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32号 《特集》大正の文学 32号 宮越 直哉 大堀 実篤 永野 有島
目 次
大正と「白樺」派 志賀直哉という存在を中心に
宮越 勉
大正期の文学は「白樺」派出身の作家たちが中心だったといえるだろう。が、明治四十三年四月創刊から終刊の大正十二年八月までの「白樺」誌上を通覧してみると、大正期に入って間もなく正親町公和、日下?(正親町実慶)兄弟は実業界に転じ、郡虎彦(萱野二十一)はヨーロッパに活動の場を移すべく旅立ち、志賀直哉は「児を盗む話」(大3・4)から約三年の創作活動休止期に入り、里見クは「勝負」(大3・8)を最後に「白樺」誌上への作品掲載は一切なくなっており、以後は武者小路実篤、柳宗悦、木下利玄、一年遅れ(明治四十四年)で同人となった長與善郎、小泉鉄が中心となり、さらに彼等に加えてその後同人となった近藤経一、千家元麿、犬養健らがいわば主流派となり、志賀は「城の崎にて」(大6・5)、「小品五つ」(大6・7)、「流行感冒と石」(大8・4、第十周年記念号)、「小僧の神様」(大9・1)の四作を発表したに過ぎないのである。志賀のこのようなあり方から、大正期文学の特質を考えてみたい。
志賀直哉は後年、雑誌「白樺」が人道主義的傾向を強めていることを嫌い、里見クとともに「白樺」から距離を置くようになったと語っている(「文芸」、昭30・5、高見順との対談「「白樺」派とその時代」)。志賀は、武者小路や柳ら旧知の友とは親しかったが、千家の人柄とその詩を好んでいたものの、とりわけ倉田百三(大5〜6『白樺』衛星誌『生命の川』に戯曲「出家とその弟子」を連載し一躍有名作家となった)に不愉快を感じていたようなのである。むろん志賀は、大正四年からの我孫子在住時から、柳や武者小路らとの交友、西洋美術から東洋古美術への親しみへの転換などで自我の静謐化へと向かい、長年不和だった父直温とも和解(大6・8)したのだった。「城の崎にて」と「佐々木の場合」(『黒潮』大6・6、漱石の「こころ」のあと朝日新聞に長篇(不和対立する父直温との関係を中心に構想された所謂私小説とされる)を連載するはずだったのを大正三年夏に漱石に断わり、大正五年に亡くなった漱石にデジケートされたものであった)で文壇再デビュウを遂げ、「和解」(『黒潮』大6・10)は文壇から高く評価され、創作集『夜の光』(大7・1、新潮社)は発行間もなく二千五百部を売ったとされている。ちなみに「当今の人気作家」(『黒潮』大7・3)によれば、有島武郎を筆頭に、志賀直哉、芥川龍之介、江馬修(大5の『受難者』はベストセラーとなった)、里見クの順だという。なお、志賀は有島武郎を弱い性格の人と見、その作品は「或る女」その他二三しか読んでいないというあり様だった。
次に、志賀直哉と里見クの関係から大正期文学の特徴の一面について私見を述べてみたい。志賀直哉は、大正二年八月十五日の夜、クと芝浦の素人相撲見物の帰り、山の手線の電車に跳ね飛ばされ大怪我を負うという体験をした。その作品への形象化は「城の崎にて」の鼠のシーンの一部に定著された。が、クは、その前年「善心悪心」(『中央公論』大5・7)で、「佐々」(志賀)の存在に圧倒されて苦しんでいる主人公「昌造」(ク)が、佐々の事故で病院に付き添い、佐々が助かったとなると何か物足らない気がし、秘かにその死を望んでいたようなことも描いていたのであった。これを読んだ志賀は「汝けがわらしき者よ」と大書したハガキをクに送り、以後約八年間(大正十二年まで)絶交状態に入ったのである。クは、さらに志賀とともに過ごした大正三年夏の松江生活(湖での遊び、ヤモリなどの虫殺し、子ども芝居見物など)を題材に「或る年の初夏に」(『新小説』大6・6)を発表し、「私」(ク)が「佐竹」(志賀)から所謂蝉脱し得た(「佐竹」の下宿に泊まるよう強要されたが断わることができた)ことを書いたのであった。のちに志賀は松江生活を題材に「濠端の住まひ」(『不二』大14・1)を書いたが、ここではクの存在は巧みに消去され、その執筆時の心境の反映としての主人公「私」(志賀)の東洋的諦念の世界が描かれたのであった。
つまり、里見「善心悪心」と志賀「城の崎にて」、および里見「或る年の初夏に」と志賀「濠端の住まひ」を、小説ジャンルの問題でいかに見るべきかを考察したいのである。大正期の終わり頃から私小説論争が沸き起こった。中村武羅雄、生田長江、久米正雄、宇野浩二、佐藤春夫らによるものである。そのうち、中村武羅雄と久米正雄の論文に注目したい。中村武羅雄は、「本格小説と心境小説」(『新小説』、大13・1)で、自らの造語である「本格小説」は、一人称小説に対する三人称小説のことで、作者は描かれたものの蔭に隠れている、ロシアの作家が多く書き、トルストイの「アンナ・カレニナ」を小説中の小説とし、一方の「心境小説」は作者が「ぢか」に作品の上に出て来る小説で、日本独特の文学ではないかとし、決して排斥するものではないが、傍系のものとしたのである。久米正雄は、「私小説と心境小説」(『文藝講座』、大14・1、2)で、「私小説」とは作者が自分を最も直截にさらけ出した小説というほどの意味だが、あくまで芸術の一形式であり小説の本道と考え、トルストイの「戦争と平和」もドストエフスキイの「罪と罰」も作り物で偉大なる通俗小説に過ぎないとし、自らの造語である「心境小説」とは「私」をコンデンスし、濾過しなどした小説で「私小説」のいわば上位概念に置いたのであった。ここから、里見クの「善心悪心」「或る年の初夏に」は「私小説」であり、志賀直哉のいずれも発表当時文壇から注目をされなかった「城の崎にて」「濠端の住まひ」は「心境小説」で、世評の高かった「和解」は「私小説」とすることができるように思う。むろん「城の崎にて」「濠端の住まひ」は久米のいう「心境小説」とはニュアンスの異なるものを持つが、この範疇にあるということである。
