『群系』 (文芸誌)ホームページ 

32号 澤田繁晴 牧野信一 近藤加津  鈴木三重吉





万策尽きたか? ―牧野信一                  澤田繁晴


鈴木三重吉と『赤い鳥』の周辺 ―宮沢賢治にふれて―  近藤加津








 万策尽きたか?

       ――牧野信一

                 

                          澤田繁晴



 「群系会報 第十八号」(平成25・8・2)において、幼少の私は「しげはる」という自分の名前をうまく発音できなかったために、名前の最初の文字「し」と最後の文字「る」だけを残して、自分のことを「しゃる」と呼んでいた、と書いた。これは本当の話である。田舎では、人を渾名といったようなもので呼ぶことが多いが、これは子供の世界でもよく見られることである。自然発生的で、誰が名付けをするのか明確になることは少ないが、本当の名前よりはその人の特徴をよくとらえていることが多く、感心する。例えば、〇○(家名)のオンジ(二番目の子)とか、〇○のゲンゴロウとか、〇○のお玉とかである。また、三角屋根(家名ではなく、家の特徴をとらえて)のバッチ(一番下の男の子)とか角(家の場所)のモラワレッ子とかである。

 小林秀雄によると、牧野信一は芥川龍之介と同じように「芸術上の理知派(アンテレクチュアリスト)」であるが、「芥川氏の理知は、その速度に於て、鮮明度に於て、遥かに牧野氏に及ばない」と述べている。

 

   作者の自意識を代表する主人公が、常に生生しくその全貌を描かれてゐるといふ点にある。自意識のみが描かれ  てゐるのではなく肉体をもち行動する人間としてえがかれているという点にある。……彼の作品が、艶を持ち、肉付き  がいゝ所以である。

 

 作中の主人公が、骨格だけの存在ではなく豊潤な肉をも備えた存在になっているということのようである。

 確かに、牧野の作品が芥川の作品よりも、良くも悪くも作中人物の内面に一段と入り込んでいることは分るが、それで、芥川よりも理知的であるかどうかということになると分らない。

 この度、私は、牧野の作品の朗読会が牧野の出身地の小田原であるということを聞きつけて足を運んだ。そして牧野の作品を黙読していただけでは分らなかったことにまで気がつくことになった。はっきり言ってしまうと「幼稚っぽい」のである。骨格だけでなく、肉も備えている故でもあろうか。これは素直な印象であって、朗読者の個人的な特性の故ではないと思う。朗読に黙って耳を傾けているとこの特色が徐々に顕著になって来る。そして朗読会が終って、夜になると私は、牧野が足を運んだお店とは関係はなかろうが、ある「小料理屋」のガラス戸を開けた。

 田舎での生活は、半ば子供の世界に似たところがあるのではなかろうか。牧野が生まれ育った小田原には、地理的位置からしても、町の規模からしても半都会、半田舎といった特色があるように思う。牧野は、このような地において人となったのである。それかあらぬか牧野の作品には、シャレたところと、土俗的なところの両方がある。しかし、ここで私が書こうと思っていることは、「子供の世界」の方のことである。さまざまな「しがらみ」がある故に、一人前の大人になり切れない「半他者」の並立からなりたっているかに思われる「子供の世界」のことである。牧野信一は、四十歳で自殺をするに至っ

たが、考えようによっては、子供として四十歳まで生き延びたのだと考えられないこともないのではなかろうか。


   一 渾名について

 

    このごろ私は、ときどき音(おん)取(どり)かくから手紙を貰うので、はじめてその音取という苗字を知った次第であり    ますが、それまではその人の姓名は怒山(ぬやま)かくー―とばかりおもうて居りました。ところが怒山というのは、その    人の村の名称だったのです。(中略)ともかく私は、この頃その人から手紙を貰って、音取かくーー・・・・・・それも定っ   て音取とあるわけではなく、音頭となったり、雄鶏と変わったりするのです。おかくに会って、私が名字を訊ねてみると   稍々暫く呆然とした後に、

