『群系』 (文芸誌)ホームページ 

相川良彦 漱石うらなり――モデル探しの迷走とテーマ



漱石 うらなり――モデル探しの迷走とテーマ



                              相川 良彦




一 はじめに 

 漱石の初期作品には、身近な知人を多々モデルとして取り込んだものが多い。ただ、私小説作家と違い、モデルをそのままなぞったりはしていない。登場人物を小説の筋書きに合わせて造形し、その性格を強調するエピソードを出来るだけ利用して、実在モデルが誰かを見分けられない迄に変形した。

漱石は回顧している。 

《私は今まで他の事と私の事をごちゃ??に書いた。他の事を書く時には、なるべく相手の迷惑にならないようにとの懸念(傍線は評者)があった》(1)


 漱石の「懸念」を『坊ちゃん』に則して言えば、前々拙稿(2)で述べたように、赤シャツや狸校長を松山中学の教師達と見せかけ、その実モデルであった東大教師達を隠蔽した。そのため、当小説に登場する教師達が東大文学部の教師の面々であると見破ったモデル論者はこれまで一人もいなかった。

 他方、前出拙稿(3)で述べたように、漱石は小説に松山訛りの中学生を登場させ、その泥臭い言動を揶揄罵倒する喜劇に仕立てた。それで論者の多くは、松山中学生への揶揄をピカレスク(悪漢)小説の誇張のレトリックと錯覚して軽く受けとめた。

また、生徒への憎悪を漱石の本音と直感した少数の論者も、漱石の憎悪の理由までは究明しなかった。

このように、漱石は『坊ちゃん』においてモデルとなった人達に迷惑をかからないための必要性から、止むなくカモフラージュを施したのであった。

この漱石のカモフラージュに引っ掛り、モデル論者は揃いも揃って『坊ちゃん』の諸モデルを見当外れに推定し、作者の本音を見落としたのであった。

勿論それらモデル論は、松山時代の漱石身辺の状況を詳らかにした点では高く評価できる。だが反面、それらは本小説の理解を深める論に乏しく、興味本位なモデル探しの域を越えられなかった。逆に言えば、作品の読み込みが足りなかったので、真実のモデルを見極められなかった。

さて、モデル探し論の混迷の理由として、漱石の張った煙幕の外に、モデル論者が受けを狙って興味本位に奔り、止め処なく迷走する傾向も指摘できる。

それは、『坊ちゃん』の場合、マドンナとうらなりのモデル探しにおいて、典型的に表われる。本論では、その事と次第を明らかにしよう。

 本小説のストーリーの核心は、マドンナをめぐる赤シャツとうらなりの三角関係にある。では、その種の三角関係が漱石の身辺に実際にあったろうか。

 漱石の松山中学在任時に、三角関係のトラブルはなかったと同僚教師達は異口同音に証言したし、東京大学文学部についてもその種のスキャンダルの伝聞は残っていない。したがって、それが漱石の作り話(フィクション)であることはまず間違いない。

 その意味で、実のところマドンナやうらなりのモデル探しが徒労に終わるのは必定であった。にもかかわらず、二人のモデル探しが営々と行われてきた。二人が小説のストーリーの核心に位置するため、モデル論としては外す訳にはいかなかったのである。

うち、本論ではうらなりのモデル探しに絞り、これまでの諸論の軌跡を整理する。ここでマドンナを対象外としたのは、松山時代の漱石のマドンナ探し論が面白くはあるが、決め手を欠くからである。 

また、マドンナ探しは漱石生涯の恋人探しへと拡張されて論じられてきてもいる。だが、漱石生涯の恋人となると、対象となる女性も松山時代の漱石から離れて拡散する。当然ながらそれらの整理を一筋縄で済ませる訳にはいかない。本論でマドンナのモデル探しを除外した、もう一つの理由である。

次に、うらなりという架空の人物を登場させた漱石の意図(それは『坊ちゃん』という小説のサブテーマになるが)を先行研究に準じて確定する。

さらに、うらなりという登場人物の役作りにエピソードを多く借用されたモデルの一人・中堀貞五郎について、その実態を洗って或る種の明治文学舞台裏史を紹介(ファクト・ファインディング)する。



