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32号 大正の憂鬱 国体 生命主義 精神医学  草原克芳 市川直子 永野悟 鎌田良知



大正の憂鬱 国体 生命主義 精神医学




ニーチェ、漱石、朔太郎 ―大正の憂鬱―

 

     杉田弘子著「漱石の『猫』とニーチェ」の周辺から

  


                            草原克芳 



 

■先頃、「漱石の『猫』とニーチェ」(杉田弘子)という興味深い本を読んだ。日本におけるニーチェ受容についての研究書である。『吾輩は猫である』(明治三八)という作品は、もちろん時代区分としては明治文学に属するであろうが、英傑と行動人の時代であった明治の動乱期を批評的に総覧している性格を見れば、大正教養主義を準備した作品であろう。面白いのは、日本におけるニーチェ『ツァラトゥストラ』最初の全訳(明治四四)のエピソードだ。生田長江に翻訳を薦めたのは夏目漱石であり、なんと出版社(新潮社)まで世話している。また、ドイツ語の難解な箇所については、森鴎外に尋ねているという。つまり漱石と鴎外という両文豪の努力によって、ニーチェは日本デビューを果たしたわけである。

■『猫』の登場人物におけるニーチェの影響も面白い。哲学者「八木独仙」と、巣鴨の狂人「天道公平」が、まさに、ニーチェの思想や人物のパロディだという。禅とも西洋哲学ともつかぬ思想を語る独仙であるが、その名前はニーチェの友人であり、ショーペンハウエル協会の設立者でもあったパウル・ドイセン(東洋学・仏教学)に由来するとの指摘は気になるところだ。ドイセンの弟子の姉崎正治(嘲風)は、ショーペンハウエルの主著の最初の翻訳者であるが、東大では漱石の同僚であった。

一方、とつぜん苦沙弥先生に支離滅裂な手紙を送りつけてきた「天道公平」なる人物は、誇大妄想狂である。「苦沙弥先生よろしく御茶でも上がれ。」この狂人の手紙ひとつとっても、漱石が自らのユーモアを禁じ手にしてしまったのは、時代の空気のためにもはなはだ惜しいことであった。とはいえ、漱石は長く抱え込んでいた鬱屈を『吾輩は猫である』を書くことで発散し、解放させた。『猫』の家の縁側に漂う不思議にドライな明るさはそこから来るカタルシスであろう。また、生田長江以外にも、漱石山房出入りの門下やその周辺から、安倍能成、阿部次郎、和辻哲郎などニーチェ研究者が輩出し、大正教養主義へとつながってゆくことになる。明治という「政治と叙事詩の時代」から、大正という「叙情詩と哲学の時代」へ――それは激しい急流がゆっくりと速度を落とし、束の間の陽だまりの中で時間が停滞して、ようやく個人の「生」や欲望というものが正面から見据えられ、考察されるようになった時代への新たなる移行であった。

朔太郎と「生きんとする意志」のもらす溜め息

■「漱石の『猫』とニーチェ」収録の漱石以外の論考では、「萩原朔太郎、ニーチェの熱狂的崇拝者」が充実している。朔太郎の詩やアフォリズムに、ニーチェやショーペンハウエルが引用されるのは知られているが、詩人の哲学趣味という以上に、朔太郎がこの二人の「生の哲学」を生きる支えにしていたことが、綿密な調査によって明かとなる。ことに『青猫』を流れる憂鬱、悩ましい倦怠の背景に、「盲目的な生きんとする意志」を中心に据えたショーペンハウエル厭世思想があることが指摘される。

