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32号 安宅夏夫 大正期の鴎外
大正期の鴎外
-エリーゼ来日事件を梃にして−
安宅夏夫
はじめに
最初に、少し長いが水上瀧太郎が鴎外没後に書いた「先駆者」という文章から引こう(傍線・安宅)。
試に問へ。一體今大正の文學と稱して居るものは誰が興して誰が育てたものであるか。此問に己だと答へることの出來る人は森鴎外先生を除けて外にはない。すくなくとも、先生が居られなかつたら、今日の日本の文學を育てるには、なほ多くの歳月を要したであらう。その先生がおかくれになつた。
言葉を換へていへば、明治大正に亙つて、今日迄筆執る程のは、例令直接先生の門に出入して教えを受けなかつたとしても、其の影響を受け無いと云つても差支へ無い。非凡なる頭腦と、比類無き於ヘを以て、あらゆる方面の先驅をなした先生の拓いた道を、遙かに遲れて多數の?が、とぼとぼつて來たのである。
まことに先生は先驅だつた。先驅としての誇りと、
先驅としての寂しさを、生涯身に沁々と味はれたであらう。先生を想ふ時、常に孤獨の姿を胸に描く。
(大正一一・八「三田文学」?「鴎外先生追悼号」より)
大正五年に世を去った夏目漱石、六年後に逝去した森鴎外、この二人の文業が存在しなかったら、大正時代の文学は無かった。
端的に言って、漱石門の俊英芥川龍之介。
一方、弟子を取らなかった鴎外に私淑、鴎外が福沢諭吉に頼まれて創刊した「三田文学」に友人の堀口大学と共に入った佐藤春夫。つまり、大正文学は極言すれば龍之介・春夫が双璧だと私は考えている。
右記した水上瀧太郎は「三田文学」の中軸だった。鴎外に推薦されて編集長となった永井荷風の教えを受けた。水上は理財科を出るとハーヴァード大学に留学、短篇集『処女作』を刊行して泉鏡花に傾倒。本名阿部章蔵を、鏡花の作品から「水上」「瀧太郎」をとって筆名とした。水上は明治生命の創業者阿部泰蔵の四男。妹は小泉信三夫人。水上は実業と創作とを両立させたことでは荷風の一時期と同じだ。昭和八年、明治生命取締役、同一五年、大阪毎日新聞社取締役となったが、この年、師鏡花の死に逢い、翌年、明治生命講堂で講演中脳溢血で倒れ、そのまま亡くなった。
ペンがスリップするようだが、先日(一一月一九日)、新駐日大使となったキャロライン・ケネディは、現在、「重要文化財・明治生命館」となっている、皇居近くのお堀端の、この「館」を出て、差し迎えの馬車で宮中に伺候した。敗戦直後、この「館」は連合国最高司令官総司令部(GHQ)に接収され、米・英・中・ソの四か国代表による対日理事会(ACJ)の会場として使用された、その由縁からであろう。
森鴎外は、皇室には尊崇の念を抱いていた。鴎外の最後の著は『帝謚考』(大正一〇年)だ。次いで『元号考』を起稿したが自力では尽くせなかった。大正一一(一九二二)年七月六日、朋友賀古I所(かこつるど)に遺言口述をして九日午前七時、没した。向島弘福寺に埋葬したが、昭和二年、三鷹禅林寺に改葬された。鴎外は、アメリカとは直接の関わりはなかった。しかし日本の水先案内人の一人として生きた彼は、今日現在の、長州閥の血脈と官僚の隠なる跋扈を、どう見ているだろうか。
第一章 謎を孕む巨人・森鴎外
森鴎外は、謎の多い巨人だ。「巨人」と言うのは、文学者・軍医・陸軍省官吏と、その一つを全うするにも至難な道を見事に歩ききった、その姿にである。生年一八六二・没年一九二二。満六十歳の時間でもって鴎外が成したことどもを、今年一月に刊行された小堀桂一郎の著『森鴎外 日本はまだ普請中だ』(ミネルヴァ書房・日本評伝選)の表紙袖の若句をそのまま引くことで示そう。
鴎外森林太郎(一八二六二〜一九二二)作家・陸軍省官吏。
陸軍軍医として二度の外戦に出征し、軍陣衛生学の実地に携る傍、詩人・作家・批評家として当代の文学界に指導的役割を演じた。一方精力的な翻訳家として泰西の古典から現代に至る文芸・哲学・医学・軍事学の綿密な紹介に厖大な業績を遺し、晩年には歴史叙述の新様式開拓に尽瘁した。その精励恪勤の生涯を明治精神史の象徴的一章として描破する。
では、「謎」とは?
