『群系』 (文芸誌)ホームページ 

<32号・同人による短評>       2014.1.22.〜 徐々にアップ



 2月23日(日曜)の合評会の参考ともなる、投稿作品の同人相互の<短評>です。 ご意見・感想は、次のメールアドレスへ。  snaganofy@siren.ocn.ne.jp


目次掲載順に掲出しています。目次は、2号目次へ とあるところをクリックください。作品自体も徐々にアップしていっています。


<短評>部分は青黒文字になっています。


(同人短評のサイト) 


「群系」32号  (2013年12月25日刊行!)


 《特集T》大正の文学                     


 大正と「白樺」派 -志賀直哉という存在を中心に-        宮越 勉

<短評>

 志賀直哉は白樺派の代表的作家とみなされていますが、実は「白樺」に発表した作品はそんなに多くはなく、後年その人道主義的傾向を嫌っていたようなコメントをしていたこと、大正の終わり頃に私小説論争が起こりますが、世評の高かった志賀の「和解」は私小説で、発表当時はあまり注目されなかった「城の崎にて」「濠端の住まひ」は私小説よりも上位概念とみなされる心境小説の範疇に入ること、また、児童文学雑誌「赤い鳥」に志賀の作品は掲載されておらず、唯一の童話「菜の花と小娘」は児童文学を超越する芸術性を持っていたこと、そして、武者小路、有島武郎とは異なり、戯曲は書かなかったこと、つまり、志賀直哉は小説一本でその芸術性を追求した作家であり、後代の作家に与えた影響が甚だ大きかったなどのことから、志賀は大正期第一級の小説家だったと宮越教授は結論されています。

「小説の神様」と言われる理由がわたしはよくわからなかったのですが、確かにわたしが高校時代に好んで読んだ武者小路とは、異なっています。「話」らしい話もない中で、「そのリアリズムに東洋的伝統の上に立った詩的精神を流し込んでい」る志賀の作品を芥川は高く評価し、和辻哲郎は「気品高い作品」と絶賛しているのですが、小説の中の小説、本当の小説はこれなのだというのであればまた読んでみたくなります。

志賀は、倉田百三の代表作「出家とその弟子」に「不快感」を感じていたようですが、芸術と宗教、道徳の関係はいかにあるべきか、芸術から倫理は排除すべきなのか、芸術と大衆性の関係など深い問題が潜んでいるようで宮越教授はそのことも問題提起されているように思われました。 (大堀敏靖)



                          

 武者小路実篤について ―自我と国体―            大堀敏靖

<短評>





 有島武郎の「宣言一つ」をめぐって              永野 悟

<短評>

 十年ほど前、有島武郎の『或る女』を三分の一ぐらいまで読んだが、依然として中断したままでいる。有島武郎に現在そんなに興味あるわけではないが、当時何かしらの強い関心があったのでそんな長編を読む気になったのだろう。

 有島武郎という人物は大雑把には知っていたが、永野さんの今回の評論を読んで、いくらかそれが具体的に分かり勉強になりました。よく調べて書いているもんだと感心します。他の方々もそうでしょうが、三ヶ月ぐらいの時間を見ないと、書けない文章作業ではないかと思います。

 有島武郎の思想的変遷というものについて、わりと整理されて書かれていると思いました。ブルジョア階級にありながら、思想的誠実さを追求するがゆえに社会主義を望み、小作人に北海道の農場を開放するに到ったプロセスが分かります。

 結局、最期は波多野秋子と心中してしまったというのも「二つの道」、この場合は思想と愛、ということの一つだったのだろうかと思いました。この心中事件について二十年ぐらい前か、一時期話題になったことがあったと思います。おそらくは永畑道子『夢のかけ橋―晶子と武郎有情』が出された頃だと思いますが、友人がこの話を何度か語って聞かせてくれた記憶があります。有島武郎の思想とともに、こうした文学的な話も評論として読みたいものだと思いました。以上、感想です。(岩木讃三)




 大正期の泉鏡花 -浪漫主義作家の面目を新たに−        小林弘子 

<短評> 

【リトマス試験紙としての泉鏡花】

■本稿は泉鏡花の大正期の復活のドラマが鮮やかに描かれていて、印象深い。

明治36年の尾崎紅葉の死後、自然主義台頭の余波として、硯友社の生き残り作家達は「古いタイプの戯作者」として葬り去られようとしていた。

その鏡花が、なぜ一人、大正期に復活したのか、というのが本稿のテーマである。

面白いのは、鏡花の扱いが、自然主義系の作家からは「通俗作家」として見られ、反自然主義系の作家からは、「天才」視されていることである。

小林氏の論考では、鏡花復活運動において、大きな役割を果たしたのが芥川龍之介であるという。

芥川は言う。鏡花の背景にあるのは「詩的正義に立った倫理観」であると。

そして、鏡花作品は、「全硯友社の現実主義的作品の外」に立つものであり、同時に、後の「自然主義作品の外」に立つものであると。

――これはほとんど、今日においてもなお決定的な泉鏡花への評価ではないだろうか。

まさしく泉鏡花は、日本文学における妖しい“リトマス試験紙”なのであり、鏡花に接触した化学反応でどう変色するかによって、それぞれの作家の感性が、鮮やかに示されることにもなる。

■このコンパクトな論考の中では、芥川をはじめとする当時の作家たちの風貌が覗われて面白い。

ラストで引用された大正14年の「新潮合評会」での面々の反応は、各種各様だ。

ちなみに、小林氏の引用から、大正作家たちの鏡花文学による“化学反応”を図式化してみよう。

 広津和郎  △ (鏡花全集の芥川の序文がなかなか良い)

 徳田秋声  × (贔屓芸人ふうの評価。一種の迷信に過ぎぬ)

 宇野浩二   × (評価する読者の気が知れない。考えの足らない文学青年の誤読。文学の邪道 )

 中村武羅夫  ○ (愛読者は酔わされる)

 千葉亀雄    ○ (昔はあの文章を暗誦した)

 ――そして最後に、徳田秋声の「しかし天才は天才、奇形的だが」というオチがつく。

■本稿は鏡花文学の評価をめぐるエッセイであるが、芥川龍之介の印象も強く残る。

この座談会でもふれられているが、芥川は、広津和郎を唸らせるような鏡花全集の「序文」を書いたという。昭和2年に自殺する芥川は、この後で小説のスジや虚構をめぐって谷崎と論争することになる。

大正末といえば、すでに神経衰弱と健康の衰えの中、「大導寺信輔の半生」「保吉もの」などの私小説・自伝小説的な作風を深め、「物語作者」としての自分に不安を抱いていた時期ではないだろうか。

そんな試行錯誤の迷いの中でも、他の作家に対しては、「良い作は良い」と言い切ることのできた芥川の率直さが、どこか悲しい余韻を残す。                                                                   (草原克芳)


 永井荷風と歌舞伎座 ―大正篇―               野寄 勉



 谷崎潤一郎と〈非知〉の陰翳                   草原克芳 


 <短評>                      

 私は学生の頃、谷崎潤一郎の「春琴抄」を題材にした「讃歌」という映画を新宿アートシアター・ギルドで観たことがあり、大いに感動したことを覚えている。原作も読みなおしたが、谷崎が「耽美派」の作家であること以外に知らなかったし、今でもあまり変わりはないので、草原氏の論考をどうのこうのとする資格が十分に無いように思うが、それはさておき・・・(それでも)谷崎文学は”知的に非ず”という批判は初めて聞いた。文学に知性は必須条件なのか。草原 氏の反論は「作家における知性・批評・思考は何を意味するのか」とした課題探求であり、単に書誌に終始しないオリジナル性があって好感が持てた。

時代の逼塞感と文学の停滞状況を突破する意匠として耽美的な、は有効なものであり、その意味で「批評的」であるという氏の指摘は興味深いし正鵠を射るものだと思われる。つまり意表を突いた谷崎のストラテジー、と。海外では、ボードレールと言いゲオルク・トラークルと言い、現在から直感として受ける”悪魔的なもの””死臭漂うもの””地獄的なもの”に触れる詩が、ずうっと読者を魅了し続けているのは、人生なら人生に対し「倒錯したかのような視点の角度、思考の位置」からする意味の探求に引きずり込りこんでいるせいなのだろう。同じ質の評価を谷崎潤一郎の世界に授けるのが自然だと論考を読んでいて思った。

 また、文学において知的であることの意味は何であるか、とした問いは、われわれ創作する者の、それこそ必須項目なのではないかとも考えてしまう。思うに、知的たるとは「主題の内面化」から始まり、客観的な批評を加えたうえでの、再びの内面化ではないだろうか。つまり循環して作品に昇華するという意味を指して言う。

 氏の論考で取り上げられる『刺青』と『春琴抄』は密室の美と言っていい。春琴は実家の二階座敷で丁稚の佐助に三味線の稽古をつけ上手く弾けぬと言っては年上の弟子に打擲を加える。『刺青』では達人、清吉がその足に一目惚れした十六歳の娘の肌に、緻密に精密に残酷に女郎蜘蛛の絵を彫りつける。それぞれの部屋で行われているそれぞれの行為では、男も女も呻き脂汗を滲ませ、芸に、絵図に生命を与えていく様子がうかがえ、読者は息を呑むばかりである。閉じられて淫らにも映し出される二人の争闘に「苦痛を与え、与えられながらの相克」に谷崎は美を嗅ぎ当てているのだろう。作家の美意識にぴたりと感応しながらも、批評的な態度をくずさず冷静な構成力のうちに物語を編み出していく創造の過程は「非・知的」ならば有り得ないと言えないか。

草原氏が”小説の智恵”と呼ぶ「象徴思考」「元型思考」は、作家の作品群に一貫する(通底する)作家の”起源”と作家の抱える”特異な思考のかたち”のことであって、作家が知的であるか無いかという評価のモノサシを超越する「作家の存在理由」の異形のことである。言い換えれば「作家が生涯をかけた文学空間」(草原氏)を暗示する概念である。草原氏の造語のなかにそれを思うし、有効なモノサシであって平たく言えば固有値のことを示している。だから必然、読者それぞれの固有な世界に作家の力が加わって、読者各自の無意識にひそむ「暗闇の自己ないしは個別の体系の暗示」(草原氏の言葉では””暗在系”)が生み出されるのだ。または読みの快楽である。

 虚構における類似的な表象の多数あるいは内的形象(草原氏)の相似形を、まさに固有値として見なされるその作家の文学空間を持つ作家はそうはいるものではないと思う。だから、一貫する(通底する)作家の精髄を、作品の相似形のうちに「透視する」(草原氏)読みの醍醐味を読者は味わえるということになろう。しかもその味わいの価値は「非知的な条件」のさ中にある小説において「も」輝いて存在している。 (2014.1.20)  荻野 央


 <短評> 2

谷崎潤一郎と<非知>の陰翳      草原 克芳

 はじめに。 

 谷崎潤一郎と佐藤春夫から見た鏡花。この二人は鏡花の人と作品を敬愛していました。ある日、二人が鏡花宅を辞して帰る途中、佐藤が谷崎に「鏡花さんの、あの奇想はどうして考案するのか」と訊いたところ、谷崎は「鏡花は考えて書くのじゃなくて、小説(文章・言葉)を吐くのだ」と言っています。蚕が糸を吐く姿そのままに、鏡花は小机を前にして筆を持ち、頭を下げて、口から小説を吐いているーーと谷崎は見たのでした。

 このエピソードから思うに、谷崎は<非知>の作家ではありません。

 つまり、「鏡花は筋立てや盛り込むコンセプトなど、小説に必要な要素の配分・調合などは無意識で書いている」と言うのですから、そう言う谷崎は<非知>であるわけがありません。鏡花は筋がこんがらがると妖刀でもって、デウス・エキス・マキナで終わらせてしまうけれども、谷崎は「小説の結構」は、はんなり・ふっかり、過激・テンションがあがる、ということがありませんね。『細雪』は大団円です。

 草原さんの、本稿は優に一冊になる『谷崎潤一郎新見』といえる雄篇・優篇と思います。中村光夫・小林秀雄のタッグチームが真っ青。大谷崎についての謬見は世に満ちている様子。ノーベル文学賞は、本来はこの人でした。

 佐藤春夫は弟分、その批評は犀利英発、中年になって脳梗塞の発作を起こすまでは、芥川龍之介亡き後を「小説と批評」で文学界を一人で牽引していました。先ごろ逝去した丸谷才一が、春夫の『退屈読本』を真似て文章修業をした由、本人が何度もいっています。潤一郎は「佐藤は、患ったあとでは鋭鋒がナマクラになった」と嘆きました。