二 うらなりのモデル論

(1)同僚教師と教え子達の証言

 『坊っちゃん』は、漱石が赴任した松山中学校での体験を素材とし、登場人物も松山中学の教師と生徒をモデルにしたと見るのが通説である。だから、うらなり(英語教師、以下同様)についても、松山中学校同僚教師の中堀貞五郎(地理)と梅木忠朴(英語)の二人が有力なモデル候補と見られてきた。

まず、同僚教師の弘中又一(数学)は、うらなりによる主人公への下宿斡旋のエピソードが、実際に漱石へ下宿斡旋したのが中堀だったことから、中堀を「うらなりの半身」と見ている(4)。

また、教頭の横地石太郎は、梅木が英語担当だったのでうらなりの条件に当てはまるが、ただ、うらなりのように転任はしなかったと言葉を濁した。

因みに『坊っちゃん』中のうらなりのエピソード(描写言動)の実際の該当(実行)者を判定した「横地・弘中による『坊っちゃん』への書入れ本」(5)(『書入本』と略称)の記述を集計すれば、うらなりに係わるエピソードの該当者の判明割合は五四%(残り四六%は該当者不明と作り話)である。

また、その判明した五四%のエピソードの該当者内訳は、中堀四七%、梅木二七%、三位石川恒年(図画)十二%、四位漱石自身七%……となる(注1)。うらなりのエピソードに借用された割合の多さから言えば、中堀が最有力のモデル候補である。

次に、松山中学の教え子らの証言を列挙しよう。

漱石より七歳下で、中堀に教わった生徒に高浜虚子がいた。虚子は松山中学教師時の漱石と親しく、一〇年後に書かれた『坊っちゃん』の発表誌「ホトトギス」誌の発行人で、下読みで松山訛りへの改変も手伝った。その虚子は、うらなりのモデルを背が低くて変則的に歩く中堀であると主張した(6)。

桜井忠温は軍人を経て作家となった、松山中学の漱石の教え子である。その桜井はうらなりのモデルを、半分は「哀れっぽく、人に親切」という性格、それと坊っちゃん(漱石)へ下宿を斡旋したエピソード等から中堀であるとし、あと半分は九州へ栄転した石川恒年(図画)とした。石川は栄転を感謝していたが、その母が左遷だと下宿の女主人に愚痴り、それを聞いた漱石が憤慨して書いたのがうらなり送別会の真相だと述べている(7)。

 漱石門弟の安倍能成は漱石の転出と入れ替りで松山中学に入学した。安倍は、うらなりのモデルを顔の大きな色の青い先生で、ふだんは元気がないが、母校(慶応大学)を話す時だけ元気になった梅木だと推察している(8)。

 教え子で長じて弁護士・政治家として活躍した今井嘉幸は、『坊っちゃん』のバッタ騒動を、漱石の赴任前年に起きた宿直教師の寝床にバッタを入れた事件、漱石在任時に起きた伊藤朔七郎(体操兼舎監)の宿直時晩酌事件(今井自身が関与)、梅木の英語授業をボイコットした事件の三つがネタになったと言い、バッタを入れられた宿直教師(今井は名を伏せたが山本孝太郎(数学)と推定される)を「うらなり先生」と呼んでいる(9)。

 このように松山中学の同僚教師と教え子の挙げるうらなりモデル候補は4名ほどいるが、そのうち中堀と梅木と見る者が多かった。


(2) うらなりのモデル候補の略歴

 梅木(一八五八年生)は松山出身で、松山中学、慶応大学卒で、郵便報知新聞や神戸の私立学校教員を経て漱石の着任一年前の一八九四年春に母校の英語助教諭心得として着任した。既に妻子がいた。約十年在籍した後一九〇四年に松山中学を去り、神戸で貿易会社(商店)などに六十歳代半ばまで勤めていたらしい(一九三五年没、享年七七歳)(10)。

