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「群系」34号 特集 《昭和戦後の文学》 アピール文


                                   2014.9.26


  「群系」34号(〜36号)の特集《昭和戦後の文学》について

 先の「群系掲示板」において(9月20日投稿)、《昭和戦後の文学》は、次の34号(本年12月刊行)一回だけでなく、われわれ自身の生きてきた時代の文学なのだから、これは、3号(1年半)にわたってやるべきではないか、ということを提言しました。

 ならば、《昭和・戦後の文学》の名前のとおり、昭和20〜63年の43年間を対象としたいと思います。ここでは、その同時代を考えるために、いろいろな出来事・事象をもとに便宜的に三つの時期に分けてみます。


 この43年間は、

 T 昭和20〜29年 占領下・講和後の文学  

       作家例:第一次・二次戦後派、第三の新人

 U 昭和30〜50年 戦後の高度成長下の文学

       作家例:石原・開高・大江、柴田翔、内向の世代、他。 

 V 昭和51〜63年 転換期・変容の時代

       作家例:中上健次、村上春樹・村上龍、他。

 さらに、

  平成元年〜同26年(現在)は、情報化社会における文学の変質(仮題)

       作家例:

の時期として、そのあとの、特集などのテーマとなるでしょう。


【時代概観】

 まず初めの二つの時期(T・U)が、いわゆる「昭和」戦後の時空間、といえるでしょう。戦前のいわゆる〈十五年戦争〉を経て、「戦後」、この国は占領軍の統治のなかで、平和と民主主義を鼓吹されてきました(それに対して、V期の昭和51年(1976年)以降は、明らかに社会全体の気分が変質、むしろ、「昭和」という枠には不適当でしょう)。

 占領期から講和・安保を経て、昭和25年(1950年)の朝鮮戦争を機に、アメリカの極東政策の転換に伴って、警察予備隊から保安隊、そして自衛隊(昭和29年)が整備されてきた時代でした。第二次大戦のあとに始まった米ソの冷戦体制のなか、日本は西側の同盟国と位置づけられたのでした。


 そうした占領下・講和体制から、次のステージがU期の〈戦後の高度成長〉の時代でした。昭和30年、自由党と民主党が保守合同に伴って、自由民主党となりました(11月15日)。これは、その少し前に統一社会党ができたことに対抗したともいわれます(講和をめぐって反対・賛成と二つに分かれていたのが、この年10月13日、統一した)。こうして、政治をめぐるいわゆる55年体制が成立しました(日本共産党も、左翼冒険主義といわれた暴力路線を否定し、今日の議会制路線になりました。六全協)。

 海外においても、インドネシアのバンドンで、アジア・アフリカ会議も催され、植民地だった国々の独立が謳いあげられました(4月18日)。

 だが、六〇年の安保改定は、大きな反対闘争を生みました。先の共産党の路線変更に「裏切られた」思いの学生たちは、革命的共産主義者同盟(革共同)を作り(1957年)、安保闘争になだれこみました。この国会を取り囲む学生・民衆のなか、岸内閣はおわり、代わって政権についた池田隼人首相は、「所得倍増」をひきさげ、ここにいわゆる高度成長経済が名目ともに発進したのでした。

 この時期は同人の多くが青年期送ったり、社会人になったりしてきた思い出多い時期のことでしょう。

 高度成長のなか、昭和39年(1964年)には東京オリンピック、昭和45年(1970年)には大阪万博が開催されこの国は繁栄のさなかにあって、昭和42年にはGNP(国民総生産)は西独を抜いて世界第二位となりました。しかし、その反面、四大公害病(水俣病・新潟水俣病・四日市せんぞく・イタイイタイ病)はじめ、社会のひずみが顕在化してきました。

 そうしたことに対して、昭和40年代、各地方自治体に革新系の首長が誕生しました(昭和42年には美濃部革新都知事誕生)。また、1964年(昭和39年)に始まったベトナム戦争(〜1975年)には、べ平連(小田実)などの市民団体の反戦活動のほか、学生たちの叛乱も起こりました。六〇年安保から七〇年安保、七二年沖縄返還に向けての学生運動は戦後の大きな象徴的な出来事といえましょう(1967年成田闘争、68年新宿騒乱、69年唐代安田講堂封鎖解除)。

