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島尾敏雄《病院記》の一側面 石井洋詩
島尾敏雄《病院記》の一側面
―〈私〉の変容のドラマとして―
石 井 洋 詩
一 《病院記》論の概略と本稿のねらい
『「死の棘」日記』(新潮社平17・3)及び『島尾敏雄日記―「死の棘」までの日々』(新潮社平22・8)の公開によって醸成されてきた『死の棘』(新潮社昭52・9)の読み直しの機運が、この数年来具体的な形をとりつつある。長く島尾論を書き継いできた岩谷征捷氏と比嘉佳津夫氏が時を接して『死の棘』の再論?を新たに刊行し、更に『死の棘』を妻の側から逆照射する意図のもとに梯久美子氏の「島尾ミホ伝」の連載が『新潮』平成二十四年十一月号から始まり、新しい事実も明らかにされつつある。雑誌発表の論文では『死の棘』の成立に関わる論考として松島浄氏や満留伸一郎氏の提起?もあった。
病妻ものの一方の極である《病院記》については、奥野健男氏が『島尾敏雄作品集4』(晶文社昭37・8)の解説で《精神病院の閉ざされた一室で、神経を病む妻と世を捨てた夫との、世俗を超えた関係、妻と夫の魂の異様な同調性、共鳴性、そして生ま生ましくも可愛いい妻の姿態魂のコケットリィ、…ぼくたちはこの世にあらぬ関係の美しさ、虚飾を消失させた原存在の奇妙さだけを感じればよいのだ》と各篇を概説した時点から、各作品の構造や内実を探る試みはあまりなされてこなかったように思われる。《病院記》について教えられるところの多かった論を発表順に挙げてみると、昭和四十年代に《これらの小説から夫の献身的な愛とか償いとかいった心理的動機を読みとることは愚かであって、何よりまず「逃げることはできない」世界に投げこまれている》ことを読みの根底に置くことを提起した柄谷行人氏の論?があり、次いで昭和五十年代には、《現実を夢化する文章の特性》によって《現実の重い桎梏から解き放たれて、一種超絶的な、この世ならぬ悲哀の相のもとに眺められるようになる》と論じた川村二郎氏の表現論?の後、宗教的立場から《妻ミホの精神病院入院後、ミホへの「私」の絶対的服従が徹底化され、ミホの非合理な要望が全て実現される》と柄谷氏と同じ観点に立ちながら、《病めるミホに対して開かれた自己を示すことによって、生の充実を取り戻すばかりでなく、閉ざされたミホの心を明るみに照らし出》し、《他者としてのミホとのかかわりが、「私」をして自己の罪を許さんとする存在者への凝視を可能とした》と説いた玉置邦雄氏の論?や《氏がそこに示したのは、むしろ日常性の脆弱さを指摘することによって、それを涯しなく切り崩している加害力の暗澹たる姿ではなかったろうか。この力を前にして氏が、それに耐えることでのみ真にそれを超えうると思い当ったのは、ぼくの理解するかぎり、氏のカトリック入信後であるといってよいように思われる。それはたしかに、島尾氏の決意を意味していた》と評した武田友寿氏の論?が出た。また、入院を《彼が妻と二人で創始すべき、新たな精神世界の入り口》と見て、《彼は何よりもそこで妻をとりひしぐ悪霊に出会うことを熱望した。その悪霊の媒ちによってのみ、二人はともに理解を絶するほどのエロティシズムのめくるめく深淵を垣間見ることができたのではなかったか》と新しい読みを提示した田中美代子氏の論?もあった。平成に入り、「ある精神病者」の中に《かつて軍隊で見た最も悲しい人間縮図》を読みとった吉本隆明氏の論?や《病院での二人きりの生活、あるいは夫人の意志にひたすら従順になろうとする生活は、現象面だけを考えても、世間から隔絶された(時には戦争からも遠のいた)南島の入江での特攻体験に似てはいまいか》と戦争体験との重なりを指摘した岩谷征捷氏の論?などが出た。他にも《病院記》への言及はあるのだが、上記の論も含めて多くは戦争体験や(死の棘)体験の関わりの中で取り挙げており、独立した作品論の対象として扱われることは殆どなかった。そうした中で堀部茂樹氏が『島尾敏雄論』(白地社平4・3)を刊行し、「関係意識の記録―治癒」の中で「一時期」や「ねむりなき睡眠」を取り挙げ、《島尾の作品は書かれている素材としての事実を読むのではなく、そこに表れた島尾の関係意識を読まなければならない》として《〈他者〉に対する根源的な異和の意識からやってくる〈関係の不可能性〉こそ、島尾の文学の表出の根拠である》ことを詳細に論じたことは、吉本隆明氏が作家論として提示した〈関係の異和〉を作品論に敷衍した意義ある論考だったと思う。その後長く《病院記》論は出てこなかったが、空白を埋めるように、田中眞人氏がこれまでの論考を『島尾敏雄論 皆既日食の憂愁』(プラージュ社平23・6)にまとめ、「「病院記」とそのバロック的空間」で《病院記》を論じた。そこで氏は《つまり島尾によって生み出されてくる「病院記」の世界は、精神病棟の日常を描きながら、私小説の描く日常性とは全く次元の異なる非現実のなかの日常として波間から頭をもたげてくる。それこそ自己意識の外に噴きだしてくる、三島由紀夫が指摘した魔的な生命力のようなものをはらんでいる》と述べている。さらに《それらは『死の棘』の序曲というよりもそれ自体一つのシンフォニーと考えてもよい》として、《『死の棘』の世界が哀しみをいっぱいに詰まらせた家庭の危機、つがう男女の危機、いや存在することの危機の淵を描いたものとすれば、「病院記」はその深い淵から逃れようとする壮大な復活劇が奏でられていると言えよう》と《病院記》を『死の棘』と等価に捉えようとしていることの意義を多としたい。
