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小野友貴枝 ハッピー  



 ハッピー 

                  小野友貴枝   


                

            (1)


 一昨年秋、新高円寺に住む姉から「ドロボウが入った」という電話を貰った。「でも、通帳ぐらいしか盗られないから大丈夫」とも言う。

 悦子は、間延びしたその電話に、なんとも言えない違和感を持った。それ以前にも、姉との話が噛み合わないこともあって、「おかしい」と首を傾げることは何回かあった。

「ねえ、美代ちゃん、ドロボウは何を盗っていったの、警察に話した」

「いや、何にも盗っていかなかったから大丈夫、ただ引き出し、箪笥をひっくり返していった」

「いつ?」

「いつかわからない、ほらカラオケから帰ったら、部屋中乱雑にばらまかれていた」

「茜に言った?亮一も知っている」

姉は、三人の子持ちで長女の茜と次女の萌は、結婚して家を出ている。真ん中の亮一は家にいるがこの急場は役に立たないだろう、彼は小さい時から自閉症っぽく、診断はLDで、障害者手帳を持っている。

「これから言う」

「すぐに言ってよ。私が行こうか」

 姉はいいと言う、茜に連絡すればすぐに駆けつけるから、と言って電話はすげなく切れた。

それから2,3電話で話しあって、泥棒事件は事なきを得たが、この際、姉の様子を茜に伝えておかねばと思って、悦子は電話を入れた。

「美代ちゃんの話、どこかおかしいよ。何回も同じことを言ってくるし、あなたにかけたつもりだと言って、私にかかってくるし、」茜は、悦子の言うことにピーンときたのか、

「そうなのよ、私には、悦子おばさんに掛けたと言うの、そんな電話が多くなって」

「美代ちゃんを痴呆専門病院に連れて行ってよ、診察が必要ね、」と、茜に頼んだ。

さっそく病院に連れて行ったという茜から、

「お医者さんから、痴呆が始まっていますと言われてしまった。これ以上進まないように予防薬を出しますので、栄養剤と言って上手に飲ませて下さい」と専門の先生に言われたという報告があった。

悦子が「美代ちゃん」と呼ぶ73歳の姉は、5人姉妹のうちの三女。悦子は末っ子の五女。美代ちゃんとは4歳離れている。母が48歳で他界しているせいか姉妹は、他人がうらやむほど結束力がある。その中でも美代ちゃんと悦子は故郷を離れ、東京と神奈川に住んでいるので、行き来も多く仲が良い。

初午を過ぎた盆地に、春の訪れを知らせるのは、水の温かさだ。芦ノ湖の2.5倍はあると言われる地下水は枯れたことがない。市民は水の恵みでこの地が関東一だと思っている。  

東京は寒いだろうと思いながら、上田悦子はダウンジャケットを着て小田急に乗った。

「たまには来たら」という田舎風な姉の誘いは、この5、6年なかったので、姉の様子を見られるチャンスといそいそと出てきた。向かう駅は、丸の内線の新高円寺。

「駅まで迎えに行こうか」とまで言ってくれる。

「大丈夫、きっと一人でもいけると思う」

 その日、悦子は急に、用事を思い出して町田に途中下車したので新宿に着くと約束の1時になっていた。新高円寺までは10分だが、姉の家まで15分かかる。30分の遅刻を姉は気にするかだろうとは思ったが、遅れるという電話はしなかった。

姉から携帯に電話が入った。「どこにいるの」と訊かれ、「今、新宿。これか地下鉄に乗ります」

「本当に一人で来られるの」まだ心配してくれている。なんか昔の姉みたい、このように心配してもらうことなど久しくなかった。

 新高円寺に着くと、国道に出る地下からの出口も、妙心寺のほうへ入って行く道も体が覚えていた。10年前、義兄が具合悪いときには何度も通ったので、忘れていなかった。商店街を抜け、住宅地から善福寺川に向かう坂を下って行く。そこら辺から小学校、幼稚園、大学のグランドがあり、若い声が中空に響いていた。

善福寺川沿いの平地、ここら辺一帯は元河川敷であったろう。

40年前姉は、川沿いの土地が気に入って、東京にしては珍しい広い敷地の建売り住宅を買った。立地条件の良いところで、家の前も後ろも、緑地公園になっている。ここはどのような条件でも、家が建つ心配がないという恵まれた環境である。姉は、買った時から学園の多い地域を生かし、2階を改造して学生の下宿屋をやろうと目論んでいた。

