『群系』 (文芸誌)ホームページ
32号 特集《流行歌・愛唱歌》 土倉ヒロ子 取井一 永野悟 野口存彌
あの日、あの時、歌があった
土倉ヒロ子
忘れられない村祭り
歌謡曲の一番古い記憶は何だったろう。それは、母の郷に疎開していた頃だったか。母は敗戦の一年ほど前に千葉県の片田舎にあった故郷の縁を頼って疎開をした。その時、四歳だった私と二歳の妹を連れて。空襲に脅えていた東京での生活からは想像できないくらいの静かな田舎生活であった。母も幼馴染との再会で元気をとりもどしているようだった。
三月十日の東京大空襲の日。親戚の家の庭から見た赤い空は忘れられない。家の者たちは全員起きて見入っていた。
「東京は全部燃えてしまうべか・・・」
「そんなこともあんめえよ」
「かあさん、わたしたちのお家は大丈夫なの」
「大丈夫よ。お爺ちゃんが守ってくれてるから」
この時、江戸川区にあった家は祖父と叔母が守っていた。勉強好きの叔母は女学校を休みたくないといって、家に残っていたのだった。
このような戦争末期の家族の暮らしに、股旅物の歌謡曲が重なって思いだされる。
男ごころに 男が惚れて 影がとけあう赤城山〜
「よお!!秀ちゃん。日本一」
村の鎮守の森での秋祭りであろうか。敗戦を迎えた昭和二十年の秋に、もうお祭り?
正確な年はわからないが、村中総出の何年ぶりかのお祭りだったのだろう。年寄りも復員してきたお父さんたちも、おかみさんたちも子供も、舞台を見上げて拍手をおくり笑いこけていた。
影か柳か 勘太郎さんか 伊那は七谷 糸ひく煙〜
親戚の義さんが別人のような粋な旅人姿で登場する。道中合羽に三度笠。観客も一緒に歌いながらの声援であった。
この『勘太郎月夜唄』は昭和十八年の東宝映画の主題歌である。(佐伯孝夫作詞 清水保雄作曲)。戦時中、よく、やくざ物映画が作れたと思うが、どうも、物語を幕末の「天狗党」にからめて検閲を突破したらしい。この主題歌は小畑実・藤原亮子デュエットで大ヒット。今でも地方の文化祭などで踊られるから昭和歌謡の名曲に入るだろう。
わが夫は昭和十年生まれだが、いたく、この歌がお気に入り。愛犬にも、この名前をつけて喜んでいる。「勘太郎くんはハンサムだね」などとご近所さんに褒められて大満足の日々である。
私も家人も普段はヤクザに批判的だし、私は彼らに生理的嫌悪さえ覚えることもあるくらいだ。それなのに、ヤクザを美化した、歌謡曲に惹かれるのは何故なのだろう。
それは、「祭り」という、非日常への扉が股旅演歌によって開かれるからだろうか。鎮守の森に響く祭り囃子。秋の収穫を無事に終えての村人たちの解放された笑い。これらは、疎開児童の私にもわくわくするような喜びをつれてきたものだ。この体験が東京へ帰ってからも忘れられない思い出となっていった。祖父は、この故郷から青雲の志を持って都会に出てきた人だったが、折にふれ故郷の良さは私たち孫に話してきたと思う。おまけに、時代劇映画フアンだった祖父に連れられて、どれほどチャンバラ映画を観たことか。
道中合羽に三度笠の江戸時代のヤクザのスタイルもカッコ良く、小学四年までの、私を魅了していた。これが、五年生になる頃から、がらりとかわる。もの思う年頃に突入したからか?