つぶさに書くと、その説明だけに終始してしまうから、以下に鴎外の処女作「舞姫」を巡ってのことにしぼろう((後注1))。
「舞姫」は、高校の国語科教材として日本人の大方に読まれて来た。ただし、近年は、この作品の結末、ドイツに置き去りにされた妊娠した恋人が発狂するという、男の身勝手以外なにもないストーリーが、男女を問わず総スカンにされていると聞く。
なぜ、こんな作品が屈指の名作なのか。主人公太田豊太郎はともかく、その恋人エリスが作者鴎外を追って日本にやって来たとは?
無論、小説は物語であってノン・フィクション作品ではない。しかし、「舞姫」のヒロインと同名のエリスというドイツの若い女性が、ヨーロッパ留学を終えて帰国した若き軍医森林太郎を追って日本に来たのは事実だ。
今年になって次の本が出た。
六草いちか著『それからのエリス いま明らかになる「舞姫」の面影』(講談社)
著者六草いちかは、在ベルリン二十五年の著述家。この著の二年半前に、
『鴎外の恋?舞姫エリスの真実』(講談社)
が出ていて、只今、時の人である。ちなみにネットで見ると四八七、〇〇〇件と出ている。この著者はドイツでの陶器の絵付けを志して渡独したが、作業に限界を感じて執筆業に転身。現地からのルポ、各分野の紹介記事と、ドイツ語の堪能さを買われて活動。そして二〇〇九年、ベルリンの射撃場で居合わせた男性から、「鴎外の恋人は祖母の踊りの先生だった」と聞かされた。この時の「耳寄り話」は事実だはなかったが、ベルリンには「鴎外記念館」があって、ドイツから日本へ恋人を追って行ったものの、事は成らず本人は恋人とその一族によって追い返された少女エリスの存在は、かなり現地で知られていて、六草いちかが「舞姫のヒロイン」を探し出す糸口になった。
今、鴎外の読者・ファンならずとも「舞姫」のモデル発掘、しかも二冊目の六草の著には、何とエリス(実名エリーゼ・ヴィーゲルト)の(中年になってからのものではあるが)ポートレートまで掲載されているので驚く。
右の六草の一冊目が刊行されるしばらく前にNHKでは別の著者による「舞姫発掘事件」を放映、同時に、この著者の本も出版されたのだが、追いかけて六草の著が次々と出て、NHK及び、その放映された作品の著者は顔色を失っていよう。
ところで、この六草いちかの二冊に先立って、以下の著が出ている。六草の著は、モデル探しの著であるが、次の三冊は、それだけで止まらず、目下、その続篇も書かれ、コンテンツが生々流動しつつある。明治・大正にかけて巨歩を刻んで闊歩した文学者森鴎外の作品に込められている「謎」を一つ、また一つと明るみに出し続けている。真に瞠目の書とは、こういう本をいうのだと筆者(安宅)は深く叩頭する。
@小平 克著
『森鴎外論- エリーゼ来日事件」の隠された真相- 』
(おうふう・二〇〇五刊)
A林 尚孝著
『仮面の人・森鴎外―「エリーゼ来日」三日間の謎』
(同時代社・二〇〇五刊)
B小平 克著
『森鴎外「我百首」と「舞姫事件」』
(同時代社・二〇〇六年刊)
@Bの著者の小平は(一九三六生)、Aの林(一九三三生)と諏訪清陵高校の後輩と先輩である。小平は東京教育大で倫理学を専攻、香川県と東京都で高校教員を務めた。林は東京大の農業工学科を出て研究職の道を進み、茨城大学名誉教授である。
二人とも文学研究の人ではなかったが、鴎外「舞姫」を読み抜き、タッグを組んで画期の著書群を刊行。先述
したドイツ在住六草いちかも、この二人の著に啓発されている由。六草が、新造成った文京区本郷の鴎外記念館で講演をした際に、三者の交響が交わされた様子が「森鴎外記念館通信」に見える。