「美代ちゃん、着きました」という声を張り上げて玄関に立った。同じような造りの家が横並びに10棟並んでいるがどこの家も締まっていて、静かだ。

 家の造りは南側の窓いっぱいから陽が入る。姉は、こたつに入って南側の公園を眺めていた。整地された土地にはドウダンツツジやサツキ、ハナミズキが植わって、芝生の中にはスイセンが咲いている。姉の自慢の眺望で、川向うの小高い公園まで見通せる。

「迷わなかった」

「大丈夫、義兄さんが亡くなってから一度も来ていないのに覚えているものだね、誰にも聞かずにすたすたと歩いて来た。この地域の輪郭を覚えていたから」

姉の家に通ったのは10数年前になる。そのころ、義兄ががんで病んでいて、その世話に悦子はセッセッと通った。若い時の恩返しのつもりで義兄の看病だけでなく、予備校生の賄いで忙しい姉の力にもなりたかった。

義兄が亡くなった後、姉が独りになってさびしいだろうと、悦子が、「たまには美代ちゃん家(ち)に行くよ」と言うと、

「いや内の中が汚いから、片づけるのが大変。悦子はきれい好きだから、喫茶店かレストランでどう」悦子に対しても、「汚い」と悪口を言われないように予防線を張っていた。

悦子は、姉に会いたくなると新宿の喫茶店かレストランで落ち合って長話した。都会の人ならこれは普通のことであったろうが、悦子にとっては寂しかった。


「何呑む、お茶、コーヒー」

「温かいものなら何でも」

「じゃ、コーヒーにしよう」と姉は言って立ちあがった。

「温めておいたの」出してくれたコーヒー缶は手に熱い。

姉はもっとなんかするかなと思ってみていたが、またスポッとこたつ潜ってしまった。

「元気で何よりね、」と悦子が言うと、

「元気よー、ずっと元気だもの、医者にも行かない。毎日忙しかったけど、最近は寒いので午前中は散歩を中止しているの、だから暇。暇のせいか、悦子の顔が見たくなった」

「ありがとう、本当に久しぶりね」

 姉は、トータルネックのインナーにピンクのカーデイガンを掛け、よそゆきのズボンを穿いて足を投げ出している。


炬燵の周りにある戸棚、引き出し、整理箱から、入れたものがはみ出ている。悦子が訪ねることになって、姉は片付けたのだろう、俄かごしらえがよく分かる。炬燵の上にはパッケージに入った惣菜が4,5品おいてあり、コップやお菓子とごちゃごちゃ混じっている。昔の姉なら食べ物だけは大切に仕舞うだろうが、気にする様子もない。

さらに、意外だったのは姉の表情が60台の時のまま目下のたるみがなく、頬もふっくらしていることだ。顔に小皺がないのは毎月STサロンに通っているからだと、自慢するだけある。

「気分が良さそうね、美代ちゃん若いわ、なんかいいことあったの」

「なぜ?」

「なぜか、今までの美代ちゃんでないみたい、のびのびしている。不思議な感じ」

「カラオケ仲間はみんないい人よ、夕飯は、その人の家に行ってみんなだ食べる、それは美味しいの」

「それだけ?」

「茜が2階のアパートのことはすべてやってくれる。週1回は来てくれるの、毎朝、薬飲んだ?と電話が来るの。しっかり者で本当に役立つ」

 茜は2階のアパートの管理をすべて引きうけてくれた。姉が独りで管理していた時にはトラブル続きで大変だったと茜から聞いている。

「薬飲んでいるの」

「茜がいいところから買ってきてくれる栄養剤、よく利くよ、それでいつも元気。そうだ悦子も飲む。今から聞いてやろうか」

 姉はすぐに立って電話で茜を呼び出した。悦子がここに来ていることを告げた後、受話器をこちらに向けた。

「悦子おばさん、承知でしょうが、お母さんには栄養剤と言っていますが、本当は痴呆の初期の薬です」

「分っています。じゃ、私にも今度送って頂戴。飲んでみます」と自然な感じで応答した。


 隣の部屋から長男の亮一がドアをノックする。

「悦子おばさん来ているの、こんにちは」と顔を出した。

開けたドアの上に頭がつかえるのか、背をこごめて入ってきた。亮一の部屋と、姉の部屋は、同じ間取りで、南の居間から出入りできるが、姉が不在の時は鍵を掛けてしまう。

義兄の死後、予備校生に貸していた2階を改造し、ワンルームのアパート4世帯用に作った。1階は、広い食堂を潰し、東西真っ二つに区切って、東は亮一の居室、西は自分用にと玄関、トイレ、風呂まで全く同じ間取り。将来亮一が独りでも生きられるようにと、自立させている。