   「おんどるだな」

   と答えるのですが、る(・)が、り(・)なのか、または他のものか決して聞き分けにくいのであります。

 

 おかくの倅は「ぶくりん」という渾名で呼ばれていて、手紙の文中では柚吉、柚七、柚太とさまざま書かれていて、改めて尋ねてみてもウヤムヤで、他の誰もそれ以外の正確な名前を知る者はいない。どうやら、おかくの父親(ぶくりんの祖父)がその渾名で呼ばれていて、分っていることは祖父に似ていたために子供のときからそのように呼ばれていたということだけである。これは何も「おかく」や「ぶくりん」についてだけ言えることではない。この辺りでは一般的に渾名の方で人は知られていて、「いつの間にか当人でさえも自分の本名を忘れている者さえ珍しくありません」ということさえ起っているようなのである。

 例えば、地元で唯一中学の課程を終えていて、消防小頭を勤め、「渾名廃止論」の急先鋒、風地改革運動に寧

日なき諸星源十の渾名は「湯あがり」であり、本編の主人公、水車小屋の現所有者である「私」の渾名は「トンガラシ」といった具合である。何故に「トンガラシ」になったのかは、他のことと同じように必ずしも分明ではない。「トンガラシの渾名は、何も近頃の私にはじまったわけではなく、赤子の時からそんな苦しげな顔をしていたものか、それとも頭の恰好でもが

唐辛子を髣髴させるのか、ともかくおかくに与えた私の印象がトンガラシであり、それはおかくの命名に他ならなかつたのです」ということであるようだ。

 また、おかくの代書をしている本名・石綿枝之助の渾名は「ぐでりん」であり、小説に取り上げられている主人公宛の手紙には、「強意見をもつてぶ(・)くり(・・)ん(・)の行状をたしなめて呉れ」となっている。このように言われるのも、主人公が「とも角(かく)一旦(いったん)はおかくの眷族(けんぞく)へ贈りたいと思っていることをおかくに察しられているからである。

 因みに、主人公の弟の渾名は「ラッキョウ坊主」、「ネギ坊主」であり、かく、「おかく」はこの小さな世界で、その第六感によって隠然たる力を揮っているようである。まるで、この世界の、隠れた(?)神のようにである。


   孫の田市は未だ十三なのだ。それともおかく(・・・)は田市と二人で水車を廻しながら、ぶくりんの料簡の入れ代るの  を待つ気なのか―一向にそこのところのおかくの考えも解らぬのであります。実にもうこんな無知文盲の始末の悪さと   来たらおはなしになりません。

 主人公は「無知文盲の始末の悪さ」という言葉で逃げようとしているようであるが、ことはそれ程単純ではない。これでは「子供の世界」を御することさえできないであろう。牧野に「父を売る子」という作品があるが、この作品は、距離的にも左程遠くない世界(「名古屋近辺」)を扱った杉浦民平の『ノリサダ騒動記』を思い起させる。

 もちろん、小説の登場人物はこれだけの渾名でおさまりきるわけではない。その他にも、次のような主人公にも訳の分らない渾名があるのである。ある時主人公は、このことに腹を立てて消防小屋での寄合騒ぎに顔を出す。


   私は、小屋の軒先に掛かっている消防係の札を月あかりに透かして、中の連中を順々に見比べるのであったが、小  頭の湯(・)あがり(・・・)を諸星源十と突き止めた他、ニワットリ(・・・・・)、ガラ倉(・・・)、泥亀(・・)、河童(・・・)の(・)金  (・)さん(・・)、鉄砲玉、屋根音(・・・)、ぐでりん(・・・・)等々と難なく十七、八人も数えられるのに、筒先係の新倉善   太が誰なのか、機械係の又岡又平、乙波孫十郎が誰なのか、どうしても見当がつかなかった。

 