股旅物のベスト3を上げてみよう。先ず一番は前述の『名月赤城山』この歌は東海林太郎の名唱に負うものかもしれない。モーニングスタイルで直立不動の舞台は歌謡史の中で語り続がれることだろう。忠治ものの歌ではもう一つ『赤城の子守歌』がある。
泣くなよしよし 寝んねしな 山の烏が泣いたとて〜
この歌も、新国劇や映画の名場面と共に、年配者には忘れられない一曲であろう。
二番目は清水の次郎長。
清水港の名物は お茶の香りと 男伊達・〜
東海一の侠客と謳われた清水の次郎長は実在したが、浪曲や映画でさまざまに物語られ庶民の憧れるヒーローとして虚構化されていった。村上元三が『オール読物』に連載した『次郎長三国志』(昭二十七年・六月―二十九年)もこうした次郎長像から、大胆に構想し新な次郎長を作ったといえるかもしれない。
戦後、時代劇全盛期には年末は「忠臣蔵」、新春は『次郎長三国志』というのが興行の定番であった。一番新しいところでは、二〇一一年にマキノ雅彦(津川雅彦)がメガホンをとり久々の次郎長映画がある。この映画の話題は何と言っても宇崎竜童が音楽を担当したこと。そして自ら「旅姿三人男」を歌ったことだろう。乗りのいいサウンドで、ポップス調次郎長演歌誕生である。ちなみに、次郎長は中井貴一、お蝶は鈴木京香である。
腕と度胸じゃ 負けないが 人情からめば ついほろり〜
久々の痛快チャンバラ映画を若い世代は、どう見たのだろうか。
三番目は『伊豆の佐太郎』。だ。
故郷見たさに 戻ってみれば 春の伊豆路は 月おぼろ〜
これは、高田浩吉主演の松竹映画で、歌う映画スターとして評判をとった。何故忘れられない歌になっているかというと、母のすぐ下の叔母が、今でいう高田浩吉の追っかけをやっていたから。フアンクラブに入って、撮影所にも行ったりしていてらしい。高田浩吉は、この主題歌の他の歌もヒットをとばし、二枚目としては寿命の長い俳優だった。
ハリウッド映画もフランスのノアールものもアウトローや無法者をヒローとした作品は多く描かれてきた。日本の股旅時代劇はこれらの違って、義理と人情が根底に流れていた。法の網をくぐって生きていることには変わりないのだが、幼い私の眼に焼付いた旅人の姿は美しく颯爽としていた。このコスチュームが曲者だ。私が惹かれたのも、この扮装あってのこと。だから、現代のヤクザ映画は一切見ない。七十年代、全共闘世代が高倉健の任侠映画に心情をたくしたという伝説は本当だったのだろうか。高倉健は、この秋、文化勲章受章である。喜ぶべきか・・・
そういえば、任侠映画に重なってくる歌がある。それは、「怨歌」フォーク歌手、「三上寛・夢は夜ひらく」だ。三上寛は青森県北津軽郡中泊町の出身で歌手、俳優、詩人とユニークな活動をしている。その歌は時に絶叫、時に悲しく訴えてくる。「夢は夜ひらく」は辺境の地からの哀切な歌になっている。しゃがれ声で切々と歌う様子は一つの時代のスタイルになっているだろう。
七に二をたしゃ九になるが 九になりゃまだまだいい方で 四に四をたしても苦になって
夢は夜ひらく〜
サルトルマルクス並べても あしたの天気はわからねえ ヤクザ映画の看板に 夢は夜ひらく〜
この「夢は夜ひらく」の原曲は練馬少年鑑別所で歌われていた曲を曾根幸明が採譜・補作したものだという。今年亡くなった藤圭子のものが一番ヒットしたと思うが、レコード化は昭和四十一年に園まり、緑川アコ、藤田功・愛まち子、バーブ佐竹の競作で発売されている。この時の売り上げは園まりが一番であった。歌詞は、それぞれの歌手によって、みな違う作詞家がついていた。園まり版は「艶歌」常道の恋歌になっている。藤圭子版は、彼女の人生をなぞるような内容になっている。何故、この時代(六十年代)に、この歌が生まれ、その後二十人以上の歌手がカバーしたのだろうか。それは、この時代の政治状況と深く関わってくるだろう。ベトナム戦争、六十年安保闘争から、全共闘運動など若い世代の政治へのプロテストと挫折が、歌をふくむ文化全体をも大きく包みこんでいった時代だからこそ、生まれた歌だったのだろう。寺山修二、唐十郎などのアングラ演劇も全盛期を迎えており、新宿花園神社の紅テント公演も忘れられない。