 元気よと言う50に近い亮一を見る。若い時と同じ恥じらいを含んだ眼をして視線を合わせない。

「叔母さん、ぜんぜん変わりないね」と、悦子に下向きな声で挨拶する。

言葉少ない亮一に代わって姉が助ける。

「なんでもしてくれるから、助かるのね。買い物がうまいのよ、遠くまで行って、重いものも運んでくれる。いやな顔しない、ネ、亮一」

 姉は、こたつに頬杖をついて亮一を頼もしげに見上げる。

「うん。買い物、嫌いじゃないから、僕、男だからなんてことない。家にばかりいて、なんにもしないよりは、母の役に立ちたい」

「ときどきはアルバイトするのでしょう」

「うん、経師屋さんが呼んでくれるから」

「亮一は器用だからね」と、姉がほめる。

 亮一まだ立ったまま手持無沙汰だ。長い手が邪魔なのか、目の前で結んだまま。肩を落とし、前こごみの姿勢は、ずっと見なれたものだ。

「悦子おばさん、僕が飼っている小鳥見せようか」

 小鳥を見せたくて座れなかったのだ。さっそく、悦子は「見せて」と明るく応じた。

亮一が飼っている小鳥を見るのは初めてだ。昔はいろんな人の肖像画を描いていて、その出来栄えを姉とともに、才能があるかもねと期待したこともある。たしか、絵画教室に何年か通っていたはずだ。

「おばさん、これがインコ、文鳥、オウム。こっちはハムスター。もう一つの籠は、モモンガ。昼間は眠っているが、夜になると動きだす」

「へえ、驚いた。みんな名前がついているのね。シンバル、これはカスタネット、マリンバ、カリヨン、打楽器の名前をつけたの。名前の下には、何と書かれているの、原産地、いや買ったときの店の名前。日付と年齢も」

 鳥籠の周りに紙が張りつけられすべてカタカナで書かれている。

「いろいろ忘れないように、書いておく。買ったときの日付まで」

「手入れしているのね、きれいな羽」

「おばさん、文鳥、卵をかえしているのだ。3個温めている」

 少年のような澄んだ声をだす、この声を聞けば誰も亮一を邪険に出来ないだろう。

「いつ、孵るの」

「知らない、でももうすぐだと思う。10日ぐらい温めているし」

「楽しみね、赤ちゃんができたら、どうするの、この中で育てる」

「一緒に育てる。大丈夫みたいよ」

 悦子は、姉の方に向き直って、「亮一さんすごいね。小鳥をかわいがっているのね」

「楽しそうだから放っておくの、毎日よく世話をするしね」

 亮一が小鳥を育てている姿をみていると、姉が昔、メジロを山から捕ってきて、飼っていたことを思い出す。小鳥が好きなのは、母親譲りかもしれない。

「本人がやりたいと言うのなら、何でもね。モモンガは箱根の女友達から貰ったのね」

「そうだよ、10月には箱根に行くのだ」

「前からの人?」と悦子は姉に訊いた。

「前から?亮一はみんなに好かれるから分からない。2階の独り暮らしの人も亮一のことを可愛いがって、食事に呼んでくれるし」

 何かすべてがメルヘンの世界に入り込んだようで心地よい。姉の痴呆を心配しながら来たというのに、その心配どころか、悦子までがのんびり、陽当たりのいい居間で小鳥の声を聞いている。

義兄が元気な時、亮一を働かせようとして厳しく仕込んできたが、それは徒労に終わったようだ。姉は、亮一が高校を卒業しても働けないと、気付いていたから決して無理強いしなかった。そして、「一生この家で好きなことして過ごさせようと思うの」と姉が言った通りになった。

「おばさん、絵、見せようか」と、亮一は、得意な絵にも悦子を誘いたいようだ。

「今度でいいよ。もう鳥かごも仕舞いな」

遠慮っぽく正座している亮一に、姉は、一つ一つ声をかけて動作を促す。

「美代ちゃん、食事どうしているの」

「朝は、生ジュースを作って亮一と一緒に食べる。亮一もご飯を炊いているから、夕飯は独りで食べられる。2階からも声がかかるし亮一の心配は朝食だけ。私は、昼はほら、カラオケ喫茶店で食べるでしょう。夜は、カラオケの帰りに一緒になる男の家で食べて行けと言われ、食べてしまう」