 そして何より印象的なのは、こうした戦後の繁栄(「昭和元禄」)に虚偽をみた、作家の三島由紀夫の自決でしょう(昭和45年11月)。この後に続いた、昭和47年の連合赤軍事件(2月浅間山荘、3月妙義山中のリンチ事件発覚)によって、こうした学生叛乱は終息に向かったのでした(その後は、いわゆる過激派と、内ゲバ闘争になる。昭和49年、三菱重工ビル爆破事件)。

 昭和48年、さっぽろビールが「天然水NO1」発売した(マルクスは、水と空気は商品になりえないとしたが、資本主義の商品開発技術がその原則をいわば乗り越えた)、昭和49年コンビニ第1号出店(セブンイレブン)、大衆消費社会の浸透。、昭和50年、初めてのマイナス0.2%の成長(経済企画庁)。ここに高度成長は終焉しました。

                          以下、9月29日追加

  第三期(昭和51〜63年)ともなると、その政治・社会の変容から、敗戦後以来の「戦後」という言い方は適切ではなくなった。国際関係が緊密にもなって、「昭和」という言葉もかつてのようには使われなくなりつつあった。実際、元号よりも西暦が使用され始めた(昭和二〇年代、昭和三〇年代、昭和四〇年代までは言いえても、昭和五〇年代、ましてや昭和六〇年代とはいわない)。70年代、80年代、90年代というグローバルな表記になり、これは過去に遡っても適用されるようになった(60年代、50年代、というように)。

 そしてこの時期は、高度成長やモノ作りの転換を迫られた時機であった。安定成長といえば聞こえはいいが、実質は一時のバブル景気のあと、二〇年にわたる不景気(「失われた二〇年」)が続くことになる。たび重なる汚職もあった。ロッキード・田中前首相逮捕は昭和51年(1976年)、リクルート事件は昭和63年(1988年)、さらに平成になるが、1992年には佐川急便事件、96年には住専処理(6850億円)、98年には長銀破綻、と続く。

 またこれまで高度成長を支えた技術の信頼が揺らぐ事故が立て続けに起こった。昭和60年、日航ジャンボ機墜落(この年は、つくば科学万博開催の年でもあった)、翌昭和61(1986)年には、チェルノブイリ原発事故、米国チャレンジャー爆発、と続いた。(「情報化社会」といわれ、コンピューターが人間社会の最前線に配置されつつあったというのに。はて面妖な)

 1985年(昭和60年・中曽根内閣)は、転換点の象徴的な年だった。この年、電電公社がNTTとなり、日本専売公社がJTとなり、さらに国鉄の民活化が閣議決定された(1987年にJR発足)。そしてなによりも、為替に関するプラザ合意がなされたのは、1985年9月22日のNY・プラザホテルにおいてであった。

 この合意は、しかし今日からみれば、国際間の関係からこの国の経済・社会構造が意図的に変えられた、といってもよい。周知のように、G5によるプラザ合意、すなわち米国のドル高(輸出減少と輸入拡大による)是正のための為替レートの変換、実質的に円高ドル安に誘導するようにしたものである。

 米国の貿易不均衡(対日赤字が中心)を、モノ作りよりも、金融為替で是正しようというもので、いままで1ドル235円だったものが、翌年には150円にもなった(超円高)。これによって、日本国内では円高不況になったが、日銀は、金利政策(公定歩合を5%から2.5%に下げる)を打ち出した。

 銀行は企業にカネを貸し出す。カネを借りて企業が新しい工場を建てたり新事業への投資を促し、政府・日銀は景気の回復をはかった。がこの時カネを借りて土地を買うことが大流行した。企業は土地や株式などに投資をし、本業以外で資産を増やそうとしたのだった。本業以外の財テク≠ノよって、企業は資産を増やしていった。こうして、土地神話を背景に銀行の融資と土地の売買が繰り返された。いわゆるバブル経済の始まりである(プラザ合意が、バブルを生み、そのバブルがはじけた後の長期停滞を生んだともいわれている)。