 主人公にとって消防小屋は理解し難い別世界であったのである。

 ここに出て来るニワットリというのは、ぐでりんの兄であり、声が鶏のに声に似ている田地売買周旋業者とある。それ以上に重要なのは「月あかり」というこの小説のタイトルであろう。主人公には、この世界が、「月あかり」で見る程度にしか見えていないのである。信一は、ぐでりんの訳の分からない手紙を手にして、「人を玩具にするにも程があるぞ、面と向って訊いてやろう」 と思い、ぐでりんをそとへ呼び出そうとして「水へ飛び込むときのような大きな息を吸い込んで」消防小屋の扉を開けるのである。まるで、月あかりで見る「あたりの景色のようにどっちつかずの連中が、私は、心底から腹が立って来た」からであった。


   二、水車小屋


 冒頭で「田舎の世界は、子供の世界に似ている」と書いた。自己充足的なところがある、からである。また、子供には、自分のことをさえ、「俺は」などとは言わずに「〇○は」と自ら渾名で言うことがある。

 この小説は、「水車小屋」を巡る所有権闘争を扱っている。闘争などとは言えず、談合で済みそうではあるが、それぞれにその人なりの思惑があるのである。

 「湯アガリ」と「ぐでりん」の二人の話を聞いていると、「おかく」は、水車小屋を息子の「ぶくりん」に継がせるのではなく、  「ぶくりん」の子供、すなわち「おかく」の孫に譲りたいと思っていることが分ってくる。

 「ぶくりん」は、以前、主人公の家に属する水車小屋に雇われていたのであるが、「遊びほうけているばかりで」滅多に寄り付こうともしなかったのであるが、主人公は、「おかくへの義理合い」からもこの水車小屋を直ぐにも音取家へ進呈して「ぶくりん」の更生を考えているのであるが、「おかく」その人が自分の息子である「ぶくりんにやったら台なしじゃ」と言って、納得せず、孫の田市に譲りたいと思っているのだから事はスンナリとはない運ばない。

 この小説の主人公は、十五歳年下の弟ともども幼年の頃「音取かく」に育てられた経験を持つ。このことから推測するに、主人公の家と「音取家」は、地主・小作に似たような関係にあったように思われる。小説の後半において、主人公の名前が作家名と同じ牧野信一であることが明かされる。かく、牧野家と音取家は密接な関係に合ったようなのである。その割には「ぶくりん」の作成による手紙の文言は鷹揚なものである。


   牧野(・・)を槇野と書くのはまだしもで、どうかすると、槇島になったり、巻原と変わったりするのです。−名前と来る    と、信之介やら、新太郎とか真平なんていう風にこれもその都度まちまちなのです。それでも、お角は信一(・・)の信   の音(おん)だけは覚えているのかといくらか私が感心しようとすると、次の手紙では槇原英太郎殿と麗々しく認めら    れたり、英兵衛となったりしているのです。それもまあ、弟の英二郎、祖父の英清などの思い違いなのでしよう  

   が・・・・・・(傍点筆者。以下この小説の主人公の名前を信一と呼ぶこととするーー筆者注)

 

 「おかく」の記憶力に信を置けないのは明らかであるが、筆者は、「おかく」には、自分の息子に対して示す判断力をみると、第六感のようなものはかなりの程度供えていたようには思う。手紙の依頼主がかくあるからでもないであろうが、その次男である代筆業の「ぐでりん」も一筋縄では行かないような人物である。


   ぐでりん(・・・・)はおかくの前では孫のものにするから好かろうというし、ぶ(・)くり(・・)ん(・)をつかまえると、ともかくトンガ   ラシがそう云うんだからひとまず仮面(かめん)をかむってお辞儀をしておくんだな、こっちのものにさえなれば後は俺が    采配をふるって一儲けしてやるからーーと、売渡先の周旋を誓うことと云い、また湯アガリなどに出会うと、極力その   水車小屋は村の公共物にしよう、その間の運動は自分が引きうけたーーとばかりに出しゃ張るのです。


 水車小屋の委譲先としては、次の三つが考えられていた。

 @おかくの子の「ぶくりん」、

 Aおかくの孫の「田市」、

 B消防署(消防器具置き場として。「湯アガリ」がここに勤めていた。村の一部の意見として、公共物として寄付してもらおうという案)