ところで、児童文学雑誌『赤い鳥』は、世俗的な子供の読みものを排斥して、子供の純正を保全開発するために、鈴木三重吉によって大正七年七月に創刊された。有島武郎の「一房の葡萄」、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」などの名作が載り、島崎藤村、宇野浩二、菊池寛、佐藤春夫らの作品も載っていた。童謡は北原白秋が中心だった。が、志賀直哉に『赤い鳥』掲載の作品はない。しかるに志賀唯一の童話「菜の花と小娘」は原稿依頼を受け『金の船』(大9・1)に載ったのである。『金の船』の童謡は野口雨情が中心だった。志賀の「菜の花と小娘」についていえば、児童文学ジャンルではなく、かといって童話ジャンルに入れるにしてはしっくり来ず、その綿密な構成力、調和的世界でのエンディングなどで、珠玉といえる短篇作品だといえるだろう。『赤い鳥』は創刊以来、順調に部数を伸ばし、大正九年には三万部を発行するようになった。が、通俗少年少女雑誌は勢いがあり、講談社の『少年倶楽部』は、大正三年創刊時で三万部の発行だったが、大正九年には八万部、大正十三年に三十万部もの部数となっていたのである。それで、『赤い鳥』は大正十二、三年を境に、衰退の道を辿ったのだった。それは小説文壇でも同じような傾向にあり、菊池寛は「真珠夫人」(『東京日日新聞』『大阪毎日新聞』大9・6〜12、のち何度も映画化された)で大衆小説に新境地を開拓し、久米正雄も中村武羅雄も通俗小説を書くようになっていたのである。
志賀直哉は戯曲を書かなった。同じ「白樺」派では、郡虎彦、武者小路実篤、有島武郎、長與善郎らは戯曲を書いていた。「白樺」派出身以外では、菊池寛、谷崎潤一郎、山本有三らが戯曲を書いている。武者小路実篤の戯曲「愛欲」(『改造』大15・1)は、当時の文壇はこぞって好評の言を惜しまず、築地小劇場で大正十五年七月一日から十三日まで初演され、好評を博した。以後、二十九回の公演回数は築地の最高記録だという。
つまり、大正期の作家にあって、小説一本道だったのは、それも小説を芸術として書き続けてきたのは、志賀直哉と芥川龍之介その他ごく少数だったといいたいのである。芥川が志賀の小説をどう見ていたかを述べたい。芥川の評論「文芸的な、余りに文芸的な」(『改造』昭2・4〜8)は、芥川と谷崎潤一郎の小説の筋をめぐる論争に端を発するが、芥川は「話」らしい話のない小説を、小説中、最も詩に近い小説であり、また、そのリアリズムに東洋的伝統の上に立った詩的精神を流し込んでいて、現今の日本の小説での具体例としては志賀の「焚火」(原題「山の生活にて」、『改造』大9・4)と「真鶴」(『中央公論』大9・9)を挙げ、志賀という作家は技巧も注意を怠らないが、他の作家の作(外国文学を含む)の模倣はしないといったのである。志賀オマージュといえる。なお、芥川以前に、志賀の「焚火」と「真鶴」を高く評価していたのが和辻哲郎であった。和辻は「気品について(志賀直哉氏の『荒絹』を評す)」(『読売新聞』大10・4・10)で、作品の美しさの中核をなすものは気品であるといい、志賀の近著『荒絹』(春陽堂、大10・2)に収められた十数篇の短篇は気品の高い作品としての好個の例であるとし、とりわけ「山の生活にて」「真鶴」のごときは真実の芸術であるとしたのであった。
志賀の唯一の長篇「暗夜行路」(『改造』大10・1〜昭12・4)に若干触れたいのだが、大正期においては未完でありつつも、おおむね好評だったのである。
志賀直哉の偉大さはその後代の作家に与えた影響力の大きさにある。横光利一の初期の「笑はれた子」(原題「面」、『塔』大11・5)は志賀の「清兵衛と瓢箪」(『読売新聞』大2・1・1)を下敷きにしているのは明らかであり、「マルクスの審判」(『新潮』大12・8)は志賀の「范の犯罪」(『白樺』大2・10)を換骨奪胎したものだといい得るし、「御身」(第一創作集『御身』大13・5に初収)には志賀の「或る朝」(『中央文学』大7・3)などからの影響が認められるのである。また、小林多喜二の初期の「万歳々々」(『原始林』昭2・4)は、書生と女中さんの人目を忍ぶ恋愛を描いたものだが、私見によれば、志賀の「佐々木の場合」の前半部から明らかな影響を受けているといえる。
志賀直哉は大正期第一の小説家としていいのである。
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武者小路実篤論
――自我と国体
大堀敏靖
大正の幕開けは同時に明治の終焉でもあった。そしてその象徴的な事件として、乃木希典の殉死があった。東郷平八郎と並ぶ英雄的軍人の殉死事件は一般民衆の心をまともに搏ったようである。「乃木さんの自害」は岐阜の田舎の幼女の心にも刻み付けられるほどの事件であったことはわたしの祖母たちが後年話題にしていたことからもわかる。
漱石は「こころ」の先生が自殺に至るモチーフとして乃木殉死を取り上げ、?外も間髪を入れず、「興津弥五右衛門の遺書」を書いた。漱石と同年代で旧来の道徳を「生命なき木乃伊(みいら)」と批判した内田魯庵でさえ、「乃木将軍の自刃が沈滞したる時代の大鉄槌であるのは云ふまでも無いが、勇気なき確信なき新思想家輩も亦将軍墳墓の土塊を以て持薬とせられんことを欲す」と書いた。
新劇運動をしていた島村抱月は大阪毎日新聞に「乃木大将の自尽ほど単純でそして強力な出来事は恐らく近年の歴史にないでせう。…理非善悪を超越して、ただ電気のやうに人々の胸底にあッと言ふ一感動を与へる」と寄稿した。
またトルストイに私淑し、大逆事件の幸徳秋水を弁護して『謀反論』を一高で演説し、天皇への公開直訴状まで書いた徳富蘆花は、明治天皇の御大喪の記事を見ようと新聞を開き、眼に飛び込んだ記事「乃木大将夫妻の自殺 余は息を飲むで、眼を数行走らした。『尤だ、無理は無い、尤だ』斯く呟きつつ、余は新聞を顔に打掩(おお)ふた」とエッセーに記した。一般民衆そして、明治の時代とともに明治の息吹を呼吸しながら生きてきた壮年の知識人たちには衝撃的な事件だったようである。抱月も蘆花も漱石とほぼ同年代である。
ところがこれに対して実に冷淡な反応をしたのは乃木が院長を務めたその膝元の直々の教え子であるはずの学習院出身の若い作家たちだった。
漱石四十五歳、?外五十歳に対して二九歳の志賀直哉は日記に記した。
「乃木さんが自殺したといふのを英子から聞いた時、馬鹿な奴だといふ気が、丁度下女かなにかが無考へに何かした時感ずる心持と同じやうな感じ方で、感じられた」
「乃木さんの死はひとつのテンプテェーションに負けたのである」
また二十七歳の武者小路実篤は『白樺』第三巻第十二号(大正元年)に「三井甲之君に」と題してかなり激しい調子で書いている。
「君は国民的生活をもつて窮極なものとして世界的、人類的の生活を空なものと見て居る。自分は世界的、人類的の生活にゆかない国民生活は浅薄なものだと云ふのである。…東西思想の融合した世界思想に生きて、その世界において出来るだけのことをしたい、乃木大将のやうに一地方的の思想に身を殺すやうなことで満足はしたくない云ふのである。なぜかといふに吾人(我々)は既に世界的の人間である。乃木大将の精神よりロダン、マーテルリンク、ベルハーレン等の精神により理解とシンパシーをもつやうに自然からつくられてゐる人間である。」