《復活劇》に関わる島尾敏雄自身の言及としては「丹羽正光氏への返事」(『作家』昭35・6)で《私の病院記は妻がそれを読むことによって彼女の病を?いで行くことに、ひとつの力を与えることになったのです》と述べていることを思い浮かべるが、では《復活劇》を可能にした力は何だったのだろうか。島尾は引用文の直後で《それは結果としてそうなったのですが》と企図しない力がそこに働いたことをみているが、筆者は《彼女の病を?いで行く》力となったものを、作者によって描出された作品群の主人公〈私〉だと考えたい。その観点から本稿では《病院記》を〈私〉の変容のドラマとして読み解いてみる。柄谷行人氏が《最初に、妻の病的な合理主義があり、応答不可能・実行不可能な審問と命令の発作があり、そして「私」はそこに閉じこめられてほかの可能性を考えることもできない。病人を客観的に眺めるのではなく、一方的に病人に支配されている》?と指摘したように、《病院記》に通底するものは支配と被支配、命令と服従の絶対的な関係である。〈妻〉に支配され服従を強いられる〈私〉は、《病院記》の最初の読者であるミホに読まれることを前提に書かれている。とすれば、ミホに寄り添う作者によって造形される〈私〉は、作者のミホへの関わり方の変化とともに変わっているはずだ。作品執筆の推移に合わせて〈私〉の変化のさまを探ることは、《病院記》を書き継いだ作者の内的必然を読み取ることにもつながるだろう。そしてそのことはまた、《病院記》以後の作品執筆、特に『死の棘』執筆の契機を探ることにもつながるのではないかと考えるのである。
二 《病院記》の概略
島尾敏雄は、昭和三十年六月六日に妻ミホの心因性神経症の治療のために付き添って千葉県市川市国立国府台病院に入院した。子供二人は奄美大島のミホの叔母の家に預けて第二精神科病棟3号室に入居し、約五ヶ月の病院生活を始めた。ミホの集中治療は二回行われている。六月二十七日から七月十日まで持続睡眠治療が行われ、八月十六日にミホの病院脱走事件が起こった後、二十三日に神経科病棟に移り、九月六日から十月六日まで冬眠治療が行われた。入院費や子供の状態への心配、ミホの症状の改善の兆しなどから、八月下旬から奄美への移住が考えられ、十月初旬にはその希望を主治医に伝えている。医師の許可を得て十月十七日に退院し、横浜港から大阪商船「白龍丸」に乗船。一週間の船旅を経て二十三日に奄美大島名瀬港に入り、叔母一家の許に身を寄せ、以後二十年にわたる奄美での生活を始めた。入院中の生活のあらましは『「死の棘」日記』(以下『日記』と記す)からある程度推測できるが、現実の二人の日々は、《病院記》に描かれているような外部から隔絶された生活が続いたわけではない。継続した治療以外の時には買い物に外出し銭湯にも寄っている。少数だが見舞客との面会は何度もあり、電話や手紙の交換もよく行っている。また、《病院記》では素材になった事柄が実際の時期や場面とは異なった設定になっていることが多く、『日記』にない事柄が随所に組み入れられている。《病院記》は、記録され記憶された体験をもとに執筆時の作者の内的位相によって虚構された物語である。それは、『島の果て』(書肆パトリア昭32・7)の「あとがき」で昭和二十九年までの作品を《不幸》と書き、《私の表現は全く別な場所へ移らなければなるまい》と記したこの時期の島尾が、柄谷行人氏が指摘する《現実の苛酷なまでの過剰感》を《リアリスティックに書こうとする》ための「夢の手法」とは異なった手法の試みでもあっただろう。
《病院記》九篇を執筆順に挙げると、1「われ深きふちより」(『文学界』昭30・10。作品名上の数字は『島尾敏雄作品集4』の配列順を示す。以下同)、3「或る精神病者」(『新日本文学』昭30・11)、6「のがれ行くこころ」(『知性』昭30・12)の三篇が入院中に書かれ、2「狂者のまなび」(『文学界』昭31・10)、5「治療」(『群像』昭32・1)、9「一時期」(『新日本文学』昭32・1)、4「重い肩車」(『文学界』昭32・4)、7「転送」(『文学界』昭32・10)、8「ねむりなき睡眠」(『群像』昭32・10)の六編が奄美移住後に書かれた。九篇は一定の構想のもとに連作として書き出されたのではなく、『島尾敏雄作品集4』編集時に作者によって〈病妻もの〉が二部に分けられ、九篇が第一部として入院生活の時間の流れに従って配列し直された。《病院記》としての単行本はなく、集英社文庫『われ深きふちより』(昭50・11)に『島尾敏雄作品集4』の配列で全篇が収録され、『島尾敏雄全集第七巻』(晶文社昭51・3)もそれに従っている。従って、作者によって配列し直された現行の《病院記》の順で読んでいくと、執筆された時間の継続の中で変化していく〈私〉が見落とされるのではないだろうか。《病院記》論の問題の一つがそこにあるように思う。
二作目の「ある精神病者」と四作目の「狂者のまなび」は精神病棟で出会った患者たちのさまざまな容態と私の感受の観察記録的意味合いが強く、八作目の「転送」は入院病棟の移住に伴う看護婦たちとの関係の変化や他の付き添いの人々との交流の記録としての意味が大きいので本稿の対象からは除き、他の六篇を執筆順に読み進めたい。