 かく、小説は進めば進む程ますます錯綜の度を増して行く。主人公の信一は訳の分らないことに腹立ちを感じてはいながらも、半分は諦めているようでもある。この世には、理知だけではどうにもならないことも多い。日本においても、「理知派」の代表と思われていた二作家が揃いも揃って自殺することになることからもそれが分る。


   三、窮境からの脱出


 このことは何も人の生死に係わることだけとは限らない。

 「小説」としても同断であろう。坂口安吾の「風博士、蛸博士」に触れて牧野は述べる。[「風博士」 『文芸春秋 第九巻第七号(七月号) 卷末折込の「別冊文壇ユーモア」』昭和六(一九三一)年七月一日]


  風と云えばその中に斯んな個所があります。「諸君、偉大なる」博士は風になったのである。果して風となったか? 然り、風となったのである。何となればその姿が消え失せたではないか、姿見えざるは之即ち風である乎?然り、之即ち風である。何となれば姿が見えないではない乎。これ風以外の何物でもあり得ない。風である。然り風である。風である。風である。」

 「諸君、彼は余の憎むべき論敵である。単なる論敵であるか? 否否否。千辺否。」

 「かりに諸君、聡明なること世界地図の如き諸君よ、諸君は学識深遠なる蛸の存在を容認することができるであろうか? 万辺否。」

 私は、フアウスタスの演説でも傍聴してゐる見たいな面白さを覚えました。奇体な飄逸味と溢るゝばかりの熱情を持った化物のやうな弁士ではありませんか。    


      〇


 私もかつて、坂口安吾の「風博士」の真意をつかもうとしたことがなかったわけではない。しかし、なすべきことは安吾がそこで何を描こうとしたか、その意味を詮索することではなく、真になすべきことは同音意義語の「穿鑿」ではなかろうか。「意味」の探索ではなく、「意」の探索である。安吾はこの作品において、牧野が陥った窮境からの脱出をーー牧野が成し得なかった脱出を自分なりに試みたのである。第一の目的が「窮境」から抜け出すことであってみれば、意味などはどうでもよかったのである。たとえそれが香具師の口上みたようなものだとしたところでである。ただ、安吾にはそれができたが、変に小市民的な牧野にはそれができなかった。牧野自身は凧のシッポを自殺によってしか切断することができなかった。このヒントになるようなエピソードが牧野にある。牧野は、室生犀星の「弄(らぬ)獅子(さい)」(犀星の自伝的作品。養母との関係等を赤裸々に描いたと当時思われていた。その後、誇張もあったことを徐々に明らかにされるーー筆者注)を犀星の面前で激賞したようである。まさにこれこそが、牧野が成し得なかったことである。犀星の「牧野信一君を哭す」(『サクラの花びらーー牧野信一文学碑建立記念会誌』 昭和51・3・21)


   三度目(牧野と犀星が顔を合わせたーー筆者注)は、藤村翁のための記念会で会った。去年六、七月の早稲田文学に僕が「弄獅子」といふのを発表したが、牧野君は、その作を、まるで打ちこんで文学者の見識を投げ捨てたほめ方をしてくれた。僕は大いに嬉しくなつてゐた後であつたから、その会で隣席した時は好感をもつて語りあつた。

(中略)

 しかし、自殺は、牧野君で打ち止めにしたい。そんな弱いものが文学の精神の中にあつてはならないと思ふ。


 最後の一行などは、犀星の本音であろう。犀星は、牧野のような「お坊ちゃん」ではなかった。


              〇


 牧野は「変装奇譚」の中で、ゲーテの「ファースト」が出る二百年前のファウスト博士を持ち出して来ている。ファウストが「剃刀を用ひずして髯を剃る方法」を伝授する話である。これはその実、「液状になしたる砒石の素を」顔面に塗りつけるだけのことであったらしい。その結果は「面皮脱落病」という疫病の流行を見、面皮の脱落はもとより、「肉までも失われ、世にも浅はかな面貌とな」ったとのことであるが、杳として行方知れずのファーストの追跡は失敗に終っている。牧野をこのファーストに擬するのはかわいそうであるが、牧野は歌ったのみで、言葉を使うまでには至っていないと言えるかと