「じゃ、夕食はいつもそこで」

「300円は出すけど、それは美味しいの、家で作ったってたかが知れているでしょう。男の人の家では楽しい、みんなが集まるから」

「みんなって、何人」

「3人。茜も知っている人ばかりだから、心配いらないわよ。周りの人、誰も気にしていない、ここは都会だから」

「いいわね、食事作らなくても済むし、だから若いのかな」

「そうかもしれない、その人、元は料理を作るのが仕事だったからおいしいのよ。ここにある牛蒡のきんぴら、大根の煮物もみんな彼が作ったの」

 どれどれ味見しようと、箸を借りて食べた。先ほどまで、惣菜屋で買って来たものだと思っていたが味付けが違う。おいしい家庭の味だ。

「おいしいね」と悦子は感心した。

彼が残り物は、亮一の分と言って持たせてくれる。亮一も助かっている。姉は、男の人の手料理を食べさせてもらってキッチンに入ることまで止めたのだ。料理の好きな姉が一番先に出来なくなったのは冷蔵庫の片づけだと茜から聞いたことがある、そのとおりになった。

「いいわね、食事を作ってくれる人もいるし、アパートの管理をしてくれる娘、買い物してくれる亮一もいて、自分のことだけすればいい。お風呂は毎日入るのでしょう」

「入るよ、毎日でないけれど」

「洗濯はきちんとしなければね」

「大丈夫、亮一は自分のことは自分でやるから、心配していない」とまでいう。

姉は優しい声で「ネ、亮一」返事まで催促する。大丈夫、心配いらないという言葉が行き交う。かえって悦子の方が詮索しすぎだ。昔、これで姉に嫌われたのに、と悔やむ。

もちろん、このこたつ布団も座布団もしばらく洗っていない、姉の寝室にしている隣の部屋に折りたたまれた布団も煎餅蒲団のようで薄汚れている。亮一の髪の毛も脂ぎっているし爪も長く伸びているが、それすら姉は気にする様子もない。

姉はその間も穏やかな顔で、相槌を打つ。姉と亮一の生活がうまく噛み合っていることが分かって悦子もうれしい。10年前に見た姉の顔と全く違う、あの頃は、眉間に皺を寄せ、いつも気難しそうにしていた。亮一に掛ける言葉も厳しく、彼はいつも叱られビクビクしていた。この変わりようはなんだろうと思った。

「なんにも苦労がなくていいわね、安心した」と思わず言った。

「そうかしら」と頬を撫でる。「おかげさまで肥ったのよ」と。姉の苦労とはなんだったのだろう、食事作り、洗濯、掃除。いやもっとも嫌いなことは、片付けだったのだ。片づけを止めてしまった姉は取りすましてのんびりと、さっきから炬燵に入りっぱなしだ。

姉の一番のストレスだったアパートも薬の管理も茜がやってくれている。亮一の様子も見られたし、悦子の出る幕はない。安心して帰れる。


「帰るね」悦子は立ち上がった。

じゃ、そこまで送るという姉は、玄関先でコートを羽織っている。

「さっきプレゼントした手袋をして行ったら」と悦子がしようとしたとき、すでに姉の手には厚手の手袋がはめられていた「暖ったかい」とうれしそうだ。

 姉が押す自転車の傍に寄って駅まで歩いた。

「ここにあった空き地は、全部大学のグランドになった。ほらあんなに高い柵に囲まれているでしょう」

 姉は学校の多いこのあたり、ポプラ並木が好きで、若い時は短歌にも歌っている。しかし、今はすっかり忘れてしまったのだろう。若芽が膨らみはじめたポプラの下を歩いても何も言わない。

「この保育園は茜が通っていたわね、私が迎えに行ったから覚えている」

「茜じゃないでしょう、萌でしょう。茜の時には手があったからあんたには頼まなかった」

「そうだったかしら」

「あの頃は、近くのアパートの予備校生の食事まで全部預かっていたのよね。20人近い食事を作っていたのだから、すさまじかった。手伝いのおばさんがいたけど」

「お義兄さんの借金があったから夢中で返していたものね、二千万円」

「夫は、仕事ばかみたいな人だから、事業をやっては借金をこしらえて、儲ける人でないのよね。仕事が好きだけど入れ込み過ぎで、いつもだまされる」

 姉は昔のことはよく覚えている。

「よく返したわね。二千万円も」

「それだけでないわ、そのほかにもあるのよ。女を作ったし、その経費、慰謝料もかかったわ」

「馬鹿みたいね、何年賄いをやった」

「あれこれ、30年ぐらい。そのせいか、いまでも挨拶に来る子がいる」

「お金も稼いだでしょう。良く働いたものね」

「そのおかげで、亮一が生きていけるように、郵便局の年金にも積み立てている。あの家は、茜が管理するように頼のむつもり」

「美代ちゃんは、やはり男(おとこ)美代(みよ)なのね」

「それ何?」と、姉は悦子を見て口を尖らす。

 姉は子供のころから男の子と一緒になって、ドジョウ掬い、うなぎの夜釣りをしておかずの足しにした。それだけでない、心臓の弱い母に、マムシを捕ってきて生きた心臓を食べさせ、マムシで、母が恢復すると信じていた。