 草原さんの「本論」通り、谷崎の文壇登場からその死にいたるまでの「戦略・ストラテジー」は大したもの。潤一郎は上流好みで細君も最初ののは春夫に譲り、関西の金満家の人妻を手に入れ、生涯和服で、でろりんとした感じでしたから、光夫のクソまじめさな人柄とは波長が合わなかったのだと考えられます。光夫は、かなり後になって春夫と直に論争しましたが、この論争の中身も「アンチ谷崎」と同根であったのか、と草原さんの卓越した「本論」ではっきり、すっきりします。

 P31、32−−「小説」の可能性ーー<内的形象>発掘の知恵

ここにはミラン・クンデラを挙げて、「小説固有の知」が説かれ、次いで<象徴思考><元型思考>とエリック・トンプソン以降のユングやエリアーデ、またフラクタル、ホログラムといった図象学、さらにはフッサールに始まる現象学と、草原さんの博識を基盤に太いベクトルでもって、今日現在の文芸批評の視界展望がされています。

 結局のところ、谷崎は日本文学という鉱脈、金銀・宝石がざくざくの太くて深い鉱脈なのだ、これを未掘のままで放置しておいては、平成も26年を閲しているおりに、大損失。批評界が振るわないのもこの辺にあるのだから、まったくもって、いいはずはない、というのですが、わたしはこの谷崎潤一郎の大洗濯を草原さんにやってほしいなあ、と切に思います。かつて鎌倉に集い、川端康成・小林秀雄の二枚看板で同人誌「文学界」が出、新風が起こりました。同じことで草原さんの面目躍如、「群系」号の先行きと重なります。  (安宅夏夫)

 


 芥川龍之介の「歯車」                     荻野 央

<短評>

 荻野さんの諸稿は表現がむずかしいです。最初の段落からそれが見られます。「人生の幸不幸をめぐる瞑想を導き出す暗示。一歩踏み込めば、その幸不幸が「欲望」という契機で動かされていることを示していると知る暗示」。

 現代詩の分野には、その作品を書いた当人にしか判らない詩篇が存在します。小林秀雄の評論も難解ですが、小谷野敦氏は非論理的という用語を使って「非論理的な、あるいは論理が飛躍するような形の評論文が増えたのは、小林秀雄がドイツ・ロマン派の影響下に書きはじめた『文芸評論』以降のことに属する(『文学界』平成14年5月号)と述べています。かつて、ある座談会では中野孝次が「もっとわかるようにしゃべれ」と柄谷行人氏をどなりつけたことがありました。(ただし、柄谷行人氏の『反文学論』は文芸時評として書かれていて、平易な表現で判らない箇所はありません)。諸稿を読ませてもらう人は一行一行の文章を対話しながら読む者で、それは執筆者と対話していることと同じです。しかし、理解し難い記述がしばしば見られる諸稿の場合は、読ませてもらっても対話が成立せず、読ませてもらうよろこび、楽しみを感じることができないという事態になります。執筆される人の側には、なまじっかに理解されてはならないという気持ちがおありになるのかもしれません。

 芥川龍之介にはとくに新感覚派も影響を受けたという作品も存在しなければ、レーニンについてのアフォリズムや詩篇でとりあげた例はあっても、プロレタリア文学的な作品はまったく書いていません。

 「歯車」は芥川自身が二十歳前後から考えていた人生に対する認識を押し詰めていった位相に成立した作品だと思われます。

 「発端は、前年に発表した『點鬼簿』で告白した、若くして発狂して死んだ母の存在にあった。しかしその後は、母は自分に関係してこない」と記され、「歯車」が作者自身にも精神異常があらわれるかもしれないという不安のうえに書かれたとみておられるようです。眼の奥に歯車がまわるのが見られるというのは視神経の病気が原因ですが、作者の心身に衰弱していて、その状態で現実に対応していると、現実もまた不安定な状態を呈します。荻野さんは、そういう「歯車」の作品内容を詳しく説明されていて、それはよく判ります。しかし、諸稿の結末部分でまたたいへんむずかしい記述になります。(野口存彌)




 芥川龍之介・芸術の光、人生の闇                野口存彌


<短評> 

  評論というものは書きたいものがなければ書く意味はない、新しい発見がなければ読む意味はない、というのが私の考え方であるが、そういった意味でいっても、野口存彌氏の評論はいつも私に新しい知見と示唆を与えてくれる。

 芥川龍之介を扱ったこの評論は彼の生い立ちの事情、彼にとっての母という存在(「母の存在を封印しようとする意志」、「人生的苦悩の根源にあるのは母の精神異常という問題」というのは私には衝撃的であった。)から、恋愛の挫折など芥川の文学の根源となるものを年代的に追っていく。最後に芥川の自死について、「主知主義」的な文学者として生きる可能性があったのでは、という件については、不明な私にはやや難しかったので課題をもらったと思い、考えて行きたい。(名和哲夫)


 葛西善蔵と嘉村磯多                      名和哲夫

<短評> 

 葛西善蔵にしろ、嘉村礒多にしろ、一昔前までなら私が読もうとはしなかった私小説の極北にある作家である。

それが何で今は読む気になったのか? 心境の変化でも主義の変更と言ったものでもない。強いて言えば年齢の

変化とでも言えようか。私も人並みに老いたのである。あるものを、あるものとして受け容れる余裕が出てきた

のである。存在するものを、存在すべきではない、と言ってみたところで「しょうがない」ではないか。そして、

私とこの二人との関係は、葛西と嘉村の関係でもあったろう。嘉村は、葛西作品の口述筆記をしながら、おそら

く同じようなことを思っていたのではなかろうか。名和氏は述べる。「葛西は自ら悲惨を作り出していったのに

対して、嘉村は自らその素質を持っていたように思える。・・・・・・だが、葛西がいなかったら嘉村はいなかっ

たのではないか、とも思う」。下手なことを言うと、自分を否定することにもなったであろう。葛西には葛西の、

嘉村には嘉村の存在理由があったのである。〈命を賭けている〉ようなことを無下に否定する訳にも行くまい。

(澤田繁晴)


 


 万策尽きたのか?−牧野信一                  澤田繁晴

 <短評>

 澤田さんは、牧野信一作品の朗読会に参加した際、「黙読していただけでは分からなかった『幼稚っぽさ』に気がついた」という。未発達な子ども世界は「月あかり」で見るように物事が判然としない。

 牧野の底流に流れる他者への違和、関係を持つ困難さが表出されているからだろうか。牧野は子ども世界から脱皮できぬまま自殺した。そんな牧野に、澤田さんは優しく問いかけている。「万策尽きたのか?」と。(近藤加津)




 鈴木三重吉と『赤い鳥』の周辺 −宮澤賢治の動向にも触れて   近藤加津

<短評> 

 大正という短い時代に、「あきらかに、小説に行き詰まって、ふと窓外を見ると、未墾の原野があるのに気が」つき、「芸術」としての児童文学を展開させた鈴木三重吉のことが、その人となりを交えて簡潔にまとめられている。

 中でも、宮沢賢治の当時を窺うことのできるエピソードは、大変興味を惹かれる。賢治と三重吉の資質の違いが浮き彫りにされている。現在の賢治への高評価、どこか神話的な感すらある文学世界を考えると、『赤い鳥』に執心した賢治の姿には人間的な、生な面が現れ出ていて、どこかほっとするような気になる。

 また、児童文学を通して大正時代の特質をも知ることができそうだ。 (間島康子)


<短評> 2

 宮澤清六『兄のトランク』には、事実と異なることが記述されています。東京堂となっているのは東京社の誤りで、『婦人画報』以外に『少女画報』『コドモノクニ』を刊行していました。小野浩は東京社に勤務していたという経験はなく、早稲田大学英文科を卒業してから春陽堂に就職し、次いで赤い鳥社に移りました。従って、宮澤清六が賢治の書いた作品を東京社の小野浩に届けたというような事実はあり得ず、私はこのことを平成五年に『日本古書通信』に発表しました。すると、賢治研究家の田口昭典氏(故人)がご自身で発行されている研究誌にとりあげてくださいました。平成六年に刊行した拙著『大正児童文学』には、「編集者小野浩についての覚書−『赤い鳥』の知られざる功労者」を収載してあります。(野口存彌)




   

 高村光太郎―「好い時代」の光太郎               間島康子

<短評>

 高村光太郎の詩は、「道程」、「牛」、「智恵子抄」等で知ってはいた。間島さんの論考を読み、詩集を改めて読み直してみた。時代の中での光太郎と智恵子の「生」を知ることで、さらに深くその詩を味わうことができた。自分の生き方を探して、明治、大正、昭和と生きた高村光太郎にとっては、たしかに大正時代は「良い時代」だったのだろう。智恵子亡き後の昭和の光太郎を知る私たちは、特にそう思う。光太郎と智恵子という、際立った個性の結びつきで、高村光太郎という詩人が完成したことを、間島さんは指摘している。芸術の伴侶であった智恵子の紙絵、「芸術的に健康であった」と光太郎が評した智恵子の紙絵を、私も見てみたいと思った。(市原礼子)




 

 民衆詩派の詩人たち ―白鳥省吾・福田正夫・富田砕花―     市原礼子

 <短評>

 作者は白鳥の詩論を民衆詩へと深めています。詩歌の熟語のまま和歌や抒情詩から入った僕は行替詩には馴染めませんでした。

掲載の白鳥作品や福田作品は思想やメッセージが読み取れて作者の意見と相乗効果もあり僕の理解を助けてくれました。

新刊の作者詩集にもその意向は貫かれていました。しかし、韻文の絶句で育てたリズムや抒情は大切にしています。

合評で演歌大好き日本大衆論の展開を望みます。 (外狩雅巳)




プロレタリア文学運動 ー創作体験から‐             外狩雅巳

<短評>

 前半は日本プロレタリア文学通史。後半では、平成の現在においては、行き詰まっているが、さてどうしたものか。これが言いたいことのポイントで、筆者は「実作者」として活動してきたが、そこでどうするか、どうできるかを自らに問うています。これは難問です。処方箋を挙げると、たとえば、近年話題になった書に、荒俣宏『プロレタリア文学はものすごい』(平凡社新書)があります。如何にものすごいかが荒俣流に面白く書かれています。また、文学史上、蔵原惟人の「大衆小説路線」VS中野重治の「質の高い純文学の芸術路線」と双方向を目指したことも書かれています。しかし、思うに今日においては、ますます両派を統合することは難しく、そこに外狩さんのジレンマもあり、サゼッションを求めていますけれども、この問いには唯一、ベストの「解」はないと思います。商業資本が立ちはだかっているわけですから、ぜひとも「群系」などで、「ものすごい快作」を書かれるべき、と考えます。 (安宅夏夫)


 



 大正期の鴎外 −エリーゼ来日事件を梃にして―            安宅夏夫

<短評>

 安宅は作品を読込み、その人生と関連づけ論評する。『愛の狩人』には室生犀星を知悉した安宅が犀星になり替わり書いた感がある。 ただ、その域に達しない鴎外評は、文献紹介という形で進めている。

 まず、小平克『森鴎外論』は、陸軍栄典を拒否した鴎外の遺言を、陸軍奉職を選んで、捨てた恋人エリーゼへの詫びと解釈している。そして、安宅はそれに賛同する。

 だがエリーゼへの懺悔ならば、何よりも打算的な選択をした自分自身へ向けられるべきで、陸軍への嫌悪感の露わな遺言の言葉遣いはそぐわない。それをまた結婚に反対した親友へ託すのも解せない。

 エリーゼのモデルを突き止めた六草いちか『それからのエリス』はモデル探し論だが、探し方が徹底的な上プロセス自体も明記する。事実へ肉薄する鋭さとノンフィクション文学の性格を併せ持つ。

安宅は六草の見出した事実と鴎外作品論から導出した小平の推論とを照合した。そして、「鴎外の遺書の謎」を、従前は「脚気事件」と考えたが、小平の「エリーゼ事件」と見る説へと乗換えたようだ。

 だが、吉村昭『白い航跡』が主張した鴎外の「脚気原因誤認」説は(近年反論もあるが)史実に則している。鴎外遺書の謎は「脚気事件」(軍医としての鴎外)視点から追究する方が現実的だと考える。相川良彦(改稿版)



<短評>その2

【考証家が考証される――という逆説】

■「考証」とはいかなる行為なのか。ネットの辞書を検索してみると「古い文献や物品などを調べ、それを証拠として昔の物事を説明したり解釈したりすること」だそうである。


 安宅夏夫氏の「大正期の森鴎外」〈エリーゼ来日事件を梃にして〉という論考は、「考証」という知的行為にまつわるドラマが描かれていて、興味つきない。この論の面白さは、「考証」という探究過程そのものが、さまざまな人々の演じる人間ドラマにもなっていることだ。


