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石井洋詩 島尾敏雄論



島尾敏雄「鉄路に近く」の位置付けと

 

 幻の作品についての覚え書き


                      石井洋詩



      

一 幻の作品について


 昭和三十年十月十七日、島尾敏雄は妻ミホの心因性神経症の治療のために付き添って入院(六月六日)した千葉県市川市にある国立国府台病院(現国立国際医療センター国府台病院)精神科病棟と神経科病棟での約五ヶ月の生活を切り上げ、ミホとともに奥野健男、吉本隆明、庄野潤三、吉行淳之介、武井昭夫、阿川弘之などの文学仲間や親戚、知人に見送られながら横浜港高島桟橋から大阪商船白龍丸で離京し、神戸港を経て十月二十三日早朝奄美大島名瀬港に着いた後、ミホの叔母夫婦林恒敬方に身を寄せ、以後二十年にわたる奄美での生活をはじめた。その四ヶ月後に移住後最初の小説「鉄路に近く」(1)を発表している。ここで取り挙げてみたいことがある。この時期島尾の手許には未発表の小説作品が二篇あったと考えられるのである。入院中に書かれた作品として今われわれが読むことのできるものは「われ深きふちより」、「或る精神病者」、「のがれ行くこころ」の三篇だが、『「死の棘」日記』(平十七年三月新潮社刊。以下『日記』と記す)には所在不明の小説名が二つ出てくる。一は八月四日の記述に「二、三日前の書き出しのものの(精神病棟記)続きをはじめる」とある「精神病棟記」であり、二は九月二十日の記述に「次の小説は『インバの沼のほとりにて』にしようと思う」とある「インバの沼のほとりにて」(この後「印旛沼のほとり」に統一)である。「印旛沼のほとり」は「鉄路に近く」と同様に、いわゆる〈死の棘体験〉の時期を素材にした作品である。まずその二作品について『日記』の記述を追いながら覚え書きとして素描してみたい。

 「精神病棟記」は一作目の「われ深きふちより」も早く書き出されている。「われ深きふちより」を書き始めた八月十一日の記述に


   ぼくは前の(「群像」に送る予定の)小説のつづき五枚と、「文学界」のために新しく三枚書いた。


とあり、同日に「『群像』森健二に原稿進行状況と『文学界』にも書くということ」の返書を送っている。「(「群像」に送る予定の)小説」はこの時点で約三十枚近くになっている。「『文学界』のために新しく」書いた小説とは「われ深きふちより」のことである。『文学界』からの注文は前日に速達で「四十枚の注文」が伝えられている。『群像』への原稿は、森健二に六月十九日に手紙を送っており、同二十二日に「森健二(原稿承諾)」と記述されていることからすると、島尾から原稿掲載を依頼したようだ。しかし八月十一日の後の記述に「(『群像』九月号に)森さん編集長交代の記事出ている。丁度手紙を出したあと也。原稿のことあやしくなる」とあるから「精神病棟記」の掲載に危惧を感じはじめたのだろう。「精神病棟記」は「われ深きふちより」の初稿を八月十三日に書き終わった後も書き継がれて、八月十四日の記述に「ぼくは最初の方の小説のつづきにかかる。……三十三枚目、……四時十分頃まで三十六枚迄」とあり、その後十六日に「七時半迄に一枚書く」とあるが、この日以後「精神病棟記」に関する記述は奄美移住直前の『群像』編集部訪問まで『日記』には出ない。二日後の退院準備のために外出した十月十五日の記述に「音羽町の『群像』に行く。森さんに会い、新編集長の大久保氏に紹介してもらう。川島君居てやや好意的」とある。「好意的」とは『群像』掲載の可能性があると読めるから、「精神病棟記」はこの時期まで『群像』掲載の期待を持って島尾の手許にあったと考えられる。

「精神病棟記」の所在に関わる私の探索は残念ながらここまでなのだが、メモの断片まで保存する島尾のことだから廃棄したとは考えにくい。「かごしま近代文学館」に収蔵されている島尾とミホの資料の篋底に眠っているか、或いは、島尾は執筆しておいた作品を後で改稿、改編して発表することがあるので、奄美移住後に書かれた《病院記》に吸収されたとも考えられる。その場合掲載誌の関係から『群像』(昭三十二年一月号)に発表された五作目の「治療」がまず考えられるが、作品の内容から《病院記》最初の作品とは考えにくい。すると『文学界』(昭三十一年十月号)に発表された四作目の「狂者のまなび」が内容の上からは妥当であるように思うのだが、その検討はここでの目的ではないので、以上の指摘にとどめておきたい。