は思う。ダーウィンによると言葉は歌から発生したということである。小説の中での、主人公とダンサーの会話には次のようにある。


  「何てまあ景色の好い面白そうな田舎だらう、是非行きたいーーと何時も君が云ってゐる田舎・・・・

  ・・僕が其処の生活を歌つた詩を読んだ君の憧れになつてゐる」

  「伴れてつて下さる。嬉しい! 何時?」




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鈴木三重吉と『赤い鳥』の周辺 


          ――宮沢賢治にふれて――


近藤加津




 明治の末から徐々に変革を遂げてきた日本の児童文学は大正デモクラシーを背景に『赤い鳥』の文学運動があった。明治期の日本の児童文学が巌谷小波(一八七〇〜一九三三)によって代表される「お伽噺」に見られる勧善懲悪的読み物や孝子美談、教訓説話から、情緒豊かな「童話」へと転開されていく。


児童文芸雑誌『赤い鳥』は大正七年七月、鈴木三重吉(一八八二〜一九三六)によって創刊され、昭和四年三月号をもって休刊した。この一〇年八ヵ月間が、『赤い鳥』の前期の活動期であった。ついで昭和六年一月に復刊し、昭和十一年八月に終刊したので、後期の活動は五年七ヶ月で終わった。同年一〇月に「三重吉追悼号」が出ている。

当時、三重吉はすでに小説家として文壇に名をなしていた。東大英文科卒業で、在学中に小説「千鳥」(一九〇六)を書き、夏目漱石に推奨され、「ホトトギス」に掲載されて作家デビューした。その後九年余、執筆活動を続けた。

  その三重吉が、なぜ児童文学に情熱を傾けるようになったのだろうか。「赤い鳥運動の意義」中で、坂本一郎は「やわらかい文章を特徴とする文体が童話への移行を容易にした」とした上で、「三重吉には、児童読み物に対する関心が早くからあったわけではなく、当時雑誌の現状に義憤をいだいていたわけでもなかったようである。あきらかに、小説に行き詰まって、ふと窓外を見ると、未墾の原野があるのに気がついたというわけである。」と述べている。

これを裏づけするような書簡がある。大正三年五月三〇日付の、井本健作宛の葉書の一節に三重吉は、〈小生博文館の少女文学叢書とかいふものゝためにゴーティエの小説ホンヤク中。食へんと少女文学まで堕落していく。(略)〉と書いている。彼は当時、「食ふ」ために不本意ながら、その少女文学の仕事をしていたということである。皮肉にも、蔑視していた分野から、「食ふ」ための光明を見出したことになる。「三重吉は、「世界童話集」(大正一)を翻案して春陽堂から出し、それで自信を固めた。」と坂本一郎は見ている。

また、「この頃三重吉は長女すずを得たので、児童読み物を用意しようと思いたったが、当時の児童読み物に文学性がないことに、彼は反感を持ち、『童話と童謡を創作する最初の文学運動』という旗印をたてた。」(「児童文学の展望」(角川書店)という坪田譲治らの見方も多くある。

かくて、雑誌『赤い鳥』は大空へと飛び立った。


 「『赤い鳥』のモットー」は次の通りである。


○現在世間に流行してゐる子供の読物の最も多くは、その俗悪な表紙が多面的に象徴してゐる如く、種々の意味に於て、いかにも下劣極まるものである。こんなものが子供の真純を侵害しつゝあるといふことは、単に思考するだけでも恐ろしい。 

○西洋人と違つて、われわれ日本人は、哀れにもほとんど未だ嘗て、子供のために純麗な読み物を授ける、真の芸術家の存在を誇り得た例がない。

○『赤い鳥』は世俗的な下卑た子供の読みものを排除して、子供の純性を保全開発するために、現代第一流の芸術家の真摯なる努力を集め、かねて、若き子供のための創作家の出現を迎ふる、一大区画的運動の先駆である。(以下略)