 たとえば、『舞姫』に関して「小平克・林尚孝」両氏が作品に沈潜して得た結論と、六草いちか氏が、ドイツに埋もれた未知の資料を発掘して得た結論とがまったく同一であったという場面がある。これなど、まるで理論物理の予見と、後に進められた実験物理の結果とが、同一の結果に至った科学史のワンシーンを見ているようでドラマチックだ。ところが、さらにまたその知的サスペンスを綴っているのは、安宅夏夫氏というもう一人の「批評家・考証家」なのである。


 ―さて、ここで何が行われているのか。最初に存在したのは、『渋江抽斎』『伊沢蘭軒』『北条霞亭』等の史伝において、“歴史でもなく小説でもない、「考証・史伝」というジャンル”を確立した森鴎外という大考証家であった。むろん過去を辿れば、渋江も伊沢も、江戸期の医師・文人であり「考証家」であった。そして、昭和・平成において進められた、鴎外の生を巡る「小平克・林尚孝」「六草いちか」の考証のドラマを、さらに安宅さんが考証する。考証家を、考証家が、考証する……。これはまるで、三面鏡の中の空間に、背中を見せた考証家たちのイマージュが、無限に連続しているような光景である。(ちなみにこの「考証」そのものを、後に知的エンターテインメントの社会派推理小説として確立させたのが、鴎外の信奉者・松本清張であろう。探偵は犯人を「考証」するのだ)


■堂々たるギリシャ神殿の大理石柱を思わせる鴎外の端正な文体の奥に潜むのは、ミューズにして舞姫でもあるドイツ娘「エリス/エリーゼ」のおぼろげな影である。安宅氏は、これまで舞姫事件、エリーゼ問題が解明できなかったために、誰も文豪の「内心・秘密」を説くことはできなかったという。「鴎外、エリスの日本最後の一夜の床で何を話したのか」などのくだりでは、三面鏡のさらに奥の秘密の扉を開いて、こっそりと覗き見する。“文学探偵”安宅さんの面目躍如の一節である。人生の核に藻草のようにからみつく「謎」は、本人が隠蔽しようとすればするほど、後代の考証家達に掻きわけられて、新たな光線と知的興奮を与えられるであろう。


 そして「考証」とは、必ずしも評伝の主題となった人物の真実を暴き、細部を実証することに限らない。考証過程における試行錯誤を重ねつつ、その道程を(つまり、著者の疲労感や、呼吸の乱れや、靴擦れの痛みを)己の文体に刻みつける文学でもある。鴎外が評伝中の人物の真実に到達する期待感以上に、読者は、辺鄙な村の古老を訪ねたり、畦道を辿ってひなびた墓を眺めやる著者森林太郎自身の孤影を眺めて楽しむのである。すでにそのとき読者は、半ば「考証家」と化している。安宅氏の論考にも、いつもその種の趣きがある。


■内面過剰に悩んでいた漱石とは違って、鴎外は公的なペルソナの裏で、ともすると失われそうになる「内面」を希求し続けた。その内面が最後の瞬間に過剰なまでに噴出したのが、あの賀古鶴所あての「森林太郎墓ノ外一字モホル可ラズ」の遺書であろう。この一文は作品以上に言及されることの多い、鴎外の密度高い“告白体私小説”だ。『かのように』『普請中』『妄想』『空車』など、鴎外が内面を吐露したような作と、「他者」を考証した史伝的作品との関係は、いかなる関連性にあるのか。また「津和野人」と「石見人」とは、彼自身の内部でどのようにニュアンスが違うのか。さらには、山縣有朋との関係は――、彼にとって大逆事件とは何だったのか――云々と考えていくと、謎の巨人鴎外には興味がつきない。そろそろわれわれは、鴎外を冷ややかで気取った知的巨人としてではなく、若き日の“シュトルム・ウント・ドランク”を通過して辛くも人格形成した、激しやすく、傷つきやすく、誇り高くも愛情豊かな明治の一詩人として、見直してもいい時期ではないのか。本論はそんな想いに誘われる論考である。 (草原克芳)


 


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 ニーチェ、漱石、朔太郎 ―大正の憂鬱−             草原克芳

<短評>

まず、ニ点で興味をもった。一つは、先ごろ、「漱石の『猫』とニーチェ」(杉田弘子)という興味深い本を読んだ、という出だしの文だ。それは単純に、私が杉田の本を読んでいなかったからだ。確かに改めてタイトルに注目すれば、漱石とニーチェにどういう関係があったのか、という感じがする。だから、興味深いと書かれれば、心が動く。せっかくなので、杉田の本も読んでみた。

 いま一つは、よく言われるショーペンハウエルとニーチェの関係は「生きんとする意志」の否定で終わる前者の思想が、ニーチェによって克服され、肯定的意志へと変換された――というような単純な図式ではない、という件だ。草原論文を読みながら、私はその単純な図式を思い浮かべていたので、「ではない」と打ち消された時点で、見透かされた感じがした。そこで改めて、真面目に考えてみようと思う。

 今年の正月、カテキスムを読んでいた。カテは通常、公教要理と訳されるが、良き宗教人として生きるための生活指導書と呼べそうなものだ。そのカテはフランス語で、1703年に公認されたものだ。フランスは、そもそもプロテスタントが極少数派で、現代ではカトリック教徒も減り、イスラム教徒が増えている、という状況にあるが、それでもまだカトリックが特にエリート層の生活を規律している。まして、そのカテが編まれた時代は、フランス革命前、まさに中世だ。だから、教会や神が圧倒的な姿で登場し、人々の日常を事細かに命じ、罰し、がんじがらめにしている。

フランスとドイツは、これまた短絡的だが、カトリックとプロテスタントで大きく分けられる。しかし、日本から見れば、キリスト教国として似たようなものではないか。まして中世から近代に至る過程、近代が成熟していく過程では。だから、その中世の支配者である神を超越するかたちで否定したニーチェというものに、ヨーロッパ全域が反応したのではないか。とすると、宗教がない日本で、国家神道を築きつつあった近代日本で、どうしてニーチェが注目されたのか。ニーチェがどういう意味で、明治・大正の文壇で人気を博したのか。ヨーロッパで苦悩した漱石の理解は、どのようなものだったのか。

草原論文は漱石のほか、朔太郎にも言及している。そこで朔太郎の記述に目を向ければ、杉田は「フランスを中心に起こった自然主義で、基督教の迷信を打破し、旧浪漫主義の謬見を啓発し」「ようとする」「ニーチェの浪漫主義否定の主張には反対せざるを得なかった」朔太郎に注目する。

 また話をフランスに戻せば、中世の文学から近代の文学へ移行させたと言われるのは、レ・ミゼラブルで有名なユゴーの『エルナニ』だ。それ以降の、ロマン主義から写実主義へというフランス文学の潮流は、朔太郎の醸し出す雰囲気と、およそ違う感じがする。この違いは、どこに基因するのか。単なる「芸術」性ではないような気がする。日本におけるニーチェの理解の仕方、近代というものの理解の仕方が、ヨーロッパにおけるものと違ったからではないか、と個人的には思っているのだが、どうなのだろうか。

 こうした漠たる疑問を意識すると、草原論文が朔太郎のオノマトペに触れているのが可愛らしく感じる。「やわああ」と叫ぶ日本犬と、草原論文のサブタイトルにある「大正の憂鬱」に、改めて興味が湧いた。(I)



 

 大正という時代 ―国体論と政界ー               市川直子      

<短評>

 大正時代は、明治の疾風怒涛(めくるめくほどの外発的西洋文明化・戦争)の時代に比し、一息をつき、自他を見直せた時代であったといえる。「白樺」派に代表されるような、芸術への目覚め、世界の普遍に通じる自我というものが主張され、政界でも本文の後半に言及されるように、藩閥政府に異見する、護憲運動が起こった時代であって、原敬首班の初の政党内閣も成立した。日本資本主義も発展の礎を作ったが、労働運動も起こっていった。初のメーデーも開かれ、無産政党も出来ていった(プロレタリア文学運動も生成された)。これらは明治期にもその萌芽はみられたが(「文学界」などの初期浪漫主義の自我の目覚め、自由民権運動、幸徳秋水らの平民社の活動、片山潜らによる社会民主党の成立など)、がいわゆる社会の片隅ではなく、大きな運動体・流れとなっていったのが大正の時代のなかであった。

 本文前半に見られる国体をめぐる論争も、この時期になってようやく、その実質をめぐる議論がなされたということであろう。美濃部達吉の「天皇機関」説、吉野作造の民本主義は、大正ならではの主張であった。特にここで紹介されている「上杉・美濃部論争」は、単に国体というだけでなく、国の主権、民主主義の実体を考える上でも、現代にいたる第二次大戦後(戦後)の経緯まで視野に入れて改めて考えさせられる。

 「国体」をめぐっては、市川氏が書いているように、「明治二二年に発布された大日本帝国憲法は、天皇が統治権を総覧するとし」「統治権を総覧することが主権であり、天皇がそれをおこなう」旨を明らかにしていた。それにもかかわらず、「東京帝国大学で行政法を担当していた美濃部達吉は、主権が国家それ自体にあるという「天皇機関」説を説き始めた」。それに対して、「同大学で憲法を担当していた上杉慎吉が「天皇主権」説の立場から反論し」たのだった。

 この「国体」をめぐる論争は、明治年間ではおそらく論ずるまでもなく至極当然のものとなされていたものが、大正年間でその本質をめぐる議論が展開されたということであろう。「統治権を総覧することが主権であり、天皇がそれをおこなう」という、「天皇主権」のありように、疑義が提されたのである。

 考えてみれば、天皇主権といっても、実質的には内閣が国政を担っているのであり、一個の生身の人間にすべてを帰する「天皇主権」は、その主張自体にムリがあるのではないか、所詮上杉慎吉などは、例の日露戦争大賛成の帝大七博士§Aと同様の、保守反動、情緒的にものを考える手合いではないかと思料される(ちなみに、上杉の帝大での教え子の一人に岸信介がいたという)。

 さて、美濃部の「天皇機関」説、「天皇主権」に対するこの主張は「国家主権」といいえる。「国家主権」と聴いて、われわれ戦後派は、「国民主権」と対比して何かな、と疑念を抱く。「国民」こそが、権利の主体であり、その行為者・その享受者である。が、「国家」が、権利の主体、権利の享受者とは何の謂いか?

 法律を知らない一般は、「国家主権」の意味がわからなかろう。ただ、「国民主権」が民主主義、と対をなすと考えれば、「国家主権」は国家主義といいえる。民主主義は民(個人)が主体であるのに、国家主義は、国家(全体)が主体である。個人よりも全体が優先される。ナチスドイツ、昭和の国家主義の日本を思い浮かべればわかるだろう(丸山真男は「超国家主義」といった)。

 「国家主権」−。これは、市川氏がいうように、それを支える現実があった。それが1871年の統一ドイツ(ドイツ帝国)であった。普仏戦争後、皇帝ウィルヘルム一世をいただく宰相ビスマルクによってドイツ帝国は建国宣言された。「多くの学者の留学先であったそのドイツの法学界では」「主権が国家に属するという国家法人説が支配的となっていた」、というのである。

 しかし、市川氏がそのあと紹介しているように、国家主権を実践できる国家は、次々と失せていた。「日本の隣国である清朝は既に滅びていたし、帝政ロシアも社会主義国となっていった」。フランスは共和国であり、米国もそうである。肝心のドイツも「第一次世界大戦後にワイマール共和国になり」「伝統的な君主主権の国家が次々と消えていたのだ」。

 要するに、「国家主権」も時代遅れの観があったのだ。

 『原敬の大正』(松本健一・2013年9月毎日新聞社刊)には、そうした政体≠めぐる面白いエピソードが紹介されている。パリ不戦条約(昭和四年・1929年)の締結文の一句をめぐって、国内の保守派・国粋主義が猛反対したのだった。


 第一条 締約国は各自その人民の名において国際間の争議解決のため戦争に訴ふるを非とし、締約国相互間の国策の具としての戦争を廃棄する事を、ここに厳粛に宣言す。(訳文原文はカタカナ交じり、句読点なし)


 保守派・国粋主義(三宅雪嶺ら)が問題にしたのは、冒頭すぐあとの「人民の名において」という文言であった。この不戦条約(ケロッグ・ブリアン協定)の中心締約国である米国もフランスも民主主義の国であって、かの国ではその表現も妥当しようが、わが国体≠ヘそうではない、(条約は)「政治・外交問題を超越した大権問題、国体問題」であり、「皇国の民として到底黙視することが出来ぬ絶対的の問題」と言いはったのだった。