唐十郎宅でのぎゅうぎゅう詰めの公演は、思い出すたびに熱くなる。この時代の私は「母さんの歌」を作詞・作曲をした窪田聡の下に音楽活動をしていて、新しい大衆歌曲の創作などに打ち込んでいた。毎日、ロシア民謡の「カチューシャ」「ともしび」「エルベ河」などをわが歌のごとく歌っていた。
かあさんは夜なべをして 手袋あんでくれた〜
木枯らし吹いちゃ 冷めたかろうて せっせとあんだだよ
ふるさとの便りはとどく いろりの匂いがした
この歌は一時期「結婚式ソング」(両親に花束贈呈)になっていて、作曲した窪田さんを苦笑させていたものだ。窪田さんは東京生まれで、この歌は疎開先の信州での体験がもとになっていたと聞いていたから、きっと、面はゆかったのだろう。彼は現在岡山県牛窓在住で市民運動家としても活躍してるはず。元気でいれば・・・
この時代のことにふれてゆくと長くなるので、今回はこれで終わりにしたい。それにしても、歌声喫茶で歌われていた、労働歌などと、「夢は夜ひらく」を対比してみると学生たちが夢見た革命と労働者が夢見た革命とは、大分違っていたように思える。一九六〇年六月十五日、安保反対のデモは国会に突入。樺美智子さんは、この時の闘争で犠牲になる。数十万人のデモ隊のエネルギーは、「革命」なるかを思わせたたが、そうはならなかった。この混沌の中でも、様々な歌が歌われた。今は、理想としていた共産主義も地に落ちてしまい、かといって新しい思想も生まれず、世界は益々混迷を深めている。アリーナなどでの若いミュージシャンのニュースにふれるたび、これは、一種の麻薬ではないかと思ってしまう。今の音楽は巨大な音響で身体を犯してくるような気はしてならない。肝心の歌詞が届いてこない気がする。
がんばろう 突き上げる空に くろがねの男のこぶしがある
燃え上がる女のこぶしがある 戦いはここから 戦いは今から
この歌は三井三池炭鉱闘争の時に生まれた(一九六〇・六月・森田ヤエ子作詞・荒木学作曲)
学生運動の中でも歌われ労働歌の名曲として、私も好きな歌だが、労働運動も冷え込んでいる今、この歌のインパクトはあるのか。労働組合加入率は全労働者の二十%にみたないようだから、おして知るべし。と、絶望的になっていると、むしょうに歌いたくなる歌がある。
アカシアの雨にうたれて このまま死んでしまいたい 夜が明ける 日が昇る
朝の光のその中で 冷たくなった 私を見つけて あの人は 涙を流して くれるでしょうか〜
この歌は「アカシアの雨がやむとき」(水木かおる詞・藤原秀行曲・一九六二年・第四回日本レコード大賞特別賞受賞・歌西田佐知子)である。これは学生運動の挫折歌かもしれない。それにしても、あかしやの雨にうたれて「死んでしまいたい」とは随分とロマティックなイメージではないか。西田のクールで虚無的な歌い振りに、事に敗れた学生たちが共感したのもむりはないか。それに彼女は、美女であったから。
ふと、口づさむ歌のかずかず
台所に立っている時、窓ふきなどをしているとき、ふと口づさむ歌がる。それは美空ひばりの歌。
笛にうかれて 逆立ちすれば 山が見えます ふるさとの〜
わたしは街の子 巷の子〜
歌もたのしや 東京キッド 粋でおしゃれで ほがらかで〜
山の牧場のたそがれに 雁が飛んでる ただ一羽〜
髪のみだれに 手をやれば 赤いけだしが 風に舞う〜
一人酒場で飲む酒は 別れ涙の味がする〜
りんごの花びらが 風に散ったよな〜
真赤に燃えた太陽だから 真夏の海は 恋の季節なの〜
私の隣のおじさんはは 神田の生まれで チャキチャキ江戸っ子 お祭りさわぎが大好きで〜
知らず知らず 歩いてきた 細く長い道〜