先記した『それからのエリス?いま明らかになる鴎外『舞姫」の面影』に、小平がエリーゼの結婚を予見した根拠として、「鴎外の母の日記」明治三七年五月六日条の「於菟(おと)(鴎外の長男)、横文字の手紙を戦地に出す」と、『うた日記』第五部「無名草」のなかの二行四連詩。加えて「高年齢(注・エリスは一九〇五(明三八)年七月一五日、二歳年上のマックス・ベルンハルトと結婚した。エリス三四歳だった)ではあるが、短篇『木精』や『普請中』の記述からみて彼女は結婚したのではないかと想われる」と、小平克の文章が引かれている。
六草は、「一次資料にあたって記録を見つけた私と、鴎外の作品に沈潜し、深く読み込んで推測を立てた小平氏の出した答えが同じだったというのは、なんとも不思議でおもしろいことだ」と記し、自らの「舞姫」のモデル、エリーゼ発見と、鴎外とその周辺の精査を重ねた小平・林タッグチームとの、それぞれ別に努めた成果が巧まざるコラボレーションとなったことを感動的に述べている。
エリーゼの結婚届を六草いちかが発見したことで、小平・林タッグの研究も実を結んだことは、筆者は鴎外の「あの世からの念波」が遂に届いたのだと考えている。
鴎外は、エリーゼとの関わりを、直接には軍務及び、鴎外一族には言えなかった。為に「我百首」(明治四二(一九〇九)年五月一日発行の「スバル「に掲載)、詩歌集『うた日記』(明治四〇(一九〇七)年九月一五日・春陽堂刊)、また小説「藤棚」他に込めた、エリーゼへの深い思いが、鴎外自身の生誕百五十年の節目に、次々と(すべて)明らかになった(なっていく)のは嬉しい。
小平克と林尚孝のタッグチームの営為と、ベルリン在住の六草いちかの、獅子奮迅の、奇蹟としか言い得ない捜査・探索とが見事に一致。この結果、右記した「故鴎外の死後に至る心残り」が消えてゆく。
小平は書いている。
「(鴎外研究者の中で、山崎国紀と吉野俊彦以外はエリーゼに)あまりに冷淡であり、鴎外の子供たちが直感するものとの懸隔には素人目でみても、不思議としか言えないものを感じていた。このことが動機となって「エリーゼ来日事件」の研究をはじめ、二〇〇五年四月に『森鴎外論?「エリーゼ来日事件」の隠された真相』を上梓するにいたった」(小平の二冊目の著『森鴎外「我百首」と「舞姫事件」』(同時代社)の「序」から引用)
鴎外(とその一族)が、鴎外を追ってドイツから来日したエリスを、言いくるめて追い返した、と通俗文壇史家は言う。
しかし、小平・林の徹底調査で、築地精養軒に隔離されていたエリーゼを、鴎外は度々訪ねて行き、エリーゼが帰国を納得して横浜へ向かう前日には一緒に宿泊さえしている。
このことを『うた日記』所収の詩「風と水と」に、こう書いてある。全五連中の第四、五連を引く。
さすがに きぬぎぬの
まだきの わかれをしみて
またの日 とく来ませと
媚びてぞ おん身ささやく
宜(うべ)こそ 風の世に
来んとは いはざりけれと
うなづく われを見て
おん身は 微笑(ほほえ)み立てり
無論、これは「きぬぎぬ」(恋仲の男女の朝の別れ)だ。
第四連の意。さすがに、共寝したまだき(早朝)の別れを惜んで、「またの日、早くお出でになってくださいね」と艶(なま)めかしくお前はささやいた。
第五連。「宜(うべ)」は受諾を表す応答語。「もちろんですとも。あなたは風あたりの強い世のなかを危険をおかしてまでも来るとは言わないのですね」と自ら承知して、私(鴎外)を見、お前は微笑を浮かべて立っていた。
鴎外が、エリスの日本最後の一夜の床で何を話したのか。
第四連。「またの日 とく来ませ」は抽象的だが、「騒動が静まったら、早くドイツに来てほしい」と言ったのか。「またの日」は、「明日」ということではあるまいから。