■『吾輩は猫である』の「太平の逸民」たちの解放感とユーモアあふれる文明談議から、日露戦争、大逆事件を経ると、大正の「憂鬱」へとさしかかる。この憂鬱とは、ボードレールの『パリの憂鬱』の極東への遠い移植であろうか。佐藤春夫の『田園の憂鬱』『都会の憂鬱』、そして萩原朔太郎の第二詩集『青猫』に流れるトーンは、「憂鬱」「倦怠」である。この調べの背景に仄見えるのは、ショーペンハウエルの厭世思想であった。よくいわれるようにショーペンハウエルとニーチェの関係は「生きんとする意志」の否定で終わる前者の思想が、ニーチェによって克服され、肯定的意志へと変換された――というような単純な図式ではない。人物像からいえば、ショーペンハウエルの方がはるかにふてぶてしく、諧謔的であり、女好きであり、しばしば享楽的であった。ニーチェはその預言者ふうの絶叫にもかかわらず、終生、文学青年の繊弱さを隠し持っていた。むしろスイス山中を漂白しつつ狂気へと傾く孤独な詩人哲学者の側面にこそ、朔太郎は惹かれたのではないか。ヒットラーと朔太郎(この二人は奇妙に顔が似ている)は、ニーチェという天体のそれぞれまったく反対側の球面を、受容したのであった。

■ところで大正期の「憂鬱と倦怠」を代表する表現とは、何であろうか。私は萩原朔太郎の詩のオノマトペを挙げてみたい。この詩人は独特の耳――音の追憶を、体質的に持っていた。例えば朔太郎の詩では、明け方の鶏は「とをてくう、とをるもう、とをるもう」と鳴くのであり、恐れに青ざめた犬は「のをあある とをあある のをあある やわああ」と吠える。田舎の時計は「じぼあん・じやん! じぼあん・じやん!」と時を打つのだ。そして、ゆるやかな否定のリフレイン「貴女は貝でもない、雉子でもない、猫でもない さうして淋しげなる亡霊よ」と詠う。まさにこの蒼ざめた虚脱感こそ大正ではないか。

詩人が病み上がりの嗄れ声で、疎外された春を嘆くとき、われわれは遠い桜の花のすえた匂いが漂う大正期の空気を呼吸する。明治と昭和の間の倦怠に満ちた幕間のひととき、時間が停滞して方向性を失い、「生きんとする意志」そのものが、悩ましく澱む大正期の夢と憂愁――。

この大正期の「憂鬱」が、芥川のいわゆる「不安」、「将来へのぼんやりとした不安」という昭和の闇へと傾斜してゆくのは、その数年後のことであった。           (了)


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 大正という時代――国体論と政界


市川直子




 松本清張『昭和史発掘』の中には「天皇機関説事件」(昭和四二年)が収められている。その前半では、明治四五年から大正二年にかけての「上杉・美濃部論争」に多くの頁が割かれている。憲法の概説書を繙いても、大日本帝国憲法の展開を論じる件で、この国体論争が取り上げられている。この論争はどのようなものか。

 明治二二年に発布された大日本帝国憲法は、天皇が統治権を総覧するとし、伊藤博文・井上毅の『憲法義解』も、統治権を総覧することが主権であり、天皇がそれをおこなう旨を明らかにしていた。それにもかかわらず、東京帝国大学で行政法を担当していた美濃部達吉は、主権が国家それ自体にあるという「天皇機関」説を説き始めた。そこで、同大学で憲法を担当していた上杉慎吉が「天皇主権」説の立場から反論したのだった。上杉・美濃部論争とは、帝国大学の教授間で交わされた-極めて抽象度の高い学術論争であった。

 このとき提示された新しい学説には、それを支える現実があった。多くの学者の留学先であったドイツの法学界では、主権が国家に属するという国家法人説が支配的となっていた。そのドイツは第一次世界大戦後にワイマール共和国になり、日本の隣国である清朝は既に滅びていたし、帝政ロシアも社会主義国となっていった。伝統的な君主主権の国家が次々と消えていたのだ。国内的にも、開明的専制君主と言われた明治天皇が亡くなり、タイプの違う大正天皇が即位し、大正一〇年からは摂政という天皇の代理が実際に国政を担当していった。

