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<短評集>


 市原礼子詩集 『愛の谷』 

   [目次]

 T 愛の谷


   わからなくなる夜

   ミヤジ君

   命に別状

   口笛

   モンステラ

   目覚めのまえの

   日記

「日記」 <短評>荻野 央


"目覚めのまえの/肩のあたりに/ふわっと何かがおりてきた/ベッドもゆれたのに/なにもない

となりの部屋で/高いところから跳び下りる音が/ドサッ

ある疑念を持ってから/不安な気持ちがおさまらない/疑いを問いただす言葉も/口にできない/不安が臭いを発している

狭隘な世界の/きわめて私的な/日記のような詩

書き続けることで/生きていく力を育てる"


眠りのうちの「降りて来たなにかの感覚」「隣室の落下音」という幻聴感覚から派生しているかのような「疑念と不安」とは何だろう。「何だろう」と自問する言葉が口から出ることもなく、”特別な”匂いを放つと書かれると、これが一つの詩的興趣の”復活”の記念としてあるのだなと知らされる。

「愛の谷」という詩のグループに在るということから、空白の時間を突き破って現われた作者の情念のようなものを捕まえることができるから、狭苦しい日常から、瑣事から、日記のようにして言葉が詩に脱皮するのを祈っている様子がうかがえるのがよく感じられた。

作者の個人的な詩のルネッサンスというべきだろうか。


   天使の猫

   小さな死

「小さな死」<短評>荻野央


"オレンジはたおれていた/人がねむるように/わたしはとおりすぎた/さわることもしないでだから/オレンジはたちあがり/どこかで生きているのではないかと夢想する

死を確かめることなくとおりすぎた/だから 小さな死はどんどん大きくなり/どこまでもひろがってしまう

/小さな死が満ちている/みずみずしく いとおしく/まるでいのちのように/死の横には いのちが/いのちの内には 死が

果実が落ちるようにぽとりと/たおれていたオレンジは/わたしの内の死になって/わたしのなかで生き続ける

夏草の陰に/石垣の向こうに/側溝の下に/生きていることを夢想する/オレンジ色の子猫"


偉大な死ではない、近辺に転がっている目立たぬ死のことである。倒れているオレンジ、がとてもいい。球形に近い”かたち”に「倒れている」という動詞がくっついているので、読者は気持ちよく混乱する。

木なのか果実なのか。でもそれはどうでもいいことで、要はオレンジの色のほうが大切なのだ。とりあえず木と果実の”かたち”を思い浮かべながらオレンジ色を思うと、そこからフルーティで甘酸っぱく、とても健全な味わいの「純粋」な観念を得る。

この作品では、そのような純粋な観念は日常生活からくるものでありながら、死の表象としても使われているので、廃棄されたオレンジを想像してしまうが、でもそれは矛盾している。

歩く(生きる)者(人間)は振り返らないので、見えない後方に散らばる死の表象を、敷き詰められた夥しいオレンジ色の死を思う。だけど、死のつながる生の兆しなのだから、その人の内部に新たな生命として再生していくのを感じているのは自然なことだ。摂理の一部であるとでも言いたいくらいだ。