「あ、ここは右に曲がる。そのほうが駅に近い」

 上りの丸の内線は、青海街道をくぐって、地下道に入る。

 地下道への入口を塞ぐように姉は見送ってくれた。自転車に体を預け、悦子に向けている顔は、若い時の姉のきりっとした表情とダブル。口元を締めて、首をまっすぐに立てる。悦子は思わず今降りた、10段近い階段を駆け上がって、「美代ちゃーん、また来ます」と声をあげた。急に真面目な顔が変わって、口をニッと、白い歯を見せる姉の一番いい笑顔。久しぶり、そして二度と見られないのではないかとさえ思っていた。その思い込みが強いので自分で自分に驚いた。

昔、東京へ、姉を頼って出てきたとき、学生寮に帰る悦子を、姉は地下鉄の入口でいつも見送ってくれた。その時、肉親と別れるときのつらさで胸がキュンと締まった。涙を見せないよう下を向いて階段を降りた。振り返ると姉も涙ぐんでいた。呼びもどしたいような未練たっぷりな姉に、悦子はどのぐらい慰められたかわからない。

今日の姉の手には300円が握りしめられている。夕飯を食べさせてくれる家に直行するつもりだ。だから今日の別れは辛くない。ボケはじめた姉に、好きな人がいるというハッピーなニュースを持って悦子は丸の内線に乗った。

新宿に向かう電車は、通勤時間前、数人乗っているだけで静かだ。

悦子は姉のそばにいた時の温かい気持ちに浸っていた。

だから、これから夫のいる家に帰りたくないと思いてきた。独り息子がいるときは、悦子にもそれなりに母の役割があったが、今は夫と二人だけで、いそいそ感がない。互いに年金者になって、同格になれたなはずなのに、居間を占領して威張っている夫と、半日でも一緒にいられない。悦子が長いこと仕事をしたからか、地域に知った人も少なく、彼女の居場所が内外にもない。もう少し姉と亮一のそばにいたかった。

去り際、「また、来(き)なよ、カラオケに連れて行ってあげる」と言われた言葉が耳に残っていた。

 

(2)

次は「カラオケ喫茶店」に連れて行くねという約束にそって、4月初め、新高円寺に向かった。

早めに来てね、というので、悦子は8時の小田急に乗り、地下鉄に乗り換え、歩いて15分のところにある姉 の家には10時に着いた。

「早かったのね」と言いながらも、すでに姉は、家の前で、自転車を出す用意をして待っていた。

「待っていてくれたの」と訊く悦子に、よく早くこられたわね、とうれしそうな顔をする。

「来ながら、桜がいっぱい咲いていた。特に短大の門の桜、大きくてすごい」

「今年は何回も見に行っているから、珍しくもない」

「カラオケは午後からでしょう、まだ時間があるわよ」

「まだ、早いかしら」とつぶやく姉の背中を押しながら玄関に入った。

 湿っぽい臭いのする玄関は相も変わらず、物置になっている。靴は二、三足あるが、大体が野菜置き場だ。新聞紙に包まれたネギの薹が立っているし、三和土には芽の出たジャガイモが転がっている。

 炬燵の片方に座った姉は、話に乗ってくる様子もない。薄地のインナーにカーディガンという姿は、この前、2月に見たときと変わりがない。いつも着慣れているものを着ている感じで、喫茶店に行くからと外出着に替える様子もない。