 この言い振りもさることながら、米仏がともに人民の国=A民主主義の国々だったというのに改めて気づかされる。 

(実は、この条約の本文こそが、戦後の連合国が日本に唱導した日本国憲法の条文の先行例となっているのだ。日本国憲法第九条第一項)。

 すなわち、かの国民主主義の先行に対して、わが国は、国の体制をめぐって、いまだやんやの議論があったのだ。 

 

 さて、吉野作造の「民本主義」とはなにか。「民主主義」となぜいわないのか。

大正5年、吉野は、大正デモクラシーを唱導したといわれる、評論「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」を発表する。

 ウィキペディアによれば、「民本主義は「Democracy」の訳語であり、「国体」「神聖不可侵」と呼ばれた大日本帝国憲法下の天皇主権体制では、天皇主権が法理学上の建前であったため、民主主義(主権在民)という語を避けてこの語が用いられた」。「吉野の民本主義論の主眼は、いかにして国民がよき政治主体となるかではなく、いかによき執政者を選択し、かつ監督するかという点にあった。すなわちそれは、普通選挙の提唱・推進ではあっても、政治主体としての国民大衆を想定したものではない」。

 すなわち主権論に言及しない民主主義§_であったのだ。君主制のもとでも民本的な政治は可能であり、主権在民にこだわるべきでない、ということだが、ここには市川氏が書いているような次の事情もあったようだ。

 「この政変に関して、大正二年、先の吉野作造は雑誌「中央公論」において、自作農や商鉱工業に携わる者たちの勢力拡大について考察している。それによれば、日露講和反対の日比谷騒擾が、日本で民衆が勢力を持ち始めた発端であるが、民衆運動とは言いながらも積極的な主張に欠け、扇動されやすい傾向があることに危惧を示した。先に見たように、吉野が大正五年に提唱する民本主義は、この民衆勢力への警戒が基底にあった」。

(よって、こうした民衆の代弁は、無産政党が代替わりしていくことになろう)


 さて、「国家主権」のなかで、いかに民主主義的な政治をおこなっていくか、第一次・第二次にわたる護憲運動、とその間に出来た原敬内閣は、その実践的な運動といえる。

 明治45年〜大正元年の1912年、軍部が軍縮を唱える第二次西園寺内閣を倒し、次いで第三次桂太郎内閣(藩閥)が出来ると、立憲国民党の犬養毅、立憲政友会の尾崎行雄らが憲政擁護会を結成し、憲政擁護・門閥打破をスローガンに掲げて、全国運動を展開した(第一次護憲運動)。

 1918(大正7年)、立憲政友会の原敬が首相となり、海軍・陸軍・外務の各大臣以外をすべて党員から選ぶ、本格的政党内閣を組織した。

 原敬の大きな役割の一つは、天皇大権を云々して行きすぎた国粋主義にならぬよう、皇室に関しては「政事には直接お関わりなく、慈善恩賞等」の文化的行事に限定させることであった(「統帥権干犯」という言葉で、軍の勢力を維持させようと戦略をあぐんだのは当時の陸軍軍務局長田中義一だった)。

 巷間病弱で、あまり国政に関心のなかったといわれた大正天皇であったが、彼こそは、実は大正デモクラシーを招来した大正青年≠ナあったのではないか。明治天皇だったなら当然勅命は拝受だったところが、大正天皇の場合、詔勅は天皇のご自身の意思ではなく元老の思惑であったことがわかるものであった。だから、政友会も「護憲運動」を継続できたし、世間もそれを認容した(いえば、藩閥・元老の中心であった山縣有朋を天皇は嫌っていたが、そのことが逆に原の主旨をよく体した結果となった。「君臨すれども倒置せず」の英国流の立憲君主制、のような皇室を考えていたという)。

 その原敬が大正10年暴漢に暗殺された後、政党に関係のない内閣が出来たので、世論はまた沸騰して第二次護憲運動が起こった。貴族院を背景とした清浦奎吾内閣を倒した後、1924年6月憲政会総裁の加藤高明は護憲三派の連立内閣を組閣した(憲政会-加藤高明・首相、立憲政友会-高橋是清--・農商相、革新倶楽部-犬養毅・逓信相)。

 ご論は短いが、「国体」や政局をテーマに、明治と昭和のはざまにあった大正という時代のありようと役割を、凝縮して提示してくれている。(永野悟)


<短評>2

「主権」とは“引っ越し”できるものなのか?

■「吉野作造の民本主義」については以前から聞いていたが、理解は曖昧であった。それは、民主主義の類似品で、ちょっとニュアンスが違うのだろう、ぐらいにしか考えてはいなかった。市川さんのこの文では、民本主義とは「主権論にふれないデモクラシー論」であるという。この端的な言葉で、曖昧なものが氷解した。つまり「主(あるじ)」の一字を何とか入れないための体制側、帝国大学側の「創意と工夫」というべきか。これは、天皇制そのものは不問にしておいて、民主主義を導入しよう、あるいは導入を許可しようという、“上からの暫定的民主主義”ともいうべき政治観であるのかも知れない。それにしても、「主」と「本」はどう違うのか、と悩む。いや、大正ふうにいえば、「煩悶する」。

■松本清張の『昭和史発掘』から始まる市川直子氏の本稿は、まず大正2年の「天皇機関説」をめぐる上杉・美濃部論争にふれている。大日本帝国憲法では、「統治権を総覧するのが主権」であり、その主権は「天皇」とされた。しかし、美濃部達吉は、ドイツ由来の主権が国家に属する「国家法人論」の学説を唱え、大日本帝国の「主権」は、「国家」にあるとした。

 それに反論するのが、同じく東京帝国大学の上杉慎吉であった。面白かったのは、雑誌『太陽』で展開されたこの法律論争の過程がまとめられ、一冊の書として、広く一般に流布されたことだ。大正も、なかなかフェアではないか。もちろん、出版というのは、採算が成り立たないとふんだら、書籍のカタチとして実現できないわけであるから、論争当時、それだけの国民の熱い関心を呼んでいたということになる。

■むかし、五日市憲法の存在を聞いて、えらく感心したことがある。この話とは、帝国憲法の成立(明治22年)前に、向学心旺盛な五日市の篤農家が、周辺の若者たちを集めて勉強会を開いていた。その中に、優秀な、ナニガシとかいう青年がいて、近代国家らしい憲法案草稿をひねり上げ、裏庭の蔵の中に秘かに残していた、というのである。(さすがに明治14年の加波山事件、17年の秩父事件への配慮も、あったかも知れない)

 それを近代史家の色川大吉(このオジイさん、最近なぜか茶髪だ)らの研究チームが、昭和になってから発掘した。内容はもう忘れてしまったが、かなり「民主主義」的なニュアンスもある先駆的な憲法だったように記憶する。おそらく当時の日本人は、憲法という「法律を律する法律」の存在に、目が覚めるほどの感動を覚えたのではないか。それは簡単に、時の為政者に“解釈”でどうこうされるような、ヤワなものではないはずだ。

 そもそも、最近の安倍首相のいう「解釈憲法」というガイネンそのものが、国際的に正統性を持ちうるものなのか、どうか――。既得権益者たちが、国内で奇妙な“集団的自衛権”を発揮して、国民の批判に抵抗する図のような気もしてくる。この国はいつまでたっても、時代閉塞の現状から脱けだせない。永遠の時代閉塞、である。

■ついつい、話が飛んだ。――本論の後半では、日露戦争直後の日比谷焼き討ち事件や、大正政変にふれながら、明治・大正を比較しつつ、「国家」と「民衆」の力学的拮抗が描かれる。政治から排除されて、日々の生活に不満を持つ小作農や都市労働者をどのように管理していくか、となると、まるで、大地が黄色いお隣の某大国の民衆暴動を耳にするかのようである。それでも大正末(14年)には、何とか男子普通選挙にまでこぎつけた。われわれが当たり前のように考えている「憲法の制定」「普通選挙」「民主主義」が、いかに大変なことであるのか、あらためて考えさせられる。

■最近、「民主主義とは絶対的なものではない」という批判がある。では、それを言いつのる彼らは、いったい何をそこに代替物として置き換えたいのだろう。確かにデモクラシーは、衆愚政治になりかねない。実際、そうなっているだろう。しかし、その大衆の愚かさをいま都合良く利用しているのは、むしろ政権と結びついたメディアではないか。

 民主主義とは、あらかじめ固定した既製品ではなくて、各国各民族の文化の背景を持ちながら、権力や独裁政治の暴走を阻むためのさまざまな手法の創意、政治的工夫そのもの、もともと「解」のない連続的な発明と工夫の営みこそが、「民主主義」ではなかったのか。それは民衆が自らの経験知に基づいて、現在進行形のスタイルで持続的に考えることだ。いわば、カント的な「格律」として、自己規定しつつ自己実現を図るという生活設計を、さらに国民が集合的に社会設計として行うことができれば、それ自体が「民主主義」となるはずだ。 そうなったら、国民自身がプログラマーにして、プレイヤーである。

 立法者にして、その「格律」の実行者である個人、その複数化であるところの大衆――というのは、それなりに完結した「自由」の概念だ。すなわち、「普遍化可能な格律」である。実現できるか否かは、別としても。

 しかし奇妙なことに、日本においては代議士そのものが、自らを「立法者」だとは夢にも思っていない、ように‥‥見えてしまう‥‥ので‥‥ある。

■日本国憲法には「第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」とある。

いつそんな「国民の総意」の確認をしていただいたのかよく覚えてないが、“象徴”への憧景の総意があるのであれば、それはそれで、めでたいことである。

 昭和天皇自身は「天皇機関説」を支持していたらしい。私も賛成である。

 市川さんは、この論考のラストを、以下のような言葉で結んでいる。

「国際情勢が変わり、昭和天皇が即位すると、その主権論にもとづく権威的な諸機関が力を盛り返してくることになる」

「権威的な諸機関」――要は、大樹の根元で扇を仰いでいるような輩や、宦官めいた佞臣、司祭のような輩、暗い顔した“大審問官”のような連中が、みずからの地位と支配力を高めて底上げするために、王様に「元主」になることをこっそり耳打ちしたり、「国民主権」の奪還をそそのかしたりするようなことは、やめてもらいたいと思うのである。

 「主権」はもう、移動しなくていい。どうせコトが成った暁には力を欲しいままにするのは、王様自身ではなくて、その脇で顔色を伺いながら、優雅に錦糸の日傘をさしたり、孔雀羽の扇を仰いでいた連中なのだから。この連中は、その日が来れば、王様以上に豪華な金ぴかの椅子にふんぞり返ることだろう。

われわれの日本国は、美しい詩のある天皇機関説であればよいと思う。                 (草原克芳)





 大正生命主義について                     永野 悟

<短評> 


 時代を生きる私たちは、時を象徴する言葉を追い求める。過去の言葉は現在を生

きる道標となる。『大正生命主義』というテーゼは、要望に応えつつ応えていない。

眺めてみよう。かけらがみつからない。『生命』という言葉は、曖昧なことを曖昧に

済ませて終わる『道具』として使い古されたもの。多岐に過ぎる。大正の『こと』は、

今もトグロを巻いている。日本という営みが、近代から現代に転換しようとしていた。

などと夢想してみる。(鎌田良知)


〈短評〉2

大正に投影された「現在」の写像

■永野悟氏のこの論考が入ったことにより、本号は大正期について、ある思想的な眺望を与えられることになった。

「大正生命主義」とは何か。――これは私には、「偽装された東洋」ではないかと思われてならない。

勝手な推測ではあるが、「大正生命主義」の提唱者の鈴木貞美は、「大正教養主義」からの連想でこの概念を思いついたのではないか。あるいは当時輸入された「生の哲学」(+反合理主義的な直観派哲学)の言い換えでもあるかも知れない。つまりは、もともと、それほどはっきりとした自覚的概念ではないだろう。

とはいえ、中村雄二郎や山折哲雄らが加わった鈴木貞美の編著『大正生命主義』を好意的に読み解けば「大正〈生命〉主義」という語彙の中には、実に多くの思想の影が見え隠れしている。

 ここにいう〈生命〉をあえて定義すれば、近代合理主義思想によって、長らく排除されてきた「全体に浸透しつつ、渦や螺旋を描きながら流動し続けるダイナミックな生気」であり、人称不明の生命力や、活力、厖大な繁殖力だ。

これは、古代からルネッサンスにかけては、プネウマ、スピリット、ガイスト、ダイモンなどと呼ばれていたなじみの概念であり、さらにはリビドーであり、オルゴン・エネルギーであり、動物磁気をいうメスメリズム(この変種はいまも新興宗教では絶えることがない)であり、東洋的な業(カルマ)であり、アーラヤ識であり、「生への盲目的意志」であり、場合によってはニーチェのいう「ディオニソス的なもの」や「生成変化」の概念であり、ベルクソンのいう「エラン・ヴィータル」などとも重複する何かであろう。