第五連。わたし(エリーゼ)が日本に来たことで、あなた(鴎外)の立場が困難の極みになってしまった。そのことは良く判ったわ。
小平は、「とく(早く)来ませ」という誘いに「宜こそ」と応じたのは、時宜をみてドイツへ行くことのように解されるが(略)現実的には考えにくい」とし、「帰国を決めた彼女が「とく来ませ」というのは〈自分を呼び寄せる手紙を早くよこしてね〉という催促ではないか」と理解する。
そして、「いずれにしても、二人が、今は「風の世」なので意のままにならないが、風向きが変わったなら結婚しようと約束したもののように思われる。彼女はそれを信じていたからこそ帰国のとき「少しの憂ひも見えなかったのではなかろうか。」とする。」」
帰国したエリーゼと鴎外は文通を続けていた。小平らの調べでは、明治三八(一九〇五)年、日露戦争で戦地に居る鴎外にエリーゼが「今度、結婚するので、もう文通はしない」と言って来て、鴎外は、「宙ぶらりん」にして来たエリーゼに懺悔(ざんげ)の念が一挙に募ったのではないか。『うた日記』を批評・解説した国文学者等は様々にいるが、まずもって「エリーゼ問題」「舞姫事件」が判らないままで来たので、誰も鴎外の「内心・秘密」に到達できなかった。
第二章 明治大正貫く棒の如きもの
この章題は、言うまでもなく、高浜虚子の名句、
昨年(こぞ)今年(ことし)貫く棒の如きもの
をもじったものである。
「昨年今年」は、新年の季語。一夜が明ければ、きのうは去年(こぞ)であり、今日は今年(ことし)だ。怱ちのうちに年去り年来る。時の急速な歩みに対して深い感慨を覚えずにはいられない。ゆく年を回顧し、新しい年への感情が、この「言葉」には込められている。
この季語に続けて「貫く棒」を持ち来たって一句とした虚子の力技には目を見張る。虚子と同じく鎌倉に住んでいた川端康成は、江ノ電の駅に貼られていた「新年のポスター」に、この句を見出し、連れの人に、「虚子は、すごい俳人だね!!」と、あの大きな眼を更に大きくして語った由。この句を詠んだ虚子の内実は、眼をかけていた弟子たち(水原秋桜子、山口誓子など)が「ホトトギス=虚子の師風」に飽き足らず連袂して脱退した際の師匠としての適愾心(てきがいしん)に発したものと聞く。
この顰(ひそみ)に倣(なら)って書き進めるのだが、鴎外は、明治から大正へと、激動する時代に、孤独な帆を張って闇夜を突っ切っていった一隻の舟に見えてくる。
以下、具体的に追うと、大正は既に明治末期から孕んだものが弾けたわけで、鴎外の文学もまたこの時代とパラレルである。日清日露両戦役に第二軍軍医部長で戦場に出た彼は、後者の戦役の陣中で『うた日記』を創作した。
この作品の評釈について、岡井隆は『鴎外の『うた日記』』(書肆山田・二〇一二刊)を先般出したばかりだが、いわゆる「エリーゼ問題」「舞姫事件」にいささかも思い及んでおらず、ために、小堀桂一郎他、これまでの評釈を全く出ていないのは仕方あるまい。
第三章
先記した小平著『森鴎外論?エリーゼ来日事件の隠された真相?』は、終章において「鴎外の遺言」にも言い及んでいる。
「鴎外の遺言」は、大分の人には周知のものであるが、その解釈となると、これまで様々な人から「成る程!」と言えるものが幾つもあった((後注2))。
しかし、小平は、「エリーゼ来日事件」のフィルターで見ると、多様に説かれている各説は、ことごとく的外れであるとする。
問題の「鴎外の遺書」は、重要な史料なので、ともかく全文を以下に掲げよう。