これら美空ひばりの曲は昭和二十五年の「越後獅子の唄」から昭和六十年の「川の流れのように」まで十曲、自然に頭に入っていたらしく家事をしている時に、口をついてでる。それほど、夢中で聞いていた訳でもないし、コンサートにも数回行ったきりなのに。それでも、暗譜できているのは、それだけ美空ひばりの歌が巷にあふれていたからだろう。彼女の全盛期はテレビも歌謡番組が多く、茶の間には、いつもひばりの歌がながれていた。加えて、ひばりは映画でも活躍していたから、庶民の多くはひばりフアンになっていったのだろう。私は中学生の頃、浅草国際劇場での大川橋蔵との公演を一度だけ見ている。橋蔵が東映で売りだし中の頃で、二人は息もあって美しく華やかな舞台であった。けれど、その後、ひばりの追っかけなどにはならなかった。多分、ひばりの歌は、私が本当に好きな歌ではなかったのだろう。つまり、本流の「演歌」は、私の好みではなかったのだ。恋、涙、酒場、港町などの演歌類型のモチーフが、感情にべたーっとまとわりつくようで拒否するものがあったのかもしれない。それでいて、カラオケで歌うのは『悲しい酒』になってしまうのは不思議だ。気持ち良く歌えてしまうのも悔しい。ここで、谷崎潤一郎が義太夫について述べていたことを思い出す。『いわゆる痴呆の芸術について』(昭二十七年八月・新文学)を要約すると、近代人が義太夫などの痴呆の芸術に親しむのは恥ずかしいということ。つまり、日本の音曲の伝統を継いでいる義太夫の中には近代的知性を侵食してくるものがある。谷崎は、このようなものに自分が陶酔してゆくのを恥じていたのだ。作曲家の高木東六も演歌嫌いで、生涯演歌は作らなかった。演歌は「艶歌」とも「怨歌」とも呼称されるように、庶民たちの言うに言われぬ感情が表面的な歌詞の裏に隠されている。それがテクニックとしての「こぶし」であり「うなり」となって歌われる。これらは「義太夫」の「口説き」と、なんと似ていることだろう。演歌好きの人たちは、このあたりを、こよなく愛し陶酔して歌うのであろう。歌い手は、このあたりを冷静につかみこれでもかと歌いあげる。それが、今の時代に下火になっているのはなぜなのだろう。美空ひばり、都はるみ、石川さゆりなど、かって日本の歌謡曲の主流は演歌であった。だが、今世紀に入ってからは、J・ポップやニューミュージック系の歌い手の方が脚光を浴びヒット曲も出ている。
しかし、昨年、由紀さおりの歌謡曲がアメリカのヒットチャートに入り話題になったところをみると、歌謡曲も内容と売り込み次第で世界に進出できるのかもしれない。話がそれてしまったが、私の本当に好きな歌を上げてみよう。
一人で寝る時はよオ〜 ひざ小僧が寒かろう おなごを抱くように あたためておやりよオ〜
おトキさんこと、加藤登紀子かな。年末の「ほろよいコンサート」にも随分行ったものだ。入場すると、枡酒を一杯。これを、手にして会場にはいる。彼女は酒豪で、舞台には一升瓶が並んでたこともあった。 彼女は同世代。東大在学中に「第二回日本アマチュアシャンソンコンクール」で優勝(一九六五年)これで、デビュー。翌年、「赤い風船」で第八回日本レコード大賞新人賞受賞。前述の「ひとり寝の子守歌」は一九六九年に第十一回日本レコード大賞歌唱賞受賞をしている。温かなアルトで、人を包こむような愛情あふれる歌いぶりが、彼女の歌の良さだろう。人生上のエピソードでは、学生運動の闘士、藤本敏夫と獄中結婚したことが際立っているだろう。藤本は亡くなっているが、彼と共に開墾した「鴨川自然王国」は二人の生き方の証でもあるだろう。世界の平和、環境問題なども、おトキさんは舞台から柔らかい言葉で伝えてくる。少しタレ目で丸顔も親しみやすい。それでも「美しき五月のパリ」(一九六八年五月・フランス。大学改革を訴えた学生二万人のバリケードの中で歌われた)を歌う時は迫力がある。おトキさんの訳詩で歌ってみよう。
赤い血を流し 泥にまみれながら この五月のパリに 人は生きてゆく
風よ吹いておくれ もっと激しく吹け 青空の彼方へ 我等をつれゆけ
オルジョリ モァドゥメアパリ オルジョリ モァドゥメアパリ
詞も曲も作者不明の革命歌はカルチェラタンの学生たちに唄われ、日本の学生運動にも影響を与えていったのだろう。この歌は長い間「うたごえ喫茶」でも唄われていた。だが、この歌を好きな人は多分少数派。多くの人たちは、おトキさんの「知床旅情」や「百万本のバラ」を愛し歌ってきたと思う。この二つの歌は現代日本歌謡のスタンダードとして残ってゆくに違いない。
今年もまた「ほろよいコンサート」が十二月にある。元気だったら行ってみたい。一緒に歌いたい歌がある。「時代おくれの酒場」(山口瞳原作「居酒屋兆冶」・加藤登紀子作詞・作曲・映画主題歌として採用・一九八三年・東宝映画・主演・高倉健・加藤登紀子)。