なお『日記』によれば、「われ深きふちより」の前に『群像』に掲載予定の「精神病棟記」が書き出されている。「われ深きふちより」の初稿を書き終わった後も書き継がれているが、八月十一日に『群像』編集長の交代から掲載を危ぶむ記述があり、十六日に三十数枚まで書いたことを記した後「精神病棟記」に関する記述はない
三 「われ深きふちより」と「のがれ行くこころ」
まず入院中に書かれた二作品に描かれた〈私〉の変化をみよう。
一作目の「われ深きふちより」?は入院から二ヶ月後の八月十一日に起筆され、十三日には初稿三十七枚を書き終わっている。脱走事件を起こすなどミホの発作が頻発していた時期である。入院前後の二人の狂態と精神病患者たちの異様な様態に《安堵》し、発作に狂う〈妻〉に寄り添おうとする〈私〉が描かれている。奥野健男が言うように「病院記の導入部」としての結構を整えており、《病院記》の中で最も多く言及されている。
三作目の「のがれ行くこころ」?は、持続睡眠治療が終わり冬眠治療に入る前の八月十五日に起こった妻の病棟脱走事件前後を素材にしている。事件の後病棟が精神科病棟から神経科病棟へと変わるが、そのことは八作目の「転送」で扱われる。執筆は『知性』の編集者であった山口瞳から原稿依頼があって九月十一日から始められ、十九日に初稿が完成し、推敲後二十九日に渡されている。冒頭が「妻に付き添って私も精神病院に入院していたときのことだ」と退院後の回想であることを意味する書き出しになっているのは、この時期には奄美移住を決めており、雑誌発行時(『日記』では十一月十五日に名瀬で『知性』を手にしている)には退院していることを予定してのことだろう。
両作品とも冒頭部で入院前の出口を失った二人の姿が叙述されているが、「われ深きふちより」では文末が過去形で続き、過去のことを回想する文体になっているが、「のがれ行くこころ」は文末が現在形で続き、読んでいくと入院前のことなのか入院中の現在のことなのか判然としない。それは読む側に同様の発作が現在も続いて緊縛状態の中に〈私〉が置かれていることを思わせる。〈私〉の描出のあり方を比較すると、「われ深きふちより」では〈妻〉の絶え間ない質問発作に曝される〈私〉の狂おしい状況を説明することに重点が置かれているのに対して、「のがれ行くこころ」では発作に走る〈妻〉の苦しみの内実を感受するゆえに苦しむ〈私〉の内面が叙述されていく。両者の同じような場面での叙述を対比してみる。まず前の二人の状況についての叙述である。
A「われ深きふちより」
《私と妻とはその頃半年もの間殆ど、お互いが片時もそばを離れることができなかった。そのために務めていた教師の職は放棄し、物を書く余裕もないので生活は目に見えて逼迫した。私には既に世間というものがなくなってしまった。ただ、妻の神経の表面にメタン瓦斯のように限りなくわき上がってくる疑惑のいらだちに、寝ても覚めてもいや真夜中でさえもお互いが顔をまともにつき合わせて、その日その日が移り変った。》
B「のがれ行くこころ」
《妻は私を一刻も傍から離せないという疑惑の地獄の中におちこんでいる。たとえば私が厠に立ってさえ私の喪失を不安に思う。その不安は底知れずに重なり、私を獲得するために、あくことのない要求を続けなければ安堵できないしかし求めれば求める ほど渇きはいや増し満足はできない。そのために心は荒れて狂暴に、要求は苛酷になったが、それはいっそう自分をいらだたせ不安を深め疑惑を雲のように湧かせるだけだ。私は反応になやむ妻にひたすら奉仕する。一箇の機械と化することを心掛けたが、 それは砂漠に打ち水をするたよりなさに打ちのめされるばかりに見えた。果てしない妻の渇望を埋めることは到底できそうもない。しかも妻のそばを離れられない。》
Aでは、繰り返される〈妻〉の発作に為す術を失い狂いそうになる〈私〉の苦しい状況が説明的に叙述されているが、Bでは、〈妻〉を終わりのない《質問装置》に化していくものが〈私〉を愛おしむ心であることを感受しながら、奉仕することに徹しきれない自分を見つめる〈私〉が描出されている。次は入院後での〈妻〉の発作に堪えられなくなっている〈私〉についての叙述である。
A「われ深きふちより」
《私はぐらぐらと赤土の崖からころげ落ちる頼りなさに襲われて来る。問題はそのような所にはないのだが、私はもう十箇月の間固着した同じような質問に答弁することを強いられ、それがもつれて行き、私の過去は白々とあばかれ、収拾がつかなくなる ことを繰返している。ああはじまって行く、はじまって行く。そう思うと頭はくらみ、妻の顔にも憑きものだけが跳梁し、私ののどもとには身勝手なむごい言葉が次々とつき上って来る。そしてそれをとどめることができずに口に出してしまう。》
《いやこのような言い方は当を得ていないかもしれない。私は私の生まれつきを解体したい! いやそのように感傷をぶちまけてみたところでどうなるものでもあるまい。私はやはりこのまま腐肉をついばまれていなくてはなるまい。宙ぶらりんのままで、どこに手足を支えよう術もなく。》
B「のがれ行くこころ」
《反応の誘因は私なのだから次第に私というものが嫌悪の反面を伴っていることに、妻は気づきはじめるが、といって私を失うことには堪えられない。その状態は私をますます不利な立場に追いこめる。発作にまきこまれると私は自分を底知れぬほどに嫌悪した。醜怪な肉塊にも思えた。むなしき奉仕の姿勢など悪臭を放って感じられる。そして蛇が鎌首をもたげるふうに自我のいきぶきが押さえようもなく噴き出して来た。》
《妻は一切の外界の刺戟を恐れる。私がどのように醜くても、妻は私をそばに引き寄せて置いて、暗い穴蔵の奥深い処にひそんでいたいと願った。それが次第に愈々深くそうなった。》