 その正体とは――曖昧模糊として何だからわからないが、「何でないか」だけははっきりとしている――という諸力の群れである。

■自然科学は分析・分解を手法とする。この科学的還元主義とは次元を異にする、半ば形而上学的な〈生命〉概念を称揚することによって、反動として、一方の側の何かが撃たれた。その何かとは、機械論的決定論、あるいは“デカルト・ニュートン的パラダイム”、さらには「西洋〈近代〉の構成原理」といってもいいかも知れない。並行して、〈生命〉を掲げることによって、日本の大正期において、個人の生命、尊厳、価値が称揚されることになる。

その結果、「国家」「社会」が、いったん、相対化、異化された。これは、「いったん」である。

 これらの思潮とパラレルに、文学においても、白樺派的人道主義・理想主義の出現の風潮が用意された。また、明治期には見られなかった「宇宙」のイメージも、宮沢賢治らに現れた。また、夏目漱石の「内発性」の問題も、大正期に継承され、「生」の意味が問い直される。志賀直哉も、武者小路実篤も、いや、自殺する有島武郎ですらも、どこか漱石文学の登場人物たちによく似ている。

■ここで永野氏の本稿から引用すれば、「日本の生命主義の哲学的基礎は田辺元『文化の概念』で、まず物質文明(自然の征服)を否定」することとなる。この物質文明の否定とは、暗に、西欧近代を構築したコンセプトの否定であろう。文中では、それに続いてベルクソン、W・ジェイムズ、西田幾多郎の名が並ぶ。

 要するに「大正生命主義」という言葉でいわんとするコアの部分とは、姿かたちをかえた前近代的な「生気論」をもって、“デカルト・ニュートン的パラダイム”を超克せんとする西洋内部の反乱勢力、およびそれに呼応する日本の同調者の世界観のことではないか。

 この西洋史の伏流水とも異端思想ともいえる「生気論」は、おそらく、日本の「アンチ西欧近代」の暗いパトスと、楽屋裏でひそかに“野合”した。

あまりにもあからさまな「明晰への意志」や、「収奪への権力意志」、世界の隅々まで座標軸上に特定し、数量化し、効率化し、功利的に支配せんとする限りない欲望への違和感が、むしろ西洋の“影”や“幽霊”に、親和性を見出した。これが明治的な功利主義や実学思想、「発展・拡大・建設への意志」と、大正期との体質的違いでもあった。

 西洋の「Vitalism/生気論」と、東洋的「気」の思想は、お互いに秘密のカウンター・パートとなったように思われる。

■問題は、昭和における「近代の超克」論議が、「大正生命主義」(これはあくまで鈴木貞美の造語である)に胚芽を持つのではないかという疑惑が湧いてくることだ。「近代の超克」論に潜む主張を抽出し、最も卑俗なレベルに翻訳すれば、それは「鬼畜米英を撃て」であり、少し丁寧に言い換えれば、「彼らの物質主義と自然征服の世界観、アジア植民地化の野望の背後にある哲学を、〈生命〉の名によって乗り越えよ!」であろう。

 つまり、多分に美学的な「大正ロマン」は、のちに「日本浪漫派」に変容し、二三のメタモルフォーゼを繰り返した後に、「近代の超克」論に、大化けしたのではないか――。

 さきほど「その結果、「国家」「社会」が、いったん、相対化、異化された。これは、「いったん」である。」と述べたのは、有機体のようにふるまう国民の集合意識が、そのままファシズム化する可能性を持っている、という意味である。まさに、「生命」のメタモルフォーゼなのである。

 この辺はしかし、戦前戦中の西田・田辺・高山らの京都学派や「世界史の哲学」を読み解かねばならない。                    *

■論考の最後で、永野氏は「大正の生命はつかのまの幻燈であったのか」と嘆ずる。

 しかし、その幻燈の光源、いや光そのものが、おそらく現在、解明されようとしている。20世紀半ば、ユングとパウリの共著『自然現象と心の構造』(1954年)あたりから始まる自然科学と人文科学との接点の模索は、ある種「大正生命主義」の夢幻劇の再演に似ている。

それ以前にも、物理学者のシュレディンガーが東洋哲学(ヴェーダンタ哲学)に沈潜したり、同じくデイヴット・ボームがインドの哲人クリシュナムルティと対話したりという風潮は、長らく揶揄の対象となり、ニューサイエンス、疑似科学、オカルトの名で蔑称されてきた。(しかし、そもそも西洋哲学の祖であるプラトンがオカルトである)

■これらの潮流は、いまにいたるまで根絶やしになることはなく、極微から極大までの“自己相似”的な世界イメージ、例えばホログラムやフラクタルなどの「ミクロコスモス―マクロコスモス」的世界像が科学技術の分野に浮上することにより、その影響は、ますます広く深いものとなっている。

「大正生命主義」というコンセプトが、80年代にあらわれた理由は、このような刷新された世界像を背景として、昭和末・平成の時代思潮が変容し、その変化した位置から発信されたレーザービームによるホログラフィが、リアルで立体的な感触を与えたからではないのか。

それはむしろ、大正という時代空間へと投射された〈現在〉自身の鮮やかな似姿であろう。  (草原克芳)




 

 精神医学にとっての「大正」                   鎌田良知

<短評>

 日本の精神医学界と文学者とその作品の関わりには、大きな関心があります。特定の芸術家について「病跡学」でもって研究することは多くなされています。私は金沢生まれなので「泉鏡花」についてのそれは、とても面白い。鎌田さんの当該のエッセイは、高村智恵子の主治医だった斎藤玉男についてのもの。智恵子によって光太郎が「誕生」したことは知られていますが、智恵子の病気に関わった医師・斎藤玉男のことは、わたしは全く知りませんでした。私が師事した伊藤信吉さんは『高村光太郎研究』で読売文学賞を受けました。今、手元ににその本が無いのですが、「どれほど・どのように、斎藤医師のことが盛り込まれていたか」――とても気がかりです。光太郎研究は、吉本隆明が沢山書いていますが、同様に斎藤医師についてはどうなのか。これまた気がかりです。

 思うに、鎌田さんの「当該のテーマ、モチーフ」は大層重要な分野ですね。医学、この際は精神医学ですが、本稿をきっかけに、鎌田さんによって「アーチストと精神医学」という、重要な・重厚な・無論、底がどこまでも深い領域を、大正期に限らず、今日現在にまで「舌端を伸ばして」、書いてほしい。以前、ショーン・コネリーとテイッピー・ヘドリンとで演じた「マーニー」という「深層心理を題材にした」映画を見ました。一般人には手も足も出ない「人間の情念の解剖・解析」が有って私は息をつめて見ていました。鎌田さんが専門とする「精神医学は表現者には沃野」に見えます。今回は「大正期」の大まかな見取図と、具体例として「斎藤玉男と高村智恵子」について、最初の執刀ですね。文学者への「オペ」でもある「精神医学界のテイピカルな読み物、未知の世界への誘いの文章」など、思う存分やってほしいです。本稿から鎌田さんのペンが花咲き、走り出すことを念願します。     (安宅夏夫)



<短評>2

  精神医学と「大正‐昭和」文学

■斉藤玉男という精神医学者の名を、この論で初めて知った。斎藤茂吉の親族かと思ったら、どうやら違うらしい。ゼームス坂病院と高村智恵子から話題が始まる本稿は、大正期の日本における精神医学の概要が簡潔にまとめられている。私は大正から昭和にかけての精神病院の歴史であり、また、家族史(斉藤茂吉家)でもある北杜夫『楡家の人びと』を思いだしながら読んだ。あまり“文学通受け”しないこの作品は、トーマス・マン『ブッデンブローグ家の人々』を下敷きにした三島由紀夫の絶賛の作でもある。

 鎌田さんの文によると、実質的な日本の精神医学の基盤を作った呉秀三が、大正7年に「精神病者の私宅鑑置」を調査しているという。この背景には江戸時代とは違った西洋的な人間観があるからだろうし、島崎藤村『夜明前』の青山半蔵の座敷牢などに見られるような明治期にまでいたる精神病者の隔離の習慣を改善させ、変えようとした啓蒙活動なのだろう。論考によれば、この努力が大正8年「精神病院法の成立」となって社会的な実現をみたという。これは、時代の大きな流れとして見れば、明治の荒っぽい骨組みを主とした近代国家建設期を踏まえて、いよいよ大正期に入り、日本においても「人間とは何か」「個人の価値とは何か」という問いが顕在化した一例ともいえる。

■狂者・異常者(専門家はこのような雑な言葉は使わないだろうが)の「隔離」というと、どうしても、M・フーコーの「知と権力/狂気・監獄・病院」の思想を、連想せざるをえない。これは社会空間においてのパーテーションの問題でもあり、「カオス‐コスモス」の均衡の問題である。なおかつ、世界を展望し支配管理する主流の「知」が、どのように周辺部で混沌と波打つ「無意識・悪・狂気/非知」を扱うかという問題である。さらに、人権思想といえば、その外枠の潮流として、吉野作造の民本主義(この二つ前の市川直子さんの論考でいう、「主権論にふれないデモクラシー論である民本主義」)の台頭とも、まったく無縁とはいえないだろう。つまり、民衆側の権利意識の高まりや、環境・制度に対する「国民」としての意識の確立が、次第に各専門分野へと波及してゆき、常日頃の「他者・隣人・患者とのスタンス」にまで影響していった流れは、十分に考えられる。

 つまり、明治期ではまだ顕在化しなかった国家システムにおける、「生命の混沌とした側面(カオス・非知)と、管理的・行政的な側面(コスモス・知)」とが、ある危うい拮抗を見せ始めたのが、大正という緩衝地帯のような特異な時代の相貌ではないだろうか。

■さきほど、鎌田さんの文章を、北杜夫の『楡家の人びと』の幾つかのシーンを重ねつつ読んだと書いた。

『楡家』の発表は戦後であるが、舞台は大正から昭和へかけて、日本そのものが「狂気」「自己破壊」へと傾斜していく時期を描いた叙事詩的市民小説と見ることができる。「精神医学‐文学」領域において、もうひとつ、忘れてはならないのが『楡家』とはまったく対極的な位置にある『ドグラ・マグラ』(夢野久作)であろう。この九州帝大精神科を舞台とした“探偵小説”とも“思想小説”ともつかない怪作の発表は昭和10年であるが、夢野の構想は、すでに大正末から昭和初期のデビュー時から懐かれている。

 「胎児の夢」(胎児が数十億年の進化の悪夢を見るというエピソード。「個体発生が系統発生を繰り返す」ヘッケルの反復説がヒント)や、「脳髄はものを考える処に非ず」と主張する「非‐唯脳論」など、フロイト・ユング以降のトランス・パーソナル心理学の萌芽や、意識論などの思潮とも重なってきて興味深い。『ドグラ・マグラ』は、日本人が「無意識」「集合的無意識」というコンセプトをどのように受容したかという特異な一例であろう。

 文学と精神医学とのただならぬ関連性について、さらに加えれば、埴谷雄高『死霊』を忘れてはならないだろう。この思弁小説の第一章は「癲狂院にて」である。主要登場人物の一人、矢場徹吾は岸博士の癲狂院に入院する。さらに埴谷の隣でニヤニヤ笑いを浮かべている同志的な作家である武田泰淳の『富士』となると、舞台そのものが富士の裾野の精神病院であり――しかし、これ以上続くと短評にならないので、いい加減にして、ここでやめます。

 要するに、すでに安宅さんも指摘されている通り、鎌田さんが接している「精神医学‐文学」分野は、いまだ書かれざる物語を擁した豊饒な沃野である、というわけであります。           (草原克芳)

 



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 弁護士会の闇 第十二回                    杉浦信夫  

<短評>

 日本の司法・法曹は、いうまでもなく「検察・裁判官・弁護士」でなりたち、成熟した先進国の「司法・法曹」によって国民のすべてが守られていると思いきや、実態は「とんでもないことが大っぴらでやられている」。この連載は、そのワンノブゼンを法治国の住人の杉浦信夫が江戸期依頼の庶民の「腰の強さ・気風の良さ」で見せてくれる「悪党弁護士の顔シャタ―」ですね。積み上がった「連載による文章資料」は、「出版」と「ネット世界出現」でこれから「大化け」する予確がします。文学は、個人の内的世界を言葉で表出しますが、とともに「とんでもない人間・社会の相」をヴィヴィッドに言葉で顕現する照魔鏡。個人は社会相によっていかようにも変わってしまう。だがコアは変わらずに存在する。この「弁護士会の闇」についての関心が、ネットで見ると数百万にのぼる理由がここにあります。   (安宅夏夫)

            