 こうした新理論の構築に役立つ事象の周りには、さらに広い政治的な裾野があった。

第一に、上杉・美濃部はともに、雑誌「太陽」で再反論・再々反論を繰り返していった。論争に決着がついた後も「出来得る限り安価にして多くの人に分ちたい」という者によって『最近憲法論』という論文集にまとめられた。学術論争が一冊の書物として刊行され、積極的に巷間に広められていった。それから遅れて大正五年にも、同じ東京帝国大学で政治学を担当していた吉野作造が、雑誌「中央公論」で、主権論に触れないデモクラシー論である民本主義を説き、再び上杉も同雑誌に反論文を寄せていた。この論戦当時、上杉・美濃部・吉野はみな三〇代の学者であったが、若干の総合雑誌の目次を一瞥するだけでも、大正期には、現在とは異なる密接な学界・言論界のあったことが窺える。

第ニに、自由民権運動の流れをくむジャーナリズムとも関連して、大正期には、政党や民衆運動においても、明治期とは異なる様相を呈していた。

 大正元年、立憲政友会の西園寺公望の率いる内閣が、陸軍の強硬な増師要求を受けて総辞職するに至った。これに代わって天皇の詔勅を受けて組閣した桂太郎も、言論界にリードされた民衆によって官僚内閣との批判にさらされ、翌二年には倒れることになり、ふたたび立憲政友会を基礎とする山本権兵衛が組閣することになった。これが大正政変とも呼ばれる政党内閣への移行である。

 この第一次憲政擁護運動を主導していたのは、「憲政の大道」を唱えた犬養毅であり、「憲政の神様」尾崎行雄であったが、政党としては立憲政友会であった。

 立憲政友会は、かつて板垣退助が結成した自由党が、元老伊藤博文と妥協しながら明治三三年に結成した政党である。しかし、皇室に対する臣民の分義を尽くすことをその設立趣旨として掲げ、天皇主権説と対決するよりも、癒着して勢力を伸ばしていった。政商として知られる三井財閥が財政支援をしていたため、政策としても産業優先のものであった。立憲政友会は、制限選挙の下で参加できた人口約五%の上位所得者層によって支えられていたからである。

この政変に関して、大正二年、先の吉野作造は雑誌「中央公論」において、自作農や商鉱工業に携わる者たちの勢力拡大について考察している。それによれば、日露講和反対の日比谷騒擾が、日本で民衆が勢力を持ち始めた発端であるが、民衆運動とは言いながらも積極的な主張に欠け、扇動されやすい傾向があることに危惧を示した。先に見たように、吉野が大正五年に提唱する民本主義は、この民衆勢力への警戒が基底にあった。

 制限選挙の下で政治から排除されていた小作農や都市の貧しい労働者たちをまとめていくことになるのは、大正二年に犬養を中心としていた立憲国民党であり、大正五年に加藤高明が立ち上げた憲政会であった。この憲政会と先の立憲政友会、さらに立憲国民党を改組した革新倶楽部が、護憲三派として、第二次憲政護憲運動を展開していくことになる。大正一三年、清浦圭吾が貴族院を基盤とした内閣を組織すると、超然内閣として反対し、総選挙で勝利することによって、護憲三派内閣を誕生させる。この内閣が、翌一四年に選挙法を改正し、普通選挙を実現していくことになる。

 大正期の政治状況を振り返ってみると、第一次・第二次と二回にわたる憲政擁護運動とよばれる政党内閣の実現闘争が華々しく展開されているように見える。しかしながら、そこで叫ばれている憲政は、天皇主権を攻撃するものではなく、むしろ擁護するものであったいえよう。国際情勢が変わり、昭和天皇が即位すると、天皇主権説権威的な機関が力を盛り返していくことになる。




 

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大正生命主義について



                 永野 悟




 大正理想主義、大正人道主義などという言葉がある。明治理想主義とか昭和人道主義とか言われないだけに、「大正」はいわば異空間だった。この時期の空気を一九八〇年代頃から「大正生命主義」と言表する学者たちが現れた。鈴木貞美によれば、この時代、「生命」「生気」がスーパーコンセプトであった(『大正生命主義と現代』一九九五年・河出書房新社)。自我、個性の時代であった。