Aでは醜い過去が暴かれていくことに耐えられなくなって《身勝手なむごい言葉》を口に出す自分を《解体したい》《腐肉》と見ている。Bでも同様に自分を《醜怪な肉塊》とみなし《自我のいきぶき》が噴き出すのだが、その一方で〈私〉への愛憎の相剋に苦しむ〈妻〉を看取している。さらに言えば「このまま腐肉をついばまれていなくてはなるまい」という受苦を甘受しようとするAの〈私〉には、《奉仕の姿勢》に《悪臭》を感じる《自我のいきぶき》を《蛇が鎌首がもたげるふうに》と自己の内奥に潜む悪として見なすBの〈私〉ほどには自己凝視への指向はみられない。
右に見た〈妻〉を狂気へと走らせる〈私〉を愛おしむ心の深さは、「のがれ行くこころ」後半の〈妻〉の病棟脱走事件を通して示される。そこで〈私〉は〈妻〉の背後に暗示的な存在を感じ取る。〈妻〉の従弟が泊まった夜、故郷の叔母の許で生活している子供たちが病気がちであることを聞いた〈妻〉は発作を起こす。発作に巻き込まれた〈私〉は奉仕する姿勢を保てず、〈妻〉が着替えて部屋を出て行ってもいつものパターンだと思い眠ってしまう。目覚めると〈妻〉は部屋にいない。病棟内を探すが見つからない。〈妻〉の死を思って打ちひしがれて池の水面を見ている〈私〉に《妻の私を呼ぶ声》が聞こえてくる。その時〈私〉は〈妻〉を見る自分の目が覆われていたことに気づくのである。
《それは妻の醇乎とした意志なのだという気持になる。私は妻の発作を堪えがたいと思いその現象にばかりかかずらい目がくらまされてその覆われた姿を見ることができなかったのではないか。妻の私を呼ぶ声がひどく澄んで耳の底、頭の中にこびりつき、そしてそれは私のおろかさをあわれんでいる深いまなざしを背後に感じさせたのだ。》
やがて〈妻〉は帰って来たが、〈私〉は〈妻〉の言葉から《郷里の島で元気がないという子供》の所に行こうとして《その意志の前に立ちふさがる障碍を妻は無視して塀を乗り越えた》ことを知る。その〈私〉に〈妻〉は《「でもトシオが泣いたから戻って来ちゃった」、……「うん、ミホ、ミホって声を出して犬みたいに泣いていたよ」》と言う。その後〈妻〉が《妙に生き生きとして》《いのちが吹きこまれたようにも思えた》という表現で作品は閉じられる。社会一般では気が狂っていると見なす〈妻〉行動を、〈私〉はその行動の根源にあるものを感じ取っている。我が子の愛しさであり、〈トシオ〉への思いであることを。そして、子供の愛しさよりも〈トシオ〉への思いがより強く〈妻〉を動かしていることを。さらに言えば〈妻〉の狂気が〈私〉から〈トシオ〉が?がれていくことで起こることを。
《妻の私を呼ぶ声》の背後に感じた《深いまなざし》は、九作目「ねむりなき睡眠」に書かれた〈妻〉の《どこか頼りなげに見つめた清澄なまなざし》に通じるものだろう。玉置邦雄氏は《清澄なまなざし》について《「私」の罪を包みこんでいく神のまなざしを暗示しているのではあるまいか》?と述べているが、「のがれ行くこころ」を書いている島尾は《現象にばかりかかずらい目がくらまされて》いる自分の《おろかさをあわれんでいる》存在と出会っているようだ。安易に作品と作者の生活を結びつけることは慎まねばならないことを承知した上で、次のことは見ておきたい。「のがれ行くこころ」を書き終えた時期の『日記』(九月二十二日)に次のような記述がある。
《夕食後祈祷、ミホ大島に行ったらカトリックの洗礼を受けるかと聞く。》
また、二日後の二十四日には次のような記述もある。
《顧みればミホが病気になるまでは全く反対だった。僕はミホを自分の体の一部のように思い込み、自分の事ばかり考えてミホの犠牲の上で自我を押し広げ、ミホはひたすら従順に身を捨てて僕に尽くした。長い間忍従と緊張を続けた果てにミホは遂に精神を病み、僕とミホの位置が転倒した。親子の契りは一世、夫婦は二世の頼みとかや、げにまこと夫婦とは……》
「祈祷文」を就寝前に読誦するようになって一月あまり。いつもは二人で、ミホが眠りについているときは島尾一人で読誦を続けてきている。島尾の中で受洗の問題が奄美移住後の現実的な課題となっていた。「のがれ行くこころ」を書き終えた島尾は《自分の事ばかり考えてミホの犠牲の上で自我を押し広げ》、《長い間忍従と緊張を続けた果てにミホは遂に精神を病》んでいった過去を振り返り、夫婦の契りの深さに思いを至らせていた。
四 「治療」と「一時期」
島尾が奄美移住後最初に書いた小説は「鉄路に近く」(『文学界』昭31・4)である。入院以後最初(『日記』によると入院中に佐倉を素材にした未発表の「印旛沼のほとり」を書いている)の〈死の棘〉体験の小説化(筆者は「のがれ行くこころ」と関係づけて読むことができると考えている)なので、ここでは触れない。「鉄路に近く」のすぐ後に周知の「妻への祈り」(原題「魂病める妻への祈り」。『婦人公論』昭31・5)を発表している。その中で「われ深きふちより」や「のがれゆくこころ」を《入院中に妻の発作のあいまを盗んでむしろ祈りのような気持ちで、そしてそれがいくらかでも妻に通うことを願って書いた》と述べ、《私はとにかく伏せ勝ちな肩を、もう一度上げなければならないだろう。……島の風土は私の体質を変え、子供らは島言葉を自在に操り、妻は再びかつての自然を取り戻すであろう。私は彼らに自らを捧げるであろう》と書いた。この文章について島尾は二年後に「妻への祈り・補遺」(原題「蘇った妻の魂」。『婦人公論』昭33・9臨時増刊号)で、《私は妻のこころをなぐさめることができるなら、どんな文章をも書くことができると考えられた。私はあの文章を、妻が気に入るまで何度も書き改めた》と書いているように、この時期の島尾は妻や子供たちとの家庭の再生を何よりも願っていた。その思いは小説執筆に向かう島尾の内面を律するものであっただろう。奄美移住後に書かれた《病院記》六篇は右の島尾の思いと無関係ではありえまい。