この街には不似合いな
時代おくれの この酒場に
今夜もやってくるのは
ちょっと疲れた 男たち
風の寒さをしのばせた
背広すがたの男たち
酔いがまわれば それぞれに
唄のひとつも飛びだして
気がつけば窓のすきまに
朝の気配がしのびよる
あ〜あ どこかで何かありそうな そんな気がして
俺はこんな所に いつまでもいるんじゃないと〜
この、最後のサビのフレーズは、何時聞いても歌っても泣けてくる。これは男歌だけれども、おとこもおんなも共感できるものがあると。私たちが生きるうえで失ってきた「見果てぬ夢」のかずかずが痛みをもって迫ってくる。幾つになっても「俺はこんな所に いつまでもいるんじゃないと〜」、と未練にも哀しく思うのは私だけではないと思うのだが・・・
いつの日も歌があった
うさぎ追いしかの山 小鮒釣りしかの川〜
二〇一一年四月、ドミンゴは日本語で「故郷」を歌った。東北大震災が起こり、福島原発のメルトダウンが世界中に伝えられると、音楽やさまざまなイベントの海外からの来日公演がキャンセルになった。こうした中でドミンゴは四月に来日し十日、十三日の公演を予定通り行い、アンコールで『故郷』(高野辰之詞・岡野貞一曲)を唄った。この『故郷』に涙した人はたくさんいたことだろう。
それくらい、この時の『故郷』は特別であった。人々は、あの美しい三陸海岸が無残にも地震と津波と原発によって破壊されてしまったことを生々しくし思い起こしたことだろう。ドミンゴの歌の発信力が強かったのだろう、『故郷』は、あれから世界各国で歌われているらしい。
こころざしを 果たして いつの日にか 帰らん〜
山は青きふるさと 水は清きふるさと〜
この歌は童謡だけれど、私は国歌にしてもいいと思っているくらい好きだ。
国破れて山河あり。だが、国破れれば、山河も破壊されることを、わたしたちは「東北大震災」以降思い知ったのである。昭和二十年八月の敗戦、バブル崩壊、東北大震災も敗戦であろう。演歌は浮世の憂さをはらしてきたが、今は演歌が売れなくなって、人々は何によって心の憂さをはらしているのだろう。大丈夫、他にも慰め癒されるものはあると。それは、そうだろう。しかし、かって、圧倒的な力で大衆を魅了したような歌謡曲は出ないのか。「AKB」や「嵐」の歌ではない何かを、私は、今、待っている。ここまで、書いてくると、もれてしまった歌たちがさざなみのように寄せてくる。
先ずは演歌から。石川さゆり「天城越え」、都はるみ「小樽運河」美空ひばり「みだれ髪」。
そうだ、山口百恵の「いい日旅立ち」を忘れてはいけない。
加えて、シンガーソングライターから。
ユーミン「中央フリーウエイ」、中島みゆき「時代」「あの空を飛べたら」森山良子のこの広い野原いっぱい」、さだまさし「無縁坂」、谷村新司「群青」、吉田拓郎「旅の宿」、南こうせつ「夢一夜」など、これらの歌は、その時代の私によりそい、今も大切な思い出ともに生きている。
雪どけまじかの 北の空に向かい 過ぎ去りし日々夢を 叫ぶとき〜(いい日旅立ち)
空を飛ぼうなんて 悲しい話を どこまで信じているのさ〜(あの空を飛べたら)
完
西條八十
唄を忘れたかなりや
取 井 一
夕方五時丁度になると、毎日、丘の上の小学校の方から「夕焼け小焼けで日が暮れて」の曲が流れてくる。誰かが歌っている訳ではない。ただ曲だけが流れてくるのだが、自分では「まあるい大きなお月さま??」と歌詞もいっしょに流れてくるような気になる。
野口存彌氏の幾冊かの野口雨情論のなかだったと思われるが「作者が誰だったか忘れられていても、歌われ続けられるものが本物でしょう」というところがあったが、十分に頷けることであった。
自ら口遊むということはないが、大正の謡『夕焼小焼』(大正八年・中村雨紅作詞、大正十二年・草川信作曲)も本物の一つだろうか。大正期に作られた謡であるということは、今迄でしらなかったのだが、もう一つだけ幼い頃から気になっていた大正の謡がある。なぜ気になっていたのか自分でもわからないのだが、西條八十作詞の『かなりや』である。