さらに
「ゲーテやロダンを目して自分は人類的といひ、乃木大将を目して人類的分子を少しももたない人といふのに君は不服なのか。…さうして君は乃木大将をロダンと比較して、いづれが人間本来の生命にふれてゐると思ふのか。乃木大将の殉死が西洋人の本来の生命にふれてゐると思ふのか。乃木大将の殉死が西洋人の本来の生命をよびさます可能性があると思つてゐるのか。…乃木大将の殉死はある不健全なる時が自然を悪用してつくり上げたる思想にはぐくまれた人の不健全な理性のみが、賛美することを許せる行動である。西洋思想によつて人間本来の生命を目ざまされた人の理性はそれを賛美することを許さない。(乃木大将の殉死は)残念なことには人類的な所がない。ゴオホの自殺は其処へゆくと人類的な処がある」
三井甲之という歌人は保守的な人の間では広く知られている。代表的な歌に「ますらをのかなしきいのち つみかさね つみかさねまもる やまとしまねを」がある。武者小路とはほぼ同年代である。正岡子規の短歌革新運動に共鳴し、伊藤左千夫、長塚節らと根岸短歌会の機関紙「馬酔木」の編集に携わり、後、三宅雪嶺、陸羯南らの「日本及日本人」で評論活動を続け、大正末年には「原理日本社」という右翼団体を結成し、帝国大学の自由主義的風潮やマルクス・レーニン主義を批判した。明治天皇の御製拝誦運動も行っている。
わたしは学生時代に吉田松陰の妹の末裔にあたる小田村寅二郎氏の国民文化研究会の合宿に参加して、三井の名前やその代表歌を教わった。明治天皇の御製も頭を下げて拝誦した。だから高校時代に傾倒した武者小路が乃木殉死を巡って三井とこのような論争をしていることは、因縁めいたものを感じたものだった。高校時代の私にはまったく国という価値概念は存在せず、乃木の殉死も封建制の名残で古めかしいことをした最後の人くらいの認識しかなかった。大学に進み、特殊な事情によって、国家という概念を半強制的に注入された私は、いつの間にか自我などの新思想を振り回す白樺派を批判する立場に立っていた。乃木殉死の見方がリトマス試験紙となって、その評価で芸術家、思想家は判断できると教わった。だから、?外、漱石、蘆花、抱月らは大人だったのに対して、武者小路、志賀、芥川らは外来思想にかぶれた未熟者と認識させられた。二十歳を境に私の中で価値観の大転換があり、真っ向から対立する価値概念に矯正(強制)されてしまったことになる。
三井が大正六(一九一七)年、白樺派が自然主義に代って文壇を席捲している頃に『早稲田文学』に書いた「傳統主義の任務」では、「(白樺派の)人道主義は自然主義に神話童話的に想像要素を加えたものに過ぎぬのである。…此の童話的要素が傳説から眞の歴史的要素をも加へるやうに進歩して、ここに始めて傳統主義の思想が目さめて来て、それが自然主義と對立し、それを補足すべき役目をつとむるのである」と述べている。形骸化した因習の打破には自然主義も理知主義も白樺派の人道主義も存在意味はあったが、そののちにまた歴史や伝統へ回帰することこそ本当の「革新的自由精神」となり、小説や演劇も新しい総合芸術となりうると三井はいうのである。そう考えれば両者には折り合う余地もあったかと思うが、乃木殉死を巡っては激しく対立することになる。
武者小路は論争の中で、三井の引用した乃木の歌の、その没個性を批判している。
「数ならぬ身にもこころの急がれて夢やすからぬひろしまのやど」
「すめらぎのわが大君のいくさぶね向ふ舳先になみかぜもなし」
「その調にはまことに詩人の内にこもれる情操の力と熱がある」と絶賛する三井に対して「自分にはさうは思はれない。…歌は歌として価値は零なものとしか思はれない」とにべもなく否定する。作者の名前を伏せれば何処の馬の骨が作った歌ともわからず、少しも乃木の個性は現われていない。「ザルに一杯ある団栗のうちに団栗を二つ三つ入れたやうなものだ。一度かきまぜればもう選り出すことは出来ない。さう云ふ歌を個性のにじみ出ていない歌と云つて自分は軽蔑するのである。さうしてかかる歌を一首でもつくる人は真の詩人ではない」
学習院在学中に武者小路が乃木を目の前において「人間の価値」と題し輔仁会大会で演説したことがあったという。長与善郎や志賀直哉が証言している。
演壇に立った武者小路が乃木大将を睨みつけるようにして『軍人は人間の価値を知りません』を二度繰り返していった。大将は『あれは坊主か』といった。(長与)
十分ばかり話したらぐっと詰って絶句した、暫くして『初ッカラヤリ直します』といって出直した、ところがまたしばらく話すと絶句してしまった、そこでこんどは『ヅットヌカシテ仕舞だけ云ひます』といって、『人間の価値を最も知らないものは軍人であります』と大きくいい切った、すぐ下にいた乃木さんの顔が真赤になったと他の人が話した。(志賀) (本多秋五『武者小路実篤の「自己」形成期』)
軍神といわれるような人の面前で軍人を批判するとは勇気の要る行為だったと思う。それを言わなければ自分の演壇に立った意味がないという一言だったのだろう。若い頃の三島が太宰を囲む会に出かけて、「わたしはあなたが嫌いです」と言ったのにどこか似ている。武者小路がその演説で言いたかったことは、人間には食欲や性欲もあるが、真の利己を徹底して生かせばそれが人類の為になる。個性を磨いて高め上げればそれが必ず人類の意思にかなう、ということで、そのように人間は造られているということだった。しかし、金持ちのお坊ちゃんの理想主義は紙の上に表現はできてもさすがに人の前で演説するには空気が許さなかったのだろう。個性を押し殺すような軍人の生き方は間違っていることを結論として、そこだけをなんとか言うことができたようだった。しかし、「人間の価値」で主張を試みた、このような人間に対する絶対信頼は武者小路の終生変わらぬ人間観だった。
白樺派の中でも絶対的信念をもって戦闘的に論陣を張ることのできた武者小路の自信や確信はどこからくるのだろうか。それは彼が三歳のとき亡くなった父の彼に対する予言的遺言「この子は世界に一人という人間になる」を聞かされて育ったことによるといわている。「日本に一人」ではなく、「世界に一人」と言われたことが重要かもしれない。「天上天下唯我独尊」と宣言したという釈迦の伝記的小説も書いている。ゴッホ、ロダン、トルストイ、メーテルリンクなど世界的な芸術家を対等な立場で評価しようとした。したがって軍神であろうが、院長であろうが、恐れるには足りなかったのだろう。「世界に一人」の感性にしたがって、どこまでも突き進んでいくことができたのだろう。すくなからず芸術家はそういう自意識の強い部分があるが、特に武者小路は突出していたかもしれない。
