『群系』 (文芸誌)ホームページ
五十嵐亨 スナック
スナック
五十嵐亨
葉山香奈は、スナック「さき」の裏にある駐車場に自転車をとめた。町を貫く産業道路は大型の輸送用トラックが地響きを立てて通ると埃が舞い上がり、その埃が脇にあるスナックの駐車場まで風に乗って飛んでくる。初夏で日中はだんだん暖かくなってきているが、山の中にある町なので、夕暮れにはまだ空気はひんやりと冷たく感じられた。
香奈は店の勝手口に近づき、上り口の階段を上ってドアを開けようとしたが、鍵がかかっていて開かなかった。ママの咲子が外出しているのだろうか、いつもこの時間は香奈がやってくるので、開けていてくれるはずなのだが。そう思いながら、香奈が呼び鈴をはじくと、ばねが鐘に当たってキーンと響いてこだまし、それに続いて鐘の中で棒が当たってカランカランと鳴った。呼び鈴は銅製のしっかりした作りで、強いばねと鐘の表に深緑色のガーゴイル人形の顔が装飾として取り付けられていた。大きな鷲鼻と、落ち窪んだ眼窩の奥のつり目、耳元まで大きく避けた口と薄い唇は、見る者をあざ笑っているように見える。その横には大きな耳がそそり立ち、くすんだ深緑食の顔色とあいまって、まさしく悪魔の顔だった。ヨーロッパのゴシック教会によく見られるようなこうした装飾品は、この店のオーナーである小平咲子の好みのようだ。働き始めたころは、従業員が出入りする勝手口になぜこんな怖い顔の人形をつけるのだろうかと思い、あまり見ないようにしていたが、この頃漸く見慣れてきたところだった。昼間見たらそうでもないのだが、周囲が暗くなってきて街灯に反映すると、光が人形の顔の半分に当たって何とも気持ち悪く、怖い。いきなり翼を生やして呼び鈴から飛び立って香奈に襲いかかり、大きな口でかぶりつかれそうな気がするのだった。
香奈が勝手口の前で待っていたところ、中から話し声が聞こえたような気がした。咲子の声と、誰か男性の声のようだ。するとしばらくして漸くドアが開き、目の前に咲子が立って、にこりともせず、能面のような表情で香奈を見つめた。小柄で顔色が悪いが、いつも小奇麗にしていて、髪の手入れや化粧にかなり時間をかけているのが伺える。聞いたところでは、かつては化粧品会社のセールスレディをしていたそうで、普段の服装もお洒落だった。
「おはようございます」
「おはよう」
咲子は香奈の挨拶に対して、雇い主の鷹揚さと居丈高さを感じさせる口調の挨拶を返した。日が暮れかかってはいたが、夜からの仕事の常で、この時間でも挨拶は「おはよう」である。昼間は地元の看護学校に通っている香奈にとって、学校帰りに店にやって来て、おはようと挨拶することに初めのうちは抵抗を覚えたものだったが、勤めて三ヶ月余りの今はそれも感じなくなっていた。それにしても、と香奈は思った。この人はいつも権柄づくな感じがするのだった。客には愛想がいいが、従業員にはにこりともしない。そんな大層な御出自には見えないが、権柄づくは彼女の生来の性格なのだろうと香奈は思っていた。しかし、今日の咲子はいつもと違ってどこかおびえたような表情をしているように思えた。今まで中で何をしていたのだろう、鍵をかけていたところを見ると、見られたくないことなのかもしれなかったが、尋ねようとしても質問を受け付けないような雰囲気が咲子にはあり、香奈は思わず言葉を飲み込んだ。
すると、奥からぬっと男が顔をのぞかせたので、香奈はびっくりして思わず後ずさった。それは今までときどき店に客としてきているのを見かけたことのある男だった。パンチパーマにサングラス、黒白の縦じまのシャツに黒のズボンとサスペンダーといったいでたちで、水商売か、そのすじの者ではないかと思われる雰囲気を漂わしていた。さらに、その男は出で立ちの割には襟元や袖口が乱れ、どこか土臭く、埃っぽいような臭いがした。
香奈が立ちすくんでいると、その様子を見た咲子が言った。
「あら、お嬢ちゃんが驚いちゃったわ。あなた、もう帰りなさいな」
それを聞いた男はうなづいて、そそくさと香奈の横をすり抜けるようにして出て行った。エンジン音がかかって車が出て行くと、咲子は言った。
「びっくりした?ごめんね。この頃、お店を手伝ってくれてるのよ」
香奈の気持ちをほぐそうとして言ったようだが、その男が何者だろうかということと、その男に対する咲子の馴れ馴れしい口調を思い出すと、かえって違和感を覚えるのだった。