 この文章は毎号『赤い鳥』巻頭に掲げられた。「俗悪な表紙」、「下劣極まる」、「子供の純性を保全開発」いずれにも現状を打破しようとする鈴木三重吉の強い意思が感じられる。三重吉は巌谷小波らの戯作的要素が残るお伽噺や、当時氾濫していた子供向け通俗的な小説や官製の唱歌を否定して、「芸術として真値ある」「童話」と「童謡」を提唱し、「芸術」としての児童文学を主張した。

 また、童話、童謡という呼称は江戸時代から大正十年頃までは神話・伝説・昔話など子どもを享受者とした伝承童話を指していたが、芸術性の豊かさを区別するため三重吉が新たに採り上げた。かつての《少年文学》のように新しい造語ではないものの今まで使われた用語を変えることで新しい世界を切り拓こうとしたことが窺える。

『赤い鳥』は、子どもたちの読み物の世界に、早い時期には、児童読み物の水準を高めるため、大人の文学の第一線で活躍していた作家たちを引き入れ、童話と童謡を創作する文学運動を呼び起こしたことには大きな意義を感じる。たとえば、『赤い鳥』の賛同者として、泉鏡花、小山内薫、徳田秋声、高浜虚子、野上豊一郎、野上弥生子、有島生馬、芥川龍之介、北原白秋、島崎藤村、森林太郎、森田草平、室生犀星らが名を連ね、文壇で活躍中のメンバーの協力を得ていることからもわかる。創刊にあたり、三重吉は作品執筆と投稿童話、綴り方の選考を行い、北原白秋には童謡の発表のほか、読者からの投稿童謡や自由詩の選考を一任するという二頭体制の、新しい方式を打ち立てた。表紙や挿絵は東京美術学校出身の清水良雄が担当した。巌谷小波他、門下の名前は見当たらない。意図的に避けている。「お伽噺」ではなく「童話」、「童謡」という呼称に拘っていることが窺える。

三重吉にとって、童話は「子供の純性を保全開発する」ための芸術であった。彼の目には当時の子どもの読み物の多くは、ただの「世俗的な下卑たものとしか映らなかったようである。

坪田譲治は「明治以来吾国の児童文学は幾多の春秋を重ねた。その一つの春が大正七年の『赤い鳥』創刊で始まった」と述べた。(「児童文学の早春」)そのような空気の中、『赤い鳥』の刺激を受けて、類似する雑誌が次々と創刊された。

 この時期「童心」という言葉が、大いにもてはやされた。白秋のように熱心に「童心」を唱えた詩人もあれば、「子どもの時の心」といった言葉でそれを表した作家もいて、言葉の用い方はさまざまである。『児童文学事典』の「童心主義」(関英雄)は次のように述べている。以下要約する。

《童心主義》は大正後半期の児童文学の主潮となった思想で、人生における子ども期の純真多感な心の状態を《童心》と呼び、童心に帰ることを大人の生き方の理想とした。しかし、童心主義は子どもの内面をうたい、語るというその本来の積極的意味にもかかわらず、反面で、《大人の郷愁としての童心》に閉鎖的にこもる傾向を生じた。童心主義亜流の思想は大人の世界から《童心》を隔離して賛美する現実逃避の観念論に陥り、現実の子どもから遊離していった。子どもを単純にかわいい存在とみて書いた真実感の乏しい甘い童話を《これは童心主義だ》というように、現代では童心主義の語は形骸化したそのマイナス面においてのみ用いられることが多い。

 秋田雨雀の童話集『太陽と花園』(一九二一)の「序」には、「童話は形式としては、大人が児童に読ませるものであるが、もう一歩見方を拡げて考へると、大人が大人自身の子供の性質に読ませるもの、精しく言へば人類が人類自身の“永遠の子供”に読ませる為に書くものだといへる。」とある。前述の「童心」に繋がる大正児童文学の特徴といえようか。


