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「群系」32号 特集〈大正の文学」アピール文



次号特集


  「大正の文学」アピール文        2013.10.7.記



 「大正」(1912-1926)といっても、その外延は、明治末期の大逆事件(1910)から、昭和2年芥川龍之介の自殺までを含みます。実際、大正期に中心的な活動がなされる「白樺」や「三田文学」の創刊は1910年(明治43年)、すなわち大逆事件発覚の年です。「新思潮」も1907年(明治40年)小山内薫によって創刊されましたが、重要な活動期は、第3次(1914年・大正3年)-第4次新思潮(1916-1917年)の頃です。


 「大正」とはどういう時代だったのか。雄雄しい「明治」、激動の「昭和」に挟まれた、つかの間の安穏の時期、だったのか、あるいは、もっと独自性のある時だったのか、をめぐっては、今日改めて考えたみる意義がありそうです。


大正の始まった初期の頃は社会主義の冬の時代=@といわれましたが、だが、そのように意気消沈した時代の雰囲気の中から、「白樺」のような理想主義、吉野作造の民本主義(大正5年頃)のようなおおらかなものがなぜ生れてきたのか、考えてみれば不思議です。ひとつ水面下の活動として、大正元年に創刊された「近代思想」(大杉栄・荒畑寒村ら)の活動(とその限界)が指摘されています(蓮実重彦ら)。また、大逆事件の弁護士平出修の創作活動も注目されます。「逆徒」-「太陽」1913(大正2)年9月号に発表するが発禁処分された)。


 また、この頃から世界史的な動きに連動して、この国にも、社会主義の思想とその文学の運動が、明治期とは違う位相で展開されていきます。「種蒔く人」がそれで、1921年(大正10年)、小牧近江が秋田県土崎で創刊し、翌年、東京版を発行し、青野季吉・平林初之輔らも参加しました。

 1923年、関東大震災により廃刊(第二次通巻21冊)になりましたが、終刊号と別冊『種蒔き雑記』では震災時の亀戸事件での朝鮮人・社会主義者への虐殺に強く抗議しました。

  『文芸戦線』はその『種蒔く人』に後続するものとされ、創刊(1924・大正13年6月)当初は、平林初之輔、青野季吉らが論陣をはり、プロレタリア文学の理論化に力をつくしました。また、葉山嘉樹、黒島伝治、平林たい子たちが作品を発表し、プロレタリア文学の有力な発表舞台として認められるようになりました(ちなみに、『戦旗』は昭和3年5月創刊)。

 新感覚派の雑誌『文芸時代』(大正13年創刊)とともに、震災後の新しい時代のさきぶれとして、当時の作家をめざす若者に人気があったようです。


 大正期は、明治の自然主義の大家たちのあらたな活動(藤村・花袋・白鳥・秋声)のほか、私小説の隆盛があげられます。大正元年9月、舟木重雄、相馬御風、広津和郎ら早稲田大学文学部の学生や卒業生が中心となって同人雑誌「奇蹟」が発行されました。葛西善蔵が4作を発表しましたが、その処女作「哀しき父」は、高い評価を受けました)。

 また、大正期の大きな発展を見せたのは、詩歌でしょう。北原白秋や高村光太郎や萩原朔太郎・室生犀星などによる口語自由詩の完成は、この時代の特徴として強調しても強調しすぎることがありません。雑誌『感情』(大正五年(1916)〜同八年)によった萩原朔太郎、室生犀星、山村暮鳥ら。また、それに対比される雑誌「民衆」(大正七年(1918))によった福田正夫,白鳥省吾,百田宗治,富田砕花などの<民衆詩派>、さらに未来派、ダダイズム、アナーキズム、などが大正末年から現れて、昭和詩・さらに戦後詩への道程になったことかと思われます。

 また、鈴木三重吉主宰の『赤い鳥』の刊行は、大正らしい文学運動であったといえましょう。1918年(大正7年)7月創刊から29年3月までと,1931年1月から36年10月の〈三重吉追悼号〉までの前後期を通じて合計196冊発行されました。俗悪,下劣な読みものや雑誌の現状に対して,「世間の小さな人たちのために,芸術として真価ある純麗な童話と童謡を創作する,最初の運動」をめざし,島崎藤村、徳田秋声、野上弥生子、芥川龍之介、泉鏡花、小川未明、有島武郎ら当時、文壇で活躍していた一線の人たちが執筆に参加しました。


 もう一つ大正期の特徴としていえるのが、谷崎潤一郎を中心とした<耽美派>の活躍でしょう。なんでもパンの会に出ていた永井荷風が谷崎潤一郎を発見したというエピソードがありますが、文豪の初期の活動は見過ごすことができない、日本語の体験でもありました。