中堀(一八五七年生)は今治藩士二男で、新しい学校制度に乗り換えて東京物理学校を三〇歳で卒業後帰郷し、一八八八年松山中学の地理兼物理教師として着任した。漱石の松山中学在任時、三八歳であった。一九〇五年に県内の弓削商船学校に転任、一四年に五八歳で京都へ隠退し、文具店を営んだ。

私生活では、一八八九年に正岡子規の妹・律と結婚したが、一年弱で離婚、ついで九〇年松山中学同僚の漢文教師・太田厚の長女と再婚したが九八年一月に病死別、七ヶ月後に地元薬局の娘で小学校教師・河部門枝と再々婚し、初めて三児を儲けた(前掲10)。この夫婦に教わった安倍能成によれば(前掲8)、

「(河部)先生はからだの大柄な、血色のよい、落着いてしとやか /(中堀)先生は小男で撫肩だったが、この人が廊下を左右の肩を交互に上下して、コットリ、コットリと音を立てゝ歩くところから、「コットリさん」といふ仇名を生徒から奉られた / 先生の地理の講義は実に退屈であった」(注2)。


中堀は一九四五年、京都の三男宅で八八歳の生を終えた。その最後の言葉は「安気ぞな」だった(11)。


(3)モデル探し論の迎合癖

さて奇妙にも、後続のモデル探し論では、梅木をうらなりのモデルとする見方が有力になっていく。試みに、論文の体裁が整った後続モデル探し論(六点)について、それらが誰をうらなりのモデルとしたかを集計すれば、梅木を単独指名五点(12)、複数モデル候補を挙げ、その中で梅木を一位モデルとした秦郁彦『漱石文学のモデルたち(略称、秦書)』一点である(前掲10)。何故、後続モデル探し論は梅木をうらなりに選んだのだろうか。

後者の秦書は、うらなりのモデルを一位梅木、二位石川一男、三位中堀と順位づけたが、論拠は、英語担当、松山出身、母親と同居・薄給等であった。

マドンナをうらなりから奪う赤シャツの姦計は漱石の作り話だと同僚教師達は断言した。当時、梅木も中堀も妻がいたし、赤シャツのモデル候補の横地等にも皆妻子がいたから、それは確かだろう。

だが、マドンナをめぐる三角関係は作り話でも、ストーリーの重要なファクターで、本作の華でもある。そのために「嘘から出たまこと」よろしく、マドンナのモデル探しが盛んになり、それがうらなりのモデル選びにも影響した。

具体的には、赤シャツにマドンナを奪われる悲劇役のうらなりは、風采のあがらぬ中堀より「ボッテリした色白の好い男」(前掲9)、つまり、青白き優男の梅木の方が似合うからである。モデル探し論が中堀をうらなりモデルから外した主因はそこにあった。モデル論のもつ受け狙いの迎合癖の賜物である。



三 『坊ちゃん』におけるうらなりの意義

(1) うらなりの創作モチーフ

さて、《うらなりは中堀、中村宗太郎(歴史)両氏を当てはめたらしいがはっきりしない。事柄は事実と違っている》(13)と弘中が述べている。坊っちゃんのモデルを自称し、『坊っちゃん』の記述を大抵は「事実」、モデルは某と断定癖のあった弘中が、懐疑的言葉を使うのは珍しい。うらなりのような愚直なお人好しが身辺に見出せなかったのだろう。

ここから漱石はエピソードを中堀・梅木等から借りたが、それは表面的部分で、うらなりの内実は彼らをモデルとしていないのでは、との疑いが生じる。

本作にうらなりを登場させた直接契機は、先行研究が既に指摘している。それは、漱石がトルストイ『イワンの馬鹿』から受けた感激だった(14)。本作執筆二ヶ月前の漱石書簡がその証拠である。

「拝啓イワンの馬鹿御寄贈を蒙り深謝早速読了致候 / 一段の興味を覚え候。どうかしてイワンの様な大馬鹿に逢つて見たいと存候。

出来るならば一日でもなって見たいと存候。近頃少々感ずる事(傍線は評者)有之イワンが大變頼母しく相成候。イワンの教訓は西洋的にあらず寧ろ東洋的と存候」(内田魯庵宛漱石書簡一九〇六・一-五)