 だが、この三期の特徴というのは、こうした経済や技術以上に、国民一人ひとりが感触した、いわば時代の変容の感覚であろう。

 バブル景気が究極の結果として出来するわけだが、いわゆる努力や夢、というものが人々の脳裏から消え去ることになった。以前は(例えば松下幸之助のように)、努力や向上心というものが美徳・目標とされたが(戦後の成長はそれらに支えられていた。集団就職で貧しい、辛い日々であったが、「いつでも夢を」が心にあった)。この時期から、人々の人生を保証した日本型の会社のありかたがなし崩し的にこわれていき、企業は本業よりも財テク・土地の買いあさりにはしった。そしてその後、雇用者を簡単にクビきりにしてしまう、今日の契約社員・パートが少なくない数の、企業となりはてた。

 そして、人々の生活や人生に対する見方が根本から変わったのもこの時期であろう。まず、文学・哲学からの関心の撤退が出来した。若者の活字離れといわれて久しいが、読書の習慣が奪われたのは世紀末前後の地殻変動であろう。(漫画は読まれた。昭和59年には、「少年ジャンプ」が400万部を達成した)。

 しかしその「ジャンプ」さえも、その後にでてくるケータイ(さらにスマホ)に太刀打ちできず、21世紀の現代、電車に乗れば乗客のほとんどが、その指操作に余念がない光景となった(本以上に新聞を読む人が消えた、というのが昨今の状況である)。

 先の文学・哲学の話に戻れば、確かに専門家たちの間には、新しい学問、ニューアカデミズムというものが流行ってきていた。1983年(昭和58年)の浅田彰『構造と力』はそのことの大きな表れだったが、構造主義・ポストモダン、といった従来とは違う思考が流行りだした。文学の研究にしても、従来の作家の評伝的研究もふまえた作家・作品論ではなく、作品・文体などから論を発していくスタイルが生まれてきた。テクスト・クリティークというのか、いわば作家主体・あるいはそれを読む読者主体をとりよけた議論は、60年・70年の安保闘争を経てきた世代には、はて何か、面妖な、という感覚であったが、それにのっかろうとする新世代は、とりあえずフランス語からの翻訳に余念がなかった(構造主義やポストモダンの用語を使う議論に、旧世代はついていけなかった)。

 左翼・社会主義への夢(かつてはそれがあった)が潰え、人々から希望や夢などより、目前の現実が大事になった(「夢と希望」は、カネで作られるものとなった。1983年のTDLの開園はその象徴であり、いわゆるリピーターというものがその「夢と希望」を支えている)。そのことは、特に若者などに本当の生きがい、真実の思考をすることを遠ざけている、ということでもあろう。幼稚化、は若者だけでなく、大人や組織・社会全体を含めた今日のこの国の問題点であろう。

 いじめの問題が表面化したのも、昭和60年前後であり(東京・中野の「葬式ごっこ」自殺など)、また猟奇的な事件も昭和末から出来している(連続幼女殺害事件、女子高生コンクリート事件は昭和末に起こっている)。いわゆるストーカー事件なども今世紀末から目立ち始めている。

 社会のマイナス面(病理面)が目立ってきているのに、一見平和で、毎日が愉しいという雰囲気が醸成されている(むしろ、「暗い」というのは若者には避けられてきた言葉であったようだ)。だが、心底の若者の心をのぞくならば、心にかかるのはまず、仕事・雇用の問題であり、さらに結婚の問題(できるか否か)の問題であって(不安定な低すぎる収入では結婚できるか)、さらにできても、育児の問題、住居の問題もたちはだかる。そして老後の問題は、いわゆる年金への不信・不安となって、若い世代に重く覆いかぶされている。そしてこれらのすべては、(例えば親の世代にはなかったような)、自分自身と社会への不安・不信、となって、未来への希望をもてない状況にしている(「この国には何でもある。ただ、「希望」だけがない」村上龍『希望の国のエクソダス』)、とすれば、国民と国家そのものの危殆の状況であろう。いまこそ考えるべき焦眉の問題でなくて何なのか。

(最終段と、その三つ前の、青灰色は、10月1日の加筆であります)