「さき」の従業員は、店主の咲子とアルバイトの香奈だけであり、カウンター席のほかにボックス席が二つ、真ん中にカラオケのディスプレイ、奥にスピーカーが置いてあるだけの小さな店である。ママの咲子は四十代で、長らく化粧品会社のセールスレディをしていたが、その頃から小料理屋を開くのが夢だったそうで、昨年の春に漸くそれを実現したということだった。
山奥に盆地状に開けたこの町の商店街は旧街道沿いに広がっており、かつて江戸時代には絹織物の取引で賑わっていたそうだが、今ではさびれた山里となりつつある。香奈の家はそんな町の表通りにある薬局だった。彼女は今年が看護学校の最後の年で、「さき」に勤め始めたのはこの春からで、まだ二月余りだった。二年越しで付き合っている彼氏の亘が、努めている自動車会社のディーラーの仕事の後に時々寄る店で、どこかでバイトをしたいと言っていた香奈を紹介してくれた。学校が終わって夕方になってからお店に入り、給仕の仕事とカラオケ機器の管理をし、客が引けてからは、洗い物をして店仕舞いをし、自宅に自転車で帰るのが、いつもの仕事のパターンだった。
「さき」はこの町では流行っている方の店で、深夜まで客で賑わっていることも多かった。ママの咲子は従業員相手の時とは打って変わって、客相手となると会話が弾み、ユーモア豊かに客を笑わせた。もって生まれた才覚なのだろうが、長い間小料理屋を開くのが夢だったというのもうなづける気がした。だが、三年ほど前に、どこからか化粧品のセールスにやってきてから、しばらくして町の名士と言える男性と結婚し、ほどなくしてスナックを開業した彼女には、とかく悪い噂が付きまといがちだった。人の好き嫌いがひどく激しく、一度好き嫌いを決めると大変頑固で誰に何と言われようと自分の意見を変えないのだそうだ。強い立場にある者には愛想よく取り入り、相手が目下と思うと傲岸に扱った。一度香奈が田舎はどこかと聞いたところ、九州北部の出身だということだったが、どういう来歴かはあまり教えてくれなかった。
そんな咲子のことを考えると、その日は妙な男と鉢合わせしたこともあって、香奈は仕事前からなんとなく憂鬱な気分になるのだった。そういえば、ママの旦那さんはどうなったのだろう、と香奈は思った。咲子の夫の小平洋輔はこの土地で精米業を代々続けてきた家の主で、町の土地持ちで、咲子とは二年前に結婚したそうだ。ところが、このしばらく体調を崩しており、最近ついに検査と治療のために東京の病院に入院したとのことだった。それも香奈が来年から勤めようと思っている町で唯一の町立病院ではなく、咲子の伝で東京の病院に入院しているという。香奈は、咲子の旦那は気の毒だが何だか無事に帰ってこられないような気がするのだった。
香奈の憂鬱な気分を反映するかのように、その日はあまり客が入らなかった。しかも、なぜか客足が引けるのが異様に早く、夜の十時を回る頃には皆帰ってしまった。
「どうしたのかしら。こんな暖かい五月の夜で、気候もいいのに、お客さんたち、どうして皆こんなに早く帰っちまったんだろう」
咲子は首を捻りながらそう言った。
「私ももう帰るわ。香奈ちゃん、あんた、後片付けお願いするわね」
そう言って咲子は帰ってしまい、店には香奈だけが残された。
咲子が帰ったのを見送ると、香奈は溜息をつき、いつもどおり、後片付けを始めた。まずカラオケ器械の電源をコンセントから抜いて、二つのマイクのコードを纏めてスピーカーの上に置いた。
それから独りで洗い物を始めた、そのときのことだった。彼女はどこからか、じっと彼女を見つめる視線を感じたのである。どこからだろう。彼女は思わず周りを見回した。すると、どうも勝手口がある店の奥の方の暗がりから、その視線は注がれているように思えた。
「誰」
香奈は店の奥の暗がりに向かって言った。答えはない。彼女はもう一度、強い調子で言った。
「誰かそこにいるの」
答えはなかった。そこで彼女は大して役に立たないと思いながらも、料理用のオタマを持って、恐る恐る勝手口の暗がりに向かって進んで行った。