 次に「印旛沼のほとり」について追ってみる。《病院記》二作目の「或る精神病者」の推敲が完了した昭和三十年九月二十日の『日記』に次のような記述がある。


   「或る精神病者」三度目の推敲、ミホの指摘で最後の部分の一行を変えて、わざとらしさがとれる。次の小説は「インバの沼のほとりにて」にしようと思う。そのライトモチーフはミホの気持ちを述べる。伸三の進学の事、妻は分らずひとり思い屈するというふうに。インバ沼に行ったときの事なども。佐倉で住んいた大きな家の自然描写も添えてはとミホいう。

ここに出て来る「インバの沼のほとり」は《病院記》三作目の「のがれ行くこころ」(2)の清書が終了した九月二十七日に起筆され、奄美移住前までに三十余枚書かれている。奄美移住後も書き継がれており、次の『日記』の記述からこの作品執筆が当時の島尾にとって重要な意味を持っていたことがうかがえる。


 十一月十六日

   「印旛沼の…」読み返すことから仕事の中にはいって行こうとする。(さし当って発表誌はきまらぬが、こういう書き方不安でもあるが、自分の腕で自分の仕事をきずくことが大事)/自分の仕事の設計ということを考えている。


 十一月二十八日

   「印旛沼のほとり」の続編書きはじめる。島に来て最初の執筆なり。このことに集中せねばならぬ。


 もう少し『日記』の記述を追うと、十一月二十九日に長尾良(3)から電報で『新論』への原稿(四十枚、十五日まで)の依頼があり、生活の不如意と『新論』の性格への不安とのあいだで「印旛沼のほとり」を送るかどうかで悩んだ後、十二月九日長尾に、五十枚の予定で二十日までに船便で送る旨の電報を打つ。しかし、長尾からは十三日に「原稿間にあわぬ」との打電があった後、十九日には「『新論』発行不能になった」旨の連絡が入る。公開されている『日記』は十二月三十一日迄の記載だが、二十日以降には「印旛沼のほとり」に関する記述はなく、以後この作品の消息は不明である。ただ二十一日の記述に『中央公論』掲載の谷崎潤一郎の「鍵」を読んで、「よそでの世界、ぼくはぼく、小説らしきものの拒否」と記していることから、作りごとの「わざとらしさ」を拒否しようとする島尾の小説観がこの時期すでに明確に意識されていたことがわかり、「印旛沼のほとり」もその意図のもとに書かれていたであろうことは推測される。

 それはそれとして右の『日記』の引用から注目されることは、「印旛沼のほとり」と題された作品が、雑誌掲載のあてがない状態の中で、作家としての自己を支えるものとして意識され書き進められていた作品であり、しかもその素材が長篇『死の棘』第十章「日を繋けて」第十一章「引っ越し」の時期に重なる佐倉時代?の「ミホの気持ち」を「ライトモチーフ」としたものであること、さらに〈ミホ〉がその執筆を肯っていたことである。佐倉が島尾夫妻にとって印象深い土地であったことは、二人で昭和五十七年五月三十日に再訪していること(5)や、島尾がエッセー「佐倉海隣寺坂」(6)の中で「もし私たちの日常生活が崩壊に臨んでいなかったなら、もっと長い歳月をそこで住みつくことになったであろう。……その蜃気楼と見まがう状景は閉塞した当時の私の心にとって唯一の解放への誘いであって、今以て忘れることができない」と記し、「日を繋けて」においても印旛沼や豆腐屋のラッパの音(7)が主人公の心を引き付けるものとして描写されていることから推測される。しかし一方、「日を繋けて」は〈ミホ〉と〈私〉の浮気の相手の〈女〉との修羅場が描かれており、『死の棘』全体のピークをなす章でもある。『日記』に拠ればその事件は引っ越した十日後の四月十七日に起こっている。また、引っ越し先の離れには家主の結核療養中の妹が住んでおり、感染を心配したミホは一週間後には子供二人を池袋の従妹に預けている。従って佐倉時代のことは冬眠治療に入っていたミホの発作を誘因する危険がある素材でもあるはずだ。《病院記》を「むしろ祈りのような気持ちで、そしてそれがいくらかでも妻に通うことをねがって書いた」(8)時期であるから、発作の誘因となる内容は極力避けられていたはずである。