 

このイワンへの異様な惚れ込みぶりは、書簡にあるように、当時の漱石が「近頃少々感ずる事」とイワンの生き方とが共鳴したことによるだろう。

 書簡で言う「近頃」というのは、漱石が英国留学から帰朝して東大・一高・明治大学の非常勤講師を掛け持ちして週三〇時間の講義をこなしながら、文学活動に徐々に手を染めて、遂に『吾輩は猫である』を書いた一九〇三〜〇五年の時期に該当しよう。

そして、その「近頃」の漱石の気持(「感ずる事」)を綴った著作として、漱石唯一の自伝小説と言われる『道草』(一九一五)がある。

この小説は、大学教員である主人公・健三が、富裕と受取られて、かつての養父と養母、実姉兄、義父(妻の父)から次々と金銭をせびられる経緯をストーリーとして、展開している。その中に健三の気持を次のように描写した箇所がある。

 「「与(くみ)しやすい男だ」

  実際において与しやすい或物を多量に有(も)っていると自覚しながらも、健三は他(ひと)からこう思われるのが癪(しゃく)に障った。/

  彼の神経はこの肝(かん)癪(しゃく)を乗り超えた人に向って鋭い懐しみを感じた。彼は群衆のうちにあって直(すぐ)そういう人を物色する事の出来る眼を有っていた。けれども彼自身はどうしてもその域に達せられなかった。だからなおそういう人が眼に着いた。またそういう人を余計尊敬したくなった」『道草七十八』


そして、この健三の状況と気持は、実際の漱石と重なるところがある。師・漱石について、林原耕三は次のように回顧している。

「まはりには沢山たかり手がゐた。たかる気でなくとも、無心をいひに来たり、借金を申込む者が絶えなかつた。豊隆、三重吉などといふ古い、親しいお弟子を始め……その他零落した親戚、縁者もゐた /

先生は愚直で、茫洋としてゐる人が一番好きで、最初はさういう人と見て愛したが、そのうちにそれは喰わせものだつたりして先生を失望させたこともあつたのではなかろうか。」(15)


 (世事への疎さ{=変人}に由来する)与しやすさを漱石は自覚していたし、それが実生活を蝕んでもいた。たぶん背景には、漱石のバックボーンである町衆の気風の良さや侠気などを尊ぶ江戸文化の影響もあったであろう。

この漱石の性格の過敏・能動面を具現化した登場人物が、正直一途で潔く行動するが、思慮に欠けて他者から小僧扱いされる主人公坊っちゃんである。

他方、負けん気で理性の勝った知識人である漱石は、実生活での自分が与しやすく、たかられやすいことを忌々しくも思っていた。と同時に、漱石は、与しやすさを嫌う自分に近代文明のもつ功利性とエゴイズムも嗅ぎつけ、その超越を模索していた。

その超越の仕方として見出したのが、欲がなくて鈍感・受動的な姿勢であった。うらなりはその具現化である。それは、東洋で言う無我の観念に近く、近代文明・近代人への懐疑が反転して創り出した、架空の東洋(老子思想)的な聖人像と言えよう。

従って、うらなりは漱石の分身であると同時に、イワンを明治期の日本人に仕立て直したものと見て良い。ただ、その仕立て直しの際、漱石が中堀を想い浮べたであろうことも否定できない。なぜなら、

一つに、漱石はうらなりのキャラクター作りに役立ちそうなエピソード(言動描写)であれば何でも採用したが、その中で中堀のそれが最も多かった。

二つに、親族から頼られた「与しやすい男」という点で、中堀は『坊っちゃん』執筆時の漱石に似ていた。親戚縁者にたかられて癇癪を起こした漱石が、我が身と比べて、唯々諾々と甥姪四人と両親を扶養していた中堀(次節で詳述)を想い出し、うらなりのキャラクター作りに用いた可能性は十分にある。 