「そのままの格好でいいの」悦子が何気なく訊く返事に、「普通でいいのよ、特にね、毎日行っているんだから」

 開店は12時ごろと言ったのに、なんでお茶も出さずに落ち着いているのかと気になりだした。

「どこの店に連れていってくれるの」

「店、今日は喫茶店はやってないよ」

「どうして」

「どうしてか、訊いてみようか」

 姉は炬燵の上の受話器を取って話しはじめた。誰に電話するというのだろう、状況がよく飲み込めない。

「何時に行くのでしたっけ。喫茶店に」

 電話の相手は誰で、何を訊ねているのかもわからない。きっと、これから行くところを訊ねているのだ。

「悦子、電話に出てよ、何か今日はいつも行く喫茶店が休みなんですって」 

誰と話をしているのかも知らないまま電話に出た、男の声に繋がっている。

「妹ですが、喫茶店に連れて行くというので、早く来ているのですが、」

「ああ、今日はいつもの喫茶店休みでね、僕のうちに来る予定なんだ」

「お宅へ、それは、どうして」

「あれ、美代ちゃん、何にも言っていなかった。僕の家ですよ」

「ことによると、夕飯を御馳走になっている方、ですか」

「そう、山崎。車で迎えに行こうかと言ったのだが、美代ちゃんが自転車で来るというので」

「よく話が見えないのですが、そこから喫茶店に行くことに?」

「それでもいいです。とにかくこちらへ来て下さい」

いまいち話が分からないまま、悦子は、また美代ちゃんに受話器を渡した。

「早いけどいい?なんか妹は午後には帰りたいんだって」

 電話が切れた後、今日はどこへ行くのかわからないし、行ったとしても午後だからと言う。

「じゃ、お昼は?」

「お昼は、ここに買ってきてある」と言って姉は、コンビニで買ってきたパック弁当二つを片手で持ってきた。蓋がずれて、おにぎりが外にはみ出ている。冷蔵庫に入れておいたというが、食べ物としては粗末だ。

「じゃ、これを持っていこうよ。向こうで食べればいいし」

さ、さ、という感じでせかされ、外に出る。

「悦子はこっちの自転車に乗って」

「自転車でなければ、無理なところ」

「いつもそうだよ。ま、私についてくればいい、乗れるんだろう」

 昔、中学校も高校も自転車通学した姉妹、乗れないわけはないが、最近はあまり乗っていない。

 パックの弁当は、ビニール袋に入れて荷台に乗せた。食べられるかどうかはわからないが、持って行くことにする。

ペダルを踏み込んだとき、姉は「あ、忘れた」と言って、頭に手を載せた。

「ウィッグを、取ってくるね」

鍵と火の点検もして出た家の中にまた戻った。

「悦子、ウィッグって、言い難(にく)いよね。茨城県人は駄目。今だに『いとえ』の区別がつかない、カラオケで泣いちゃうよ」

 桜日和と言えるほど気温も上がって白々と晴れている。散歩にもピクニックにもいい日だ、姉は、穿きなれた黒いズボンに長めのカーディガンにインナーをブラウスに替えただけ。悦子は、薄いコートを着て、ウールのマフラーは手に持っている。ここからどこへ行くのかわからないが、そこから帰れるようにセカンドバックまで籠に入れた。

 週内の午前中、住宅の立ち並んだ道には、車も走っていない。道の真ん中をスイスイと、姉は走る。追いかけるほうは、下り坂ではブレーキをかけ曲がり角では自転車を降りる。家の周りに桜が咲いていればそこにも眼がいってしまうので、スピードが落ちてしまう。

 姉は角々で、悦子を待っていてくれる。慣れた道で、どこにも目新しさもなければ、よそ見する気配もない。

「けっこう遠いね」姉には遠いという感覚もなく、サッサッと前を走って行く。

 先を行きすぎた姉が、曲がる道の木陰で悦子を待っていた。

「もう、すぐよ」と励ますように言った。続けてペダルから足を下ろし、悦子と並んだ姉は、彼女のハンドルを握りながら、身近に話しかけてきた。自転車で走っていた道中、話らしい話は初めてだ。

「彼が先にプロポーズしたんだからね」と言った。

この言葉を伝えたくて姉は待っていたのだ。

 悦子は、意味不明のまま、姉の口元を見ていた。真剣な眼、気迫さえ感じる。

「やさしいのよ、なに言っても怒らないし、我慢強い。田舎によくいたじゃない、あんな感じ。うちの夫とは正反対、悦子の彰一さんも同じだろう、自分では働かないで偉そうにすぐ怒鳴る。うちなんか死んじまったからいいけど、悦子は大変よね」

「そうね、退職してやさしくなるかと思ったけど、家にいる分もっとひどい」

私は、姉にだけは夫のDVを正直に打ち明け、相談に乗ってもらっていた。

「威張り屋の男なんか大嫌い。私は、今ハッピーよ。さ、もうひと頑張り」

ハッピーと言って振り返ったその顔は、若い時に戻ったようになめらかな頬、卵型の顔に揃えたボブカットのウィッグ。高校の頃、悦子は姉に付いてどこまでも自転車を走らせられたことを思い出す。「男美代」と言われた少女期から脱した姉は社交的で、ボーイフレンドがいつもいた。悦子は付き人のように後ろから付いていく、ボーイフレンドと会っているときは、片隅で本を読んでいた。姉からボーイフレンドへの付け文の運搬役までさせられた。悦子が嫌だったのは、姉からの手紙を駅の改札口で、ボーイフレンドに渡す役。どの男性も背がスラッとして、面長なハンサムだった。