では、どのようなことが素材として選ばれていたのだろうか。数日だけ通った伸三の学校のことや家族で一度だけ訪れた印旛沼への行楽前後のことや借家の様子などのことは先に引用した『日記』にもあり、また「日を繋けて」にも書かれていることでもあるのだが。十月二日の『日記』に次のような記述がある。


   佐倉時代の日記読み返す。今の創作はその頃のこと。今度はいくらか解体的に書ける。/ しかしいつもつまらぬものを書いているのではないかという感じ(何と名付けるか?)でつかえそうになる。それを乗り切ることが毎日の仕事を進める。


 日記故の飛躍が多く真意を読み解きがたい文面である。「今度は」とは「われ深きふちより」から「のがれ行くこころ」までの前三作と比較してということだろうか。確かに『日記』には「或る精神病者」や「のがれ行くこころ」に不満である記述が散見できる。また、「解体的」とはどういう意味なのか。「解体」という語は「われ深きふちより」に一度出て来る。居住していた精神科の病棟を出て神経科の診察室に治療に受けに行く途中に、病棟の外に出た場面である。


   自分の蒔いた種は自分で刈り取らねばならぬ。しかし深い渦に巻き込まれずにどこまでも手足にまといつかれて泳ぎ抜けられるだろうか。いやこのような言い方は当を得ていないかもしれない。私は私の生まれつきを解体したい!(傍線筆者)


 この文脈では、生来の自己を打ち壊して新しい自己を創り出したいという意味として読めるが、『日記』の「解体的」は素材の奥にある核をえぐり出すというようなニュアンスが感じられる。〈ミホ〉の発作を誘発するであろう〈女〉に関わる素材を避けつつ「ひとり思い屈する」「ミホの気持ち」を「ライトモチーフ」とした「印旛沼のほとり」は、現行の『死の棘』第十章「日を繋けて」とどのように重なっていたのだろうか。「日を繋けて」には「伸三の進学の事、妻は分らずひとり思い屈する」という『日記』の記述と重なる箇所は確かにある。しかし、〈女〉が登場する以前の「ミホの気持ち」を描くことにはそれほど筆は費やされてはいない。「印旛沼のほとり」での佐倉時代の描き方と「日を繋けて」での描き方との比較ができれば、『死の棘』成立についての新たな観点も見出せるように思うのだが、今は覚え書きとして以上のことをメモしておくしかない。



二 「鉄路に近く」の位置付け


 前述のように奄美移住時、島尾の手許には入院中に書かれ、一応の形をなしていた未発表の小説作品が二篇、『群像』での発表を期待していた「精神病棟記」と発表の予定のないまま書き進められていた「印旛沼のほとり」があったと考えられる。しかし、奄美移住後最初の小説作品として発表されたのは昭和三十一年『文学界』四月号に掲載された「鉄路に近く」であった。四月から地元の大島高校と大島実業高校に非常勤講師(国語・日本史担当)として勤務しているから、そのための煩瑣な準備もあり必ずしも執筆だけに集中できる時期ではなかったと思われる。そうした時期に手許にある二篇ではなく、敢えて新しく「鉄路に近く」を書いたということには、それなりの背景を考えてみる必要がありそうだ。その背景の大きなものとして、島尾が「鉄路に近く」の前に書いたエッセー(9)で「離島に伴う一般生活の後進性は、昔と今とを共存させている現象を顕著にする。……離島は今もなおその表皮のすぐ下に『前近代』を呼吸させている」と述べているように、移住した島尾夫妻に向けられた島社会の「前近代」の閉鎖的な視線があっただろう。しかし前年十一月末に地元新聞に新進作家として紹介記事が掲載されたことで、周囲の見方が変化し、作家島尾敏雄の名前が地域社会に広まっていった。精神病院入院のことを周囲に知られることを危惧していた同居先の林家の家族も喜び、他の親族の見方も変化していった。そしてなによりも新聞での紹介記事を最も喜んだのは妻ミホであった。執筆に向かう島尾の念頭には、中央の一流文芸誌『文学界』に移住後最初に発表する小説作品は周囲の期待に応えうるものであり、更には退院後も発作が続いている妻の心を癒やすための夫からのメッセージともなり得るものを書こうという思いがあったと推測される。従って、精神病院を素材とすることは避けて、より劇的な要素をもつ体験が探され、妻の鉄道自殺未遂という事件(10)が選ばれたのではないか。すでにこの二年の間に文学仲間の吉行淳之介や庄野潤三、小島信夫が芥川賞を受賞して文壇に進出しており、昭和二十五年に『出孤島記』で第一回戦後文学賞を受賞したとはいえ、作家として立つために不退転の決意で上京しながら満足できる結果を得られないまま東京から退いた島尾にとって、奄美移住後最初の小説の発表にはそれなりの思いがこめられていたと思われる。「鉄路に近く」は昭和三十一年度上期第三十五回芥川賞の候補作(七編)になっているが、受賞は逸している(11)。