余ハ少年ノ時ヨリ老死ニ至ルマデ一切秘密無ク交際シタル友ハ賀古鶴所君ナリコゝニ死ニ臨ンテ賀古君ノ一筆ヲ煩ハス死ハ一切ヲ打チ切ル重大事件ナリ奈何ナル官權〔賀古筆原文〈憲〉〕威力ト雖此ニ反抗スル事ヲ得スト信ス余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス宮内省陸軍皆?故アレトモ生死別ルゝ瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ辭ス森林太郎トシテ死セントス墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可ラス書ハ中村不折ニ委託シ宮内省陸軍ノ榮典ハ絶對ニ取リヤメヲフ手續ハソレゾレアルベシコレ唯一ノ友人ニ云ヒ殘スモノニシテ何人ノ容喙ヲモ許サス
大正十一年七月六日
森林太郎言(拇印)
賀古鶴所書
小平は、唐木順三、平川祐弘、中野重治の解釈を紹介・吟味する。
先ず唐木であるが、唐木は自著『鴎外の精神』(筑摩書房・一九四七刊)において、「官権威力といへども死を如何ともなし難いといふのは、普通にはをかしな文章といはなければならない。ここには鴎外の特殊な経験があったとみるのが至当である」とし、「それは一方においては死を以てする官権への抗議であり、また他方においては官権からの被害妄想のやうな感もないではない」とする。
小平は、この唐木説について、鴎外は「〈官憲〉威力」をふるっていた陸軍衛生部最高官僚であった。しかも、陸軍省医務局長を退いたあとも帝室博物館総長兼図書頭という顕官在職のまま死を迎えようとしているのだから、おかしいとする。小平著『森鴎外論』において闡明(せん めい)されたことは「エリーゼとの結婚を妨げ、軍医の辞職を決意させたものが「陸軍武官結婚条例」であったことである。とすれば、鴎外は「〈官憲〉からの被害」を受けたのは事実であり、唐木の説く「被害妄想」ではないことになる。
次に、平川祐弘は、『和魂洋才の系譜』(河出書房新社・一九八七刊)で、「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」とあるのは「個人として死にたい」という願望を強調したものとする。つまり、この文節は「奈何ナル官憲威力ト雖此ニ反抗スル事ヲ得スト信ス」ニ続いているので、唐木のいうように「石見人を殊更に強調しなければならない」気持ちがあったと思われる。
しかし小平は、以下のように判別・判読する。「津和野人」といわれずに「石見人」というのだから、「藩閥に対する秘められた反抗と、潔癖があった」と唐木はいうが、鴎外は生まれ育った津和野の旧藩的・封建的因習に対して「秘められた反抗と、潔癖があった」のではないか。鴎外は一〇歳のときに上京して以後、一度も津和野の地に足を踏み入れなかった。そのこだわりがある故に「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」と遺書にも書かせたことと関係があるはずだ。
小平は平川が、「遺言の文章に反復がみられ、語気が荒らかなことは事実だが、それは自分で筆を取った文章でなく、口述筆記をさせたために、命令口調が強く出たのではあるまいか」としているけれども、事実は、筆受者の賀古は、「大正十一年八月二日付加藤拓川宛書簡」で、「別紙森の遺言ハ遺憾ながら充分にガンバル事能(あた)ハざりしが其筋ヘ不敬ニ渡ラヌ程度ニ切リ上ゲ申候」と述べており、「遺憾ながら」よく頑張れなかったが宮内省陸軍に「不敬」にならぬ程度におさめた、と解説している(山崎一穎監修『鴎外その終焉・新資料にみる森林太郎の精神』・森鴎外記念館・一九九六刊)から、平川の所見は逆となる。賀古の書簡の文面からすれば、「遺言」は鴎外の口述をそのまま筆録したのではなく、激越な言葉も語っていたらしく、鴎外が自分で筆を執ったら「不敬」になりかねない気配だった、と小平は推測する。