         *


 雑誌『赤い鳥』が誕生した頃、中央から遠く離れた辺境の地、東北・岩手では宮沢賢治(一八九六〜一九三三)が自作の童話を弟妹らに読み聞かせていた。賢治は『赤い鳥』創刊号に触発されて童話を志したと推察される。当時賢治は二十二歳で、実弟宮沢清六は後年「兄賢治の生涯」中で、「処女作の童話をまっさきに私ども家族に読んできかせた得意さは察するに余りあるもので、赤黒く日焼けした顔を輝かし、目をきらきらさせながら、これからの人生にどんな素晴らしいことが待っているかを予期していたような当時の兄が見えるようである。」と回想している。家族に読み聞かせたのは、堀尾青史『年譜宮沢賢治』で確認すると、大正五年頃創作した「双子の星」や「蜘蛛となめくぢと狸」などであろう。

その後、賢治は『赤い鳥』との接触を積極的に図っている。まず、大正十二年一月に賢治は「弟清六に東京堂婦人画報編集部小野浩(後、『赤い鳥』の編集者になる)に童話『楢ノ木大学士の野宿』を含む原稿を持参させるが、向かないとして断られる。」とある。また、十三年十二月に、賢治はイーハトーヴ童話集『注文の多い料理店』を刊行し、菊池武雄より三重吉の元に送っている。翌十四年一月には『赤い鳥』一月号に、念願の『注文の多い料理店』の一頁広告が無料掲載されている。しかし、反響は思わしくなかった。

その年の春には、菊池武雄が上京して賢治の原稿を三重吉にみせたところ、「君、おれは忠君愛国派だからな、あんな原稿はロシアにでも持っていくんだなあ」といわれた」という。その後、「昭和六年九月に賢治は上京し、深沢省三の家を訪ね、賢治の原稿は深沢紅子夫人によって二度三重吉に持参されたが、三重吉は感心しながらも掲載は断る。」と、山根知子は「論巧宮沢賢治」中に記している。 

 賢治は『赤い鳥』との出会いがなければ、童話を書き始めていなかったかもしれないと思うと、『赤い鳥』との出会いは重要である。賢治の『赤い鳥』に寄せる思いは強く、掲載を断られ続けてもその思いは断ちがたかったことが窺える。

 このように、関心を持ち続けた『赤い鳥』に賢治はどのような関心を持ち、評価を下していたのであろうか。賢治は『赤い鳥』の創刊号から大きく掲げられていたモットーに共鳴したように思う。後に童話集『注文の多い料理店』刊行の際に書かれた「広告チラシ(大)」中の、「決して既成の疲れた宗教や、道徳の残澤((ママ))を色あせた仮面によつて純真な真意の所有者たちに欺き与へんとするものではない」という言葉には、賢治も「純真な真意の所有者たち」である子どもに対して、三重吉の言うように「子供の純性を保全開発する」目的をもっていて、その障害となると認識される「世俗的な下卑た子供の読み物」を意識して、「既成の疲れた宗教や道徳の残澤((ママ))」を「欺き与へん」としているような「卑怯な成人たち」を批判している視線を感じとることができるだろう。

 賢治が『赤い鳥』への自作の掲載を強く望んでいた様子は、野町てい子の回想からも窺える。『赤い鳥』の作家でもある野町は、その頃赤い鳥社に事務員として勤めていた。賢治が『赤い鳥』に直接の接触をもったといえる出来事に、「宮澤さんと思われる方が、白い服を着て、先生の真前にかしこまって座り、頭をたれて先生の話を聞いていらした。話が終わると丁寧にお辞儀をして、沈うつな顔をして帰っていかれた。髪を五分刈りにした丸い顔の色の黒くない人であった。誰も玄関まで見送りしなかった。先生は、確かに、変わっていて、面白いことは面白い。しかし、子供の読み物としては、『赤い鳥』には向かないという評価であったと記憶しており、この言葉は、本人にも伝えられた」と記している。(『赤い鳥代表作集』後期編 小峰書店)

 野町が赤い鳥社にいた大正九年から十一年一月までの期間に、賢治が上京できたと思われる時期を考えるならば、家出上京時の十年頃になろうか。

この頃になぜ賢治が『赤い鳥』に投稿しようとしたのか。『赤い鳥』の原稿募集記事は、大正十年一月号巻末に次のように書かれてある。

子供の心理又は子供を中心とした日常の事実を描いた現実的な作品を歓迎します。童謡、童話共、十回以上推奨された人は、作家として社会に推薦します」(九七頁)