 まず「鉄路に近く」の位置づけについての論評に触れてみよう。この作品は発表の翌年刊行された『島の果て』(昭三十二年七月出版書肆パトリア)に収録され、その「あとがき」で島尾は次のように述べている。


   自分にこのような作品があったということはひとつの恐怖といえる。これらの作品の世界から飛翔できないことはなかったのになお死の踊りを踊っていた暗い蛾のすがたを見るときのいらだちが感ぜられる。眼をあけるとこれらの短篇となり、眼をつぶると『夢の中での日常』の世界の表現となったと自分では思うが、しかし眼をあけて表現したはずのこれらの……私の表現は全く別の世界へ移らなければならない。「鉄路の近く」はいわばそのきざしである。

 

 よく引用されるものだが、文中の「死の踊りを踊っていた暗い蛾のすがた」という表現は、前年刊行された夢の方法による短篇群を収録した『夢の中での日常』(昭三十一年九月現代社)の「あとがき」での「これはまるで夏の電灯にしたいよった蛾の屍体の堆積と言えましょう」を受けたものだろう。『島の果て』に収録されている他の九篇が昭和二十九年までに書かれた〈眼をあけた〉作品群であり、その作品世界にも夢の方法による作品群と同様の「死」への傾斜を感受し、それとは「別の世界」へ移ろうとする「きざし」を「鉄路に近く」に見ているのである。「別の世界」が何を指すかについては次の二氏の指摘を挙げればよいだろう。磯貝英夫氏は「島尾敏雄―「死の棘」を視座として」(『国文学解釈と教材の研究』昭四十四年二月号)の中で、「ここには、主観世界から客観世界への超出のゆめが語られており」、「その結果も、決して、作者の願望のようにはならなかった、と私は思う」と述べている。磯貝氏の表現の方法という観点をさらに敷衍して、石田忠彦氏が「にげる・とぶ・とどまる―島尾敏雄論」(『文学批評 敍説V 特集島尾敏雄』平三年一月)で、死から生への転換という観点を付加している。石田氏は次のように言う。


   これらの書かれた昭和三十二年といえば島尾はすでに奄美大島に移り住んでいるが、この時の島尾は、夢の系列に片寄りすぎた小説世界を「全く別な世界」へ移す決意を述べている。とすると、「全く別な世界」とはどういう小説世界をいうのかが疑問となるが、これは、その後の小説の傾向から判断すると、写実的な傾向を強めていくので、一往はそのことをいうものと考えられる。と同時に、島尾はある時期までの自分の小説は死の臭いが強すぎるので生の方向へ転換しなければならないともいう。おそらく「全く別な世界」とはこの両者をいうのであろう。


 私も石田氏の指摘に沿って「鉄路に近く」を死から生への回帰を図った作品として読んでいきたい。

 では、具体的にどのような世界が描かれているのだろうか、という点への言及になるとこれまで管見に入った限りでは軽い扱いしか受けていないようだ。その理由を、満留伸一郎氏が「《離脱》の前後―島尾敏雄《家の中》について」(「東京芸術大学音楽学部紀要」第34集平二十一年三月)で行った作品としての位置づけに覗うことができる。


   この作品は一九五六年、つまり奄美移住後の翌年に書かれたものであって、《家の中》の一九五九年、《離脱》の一九六〇年と比較すると、「入院前記」としてはフライング気味に書かれた作品である。「入院記」から「入院前記」への移行期に書かれたため入院前の出来事を扱いながら、エピソードの記録というスタイルが、「入院記」との近さを強く感じさせる。「作品集」の分類からすれば、「入院前記」に加える他ないわけだが、他の「入院前記」との違いもまた際立つ結果になっている。

