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32号 芥川論  荻野央 野口存彌



芥川龍之介の『歯車』                 荻野央


芥川龍之介・芸術の光、人生の闇        野口存彌






 芥川龍之介の『歯車』  


                                 荻野 央




(1)初期作品とプロレタリア文学派と新感覚派

『蜘蛛の糸』や『鼻』『芋粥』『羅生門』など今昔物語、宇治拾遺物語から材料を得て作り出された小説は、いずれも人生訓を含み、読みやすい語りのうちに小説の面白さが味わえ、読み終えた後に生まれる、あたかも謎解きに挑んでいる瞑想に、しばらく読者は耽る。もっとも謎解きとして理解されればの話だが。朋友、久米正雄は「暗示に富む」と上手く言いあてている。芥川はあからさまな結論のようなしめくくりをしないで、暗示を小説の終盤に言ってのける人なのだ。人生の幸不幸をめぐる瞑想を導き出す暗示。一歩踏み込めば、その幸不幸が「欲望」という契機で動かされていることを示していると知る暗示。

 異常に長い鼻を持つ高僧が、プライドを捨てて普通の鼻の長さに戻した時に感じた、弟子を含めた人々のかすかな嘲笑に対する自意識、とりまく全ての人々から侮どられている日常のなかで、侮蔑に耐えうるしたたかな生の原理としての「山芋汁をたっぷりと飲むこと」の幸福が奪われたこと、棄てられた死体のなかでさらに死体を凌辱する老婆を蹴りつける下人の正義心理の逆転、は読者に思考の「再」回転を要求するものだ。この思考は読者の幼年期にあったかもしれないのに成長過程で眠り込んでしまったような思考である。素朴に考えなければならないこと、考え続けなければいけないこと、その思考は、人間の幸不幸と人間の欲望の関係につなげられる。


 『地獄変』に結晶する芥川の「芸術至上」的思考のこだわりを読者は知っている。高名な絵仏師、良秀の制作における炎のごとき芸術精神は、ことごとく世の道徳を蹴散らかし、他者の評価をかまいつけず、あげくは自己の道徳やら倫理を超越して芸術作品を完成させようとする者だ。最愛の娘もひとつの画材に過ぎず、紅蓮に浸る良秀は悪鬼になるが、娘が焦熱地獄のなかで生きながら死んでいく様子を、恍惚とした思いで眺める至高者である。娘を溺愛する一人の父親と至高の芸術家のアンヴィバレンツの合一、<超越者>としての良秀は、芥川の芸術至高主義の真髄からやってくる人間である。

 でも、芥川の晩年期はそうも制作しておれなくなる。師と仰ぐ漱石を失い、また大正末期のプロレタリア文学と新感覚派の台頭・興隆に挟まれて、彼の文学精神は小説を大きく変質させてゆき、人生訓から或る種の教養深化を意図したような初期の作品が書かれなくなっていくのであった。


(2)『歯車』(昭和二年)を書いた頃

  『或る阿呆の一生』『河童』など晩年の作品の系列は、発狂の怖れや予感との内的な戦い、不安と怖れに向かう、苦悶に満ちている。断章に限りなく近いそれらの作品のスタイルは、これまでの精妙緻密で分かりやすい語りの文体のスタイルから大きく逸れて、読者に驚きと緊張感を与え、どうして芥川は、「僕」がそう考えたり感じていると書いたのか、と不思議に思うのである。振り返ればその発火点は、前年に発表した『點鬼簿』で告白した、若くして発狂して死んだ母の存在にあった。しかしその後は、母は自分に関係してこない。


 『歯車』の主人公の「僕」の右目に、歯車が半透明で現われて、消えた後にたちまち頭痛に襲われる。おだやかに流れていく日常に、ふと気がついた「妙な事象」が自分に不安を放射して、その事象の現われが「不可解な」ことと思われた時、呼応するかのように現われる歯車はいったい何の予兆なのか、と思う。現前する現実のはがれゆく瞬間だ。

 不可解な事象の連なり。例えば「レエンコートの男」の登場である。友人の結婚式に出席するため東海道線の或る駅に降り立つと、道中の自動車に同乗した理髪店の主から聞かされた、雨の日に出るレエンコートの男の幽霊に符合するように、停車場の待合室に立っているレエンコートの男を「僕」は見た。乗り込んだ列車で友人と話をしていると、対面にレエンコートの男がこちらへやって来る。どうしてなんだ、と思う間もなく歯車が登場する。その後…。


   僕は省線電車の或停車場からやはり鞄をぶら下げたまま、或ホテルへ歩いて行った。往来の両側に立っているのは大抵大きいビルディングだった。僕はそこへ歩いているうちにふと松  林を思い出した。のみならず僕の視野のうちに妙なものを見つけ出した。妙なものを? ―というのは絶えずまわっている半透明な歯車だった。僕はこういう経験を前にも何度か持ち   合わせていた。歯車はしだいに数を増やし、半ば僕の視野を塞いでしまう、が、それも長いことではない。暫くの後には消え失せる代わりに今度は頭痛を感じはじめる。―それはいつも  同じことだった。

    (中略)

  左の目の視力をためすために片手に右の目を塞いでみた。左の目は果たして何ともなかった。しかし右の目の?(まぶた)の裏には歯車が幾つもまわっていた。僕は右側のビルディングの  次第に消えてしまうのを見ながら、せっせと往来を歩いて行った。