小平は、このように見ると、中野重治が『鴎外 その側面』(筑摩書房・一九五二刊。ただし「遺言状のこと」の執筆は、戦中の一九四四・七)で夙(つと)に言ったように、「鴎外は何のために、何をおそれて、あれほどむきになって死の外形的取扱いを拒んだのであろうか。どうして、あれほどに力をこめて、それに対する嫌悪の情を露骨に表白したのであろうか」と疑問をもつのが文章に即した読み方であり、平川が「主観的要素の濃い判断は、筆者自身の人柄や気分を示しても、鴎外の心を明らかにするにはあまり役立たないようである」と述べて、平川が、先立つ代表的論者二人、中野・唐木の評釈を「党派的な感情や恣意的な解釈が混じる」と蔑(なみ)するのは的外れの批判だとする。
小平は言う。軍医の最高位に昇進し、陸軍省医務局長という軍部官僚の中枢部に身を置いた鴎外が、死に臨んで、何を不満として語気を荒げ、「宮内省陸軍ノ栄典」の拒否の意思を、「老死ニ至ルマデ一切秘密無ク交際シタル友」の賀古に書きとらせたのか。
小平は説く。この謎は「エリーゼ来日事件」をあてはめれば説明がつく。賀古は、この事件の顛末をそれこそ鴎外と二身一体で体得した「当事者」なのだ。「舞姫」の作中の、太田豊太郎の盟友相沢謙吉は、賀古がモデルだ。
小平の説く先を急ごう。鴎外はエリーゼを選んで軍医の道を捨てるか、エリーゼを捨てて軍医の道を選ぶかの岐路に立たされて、結局軍医の道を選び、その後もしばしば辞職しようとしては賀古に留意され昇進を重ねた。だが、しかし、鴎外がエリーゼを裏切ったことを心から悔いていたのであれば、エリーゼを裏切ったことの代償である「宮内省陸軍ノ栄典」は嫌悪の情すら感ずるものであって、「絶対ニ取リヤメヲ請フ」ということになるのは不思議ではない。「絶対ニ」とまでいう語気の強さは、抑制をしていたものへの怒りと、それに耐え、黙していた想い、それは「エリーゼ事件」から受けた心の傷の深さからのもの以外ではない。
このように小平は言う。であれば、鴎外の遺書の謎は、「エリーゼ来日事件」でもって解明され大団円となる。鴎外は、死の際にエリーゼに詫びたのだ。
筆者(安宅)は、如上の小平による「鴎外の謎」を「エリーゼ来日事件」のフィルターで見た結論に賛意を表する。「後注2」の稿に記述したが、「鴎外の謎」は幾つもあって、中で、この「遺言」については、各者各様の解釈が、これまでに多くあった。
筆者はこれまで「鴎外の遺書の謎」の、最たるものは「脚気事件」である、と考えて来た。
森千里『鴎外と脚気??曾祖父の足あとを訪ねて』(NTT出版・二〇一三年一月刊)は、鴎外を曾祖父に持つ、現・千葉大学教授の著。
鴎外が、明治期の日清・日露戦争の際、多くの兵士を脚気で死に至らしめた張本人だ、という批判は、今日現在、ネット時代で加速されて猛々しいほどだ。こうなっている理由として、具体的に、以下の事実がある。
〈日清戦争〉
戦地における病気による患者数二八万五〇〇〇人。
内二一万人弱が脚気。
〈日露戦争〉
戦死者四万六〇〇〇人強。
脚気で入院した患者二五万人強。
鴎外は双方の戦役に、第二軍医部長として参戦。これによって両戦役で多くの兵士が亡くなったのは鴎外に全責任がある、と付和雷同する人は主張している。右記したPC内に躍る情報はこれである。