 <耽美派>としてのこれらの作家たちの延長には、江戸川乱歩なども書いた「新青年」(1920年1月創刊)もあげられましょうか。この雑誌は日露戦争後から刊行されていた『冒険世界』が改題されたものでした(初期は森下雨村編集)。1920年代から1930年代に流行したモダニズムの代表的な雑誌の一つでもあり、「都会的雑誌」として都市部のインテリ青年層の間で人気を博しました。国内外の探偵小説を紹介し、また江戸川乱歩、横溝正史を初めとする多くの探偵小説作家の活躍の場となって、日本の推理小説の歴史上、大きな役割を果たしました。また牧逸馬、夢野久作、久生十蘭といった異端作家を生み出した。平均発行部数は3万部前後、多い時は5〜6万部に達していたと言われています。

 さらに、文学そのものではありませんが、大正期には独自の思想・哲学が胚胎したことも特徴といってよいでしょう。和辻哲郎は、『ニイチェ研究』(内田老鶴圃・1913)、『ゼエレン・キエルケゴオル』(内田老鶴圃・1915)の研究から始まり、『偶像再興』 (岩波書店、1918)、『古寺巡礼』(岩波書店・1919)を発表しました(『風土 人間学的考察』 岩波書店、は1935年でした)。

 生田長江(ニーチェ翻訳)には、数々の研究・著作、翻訳がありますが、特に注目はニーチェ全集の翻訳でありましょう。大正から昭和にわたっていますが、掲げておきます。

『ニーチェ』全集、新潮社

第1、2編、『人間的な余りに人間的な』(1916 - 1917))

第3編、『黎明』、(1918)

第4編、『悦ばしき知識』(1920)

第5編、『ツァラトゥストラ』(1923)

第6編、『善悪の彼岸・道徳系譜学』(1923)

第7、8編、『権力への意志』(1924 - 25)

第9編、『偶像の薄明・反基督・この人を見よ』(1926)

第10編、『悲劇の出生』(1929)→ 赤坂書店(1947)

*ちなみに、鴎外は、それ以前に原著のニーチェ全集を蔵書していたといわれます。


 また、『善の研究』は、日本の稀代の哲学者である西田幾多郎が著した哲学書。1911年(明治44年)刊。また九鬼 周造の『「いき」の構造』(初版1930 岩波書店)、も、ともに、大正期の刊行ではないが、いかにも大正の風土によって使われた思想といえるのではないでしょうか。


 さらに、見逃すことのできない文学の達成として、大正期の漱石、大正期の鴎外があり、ともに前代明治期より重要な作品・論稿を含むと思料されます。


 どうぞ、同人の皆様の意欲的なご投稿をお待ちいたします。ご論稿には、如上に指名したように、「大正」期以外の内容がはいっても当然可、です。

        永野悟 




【参考文献】

 柄谷行人篇『近代日本の批評 V 明治・大正篇』

  講談社文芸文庫

 (「大正的」言説と批評 蓮実重彦-/座談会「大正批評の諸問題)

 十川信介著『近代日本文学案内』 岩波文庫別冊

 鈴木貞美著『日本の<文学>を考える』 角川選書

 鈴木貞美編『大正生命主義と現代』 河出書房新社

  目次内容

T 大正生命主義と現代

  鈴木貞美「大正生命主義」とは何か

  鈴木貞美 大正生命主義研究のいま

  中村雄二郎 哲学における生命主義

  山折哲雄 大正期の宗教と生命観

U 大正生命主義の諸相

  鈴木貞美 大正生命主義、その前提・前史・前夜

  稲垣直樹 「近代スピリチュアリズム」の受容

  関井光夫 性愛と生命のエクリチュール

  紅野謙介 透谷の「生命(ライフ)」、藤村の「生命(いのち)」

  金子 務 藤村における生命主義と科学主義

  永野基綱 朦朧たる現代 生命(ライフ)の哲学

  日高昭二 大杉栄再考

  岩見照代 一九一一年・〈太陽〉・らいてう誕生

  正木 晃 大正生命主義と仏教

  石崎 等 夏目漱石の生命観

  江中直紀 女、生、文字

  中島国彦 内的生命としての自然

  今村忠純 メーテルリンクの季節

  阿毛久芳 〈円球の中心から放射する〉思想 萩原朔太郎の〈生命〉の直観的認識について

  竹内清巳 室生犀星の「生命」 昭和文学への賜物

  藤本寿彦 大正生命主義と〈農〉のイメージ

  大和田茂 民衆芸術論と生命主義 加藤一夫を中心に

  漆田和代 「いのち」の作家への道程 岡本かの子「散華抄」を中心に

  鎌田東二 宮澤賢治における食と生命

  百川敬仁 日本主義者・倉田百三

V 一九八〇年代の生命主義

  森岡正博 八〇年代生命主義とは何であったか

  座談会 八〇年代生命主義の行方

   森岡正博・上田紀行・戸田清・立岩真也・佐倉統 鈴木貞美



 参考文献など、提示できる方は、随時、お願いします。

(「群系掲示板」あるいは、メールで当方へ、など。)