まさに健全なオレンジのように瑞々しいものがある。美しい詩だとつくづく思う。



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   愛の谷

「愛の谷」<短評> 土倉ヒロ子

 先ず、『愛の谷』というタイトルに惹かれるものがありました。「愛の谷」は一部に入れられている、市原さんの故郷がモチーフになっています。


   あいのたに・ 四国山系の麓の・ 相之谷・

   母の生家のあった・そこは・わたしの中では・愛の谷

   愛の生まれたところ・たどりつくには

   長い道のり歩かなければならない


  この詩は市原礼子の「詩の源泉」のような気がする。人は愛なしでは生きることはできないだろう。しかし、愛のそばには

 危険な「谷」が口をあけて待っている。『愛の谷』というタイトルが人生を象徴している言葉であることが、この詩集を読んで

 いるうちに胸にせまってくる。


   たしかめに行かなければ

   愛の谷へ

   生き直すことができるなら

   だきしめてあげたいから


   だきしめてもらいたいから



  最終フレーズの、何と哀切なことよ。過ぎた時は取り戻すことはできない。普通の人々は過ぎた過去を心の奥にしまい、悔恨とためいき

 のうちに歳をとっていく。しかし、詩人は「愛の谷」へ危険をおかして何度でも帰ってゆくだろう。「私」の存在を確かめるために、私を生んで

 くれた人を確かめるために。


  この詩集は、さりげない日常に「生」と「死」がしのびこんでいる。それは、市原礼子が人一倍、愛情深い故かもしれない。愛の深いひとは

 喪失も深く受け取ってしまう。人は生まれた時から、死に向かって歩いているものだが、通常は、そんなことは忘れている。また、忘れる 

 ために、様々な遊びを工夫してゆく。詩人は宿命的に、嫌でも「死」に向かいあってしまうのだろう。

  猫をモチーフにした数編も市原礼子の愛と「命」のふれあいがあり、思わず自らの鼓動をさぐってしまう。と、このように『愛の谷』は生きている

 ことを確かめる詩集ともいえるかもしれない。


    祈り

   私の幼年時代

   がんばったね 妹順子へ

   薬がすき

「薬が好き」<短評> 間島康子

高齢化社会のよくある事象の一つを捉えている。実は深刻な問題であるはずであるが、

夫と妻、そして義父を登場させ、あえて軽く、ユーモアを交えて描いている。

 この詩のどこにも、いわゆる詩的な言葉、表現は使われていない。一行一行が平易なことば使いでありながら、日常会話の饒舌に陥ることなく、無駄なことは自然に省かれている。そのために、読者は行間に出来事を想像することができるし、徒に余分な感情を強いられることがない。

 薬が好きだった(それはおそらく本当だったに違いない)義父の心情も理解できる気がするし、路上で倒れて逝った最期も、多分その人らしいものではなかったか。そうして、義父の存在はこの詩集の一篇として刻まれ、読まれ、『愛の谷』の愛のひとつとしてふさわしいと思う。


   ポプラの梢

   夜のおつかい

   青池

   石碑

   カンモンセ

   無音の空



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 U 遠い杜

    遠い杜


「遠い杜」について  <短評>荻野央

"空の片隅をめざして/への字のかたちで帰っていく/鳥たちよ/あの方角に わたしの/残してきたものがある

わたしは ほとんど忘れている/わたしは 急に思い出す/降るように 降るように戻ってくる

黒緑色の木の群れ/光りざわめく枝葉の下/柔らかく かぐわしいものを抱いて歩いた/わたしのお気に入りの散歩道

明るい色に塗られた遊具のある/小さな公園への通り道/しかし そこは/死者の葬られる場所でもあった

わたしのうでの中で青ざめて/息も絶えようとしているのだろうか/それとも 葉陰で すやすやと/眠りにおちているのだろうか

生と死の両方を胸に抱いているのに/それらは双子のように/よく似た顔をみせていて/見分けることができなかった

暗い杜 明るい杜/死者達の眠る杜/空の片隅をめざして帰っていく/鳥たちよ/あの杜は いまでも/風に 揺れているか"


鳥たちが帰って行く「空の片隅」に「残してきたもの」は何だろうか。その場所を目指す鳥の群れに呼びかけているのはどうしてか。のっけの連から「躓いて」しまい優れた詩の予感があった。ここに、読み手の詩的瞬間が訪れる。


あまりにも遠くて見えない場所(空の片隅)が、死の場所と思われるとき、見えないからこそかえって、忘れたり思い出したりする出し入れ自由の度合いに応じて、何処にでもある風景(たとえば公園みたいな)に変化して再登場する、ひいては日々の生活の細かなポイントすべてに「死の場所」が被さって来る。杜の遠さとはそのことだろうと思った。とてもスリリングな展開である。息絶えているのか、眠っているのか分からないあらゆる存在は、生きることと死ぬことの二つの意味を包括してそこ(遍く近辺)に存在しているということの促しの詩である。


両者は双子であるかのよう、とした詩趣は、なにか根元的なものの見つめる姿勢か、捉える視線の確実さを感じさせる。またその場所が揺れているかどうか、つまりいまだに二つの意味が生き生きと生々しくあるのか、と問う姿勢で作品は終わっているけれども、この生々しく感じたことは作者ひとりで決めることではなく、ひろく読み手にその決める自由を与えているのが自然になされているすぐれた作品だ。