満留氏がいみじくも「フライング気味に書かれた作品」と述べたように、「鉄路に近く」の後、いわゆる〈死の棘体験〉の小説化は三年後の「家の中」まで休止され、《病院記》が書き継がれることになる。このことは満留氏が指摘するように「『入院記』との近さ」を示すことでもある。しかしそれが満留氏が言う「エピソードの記録というスタイル」によるということではなく、作品の主題そのものによる,というのが私の読み方である。私の読み方の提示に入る前に、先に「鉄路に近く」が軽い扱いしか受けてこなかったと言ったが、例外として小林崇利氏の二冊目の島尾論『現代日本文学の軌跡―漱石から島尾敏雄まで』(平六年十二月近代文藝社刊)に内容に踏みこんだ論及があることを紹介しておきたい。小林氏は「この作品は妻の鉄道自殺未遂を夢と現実の両義性でとらえようとしており、『死の棘』のすべてが未分化の形でたたきこまれていると言ってよい」と述べたあと、冒頭部の夢の叙述の中にある「卍になってもつれながらとびだしてきて外の闇に消えた」三匹の猫について次のように言う。


   この三匹の猫については、島尾が作家たらんとして昭和二十七年大学教授の職をなげうって神戸を離れ、〈東京都江戸川区小岩町での三年間の生活にだぶらせてその渦中で書いた〉という「居坐り猫」「玉の死」「ある猫の死のあとさき」「拾った猫」と関連づけて読めば、直接には妻と二人の子を意味し、それは日常性を象徴し、家庭の守護神を意味していることに気づく。そしてそれらの事実がどんなふうに作品化されたかは、例えば『死の棘』第八章「子と共に」の初出においては〈相馬のいなかに行くときとなりの青木にたのんで江戸川堤にすててもらった玉のなきごえが床下できこえたが、ひとこえだけであとはきこえず…〉というのが決定版では〈…となりの青木にあずけたはずの玉の…〉となっていることでもその細心ぶりがうなずけよう。


 「家の中」では飼い猫の玉の死と妻の狂気への傾斜が重ねられて叙述が進んでいくのだが、〈死の棘体験〉の小説化における猫の意味づけの重要性を指摘したものとして銘記しておきたい。

 さて、私の読み方の提示に入ろう。私の読みの狙いは前述したように、「鉄路に近く」を作品の主題を通して《病院記》の衛星的、あるいは随行的作品として位置づけるところにある。具体的には入院中に書かれた三作目の「のがれ行くこころ」の結末部に描かれた、妻〈ミホ〉の狂的な行動の根に夫〈トシオ〉への思慕、子供たちへの愛おしさがあることに気づかされていった〈私〉の、〈ミホ〉への応答としての意味を読みたいのである。


