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野寄勉 伊藤桂一の「屋敷町にて」
伊藤桂一の「屋敷町にて」
野寄 勉
奇しくも関東大震災から、ちょうど九十年となる二○一三年の五月、関東大震災後の復興事業で建てられた同潤会アパートのうち、現存する唯一の「上野下アパート」(台東区 東上野5-4)が取り壊された。一九二九(昭四)年に完成した四階建ての二棟・76戸の「上野下アパート」は、家族用と単身者用、店舗用の計七十五戸と集会所で構成され、各戸には当時としては珍しかった水洗トイレが設置されていた。下町空襲の焼失から免れたものの、老朽化し最後まで暮らしているのは十人に満たず、所有者で構成する管理組合は昨年四月、建て替えを決議。二○一五年三月には、大手不動産会社が建設する十四階建てマンションが完成する予定である。
東京や横浜の十六か所に建てられた同潤会アパートは、当時最先端の技術が用いられた、耐震性、防火性に優れ、近代設備を備えた美しいデザインを持つ、欧米並みの鉄筋コンクリートアパートである。十六か所いずれも外観はもとより、街路を意識した建物配置の妙に加え、間取りやインテリアの細部に至るまで多彩かつ緻密に計画された、日本初の「都市型文化的集合住宅」であった。戦後、居住者に払い下げられ、八十年代以降、建て替えが本格化する。東京都が所有した「大塚女子アパート」が二○○三年に解体され、「青山アパート」は二○○六年、「表参道ヒルズ」に建て替えられたのは、記憶に新しい。
アパートメントばかりが知られる同潤会(内務省社会局が設立した財団法人)であるが、最後に着手したのが、木造一戸建ての分譲住宅であった。同じような家が並ぶ単調に陥る弊を防ぎ、一戸一戸が少しずつ違いつつも、街並み全体としての統一感や美しさの追求は、アパートと共通している。
震災を機に、今までとは違う街並みを展開しようとする動きは、同潤会だけではなかった。〈二○一三年は田園調布の分譲が開始されてから丸九十年になる。〉と三浦展(あつし)の『東京高級住宅地探訪』(2012)では、その前年になる一九一二年に洗足と桜新町が分譲されていたことを重ねて指摘する。
それらを購入できるのは、現在から見れば上流に近い人々であり、当時開発された住宅地は、しばしばお屋敷町と呼ばれた。東京西郊に住宅地が開発され始めた一九二○年代の東京は、市内の人口増大に加えて、一九二三年の関東大震災が、都心から郊外へとホワイトカラーの人口移動に拍車をかけた。動勢は都心より東側の低湿地には向かわず、西側に広がる、風が爽やかに吹き抜ける高台が目指された。
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次に掲げる「屋敷町にて」は、伊藤桂一(1917〜)の第一詩集『竹の思想』(1961)に掲載されている。初出は不明。郷里・三重に復員後、再上京した一九四八年五月以降、小出版社に勤務していた一九五○年代の作と思われる。自編年譜の一九五六年の項には〈この年、詩誌『果樹園』『光線』『詩苑』等に詩を発表。〉とあり、このうちのいずれかに発表されたものと思われる。
屋敷町にて
用水桶のなかにどうかすると魚が飼い忘れてあるような閑静な一廓をさっきから私は歩いている 貧しい私の生得は こうした見事な邸宅の外観に対してさえつねにつめたい眼をむけるのだが、そこの塀の上から薔薇が咲き溢れていたり ここの瀟洒な門構えのあたりに垣根の新芽が匂うていたり そうして妙に明るい樹々の風鳴りを聴いていたりするうち になにやら頭の奥がひりひり寂しまれてくる たとえば私が一生かかっても到底もち得ない夢や財産やそれにともなう 一切の精神の裕福やがこのあたりでは実になにごともなく茶飯の行事として繰返されている 乏しい生業の糧のため にこの六月の新緑の底を汗ばむ額を拭ってはどうしてもみつからない一軒の目当の家を探しつかれている私 そのくせ この一廓にはふしぎな余裕があってそこを吹き抜けてくる風が私に対しても平等な涼しさを与えてくれる 素直な羨望 のこころでこうしてぐるぐる廻っているうちあまり立派な邸宅ばかりなので遂には元来た道を見失いゆきあたりばったりの 石垣を曲ってみたりして風雅な門札を見あげたりする けれどもこのどこまでも奥行のある迷路のような一廓はいつし か富むことのかぎりない美しさを私の頭にしいんとしみこませる――。
詩の眼目は、生得の貧しさから富裕層の暮らしぶりに〈つめたい眼をむけ〉はするものの、実に〈素直な羨望〉――が妬みや嫉み、やっかみを付着させずに披瀝されていることだ。東京に限らず、昭和初期、各都市部に形成された屋敷町に、庶民層が抱いた思いがうかがえる。冒頭、住宅地の閑静さが〈用水桶に飼い忘れた魚〉に喩えられていることから、空襲の被害を蒙っていないでろうことをうかがわせる。
〈素直な羨望〉は詩心を揺さぶる。幼児の頃から、羨望の対象とシンクロしたくなる情動が、絵であれ歌であれダンスであれ、自分でもそれを表現したくなるそぞろめきを誘発させるものだ。どうやら〈私〉はそんな魅力に富んだ空間に、紛れ込んでしまったのだった。ゆとりと安定を保障する〈精神の裕福〉を浴している暮らしぶりという、自分と自分の周囲には存在しない〈ふしぎな余裕〉とは、〈平等な涼しさ〉でもって外来者の私にも〈吹き抜けてくる〉。その心地よさが漂う、明るいラビリンスの彷徨は、たとえそこに住まう者でなくても、否、部外者であればなおさら楽しい。下層民の居住エリアにも迷宮はあれど、そこは往々にして薄暗く、風は吹き抜けないから空気は澱みがちである。もとよりこの彷徨は風情を楽しむための漫歩ではない。〈乏しい生業の糧のために〉〈一軒の目当の家を探し〉てはいるのだけれど、〈どうしても見つからない〉からにほかならない。当時の桂一が小出版社の編集部員であったことを忖度すれば、ある大家に原稿を依頼するためといった理由が想起される。探し求めているもの(――こんな暮らしぶりの自分――も?)が見つからない代わりに、〈私の頭にしいんとしみこませる〉、〈どこまでも奥行のある迷路のような一廓〉が奏でる〈富むことのかぎりない美しさ〉が見出されたのであった。
昭和の高級住宅も、同潤会アパート同様、消えつつある。それらにとって代わって林立する高層マンションは、外来者の徘徊を、オートロックで遮断して、生活のたたずまいを他者に一切見られない遮断・遮蔽とは、どんな詩情を誘発させているのだろうか。
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