その延長線で姉は気風のいい七歳年上の、秋田県人と結婚した。十年前、義兄は深酒がたたって大腸がんを患い、他界した。

「男は、見かけじゃない、誠実さなんだ、今頃分かってどうということもないね、悦子も、見つけなさいよ、内緒にしててあげるから」

 悦子は、自転車を漕ぐのが精いっぱいで、姉の言葉の全部は聞き取れなかった。

「ここ」と言いながら二台駐車できる庭先に入った。陽を集めて黄色い蔦バラ咲いている。

「倒れると車を傷つけるから、もっと脇に」

姉が手振りで、自転車の置き場を教える。

「あ、いらっしゃい」と、出てきた山崎は、子どもが揚げるような凧型の顔をした普通の「おじさん」だった。ストライブのシャツから見たスタイルは、悦子の年齢に近い。

 窓際に炬燵のあるフラッとな部屋と続いてテーブルのあるリビング、そしてキッチンが奥にある間取りは簡素でよく片付いている。

 テーブルに勧められ、お茶がすぐに出た。姉の家ではお茶も飲まなかったので、のどが渇いていた。

「悦子、この人が山崎康夫さん。私とはもう長いの」

「カラオケで出会った人とか、言っていた方ですね」

「そうそう、夕飯もここで、食べる。いつも言っている、悦子、妹」

「よーく聞いていますよ。なんでもかんでもここでしゃべるから、みんな知っている」

「この人も独りもの、私も独りもので丁度いいの。やさしいのよ、何でも言うことを聞いてくれる」

「カラオケに行くのかと思っていました。美代ちゃんはこちらにお世話になっていたのですか」

「だってこの人も寂しいでしょう、奥さんがなくなってしまった。私も寂しいし、いいよね。ここで唄も歌うの」

 山崎は、炬燵の上に乗っているパソコンから、姉が歌っている場面を引き出してくれた。正月のつどいの時の様子は、かなり品のいい奥様という感じで歌っている。

「そう、美代ちゃんのリクエスト、全部入っている。これが覚えてきたリスト。50曲以上あるよね」

「私は、この人の機械に強いところが好きなの。なんでもみんなここに入っているの。長男も理工科出身」

 姉は、こたつにもぐって自分の歌を聴いている。

「この頃が馴れ初めかな、なんで下手なのにカラオケに来ているのかと思いましたよ」

「私の家系では美代ちゃんが一番歌がうまかった。高校時代もコーラス部に入っていたし」

「そうよ、私は歌がうまいのよ、そして好きなの」

 炬燵から顔を出しただけで、声を出す。どこかの飼い猫がなれなれしく居座ったようだ。

 姉と山崎の関係が心配になって、悦子の方が居心地悪く、いつまでもここにいていいのかどうか、落ち着かなかった。

 コンビニのお弁当を荷台においてきちゃったと、姉に言われ、悦子は外にでた。

山崎も用事があるのかついてきた。

「ちょっと、気になるのですが、美代ちゃんはいつもここに来ている、とか」

「そうだよ、毎日、午後になると来る。カラオケの練習と言っても大したことはしない。毎日どこかに行こうと催促する」

「もう長いのですか」

「そう4,5年」

「全く知りませんでした。今日は、美代ちゃんがカラオケ屋で、みんなに迷惑をかけているのではないかと心配で、この機会を作ってもらった。ご存じでしょうが、姉、少しボケていますよね」

「知っている。周りもみんな。きっと僕が一番先に見つけたのかもしれない。2年前、ドロボウが入ったと騒ぎ出したころだから」

「私もそれがきっかけで、それで姪に電話して精密検査を受けて貰ったの」

「僕は正常な時から知っているから、早かったな。でも病気が出たからと言って、迷惑かかっていないし、かえって何でもしゃべって可愛いよ」

「電話も多いでしょう」

「多い、受信記録を見ると分かるが、毎日10回から20回は入っている。今日はどこそこに行くと教えているのだが、すぐに忘れて電話が来る」

 悦子は、この1,2年姉からの電話が非常に少なくなったことを思い出した。山崎との電話で足りていたのだ。

「迷惑じゃないですか、美代ちゃんは、あなたからプロポーズされたというのですが」

「そうかもね。僕がなんで上品な奥様が、カラオケをやっているんだろうと思った。年齢は僕よりも若いと思った。ちょっと時差ボケのようにオッチョコチョイで、それが可愛いかったのかな」