この年の十二月に島尾はカトリックの洗礼を家族と共受けるが、その前の十月と十一月に五作目の「治療」と六作目の「一時期」を書いている。
「治療」で扱われている素材は持続睡眠療法中(六月二十七日〜七月十日)の事柄である。叙述の中心は、発作に入り独裁者となった〈妻〉の容赦のない追求によって、兵卒と化した〈私〉が自らも狂うかに思えるほどに自己崩壊の危機に瀕しながら、〈妻〉の内部に〈私〉への一途な思いを感じ取り、〈妻〉にとって自分が切り離し得ない存在であることを認識していくことに置かれている。その叙述は「のがれ行くこころ」から更に情緒的な面が削られ肉感的になっている。《その時彼女は感情の疎通を拒み一箇無慈悲なメカニカルな装置にな》り、《私は自分の表情をいつも装置のそれに合わせて》《妻の論理に沿って常に何かを言葉にしていなければならぬ》。〈私〉の《献身》の思いは〈妻〉には通じない。〈妻〉はくり返し〈私〉を問いただし、追いつめていく。すると《私は妻の反応や発作の気配を皮膚に予想するだけで、汗がびっしょり全身にふき出し、のどもとに骨がつかえて息苦しくなる。そして私も又やたらにいらいらした言葉を意味なく吐きちらす狂おしい状態にはまりこんでしまう》。その時〈私〉はまた新しい側面を示している。
《しかし今私は季節を感ずることができないと思いこむ。そして私の眼は又、道の上に死骸を乾燥させて転がっている太くそして短いみみずをいっぱい見つける。》
《私は今自分の姿勢を安定させることができず、連想を連鎖させて広げると、私自身を木っ端みじんに崩壊させてしまうような胸悪さに襲われる。》
このような自然から疎外され、外の世界の日常へ連想を広げることが自己崩壊へつながる危険があることを感じる〈私〉の描出はこれまではなかったものであるが、その〈私〉ゆえに、《暗い暗い壺のように狭い井戸の中にとじこもってい》る孤独な〈妻〉が見え、《彼女から私を引き去ってしまえば、彼女は滅却してしまうことは私にははっきり分かる》のであり、《その井戸の中から妻と一緒にはい上るのでなければ、私の生は無意味なのだと考え》るようになったと言えよう。この時から世界の見え方は逆転し、外の日常世界より〈妻〉との非日常世界が輝きを増す。《外に出た私はたちまちにして孤独に陥った。私の頭の中で狂気の世界はずしりと手答えがあり、私の生は充実し》、《そばにいると私を疑惑の目で見つめてくる妻の暗い顔つきが、こうはなれて外に出ると、急に輝きをまし、栄光に包まれてにこにこ笑っている》と感ぜられるようになる。しかし狂気の世界を日常として生きることはできない。現実の日常世界の中で生の輝きを取り戻さなければならないのである。だから〈私〉は、そのためになすべきことは《どんなことがあっても妻のかたわらで、彼女の反応のすべてをそして彼女の容態の変化を克明に観察》することであり、《観察は同時に受苦であるがそれによってのみ私と妻の現実を動かして行くことができる》と心に刻むのである。この〈私〉は入院中の島尾であるよりは作品を書いている作者島尾と重なるように思う。たしかに持続睡眠治療中の『日記』にはミホの状態とそれに反応する島尾が細かく記録されているのだが、それは『日記』全体に言えることでもある。島尾は体験の小説化において、『日記』を素材に記憶を掘り起こし、再度体験を《観察》し直し、小説の言葉によって再構成しながら自己に関わる意味を見出そうとする作家である。奄美移住後その傾向が一層深まっているように思われる。
さて、「治療」の〈私〉にはもう一つ注目したいことがある。「のがれゆくこころ」で見据えられた《自我のいきぶき》の根が、〈妻〉の《幼児からの精神史》を介して〈私〉の幼児期の中に省みられているのである。幼児期の自分が《自分の精神の内部をついばみ散らす》《黒い鳥のようなものを一匹飼っていなければならないことを知った醜い色つやの悪いませた顔付の子供》として振り返られ、《それが現在の私と照応していっそう意味を加えて考えられ》てくるのである。この後に用水池の縁に転がっていた《金魚の屍体》を見る場面がある。川村二郎氏が《現実の思い桎梏から解き放たれて、一種超絶的な、この世ならぬ悲哀の相のもとに眺められるようになる》ための《文章の作用》?として取り挙げているものの一つだが、『日記』では《金魚の屍体》は作品の素材となった時期より二ヶ月ほど前に吉行淳之介たちとの面会中に見た光景である。〈私〉の幼児期への嫌悪を強調する作為が見える。「治療」は回復への出口の見えない苦しみの中にいる二人を描いて終わるのだが、その苦しみの中にある二人に微かな光りが見えはじめることが次の「一時期」で描かれる。
