。
「ひさしぶりに「蒲団」を読み返してみる。かつて読んだとき以上に失笑してため息をつく。なんという作品なのかと思う。これ以上あり得ないほどにいい気でセンチメンタルな男の妄想の物語である。」
「ストーリーそのものは別に私が「失笑して、ため息をつく」ようなものでもない。私の反応は、主人公竹中時雄がもらすあまりに生な呟きに対してである。現在なセクハラとして退けられるしかない文章が、臆面もなく延々と綴られる。」(「私小説の嚆矢―田山花袋の「蒲団」」
ある意味ボロクソである。
対して小谷野敦は「感傷的な作家の賭け」の中で、
「これは、「罪」の告白ではなく、「恥」の告白だったのだ。だからこそこの作品は、話題になったのである。すべては、田山花袋の、巧みな計算の上に成り立っていたのである。」
「それでは虚しい。恋愛がしたい」と思う感傷家がいる時、「文学」が生まれるのである。」
とかなり肯定的というか好意的な批評だ。
自分が、改めて「蒲団」を読み直してみて思う事は、私小説らしいところ、らしくないところを併せ持つ作品だということだ。
どういうことかというと、まずこれは主人公が過去を回想している形式となっている。そして、過去の出来事について感想を交えながら語っていく。私小説らしくないというのは、客観的であること。それは主人公が一人称ではなく「竹中時雄」という三人称であり、登場人物自身の過去への回想であって視線が第三者的で客観的であるということだ。そのくせそれが維持できなくなって時々登場する嘆きが主人公のものか作者自身の嘆きなのか区別がつかなくなる。その嘆きは「情けなく」、大袈裟であり、わざとらしさを感じてしまう。
「あれだけの愛情を自分に注いだのは単に愛情として飲みで、恋ではなかったろうか」
「「とにかく時機は過ぎ去った。彼女は既に他人の所有だ!」
歩きながら彼はかう絶叫して頭髪を毟った。」
さらには知識のひけらかしのような部分が見られる事で、例えば「ふとどういう連想か、ハウプトマンの『寂しき人々』を思い出した。」」「机の上にはモウパッサンの『死よりも強し』が開かれてあった」「運命―人生曾て芳子に教えたツルゲネーフの『プニンとバプリン』が時雄の胸に上った。」つまりは、作者がこういう西洋の文学の知識を持つインテリであることを挿入しているのである。
私小説らしいというのは、物語小説であれば話の展開としてもう少し段取りよく進んで行くと思うが、物語的にはどうでもよいような話が多く冗長である。私小説の特徴である「意図なき逸脱」があるのではないか。つまり事実にある程度沿って書いて行く関係上、事実らしく見せかけるために省略してもよい部分をあえて書き込んでいるのではないか。
つまり、現在の研究者の多くが述べているように、これは、事実をもとにそれを脚色して書いた小説であるということだ。ほぼ事実に沿ったストーリー展開であり、脚色の部分は彼の「嘆き」=(恥の告白)なのではないか。実は女弟子に対して恋愛めいたものを花袋が持っていた訳ではなく(かもしれないが)、ただの子弟の関係であったのだが、それを(恥の告白)で脚色したということである。
この小説の衝撃的なのは、特に最後の場面であり、男とともに去った若い女弟子の蒲団とか夜着を抱きしめて匂いを嗅ぐ場面である。
「性欲と悲哀と絶望が忽ち時雄の胸を襲った」
ポイントは「性欲」と直接に書いたことである。
要するに、小谷野が言うように「恥」を告白する事が斬新であり、それが当時の文壇に与えた影響として大きかったのだ。実は個人的にはこの作品は嫌いではない。男性の本質的な部分を描いているのではないかと思う。