鴎外の後裔・曾孫である森千里(鴎外の最初の妻登志子の孫)は、平成二四年三月、鴎外の故郷、島根県津和野町で開かれた「鴎外生誕一五〇周年記念式典」に親族が集まった際、鴎外の次女杏奴(あん ぬ)の子息、小堀鴎一郎(国立国際医療センター名誉院長)に、「鴎外が一部の人から『日清・日露戦争で多くの兵士を脚気で死なせた戦犯』のように言われている。あなたはエッセイを書いているから、冷静な科学者の目でこの誤解を解き、どこかに書いてもらえないか。予防医学をやっているあなたにしかできないことだから」と言われた。
森千里は、この生誕百五十周年に、鴎外は何を望んでいるだろうか、と考えると、若いころから予防医学の必要性を感じていた鴎外が、なんとか脚気をなくしたいと、国の組織として「臨時脚気病調査会」を設立して強力にその研究を推進し原因を明らかにしたにもかかわらず、事実とは逆に、まるでそれを妨害したかのように批判されていることに無念の思いを抱いているのではないか、と感じた。
そこで、幸いにもビタミン学と脚気が専門の山下政三の近著『鴎外・森林太郎と脚気紛争』(日本評論社・二〇〇八刊)を手にし、ほかにもさまざまな経緯からこれまで専門医以外にはあまり知られていなかった資料をも入手、「予防医学に命を賭した文豪の真実」(表紙帯の惹句)として、曾祖父鴎外を見事に救抜する一著を上梓した。
現在、鴎外と高木兼寛(海軍医務局長・軍医総監。海軍における脚気絶滅を果たした。として子爵に。後、慈恵医大を創設)を対立させて、「高木は正しく、鴎外は誤まっていた」と単純な構図にして論じられているのは、吉村昭著『白い航跡』が高木兼寛を主人公とし、アンチヒーローとして鴎外を取り上げたことが最も大きい理由となっていよう。
次に、鴎外が脚気の原因を明らかにしようとした人達を弾圧、妨害した、とした書がある。さらに鴎外を性格の異常な偏執狂的な人物に仕立てた書。加えて、NHKが制作した歴史情報番組で「高木が正しく森が大失敗をした」と描き、「鴎外=脚気で沢山の兵士を死なせた犯人」という印象を世間に広く醸成した。
森千里は、山下政三の右の著書の最後を引いているので引いておく。
「当時は社会、軍隊ともに脚気の惨害に苦しめられ、世をあげて脚気対策に奔走していた。しかし医学そのものがビタミンを知らなかったことから、脚気の原因は深い闇の中にとざされていた。原因が知られない以上、抜本的な対策などできるはずがなかった。せっかくの努力にもかかわらず、過失や錯誤があふれ紛争が絶えなかったのである。そのような暗黒の中で、高木兼寛は兵食を改革し海軍の脚気を撲滅する、というビタミン研究の基礎をつくり、日本の脚気絶滅への道を開拓した。ただ、論理主義の森と実践主義の高木とは見解と手法に相違があり、それが一見対立的な姿に見えた。しかし、『脚気の撲滅』という究極の目的は同じであった。すなわち表面的にはライバルの観があったが、真実は、共通の敵に立ち向かう戦友の関係にあったのである。そして高木は現役中に海軍の脚気を撲滅し、森は死去四〇年後に日本の脚気を根絶させた。明治の脚気紛争のなかに出現したこの森林太郎と高木兼寛の脚気業績は、医学史上不滅の業績である。末永く顕彰記念しなければならないのである」
谷沢永一は先年死去した文芸評論家だが、森鴎外叩きに血道を上げていた人物である。司馬遼太郎と親しく、また同人誌を開高健・向井敏と出していた経歴がモノを言ってか、いわゆる論壇右派の一人として出ずっぱりの活躍だった。一度、中国文学者加地伸行に手ひどく「その無知・白痴ぶり」を叩かれていたのを思い出すが、私は、「哲学者九鬼周造は岡倉天心の子に間違いない」と何の論証もせず断言しているのを読み唖然としたことがある。いわゆる「タメにする発言家・物書き」の最たる人物だった。こんな人間に鴎外があれこれ言われていたのは、今もって不思議きわまる。
第四章
日露戦争後の鴎外の作品を並べて見る。