 「じぶんがるすのうちにうちではなにかが起きている! その日をぼくはながいあいだおそれていた」という冒頭文に示されているように、〈ぼく〉の視点で見られ、感受される物事が、〈ぼく〉に寄り添う語り手によって語られていくという叙法をとっている。全体は三つの場面で構成されている。第一は夜帰宅する電車の中で〈妻〉が自殺する不安に駆られていく〈ぼく〉を描く場面、第二は帰宅後に〈妻〉の不在を知った〈ぼく〉が焦燥に駆られながら町を探し回る場面、第三は鉄道自殺しようとした〈妻〉を助けた線路工夫を家に上げ、彼の話を家族四人で聞く場面である。第一の場面は恐れていた「なにか」が起こった夢の叙述から始まる。そのあと、「しごとの上でやむを得ぬ会合」から帰る〈ぼく〉の、不在中に家で何かが起こっているのではないか、〈妻〉が自殺をしているのではないかという「黒い不安」がしだいに高まっていくさまが、電車の中でのさまざまな妄想、そして家までの商店街や暗い路地で目に映る景物や動物、人の描写を通して語られる。続いて第二の場面に移る。家に着くと二人の子供はいるが〈妻〉はいない。子供が一緒に行くことを拒んでひとりで買い物に行ったと言う。〈ぼく〉は〈ぼく〉の帰りを待つ〈妻〉の孤独な心中を思いやりながら商店街や踏切を探し回る。〈ぼく〉は「おれはお前なしでいることはできない」、「死なないでくれ、死なないでくれ」と「となえながら」走り回るが、見つからず家に帰る。「たんすの小引き出し」から出した〈妻〉のノートを読むと、「激烈な呪いの文句」から〈ぼく〉に対する「憎しみと愛情のみだれ」を読み取り、「胸をえぐられ」、「妻は死に神に抗しがたく誘惑されている」と思ってしまう。人の手を借りてでも早く捜索しなければと心を決めて玄関へ行くと、〈妻〉が帰ってくる。鉄道自殺を仕掛けたところをたまたまいた男に救われたのだという。第三の場面である。様子を見つつ後をつけて来たと言う「鉄道架線工事の人夫」を家に入れると、〈妻〉は「ばかにくったくなく」もてなすが、〈ぼく〉は〈妻〉の「変貌」に「何か暗い底深い前兆」を感じ、「どうにもできぬ黒い力」によって「妻が手のとどかぬ場所に行ってしまうたよりなさ」を感じる。その後、「人夫」の「夫が身持ちが悪くてそれを苦にして頭に来た」ために何度も鉄道自殺を仕掛けた〈姉〉がおり、二人きりの姉弟なので「ふびんな」姉の面倒を見るために結婚もしないのだと言う話に耳を傾ける〈妻〉と子供たちの姿を描いて結ばれる。

 引用したような「何か暗い底深い前兆」、「どうにもできぬ黒い力」、「妻が手のとどかぬ場所に行ってしまうたよりなさ」といった表現が作品の終わり近くで叙述されながら、私がこの作品を死へ傾斜していった以前の作品とは異なり、生という「別の世界」へと向かう「きざし」と見なすのは、〈妻〉が〈ぼく〉にとって不可欠の存在であることを確認する作品としての意味を持つと考えるからである。そのことをもう少し本文に即して見てみよう。先に引用した〈妻〉のノートを見る場面の直前に次の叙述がある。


   妻の発作的な行動がぼくに如何に煩瑣を強いようと、その方がどんなに張合いのあることか。妻とぼくがいかに分ちがたく合致できるかがぼくの課題であり煩瑣の中から法則をさぐりそしてそれに表現を与えなければならぬと思い、……。


 右の箇所は翌年発表される《病院記》の五作目「治療」の次の一節と通う所がある。


   私はどんなことがあっても妻のかたわらで、彼女の反応のすべてをそして彼女の容態の変化を克明に観察しなければならない。観察は同時に受苦であるがそれによってのみ私と妻の現実を動かして行くことができる。


 前者で言う「妻とぼくがいかに分ちがたく合致できるか」、そのことを可能にするために「妻の発作的な行動」のなかにある「法則をさぐりそしてそれに表現を与え」ることは後者の「彼女の容態の変化を克明に観察」することへと連なる表現だろう。「妻とぼく」が「分ちがたく」結ばれた二人であり、〈妻〉が〈ぼく〉にとって不可欠な存在なのだということを次のようにも書いている。車中で〈ぼく〉が線路に頭を置く〈妻〉を想像する場面であるが、死んだ父母の元に行くという叙述のあとに続く箇所である。

 

   と、彼女の耳に犬の遠吠えににた夫の号泣がきこえてくる。じぶんの名前をよぶ夫の泣声が。ヤッパリアナタハアタシガイナケレバダメ。妻はゆっくり立ちあがり、鉄路をまたぐ。


 この箇所は「のがれ行くこころ」末尾で、病院を抜け出た〈ミホ〉が帰って来た理由をいう次の箇所と重なる。


  「でもトシオが泣いたから戻って来ちゃった」

  「泣くのがきこえたか」

  「うん、ミホ、ミホって声を出して犬みたいに泣いていたよ。」


 いま挙げてみた表現の近似性は先に述べた「鉄路に近く」と《病院記》との類縁性を読む所以でもある。そして、このような叙述が可能になるのは〈妻〉の〈ぼく〉への思いの深さを感じたからにほかならない。それは次のような叙述に明らかである。妻の不在を知った〈ぼく〉が、帰りを待っている時の〈妻〉の心中を想像する場面の叙述である。