【昭和戦後の文学概観】       2014.10.20.記

 34号の《作品案内》(2p基準。2300字)を書くための参考です。

 ここに出ている作家・作品などを選んでいただければとおもいます(二つ以上も歓迎)。


T 昭和20〜29年 占領下・講和後の文学  

   目 次

  敗戦と旧大家の作品

  『新日本文学』と『近代文学』

  「無頼派」文学

  「戦後」派作家たち

   〈第一次戦後派〉(昭和21〜22年登場の作家たち)

   〈第二次戦後派〉(昭和23〜24年登場の作家たち)

   〈第三の新人〉

     (昭和28〜31年芥川賞受賞・候補の作家たち)


 敗戦と旧大家の作品

 昭和20年(1945年)8月15日、連合国のポツダム宣言を受け入れて未曾有の戦争が終ってからは、この国は政治・社会はじめ、人々の暮らしが根底から変容した。

 終戦の瓦礫の風景の中で、多くの雑誌が新刊・復刊した。人々は知的な渇望を潤すかのようにそれらを手にした。それらの雑誌には、まずいわゆる旧大家と呼ばれる作家たちが書き出していた。昭和21年の1月号には、まず正宗白鳥が「戦災者の悲しみ」(『新生』)を書いた。また、志賀直哉は「灰色の月」(『世界』)で、省線の車内の浮浪児を描いた。永井荷風は「勲章」(『新生』)、「踊子」(『展望』)を発表した。また転向作家と呼ばれた島木健作は前年に亡くなっていたが、遺作「赤蛙」は『人間』に発表された。


『新日本文学』と『近代文学』

 そのなかで、無名の作者の作品があった。『近代文学』誌1月号から連載されだした。佐々木基一の「停れる時の合間に」(昭和21年1月〜12月、『文芸』昭和58〜59年)と、埴谷雄高の「死霊」(昭和21年1月〜24・11.以下断続的に書き継がれる)。実はこれこそ、戦後文学を批評家の立場で唱導していった、文芸誌『近代文学』であって、佐々木や埴谷はその同人7人のうちの二人であった。

 その前年、すなわち昭和20年の暮れ12月に旧プロレタリア作家・詩人たちが新しいこの国の文学を再建しようと大会を開いていた。蔵原惟人・中野重治・宮本百合子。江口煥など九人が創刊同人となった『新日本文学』の準備会であった(創刊は昭和21年3月)。冒頭、宮本百合子が、戦争で萎えた人々の心とからだを奮起させるために、「歌声よ、おこれ」というマニフェストを発表した。

 その会場で、自らの新雑誌『近代文学』を立ち売りしていたのがその創刊同人の本多秋五、平野謙、埴谷雄高、佐々木基一、荒正人などであった(他に、北欧文学者の山室静、最年少の小田切秀雄がいた)。

 彼らの立脚点は、戦争とその敗戦を機にそれを反省しつついかに新しい文学・芸術を興すことができるかであった。同人はほとんどマルクス主義の経験を経ているが、それを踏まえつつ乗りこえようとして、新たな芸術至上主義の旗を打ち立てた。彼らの立場をと来歴は、例えば本多秋五「芸術・歴史・人間」(「近代文学」昭和21年1月号)、荒正人の「第二の青春」(同2月号)、平野謙「ひとつの反措定」(同・「新生活」4・5合併号)に現れている。また、創刊号と第2号とで、蔵原惟人、小林秀雄、という文学的に対極にあると思われていた二人を座談会に呼んだというのも、かれらの観点を示していよう。

 昭和22年(1947年)7月に第一次同人拡大により久保田正文・花田清輝・平田次三郎・大西巨人・野間宏・福永武彦・加藤周一・中村真一郎が加わった。その後も同人拡大が行われた。それらの作家たちから、いわゆる戦後派(第一次・第二次戦後派)と呼ばれる、いわゆる戦後文学の柱となる作家たちが現出していった。


