『群系』 (文芸誌)ホームページ 

32号 絵画・音楽・映画・都市ノート



《絵画ノート》


  マグリットの『これはパイプではない』  


荻野 央



 ベルギーの生んだシュルレアリスム画家の最高峰、ルネ・マグリットRene Magritte (1898-1967)。は数々の名作を台所というアトリエで、幼馴染の妻と語らいながら筆を取っていたという。スーツを着込み約束はきちんと守る、普通の人であった。

 この絵はとにかく鑑賞者の首をひねらせる。描かれたパイプはそれと分かり説明文章も分かるが、さて全体が分からない。注意すべきは説明文章が絵の外ではなく内部にあることだ。否定する説明文章が「描かれた」ものとしてパイプに並存し、矛盾する両者の、絵の内部の闘争が起こっているというわけである。また、描かれたものの造形力と説明文章の指示力のタイトな融合的な関係が壊れていることから、マグリットの本来の狙いが、描かれたものの言語化と言葉の絵画化というそれぞれの「役割」の逆転にあると思う。

 前者は、描かれたパイプが模写を通して得る「幾何的な合同」への志向が否定されてーパイプの実体へ向かう努力が否定されてーパイプに似ている「もの」に向かい、絵画的な認識は疑われ絵筆の運動は、類似を通して幾何的な相似形への志向へ変容すると言う説明を果たしている。また後者は文字が説明する意味を失って形象としてパイプに悪しく並存し、お互いを否定する闘争の印象を鑑賞者に与えて、前者の主張を弁証法的に豊かにしている。


   このことにおいて作動したメカニズムの解明はたぶん有効なものだろうし確実なものでさえあるだろうが、だからといっ  て一個の不可思議であることに変わりはない (マグリットの手紙)


 幼い頃に見た光景の詳細と瑞々しい心象(モティーフ)は素敵な相似形を絵画において、そして鑑賞者の思い出のモティーフは、なお一層美しく言葉において蘇生することになる。まことに「不可思議な」作用だと思える。

 くゆる紫煙は旧友との邂逅を、煙草の何とも言えぬ味わいは深くしまい込まれた家族一人一人への愛を、咥えた部分のぬめりは妻との愛の湿り気を想い起こさせることだろう。

 「パイプではない或るもの」は吸煙器の目的に叶う以上のことを叶わせる「相似的な」器具へ昇りつめ、絵画のなかの内乱において鑑賞者を夢想の快楽に連れていってくれるのである。





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《音楽ノート》


  「第九」の季節

                 

                             井上二葉



 十二月は「第九」の季節。

 ベートーヴェンの生涯は、貧しくて、病身で、孤独なものだった。彼は、音楽家にとって致命的な聾疾に加え、腸の病に苦しみ、また、重なる失恋の痛手、甥カールの後見問題の苦労など、悲劇的な運命の中で生きた。「ハイリゲンシュタットの遺書」を書いた事は、よく知られている。でも、彼は死を選ばなかった。森を散策し、自然と融合する体験を重ねることによって、自然の本質を掴んだ。その中から人間社会でも生かせる道徳を学び、「避けがたき」運命にただ絶望するのではなく、それを受容して克服する生き方を選んだ。

 「第九」は、悲しみの中から歓喜を歌い出し、人類への贈り物とするために作られた。自己の運命と悲しみに打ち克った勝利者の曲であり、苦悩する人々への最大の捧げ物である。ベートーヴェンは、「私の音楽の意味をつかみ得た人は、他の人々がひきずっているあらゆる悲惨から脱却するに相違ない。」、「悩みをつき抜けて歓喜に到れ!」と書き残している。晩年に作曲された「第九」は、宇宙の始まりから、第一楽章では「力」と「奮闘」、第二楽章では「熱狂的な乱舞」、第三楽章では「愛と憧憬」という、この世の三つの歓喜を表し、第四楽章ではそれらを否定し、単純で素朴な本当の歓喜の調べを奏でる。それは、「超自然的な静けさをもってひろがりながら、」悲哀を征服するように、しだいに高らかに奏でられ、最後は喜びに満たされてかけ出して行くような速いテンポで終わる。まさに「悩みをつき抜けて歓喜に到れ!」の言葉通り、運命を超克した精神的勝利が感じられる。

 ベートーヴェンはカントの哲学を愛し、「手記」に、「われらの衷なる道徳律と、われらの上なる、星辰の輝く空!カント!!」と綴っている。これは、カントの『実践理性批判』の中にある、「つねに新たなるいやます感嘆と畏敬とをもって心を充たすものが二つある。わが上なる星しげき空とわが内なる道徳法則がそれである。(中略)それらのものは私の眼前に見え、私の存在の意識とじかにつながっている。」という言葉を意識して書かれたものであろう。天体を動かす宇宙の法則が、自分の内にも在ることを感じ、星空を見上げて恍惚としているベートーヴェンの姿が、「第九」第三楽章に表されている。

 何故か年末に奏されることが多い「第九」。この曲の響きと冬の寒さはよく似合うと思う。人類に愛と希望と勇気を与えてくれたベートーヴェンの音楽を、今年も聴きに出かけたい。出来れば、同じ思いの人々と同じ音楽空間で共有し、新しい年を迎えたい……と毎年思うのだが叶わず、妄想だけで終わっている。いつかきっと。




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《映画ノート》


 愛される男優 高倉健

 


