『群系』 (文芸誌)ホームページ
稲垣輝美 ギブ ミー チュウインガム
ギブ ミー チュウインガム
稲垣輝美
一
那覇のバスセンターからバスに乗ると、四十分ほどで海里にさしかかる。ここで車道は二つに分かれ、一方が百名方面へ、もう一方が知念半島方面へとつながる。
中城湾を抱き込むようにしているこの二つの車道は海里で交差し、以前まで湾の汽水は海里のバス亭近くまで及んでいた。モクマオ並木からつづくその海岸端はアダンやユウナの茂みで覆われ、その向こうに静かな湾が眺められた。バス亭には一軒の雑貨屋がぽつんと立っていたが、そこはバスを乗り換える人たちで、いつも賑わっていた。
いま汽水は数キロ先まで埋め立てられ、そこに大病院や音楽ホールが立ち、野球場もある大きな公共施設地域へと変貌をとげていた。その急速な開発とは裏腹に、いつもバスで通りかかるその周辺は、ときどき車をみかけるほかには人影もなく、閑散としていた。
昼間の時間帯、ほとんどの乗客を降ろしてしまったバスは、海里のバス停をノンストップで通り過ぎ、前方の背骨のように伸びている尾根に向かって、てまえの曲がりくねった坂をゆるやかに上っていく。
坂を上りきった丘の上には、いつのころからか下の中城湾を望むようにしてホテルが建てられ、一時期賑わったが、いまはひっそりと地域の人たちに利用されていた。
母が入所している老人ホームは、そのホテルの近くにあった。バスを降りてからホテルの横の両側にススキの生い茂る道を一キロほど歩いていくと、ホームの赤い屋根が見えてくる。民家もなく、巷の喧噪から隔絶されたようなその周辺は、静けさだけが漂っていた。
父が亡くなり、四十九日が過ぎて一月も経たないうちに、母はこのホームへやってきた。それまで父の介護を引き受けていた母だったが、自分自身にもすでに限界がきていた。一人にきりになった母は、不本意ながら、ここに来ざるをえなかった。
わたしが東京から母のいるホームへ通いだすようになってから、一年半が経っていた。とくに何かをしに行くというのでもなかった。必要なことはホームの人たちや、曜日を変えて来ている妹たちがすべてを済ましていた。わたしはただ母のそばにいて、昔話をしているだけでよかった。
関東地方に上陸するかと思われていた台風22号が、その直前で温帯低気圧に変わった日、わたしは予定どおりに羽田から那覇空港へ着いた。いつものようにチェックインまえのビジネスホテルのロビーで荷物をあずけ、母のところへ向かった。
その日もバスは海里のバス亭をノンストップで通り過ぎた。
二
昭和二十年代後半の初夏のある日、このバス停に知念半島から那覇へ向かう上がりのバスから、若い男と少女の二人づれの乗客が降りてきた。
若い男は少女の父親だった。男に手をひかれている少女は小学校へあがったばかりだった。
男はいまにも泣き出しそうにしている少女を、雑貨屋の店先に置いてあるベンチに坐らせ、諭すように言った。
「帽子の紐をしっかり結んでいなかったのが、いけなかったな」
「うん」
少女は小さく頷いた。
少女はバスから降りる直前にバスの窓から、買ったばかりだった帽子を飛ばしてしまったのだ。少女はその赤いリボンのついた帽子をたいへん気に入っていた。祖母に見せたくて、その日のために大切にタンスの奥に仕舞い込んであった。きようが、その日だった。
開け放してあった窓から吹き込んできた強い風に煽られ、帽子は窓の外へ、ジャリ道の白い埃といっしょにバスの後方へと飛んでいった。あっという間の出来事で、側に坐っていた男が帽子に手をのばしたが、間にあわなかった。
いまごろ帽子は道路の両側に広がっていたサトウキビ畑のなかの茂みに引っかかり、そこに留まっているのかもしれない、あるいは埃だらけの車道を転がって別の車の下に圧しつぶされてしまったのだろうか。
少女はあれこれ想像し、なぜ帽子を脱いでおかなかったのかと後悔した。少女は新しい帽子の臭いと、鮮やかな真っ赤なリボンを思い起こし、なんども深い溜息をついた。
バス亭の雑貨屋のまえには、いつも乗り換えのバスを待っている人たちでいっぱいだった。店のまえの、屋根の下に置いてあるベンチに、じっと坐っている人。店でダバコを買っている人。知らないもの同士で喋りあっている人たち。誰もが思いつくままに時間つぶしをしながら、バスを待っていた。
終戦直後から交通手段になっていた米軍用トラックを利用したバスから、バスらしい公営バスが走るようになり、少女が祖母の家へ行くのもだいぶ便利になっていた。