また反戦的な考え方は「平民新聞」に掲載された『トルストイ翁の日露戦争論』を読み、「皇帝も兵士も新聞記者も胸に手を当てて、自分たちをこの世につかわしたものの意思を考え、己の欲するところを他に施すように悔い改めねばならない」という考え方に共鳴したからだろう。戦争を遂行する軍人こそは「人間の価値」を具現するに逆方向へ進む人種と見なさなければならない。だから殉死などは「人間の価値」の圧殺以外のなにもでもなかったのだろう。
乃木殉死をもって締めくくられた明治という時代の鎮魂歌とでもいうべき「こころ」を書いた漱石を、武者小路たちは、「夏目さん」と呼び慕っていた。志賀は漱石に憧れて東大に進学した。武者小路は「お目出たき人」を絶賛され、「白樺」創刊号で「それからに就いて」を書いた。ここでも武者小路は漱石と「対等な立場」で批評をするとはっきり述べている。そして漱石から礼状をもらって狂喜していた。しかし、通ずるものもありながら、民族の精神というような深い所で世代のギャップがあったためか乃木殉死には正反対の反応を示した。
若い世代のそういう考え方を意識してか、大正二(一九一三)年、一高で行われた講演「模倣と独立」の中で漱石は乃木殉死に触れている。
「乃木さんが死にましたらう。あの乃木さんの死といふものは至誠より出たものである。…乃木さんの行為の至誠であると云ふことはあなた方を感動せしめる。夫が私には成功だと認められる。さう云ふ意味の成功である。だからインディベンデントになるのは宜いけれども、夫には深い背景を持つたインディペンデントとならなければ成功は出来ない」
人間のうちには模倣(イミテーション)の部分と独立(インディペンデント)の部分が存在するが、今の時代はやはりインディペンデントを強く持って芸術、文学もやっていかなければならないというのが漱石の講演の主旨である。しかし、奇をてらったような形ばかりの独自性というのはよくなくて、深い「背景」を持った独自性をもたなければならない。乃木の自刃には西南戦争で軍旗を奪われたその罪を償うという背景があった。そして日露戦争で旅順を陥落させ、奉天会戦で勝利し凱旋したが、何万という部下を犠牲にしたことに対する責任から、天皇への復命書奏上で憔悴しきった乃木の自害を察した明治帝から賜った言葉「朕の目の黒き間は死ぬるべからず」を忠実に守ったという背景があった。乃木殉死はそのバックグラウンドが完璧に出来上がっていた。赤穂浪士の討ち入りと同様に民衆に訴えるお膳立てが出来ていた。従って漱石のいう「成功」、つまり一般民衆にも後世に対してもインパクトのある事件として記憶されることになったのだった。
『白樺』創刊号に「それから」についての評を書いて漱石から手紙をもらって以来、武者小路と漱石は手紙のやり取りや入院中の漱石への見舞い、漱石邸への訪問など弟子に近いくらいの交流があった。武者小路にとって国木田独歩と漱石が一番刺激を受けた作家だったが、独歩よりやはり漱石だったと後年書いている。しかし、このころトルストイの反戦思想の影響を強く受けていた武者小路は「漱石ファンであったが絶対に崇拝してゐるわけではなかった」ので、乃木殉死に対する考え方も修正するというわけではなかったのだろう。「和して同ぜず」というのは武者小路が描く絵に添えて書く言葉としてよく見かけるが、強い自尊心をもって、十八歳年長の漱石とも対等に議論し、作品を批評しているところからも自分の考えを簡単に曲げる人間ではなかった武者小路らしさがうかがわれる。
ゴッホやロダンの方が人類普遍の価値を生きたと主張した。乃木の殉死は古い道徳に縛られた考え方の結果の狭い島国で起きた時代遅れの事件としか思われなかったのだろう。強い自我とそして国家を飛び越えて「人類の意志」というのが白樺の同人たちに共通した価値観で、武者小路がその考え方を最も戦闘的に代表していた。
しかし、武者小路の、乃木の自殺には「人類的なところがない」という主張に対しては、反論ができる。それは日露戦争の従軍記者で乃木の側近くで取材していた米国の「シカゴ・ニュース」の特派員従軍記者スタンレー・ウォッシュバーンがその人格に触れて感銘を受け、自刃を知るや、『NOGI(邦題「乃木大将と日本人」)』を書いているからである。あまりに絶賛の書であるため、客観的資料としては重視されないくらいに持ち上げて書かれている。それくらいウォッシュバーンは乃木の武士的精神に間近に触れて感銘を受けていた。
また、この書を読んでいたダグラス・マッカーサーの父は息子にも乃木を説いて聞かせていた。そしてマッカーサーは占領軍総司令官として在日中に赤坂の乃木神社を訪れ植樹している。私の職場に出入りしているオーストラリア人に、日本で昔こういうことがあったが「クレージーだと思うか」と聞いたところ「いや違う。honor(高貴)だろう」と言っていた。乃木の行為は確かに人類普遍の要素も含んでいたのだろう。
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大正という時代は、独立が脅かされるという危機感から異様に緊張した明治を経て、国家を重視する立場からは「弛緩した、放縦な時代」、また個人を重視する立場からは「戦後の民主主義の先駆をなす開かれた明るい時代」と捉えられるかもしれない。明るいといえば芥川は武者小路の作品を評して「文壇の天窓を開け放って爽やかな空気を入れた」と評した。人間を肯定し、美や愛がある人生を賛美し、己の可能性を何処までも信じそれを実現することが人類の意思であり、人類に貢献する道につながるという楽天的かつポジティブな考え方は、人間を動物の次元まで貶めて無理想無解決に描く自然主義からすれば「爽やか」で明るかった。
しかし、大正が過ぎ去り、昭和になると戦時色が濃くなり、個人は著しく圧迫される時代となる。満州事変、支那事変を経て、日米開戦となると武者小路は『大東亜戦争私感』を書いた。文学者、芸術家は一般に自我が強いと同時に時代の空気を察するのも鋭敏である。国民感情もマスコミも「鬼畜米英」で染まった空気を無視できなかったことはやむを得ないが、乃木自刃をあそこまで批判した武者小路がこういう著作を世に出してしまうことは本多秋五など研究者の頭を悩ませる。「第一次大戦の当時、『人類』に奉仕するものとして、詩のように調子の高い長い長い戯曲『ある青年の夢』を書き、戦争が才能ある青年男女の運命を狂わす悲惨を『その妹』に書いた、反戦平和主義の人が、どうしてこういう熱狂的な戦争賛美者に変わったか、これが謎である」(全集十五巻「解説」)