唄を忘れた金糸雀(かなりや)は
うしろの山に棄てましょか。
いえ、いえ、それはなりませぬ。
唄を忘れた金糸雀は
背戸(せど)の小薮(こやぶ)に埋めましょか。
いえ、いえ、それもなりませぬ。
唄を忘れた金糸雀は
柳の鞭でぶちましょか。
いえ、いえ、それはかはいさう。
唄を忘れた金糸雀は
象牙の船に、銀の櫂(かい)、
月夜の海に浮べれば
忘れた歌を想いだす。
この謡『かなりや』は、ひろく唄われたためでもあろうが作者の思い入れの深い作品に違いない。23章からなる『西條八十・唄の自叙伝』の第一章から語られている。
詩人たらんと志して入学した大学の文学研究も、わたしは不幸な出来事から破棄した。そうして、何よりもまず老母や弟妹の生活を確立するために、
兜町通いをしたり、図書出版に従事したりしている。わたしはまさに歌を忘れたかなりやである。
その頃、ふいに彼を訪ねて来た人がいた。
「西條八十さんはおりますか」といって、小さな名刺を出した。それには鈴木三重吉と書いてあったので、わたしはびっくりした。当時瀬石門下で、
所謂ネオロマンティシズムの構想と、独得の粘りのある文体とをもって一世を風靡した小説家三重吉の名を知らない者はほとんどなかった。―
突然この著名な作家の訪問をうけて、先輩の三木露風氏や北原白秋氏と同格で童謡の寄稿を頼まれたことはうれしかったが、どうして鈴木氏が無名
のわたしにそれを頼みに来られたかが不思議でならなかった。
三重吉が、雑誌『赤い鳥』を創刊した時である。
成田爲三氏の作曲で、我国最初の新芸術童謡としてこの謡がひろく津々浦々にうたわれると同時に、わたしの詩人としての行く道がはっきりして来
たことは事実であった。
このように臆面もなく自分のことを「詩人として」と言えるのは、当時から幾十年も過った自叙伝のなかであるからだろうか。いや、それだけではないもっとひろく大衆的にあったロマンチックなものが、いわゆる「大正ロマン」が言わせるのではないか……。ともあれ、誰しも失われたものを取り戻したいという欲求はある。その意味で「かなりや」は、今日もなお唱われつづける普遍的な抒情であるだろう。
また、彼が「うたうことが人々の生きる力となる」ことを知ったのは、大正十二年九月一日、関東大震災の夜、上野公園にいた時だった。深夜、人々は疲労と不安と餓とで、化石のように坐り、蹲み、横たわっていた時、一人の少年が、突然ハーモニカを吹き始めた。群集は彼が危惧したように怒らなかった。
「こんな安っぽいメロディーで、これだけの人が楽しむ。これだけの人が慰楽と高揚を与えられる」
大正八年に詩集『砂金』を自費出版し、いわゆる芸術至上の高塔に立て籠もっていたわたしは、俗歌をも書いてみたいと思った。
西條八十(一八九二年〜一九七〇年)が作った謡は数え切れず、一般的に知られているものだけでも百を優に越える。
しかし、自らも言っているように「唄の自叙伝」直後の、戦争中の「予科練の歌」等々軍歌時代の十分な回想、反省はなされていない。
参考・西條八十『唄の自叙伝】M日本図書センター
・阿部猛著『近代詩の敗北』M大原新生社
・野口存彌著『野口雨情』未来社
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心踊る軍歌・行進曲
永野 悟
「東京行進曲」(昭和四年作詞西條八十、作曲中山晋平、唄佐藤千夜子)は流行歌の先駆けだろう。節回しとともに、当時流行の風俗光景がこれほど鮮明なものもない。
1
昔こいし 銀座のやなぎ
仇な年増を だれが知ろ
ジャズで踊って リキュルで更けて
明けりゃダンサーの なみだ雨
2
恋の丸ビル あの窓あたり
泣いて文(ふみ)書く 人もある
ラッシュアワーに 拾ったバラを
せめてあの娘(こ)の 思い出に
3
広い東京 恋ゆえ狭い
粋な浅草 しのび逢い
あなた地下鉄 わたしはバスよ
恋のストップ ままならぬ
4
シネマ見ましょか お茶のみましょか
いっそ小田急で 逃げましょか
変る新宿 あの武蔵野の
月もデパートの 屋根に出る
震災後のビルや鉄道とともに、モダニズムの都市文化がせつない恋心とともに見事、歌われていよう。