「無頼派」文学

 また、敗戦直後には、大家とも旧左翼の「新日本文学」とも、また「近代文学」とその同人作家(戦後作家)とも違う、作家たちが一般民衆の読者から喝采を受けていた。それは、坂口安吾・太宰治・石川淳・織田作之助らで、彼らはその生活態度などから〈無頼派〉(あるいは〈新戯作派〉)などと呼ばれていた。安吾は「白痴」(昭和21年6月「新潮」)、石川淳は「黄金伝説」(昭和21年3月「中央公論」)、「焼跡のイエス」(昭和21年10月「新潮」)、織田作は「世相」(昭和21年4月「人間」)、「競馬」(同「改造」)などで注目を受けたが、なんといっても太宰治は時代の寵児であった。「斜陽」(昭和22年7〜10月「新潮」)、「人間失格」(昭和23年6〜8月「展望」)を発表したあと、戦争未亡人と心中してしまった。安吾は戦時中からその独自の世界観を述べた「日本文化私観」(「現代文学」昭和17年3月)を発表していたが、太宰も「津軽」(昭和19年11月、小山書店刊)のほか、「お伽草紙」(昭和20年10月筑摩書房刊)などを出しており、戦前・戦後を通じて一貫して変わるところのない無頼=i頼るところの無い)の立場が価値観の大きな変容を経た国民の心に通じたのであろう。


「戦後」派作家たち

 いわゆる〈第一次戦後派〉(昭和21〜22年登場の作家たち)、また〈第二次戦後派〉(昭和23〜24年登場)と呼ばれたが、前者〈第一次戦後派〉には、野間宏・梅崎春生・椎名麟三・埴谷雄高・中村真一郎らがいた。同人本多秋五はその特徴として、@マルクス主義体験、A兵士体験、を指摘している(『物語戦後文学史』)。

 野間 宏 「暗い絵」(昭和21年4〜10、「黄蜂」連載)

 梅崎春生 「桜島」(昭和21年9月、「素直」掲載)

 椎名麟三 「深夜の酒宴」(昭和22年2月、「展望」掲載)

 埴谷雄高 「死霊」(昭和21年1〜、「近代文学」連載)

 中村真一郎 「死の影の下に」(昭和21年8〜22・9、「高原」連載)

 後者の〈第二次戦後派〉(昭和23〜24年登場)は、それら作家のあとに登場した人たちで、大岡昇平・武田泰淳・安部公房・島尾敏雄・三島由紀夫・堀田善衛らがあげられる。この派の特徴として、荒正人は、ドストエフスキー体験、西欧的傾向をあげている(昭和24年版『文芸年鑑』)。それらは、第一次戦後派にもあった傾向であったが、さらに、「中世的傾向」が第二次戦後派に特徴的といわれている。

 大岡昇平 「俘虜記」(昭和23年2月、「文学界」掲載)

 武田泰淳 「審判」(昭和22年4月、「批評」掲載)

 安部公房 「終わりし道の導に」(昭和23年2月、「個性」掲載)

 島尾敏雄 「出孤島記」(昭和24年11月、「文芸」掲載)

 三島由紀夫 『仮面の告白』(昭和24年7月、河出書房刊行)

 堀田善衛 「広場の孤独」(昭和26年8月、「人間」に前半掲載)


 ただ、〈第一次戦後派〉〈第二次戦後派〉の分類は便宜的なもので、〈第二次戦後派〉の大岡昇平や武田泰淳を〈一次戦後派〉に入れたり、三島由紀夫についてはその経歴と才能の異質性から別個に扱う見方もある。

 中村光夫は、昭和26年9月までのこれら〈戦後文学〉を「占領下の文学」と呼称し(「占領下の文学」昭和27年6月「文学」)、これらの目新しい文学の評価は、いましばらく時間をおかなければならないとした。


〈第三の新人〉(昭和28〜31年芥川賞受賞・候補の作家たち)

 さて、その占領期は、昭和26年(1951年)の連合国との講和によって終了するのだが、事態は新しい局面を迎えつつあった。いわゆる朝鮮戦争の勃発である(昭和25〜28)。日本は講和条約と同時に結んだ日米安全保障条約もあり、南朝鮮・米国側の陣営、その兵站基地となった。なにより戦争の長期化により、特需景気も生まれ、戦後の混乱・物不足などの状況から、人々の日常生活の回復がなされ、後の未曾有の高度成長へのステップの時期となった。

 この昭和20年代の後半、芥川賞受賞などを果たして文壇にデビューした一群の作家たちがいた。これが「第三の新人」の世代で、山本健吉によって名づけられた(「第三の新人」昭和28・1『文学界』)。