「十二月八日」の項に武者小路は書いている。「十二月八日は大した日だった。僕の家は郊外にあったので十一時頃迄何も知らなかった。東京から客が見えて初めて知った。『たうとうやったのか』僕は思わずさう言つた。それからラジオを聞くことにした。するとあの宣戦の大詔がラジオを通して聞こえてきた。僕は決心がきまつた。内から力が満ちあふれて来た。『今なら喜んで死ねる』と、ふと思つた」この時武者小路は五十七歳である。十代の少年のような文体で華々しい緒戦の戦果に喜び、日本民族の優秀性や東亜解放の民族的使命を熱情をこめて書いている。
しかしこの本は売れなかった。「僕の本としてあの本くらい、売れない本はなかった。柄にない仕事はすべきでないと思った」「今思えばわれながら愚かなことで、恥ずかしく思う」と昭和三十一(一九五六)年、七一歳で振り返っている。「大東亜戦争」とは書かず、「太平洋戦争」と書いている。
終戦の翌年勅撰の貴族院議員になるが、天皇擁護論を雑誌に執筆したため、公職追放となった。「今の日本に、今の天皇(昭和天皇)のような野心の少しもない、私のない天皇がおられることは、扇の要のような大事なことで、またありがたいことだ。僕はそう思っていたので、そう書いた」これもまた小学生のようで利害打算もなさ過ぎるといってよい。しかし、これによって生活に困ることはほとんどなく、文化勲章をもらうのが志賀直哉より遅れたくらいで、五年後に追放は解除される。
天皇に対する考え方は母親の影響が強くあったようだが、藤原公季を祖とする三条家の分家子爵の父という出自を考えれば、尊皇であっても少しも不自然ではない。「僕には、天皇の悪口をいわれると腹が立つのもどうすることもできない事実だ。この気持は同感できる人にのみわかる不思議な感情である」同じく天皇を慕っている徳川夢声のことを人から聞いてうれしくなり、「翌る朝、夢声君を訪ねて、二人で天皇を賛美して気炎を上げた」と書いている。
武者小路八十五歳の昭和四十五(一九七〇)年、人によっては乃木殉死になぞらえる三島事件が起こった。文壇の長老として意見を求められたのであろう。「文学界」(『三島君の死』)と「潮」(『三島由紀夫君の死』)にコメントを寄せている。三島とは面識はあったが、作品は全く読んでいない。学習院の後輩として、華々しい活躍は聞いていた。たまたまその日テレビで演説する三島の姿を見た。その後割腹して介錯された話を聞いて驚いている。「とても想像できない」と繰り返し、「僕もこの事実には驚いた。笑ってすませられない事実だ。しかし僕はほめる気にはなれないのは事実だ。しかし悪口言ってすましてもいられない。日本人的な強い感じを受け、一歩賞めたい気持も起こりかねない感じを受けた。夢物語りとも思えないが、ぴったりしたものは感じられない。恐ろしい感じを受けた。だが、感心してすませる気もしない。もっと他の生き方もあり、之から自分を生かす生き方もあるように僕には思われ、少し早すぎた結論に思われると同時に、其処までやってのけた事にはある勇気も感じるが、賞める気にはなれないが、悪口を言って安心しようとも思わない。ともかく三島君は一人の忘れられない死に方をした事だけは事実のようだ」と非常に錯綜し入り乱れた感想を武者小路らしい表現で綴っている。六十年前に乃木殉死を巡って三井甲之と激しく論争したことについては触れていない。
むしろ述べたいことは、三島の死は早過ぎるし、自殺はよくないということだろう。与えられた生を自ら中断するというようなことは武者小路の人生観からは決して演繹できないことである。「今日まで八十五歳まで生きて、まだ死にたくは思わず、之からものになるつもりでいる僕には、到底自殺することなぞは考えた事がなく、之から本当の画もかき、文学もものにしようと思っているのだから、自殺する勇気のある人の事は想像が出来ない。之からものになるつもりなのだ」
高齢化社会のお手本のような考え方である。苦労知らずのお坊ちゃんがそのまま年を重ねて「お目出たき人」を貫いた生き方で「幸福者」といえるかもしれない。志賀直哉八十八歳、武者小路九十歳、里見ク九十四歳と白樺派の作家は長命が多いのは偶然ではなく、その人生観、人間観が身体にもたらした影響が大きいだろう。長生きを価値とすれば「苦しい」とか「馬鹿馬鹿しい」と言って死んでいった漱石や?外よりも白樺派の作家たちの人生観、人間観のほうが正しく、健全なものかもしれない。
しかし、人生や人間というものはそう単純なものではなく、武者小路のようにプロットも一切なく、ただ筆の趣くままに書くという小説の書き方や晩年には三島も川端も後進の作品は一切読まなかったという姿勢はどうなのかという疑問が残る。浮世の事象を一切遮断し、自分の世界に閉じこもればストレスは減らすことができるだろう。自己本位に生きることはできるだろう。清らかな気持ちで日々精進はできるだろう。隠遁者も肯定するのだから、そうしてでも自我を守ることに価値を置いたかもしれない。
国家や国体を守るための軍隊や徴兵などは権力からの強制であるから、そういう考え方からは否定せざるを得ない。「アンティミリタリズムになつて了つた」という志賀の考え方は当然である。しかし、彼らは、同時に皇室に対するかなりの強い思いや戦争が始まると拳に力が入ってしまうような感覚も持ち合わせていた。それも自然の自我と考えれば肯定すべきだったのかもしれない。
漱石は「独立と模倣」の中で人真似と独自性は同じ人間の中に両方あるものだと言っているが、自我と国体というものを対立した概念と捉えて、それに対してどちらに付くかと簡単に人を区分できるものではない。自我に重きを置く時と、全体のために働きたくなるときが同じ人間にはある。個性を真に磨けばそのバランスの取れた理想的な人格になることができるだろう。
作家にも多様性があり、自殺する作家ばかりが全てではなく、自殺とはおよそ縁のない作家もいて、懸命に生きて生涯書き続けた武者小路の生き方は一つの生き方として学ぶべきところ、見習うべきところ多々あったというのがこの稿の結論となると思う。
(平成二十五年十一月)
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有島武郎「宣言一つ」をめぐって
永野 悟