この記事は当時の賢治にとって魅力的なものだったろう。大正十年〔七月一三日〕付けの書簡一九五に「私は書いたものを売らうと折角してゐます。(中略)図書館へ行つみると毎日百人位の人が「小説の作り方」「創作への道」といふやうな本を借りやうとしてゐます。なるほど書く丈けなら小説ぐらゐ雑作ないものはありませんからな。うまく行けば島田清次郎氏のやうに七万円位忽ちもうかる、天才の名はあがる」とある点からも窺える。

 このような賢治の思惑にかかわらず、三重吉は賢治作品の掲載に躊躇したのは、なぜか。

「三重吉は小説家の頃から文字の好みが激しかった」と、鳥越信は『日本児童文学史』で三重吉の推敲癖を披露している。「雑誌の投稿者の作品については必ず手を加えている。弟子筋にあたる坪田譲治などの作品には大胆に添削を施していた。芥川の『蜘蛛の糸』の原稿にも、語尾の訂正その他の直しが見られる。」病的に神経過敏の持ち主である三重吉の作風は写生文をよしとした。賢治の作品は生理的に受け付けなかったのか。とにかく三重吉の作風には合わなかったのだろう。三重吉と賢治では作品世界が違いすぎたのだ。賢治色は三重吉には塗りかえられない濃厚さがあったのではないだろうか。

 また、『赤い鳥』の主な読者は都市中間階層の子どもたちや、地方の「名士」の子どもたちで、上品で、おとなしく素直な、いわゆる「良い子」であった。雑誌を選ぶのは親たちであった。そのようなことからも、地方色豊かな賢治の作品は三重吉を躊躇させた起因の一つとも考えられる。

賢治は昭和六年に至るまで『赤い鳥』にラブコールを送っている。その頃は以前と比べたら三重吉の意に沿うような現実性の要素を強めた作品を投稿したようであるが、それでもなお『赤い鳥』の「原稿募集について」で、「子供の心理又は子供を中心とした日常の事実を描いた現実的な作品を歓迎」した三重吉にとっては、賢治の作品は非日常的な要素の含まれるものとして、受け入れることができなかったようである。賢治の落胆ぶりが想像される。そのようなとき、詩人の佐藤一英主宰の雑誌『児童文学』から作品原稿依頼がきた。ここでは『赤い鳥』で受け入れられなかった宮沢賢治の作品が高い評価を受けている。

 

        *


 黎明期の明治児童文学は、巌谷小波を中心としたお伽噺『少年文学』叢書が《愉快にして且つ勧善懲悪もの》、戯作的なものが中心であったのに対して、『赤い鳥』は既成のものを「俗悪」「下劣」とし、「子供の純性を保全開発」を目的にした。執筆者も文壇の一流の作家であった。「童心」という言葉はこの時期大いにもてはやされた。

 いずれもその時代背景の中にあっては、画期的な出来事・斬新な捉え方であったにちがいない。しかし、時代の変遷に伴って次第に既成のものは慣れ、あるいは惰性的になり、飽きられ、次世代の新しい波の洗礼を受けることになっていったものと思われる。「赤い鳥」の核ともいえる「童心主義」や「綴り方運動」が次第に批判の対象になっていき、『赤い鳥』の文学運動を《国語読本に取り入れられた文学》とまで佐藤一英に批判されるようになっていった。時代の潮流は童心主義児童文学のアンチテーゼとしてプロレタリア児童文学へと移行していった。

 三重吉は『赤い鳥』を舞台として、西洋の名作童話、昔話の翻訳などの仕事に励んで児童文学の地位向上に大きく寄与し、かつ、編集者として芥川の『蜘蛛の糸』や有島の『一房の葡萄』など、今日に残る数多の名作を誕生させる契機をもたらした。

 今、広島県出身の鈴木三重吉は、日本の児童文化運動の父として、原爆ドームのそばに文学碑が建っている。









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