 《絵画ノート》マグリットの『これはパイプではない』      荻野 央

<短評>

 初めてこの絵を見た時、パイプの絵の下に「これはパイプではない」という文章があり、正直驚いた。荻野さんの説明によると、「矛盾する両者」が「お互いを否定し合う印象を鑑賞者に与えて、描かれたパイプを弁証法的に豊かにしている。」との事。二つの正反対のものから第三のものが生まれ出るということなのだろう。荻野さんは、「パイプではない或るもの」が「相似的な」ものへ「昇りつめ」、「鑑賞者を夢想の快楽に連れていってくれる」と書いている。この「相似的な」ということは、宇宙のフラクタルまで包含しているような気がした。ヘーゲルの弁証法的哲学は、世界の本体を認識する思考方法といわれるし…。弁証法的視点は、文学の方面でも「芸術の極意」と言われる。マグリットの狙いは「描かれたものの言語化と言葉の絵画化というそれぞれの「役割」の逆転にある」との指摘は、とても興味深い。荻野さんのおかげで、絵画鑑賞の新たな視点を教えられた。(井上二葉)


 《音楽ノート》「第九」の季節                  井上二葉

<短評> 

 私は音楽には詳しくないのですが、ものを生み出す芸術活動には、「才能」という要素だけでなく、「足枷」という人生の幸福を遮る環境が必要なのではないかと思っています。

 ベートーベンの書き残した「悩みをつき抜けて歓喜に倒れ!」という言葉は共鳴しました。芸術は人々の心を慰撫するものです。絵画や美術品、小説や映画などでもそうですが、悲哀を克服していこうとする「作者」の前向きなエネルギーが作品に感じられたとき、それが受け手の心に響くのだと思っています。

「才能は孤独のうちに成り、人格は世の荒波にて成る」というゲーテの有名な言葉があります。ベートーベンの才能を開花させたのも、聾疾と腸疾患による体の病や、多重失恋と甥の後見による心の病などの悲劇的な運命を克服しようとする生き方が音楽として奏でられたからだと思います。その旋律が苦悩する人々への最大の捧げ物となり、後世に伝わっているのだと思いました。(赤穂貴志)



 《映画ノート》愛される男優 高倉健               赤穂貴志

<短評>

 義理と人情に挟まれて隠忍自重する博徒を多く演じた高倉健が書かれている。いわゆる任侠映画が人気なのは、義理を重んじて隠忍自重した末に、ついに我慢しきれなくなって、憎い敵方に乗り込む主人公の姿だろう。欧米人(や中国人)なら隠忍自重する必要もあるまい(直接、決着をつけるだろう)。日本人特有のそのなやむ姿があってこその映画のストーリー展開がある。その役に高倉健ははまり役だった(この「義理と人情」は英語で訳出できるものだろうか)。

 高倉主演の『網走番外地』(昭和四十年)をはじめ、『昭和残侠伝』(昭和四十年)、『日本侠客伝』(昭和三九年)などのシリーズは、数年の間に相当数が作られた(ウィキペディア参照 but、見るとYou tubeも見たくなるので注意)。1960年代のことだった。

 が、高倉がこの役回りを得る前はそれとまったく違う役柄を演じていた、という。

 「小林恒夫監督『万年太郎と姐御社員』(昭和三十六年)では、会社員の営業マンとして登場するも、顧客の態度に激高してテーブルをひっくり返し、契約を台無しにしてしまう」「小西通雄監督『東京・丸の内』(昭和三十七年)では建築士として登場し、設計事務所で机に向かい静かに図面を引いている」「休日にはミックスダブルスでテニスに興じ、女の子と戯れ顔をニヤッとさせている。寡黙どころか饒舌で、粗野に振る舞う軽薄な言動には、カタルシスのかけらも感じられなかった」−。

 昭和30年代、高度成長の初めのころの光景が逆によく映されているということだろうか。ヒーローでもなく、主人公でさえもない役どころ。

 ところが、三十四歳のときに転機が訪れる。石井輝男監督『網走番外地』(昭和四十年)以下の、刑務所映画、任侠映画、だった。この役回りは、ヒーローという言い方では不適切で、なにか戦後の高度成長・豊かさなどには関係のない感情の噴出しに、民衆が自己のうさを晴らしたとみることもできよう。

 実際、戦後の学生運動なども、戦後社会の欺瞞、虚飾に怒った学生たちの行動であったが、それと高倉健の仁侠映画は共鳴し合うところがあったようだ。その最後の顛末といえる全共闘運動の東大安田講堂の決戦では、「とめてくれるなおっかさん 背中の銀杏が泣いている 男東大どこへ行く」というコピーの駒場祭のポスターが喝采を受けた。

 「四十歳を過ぎた頃、松竹で新たなイメージが加わった。山田洋次監督『幸福の黄色いハンカチ』(昭和五十二年)、『遙かなる山の呼び声』

 (昭和五十五年)だった。過去に犯した行いに対する贖罪感から抜けきれないという、暗い陰を持った人物像を得た。」

 こうした陰影こそがあっての結末の晴れが映える。これも日本人ならでは美学か。いずれにしても、1970年代(昭和五〇年代)頃までは、こうした時代を反映した映画が作られた。高倉健はその時代の象徴ともいえる人物を演じきった(その後も余波という言い方では不十分な活躍をした)。



(ついでに)赤穂貴志氏の他の映画論

 前号(31号)の、特集U《映画―もう一つの生》で、本誌デビューされた赤穂貴志氏(映画を「愉しむ」ということ・3p)は、映画論に出色の味わいを見せている人だ。別の同人誌(「白雲」)で34号から最近の37号まで、映画に関する好個のエッセイを連載している。同誌は年二回刊、本来俳句誌だったようだが、いまはエッセイ・紀行・短編小説・評伝など100ページ近い総合文芸誌になっている。小生など「群系」同人も三人ほど依頼に応じて「巻頭言」を書かせていただき、年二回の合評会には常連の執筆者とともに、われわれも何度かおじゃまさせていただいた。たいへん和やかで人柄のよさが感じられる、文字通りの同人誌の集いの会であった。

 さて赤穂氏のそこでの映画エッセイのテーマ(標題)を掲げてみると、「東宝サラリーマン映画(34号・2012年朱夏)、「男はつらいよ−梅太郎」(35号・2013年新春)、「中篇映画『下町』−千葉泰樹監督」(36号・2013年朱夏)、「股旅映画『関の彌太っぺ』」(37号・2014年朱夏)、と、いずれも、昭和三十〜四十年代の映画全盛の頃(=日本の懐かしい時代)を取り上げている。

 「東宝サラリーマン映画」とは、森繁久弥演ずる「社長シリーズ」(昭和31〜45年)が主だが、高度成長のこの国を森繁以下、三木のり平・加東大介・小林桂樹ら名優独特の演技・存在感で、いまとなっては得がたい味のサラリーマン映画≠セ。(筆者は前に「群系」誌で、黒井千次のことを書いて、文学におけるこの国のサラリーマン映画≠フ不在を論じたが、実に日本人の生活の現場≠描けないのはなさけないことだった)。

 また、「男はつらいよ−梅太郎」は、国民的映画の、しがない脇役を、よくぞスポットをあてて書いたものだと思った。寅さんでもなく、さくらでもなく、おいちゃんでもなく、タコ社長、いわば身内ではなく、皆からのけ者にされがちな愛すべきキャラクターに注目したのが、まずこのエッセイの成功の一つだろう。中小企業の社長とは一国一城のあるじとはいえ、一介のサラリーマン同様の悲哀を抱えている。悲哀は他からみれば時に滑稽にうつる。太宰久雄はその辺の感じをよく出していた俳優であった(特に、おいちゃん役のはまり役、初期の森川信なき後は、その存在感を代替していたといえる)。

「中篇映画『下町』−千葉泰樹監督」(林芙美子原作)の、『下町』は、奇しくも、「群系」誌前号の小特集で、同人野寄勉氏が、1957年の制作当時の公開されたプレスシートを書いてくれている。そこにはスタッフやきゃすと、かいせつ、また千葉監督のインタビューが載っていて、今更にためになる。この映画は、シベリア帰りのその日暮らしの男と、やはりシベリアへ行った夫の帰りを待って行商をして日がなの日々を送る女の出会いを描いているが、前者は三船敏郎、後者を山田五十鈴が演じている。大俳優が、それぞれつつましい役どころを演じて、観るものには新鮮な感覚だった。さて、赤穂氏のほうは、プレスシート≠フ外堀に対して、その内側、いわば映画の内容、ストーリーと解説を書いている。スチール写真を数葉差し入れて、いわばこれは映画鑑賞をあとで味わう、いわば「二度おいしい」、追体験だ。

 最新号の「股旅映画『関の彌太っぺ』」(長谷川伸原作)は中村錦之助演じる、渡世人・関の彌太っぺの物語だ。幼いとき別れ別れになった妹をさがすのだが、後の寅さん同様、放浪の渡世人の悲哀を書いていて、日本人ならその人情と義理のハザマの主人公に感じ入らない者はいないだろう(この「義理と人情」は高倉のとは違う、ほのぼのとした感じのものだろうか)。      (永野悟)




 《都市ノート》明治〜大正の遺稿                永野 悟



 【書評】佐藤隆之著「太宰治と三島由紀夫―双頭のドラゴン」     相馬明文






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 《特集 U》流行歌・愛唱歌


 あの日、あの時、歌があった                  土倉ヒロ子

<短評> 

 土倉さんの幼い頃から「人生は歌と共にあった」ということが語られるのですが、それは同時に歌と共に躍動する日本の時代そのものをも語られています。 ・忘れられない村祭り からでは「祭り」という非日常への扉が股旅演歌『名月赤城山』『清水の次郎長』『伊豆の佐太郎』等によって開かれ、年を経るにしたがって「怨歌」「艶歌」を味わい、やがて「ロシア民謡」や「労働歌」「フォーク・ソング」を歌う青春があり、学生運動の挫折歌かもしれない西田佐知子の歌う「アカシアの雨がやむとき」があった。

 しかし、何気なくふと、口づさむ歌のかずかず に美空ひばりや加藤登紀子の歌もあった。

 読み進んでいくうち「日本ってけっこうアートな国かも」と思えてくるから不思議だ。 土倉さんには「いつの日も歌があった」と語るのだが、同時に今、現代はどうなっているんだという懐疑が、文学者としてあります。(取井一)



 西条八十 唄を忘れたカナリア                  取井 一

<短評>


 心踊る軍歌・行進曲                      永野 悟

<短評> 

 戦後二十数年を経て生まれた世代ですが、戦前の軍歌のメロディーは子どもの頃からとても好きでした。運動会で流れる「君が代行進曲」、巷に流れる「軍艦行進曲」「月月火水木金金」などは耳に心地よく響いていたのを覚えています。

 戦後のこの軍歌に対する扱いは、確かに冷淡だと思います。右寄りは悪いという風潮になり、軍歌が好きなどと公言すると、大人(教師)からあまりいい顔をされませんでした。多くの名曲を作曲した古関裕而氏などは本来国民栄誉賞クラスのはずなのに、軍歌を多く提供したということで高い評価を受けていないような気がします。

 その中で、「抜刀隊」(陸軍分列行進曲)は一番胸に響きました。学徒出陣のテーマ曲として有名ですが、この映像を見るたびに今でも身の引き締まる思いがします。

 大学在学中、この壮行会の映像を観る機会があり、自分の母校が割合早い順番での行進だったことを知りました。当時は貧乏学生で、お金がないためにしたいことを我慢せざるを得ないことが多かったのですが、あの先輩方に比べれば自分の境遇はまだ恵まれていると思い直したものです。

 行進をしながらあの学生達は何を考えていたのでしょうか。スタンドでは同年代の女子学生も見守っていました。彼女たちの目に彼らがどう映っていたのかと考えると、とても切ない思いがします。

 大学在学中、学徒出陣した戦没学生へ「卒業証書」を交付する式典がありました。総長は「大学は、これらの人たちを当時歓呼の声で送りました。時の力に抗し難かったとはいえ、痛恨の極みであります。…大学として責任を果たすことにしました」と言っていたのは印象深かったです。(赤穂貴志)


<短評>2

 戦後世代に属される永野悟さんが「愛国行進曲」をとりあげているのが、いかにも興味深く感じさせられます。私自身は「愛国行進曲」については戦争の記憶と結びつけずに考えることはできません。ただ、シューベルトの「軍隊行進曲」やスーザの「星条旗よ永遠なれ」などは、単に行進曲として聴くことができます。永野さんも戦争を体験しておられないことによって、「愛国行進曲」を戦意高揚のための軍歌としてではなく、純然たる音楽作品としてお聴きになることができるのでしょうか。それにしても日本の軍部は戦争準備を整えるために、音楽という分野を他の国よりも巧妙に活用したということができます。                                      (野口存彌)