一九〇七(明治四〇)年。
『うた日記』(日露戦争従軍中に編んだ詩歌集)。
一九〇九(明治四二)年。
『半日』(自身の家庭生活がモデル)。
『追儺(ついな)』(反自然主義の文学観を述べた)。
『魔睡』(現役の東大医学部教授を批判)。
『ヰタ・セクスアリス』(自伝的性欲史。発禁となった)。
『金比羅』(次男の死を題材に)。
一九一〇(明治四三)年。
『青年』(漱石の『三四郎』『それから』に刺激された、 啄木がモデルの青春小説)。
『普請中』(日本の近代化を担う官僚の矛盾を描く)。
『沈黙の塔』(大逆事件に触発された鴎外が、政府の 学問や芸術への干渉を批判した)。
一九一一(明治四四)年。
『妄想』(自己の精神の経歴を振り返る自伝小説)。
『雁』(近代日本の女性の目覚めと青春の挫折を扱う)。
『灰燼(かい じん)』(言論への政治家の介入を風刺する小説だが、 未完)。
一九一二(大正元)年。
『かのように』(天皇制にまつわる禁忌が揺らいだ時、 鴎外が示した指針。山縣有朋が感心した作品)。
『興津弥五右衛門の遺書』乃木希典の殉死を受けて書 いた歴史小説)。
鴎外は『舞姫』『うたかたの記』『文づかひ』三作を早くに書いて既に文壇にあったが、軍医という官僚組織の中での摩擦で作品を多く書くことができず、語学力を活かした翻訳を多産していた。
ところが日露戦争から帰還し、夏目漱石の出現に、「自分も!」という対抗意識を持って、満水していたダムの水が溢れ出した如くに小説に向かった。
これは「文学史・文壇史」の事実だが、鴎外の復活は、一つには「エリーゼ問題」が、エリーゼの結婚によって終焉を迎えたことも大きいのではないか。エリーゼの存在は、しかし終生、鴎外の負い目となっていて、鴎外が死に直面して「遺言を書く」際にまで鴎外の全存在をゆるがす。
エリーゼは鴎外と一体だった。だか、直接に気にかかっていた「独身で待っているエリス」が結婚したことで身軽になった一方で、元々文学をやりたかった鴎外は、全身全霊を奮(ふる)って、書くという「難敵」に立ち向かったと今は言える。
鴎外が文壇に返り咲くに当たって仲間を選んだのは、雑誌「スバル」に集まった石川啄木、木下杢太郎など若い文学者たちだった。「三田文学」の創刊を福沢諭吉に頼まれて、永井荷風を編集長に推薦し、鴎外はここにも旺盛に発表を始める。「三田文学」で育つことになる佐藤春夫は、鴎外邸・観潮桜近くに下宿していて、鴎外の書斎が毎夜明るく、それを見て、「鴎外先生は昼は軍務で夜は執筆されている!」と自分に鞭打ったことを書いている。
大正は明治天皇崩御とともにやって来た。鴎外は、親しかった乃木希典とその妻の殉死に驚く。そして右記一覧中にある『興津弥五右衛門の遺書』をわずか五日で書き上げ、以後、歴史小説に立ち向かった。『阿部一族』『大塩平八郎』『山椒大夫』などがそれだ。
滔々たる自然主義の潮流を見て、史伝小説『渋江抽斉』を書き出した大正五年、鴎外は陸軍軍医総監・医務局長を辞任する。大正六年、山縣有朋の推挙とされる帝室博物館総長兼図書頭。大正七年、美術審査委員会主任。大正八年、帝国美術院初代院長となった。大正十一年の、その死まで、後三年である。
「後記」
本書を書くに際して、小平克執筆の「文芸稿」第6号(平成二五年四月刊行)所収「森鴎外「夢がたり」連作歌の謎??夢か現か」に大きく裨益(ひ えき)された。厚く感謝する。
(後注)
1、「墨」一四四号「評伝 森鴎外?謎を秘めた巨人」。安宅夏夫。
2、「人物研究」第二四号「鴎外・森林太郎の真実」。安宅夏夫。
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