だがこれは「行進曲」と題しながらいわゆる隊列をなして秩序正しく行進していく態(てい)のものではない。実際の行進曲はもっと明るく颯爽として人々(国民)を鼓舞するものとしてあった。その例として広く歌われたものに、「愛国行進曲」(昭和十二年八月)があった。その歌詞は壮麗無比の神国日本を歌い上げたものだが、語彙の難しさにもかかわらず、国民に広く受け入れられた。
見よ東海の空明けて
旭日(きょくじつ)高く輝けば
天地の正気?溂(せいきはつらつ)と
希望は踊る大八洲(おおやしま)
おお晴朗の朝雲に
聳(そび)ゆる富士の姿こそ
金甌(きんおう)無欠揺るぎなき
わが日本の誇りなれ
一番だけを掲げたが、朝の清浄な空気の中、改めて日の本の伝統を顧み、その伝統につながる臣民の自覚と誇りを得たことだろう。むろんこの歌詞をみて後代は国粋主義・軍国主義というだろう。ただここではそうした理知の反省をおいて、歌曲の〈命〉というものを考えたい。
樋口覚によれば、音楽の中で軍隊行進曲ほど、人類の発生以来深く関与しているものはないそうで、近代においては集団組織を統一するものであり、人心の精神を規定したものであった(『日清戦争異聞 萩原朔太郎が描いた戦争』二〇〇八年青土社)。実際軍楽は、どこの国でも作曲され、「音楽の華」であったことは、モーツアルト(トルコ行進曲)やシューベルト(軍隊行進曲)、ヨハン・シュトラウス一世(ラデツキー行進曲)、ワーグナー(双頭の鷲の旗の下に)はじめ、それぞれを聞けばわかる。タイケの旧友、スーザの、星条旗よ永遠なれ、ワシントン・ポスト、士官候補生、雷神、キング・コットン、美中の美、などは中学のブラスバンドでも演奏される。
行進曲・軍楽は必ずしも、突撃・進軍などの実戦での士気高揚のためにあったものではない(むろん、それが成立の大前提であったろうが)。今日われわれがそれらにみるものは落ち込んだ気分の転換、晴れ晴れしさ、リズミカルな曲調による心身とものリフレッシュである。
日本にもこうした軍楽行進曲はある。「雪の進軍」「軍艦行進曲(軍艦マーチ)」、「君が代マーチ」「燃ゆる大空」「加藤隼戦闘隊」「空の神兵」など。みな勇壮で、晴朗で、人の気持ちを上げ、前向きにさせる。
こうした軍楽に対して、戦後のこの国は冷淡だった。特に知識人は「軍歌」というだけで忌避・無視した。特にその格好のターゲットは「軍艦行進曲」であった。樋口覚の言葉を引く。「昭和二六年、有楽町駅前のパチンコ店メトロで流されたのをきっかけに、(軍艦マーチは)津々浦々で聞かれるようになった。敗戦後の日本人の屈折した心情に合致し、ある捨て鉢でアナーキーな感情に被虐的に訴えた」「あるいは地に堕ちた国粋主義による街頭宣伝のけたたましい「雑音」となった」―(同上)。
「軍艦行進曲」は「愛国行進曲」も作曲した元海軍の軍楽師瀬戸口藤吉の手になるもので(日本の行進曲の父)、そのリズム感あふれる颯爽とした曲調は、詩人萩原朔太郎によってつとにその意義が認められていた。
最後に、「抜刀隊」(作詞外山正一 作曲シャルル・ルルー)と、「海ゆかば」(作詞大伴家持 作曲信時潔)をあげておきたい。前者は昭和一八年秋、学徒出陣の時も流された。秋雨けむる明治神宮外苑競技場、軍靴の映像とあいまって、壮烈なものを感じる。後者は万葉集を現在に蘇らせたものだが、荘重ななかに日本精神のありかたを考えさせられる(これをどう捉えるか)。
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優美なものを求めて
―軍歌のかげのひそやかな調べ
野口 存彌
それらの歌をうたったという記憶はなく、たまたまラジオから流れる曲を聴いて覚えたのかもしれない。その曲に向かって、とくに耳を澄ませたという自覚もなかったが、歌の言葉も旋律も深く心に残ることになった。
すでに日中戦争が開始されていて、眼に映るものはすべてカーキ色一色に染められるようになっていた。カーキ色は兵隊さんの軍服の色彩であり、軍帽のそれだった。