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   槐戸(サイカチト)橋

   通勤風景

   帰る場所

   窓から覗く者

   坂の街

   別れ

   跳んでくる声

   夏休み

   家族

「家族」<短評>荻野央

…いつもの朝の「行事」のようなものが終わると、誰も家にはいなくなるという感覚。つまり主婦である作者の姿が消えて、お母さんと呼ばれることに無視する態度と合わさって、自分と最も密接な家族の紐帯を立ち切ろうとしている。そこから自らの深みに沈降して、真夜中の目覚めに繋がっていくところが、鋭く日々を意識の中で更新していく感覚が得られる。この鋭く尖った自己意識は、いつか「危機感」を懐胎するのではないか、と期待してしまう。


   リビングルームの一日

「リビングルームの一日」<短評>荻野央

…深夜の零時を越えて日々の更新がおこなわれる。夜に取り出されたわたしの心が、その日の買い物の物品を収納している。これは朝の冷蔵庫にイメージが並行しているので面白い。収納した自分と、自分ではない冷蔵庫の客観的な在りようが並行していくと、家庭の「食」の礎の中心である母・妻たる「私」の「分化」が、その意味において「危機感」を孕んでいるからだ。本来は分化は無いのだが。そこが魅力になっている。


    ねがい

   ある風景

   母の幻想

母の幻想<短評>鎌田良知

 『あとがき』を拝見しました。詩集に触れたくなり、肌に触れるまま眺めていま

した。嬰児が母を探すみたいな行動ですね(本当かな?)そして、最初から最後

まで、一息に読み通しました。


『母の幻想』が木霊して離れなくなりました。


十六年前、妹が次女となるはずだった児を死産した時のことを思い出していまし

た。臨月の夜、「ぴたりと動かなくなった。体がおかしい。」と入院の知らせ。

駆けつけました。分娩室に向かう妹には一言だけ。「だいじにせえよ」


望ちゃんが白衣の私に語りかけます。「オジサン?お母さんから聞いたけど、

ちょっと変。何かあったの?」「オジサンはね。左半分がなくなってしまったん

だよ。望ちゃんがね。なくなった半分なんだ」「ふ〜ん。そうなの?」


女性は胎児の間に卵母細胞を形成し、次世代に伝える遺伝子と体を形成する基体

となる細胞質の割り当てを終えて、生まれてきます。ご長女は、母となる支度を

整えて生まれてきました。病の遠因は、作者が母の胎内にいた頃に遡りますが、

病は世代を超えた時と場の連綿と錯綜を作者にもたらしたのでしょうか。


『母』は『幻想』の三重奏だったのでしょうか。


母という営みが途絶えるということ。男性には、頭では理解できても身体の感覚

でわかることはできません。


最中にいるということ。言葉は近づき遠ざかるだけ・・・無花果と月見草が象徴

的です。


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    月光

   一枚の絵

   望・レクイエム -娘に−

「望・レクイエム -娘に-」<短評> 間島康子

 この詩で特に胸を打つのは、三連と最終連である。

  外では 雪が 降り続いていた

  少女の頃には あんなにも

  お祈りをしたのに

  わたしは 祈ることを 忘れていた

 人が(母が)、身を分けた幼子を失うかもしれないという恐れに慄いている時、すべては

圧倒的に無意味になる。茫然自失。「雪が 降り続いていた」のは事実だったかもしれないが、それは後付けとすることもできる。かんかん照りであっても同じことだったろう。

 「わたしは 祈ることを 忘れていた」ことこそが、母の真実だったと思う。

 最終連

  失われてから 存在する

  生きていた あかし

 あまりに短い生でしかなかったことは、悔やんでも悔やみきれない、痛ましい事である。この世のことは決してフェアにはできていない。命が短かった分、その児の存在は、深い嘆きとつり合うような珠のような輝きをのこす。この世のことは意外にフェアであるのかもしれない。早逝した娘は、母の中で有無を言わせず、より強く生きた証しを残す。

 「露っ子」、「翼っ子」という言葉はきれいな言葉だと思う。


    ある夜、わたしは

   雪の降る日


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