→ snaganofy@siren.ocn.ne.jp



*10月7日深夜に同人70人にメールを送りました。それぞれの担当がどうなって

いるのかは、ご返信の方には、通知の予定です。


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   (大正の文学)       (明治の文学)



*「群系」33号(締切 平成26年4月 7月刊)の特集は〈昭和戦前・戦中〉

*「群系」34号(締切 平成26年9月 12月刊)の特集は〈昭和戦後〉の予定です。

 
 

「群系」次号(32号)原稿募集要項



  掲載料金、配布冊数など、はこの数年変わりません。 〈読書ノート〉など、1pからでも歓迎です。複数投稿は、3部まで。





原稿種類  評論・研究、創作・小品、エッセイ、詩(短歌・俳句は除く)、コラム(1ページ。半ページ囲み)など。音楽論・絵画論、評伝、メディア論、漫画論なども歓迎。複数投稿可。 

枚 数   基本的には自由

 1ページは25字詰め×23行×2段=1,150字)。

 1ページ目にはタイトル分25字×8行×2段=400字(1頁物などは、25字×5行×1段=125字)が入ります。それを除いて計算ください。

 なお,《読書ノート》《音楽ノート》《映画ノート》(各1〜2頁)や、政治的・社会的テーマのコラムも募集(1〜4ページ)。気楽に投稿ください。

 締切 11月15日(金曜) 

 提出先

 → snaganofy@siren.ocn.ne.jp

   (群系編集部宛て)

 遅れる人は、ご連絡いただければ。

 掲載料  Word添付で、3千円/1p  

       手書きは3,500円/1p

 配布冊数 掲載ページ+2(原則)

 発行  12月中旬

 合評会 2014年2月の日曜日


特集企画 

 第1特集「大正の文学」

  コンテンツとしてほしい項目は、以下のような作家(赤字)たちです。 作家・作品論のかたちで結構ですが、同人雑誌ごとの経緯をみていくのも、本誌らしいかたちと存じます。

 ・社会主義冬の時代について 荒畑寒村・大杉栄・平出修

  →荒畑寒村・大杉栄らによる「近代思想」(大正元年10月創刊〜同3年9月)の役割

 ・プロレタリア文学運動(「種蒔く人」「文芸戦線」)と作家たち  葉山嘉樹・平林初之輔・青野季吉など

 ・「白樺」派の作家たち

 大正デモクラシーなど自由主義の空気を背景に人間の生命を高らかに謳い、理想主義・人道主義・個人主義的な作品を制作した。人間肯定を指向し、自然主義にかわって1910年代の文学の中心となった。1910年刊行の雑誌『白樺』を中心として活動した。

 白樺派の主な同人には、作家では有島武郎、木下利玄、里見ク、柳宗悦、郡虎彦、長與善郎の他、画家では中川一政、梅原龍三郎、岸田劉生、椿貞雄、雑誌『白樺』創刊号の装幀も手がけた美術史家の児島喜久雄らがいる。武者小路は思想的な中心人物であったと考えられている。多くは学習院出身の上流階級に属する作家たちで、幼いころからの知人も多く互いに影響を与えあっていた。

 ・〈耽美派〉の作家たち

  永井荷風・谷崎潤一郎

 ・「新思潮」の作家たち

 1907年(明治40年)小山内薫が創刊したが振るわず挫折。以後、帝大生により復活され、東京大学(東京帝国大学)系の同人誌として後に続いた。特に第3次(1914年・大正3年)-第4次新思潮(1916-1917年)の同人菊池寛、芥川龍之介、久米正雄、松岡讓らを新思潮派といい、大正文学の一つの拠点になった。

 第3次 久米正雄、松岡譲、豊島与志雄、山本有三らが活躍。小山内が創刊号に評論を寄稿。芥川龍之介(筆名:柳川隆之助)も翻訳などで参加。

 第4次 成瀬正一、久米正雄、菊池寛、芥川龍之介、松岡譲が参加。創刊号に掲載された芥川の「鼻」が夏目漱石に激賞され、久米、芥川が小説家として世に出た。


 ・「三田文学」周辺(1910年(明治43年)5月創刊)