そもそも「生命主義」(vitalism)の語は、十九世紀の実証主義に基づく目的論、機械論による自然征服観に対する思想傾向のことをいい、ドイツのヘッケルは進化論や遺伝学を統合した「生命一元論」(生気論)を唱え、スペンサーの社会進化論のあとを受けて、明治年間以来、知識人には知られていた。

 日本の生命主義の哲学的基礎は田辺元『文化の概念』(大正十一年)で、まず、物質文明(自然征服)を否定。〈如何なる自然をも、自然の一成員としての人間が自己のために利用することを権利付ける根拠は発見せられない〉とし、自然の利用は精神物質の両面にわたって我々の生活を豊かにし、自由にその内容を創造するのを「文化」と定義し、「文化主義」(=「教養主義」)を提起した。

 この田辺の「生命主義」は、当代のベルクソン、ジェームズ、デユーイなどの哲学の根底に流れるものと同様であると、新カント派のリッケルトが言っている。

 さらに、この田辺の考えには、西田幾多郎の哲学の影響がある。西田の『自覚に於ける直感と反省』(大正六年)は〈我々の意思を対象界に投射して見たものが生命である〉〈真の生命とは実在の具体的全体の統一である〉とし、〈「生への意志」は「文化への意志」でなければならぬ〉と主張している。

鈴木氏は、大正生命主義に影響を与えた十九〜二〇世紀の西洋思想をあげる。明治三〇年代後半には、ショペンハウエル、ニーチェ、フェヒナーからヴントにいたるドイツ観念論哲学。またトルストイ、イプセン、メーテルリンク、ストリンドベリイ、ホイットマンなど、「生命」を根本原理とした文芸作品を書いた作家たちがいて、その前夜を迎えた、とし、さらに大正生命主義に直接の影響を与えた西洋思想を五つあげる。

第一は先にも掲げたエルンスト・ヘッケルで(「個体発生は系統発生を繰り返す」の命題で知られる)、生気論を基礎付けた。その人種進化論学説は、一時ナチスの「劣等人種断絶」政策の根拠とされ戦後あまり顧みられなかったが、今日のエコロジー思想は、「生態学=エコロジー」の語の創始者として、ヘッケルは再び検討されつつある。

第二は、アンリ・ベルクソンの『創造的進化』。進化論に立ち、合目的論を否定し、偶然性の契機を導入する。「生命の飛躍」、偶発性による「差異化」の論理は、ショペンハウエルの「生の不可視の意志」を遺伝学における突然変異と改作したようなもので、生命のランダムな発現による創造的進化を説く(ドゥルーズの「差異化」概念は、ベルクソン検討を通して生れた)。ベルクソンのエラン・ヴィタール(生命体の内なるエネルギーによる進化)は、有島武郎、萩原朔太郎に大きな影響を与えた。

第三は、ベルクソンに近接するウィリアム・ジェームズのプラグマティズム。外在的・超越論的真理を退け、「経験」の内に真理をみる経験主義であるが、その底には「大きな生命」の観念があり、これらは自分の意識を観察の対象とする視点を広めた。

第四は、エレン=ケイ。スワエーデンのフェミニズム思想家・教育者。生命主義的フェミニズムをうたって、キリスト教倫理と対立。「青鞜」誌がおおいに取り上げ、〈新しい女〉の型を作った。また労働力の再生産としての「リクリエーション」を唱導し、「民衆芸術」論の基礎を作った。さらに『児童の世紀』を著し、二〇世紀を子供の世紀だとも唱えた(大正期の児童中心主義的立場)。

第五は、ロシアの無政府主義者・クロポキンの思想。その『相互扶助論』は、適者生存の生存競争原理を退け、個体間の協同を強調、訳者大杉栄の無政府主義思想の基礎となった。クロポトキンの『田園・工場・仕事場』は、都市の大工場制度を批判、ラスキンやウイリアム・モリスなどとともに、近代文明に中世的価値観を対置した。