(2) 『坊っちゃん』の小説としての構造 

漱石が「近頃少々感ずる」もう一つの事柄があった。当時、漱石は東大で『文學評論』(後年一九〇九に出版)を講じていた。漱石は文学理論からスタートし、創作へ転じた作家なのである。そして、漱石は当時抱いていた文学理論を『坊っちゃん』に組み込み、それを小説という形に具現化して見せた。従って、本作は次のような構造的特性を持っている。

一つに、漱石が同書で指摘したデフォー作品の長所のように、『坊っちゃん』は煉瓦を積んだように緊密に結びあって組立てられている。登場人物は自立的に言動しながらも有機的に纏って一つのストーリーを構成する。本作が引き締まり、違和感なく読まれる所以である。

そこで漱石は、自己に内在する「与しやすい」性格をうらなりのキャラクターに重ね、婚約者のマドンナを奪われたうえに左遷させられるストーリーとして肉付けた(作り話)。また、それをリアルに見せるために松山中学での諸エピソード(事実)を収集して、それらしく肉付けた。

二つに、漱石は『坊っちゃん』を、同書で称賛したスヰフト流の「人間の弱點を曝く」諷刺小説として書いた。目指すところ(テーマ)は滑稽本・弥次喜多の自分の失敗をネタにするおどけた笑いではなく、作者が「非は非、醜は醜として、一毫も假借せぬ諷刺であ」り、醜悪を憎み「潔癖の態度を飽く迄も持し」たスヰフト的諷刺であった。

また、可笑味は「人格の根底から生ずるヒユーモアであり、他から見ると可笑しいが、當人自身は真面目」で可笑しいと意識しないドン・キホーテのそれである。本作はうらなりの愚直さで近代日本人の醜悪を逆説的に糾弾し、真面目で自然な可笑味を醸し出そうとしたのである。

 三つに、『坊っちゃん』は主人公の実歴譚として語られる。主人公とうらなりを漱石の分身と捉えるなら、本作は作者の体験を素材にした私小説になる。

だが本作は、登場人物が漱石から遊離して典型像へと昇華され、現実のエピソードもそのキャラクター作りに有用なものだけを取捨選択して貼り付けているので、創作(フィクション)性が極めて強い。

総括すれば、うらなりはエピソードこそ色々と借りたものの、核心は漱石の憧れであり、分身である。ただ、それをテーマに引付け完璧にデフォルメした。だから、本作は体験に根ざした小説と規定できよう。

なお、本作は漱石の秘密を秘かに告白した小説であると見た江藤淳の洞察は鋭い(16)。作者にとって深刻で、社会的軋轢を生む内実やモチーフであればあるほど、秘密にしたいものだからである。

ただ、その秘密を、江藤のように嫂への漱石の愛と見るのは、論理の飛躍であり、裏付けも乏しい。

本論を含む拙稿三部作が例証したとおり、東大と松山中学の職場人間関係を漱石が内部告発した小説とする見方を、より確かな説として提起したい。



四 うらなりのモデル・中堀貞五郎について

(1)中堀と正岡律の離婚

『坊ちゃん』モデル論の補論として、うらなりモデル候補だった中堀貞五郎の実像を紹介しておく。

うらなりのモデル探しを混迷させた一因として、中堀自身がモデルと見られるのを嫌ったことを指摘しておく。それは、中堀が『坊っちゃん』の虚実判定をする『書入本』(前掲5)に参加しながら当たり障りのない一箇所の書入れに留めたことに覗える。

また、新聞社主催の「坊っちゃん座談会」にも招かれたのだが(17)、そこで自らの発言を極力控えただけでなく、他の参加者へうらなりのモデルとして自分の名を挙げないよう牽制した(他の参加者の口振りにより判定)ことからも明らかである。

中堀がうらなりモデル探し論を嫌った理由は、同居した中堀の三男の妻の回想が示唆する。彼女は義父がうらなりのモデルだったことは夫から生前に聞かされたが、子規の妹・律と結婚し離婚したと聞いたのは、死後だったというのである(前掲11)。

中堀が怖れたのは、うらなりモデル探しから律との離婚へ話が飛び火することであった。このことは中堀の長男が父・貞五郎の略歴を記した際、死別した再婚と再々婚の妻については書きながら、初婚の律をカットした点にも窺える(18)。