しかし待ち時間は長く、バスが時間どおりにやってくるとも限らなかった。
「お父さんといっしょで、いいねえ」
ベンチの少女の横に坐っていた、腰の曲がったおじいさんが少女に話しかけてきた。
「うん」
まだ沈み込んでいた少女は消え入るような声で答えた。
「どこへいくの?」
おじいさんはさらに訊ねた。
「おばあのところ」
少女は大好きな祖母のことを訊ねられて気を取り直し、こんどは大きな声で答えた。
「ほう、いいねえ」
老人は目を細め、笑いかけた。
男と少女は丘を越えた向こうに住んでいる少女の祖母の家へ行くところだった。少女は、一人でも祖母の家へ行くこともできたが、具合の悪い祖母の見舞いをかねて、男がついてきたのだった。
しばらく経ってバスが来ると、おじいさんは杖をつきながらバスに乗っていった。
少女たちの乗るはずのバスはなかなか来なかった。初夏とはいえ汗ばむほどの強い日射しが地面に照りつけていた。
「おそいねえ」
男はしびれをきらしはじめていた。
何台もの車が埃を巻き上げながら二人のまえを通り過ぎていった。
突然、軽トラックが二人のまえに止まった。
「せんせーい、どこまで行くんですかー?」
運転台から大きな声がしてきた。声の主は教師をしている男の顔見知りで、偶然、そこを通りかかったらしかった。
「乗りますか?」
「垣上までだけど、いいかな?」
「荷台ですが、どうぞ、どうぞ」
首にタオルをかけている若い運転手は、上機嫌で二人に乗るようにすすめた。
「じゃー、お願いしようかな」
男はそう言うと、戸惑っている少女を抱き上げて軽トラックの荷台にのせ、自分もあとから荷台に飛び乗った。
軽トラックは走りだした。屋根のない荷台に日射しは直接降りかかっていた。少女は前からの強い風を避けるために顔を下に向け、さらにすれ違う対向車が舞あげていく埃を吸わないように、口と鼻を押さえつけていた。
どうしてこんな苦しい目に、と少女は思いながらも、我慢するしかなかった。
軽トラックはしばらく順調に走っていた。一つ目のバス停を過ぎるとつぎは「三つ曲がり坂」だった。
いつもバスはここまで来ると、エンジン音を唸らせながら右に左に湾曲した坂道をゆっくりと上がっていく。車にも苦手な坂であるらしい、と少女は思っていた。
軽トラックは坂を上りはじめた。少女は気になって耳をすましていた。エンジンの唸るような響きは、しばらくすると人の息切れのような音に変わり、息はいまにも切れそうだった。
大丈夫かなあ。
少女は不安になって男にしがみついた。
トラックは一つ目、二つ目、三つ目の曲がりかどを曲がりきり、あとは最後の急な坂を上りきるだけだった。坂の片側は雑木に覆われた深い崖になっていた。荷台から見下ろすその坂は、いつもより高く、恐ろしく感じられた。突然、それまでわずかながら前方へ進んでいたトラックが後方へ戻りだした。しかしまた息を吹き返して、すこし上がる。それを何度か繰り返した。
それまで平静だった男も、さすがに困惑した様子で顔をしかめ、
「オーバーヒートだな」
と言った。
「よし、降りよう」
男は素早く判断すると、運転台に合図をおくり、トラックを止めた。そして荷台から飛び降りると、小さくなってふるえていた少女を抱え降ろした。
海里のバス亭からトラックに乗ってから、さほど時間は経ってなかった。
三
二人は最後の坂を歩き、上りきった。あとは平地を行くだけだったが、祖母の家はまださきだった。
ススキの生い茂る、ゆるやかな丘がどこまでもつづいている。前方から米軍の兵隊を乗せた、カーキ色の幌のあるトラックが走ってきて、またどこかへと去って行った。
以前、この辺りには、終戦後の数年間、沖縄を統治していた民政府があったという。
少女には男の話していることの大部分は理解できなかったが、それにかまわず、男は話しつづけた。
乗るはずだったバスが、二人を追い越して行った。
「仕方ないな。我慢できるかな?」
と男が言うと、少女は得意満面に笑ってみせた。
それでも少女がすこし疲れた様子を見せると、
「おばあが待っているよ」
と声をかけ、男は少女を励ましつづけた。
二人の額に汗が滲みだしていた。
男が少女を背負うために、坐って背中を向けると、少女は恥ずかしそうにしながら男におぶさった。そんなことを繰り返しながら、二人は歩いた。
いくつかの集落を過ぎ、やがて前方に米軍基地のゲートが見えてきた。