 優美なものを求めて−軍歌のかげのひそやかな調べ        野口存彌

<短評> 

 頁は2ページのエッセイであるが、著者の文学的出発の大事な問題が含まれている。時代背景は日中戦争開始以降

(1937年〜)。この時野口氏は6歳である(1931生)

 冒頭に「それらの歌をうたったという記憶はなく、たまたまラジオから流れる曲を聴いて覚えたのかもしれない」とある。

少年野口の心に残った歌が西条八十作詞による四曲である。


 1、「白百合の歌」2、高原の月 3、湖畔の乙女 4、風は海から。

 

 時代は戦時一色であり、野口氏もあげている「日の丸行進曲」「愛国行進曲」「太平洋行進曲」などの軍歌が町中に

流れ、小学校校庭でも大音響で流されていたと記述されている。

 このような時に野口氏は上記の曲に別の世界へと導かれるのである。

 作詞者の西条八十(1892生)、野口氏より39歳年長である。西条の詩人とっしての出発は象徴詩、フランス留学の際は

ヴァレリーとも親交があり、ランボーの研究書も残している。その後の活動は多面的で童謡から歌謡曲、軍歌なども名曲を

数えきれないほど残している。軍歌「若鷲の歌」「同期の桜」などは大いに歌われ、戦後の戦争映画にも、必ずといっていいくらい

挿入歌となっていた。戦後、西条の「軍歌」に対しての批判は上がったが決定的な研究はなされていないだろう。

 さて、野口氏が少年時に「優美なもの・・・」と感じた西条の歌は、今、我々がその歌詞とメロデイを分析しても答えは難しいかと

思う。それは、流行歌の持つ宿命かもしれない。その歌の生まれた「時代」と置かれた「環境」によって、全く違った受け止め

方になるから。

 あえて、この三曲に言及するならば「清純」「穢れなき自然」「ふるさとへの憧れ」が表現されているかと思う。

「風は海から」に関しては「この世にデカダンスと呼ぶものが存在するのを示唆されたような気がした。」とあるように

まったく、べつな感情を少年野口は刺激されている。この歌は、東宝映画「阿片戦争」の主題歌で、この歌に出てくる姉妹を

姉は原節子、妹は高峰秀子が演じている。歌は渡辺はま子だが、物憂いような官能的な歌いぶりである。

はたして、「清純」と「デカダンス」が、その後、野口氏の中でどのように成熟していったのか興味あるところである。

 最後に野口氏は戦時中の精神の二重性にふれているが、これは今でも見逃せないテーマであろう。詩人・西条八十を研究するには、

ここを抑えなければ無意味だと思う。「軍歌」をつくる西条、「童謡」をつくる西条、童謡詩人・金子みすゞを育てたのも西条である。

我々の中にも、それはあるだろう。特に今は「原発」に対して。(土倉ヒロ子)




 【流行歌・愛唱歌アンケート】                   同人・読者




 これは楽しい試みだったと思います。

当然ながら、『群系』誌上だけで見知っている方、『会報』などの写真でお会いしている方、

合評会でお会いしている方、『掲示板』でおしゃべりしあっている方などで、感想の度合いが違って

きます。お人柄にぴったりの好みの方もおられれば、まったく予想外の好みの方もいらして人間て

やっぱり面白いというところに落ち着きます。

印象に残った「歌」を上げてみます。

1、大和田さんの「白鳥の歌」は私も大好きです。人前でも歌っていますが、これは難しい。クラッシックの方は

  けっこうコンサートで歌っているようです。

2、名和さんのピンキーとキラーズは意外でした。ロック世代ですか・・・

3、佐藤文行さんの「炭坑節」には笑いました。ここから、どのようにクラッシック音楽に辿りついたのでしょうか。

4、横尾さん、いつも、「デモクラ」観てますよ。「ひこうきぐも」「神田川」「あの素晴らしい愛をもう一度」

 フォークの名曲ばかりですね。これは、今でも、何処へいってもリクエストの多い曲のようです。

5、安宅さん、灰田勝彦は一斉風靡の歌手でしたね。私も幼い時ライブを観ているかもしれません。

6、荻野さん、サイモン&ガンファンクルって、今でも好きな人が、結構多いですね。森山良子の

 「さよならの夏」は泣けてくる。

7、稲垣さん3曲とも、私も大好きな歌です。でも、私の稲垣さんのイメージは、もっと、ジャズ的なものを

  想像してました。

8、間島さんの「学生時代」「四季の歌」は、あなたにぴったり。学生時代の間島さんが、この歌をうたっている

  風景はとても素敵ですね。

9、小野さんの都はるみはぴったりです。「えぐるような女心」小説も、それを目指しておられるのかしら。

10、岩木さん、フォーク世代ですか。「風に吹かれて」いいですね。ボブ・ディランは、今も元気で歌ってますよね。

11、永野さん、「海辺の恋」は知りませんでした。小椋佳の歌は好きなものが沢山あるのに。

12、市原さん、三曲とも、どれほど歌ってきたか。フォークのスタンダードになっていますね。

13、永野裕二さん、「時には昔の話を」いいですね。私も宮崎アニメでは「紅の豚」が一番好きです。この歌の

  加藤登紀子は格別にいいです。

14、鎌田さん、鎌田さんのお好き3曲は意外でした。「湯の町エレジー」を歌っている鎌田が想像できません。

  どうも、学生時代の鎌田さんしか思いうかばないものですから。

15、杉浦さん、「愛国行進曲」を歌ったんですね。御幾つでした。「水師営の会見」は以前、童謡の会でリクエストなさった

  方がいました。これは、胸にしみる名曲かと思います。この抒情はいったい何でしょうね。

                         (土倉ヒロ子)





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《自由論考》

 漱石「坊ちゃん」のうらなりについて―モデル探しの迷走とサブテーマ相  相川良彦

<短評> 

 漱石「坊ちゃん」について、「群系」誌上に陸続と端倪すべからざる「論」を発表してきた相川さんの、今回も三読・志読を要請する画期の文章。今号は、「愛するべきうらなり」についてのもの。わたしは「マドンナ・赤シャツ・ヤマアラシ」などもそうですが、「うらなり」に特別にシンパシーを抱いたものです。ともかく漱石の快作のなかで「可哀想な役」を負っていました。

 このうらなりについての、モデル考が精細でみごと。中堀貞五郎について十二分に納得しました。

漱石は、無論、たんなるモデル小説を書いたわけではなく、デフォー、スイフトから受肉・入力して、前者からは「煉瓦を積んだように緊密に結びあって組み立てられ」、後者から「非は非、醜は醜として、一毫も仮借せぬ諷刺」を自分のものにしています。その詳細が、「はじめに」において、「うらなりという架空の人物を登場させた漱石の意図」および、「うらなりと言う登場人物の役作りにエピソードを多く借用されたモデルの一人・中堀貞五郎について、その実態を洗って或る種の明治文学舞台裏史を紹介する」と言う提示がされ、@うらなりのモデル論。A『坊ちゃん』におけるうらなりの意義。Bうらなりのモデル・中堀貞五郎について。と展開。わたしは、中で、江藤淳が「坊ちゃん」にも漱石の秘密を見て、「嫂への漱石の愛と見てとるのは、論理の飛躍であり裏付けも乏しい」に大共鳴を覚えました。またBで詳述される子規の妹・律の子規死後の一生にも感銘を受けました。律について司馬遼太郎『ひとびとの足音』で知っただけでしたから、相川さんの追跡に感謝。律と中堀のことを、大きなお世話ですが、追跡・分析のタフな相川さんにノベライズしてほしいな、などと思ったりしました。

 漱石の作品が「回転鏡体」であること、合わせてカレイドスコープ的であること、これは漱石自身が「私の事と他の事をごちゃごちゃに書く」と言うことからしてその通りなのですが、相川さんの結論、171ページ「(相川さんの、坊ちゃん三部作が例証した通り)東京帝大と松山中学の職場人間関係を漱石が内部告発した小説だとする見方」を(江藤説など)より確かな説として提起しているーーに叩頭しました。実際、門閥・学閥・研究派閥などなどがあって、漱石がかつて怒っていたはずの、壁の外・埒外の研究者のフラットな説・論は、無視するか、難癖をつけて排されるのが実情でしょう。でも、在野「群系」誌の発表で、相川さん「坊ちゃん」大きく誕生、弾ける産声がすばらしい。      (安宅夏夫)




 島尾敏雄「鉄路に近く」の位置付けと幻の作品についての覚え書き      石井洋詩

<短評>




 「は」と「が」と冠詞                         坂井 健

<短評> 1

 「は」と「が」の使い分けについて、「ものごとを説明するのに、原理は少ないほうがよい」とする立場から、「ほかの事柄についてはともかく、少なくとも〜は」と、「ほかの事柄ではなく、まさにそれが」という二つの原理を提示している。これまでの学説を踏まえての論旨には、なるほどと思わせられる所もなくはない。しかし、論旨のユニークさを認めた上で疑問をいくつか挙げたい。まず学説の取り扱い方が粗雑であるという点だ。たとえば三上章氏が「象が鼻が…」「象は鼻は…」という構文を誤りだと見なしているように記述しているが、三上氏は格助詞ガニオの重なりを「不名誉」な形だと述べているが、副助詞「は」の重なりについては言及していない。また、これまでの学説を野田尚史氏の『「は」と「が」』から引用しているが、野田氏が各説の提唱者名を挙げて提示しているものを野田氏の考えとして引用している。野田氏はそれらとは別の考えを提示しているのだから、そうした引用の仕方は失礼だ。さらに他言語との関連を言うならば、野田氏の著作の最終章で紹介されていることへの言及があってしかるべきだろう。坂井氏が言われるように「日本語文法上の大問題」「日本語教育上の大問題」を扱う以上、扱う側にそれに応じた問題の絞り込みと取り扱いの厳密さを望みたい。  (石井洋詩)



「は」と「が」と冠詞    坂井 健

<短評> 2

 「日本語にも定冠詞と不定冠詞に当たるものがある。「は」と「が」がそれだ」と指摘している文章が、最近の大学入試問題にもあった。筆者は、外山滋比古だっかか誰だったか忘れた。この問題を深く細かく掘り下げて論じているのが坂井教授のこの論考である。パズルのように途中立ち止まって頭の中を整理することも強いられるが、「は」=不定冠詞、「が」=定冠詞、ということは細かく分かった。

ここで、「ところで」と私は言いたい。結局「像は鼻が長い」の主語は何なのか。ネットを見るからにはこの問題は昔から結論が出ていないようだ。193頁の三上章説では、「は」は主題を表し、「が」は主格を表す、ということだから、主語は「鼻」である。「象は足が短い」と対比すると、「象は」を主部とするなら象は長くて短いということになってしまい辻褄が合わない。この辺は「ボクはウナギだ」のケースと繋がっているのではないだろうか。さて、筆者はどう考えるのでしょうか。                                      (岩木讃三)



 シャーキャ・ノオト(5)原始仏教残影                  古谷恭介 

<短評>




 伊藤桂一の詩「屋敷町にて」                           野寄 勉  

<短評> 

 伊藤桂一という人を僕は知らない。しかしながらこの「屋敷町にて」という詩を美しいと思った。そして、この野寄氏の評論も珠玉のエッセイである。

 まず、関東大震災後に建てられた「屋敷町」の説明からこのエッセイは入る。そうして、「住宅地の閑静さが〈用水桶に飼い忘れた魚〉に喩えられていることから空襲にあっていないことをうかがわせる」というように丹念に詩を解説していく。都市・街を一編の詩から見つめるこのエッセイはさりげなく心に残るクリティカル・エッセイである。(名和哲夫)



 地動海鳴   その4                            長野克彦

<短評> 

 飛び切り簡潔な表現、内容豊かでユニーク、想像力を刺激されるエッセイだ。

 資本主義経済学における限界効用論の説明、江戸時代の町人の自由な経済活動が新自由主義的であることや、さらに異次元の量的緩和など新用語が飛び交う現代の経済に詳しいのが参考になる。新しい時代には新しい言葉が必要なのだ。(白川正芳。「読書人」紙 文芸同人誌評 2014年1月31日付け)


 多崎つくると浜松                            名和哲夫

<短評> 

「どうして浜松なのか?」というエッセイと言ってもよい。さーと読んで「面白いこと書いている」と思った。面白いにもいろいろあるが、自分にとっての居住地の意味、あるいはアイデンティティを問題にしているところに興味深いものがあるということだろう。