有島武郎(一八七七‐一九二三)の「宣言一つ」は大正十一年(一九二二)年の「改造」一月号に掲載された。勃興してくるプロレタリア階級(第四階級)に対する確認と期待、それに対する自己の階級(と自身)の滅亡の予告を宣言したものだ。実際、その年の七月父から引き継いだ広大な有島農場を小作人に無償で譲って、翌年大正十二年六月、有島は婦人公論記者波多野秋子と軽井沢の別荘浄月庵で心中自決した。インテリの敗北宣言として、芥川龍之介(一八九二‐一九二七)の「ぼんやりとした不安」(遺書など)とならんで、このマニフェストは、時代状況的にも、文学・芸術と人間の生き方においても、大きな問題を投げ懸けている。
問題に入る前に、有島武郎の生涯とその文学を概観しておこう。彼が何を問題にしどのように考え、どんな作品を書いてきたか、の参考になろうかのためである。以下、「白樺」が創刊(明治四三年)されるまでの、有島武郎の足跡である。
有島武郎は薩摩藩士有島武の長男として明治十一年三月四日、東京小石川に生れた。弟妹たちは六人いて、四歳下には後画家となった有島生馬、十歳下には後「白樺」派の作家となった里見クなどがいた。武は上京し大蔵省の税吏になった。武も母幸子も教育には厳しかったが、母方の祖母静子がいて、信仰篤く柔和な人柄で武郎はだいぶ癒された。その後父武は横浜税関の税関長となった。当時は鹿鳴館時代で、まだ鉄道も開通して間もない横浜は外国公館や外人居留地や教会が出来てきたばかりであった。父武は長男武郎と長女愛子をアメリカ人の家庭にやった。そこで国際的な雰囲気になじませようとした。英会話とともに、教会へ行く習慣も身につけた。
もとよりやさしく感受性のある武郎だったが、一つ過ちを犯した。絵が好きな武郎が友達の絵の具を盗んでしまった。青い空と鮮やかな船の絵が描かれた絵の具箱に魅せられたのだった。罪意識で胸がどきどきする中で、先生の前に出た。大好きな女の先生の前で、恥ずかしさと悲しみでいっぱいだった。先生は「絵の具は返しましたか」とやさしく肩に手をあて、二階の窓から葡萄の一房をとって彼の膝においた。後、子供向けの童話として、『赤い鳥』に載せた「一房の葡萄」(大正九年八月)のもとになったエピソードである。人を傷つけないようにという人格尊重の教育のなか、武郎は自由な精神と雰囲気を身につけていった。
学習院の中等科に進む頃、父は大蔵賞国債局長になった。厳格な両親は居宅から通わせずに、寮住まいをさせた。そこで文学への目覚めを果たすのだが、卒業する頃になって、その後の進路を札幌の農学校に決めた。一つは身体が弱く二年間も留年し、医師から「東京にいてはよくない」と告げられていたのだった。だがもとより農学への関心と、北海道への憧れ、広大な自然が彼をいざなっていた。武郎は横浜から海路小樽についたが空は鈍く、自然が人間の営みを支配しているような感じだった。
武郎は札幌では農学校の教授新渡戸稲造の家に住み学校へ通った。新渡戸は英語を教授するクリスチャンだったが、信仰を強要することはなかった。が信仰心の大事さを諭していた。
武郎がキリスト教に入信するのは、同級の森本厚吉との出会いだろう。あまりにも神と贖罪など信仰の道に悩む森本をみて、同情から親友にもなったのだが、この入信はのちアメリカ留学後の武郎を精神的に悩ませるもとになった(結果棄教することにもなる)。この頃父武は、狩太(現在のニセコ)農場を払い下げを受げ購入した(後、遺産として引継いだ武郎はそれを小作人に無償解放するー大正十一年七月)。
森本を入信させたのは内村鑑三で、武郎も会う機会があり、感銘を受けていた。が森本は、鑑三から「すべての欲望をすてさらない限り、信仰への道へは入れない」といわれながら性欲を抑えられず、いわば霊肉の悩みを持っていた。武郎はこの森本から神と悪魔、霊と肉、の二元論を悩むようになった(この二元論は、明治四三年に「二つの道」として、まとめられた)。武郎は札幌の貧しい子達のための夜学校に勤務したり、森本とともに『リビングストン伝』の著書を出したりした(この「序」に自らのキリスト教入信を含む札幌までの生い立ちが書かれる)。
農学校卒業後一年の兵役を経て、武郎は森本とともに米国留学をする。ペンシルヴアニア州のハヴァフォード・カレッジの大学院で、経済と歴史を学んだ。がこの頃から実生活から信仰生活に疑義を抱き始めた。時は日露開戦が近い頃同僚のからかいにもあい、キリスト教の国が戦争を進めるのはどういうことか、疑義を深めた。フランクフォードの精神病院に看護夫として働いたが、精神病患者との接触のなか、自らの精神状態にも不安を抱き二ケ月で病院を辞し、ボストンのハーバード大学に籍をおいたが、大学の勉強よりも、エマーソン、ホイットマン、ツルゲーネフなどの文学に傾倒した。ここでのホイットマンの詩集(「草の葉」)によって、閉じ込められていた武郎の自我は芽覚め、後の文学にも影響を与えた。この頃、社会主義者金子喜一を知り、思想に傾倒した。
単身、ロンドンに行き、クロポトキンに会う(「クロポトキンの印象」大正五年七月)。四月に横浜港に帰国、三ケ月予備見習士官として兵役服務。この頃、欧州旅行と一緒になっていた弟生馬を介して、志賀直哉、武者小路実篤を知る。明治四〇年暮れ、東北帝国大学農科大学(母校札幌農学校が昇格・改称)の英語講師となる。翌々年神尾光臣の次女安子と結婚(が、彼女は後、結核を病み、三人の子を残し大正五年八月早世。このことをテーマに書いたものが、「小さき者へ」(大正七年一月「新潮」である)。
明治四三(一九一〇)年「白樺」創刊。同人となり、
評論「二つの道」(明治四三年五月)。処女作「かんかん虫」(明治四三年十月)などを発表。そしてこの年、信仰を捨て教会から去っている(この年大逆事件・日韓併合)。翌年一月「或る女のグリンプス」を連載しだす(これは後年『或る女』(大正八年前篇三月、後篇六月刊)としてまとめられる。こうして、前史を経て有島武郎の文学生活は始まる。以降、主な作品を掲げる。
二つの道(明治四三年五月「白樺」)
かんかん虫(明治四三年十月「白樺」)
お末の死(大正三年一月「白樺」)
宣言(大正四年七・十・十一・十二月「白樺」連載)
惜みなく愛は奪ふ(評論・大正六年六月「新潮」)
カインの末裔(大正六年七月「新小説」)
クララの出家(大正六年九月「太陽」)
迷路(大正六年十一月「中央公論」)
小さき者へ(大正七年一月「新潮」)
生れ出づる悩み(大正七年三月「大阪毎日」)
或る女(大正八年前篇三月、後篇六月刊)
一房の葡萄(童話・大正九年八月「赤い鳥」)
溺れかけた兄妹(童話・大正十年七月「婦人公論」)
宣言一つ(評論・大正十一年一月「改造」)
片信(大正十一年三月「我等」)