   こたつをひやさないよう、帰ってきたらあたたかに勉強できるよう用意を配っていた。あのひとは牛の臓物の味噌煮が好きだから帰ってきたら食べさせようと思い、七輪にかけて長い時間ぐつぐつ煮音をたてておく。……いつかもこんなふうに煮込みをこしらえて、いつまでもいつまでも待っていたが夫はその夜もまた帰っては来なかったと思うと、そのときの悲しいみじめなつらさが怒濤のように押しよせてきて、かつて荒涼の日にそうしたようにこどもらをきつく叱りおさえつけてあてどなく家の外の闇のなかに出て行ったにちがいない。


 ここには移住後の《病院記》の核となる〈私〉の〈ミホ〉の心への一体化への志向が見られる。ここで想像された〈ぼく〉を思いやる〈ミホ〉の姿もまた、「のがれ行くこころ」で池の底を竿で〈妻〉を探す〈私〉に思われた〈母親〉の優しい姿と重なるものであろう。


   そうしているとその竿の先端で妻と話ができるような気がした。(トシオ、あなたがそんなにあたしに没頭できることは珍しいことだわ。かんしん、かんしん。あたしはこれでやっと安心できる)私はまるで母親の目の前でかけっこをして見せる子供のような気持になっている自分を発見した。

右に引用した〈妻・ミホ〉の〈ぼく・私〉への想いの深さへの視点は、〈死の棘体験〉の渦中やそれ以前に書かれた家庭に材をとった作品群、「帰巣者の憂鬱」(『文学界』昭和二十九年四月号)「川流れ」(『新日本文学』昭和二十九年十月号)「肝の小さいままに」(『近代文学』昭和三十年一月号)には見られない視点である。「妻とぼくがいかに分かちがたく合致できるか」、そのことを可能にするために「妻の発作的な行動」のなかにある「法則をさぐりそれに表現を与え」ること、そのために、一方で〈妻〉の〈ぼく〉への思いの深さを〈妻〉の側にたって探り、言葉に表わしてみること。島尾氏が「鉄路に近く」に見出した「別の世界」に移る「きざし」とはそうした方法意識の「きざし」ということでもあるだろう。それはこの後に書かれる《病院記》のなかで深められていく。

 最後に第三の場面で注意したい点を二つ見ておきたい。まず一点は、「ぼくのかげでうきうきと二人に給仕」しながら線路工夫の話しを聞く〈妻〉の姿を見た〈夫〉の内面が次のように描かれていることである。

  

   この変貌は不安なのだ。何か暗い底深い前兆を感ずる。ぼくのこころは沈みはじめ、しかしどうにもできぬ黒い力というようなことを考える。妻が手のとどかぬ場所に行ってしまうようなたよりなさの悲哀の底で、ぼくはぼくらの家族のなかに、ふとはいりこんできたこの若い労働者が、いくらかはくどくしゃべったことに、じっと耳をすませてきいていた。」


 「ばかにくったくなく」見える〈妻〉は、いつ発作を起こすかわからない。〈ぼく〉は線路工夫が居なくなれば〈妻〉の心の中に巣くっている「黒い力」が頭をもたげてくることに怖れを抱いている。入院前に書かれた「帰巣者の憂鬱」や「川流れ」では〈夫〉が家を出ていこうとする「黒い力」に促され、それを〈妻〉が不安に思っていたのに対して、この作品ではその逆になっているのである。病妻ものにおける作者島尾の視点が入院前と後で異なってきていることを示している。しかし妻を狂的な行動へと向かわせる「黒い力」そのものとの対峙への志向はまだ〈ぼく〉にはない。それは後の《病院記》の課題となっていく。

 二点目は、注?に示した『日記』の記述では線路工夫が帰ったあとミホの発作がはじまっているが、作品ではその部分は書かれていないということである。線路工夫が帰った後ミホが発作を起こした家庭の状態を『日記』では次のように書いている。


   そのときミホあかるかったのに、又暗くなり、返事しない、もつれはじめ、ぼくは昏迷し、外にでようとし、門のうちでもみ合ううちガラスを割り、かぎがしまり、伸三にあけて貰い、部屋でハダカになったり、首をくくろうとしたり、ミホあとはひたすらにぼくをなだめ、いつのまにかぼくはねてしまう。