「一時期」の素材は開放病棟である神経科病棟に移ってから始まった冬眠治療(九月六日〜十月六日)に前後の事柄であり、《病院記》の時間としては結びに当たる。内容は前後半に分けられ、前半では冬眠治療が始まる前と以後の状態が叙述される。『日記』によれば、治療に入る前から発作が起きてもミホ自身の力で立ち直る日が増えてきているのだが、作品では冬眠治療に入る前の二人の日々はこれまでの作品のように《一種の地獄》のようである。《妻はしつこい被害妄想で現実感を喪失し、私はそれにまきこまれていてどんな人の顔もおそろしげ》に見える。《眠りそびれると暗いかげりが二人を冥府の方へ誘って行き、そこで過去があばかれ、その死骸が夥しく積み重ねられる》。《自分の過去の悪臭に私は中毒し、そして窒息しそうにな》り、《ただひたすら妻の眠りの機会の、その微妙な瞬間が、ことり、とやってくるのを、夜毎夜毎に絶望して待つ》日が続く。しかし、冬眠療法が始まり《私の妻への奉仕の姿勢》を《妻の病患の部分が》《極限まで要求した》結果、《ほとんど計量もされぬほど微量ではあるが、治癒の方に向かっていることが感じられ》るようになる。前作「治療」の濃密な〈私〉の描き方に比べると、妻の発作への不安が叙述されても語られる心のありようと語り手との間には一定の距離が保たれ、「治療」におけるような濃密な内面描写は抑えられている。叙述の主眼が〈私〉の内面ではなく、〈私〉と〈妻〉、〈私〉と女患者とを等距離で捉えることに向けられているからであろう。
後半は小児科病棟の小児結核の子供たちのことが語られる。堀部茂樹氏は「関係意識の記録―治癒」の中で、後半部に《島尾の関係意識の根にある》《〈他者〉との関係の亀裂であり、〈他者〉への根源的異和の意識》の表出を読んでいるが、筆者は堀部氏が示す場面(『日記』に記載はない)について別の読みをしてみたい。
子供たちは《ひやりとした冷たい、ひとをすかし見るような目付》をしており、《一人だけ図抜けて背丈の大きな少女が居て》、〈私〉は《彼女の態度がきわ立って独裁的であること》に《ある快さ》を感じる。〈私〉は子供たちに笑顔を向けようとするが《彼らの横顔は白く端正で頑固な拒否を含んでいた》。その子供たちが〈私〉に特別に意識されるようになる出来事が起こる。その出来事は「のがれ行くこころ」で用水池の水面を見ていた〈私〉が《妻の私を呼ぶ声》を聞く場面と同じ構図を示している。〈妻〉が冬眠治療中のある日、〈私〉が小児病棟の前を通ると異様な光景を目にする。子供たちは空き地の草原に出ていた。あの《背丈の大きな少女》が《土まんじゅうのようなもの》に《つばきを吐きつけるような仕ぐさ》をすると、《あの子供たちがみんな順ぐりにその土まんじゅうの上にのって》《二、三度とじだんだをふむ仕草をした》。遠くから見ていた〈私〉は《異様なたかぶった気持》になり、《変革の暗示といったようなもの》に襲われるのである。
堀部氏はこの場面を《島尾の関係意識を襲っていた情況の転位を暗示している》と読んでいるが、筆者はその後の《掘り起こされる過去のどの土くれの中からも……みにくい無数の悪魔がわざと痛そうな表情でリアリスティックな嘲笑をかくそうともせずに、ひょこひょことび出すのだ》という箇所と関わらせて読みたい。子供たちが踏みつけた《土くれ》は幼児期から《自分の精神の内部をついばみ散らす》(「のがれ行くこころ」)《無数の悪魔》を育てていた〈私〉の暗喩であり、《土くれ》につばきを吐きかける《少女》は〈妻〉の化身であり、子供たちの仕草は〈妻〉の働きかけの象徴であり、《変革の暗示》とは〈私〉が自己内部の《悪魔》の支配から抜け出ることの《暗示》として読みたいのだ。そのように読むのは、その後に《やがて私はそのようにして治療の効果が現れていることを、疑いながらも少しずつ納得》し、《少なくとも私の神経の緊縛はときはなたれた筈だ》と叙述されているからである。少女や子供たちの仕草や動作を、〈私〉が《変革》するための〈妻〉からの働きかけの暗示として〈私〉が看取したと読むことができると思う。その後から小児科病棟の子供たちへの〈私〉の思いは変化しているのである。一人で歩く〈私〉に《アベック》とからかいの言葉を投げかける子供たちに対して《熱を伴わぬ憎しみが育っていくのをとどめることができない》のだが、一方で《子供たちが、おそらく無意識のうちに感じ取っている自身のむしばんだ肉体の絶望感のことを思いや》り、《子供の肉声が相変らず私の耳を快いものにし》、《現世の受苦の救済として私にはたらきかけてくる》のは、〈私〉に《変革》が生じているからではないだろうか。ある日から子供たちははやす言葉を言わなくなる。〈私〉はあの少女の指示だと思う。〈私〉は《寂寥に襲われ》るが、《今妻と私の上をひとつの時期が通り過ぎてしまったのだと思》う。この《寂寥》は小児結核病棟の子供たちが近しい存在となったゆえであろう。〈私〉は「治療」の〈私〉からさらに変わりつつある。他者に閉じられていた〈私〉が他者に向かって開かれようとしている。
五 「重い肩車」と「ねむりなき睡眠」
《病院記》の最後に置かれる「一時期」を書いた後も、島尾は時間的に前に遡って翌三十二年に三篇を書き継いでいる。書かねばならない内的促しがあったからだと思う。
昭和三十二年一月に島尾は重要な体験をしている。一月十七日、海軍予備学生の同期生であった三木中尉?が事故で爆死した奄美大島久慈湾の震洋隊基地の発掘調査にミホと共に同行し、その後対岸の加計呂麻島呑ノ浦にあった島尾が隊長をしていた第十八震洋隊基地跡とミホの故郷である押角を二人で訪れた。その折のミホについて「妻への祈り・補遺」に次のように書いている。