これら思想が、「白樺」派の、自我の解放・伸長が人類と自然に調和、という理想主義・生命主義を生んだ。(さらに社会背景として、日露戦争の兵士の戦病死、足尾銅山の鉱毒事件、広がる都市の煤煙などもあった)。

年表でみると、中沢臨川『ジェームズからベルクソンへ』(大正元年)、和辻哲郎『ニーチェ研究』、ベルクソン『創造的進化』(大正二年)、エレン=ケイ『婦人解放の悲劇』(伊藤野枝訳)は大正三年、同『児童の世紀』は大正五年、クロポトキンの『相互扶助論』は大正六年刊。『ニーチェ全集』(生田長江訳)は大正四年(〜昭四年)、大正十五年には、『レーニン全集』(全10巻〜昭二)、『カント著作集』(全18巻・〜昭一四)が刊行されている。

だが、この生命主義は、関東大震災を機に退潮していく。体制側からは、『国民精神作興の詔書』(大正十二年十月)が渙発せられ、その享楽主義が戒められていく(治安維持法、大正一四年)。また反体制側も、アナキズムやサンディカリズムが、科学的社会主義を標榜するマルクス主義によって切断される(昭和三年「戦旗」刊)。大正の生命は、つかの間の幻燈であったのか。




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 精神医学にとっての「大正」


                 鎌田良知



 大井町駅東口からゼームス坂を下り、エンジェ並木から脇道に入る。ゼームス坂マンション向いの細道を少し上ったところに、『高村智恵子文学詩碑』が佇んでいる。智恵子終焉の地となったゼームス坂病院跡である。ゼームス坂病院は、斎藤玉男によって大正十二年に設立された精神科病院であった。高村光太郎によると「昭和十年二月知人の紹介で南品川のゼームス坂病院に入院、一切を院長斎藤玉男博士の懇篤な指導に拠ることにした。」ということだが、これでは何もわからない。少し時を遡ってみる。

 大正の欧州は、第一次世界大戦と戦後の時代だったが、日本との交流は活発であった。大戦が終結して五年後、斎藤茂吉がクレペリンを訪れているが、初対面の握手を拒否されている。クレペリンからは、「日本はドイツの弟子である。師に向かって宣戦布告する無礼な弟子と握手を交わす義理はない。」ということだったらしい。斎藤茂吉は芥川龍之介の主治医であった。

クレペリンは、雑多だった精神病についての知見を早発性痴呆と躁鬱病に整理し、疾患概念として提起した。早発性痴呆はブロイラーによって精神分裂病として修正され、現在の統合失調症という疾患概念に続いている。クレペリンが早発性痴呆の疾患概念を確立しようとしていた頃、彼のところに日本から留学していたのが呉秀三であった。呉は、二年間をクレペリンのもとで過ごした。

 日本で精神医学が始まったのは明治十九年のことだった。榊俶が東大精神病学教室教授に就任となったが、明治三十年二月六日、三十九歳で食道癌のため世を去った。彼は、東京で流行している奇妙な精神病について、欧州で流行している奇妙な精神病と同じであることを、詳細な調査結果とともに残している。この精神病が梅毒による進行麻痺だとわかったのは後年のこと、病原となる梅毒スピロヘータを確定したのは野口英世だった。

 明治三十四年、欧州への留学から帰朝した呉秀三は東大精神病学教室の教授に就任となる。全国を行脚し、精神病者の処遇調査を行った。大正七年『精神病者私宅監置ノ実況及ビ其統計的観察』を発表する。「ワガ国十何万ノ精神病者ハコノ病ヲ受ケタルノ不幸ノホカニ、コノ国ニ生マレタルノ不幸を重ヌルモノトイウベシ」帝国議会で議論を呼び、大正八年『精神病院法』の成立となった。

呉秀三と門下たちの手で、日本の精神医学は、基礎を築かれた。精神医学・精神医療・福祉等、全分野にわたる。基礎に従事したなかの一人が斎藤玉男である。



 

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