明治期、一応エリートの松山中学教師と松山藩校の元教授で私塾長の大原観山の孫娘の離婚は、狭い田舎町で注目された体裁の悪いものであったろう。

当時松山中学生だった虚子は、或る夜、同級だった貞五郎の甥が提灯で先導する女性とすれ違った。女性は「両袖を胸にかき合せて少し伏目になって、緊張した顔をして」歩いていた。その女性は子規の妹の律であった。たぶん、離婚直後の帰途の姿だったのではないか、と虚子は回想した。中堀と律の離婚時の緊張した様子の一端を覗える文である(前掲6)。

離婚原因について、通説は律が《兄の看病のため一方的に婚家を去ったらしい》とする(19)。だが、子規は律の再婚後の一八八九年五月に思いがけず吐血し夏と冬に帰省したが、それから再吐血までの六年間は「病人らしくもなく」(河東碧梧桐(20))「なお相当に蛮気があった」(虚子(前掲6)とあるように、看護の必要もなく自立して生活していた。だから、「兄の看病のため」は明らかに誤りである。

他方、中堀の子孫には中堀から離婚したように伝わっているが、そうとも限らない。というのは、六年後に松山中学に赴任した漱石は、子規の親友で律の離婚も知っていた。中堀を律に逃げられた元夫と子規から聞かされ、それをヒントにマドンナに振られるうらなりを造形した可能性もあるからである。

もちろん、漱石が松山時代に相手の母の結核死を理由に見合辞退したように(漱石書簡菊池謙二郎宛一八九五・十・八)、結核の体質遺伝を怖れた中堀から律へ離婚を言い渡した可能性もなくはない。

現に子規は、結核の遺伝家系でもないのに、自分が結核になったことで子孫に迷惑をかけでもしたら済まないと悔んでいる(21)。また、中堀の子や孫の中に貞五郎が律との離婚を黙秘したのは、結核遺伝を理由に離婚した負目の為と信じる者もいる。

だが、この説は次の理由で疑わしい。というのは、

一つに、一八八九年当時の子規に結核の近親者が見当らず、かつ子規の病状も軽かった。従って、兄の発病によりすぐ結核遺伝家系と断じて離婚するのは、いささか短絡にすぎる。むしろ、この少し前に中堀の兄と姉夫婦が相次いで亡くなっているが、その死因が結核であった疑いが濃厚である。

なぜなら、一八八八年に帰郷し松山中学に勤めた当初から、中堀は姉夫婦の子供を「手許ニ在リ」養育していた。一八九五年に死んだ姉夫婦の子供達を7年も前から預かったのは恐らく病気感染を怖れてのことだったと推察されるからである。

二つに、コッホの一八八二年結核菌発見により、結核が伝染病であることは周知の事実となった。その時代に結核を遺伝病と見る迷信が知識人に、新妻と離別させるほどに根強く残存したとは考え難い。

だから、離婚原因としては「律ハ強情ナリ人間ニ向ツテ冷淡ナリ特ニ男ニ向ツテshyナリ彼ハ到底配偶者トシテ世ニ立ツ能ハザルナリ」(子規(22))、「律おばさんは、東京弁でテキパキとものを言うしっかりした人」(律の従兄の子(23))、「小母さまは頬骨が立って髪は引っ詰めにし、ちょっと男みたいな方」(虚子の長女(24))等の律の性格があっただろう。

また、「そのお顔つきからして、きついでしたよ / (剛毅な)真之のことを好きだったのではないのかしらん」(律の裁縫の助手をした子規の親友の兄・秋山好古の娘(25))、に覗えるような、律の男性の好みも影響したかも知れない。 

ところで、それ以外の離婚原因として、中堀の家庭事情も大きかったと考えられる。中堀は漱石の松山中学赴任の一八九五年当時三八歳、月給三〇円の薄給であった。その中堀が一家の大黒柱として、甥姪四名と郷里の両親を扶養していた。

少なくとも、中堀は律と結婚した一八八九年時、甥姪の内の三人と同居していた(最年長の姪は婚出、最年少の姪は十歳)。この甥姪の養育が未だ十九歳の律の肩に重くのしかかった筈である。