「美代ちゃんは、結婚前はモテたのですが、結婚してからはかえって義兄の浮気に悩まされ、遊び人だったので苦労した。予備校生の下宿屋をやってお金も溜めたの」

「知っているよ、夫がハンサム、鶴田皓二に似ていたことも、悪いことも何でも良くしゃべる。姉妹のこと、早く亡くなられたお母さんのことも。亮君のことも知っている」

「そこまで。よほど心をゆるしているのですね。姉は案外見栄っ張りだから他人の家に転がり込むようなところはないんですが」

「夕飯を買い食いしていたから、それなら僕の家でと、決して彼女だけを誘ったのではない。他の人も交じって食べている。僕は飲食業をしていたから、料理苦手でないんだ。独りで食べるよりもおいしいし」

 姉は何よりも先に、キッチンに入ることができなくなったと、悦子は茜から聞いていた。山崎の手料理で、姉の毎日はハッピーになった、と言っても言い過ぎでないかも知れない。

「ここに毎日通っているとは思いませんでした。姪は知っているとか、あなたの息子さんもご存じとか」

「娘さんには僕から連絡した。うちの長男も知っている。僕も楽しいから、いいですよ。頼よられるのもいいものだ」

 長話になった二人の様子を姉は、カーテンを少し開けて見ている。慌てて山崎が内に入った。

「昼ごはんをどこで食べるか、悦子さんと相談していた」

「その弁当でどう、」

「いやこれは夕飯にしょうな、昼は善福寺川の桜を見ながら。食事は、どこにしようか」

「悦子、大丈夫よ、康夫さんといつもドライブしているんだから。そうね、お昼は割り勘ね」

「美代ちゃんは旅行が好きで、桜だけでも3回は行っている。すぐに連れて行けという」

「だって、康夫さんはやさしいんだもの。怒ったことがない。夫みたいに自分は動かないで指図をするような人ではない、実直で自分の力で家も建て、息子さんの土地も買っておいたの。まじめに働けばそのぐらい溜められる。私はだから付き合っているのよ。悦子も、康夫さんみたいな人をつかまえなさい。まじめな人が一番」

 姉の話は的を得ている。本心だろう、だからどこまでボケているのか、しらばくれているのかわからない。

「美代ちゃん、幸せね」

「幸せよ、康夫さんといると何にも心配しない」

 山崎は照れて、しきりに薄くなった頭頂部を撫でている。

「さて、自動車で行くか、華やがいいかな、美代ちゃん」

 山崎は、鍵を持って玄関に向かった。簡素に片付いた家内には、姉のスリッパまで揃えてある。姉の家の埃をかぶった玄関、ミカンやら、ネギまで腐っていた三和土を一瞬思い出した。

山崎の家に毎日通っている姉の姿は想像外ではあるが、「ハッピー」と信じている姉を、ソッとしておくのが 悦子の役割なのかもしれない。田舎の姉たちは、姉が入り浸っている男の素性を聞きたがって待っているだろう、今日ここに来たことを言うまえと決めた。

田舎の常識では考えられないハッピーな姉のいきいきした姿がバックミラーに映っている。

助手席に座った姉の後ろから、お人形のような栗色のウィッグを見ていた。そこには、私の相談に相槌打つ世話好きな姉とは違う、美代ちゃんがいる。

緑地公園の駐車場に車は停まった。大勢の家族連れが空地を埋め尽くしている。休日ではないが、桜を見るには最適な陽気で、桜も散り際で風情がある。姉は四回目だと言いながらも車から駆け降りて走った。

「悦子、こっちから行くの、」

 悦子は、姉のピンクのカーディガンを見失わないように、駆け足で追いかけた。

「すごいでしょう、満開よね。今年は寒いので散らないんですって」

「すごい、大きな桜の木ね。善福寺川沿いに、こんな桜の名所があるなんて知らなかった」

「でしょう、私だって、康夫さんに連れてこられなければ知らなかった。川の側はもっと凄いから、行こう」

 足がもつれそうになりながら、姉は器用に両手を振って走る。年甲斐もなく、早い。

「悦子、こっち、こっち」

 川岸に沿った散歩道を、行くあてがあるかのように、人をかき分けながら先を行く。

 善福寺川は、用水路のように切り込んで深く、川幅の狭い川だ。その上を桜の大枝が両側から、これ見よがしに迫っている。川がカーブするずっと先、見える限り桜で占められている。桜色だけでなく、青白、所所に、赤みのある枝も交じって花の饗宴。

「靖夫さん、おいで、ここが一番」

川にせり出した展望台に着いた姉は、空に届けとばかり両手を挙げて、タイタニックのケイトように叫ぶ。

声の届くところに山崎はまだ来ていないのか姿が見えない。

「康夫さーん」姉は、さらに大声をあげる。

 山崎を探す姉の眼は、傍で見守っている悦子を捉えていない。

置いてきぼりにされたような寂しさで、悦子の気持は萎えた。  (了)





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