 この派の特徴としては、〈第一次戦後派〉〈第二次戦後派〉の観念性・論理性・生死の思考などに反発し、日常性・即物性・非政治性などの特徴があった。いわば戦後直後と、それから数年を経た時代(世代)の違いといえようか。(戦争に兵士として行った世代と、当時国民学校生など未成年であった世代)

以下の作家がいる。

 安岡章太郎 「陰気な愉しみ」昭和28・4 「悪い仲間」昭和28・6

   第29回(1953年上半期)芥川賞受賞(上の二作品)

 吉行淳之介 「驟雨」昭和29・2

   第31回(1954年上半期) 芥川賞受賞

 小島信夫  「アメリカンスクール」昭和29・6

   第32回(1954年下半期) 芥川賞受賞

 庄野潤三  「プールサイド小景」昭和29・12

   第32回(1954年下半期) 芥川賞受賞

 三浦朱門  「カンナ」昭和28・8 「未だ練れず」昭和29・1

 曾野綾子    「遠来の客たち」昭和29・4

 遠藤周作  「白い人」昭和30・5 「黄色い人」昭和30・11

   第33回(1955年上半期) 芥川賞受賞 「白い人」


*芥川賞受賞者が多い。が曾野綾子・三浦朱門夫妻は、芥川賞受賞はしていない。

 第26回(1951年下半期)芥川賞受賞の堀田善衛(「広場の孤独」)は、内容上、第三の新人より、第二次戦後派にいれるのが慣行のようだ。

 第33回(1955年上半期)遠藤周作の次、同年下半期に石原慎太郎(「太陽の季節」が受賞になるが、これは、第三の新人ではなく、その次の「戦後の旗手」の作家のグループに入る。(大江健三郎・開高健と並んで、戦後第四の世代ともいわれる)。

                       

【参考】

  『時代別日本文学史事典〈現代編〉』(1997年東京堂出版)

  『日本近代文学年表』 (小田切進編 1993年小学館)


以下は、その次の号の特集対象になります。

「群系」35号特集 (2015年7月刊予定)

 U 昭和30〜50年 戦後の高度成長下の文学

       作家例:石原・開高・大江、柴田翔、内向の世代、他。 




   34号目次へ    トップへ


「群系」次号(34号)原稿募集要項    

                     2014.9.26



原稿種類  評論・研究、創作・小品、エッセイ、詩(短歌・俳句は除く)、コラム(1ページ。半ページ囲み)など。音楽論・絵画論、評伝、メディア論、漫画論なども歓迎。複数投稿可(3部まで)。 

枚 数   基本的には自由

 (1ページは25字詰め×23行×2段=1,150字)。

 1ページ目にはタイトル分25字×8行×2段=400字(1頁物などは、25字×5行×1段=125字)が入ります。それを除いて計算ください。

 なお,《読書ノート》《音楽ノート》《映画ノート》(各1〜2頁)や、政治的・社会的テーマのコラムも募集(1〜4ページ)。気楽に投稿ください。


 締切 2014年11月20日  

     遅れる方はご連絡ください。

 提出先  群系編集部

    → snaganofy@siren.ocn.ne.jp

      (ご投稿予定の方は一度ご通信ください)

 掲載料(今回改定 最下段参照)

       Word添付で、3,300円/1p  

       手書きは3,800円/1p

 配布冊数 掲載ページ+2冊(原則)

 発行  2014年12月下旬

 合評会 2015年2月の日曜日を予定

 特集企画 

  特集「昭和戦後の文学」

 31号「明治の文学」、32号「大正の文学」33号「昭和戦前・戦中の文学」につづくもので、日本近代文学を見通すものです。

  (左の特集アピールをご参照ください)。

 34号発送先 

 群系同人(会員)ほか、図書館・マスコミ他、

 研究者・関係各位  



   

     「実家(千葉・茂原)の庭の花」 中村博英氏提供





 33号目次へ  (昭和戦前戦中の文学) 


 32号目次へ  (大正の文学) 


 31号目次へ  (明治の文学)