そして、この中堀の甥姪の扶養は一八九七年の年少の甥の海軍兵学校卒業と姪の婚出まで続き、甥姪から「父母以上」と感謝されたのだった(前掲18)。

これら事情から、離婚は律から切り出した可能性が強い。他方、中堀は「道徳堅固ナ君子」(前掲5)と云われたような藩政期の儒教道徳に染まった男で、妻から引導を渡された離婚を恥と感じたようだ。また、自家が結核家系と見られるのを恐れてもいた。それらが彼の黙秘の理由であったように想われる。 


(2) 中堀と律とのその後の人生と社会背景

中堀と律のその後の人生と社会背景に言及しよう。離婚後の中堀は、律の動向に過敏にならざるをえない出来事に出会う。

まず、漱石が松山中学に赴任、その漱石宅に子規が転がり込み五〇日余寄宿したことである。中堀は否応なく漱石に子規の影を見ている。

当時既に子規は日本新聞を拠点にした俳句近代化運動の旗手として知られ、そのカリスマ的リーダーとしての名声を確立しつゝあった。松山も子規の訓導で俳句結社が作られ、俳句をたしなむ教師も多い。中堀は、松山での俳句活動の盛り上がりの背後に、子規と律を感じつゝ過ごしたことだろう。

また、子規の名声の高まりと共に、律も病の子規の看護に献身し、没後は母に孝養を尽くす健気な女性として書籍(26)や新聞(27)に紹介されるようになる。いわば日本女性の鑑となった律を、瀬戸内海離島の一教師に転任、更には文具店主となった中堀は気高い存在と仰ぎ見る立場になったのである。

さて、律は子規没後、我国第一世代のキャリアウーマンへと転身する。その経過は次の通りである。

《我家の女は田舎育ちで教育を受けなかったので、主人が病気をして看護の必要が生じても、話相手にならず、殆ど物の役に立たぬ女どもである。ここにおいて始めて感じた、教育は女子に必要である》(28)


これは死の二ヶ月前、子規が苦し紛れに律についた悪態である。子規が口述し、たぶん律が筆記した。ただ、この悪態の言葉は河東碧梧桐が言うように、看病に尽してくれた母妹の行末を案じた子規流の遺言であり(前掲20)、律もそう聞いたに違いない。子規は母妹の行末を心配し、律に教育を受け人生設計を建て直せと述べているのである。

子規と律に女性教育と生活建て直しの必要を痛感させたのは、七年半に及ぶ闘病の生活苦であったろう。療養中の生活を支えた日本新聞の月給(最終四〇円)や「ホトトギス」誌からの少額の手当ては、子規が亡くなればさすがに支給されなくなる。先の見えない看護の中で、律は不安だったに違いない。

そんな折、碧梧桐が子規の看病支援のため根岸に引っ越し、その姉も出入りするようになった。松山で子規の母から和裁を習った姉は、「裁縫の先生になる勉強に上京」したからである(前掲20)。

当時は日清戦争が終り、日露戦争の風雲急を告げた時代である。社会的に戦争未亡人対策として女性の職業専門学校が設立され、職場進出も図られ始めていた。律もまた、碧吾桐の姉にならい、専門学校に通い職業的な自立をめざしたのだった。

子規の死の翌年(一九〇三)、律は神田の共立女子職業学校(後の共立女子大)に入り、三年間修学の後に母校の事務員を経て和裁専門教師になる(29)。

一九一五年、律は勤務先の共立女子職業学校を一旦辞め、京都で志摩野裁縫塾に通った(一年後に復職)。京都には子規の俳句の盟友・内藤鳴雪の妹夫婦が西陣織絵工として暮しており、その伝手かも知れない。この内藤は妻が今治出身の縁で、中堀とは親子共々家族ぐるみの付き合いをしていた(30)。

他方、中堀は一九一四年弓削商船学校を退職、子供の教育のため京都へ移住し、文具店を開いていた。だから、内藤の妹夫妻を挟んで京都で一年間、律と中堀はニアミス状態にあった。