 「鉄路に近く」の結びはこのような実際の家庭の状態を書かず、次のような叙述で終わっている。


   妻はひたいを白く静かにかしげて、表面は全くおだやかな様子で、ぼくのかげにかくれるようにして男の話に耳をかたむけている。しかしその均衡はいつ破れるか。伸一とマヤ(単行本では「晉作と亜耶」)が、いつのまにか眼をさまして……親たちがふだんの様子でいるのを、ふとんの上で、仔細げに両手の台にあごをのせた恰好で、つぶらな眼をひらき、人なつっこげにげらげら笑って見ていた。(傍線原文)


 「しかしその均衡はいつ破れるか」と添えられていることが暗示しているように、執筆時の生活はミホの発作の兆に常に気を配らねばならないものであった。「親たちがふだんの様子でいるのを」二人の子供が「人なつっこげにげらげら笑って見ていた」という結びの叙述に、奄美移住後何よりも家庭の立て直しを優先して生きることを、これからの人生の目標と決意している作者島尾の思いを読み取ることが可能だろう。

 以上のように表現に即して細かく読んでみると、「鉄路に近く」は『死の棘』の先行的、試行的作品としてよりも、「のがれ行くこころ」の主調を引き継ぎ、さらに移住後の《病院記》での課題を提示しているという点から、《病院記》の衛星的、随行的作品として位置付ける方が妥当ではないだろうか。

 「鉄路に近く」を発表した直後、島尾は「私はとにかく伏せ勝ちな肩を、もう一度上げなければならないだろう。……島の風土は私の体質を変え、子供らは島言葉を自在に操り、妻は再びかつての自然を取り戻すであろう。私は彼らに自らを捧げるであろう」(8)と書いた。牧野留美子氏が指摘するように「この文章の調子の高さには、なんとなく、〈書く人〉島尾の自己韜晦の気配を感じ」(12)させるものがあるのは確かである。その「〈書く人〉島尾の自己韜晦の気配」は「鉄路に近く」の結末で〈妻〉と〈こども〉を見守る〈ぼく〉の不安げな眼差しとも通じているものである。「自己韜晦の気配」にうかがわれる恥じらいに、私は〈書く人〉と〈夫・父〉との間で揺れるこの時期の島尾敏雄の内面への興味を募らせるのである。

 なお、本文中で触れた《病院記》についての私見については別稿「島尾敏雄《病院記》の一側面―〈私〉の変容のドラマとして―」(『群系』第三十二号)を参照されたい。また、島尾の作品からの引用は晶文社版『島尾敏雄全集』に拠り、単行本と大きな異同がある場合のみ本文中に括弧で記した。『「死の棘」日記』からの引用は単行本に拠った。

  

〈注〉

(1) 「文学界」昭和三十一年三月号。最終執筆日は二月二十四日(晶文社『島尾敏雄作品集』解説中の執筆日)

(2) 九月二十二日の『日記』に「ミホの案で題名を「脱柵のこころ」から変更した」とある。

(3) 長尾良について「長尾氏を悼む」(『南島通信』所収)を書いている。

(4) 『日記』によると昭和三十年四月七日に転入し、五月三日に池袋へ転出。

(5) 比良直美『椿咲く丘の町』(平四年十一月私家版)による。

(6) 『週刊新潮』昭五十九年十月四日号。『透明な時の中で』(昭六十三年一月潮出版社刊)所収。

(7) 《病院記》や『日記』にも何度か出て来る。

(8) 「魂病める妻への祈り」(『婦人公論』昭三十一年五月号)。『非超現実主義的な超現実主義的な覚え書』(昭三十七年六月未来社刊)収録に際して「妻への祈り」に改題。

(9) 「奄美群島を果たして文学的に表現しうるか?」(『奄美新報』昭三十一年一月一、五、六日)

(10) 素材となっている妻の鉄道自殺未遂は、『日記』では昭和二十九年十一月二十七日の記述にある。『死の棘』では第二章「死の棘」のはじめ近くの時間になる。しかし第二章「死の棘」にはこのことにつながる事件は記述されていない。

(11) 選評(「文芸春秋」昭三十一年九月号)では丹羽文夫、佐藤春夫、井上靖、川端康成、宇野浩二などが好意的な評を記しているが、強く押す選考委員はいなかった。受賞作は近藤啓太郎「海人舟」であった。

(12) 「島尾敏雄『死の棘』の場合」。『テキストの魅惑 出会いと照応』(平七年三月新教出版社刊)所収。







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