                         赤穂 貴志



 日本映画界の名優「高倉健」が文化勲章を受章した。

 俳優では、森繁久彌、山田五十鈴、森光子に続く四人目となった。

 昭和六年生まれの八十二歳。寡黙で困難に耐え忍ぶ姿は、日本人の心情にある「美徳」に訴えていた。その孤高の姿に「男惚れする」と公言するひとは多い。

 東映任侠映画全盛期、殴り込みシーンで気持ち高ぶる観客から「健サン!」と歓声が上がった。その男らしい風貌で立ち振る舞う勇姿は、「男はこうあるべき」という黄金律を完璧に具現化していた。

 そんな質実剛健さで男性たちに人気を博したが、若い頃はそれとまったく違う役柄を演じていた。

 小林恒夫監督『万年太郎と姐御社員』(昭和三十六年)では、会社員の営業マンとして登場するも、顧客の態度に激高してテーブルをひっくり返し、契約を台無しにしてしまう。小西通雄監督『東京・丸の内』(昭和三十七年)では建築士として登場し、設計事務所で机に向かい静かに図面を引いている。休日にはミックスダブルスでテニスに興じ、女の子と戯れ顔をニヤッとさせている。寡黙どころか饒舌で、粗野に振る舞う軽薄な言動には、カタルシスのかけらも感じられなかった。

 ところが、三十四歳のときに転機が訪れる。石井輝男監督『網走番外地』(昭和四十年)だった。血の気の多い若者像はそのままだが、不条理さに耐え最後に怒りを爆発させるという、後の定番スタイルがこの作品で確立された。その後、『昭和残侠伝』、『日本侠客伝』などの着流しものシリーズでは、義理人情に厚く理不尽な仕打ちに耐え忍び、やがて我慢の臨界点を超え破壊に突き進むという、様式化された人物を演じ、男性映画全盛期における高倉健の役者像が出来上がった。

 四十歳を過ぎた頃、松竹で新たなイメージが加わった。山田洋次監督『幸福の黄色いハンカチ』(昭和五十二年)、『遙かなる山の呼び声』(昭和五十五年)だった。過去に犯した行いに対する贖罪感から抜けきれないという、暗い陰を持った人物像を得た。松竹伝統の「男はハンサムだが、だらしない」のお家芸に乗り、「不器用さ」という新境地をもたらせ、女性たちの心をとらえていった。

 三十代で男性ファンをつかみ、四十代で女性ファンを虜にした。愛される男優「高倉健」は、この時代に魅せた残照を浴びながら、永遠に輝き続けていくだろう。


     




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 《都市ノート》


 明治・大正の遺構



                   永野 悟



 東京駅は誕生百年。辰野金吾設計の赤レンガ駅舎は明治四一(一九〇八)年着工、大正三(一九一四)年一二月一八日、東京中央停車場駅開業、東京駅と命名された。 

中央線の起点だった万世橋駅も辰野の設計で明治四五年に完成している。駅前には日露戦争の広瀬武夫と杉野孫七の銅像があった。大正一二年の関東大震災で全壊し再建されたが、その前大正八年に東京駅に中央線起点が移っていて役割は終わっていた(昭和一八年廃止)。

そもそも明治五年の新橋〜横浜の鉄道開設以来、東海道線の起点は新橋で、現在の東京駅前は陸軍省の用地で軍事演習が行われていた。明治一六年上野〜熊谷が開通、上野駅が開業。明治二二年には新宿〜立川が開通、明治二三年、秋葉神社跡地に秋葉原貨物取扱所が設置され、上野〜秋葉原が開通。明治二八には新宿〜飯田町が、さらに三七年にはお茶の水まで開通、四五年には万世橋まで開通、中央線起点とされたが、東京駅が直後起点となる。ちなみに山手線環状運転開始は大正一四年であった。

 大審院は以前丸の内にあったが、堅固な石作りだったのに、大震災で焼失した。大日本帝国(明治)憲法の時代、時の政府が全力を傾けた中央官衙(かんが=役所。官庁)計画の一環として、一八九六(明治二九)年に完成した。警視庁の日比谷赤煉瓦庁舎は、お濠沿いに一九一一(明治四四年)竣工したが、やはり関東大震災で焼失した(昭和六年に新警視庁竣工)。日比谷公園は、元陸軍の演習場だったところに造営された(明治三六年)。

明治三八年に「デパートメントストア宣言」をした三越は、大正三年には日本橋本店をルネッサンス様式に建て替えた。エレベーター、エスカレーターも設置されたが、これも関東大震災で焼失した。帝国劇場は明治四四年に完成していたが(震災後建替え)、そのパンフレットに載せた「今日は帝劇、明日は三越」の広告は有名になった。帝国ホテルはライト設計のものは大正一三年竣工で二代目、初代は明治二三年に建てられていた。

 浅草の凌雲閣(十二階)も明治二三年竣工され、浅草公園の象徴だったが、やはり関東大震災で破壊された(以前ここには「瓢箪池」があって、十二階を背景にした絵葉書で有名だったが、昭和三四年に埋め立てられた)。

 二月新しい歌舞伎座が竣工したがこれは五代目。初代は明治二二年木挽町の洋風の建物。漏電で焼失、二代目明治四四年完成したが大正十年焼失。震災後の大正一三年桃山造りの三代目が出来たが、東京大空襲で全焼。昭和二五年に先代の歌舞伎座が出来て長年親しまれた。





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