その後京都には、弘中が一九一九年同志社中学に転任、横地も山口高校長を一九二四年に退職し京都で隠棲した。漱石の教え子で作家の桜井忠温も京都に住み、同郷人会をまとめていた。

そうした因縁により、中堀は生涯を松山人脈、「坊っちゃん」人脈の中で暮した。それが中堀を神経過敏にし、律との離婚への飛び火を怖れて、うらなりのモデル探し論を避けた社会的背景である。

 なお、律は母と二人、東京根岸で生涯を過した。学校退職後は和裁を教えつゝ母を看取り、一九四一年七一歳で没している。

 


 1  うらなりエピソードについて、その該当モデルを逐一カウントした。カウントはエピソード一件をスコア一として足し算した(複数者は等分)。

2  本稿において、「  」は原文のままの引用、《  》は抜粋、意訳、現代仮名遣いへ変換しての引用を示す。省略は / と …… で表記する。



 引用参照文献

1 夏目漱石『硝子戸の中』岩波書店一九一五

2 相川良彦「小説『坊ちゃん』の成り立ちと赤シャツの虚実」「群系28」二〇一一

3 相川良彦「漱石先生と松山中学生との関係の虚実―「坊ちゃん」もう一つの断面―」「群系29」二〇一二

4 弘中又一「山嵐君の追憶」【山本享・永井貞『政和先生追想録』一九三五】

5 横地石太郎・弘中又一「横地・弘中による『坊っちゃん』への書入れ本」(略称『書入本』)一九二〇頃、{新垣宏一「横地・弘中書入本『坊っちゃん』について」『四国女子大学紀要2-1』一九八二}

6 高浜虚子『子規について』創元社一九五三

7 桜井忠温『死後のために』千倉書房一九三五

8 安倍能成『我が生ひ立ち』岩波書店一九六六

9 今井嘉幸『今井嘉幸自叙伝 五十年の夢』神戸学術出版一九七七

10 秦郁彦『漱石文学のモデルたち』講談社二〇〇四

11 中堀妙子『うらなり日記』短歌研究社一九九八

12 @森田馨哉「漱石の「坊っちゃん」とそのモデル」『文芸ビルデング第3巻2号』一九二九・二、A近藤英雄『坊っちゃん秘話』青葉図書一九八三、B松岡譲「赤シャツのプライバシー」『文芸春秋』一九六三・十、C小林信彦『うらなり』文芸春秋社二〇〇六、D石井由彦『夏目漱石 松山日記』文芸社二〇一〇

13 大阪朝日新聞京都版「「坊っちゃん」の弘中先生」一九二七・一〇・一〇

14 秋山公男『漱石文学考説―初期作品の豊饒性』おうふう一九九四

15 林原耕三『漱石山房の人々』講談社一九七一

16 江藤淳『漱石とその時代 第三部』新潮社一九九三

17 大阪朝日新聞社(一九三三)『坊っちゃん』座談会二月連載

18 中堀誠二『中堀彦吉書翰集』一九七六、非売品 

19 司馬遼太郎『ひとびとの跫音』中央公論社

一九八一

20 河東碧梧桐『子規の回想』昭南書房一九四四

21 正岡子規「啼血始末」一八八九

22 正岡子規『仰臥漫録』岩波書店一九一八

23 佐伯徹也「正岡家と佐伯家のこと」『子規全集別卷1 月報18』

24 真下真砂子「根岸の家」『子規全集第3巻 月報

22』一九四七

25 土居健子「叔父秋山真之と子規のご家族」『子規全集第17巻

26 高市予興『修養立志篇』岡村書店一九一〇

27 読売新聞「正岡律子さん」一九一七・九・六、同「老母を守って」一九二四・四.二八、同「遺族を訪ねて」一九二五・四・七など

28 正岡子規「病状六尺」『日本』新聞一九〇二・

七・一六

29 阿木津英『妹・律の視点から』子規庵保存会

二〇〇三 

30 内藤鳴雪『鳴雪自叙伝』岡村書店一九二二





  ページの先頭へ 32号目次へ トップへ