すると、そこには誰もいなかった。自分の思いすごしかと思って、彼女はほっと安堵の息をついた。するとそのとき、彼女のすぐ後ろの勝手口の表についている銅製の呼び鈴が、キーン、カランカランと鳴る音がしたのである。あのガーゴイルだ、そう思ってぎょっとして飛びのいた彼女は、もう一度、誰よと叫んだ。しかし答えはなく、それ以上、呼び鈴が鳴る音もしなかった。まだ宵の内とはいえ、一人で夜の店にいるので、彼女は無性に怖くなってきた。しかし、彼女は自分の胸を押さえて、落ち着け、落ち着けと自分を諭した。ただの風だ、今日は風が強い日だから、それで呼び鈴が鳴ったのだと考えた。しかし、その呼び鈴はばねの強い銅製の腕についた鈴で、人が弾かないと鳴らないはずのものだった。外はよほど強い風が吹いているのだろうか。彼女は聞き耳を立てたが、そこに誰かいる気配はなさそうだった。
ひょっとすると、外に誰かが潜んでいたりするのかもしれないと思い、彼女は居ても立ってもいられなくなったが、そこで再び自分の心を落ち着けるよう、目を閉じて大きく深呼吸した。案外、忘れ物を取りに来たお客さんかもしれない。それに客の引きが早かった今夜は、まだ宵のうちで、何かあったら叫べば周りの家の人が気づいてくれるに違いない。大体もう表の戸締りはしてしまったし、勝手口のところに彼女の自転車も置いてあるから、そこからでなければ家にも帰れない。そこで彼女は勇を鼓して、オタマを強く握りしめ、急にバンと勝手口のドアを開けた。すると、強い風がひゅうと店の中に吹き込んできた。それは温かい五月の夜にしては異常にひんやりする冷たい風だった。
彼女は無我夢中で外に飛び出し、オタマを持ったまま、振り返って周囲を見回した。ところがそこには誰もいなかった。静かな夜で空気は落ち着いており、強い風が吹いている様子もなかった。彼女は緊張した面持ちで、しばらく周囲を見回していたが、どうやら本当に誰もいないらしい。そこで今度こそ思いすごしだと思って、勝手口から店の中に戻り、もう一度しっかりと鍵をかけた。
片づけをきちんとしていかないと、咲子に何と言われるかわからない、でも今日は何だか嫌な日だから、早く済ませてさっさと家に帰ろう、そう思った彼女は、大急ぎで皿やカップ、グラスの洗いの続きにかかった。
すると、ほどなくして、また彼女はどこからか視線が注がれるのを感じた。今度は今来た店の客席の方からのように思えた。そのとき、彼女ははたと考えた。外は風も吹いてなくて、あんなに暖かいのに、ドアを開けたとき、なぜあんな冷たい風が吹きこんできたのだろう。いよいよ恐くなり、泣きたい気分になってきたが、まだ洗い物もろくに終わっていないのに、帰るわけにもいかない。そこで、彼女はオタマを握りしめたまま、ゆっくりと一歩一歩店の中央に進んで行った。
店の中には誰もおらず、視線もどこから注がれているのか、彼女には分らなかったが、意志を持つ何物かが、店に漂っているような気がするのだった。どうも不気味で仕方がない。多少いい加減でもいいから、早く洗い物を片付けて、一刻も早く家へ帰ろう。そう思ってどんどん皿やグラスを洗いながら、客席を見た彼女は、あることに気づいてぎょっとした。ついさっき片づけてスピーカーの上に置いた筈のカラオケのマイクが結んだコードを解かれて、二つともテーブルの上に置かれていたのである。
彼女の洗い物をする手が止まった。彼女は恐怖に満ちた目で周囲を見回した。
するとそのときだった、突然スピーカーがヴォーン、ヴォーンと音を立てたのである。彼女はぎょっとして飛びのいた。背中をカウンターの後ろの壁にもたれさせたまま、突然ヴォーンと鳴ったスピーカーを見つめ、それから周囲を見回した。そんな馬鹿な。さっき、確かに、確かに、カラオケ機器は電源を抜いた筈だ。電気を食うから一番にコンセントを抜けと咲子からいつも言われているのだ。恐る恐る覗いてみると、確かに電源は抜かれている。それなのに、今、何故このスピーカーは鳴ったんだろう。
そのとき、スピーカーを見つめる香奈は信じがたい音を聞いた。う、う、う、という男の苦しげな唸り声が聞こえてきたのである。彼女は背筋に冷水を浴びたような気がして、飛びのいた。
さらに彼女はあることを発見した。ステージの後ろにある床下収納庫の蓋が僅かにずれていたのである。今までそこに収納庫があることも知らなかった。咲子は教えてくれなかったし、開けられそうなものでもなかったのだ。
彼女はもはや半狂乱になりかかっていた。突然ふっと店の中の照明が暗くなったのは、彼女がカタカタと震えてカウンターの後ろに腰をかがめて隠れるようにしたときだった。暗闇の中で、ステージのあたりから片目が見開かれて、彼女を見つめていることを発見した時、彼女は激しく叫ばずにはいられなかった。それはたった今、ずれていることに気付いた床下収納庫の蓋のところから、じっと彼女に視線を注いでいたのだった。