   トップへ




 既刊号のアピール文・募集要項


 33号 特集《昭和戦前・戦中の文学》


 32号 特集《大正の文学》アピール


 31号 特集《明治の文学》アピール








































《参考》 群系掲示板より(再掲出。募集について)

34号特集は、作品論(4p以上)と作品案内(2p)

投稿者:管理人  

投稿日:2014年10月19日(日)19時27分

 今回の〈昭和戦後の文学〉の特集では、文字通り、「昭和戦後」、つまり昭和20年の敗戦の年から昭和64年の昭和天皇の崩御までの、実質43年間の文学を対象としています。が、既報のとおり、この時期は分量・中身において相当数になり、またわれわれが生きてきたということと重なって、「視点」の問題も含んで(以前は左派的だったが、違う視点になってきている)、問題は輻輳しています。それで、まず、34号一回だけの特集に終わらず、35号・36号と続く号にも引き続き、このテーマで特集を組んでいくことになりました。今年と来年の1年半(もはや1年と2ヶ月半になりましたが)を、この日本の戦後の昭和文学に関わるわけですね(このくらい考える時間がひつようですね)。


 〈昭和戦後の文学〉を同人それぞれの都合で三号のどの号でもとりあげて論じていいわけですね。例えば、次の34号で、中上健次や村上春樹を論じてもいいですし(33号以前なら「自由論考」となりましたが、今回は特集の一つになります)。また35号・36号で、野間宏や武田泰淳を扱ってもいいわけです。

 そもそも年号や期間で分けるのはあくまでも便宜的なものです。例えば、戦後派作家にしても、昭和20年代の占領期に発表した作品と、のちに昭和30年代に発表したものでは、時期的に分けるものではなく、その作家の持続・発展、あるいは後退など、作家自身の履歴に即して論じるほうが妥当でしょうから(例えば、梅崎春生の「櫻島」と「幻化」の場合など)。だから、来年2015年末までは、昭和作家の戦後の作品なら、どの号で論じてもいいわけです。

 逆にそれ以前の明治・大正、あるいは戦前の文学を論ずる場合は、今回は「自由論考」となります(むろん、昭和戦後作品を論じるなかで、作家の戦中の作品に言及している場合は、「昭和戦後の文学」の特集に入ります)。


 しかし、この三号が全部同じテーマで特集してしまうと、ひとしなみに同じようなものになってしまいますから、編集部方針として、それぞれの号の特徴を出すようにしたいと思います。あるキーワードを提起して、時期別の案内と、重要作品の案内(2pくらい)を出すようにするのはいかがでしょうか。

 前にもこの掲示板でご案内を出したように、昭和20年〜昭和64年を三つの時期に区分してみるのは、便宜的以上に、かなり時代と文学の本質に迫ることができるように思います。

 具体的に分けてみると、この43年間は、

 T 昭和20〜29年 占領下・講和後の文学

     作家例:第一次・二次戦後派、第三の新人

 U 昭和30〜50年 戦後の高度成長下の文学−昭和30年代に登場

     作家例:石原・開高・大江、柴田翔、内向の世代、他。

 V 昭和51〜64年 転換期・変容の時代

     作家例:中上健次、村上春樹・村上龍、他。


 さらに、

 W 平成元年〜平成26年(現在)は、情報化社会における文学の変質(仮題)

の時期として、そのあとの、特集などのテーマとなるでしょう。



 この三つの時期の時代状況については、群系ホームページに書いておきました(34号募集のアピール文)が、そこにも言及したように、「昭和」の実質的な時空間は第T期と第U期がそれに相当し、第V期(昭和51年以降)は、昭和という範疇から大きな変容を遂げているようです。「昭和」の本質は戦争と戦後、つまり生と死、そして、思想の問題が大きな焦点でした。が、第V期になると、それらは背後に後退して、戦争のことは語られなくなり、生と死、思想の問題も、かつての「戦後派文学」以上には論じられなくなりました。それは一つにはコンピューターの発達による、情報社会化が大きな要素でしょう(これは人類史的も大きな問題)。また、戦後の復活、高度成長により「豊かな社会」となり、生と死の問題も後景になりました。また思想の問題も、特に「昭和」戦前のインテリゲンチャを支配していたマルクス主義も、安保闘争や連合赤軍事件(昭和47年)による幻滅が新しい世代に印象されたようです(実際、ソ連の崩壊が後に出来しましたし、中国や北朝鮮の実態の情報を得ることによって、まったく違う見方を醸成されることになりました)。マルクス主義に代わって構造主義やポストモダンということが論じられるようになりました。労働組合も組織率が低くなり、現場では生産管理・能率、ということが問題になりました(こうした現場については黒井千次の作品に書かれています。元左派であった人間が生産現場でどのような問題にぶつかるか、初期のコンピューター導入の話もあります)。