《最初に妻は墓地へ行った。そしてそこで慟哭した。私は妻がその父と母の墓石と土まんじゅうに頬ずりして泣き叫ぶのを見た。私は妻を墓地から引きはなすことに絶望を感じたほどだ。……だが不思議なことに、古仁屋から名瀬までの長いバスにゆられ たあとで、妻はおこりが落ちたように、しっかりした挙措をとりもどした。妻のこころのなかでどういう作用が起こったのか私には分からない。とにかくそのあとで、妻はぐんぐん快方に向かったのだ。》
島尾はその後すぐ「久慈紀行」(『ともしび』31・2)を書いたが、久慈に行く船内でのことを書いた後は《未完》とした。呑ノ浦・押角訪問のことが小説化されるのは四年後の「廃址」(『人間専科』昭35・1)まで待たねばならないが、そこでも押角の墓地でのミホの姿は描かれていない。森川達也氏が記すように《そこはかつて氏が戦争の真っ最中に特攻隊長として死を待ち続けた地であり、同時に氏の青春が狂わんばかりにふくれあがって花咲いたミホ夫人との邂逅の地でもある。このとき、氏の心に自身の運命に対する、ある徹底的な思いがなかったはずはない》?故に、「久慈紀行」の《未完》は島尾の受けとめ方の深さを語っていよう。とすれば、押角訪問は、以後の《病院記》の〈私〉の描出に何らかの影を落としていると思われる。
久慈行きから一月後に書かれたのが七作目の「重い肩車」である。持続睡眠治療のはじめの時期を素材にしており、作品の時間としては「治療」の前に当たる。〈私〉への愛憎の相剋の果てに狂おしい発作に見舞われる〈妻〉との世界を、真実の世界として受けとめていく〈私〉が描出されている。この〈私〉は「治療」の〈私〉と共通する位相であるが、微妙に異なっている点がある。「治療」と同様に《見渡す限り頼るものは何一つ見えぬ》状況に追いつめられている〈私〉が叙述されるが、注目したいのは《唯一の同行者である妻》と書かれていることである。この《同行者》には互いが互いによって破滅から救われるという意味がこめられている。前に触れたように「治療」では《彼女から私を引き去ってしまえば、彼女は滅却してしまう》故に《その井戸の中から妻と一緒にはい上るのでなければ、私の生は無意味なのだと考えてい》くのだが、「重い肩車」ではさらに〈私〉から〈妻〉を引き去ってしまえば、〈私〉が滅却してしまうのだという、〈私〉にとっての〈妻〉の不可欠性がより強く描出されていると読める。あの戦争中に〈ミホ〉によって〈島尾隊長〉が救われていたように。それ故に、〈妻〉の発作に反応する〈私〉の内部に潜むエゴと自省心との葛藤と〈妻〉を求める〈私〉が「治療」以上に濃密に叙述される。
発作に入っている〈妻〉は生きものとしての原初的とも言える感情の促しによって行動する《人のようなもの》に化す。発作に巻き込まれると〈私〉も《嫌悪がつきあにげ》、言葉は《どす黒い因縁に悪まみれした底意地の強いもの》になり、《もうどうにでもなれ。毒々しい気分がむくむくと拡が》り、《地獄に落ちてもいい。殺せ殺せ。》と叫びたくなるのである。《しかしほとんど同時に自分にささやく声もきこえる。小心者よ、お前は何ごとも為し得ない。な、に、ご、と、も》と。《その声が聞こえるとのぼせは急速に冷え、私は呼吸をととのえ》、《妻の言葉や態度には決してこちらで反応を起こすまいと心に誓う》のである。そして〈妻〉の眠りによって取り戻される《通常の時間の流れ》は、慰安を与えるよりも〈妻〉のいないことへの《堪えきられぬ寂しさ! となって胸を締め付けて》くる。〈私〉には、狂おしい発作の渦の中に二人でいる時間こそが《手答えのある真実と見えて》おり、《夫婦二人きりの病院生活は素晴らしい充足だ》と思えるのである。
その後の展開は、少女に噛みついた犬の飼い主の青年が少女を責める光景を見て、自分も青年と同じだと思う〈私〉や、患者の夫に尽す付添いの妻たちが叙述された後、発作に巻き込れると《身体の中》の《一匹の大蛇》が《私の意志に反して》《のたうち廻り出す》自分を省みた〈私〉が、医師が示す《異常ではない日常の確かな運行の気配》を望むのではなく、《妻と同じように私はこの病棟の中で個室にとじ込められ電気ショックを受ける仲間の一人になった方がいいと考えたりする》ところで作品は終わる。前述したように作品としての時間は「治療」の前に当たる。両作品とも自己内部に巣食う罪・悪を自覚し、狂気する〈妻〉との世界に生の充実を感じる〈私〉を描出している。しかし、〈妻〉が眠りに入ることに《堪えきられぬ寂しさ》を感じ、《人のようなもの》となった〈妻〉の世界に同化したいと願う「重い肩車」の〈私〉は、《彼女の容態の変化を克明に観察》することで《現実を動かして行くことができる》と思う「治療」の〈私〉にも増してより切実に〈妻〉を求める〈私〉として描出されているように思う。
「重い肩車」から半年後に九作目の「ねむりなき睡眠」が書かれる。冬眠治療(九月六日〜十月六日)の前半を素材として、《限りない闇と思えた洞窟》から出て《曙光》を見出しながら、《こころみ》が続くことを予感する〈私〉が描かれている。作品の時間としては「一時期」の前に当たるのだが、「一時期」と比較した時この作品の注目すべき点が見えてくる。それは〈妻〉に治癒の兆しが見えはじめる時の〈私〉の描き方である。「一時期」では《私の妻への奉仕の姿勢》を《妻の病患の部分が》《極限まで要求した》結果、《ほとんど計量もされぬほど微量ではあるが、治癒の方に向かっていることが感じられ》ても、《奉仕の姿勢》をとる〈私〉は、《自分の過去の悪臭に》《中毒し、そして窒息しそうにな》っていた。しかし、「ねむりなき睡眠」では、〈私〉は《彼女のどんな反応にも受け身にならなくてなならぬ。いかなる審にも抵抗を示してはいけない。そうしなければ妻を殺してしまう》と思い、狂気する〈妻〉と一体化し、〈妻〉の発作が自分の肉体の中で起こっているように感受する。作者はそのように叙述している。たとえば次のように。