男子はあくまで雄々しくなければならなかった。女子は健気でなければならなかった。いったい、優美なものはどこにあるのだろうと考えた。駅前では「天に代(かわ)りて不義を討つ/忠勇無双のわが兵は」という大和田建樹の作詞した「日本陸軍」が楽器の伴奏とともにうたわれていた。肩に襷(たすき)をかけ、硬い表情をうかべた青年が日の丸の小旗を打ちふる人びとに見守られながら、戦場に送り出されていった。
松本高等学校に在学していた辻邦生は丸谷才一との対談「わが文学の軌跡」(『灰色の石に坐りて』収載・昭和49年)で、「戦争中、東京から松本へ帰るときに、汽車の中でヘーゲルを読んでいたら、前に坐っている男が、君、その本を見せたまえ、といって没収されたよ」と語っている。旧制高等学校の学生としてヘーゲルを読むのは、ごく普通の知的関心のあらわれだったが、それさえ抑圧されなければならなかった。内面に確かに感じられる優美なものを求めようとする感受性の働きについて、言葉に出して述べることは不可能だった。それはあくまで内心の秘密に属していて、意識の奥に隠しておくべきものだった。
日中戦争以降、最初にひろくうたわれた軍歌は「日の丸行進曲」であり、つづいて「太平洋行進曲」がうたわれ、三番目に「愛国行進曲」が大々的にうたわれた。学校の校庭にも拡声器を通じて「愛国行進曲」が大音量で流された。
太平洋戦争に突入するとともに、圧倒されるばかりに勇壮な軍歌が次々に誕生していった。ひとつの例を引用すると、「起つや忽ち撃滅の/かちどき挙(あが)る太平洋/東亜侵略百年の/野望をここに覆(くつが)えす/いま決戦の時きたる」という軍歌の表題は「大東亜決戦の歌」である。雄叫びのように高らかに「米英撃滅」を掲げたそうした軍歌のかげに、いかにも低い音で静かに心に語りかけてくる歌の調べがあった。
「白百合の歌」は「夏は逝けども戦場に/白百合の花匂うなり」という歌詞で始まる。「高原の月」は「真白に高き雪の峰/浮世の塵に染まぬ花/清き世界を照しゆく/ああ高原の月なに想う」とうたわれている。「湖畔の乙女」は「落葉散る散る山あいの/青い静かな湖恋し/星かすみれか真珠の玉か/乙女ごころの夢のいろ 夢のいろ」という歌である。
いずれも西條八十の作詞だった。どこにあるのかは明らかではなかったが、知らない世界に清らかで美しいものが実在するのを感じさせられた。
そのうえ、もうひとつ重要な点は、それらの歌のもつ意味が歌だけにとどまらないということだった。そうした歌の背後に、眼にはとらえられなかったが、なにかしら未知の巨大なものがひそんでいるように思われてならなかった。それだから清らかで美しい歌に心を惹かれたようにもかえりみられる。ただ、それらの歌がいま述べた未知の巨大なものへ導いていくということにはならなかった。
後になって、その未知の巨大なものとは、ほかでもなく文学のジャンルであるのを知るようになるが、そのジャンルへ導かれていくのは歌とは別種のものによってである。
誰でも知っているとおり、西條八十は軍歌も作詞した。「若鷲の歌」や「同期の桜」がそうである。児童向けには太平洋戦争開戦の翌年、「少国民進軍歌」を書いている。当時、作詞者名は公表されず、戦後、西條八十の作詞であるのが判明した。「轟く轟く足音が/御国のために傷ついた/勇士を守り僕たちは/共栄圏の友とゆく/揃う歩調だ揃う歩調だ 足音だ」という歌詞で、悲壮感がなく、明るくて、心地よい響きを伴って耳に入ってきた。一方、「風は海から」を書いたのも西條八十である。「風は海から吹いてくる/沖のジャンクの帆を吹く風よ/情(なさけ)あるなら教えておくれ/わたしの姉さんどこで待つ」という歌を聴いた時、この世にデカダンスとよぶものが存在するのを示唆されたような気がした。
「ぼくは少年飛行兵になるんだ」と言い、「ぼくは海軍兵学校を受験する」と明言する単純明快な少年たちに戦争参加への強い決意を示された時、人文科学の分野の研究や芸術の創出に携わりたいというひそかな願望は、必然的に精神に二重性をもたらすことになった。戦争は戦場で敵と戦い、敵兵を斃すことを要請するが、それだけが戦争ではなかったという現実があらためて見えてくる。
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