祖母と暮らしている従兄は、その鉄条網で囲まれた基地で働いていた。朝、従兄は祖母がつくった大きな弁当箱をぶら下げて、大勢の人たちとこの基地の中に入っていく。中では資材を運んだりする軍作業をしていると聞いたことがある。ゲートの横には、いつも銃を持った米兵が立っていて、軍作業員の出入りをチェックしていた。
祖母は従兄が出かけていったあと、いつも仏壇に手をあわせ、きょうも従兄が怪我もせず、無事に帰ってくるようにと、祈っていた。
戦争中、お腹にいた少女が無事、生まれることができたのも、この祖母のおかげだから、感謝を忘れないようにと、男はいつも少女に言ってきかせていた。
戦争がはじまった四月、この祖母は集落に近いガマ(自然壕)に、自分の一人娘やほかの親戚と一緒に隠れていた。戦争を予期していた祖母は、ガマの中に食糧を運びこんでいたので、当分の間、妊娠中の娘が飢えることはなかった。しかし食糧がいよいよ残り少なくなってきると、祖母は砲弾の攻撃がおさまる夜間、命がけで近くの畑から芋の葉っぱやキャベツを取ってきて、大きな二枚貝を鍋がわりに葉っぱを煮て、娘に食べさせていたという。
日曜日のせいか、ゲートは閉まっていた。
鉄条網に沿った広い道路をさらに行った先が祖母の住んでいる集落だった。
鉄条網の向こう側には、カーキー色をした蒲鉾型の建物がいくつも並んでいる。その建物の間を横や縦にアスファルトの道が走り、その奥には緑の芝生に覆われた丘陵が広がっている。
そこにはどんな人たちが住んでいるのだろう、と少女はときどき想像してみることがあった。
少女が物心ついたとき着せられていた上っ張りは、兵隊たちが着ていた迷彩服から、また黒色の毛糸のセーターは彼らの靴下から、母が仕立て直したものだった。白の皮靴と虹色の靴下はメイドをしていた親戚の人がくれたものだった。少女は、すぐに靴下の美しい虹色に魅せられた。こんな靴下を履いている女の子は、やはり自分とは違う別世界の子だと思った。もらったとき大きすぎていたサイズも、少女の成長とともに小さくなり、いまでは色あせていた。
しばらく行ったところに、もう一つゲートがあった。そこは車両が出入りするときだけ、臨時につかわれているのか、いつもゲートの扉は閉められていた。ゲートの横には高い見張り台があって、そこには銃を肩からぶら下げた米兵が立っていた。
きょうも見張り台には米兵が立っていた。退屈なのか、ガムを噛みながら、狭い見張り台の上を歩きまわっていた。
広い道路を歩いて来る二人の姿は、すぐに米兵の目にとまったようだった。
「ヘーイ」
米兵は遠くから声をあげ、手振りで二人を呼んでいるようだった。先を歩いていた少女は怖くなって後を振り返った。男は少女のずっと後方を黙々と歩いて来る。
「ヘイ、ユー」
こんどは優しげな声だった。米兵は二人ではなく、少女のほうを呼んでいた。
どうしよう。
米兵には決して近づいてはならない、と祖母にきつく言われていたのを思い出し、少女は見張り台の米兵を無視して通り過ぎることにした。
そのときだった。歩いている少女の横に、まだ包装されたチューインガムが数枚、パラパラと落ちてきた。見張り台の米兵が自分で噛んでいたガムの残りを投げて寄こしたのだった。
少女は驚いて、立ち止まり、後方の男に目でたずねた。
「取ってきたら?」
男は意外なほどあっさりと言った。
少女はチューインガムの散らばっているところまで小走りで駈け寄っていき、その全部を拾った。その間、見張り台の上の米兵は少女の様子を微笑んで眺めていた。拾い終わると、少女は見張り台の上の米兵に向かって軽く手を振り、米兵には聞こえなくらいの小さな声で、「サンキュー」と言った。
少女は拾ったガムの一枚を男に渡し、自分もガムを噛みながら歩いた。口中に甘い味が広がっていく。
祖母の家はもうすぐだった。きょうの朝からの出来事を祖母にどうやって話そうか、と少女は考えていた。
四
海里のバス停を過ぎたバスは、「三つ曲がり坂」をスムーズに上りはじめた。
あの日、父と軽トラックをひろって上り、途中で降ろされた坂を、わたしはいまバスに乗って母のホームへ向かっている。トラックが後戻りをしたとき見下ろした崖下は、いまは深い茂みに覆われていた。遠くに、残りすくない夏を惜しむかのように霞にけぶった中城湾見えていた。
痛みに似た感情が一瞬の光のようにわたしのなかを過ぎていった。
つぎのバス亭で降りるため、わたしは慌てて前方の運転席の頭上にある電光料金表版で料金を確かめ、財布の中をかき混ぜて、つり銭のないように小銭を握りしめていた。