 そうした過渡期(具体的にいえば、70〜80年代)の文学はどのように表現されていったのか、いま一度あたっていきたいと思います。

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 さて、原稿募集にあたって、ガイドラインというか参考のため、それぞれの時期においてどのような作家がいたのか、いかに表示しておきたいと思います(詳しは、群系ホームページに【昭和戦後の文学概観】として、今日明日中にアップの予定です)。


 戦後第四の世代、戦後第五の世代、戦後第六の世代の作家たち

 『時代別日本文学史事典〈現代編〉』(1997年東京堂出版)は、「昭和文学」全体を各研究者が時代別にテーマを掲げて、その文学の様相を論じたものですが、そこに、「昭和後期の特質」(渡邊正彦)の中に、見出しのような序数をつけた表記が目に付きました。


 第一次戦後文学、第二次戦後文学に対して、第三の新人(山本健吉)と表記を変えたのは、その内容が戦争や思想など重いテーマではなく、個人的な日常を書くように変わったからで、昭和26年の講和を経たこの時期の文学の様相がわかります。

 それから以降の文学作品に(作家)については、ふつうこうした序数の表記は見かけませんが、渡邊氏は、昭和30年代〜40年代にかけて出てきた作家郡を「戦後文学の継承者」として、それまでのような序数表記にして、次のようにまとめています。

 戦後第四の世代 

    石原慎太郎・大江健三郎・開高

     (昭和30年代の前半に登場)

 戦後第五の世代 

    小田実 「何でも見てやろう」昭和36・2

    高橋和己「悲も器」昭和37・11

    柴田翔 「されどわれらが日々」昭和38・7

 戦後第六の世代

   (内向の世代―小田切秀雄が名前付け)

    古井由吉・後藤明生・黒井千次・

    阿部昭・柏原兵三・小川国夫・

    秋山駿・川村二郎・入江隆則・

    饗庭隆男・森川達也・柄谷行人

     (おもに昭和40年代に登場)

      それ以降も書いている人も多い


をあげています。石原慎太郎が「戦後文学の継承者」か、とその政治的立場から異を立てる人もいましょうが、広く「戦後文学」の中には入るでしょう。


 そのあと、昭和50年代(1970年代後半)にかけて、いわゆる戦後生まれの作家たちが続きます。

     村上龍「限りなく透明に近いブルー」

     中上健次「岬」

     村上春樹「風の歌を聴け」

     高橋三千綱「彼の初恋」

 これらの作家は、第V期に区分されますが、第T〜U期などのまとめであり、新時代への予感ともいえましょう。

 それ以降の島田雅彦(「優しいサヨクのための喜遊曲」)や、吉本バナナ「キッチン」)などの作家はまったく新しい立場の作家でしょう。


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  作品論(4p以上)と作品案内(2p)の二つを募集


 本誌にはほかに創作も力を入れるところですが、この特集については、上述したように、三つの号の特徴を出すために、同人各位に代表的な作家の作品について、作品論(4p以上)のほかに、見開き2ページくらいの〈作品案内〉を書いていただければ、と思います。これは、作品論までいかないけれど、作品のおおまかな内容・意味についてのレポートのようなものです。2pの〈作品案内〉を10〜15本くらい並べれば、時代と文学の内容がおおまかにわかることと思いますので(本誌は、読者への文学案内にも資することを目指します)。

今回(34号)は、〈作品案内〉を第T期の作家にしぼりたいと思います。

(同じく35号は第U期の作家の、36号は第V期の作家の作品を、任意に選んでいただいて、2ページにまとめていただきたく思います)。

 これらは、アンケートを出して、担当の作家・作品を決めていただきたく思います。





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