想片(大正十一年五月「新潮」)
星座(大正十一年五月叢文閣より第一巻刊行)
小作人への告別(大正十一年十月「泉」)
酒狂(大正十二年一月「泉」)
文化の末路(大正十二年一月「泉」)
有島の作家生活は大正六〜七年に最盛期を迎えているといっていい(三九〜四〇歳)。有島の生涯をかけての自己実現の葛藤などはこの頃、評論「惜みなく愛は奪ふ」、にまとめられ、芸術への憧れは、「生れ出づる悩み」などに表出されている。前者は全二十九章からなる断章で、有島の人生の歩み、その思索をつづったもの。後者は実在した北海道・岩内生れの漁師一青年画家の「悩み」に強く印象づけられ、その「よき魂」の成長をうたったもの(有島自身も絵を描いた)。また、こうした自我の生長・確立をうたった系列以外に、有島文学のもうひとつの特徴といえる凄まじい情念の世界を描いたものとして、「カインの末裔」が描かれ、「或る女」が描かれた。
有島文学、その内面の葛藤を吐露した評論としては、この「惜みなく愛は奪ふ」は彼の一つの決算ではあった。これは、処女評論「二つの道」(明治四三年五月)のテーマがさらに深まったものといえよう。そして、これらの思索が後の「宣言一つ」にも結果として反映しているといってよいだろう。その意味で、初めの「二つの道」から触れておこう。
留学から帰ってきたときにはすでにキリスト教の支えを失い、それでも自己の「絶対」的な実在を求め、また一方では社会主義に親しんできた、結婚して新たな家庭生活もできたが、妻安子との「愛」思うにまかせぬ頃だった。
「二つの道がある。一つは赤く、一つは青い。すべての人がいろいろの仕方でその上を歩いている」(一章)。
「人の世のすべての迷いはこの二つの道がさせる業(わざ)である」。(二章)―
「二つの道」とは、理と情の相克、理想と現実の対立、信仰のうえでの「霊肉」の不一致など、人間性のジレンマを言っているのが、そこには、中庸などというものはない。
「中庸の徳が説かれる所には、その背後に必ず一つの低級な目的が隠されている。それは群集の平和ということである。二つの道をいかにすべきかを究きわめあぐ
んだ時、人はたまりかねて解決以外の解決に走る。なんでもいいから気の落ち付く方法を作りたい。人と人とが互いに不安の眼を張って顔を合わせたくない。長閑の
どかな日和だと祝し合いたい」(五章)。―
ごまかしのない省察がつづく。自覚すればするほど、自我の二元論は切実に迫る。無意識に流れていく純粋な自我に意識が働いたとき、人は自覚というものを知る。感激に溺れる自己を見つめる冷めた自己がある。これが「二つの道」である。だが感激と冷静、を抱いた自分とはなにものか。だが意識と無意識は別物ではない。はたして有島はこの分裂の統合を追い求めはじめた。
それは大正二年五月にベルクソンの『時間と自由』を読むことによって実現にむかう。そこには、時間の持続ではなく、生命の純粋持続が説かれていた。時間が直線的な持続なのではない、そこに棹差す人間、自我こそが持続しているのだ。ここに「生命論的自我」の認識が生れた(これは、ホイットマンの詩にも現れていた。統一された「魂」の所有者が、彼自身のものになっていく)。有島は、のちにそのことを「惜みなく愛は奪ふ」で、「智的生活」、さらに、「本能的生活」として言表される。
全二十九章の断章からなる「惜みなく愛は奪ふ」には、そうした統一された自我、さらにそれが命令する外界への働きかけ(創造)への言表がみられる。
「私の個性は私に告げてこう云う。/ 私はお前だ。私はお前の精髄だ。私は肉を離れた一つの概念の幽霊ではない。また霊を離れた一つの肉の盲動
でもない。お前の外部と内部との溶け合った一つの全体の中に、お前がお前の存在を有もっているように、私もまたその全体の中で厳しく働く力の総
和なのだ。」(六章)
「無元から二元に、二元から一元に。保存から整理に、整理から創造に。無努力から努力に、努力から超努力に。これらの各の過程の最後のものが
今表現せらるべく私の前にある。/個性の緊張は私を拉して外界に突貫せしめる。外界が個性に向って働きかけないうちに、個性が進んで外界に働き
かける。即ち個性は外界の刺戟によらず、自己必然の衝動によって自分の生活を開始する。私はこれを本能的生活(impulsive life)と仮称しよう」
(十二章)
この「無元から二元に、二元から一元に」という「本能生活」への図式は、彼の作品で言えば、「無元から二元に」の過程に「カインの末裔」の仁右衛門が立っており、「二元から一元」への過程に「或る女」の早月葉子がいる。だが、混沌から葛藤、さらに「純粋経験」の世界を得たとしても、はたしてこの二人ほどすさまじいばかりの「小児」(高原二郎氏)が誕生するものであろうか。ホイットマンが彼の理想では会ったが、この健全な詩人とは異質なものが有島にはあったのではないか。それは暗い、運命的な血液のめぐりといえるものではないか。
個性、自我といっても、武者小路実篤や志賀直哉のような健康な強靭な一元的な自我ではなく、「二つの道」に引き裂かれた無元から造り得た自我である。プロレタリア運動とその文学運動に心から共鳴しながらも、そこに個の確立を見出せなかった有島にとって、その「宣言一つ」は、やはり破滅への宣言といえるものではなかったか。
「惜みなく愛は奪ふ」が発表された大正六年はロシア革命の成功をみた年であった(一九一七年)。これによって、弾圧による社会主義の冬の時代を過ごしていた国内でも彼らの運動が再開され、労働組合の結成と労働運動が日増しに強くなっていった。大正七年の米騒動をきっかけに民主主義運動が民衆の手ですすめられていった。大正九年には初のメーデーが開かれ、労働者の連帯・連合が進められた。プロレタリア文学運動も隆盛の一途を辿り、翌十年二月には秋田県土崎で『種蒔く人』(第一次)が創刊、十月には東京で、『種蒔く人』(第二次)が刊行された。
社会主義運動には早くから親しみ、かつ人と人との正統な位置関係に悩んでいた有島にとって、これらの労働者の運動は喜びであった。社会的な疎外は正されなければならない。だが、「愛は略奪する激しい力だ」というほどまでに個性の果てしない欲求を知った彼は、自身の思想が恐ろしく現実とかけ離れていたことに気づかねばならなかった。これら労働者の権利追求の動きは、自身の自我の追求という「本能生活」とは別物だった。こうして、迫りくる運動に対して、作家は、自己の特権的環境ゆえの実生活とその思想の落差に絶望し、一つの認識を開陳せねばならなかった。「宣言一つ」は大正十一年の『改造』一月号にマニフェストされた。