 1910年、永井荷風は、森鴎外と上田敏の推薦で慶應義塾大学文学部の主任教授となる。内容は仏語、仏文学評論が主なもので、時間にはきわめて厳格だったが、関係者には「講義は面白かった。しかし雑談はそれ以上に面白かった」と佐藤春夫が評したように好評だった。この講義から水上瀧太郎、松本泰、小泉信三、久保田万太郎などの人材が生まれている。このころの荷風は八面六臂の活躍を見せ、木下杢太郎らのパンの会に参加して谷崎潤一郎を見出したり、訳詩集『珊瑚集』の発表、雑誌『三田文学』を創刊し谷崎や泉鏡花の創作の紹介などを行っている。

 ・大正期の自然主義作家

  田山花袋・島崎藤村・正宗白鳥・徳田秋声

 ・私小説作家たち

  葛西善蔵・近松秋江・宇野浩二・嘉村磯多

  「奇蹟」(大正元年9月創刊〜同2年9月・舟木重雄・広津和郎)の役割

 ・詩人たち

  北原白秋・萩原朔太郎・室生犀星

  高村光太郎・宮澤賢治・民衆詩派の詩人など

・大正期の漱石

・大正期の鴎外

・大正期の思想 

 和辻哲郎・九鬼周造・西田幾太郎・生田長江(ニーチェ翻訳)

 吉野作造「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」(『中央公論』)大正5年1月

・関東大震災と文学

・大正期のジャーナリズム


第2特集「流行歌」について

 「東京行進曲」など、ラジオの放送とともに、多くのメロディーが国民に親しまれました。白秋「この道」、雨情「城ヶ島の雨」なども作られました。あるいは、「赤い鳥」に見られるような童謡運動もみられました。軍歌も作られました。

 とにかく、口で歌われたものならなんでも、2-6pくらいのエッセイを募ります。

 同時に、今回も前期の映画同様、アンケートを募りたいと思います。

《問》あなたの心にしみる流行歌・愛唱歌は何ですか。三つあげてください(曲名と、作曲者・作詞者・発表年なども。童謡・唱歌、軍歌・行進曲などもふくむ。時代はいつでも)。また、その理由も2〜3行で書いて下さい。



 回答例 T
 @ 燦めく星座  佐伯 孝夫 作詞佐々木 俊一 作曲
 A 空の神兵  作詞:梅木三郎 作曲:高木東六
 B みかんの花咲く丘 海沼実作曲 加藤省吾作詞


 @は戦後、灰田勝彦が歌って大ヒットした。あの太宰治が酔うとよく口にしたという。
 Aは、陸軍初のパレンバン落下傘部隊を歌ったもの。
  軍歌の本質は軍国主義ではない。萩原朔太郎も言っているように、軍楽は、音楽・生命の律動こそが本質である(朔太郎はラジオに耳傾け、「軍艦マーチ」「愛国行進曲」を愛したという)。
 Bは、戦後大ヒットした、童謡の珠玉。川田正子の歌唱。



 回答例 U
 @ 月光仮面 作詞 - 川内康範 / 作曲・編曲 - 三沢郷 / 歌 - ボニー・ジャックス、ひばり児童合唱団
 A 少年ジェット 主題歌「少年ジェットの歌」:作詞 / 武内つなよし、作曲 / 宮城秀雄、歌 / ひばり児童合唱団

 B ホームラン教室 主題歌 小柳徹「ホームラン教室」(作詞・高垣  葵、作曲・真木 信夫)


 @は、1958年(昭和33年)2月24日から1959年(昭和34年)7月5日まで放送されたテレビ活劇番組。後の「七色仮面」、「ナショナルキッド」「アラーの使者」などの覆面ヒーロー物も先がけ。当時は、皆風呂敷を顔にまいた(ばかだった)。原作の川内康範 を、成人に至るまで川端康成、と勘違いしていた。

 Aは、1959年3月4日から1960年9月28日まで大映テレビ室製作でフジテレビ系にて放映された。ヱスビー食品の一社提供番組。また1961年7月2日から1962年4月1日までは続編『新少年ジェット』が放映された。初代少年ジェット:中島裕史、二代目少年ジェットは土屋健。

 ともに、「う-、や-、たあ-」という声で樹木をなぎ倒すシーンがあって、皆どこでも「う-、や-、たあ-」と大声をはった。大木が倒れるわけがないと思いつつ、皆やった(ばかだった)。少年ジェットが犬(シェーン)とともに走っていく最初の場面の歌は、実は宮城まり子が歌っている。

 Bは、NHK総合で、1959年10月10日 - 1963年3月30日の3年半放送されたホームドラマ。東京タワーが見える場所だが、当時は、子供が野球で遊べる空き地があったのだ。主人公の小柳徹は後に交通事故で亡くなった。