《じぶんの魂が粉みじんに破裂して果てのない宇宙の空間にまぎれこみそうな酔いに襲われ、……そこに欺瞞、欺瞞、と不揃いの積木をかさねた細く青白い男の顔が現れるから、いっそう焦慮し、……折からどこからともなく一匹の暴れ馬が現れ、渇いた 者のようにとび乗ると、……むしょうにそこらじゅうを乗りまわしたく、ひと鞭あてると狂奔した馬があばれだして、……むごいと思うよりは、ざまあ見ろとさげすむ気持が強く、……いっそうふくれあがってくるのに気がつく。頭は大鍋釜ほども重く、おそろしい痛みにさいなまれるが馬をとめることができない。》
このような発作に入る〈妻〉に同化した〈私〉は、「一時期」では描出されなかった〈私〉であり、前述した「重い肩車」での〈私〉が受け継がれていると言える。やがて〈妻〉に治癒への兆しを見えるのだが、それはこのように〈妻〉に同化する〈私〉が寄り添っていることと無関係ではあるまい。その時〈私〉は〈妻〉が《じぶんの力でそこからはい上がってきた》と思う。《ふつふつとわきあがってくる喜びは自分をへりくだらせる効果を与え、喜びに振幅を増させる》と思う。《自分をへりくだらせる》ことへ思いを向ける〈私〉は、第一作「われ深きふちより」の中で《私はやはりこのまま腐肉をついばまれていなくてはなるまい。宙ぶらりんのままで、どこに手足を支えよう術もなく》と思う〈私〉とは大きく異なった内実を育んでいる。
「ねむりなき睡眠」の〈私〉についてもう一点注目しておきたい。青年時代から今に至るまで長く〈私〉の内部に巣食っている、精神病者たちを《理不尽な》存在として《外側からながめ》ていることへの《負い目》が解消していることだ。〈私〉は自分が精神病院の「内側の人間」として見られる経験をすることで「長いあいだの心のなかの或るしこり」がほぐれたと感ずるである。ここには狂気する〈妻〉の「同行者」としての〈私〉がいる。〈私〉は他者に向かって自らを開こうともしている。だから次のように思う。
《しかし事態は終ってはいない。私の耳は幾度でもこころみを受ける。……その解放と束縛の緊張とのたえまのないくりかえしが、いわば私の生活である。》
〈私〉は日常世界の中に帰っても、他者との関わりの中で常に《こころみ台》に立たされ続けることを予感している。それは、「のがれ行くこころ」の《蛇・自我のいきぶき》、「一時期」の《無数の悪魔》、「治療」の《黒い鳥のようなもの》、「重い肩車」の《一匹の大蛇》と形を変えて表現されてきた自己の内部に巣食う罪・悪を〈私〉が見据え続けていかねばならないからである。終わりに描出される《私のノート》、《ニコチン中毒の女患者》、《オルガンを弾く少女》は、その《こころみ》の始まりなのではないだろうか。
細部に拘りすぎて木を見て森を見ない結果になったかも知れない。思い込みや独断も多々あると思う。本稿の対象から除いた三篇についても触れたいことはあったが、一で示した本稿の「ねらい」について考えてきたことは大方述べた。以上で筆を擱きたい。
(島尾敏雄の作品の引用は、晶文社『島尾敏雄全集』に拠った。)
注(1) 岩谷征捷『島尾敏雄』(鳥影社平24・7)。比嘉佳津夫『島尾敏雄を読む』(ボーダーインク平24・7)。
(2) 松島浄「『死の棘』ノート―島尾敏雄が『死の棘』に託したもの―」(『明治学院大学研究年報』第37号平19・3)。満留伸一郎「《離脱》の前後―島尾敏雄《家の中》について―」(『東京芸術大学音楽学部紀要』第34号平21・3)。
(3) 「夢の世界―島尾敏雄と庄野潤三―」(『文学界』昭47・7)。引用は新装版『意味という病』(河出書房新社昭54・10)による。
(4) 集英社文庫『われ深きふちより』(昭52・11)巻末解説。
(5) 「『死の棘』の世界」。『現代日本文芸の成立と展開―キリスト教の受容を中心として―』(桜楓社昭52・10)所収。
(6) 「島尾敏雄・『死の棘』」。『戦後文学の道程』(北洋社昭和55・5)所収。
(7) 「さみしい霊魂―島尾敏雄試論―」(『文学界』昭53・4)。日本文学研究資料叢書『野間宏・島尾敏雄』(有精堂出版社昭52・9)所収。
(8) 「〈家族〉」。『島尾敏雄』(筑摩書房平2・11)所収。
(9) 「原風景への回帰」。『島尾敏雄私記』(近代文芸社平4・9)所収。
(10) 『日記』によると、ミホのために友人に頼んでおいた「公教会祈祷書」が八月十六日に届き、翌日からその中の〈死者のための祈〉の一つである「De Profundis(デ・プロフンディス)」(『旧約聖書』詩篇百二十九。口語訳『旧約聖書』では詩篇百三十)をミホと読み始めており、その冒頭文「主よ、われ深きふちより主に叫び奉れり」から来ている。
(11) 題名は「脱柵」から「脱柵のこころ」そして推敲の段階で「脱奔のこころ」もあがるが、ミホの意見を入れて「のがれ行くこころ」に改められている。
(12) 三木中尉との交遊と事故について島尾は「三木十郎の事」(『透明な時の中で』(潮出版社昭63・1)所収)で詳しく書いている。
(13) 「島尾敏雄の〈苦悩〉の主題」(『国文学解釈と教材の研究』昭49・10)。饗庭孝男編『島尾敏雄研究』(冬樹社昭51・11)所収。