「思想と実生活とが融合した、そこから生ずる現象(中略)―として最近に日本において、最も注意せらるべきものは、社会問題の、問題としてまた
解決としての運動が、いわゆる学者もしくは思想家の手を離れて、労働者そのものの手に移ろうとしつつあることだ。」「ここで私のいう労働者とは、
社会問題の最も重要な位置を占むべき労働問題の対象たる第四階級と称せられる人々をいうのだ。第四階級のうち特に都会に生活している人々をいう
のだ」。
「労働者は、従来学者もしくは思想家に自分たちを支配すべきある特権を許していた。学者もしくは思想家の学説なり思想なりが労働者の運命を向上
的方向に導いていってくれるものであるとの、いわば迷信を持っていた。(中略)なぜならば、実行に先立って議論が戦わされねばならぬ時期にあっ
ては、労働者は極端に口下手べたであったからである。彼らは知らず識らず代弁者にたよることを余儀なくされた。」「しかしながらこの迷信からの
解放は今成就されんとしつつあるように見える」。
「労働者は人間の生活の改造が、生活に根ざしを持った実行の外でしかないことを知りはじめた。(中略)動き方は未だ幽かであろうとも、その方向
に労働者の動きはじめたということは、それは日本にとっては最近に勃発したいかなる事実よりも重大な事実だ。なぜなら、それは当然起こらねばな
らなかったことが起こりはじめたからだ。(中略)国家の権威も学問の威光もこれを遮り停めることはできないだろう。在来の生活様式がこの事実に
よってどれほどの混乱に陥ろうとも、それだといって、当然現わるべくして現われ出たこの事実をもみ消すことはもうできないだろう。」
「第四階級」とは、商工業者・市民の「第三階級」(ブルジョワジー)に対するもので、労働者・農民(プロレタリアート)をさす(もっとも有島は後の
農場解放の際にも言及しているように目覚めの遅い従順な農民との意識があり、その点都市労働者に期待していた)
だが、有島は最後に次のように事故の立場を闡明するのであった。
「私は第四階級以外の階級に生まれ、育ち、教育を受けた。だから私は第四階級に対しては無縁の衆生の一人である。私は新興階級者になることが絶
対にできないから、ならしてもらおうとも思わない。(中略)したがって私の仕事は第四階級者以外の人々に訴える仕事として始終するほかはあるま
い。世に労働文芸というようなものが主張されている。またそれを弁護し、力説する評論家がある。彼らは第四階級以外の階級者が発明した文字と、
構想と、表現法とをもって、漫然と労働者の生活なるものを描く。彼らは第四階級以外の階級者が発明した論理と、思想と、検察法とをもって、文芸
的作品に臨み、労働文芸としからざるものとを選り分ける。私はそうした態度を採ることは断じてできない。
もし階級争闘というものが現代生活の核心をなすものであって、それがそのアルファでありオメガであるならば、私の以上の言説は正当になされた言
説であると信じている。どんな偉い学者であれ、思想家であれ、運動家であれ、頭領であれ、第四階級な労働者たることなしに、第四階級に何者をか
寄与すると思ったら、それは明らかに僭上沙汰である。第四階級はその人たちのむだな努力によってかき乱されるのほかはあるまい」。
この「宣言一つ」は、さまざまな反響を呼んだ。広津和郎はあまりにも「窮屈な考え方」だと言った。堺利彦はブルジョワ階級の「絶望の宣言」だと決めつけた。確かに、学者・思想家を含めた知識人が、新興勢力と無縁だというのは観念的だし、一方的にすぎる。また、有産階級の人間だからといって、無産者的生活に移行することがまったく不可能なわけでもないだろう。ただ、有島がこのように断じた背景が重要である。
有島は「広津氏に答う」(一月十九日「東京朝日」)を書いたほか、「片信」(三月『我等』)において、片上伸や堺利彦の批判に応え、「想片」(五月『新潮』)において、社会主義の思想家や文学者の役割について、言い添えている。先の「宣言一つ」では、「労働者はクロポトキン、マルクスのような思想家をすら必要とはしていないのだ(彼らはただ第四階級以外の階級者に対して、ある観念と覚悟とを与えた、だけ)」。と言及したが、それは必ずしも有島がそれら思想家を理解していないという意味ではない。例えば、次のような言表がみられる。
「マルクスは唯物史観に立脚したと称せられているけれども、もし私の理解が誤っていなかったならば、その唯物史観の背後には、力強い精神的要求
が潜んでいたように見える。彼はその宣言の中に人々間の精神交渉(それを彼はやさしいなつかしさをもって望見している)を根柢的に打ち崩くずし
たものは実にブルジョア文化を醸成じょうせいした資本主義の経済生活だと断言している。そしてかかる経済生活を打却することによってのみ、正し
い文化すなわち人間の交渉が精神的に成り立ちうる世界を成就するだろうことを予想しているように見える。結局彼は人間の精神的要求が完全し満足
される環境を、物質価値の内容、配当、および使用の更正によって準備しうると固く信じていた人であって、精神的生活は唯物的変化の所産であるに
すぎないから、価値的に見てあまり重きをおくべき性質のものではないと観じていたとは考えることができない」。
「宣言一つ」の後、有島はそれまでの生活を積極的に改めていった。前年十月刊行の『種蒔く人』には、書きこそしなかったが、執筆者として名前を連ね、貧しい活動家には資金を援助した。東京の土地財産を整理し、彼自身は借家に移ってペンだけに頼る生活を試みた。そして七月には北海道の広大な狩太農場を小作人に解放した。また十月には個人雑誌『泉』を刊行して、「一家一流派」の考えを実行に移した。その『泉』には「小作人への告別」十月)が掲出されているが、無償で解放する土地を「諸君の頭数に分割して、諸君の私有にするという意味ではないのです。諸君が合同してこの土地全体を共有するようにお願いするのです」と、農民の立場、後先を考えた発言も添えている。
それから十ヶ月、翌年大正十二年、有島の生涯はあまりにも突然閉じられてしまった。波多野秋子と六月八日家を出、九日早朝軽井沢で縊死自殺をした。遺体は一ヶ月以上も発見されなかったというが、うべなるかな。
が作家の自他をめぐる詩作・葛藤とそれに向かっての行動はこの国の文学史、人の営みの歴史として残るだろう。
思想は一つの実行である。私はそれを忘れてはいない。
(「惜みなく愛は奪ふ」二十七章)
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