もはや彼女は洗い物などしていられなかった。カウンターから飛び出そうとして、洗い物かごをひっくり返し、グラスや皿が割れて破片が飛び散った。驚いた彼女もカウンターの裏でひっくり返り、手のひらに激痛を感じた。だがそんなことには構いもせずに、床をはいずるようにして勝手口へ向かい、震える手で鍵を開け、外へ飛び出した。
自転車の鍵を開けて飛び乗ろうとしたが、今店の中をはいずって出てきたとき、割れ物の破片で手を切ったらしく、手からはぽたぽたと血が滴り落ちていた。痛かったから怪我したのだとは思ったが、今は痛みどころではなかった。手が震える上に、指が血で滑り、鍵を開けることもままならない。勝手口を振り返ると、そこは真っ暗になっていて、人を引きずりこむブラックホールが口を開けているように見えた。そこだけ強い風が吹いていて、ドアが風にあおられてゆらゆらと揺れている。今にもそこから異形の物が現れて彼女に襲いかかるように思われた。そして彼女は見た、ドアの奥の暗闇から、二つの目が見開かれて、彼女を見つめていることを。ドアの右上の呼び鈴のガーゴイルが街頭の光を浴び、口はいつもよりさらに避けて、あざわらうかのように、彼女に笑いかけていた。
彼女は自転車も放り出して、訳も分らず駆けだした。すると、通りに出たところで突如として大きな車の爆音がし、眩いヘッドライトの光が彼女の全身を照らした。彼女が飛び出したその時、まさに長距離輸送の大型トラックが轟音を立てて走ってきていたのだった。それは突然彼女の眼前に巨大な壁のように現れて、迫ってきた。
彼女はその光の中で凍りついたように静止し、思わず、きゃーっと叫んだ。ああ、はねられるのだ、そう思って観念した瞬間、車は急ブレーキをかけ、そのためにスピンして、横向きになった。動物の咆哮のような音を立てながら、大型トラックは彼女が勤めるスナックに突っ込んで行った。そして、彼女は道の真ん中で倒れ、危ういところではねられずに済んだのだった。店を振り返ると、勝手口のドアは開け放たれたままになっていたが、もはやさっきのようにゆらゆらと揺れてはいなかった。
店に突っ込んだトラックの運転手が、何事か怒鳴りながら降りてきた。急にひどい疲れを感じ、脱力した彼女は、その怒鳴り声を聞きながら、道の真ん中で意識を失ってしまった。
香奈はその夜、町立病院に搬送されて傷の手当てを受けた。ひどく取り乱して精神的に不安定になっていたため、二、三日の間、入院することになった。病院から亘に電話し、その夜の摩訶不思議な経験を話したが、彼女にとって幸いなことは、スナックに突っ込んだトラックは丁度彼氏の亘が勤めている自動車会社の車だったので、亘が志願して担当となり、事後処理をやってくれることになったことだった。
そして、連日のように病院に見舞いにやってきた亘から、香奈は驚くべき話を聞いたのだった。車の衝突事故について、警察とトラックの保険会社と亘が現場検証に臨んだ結果、思いがけないことが発見された。大型トラックに突っ込まれたスナックは基礎から上の部分がひどく破壊され、床下まで剥き出しになっていたが、そこから何やら異臭がするようなので、警察官が潜り込んで調べたところ、毛布で何重にもくるまれた男の死体が発見されたのである。
それは店のママの咲子の夫、小平洋輔の変わり果てた姿だった。そして間もなく、咲子と愛人の男が共謀して夫を殺したかどで逮捕された。取り調べを受けて自供したところによると、咲子は仕事を通じて小平洋輔と知り合ったが、洋輔がこの町の土地持ちであると知り、取り入って結婚した。そして土地と資金を提供させてスナックの開業にこぎつけたが、その後にかねてからの愛人との関係がばれて、スナックの取り潰しを迫られた咲子は、共謀して夫を殺し、店の床下に隠したのだった。
香奈が事件に巻き込まれた日、愛人の男は死体を店の床下の土の下に埋める作業をしていたのだった。香奈は、ひょっとすると、無残な死を死んだ洋輔の霊が、床下から彼女を呼んだのかもしれないと思うのだった。彼女の失態のおかげで哀しい死を死んだ人の霊が荼毘に付されて、成仏できるのであれば、自分はとても役に立てたのだろうと思った。
了