「地名を書くだけで見えてくるものがある」と言っているが、浜松と言ったら私のイメージとしては、遠江、浜名湖、うなぎパイ、ヤマハ楽器・オートバイ、といったところだろうか。それは東海地方の歴史ある品の良い中都市、という、ぼんやりしたイメージでもある。このぼんやりイメージに対して、地元民はこういうイメージを持っているという、その食い違いを感じたのも面白いと思った理由だろう。     (岩木讃三)


                             


 間島康子詩集 『ねう』の世界 (後半)                   荻野  央

<短評>




 村上春樹 再読 連載 (1)『風の歌を聴け」              星野光徳 

<短評> 

 今、2014年の春の時点で村上春樹の小説について語るということがとても不思議だ。あの小説家はとうの昔に片付けられた作家ではなかったか。でもそんなことを言うとi-Phone、i-Pad、AKBの序列に従うことに最大の味わいを覚えている特殊な階層の怒りを買うことになる。しかし冷静に考えれば「特殊」なのだから恐れることは無いかもしれない。特殊なファンに支えられる小説にファン以外の者はなんらの期待は持たない(であろう)から。

 村上春樹はわたしと同じ世代である。70年を通過する者は(いまだ現在形である!)、権力(権威)との対立あるいは無関心、権力(権威)との緊張感あるいは緊張感の無さ、この国(学園)はどのようになろうとしておりどのように対応すべきなのか、といった模索の悶えの渦中にいるのか、あるいはそんな時代・規制に嫌悪感と距離感しか持てないか、そのような二分に結果している。残念なことに後者たるこの小説家は、十九歳の感受性にひっかかるものを、小説家になってしまった人は持てなかった。そのように見えてしまうのだ。どうしてなのだろうか。

 星野氏の論考に寄せた期待は、そうした勘繰りを粉砕し村上文学の精髄を開陳してくれることにあった。「風の歌を聴け」を解説しながら、作家独特な小説の作り方にとらわれず、氏は村上春樹の「文体に」に着眼して「他者に執着しない」性質を挙げている。従来の日本文学に見られない「乾燥しきった」文体。その文体には美しさは無く、小説をあえてテキストと呼ぶ星野氏の目には、報告書など「文書」全般に帰納しているのではないかという感のする鋭い説明が加えられると、村上春樹の本性の「当事者意識の無さ」が浮き彫りにされてくる。なるほどと思い、即座にこれは逆効果ではないかと思った。つまり村上春樹の文学の本性がそれなのではないかという…。

 スペインの片田舎で原発批判を3.11以後かなりの時間を経過してつぶやいたり、新刊本の予告というボードレールの取った文学ストラテジーを実行したりなど、なかなか営業活動は凄い。(対談で、自分の小説論を企業秘密といいのけたのは山田詠美だった。顰蹙をカタカナで買ってもいい発言である)。

話を「文体」に戻せば「村上の文体には現代アメリカ小説のような歯切れの良さを装いながら、実は歯切れの悪い何かがある。彼の小説の<謎>は、隠された物語やメタファーの謎ではなく、その文体の根底にある<何か>ではないだろうか」という星野氏の説明文は、目論見として村上文学の魅力のひとつを解説していない。”何か”という代名は批評文ではタブーである。なぜかといえば、そも、批評それこそが”何か”の探求であるからであって、まして「何かではないだろうか」という行方不明のような結語は本来の目論みから外れている。続けて星野氏は、その”何か”を”歪んだ潔癖”とか”消毒された暗さ”といったポエティックな形容に逃れているが、まさにこのポエティックでしか言い得ない「本質」を書いていくのが批評ではないだろうかと思うのだ。「示唆的」と評して福田和也の文章を引用しているけれども、それは順序が逆で、自分の批評の後で付け加えるべき行為なのである。(傍注でもかまわないと思うし)

 もっともこの論考は第1回とあり、以上述べたてたわたしの懸念がこの先の論の展開で杞憂にしかすぎないと期待しているのである。(荻野 央)

                                                            (2014.1.21)



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 《創作》


 ハッピー                                小野友貴枝  

<短評> 

 認知症がではじめた姉の「美代ちゃん」を妹の悦子はよく観察しており、二人の交流は、あたたかく、微笑ましい。全体的に会話体ですすめられているのは、作者の特徴であり、熟練さかと思う。難をいえば、ただ日常を写し取ったようで、あまり感動がなかった。作者自身のエスプリ(たとえば、ものの見方、問題意識など)のようなものがあると、すばらしい作品になったと思う。(担当 稲垣輝美)



 ギブ ミー チュウインガム                                   稲垣輝美  

<短評>

 今次大戦における沖縄の、「語り部、その第2世」と期待されている作者が、ついに「胞衣(えな)」を脱ぎ、スタートしたと思います。第一章・現在、第二章以降・過去――シンプルな構成。コンテンツを表出する作者の筆力は底流に有って、読み手に流れ込ませるエナージーの出し入れ・演出が自然です。これが「小説のもっとも難しいところ」なのですが、ベテランでありながらこのようなナイーヴな文体で打って出た作者の、一種「かなぐりすてた姿」を見せられて嬉しいです。    (安宅夏夫)


<短評> 2

 故郷沖縄の海里の坂の上に建つ老人ホームに入所している母親に会うために東京から通う主人公の、子供時代の回想記である。昭和二十年代後半、主人公と思しき小学生の少女が、父親と共に祖母の家に向かう。父親と少女は急坂を歩くことになるが、その途中で米軍基地の前を通り、見張り台の上の米兵から呼び止められる。祖母から決して米兵に近づかないように言われていた主人公だったが、米兵はガムをくれたのだった。淡々とした筆致で整った文体だが、米兵の挿話もそれほど強烈な印象を残すものではなく、もう少し米兵への恐怖心、猜疑心が描かれてもいいのかもしれない。私小説としては爽やかな印象を残す好短編だと思う。(五十嵐亨)



 スナック                               五十嵐亨 


<短評>

「スナック」 ―「普通の人々の〈魔〉」をどう描くかという問題―


■「山奥に盆地状に開けたこの町の商店街」にあるスナック「さき」で展開される殺人事件を扱ったミステリーふうの短編。導入部で「見る者をあざけっているように見える」ガーゴイル人形が、小道具として紹介され、不気味な雰囲気が意図される。視点は看護学校に通うバイトの葉山香奈に固定され、その周囲に、スナックのママで、元化粧品セールスレディの小平咲子、その愛人らしきパンチパーマの男が配される。すでに咲子ママの夫が愛人の男によって殺されており、イントロ部分でその秘密の「作業」が暗示される。冒頭部の伏線として示された「産業用道路」から、長距離輸送トラックが飛び込んでくる事故により、咲子の旦那の死体が店の床下に隠されていることが最後に発覚する。

 ――実際にもこういう事件はあるわけで、週刊誌の実録物などでよくネタにされている。本作の中盤では、主人公の香奈の「怯え」がよく描かれており、短編としてラストまで淀みなく語られていると思う。

■ただ、この物語の枠組みの中でも、もう少し肉感や奥行が欲しい。小説空間を立体的なレリーフにするであろう、人物造型や会話の要素である。例えば、まだ若い看護士学校の生徒でアルバイトの葉山香奈と、中年の小平咲子の描き分け、コントラストなど。「お嬢さん」と呼ばれ、学生臭さがぬけない「香奈」と、権柄尽くだがあだっぽい四十女「咲子ママ」とのやり取りなど、読ませどころは作れるはずだ。そして「パンチパーマの男」のヤクザっぽい言動や、悪質さなどの描写。このママの愛人の男は、若い香奈を下品な冗談でからかったりはしないのだろうか。カウンター場面を使った客の噂話などを利用して、ヤクザと、ママと、亭主の過去の紹介をするなども一つの手法だ。入院中ということで登場しない咲子ママの亭主の実像――地主にして土地の名士の小平洋輔について浮かび上がらせることもできるだろう。この人物は、咲子にとって男として惹かれる要素がないのだろうが、つまらない人間のつまらなさを魅力的に描くと、小説は面白くなる。香奈の彼氏でチョイ役の「亘」も含めて。

 同じようなプロットでも、読者としては、小説のジューシーな「肉」「脂」「具」の部分を、もう少し堪能させてくれれば、印象はガラリと違ったものになる。

 後半では、店にとつぜん大型長距離トラックが飛び込んでくるが、これが案外とあっさりしている。香奈は気を失ってしまうということで描写が省かれるが、平凡なスナックに、突如、大きな物理的破壊があったのだから、ここはハッとするような鮮烈なイメージで、リアルな臨場感を与えることができる。店内のガラスや、破壊された壁や、テーブル、床にはグラスや酒瓶の破片が散らばっているのではないか。大型トラックは、どの角度から、店のどこまで突っ込んできたのか。運転手はまったく無傷ではないだろう。積荷は何か。トラックが飛び込んできたのは単なる偶然なのか、それとも何かウラがあるのか、保険金は――などの自然な疑問もわいてくる。

■冒頭の「ガーゴイル人形」は、おそらく人間の〈魔性〉のようなものを象徴しているのであろうが、それが怪しくも不気味な効果にまで高められるには、三四人の登場人物の充実した存在感と、個性の陰影が前提になると思う。埃っぽい地方都市を舞台とした味わいの短編ならば、米国の作家シャーウッド・アンダーソンなどを参考としてみてはどうであろうか。                                 (草原克芳)



 山菜と橋                               富丘 俊

<短評> 1

 富丘俊作「山菜と橋」というタイトルに唸りました。小説の導入で、橋のことや橋

梁のこと、その周辺が縷々と書かれ、これは橋に由来するドキュメントが書かれるの

かと楽しみに読み進めました。文章力があるので、かなり難解な内容でも読めまし

た。しかし、サラリーマンらしい涼輔は、荒れた山間地に郷愁を感じながらやってく

る。ここで豊富な山菜に出会って、その採集に、自然との一体感を味わう。そして、

疲れた涼輔は夢の中で山で朽ちた男に出会う。幻想的な男の言葉で後半は綴られるの

だが、読むほうは、あまりこの男に感情移入しない。男の出現が、何を意味している

のか、このストーリーの狙いがわからないのと同じようにわからない。最後は異様な経

験に魂が戻らぬまま、帰路に就く。橋も山菜もリアリティがあるので、後半の幻想世

界は意味不明でまとまりのない短編、だという感想を持ちました。  (小野友貴枝)


 山菜と橋     冨丘 俊

<短評> 2

 久しぶりに富丘さん、言い換えれば小池さんの小説を読んだ。「風を求めて」の連作を読んで以来のことだから二十年ぶりぐらいかもしれない。小説を書いてみようと微塵にも思うことのなかった当時の私は、群系の中には本格的に小説が書ける人がいるのだ、と少々畏敬の念を持った。そう言えば、合評会に出てコメントを述べたのだった。小池作品への印象としては、細部まで書き込まれているということと、自然描写に独自のものがあるということだった。

「山菜と橋」は、川と橋とその周辺の自然の風景から始まる。そこを奥深く探索し涼輔は、梅畑の一角にある「日光がさんさんと射し込ん」だ、山菜の宝庫に辿り着く。そこを毎年手入れして自分だけの収穫の場所にしてしまうというのは愉快な話だ。ある年のある時、例年のようにそこを手入れして汗を?き、昼食をとった後、涼輔はその場で午睡する。その夢の中に姿のない老人が現れる。ここからが作者の想像力の見せ所と言ってよい。よく書けるもんだなぁ、と私は思う。「橋」は山の生活と近代生活の接点であり、未知の新たな世界への入り口である。創作の意図は十分に成功していると、私は思った。読んでよかったと思う。

 細かな所をいうと、270頁、「つづれ(綴れ)折れ」ではなく「つづらおり(九十九折り)」ではないだろうか。また273頁の「声の方向」とはどの方向なのか、274頁「わしはもうこんな姿になって」とはどんな姿なのか、それぞれもうひと言表現があってもよかったのでは、と思った。 (岩木讃三)                     

 山菜と橋      富丘 俊

<短評> 3

 一種のマジック・リアリスムで書かれており、奇妙な味わいが出ていて、得がたい一編だと思いました。この作者の真骨頂は、やはり、哲学的エッセイの方じゃなく、小説において発揮されると考えます。この作品の幻想的シーンの出来(しゅったい)は堂に入っており、主人公と亡霊?の対話のナラチヴ風な展開が見事だとおもいます。主人公の文明批評が生でなくスパンを広くとって自然界と融合させていること、それゆえの説得性が生じているところに打たれました。作者の地味なようで底光してくる表現の力が、もっともっと逞しくなるよう期待を持ちます。この作品に似た味わいの外国作家にイタリアのジノ・ブッツアーテイ―の不条理極まる諸作があります。カフカ的なものです。ともかく、大いにナイスな小説を次の機会にまた見せてほしいです。(安宅夏夫)




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