 自動車に乗り合わせた理髪店主と会話をしているときに見た松林の眺めをきっかけに、歯車が現われ「僕」の右目を埋めてゆき頭痛が始まる。歯車はいつも右目に現われる。幽霊と松林と歯車の一連を何かの符牒としてみたところから小説は始まるのである。


 (1)互いに噛み合う運動を展開する歯車は、生きていくうえで避けられない<世界の構造>を支える表象である。そして、避けられない<世界の構造>の運動を意味する。しかも「僕」はその意味を怖れているのである。

 (2)「片方の問題」―歯車は右目に現われ「僕」を不安にさせ世界が半透明に運動しているのに、もう片方の眼においてはいつもの日常を展開しているので、あたかも「三半規管」の異常が眩暈を引き出すように、「僕」の精神状態を不安定なものに導いている。


   ベッドをおりようとすると、スリッパアは不思議にも片っぽしかなかった。それはこの一、二年の間、いつも僕に恐怖だの不安だのを与える現象だった。


 それは、投宿先のホテルの出来事―給仕を呼び捜させると、もう片方のスリッパが浴室にあることが分かり、「僕」は首をひねりどうしてそんなところにあるのだろうと言うと、給仕はネズミの仕業でしょうと答えた。片方だけのスリッパを「僕」はひどく気にするのだが、その後に現われたネズミを見つけて興奮して追いかけまわし厨房室に紛れ出て、コックたちから冷たい視線を浴びせられることになる。

 そのような他愛もない事に不可解なこと、と動揺している「僕」は地獄に堕ちかけているような思いをしている。スリッパの片方しか無い事は極めて不自然なことだという思い、いるのかいないのか分かりもしないネズミを追いかけている自分に不安を覚え、コックたちから冷たい視線を浴びせられている。ここで、「僕」はもう一つの世界に移動しかけているようなのだ。


   僕は二度も僕の目に浮かんだダンテの地獄を詛(のろ)いながら、じっと運転手の背中を眺めていた。そのうちにまたあらゆるものの?(うそ)であることを感じ出した。政治、実業、芸術、  科学、―いずれもこういう僕にはこの恐ろしい人生を隠した雑色のエナメルに外ならなかった。僕はだんだん息苦しさを感じ、タクシイの窓をあけ放ったりした。が、何か心臓をしめられる  感じは去らなかった。

   (中略)

  或精神病院の門を出た後、僕はまた自動車に乗り、前のホテルに帰ることにした。が、このホテルの玄関へ降りると、レエンコートを着た男が一人何かと給仕と喧嘩をしていた。給仕   と? ―いや、それは給仕ではない、緑色の服を着た自動車掛りだった。僕はこのホテルへはいることに何か不吉な心もちを感じ、さっさともとの道を引き返して行った。


 レエンコートの男と、片方のスリッパを探した給仕とそっくりの自動車掛の男の諍いは、「敵意」の感触を得るに十分な符牒だと「僕」は受けとめている。暗示するものはすべて悪夢のように整然と一列になって結ばれ、半透明な歯車の回転運動を起こすのである。


   何ものかの僕を狙っていることは一足ごとに僕を不安にし出した。そこへ半透明な歯車も一つずつ僕の視野を遮り出した。僕はいよいよ最後の時の近づいたことを恐れながら、頸す  じをまっ直ぐにして歩いて行った。


 生きていくうえで避け得ない世界は、いま「僕」がもう一度移動しかけている世界は、半透明なたくさんの歯車の回転を通して作られていると言っていい段階に来ている。世界は「世の中」のことだ。

 歯車の幻像を見つめる自分自身を否定できないが、しかし、この不安はまったく耐え難いものだ。現前の世界の真相に対して「僕」は恐怖を覚えていく。正常な左目との不均衡な感覚―精神の三半規管の異常が均衡を破りさるとき、精神の眩暈を引き起こす―はその恐怖を確固としたものにしていくのである。

 「僕」は妻の実家へ行き、妻の母や弟、子供たちに囲まれて平安なように見える生活に戻ろうと試みた。


  「靜かですね、ここへ来ると」

  「それはまだ東京よりもね」

  「ここでもうるさいことはあるのですか?」

  「だってここも世の中ですもの」

  妻の母はこう言って笑っていた。実際この避暑地も亦「世の中」であるのに違いなかつた。僕は僅かに一年ばかりの間にどのくらいここにも罪悪や悲劇の行はれているかを知り尽くして いた。徐に患者を毒殺しようした医者、養子夫婦の家に放火した老婆、妹の資産を奪おうとした弁護士――それ等の人々の家を見ることは僕にはいつも人生のなかに地獄を見ること に異ならなかった。


 「僕」は安穏とした避暑地にも歯車が地獄を予感させているのを見つけて、変わりはしないのだと思っている。と言うのも不可解な事象の一連が現われていたからだ。空高く飛ぶ黄色い飛行機はどうして「僕」の頭の上を通過したのかという疑念から、投宿していたホテルの煙草の銘柄どうしてその銘柄なのか、海沿いの砂山のブランコ台に断頭台を錯覚するのはどうしてか、道の真ん中にネズミの死骸を見つけたのは…。(注) 

 不可解さから不安へ駆り立てる世界、つまり「世の中」は「僕」に対抗している。これはそれまでの「均衡」の崩れから生じているものなのだ。


   何ものかの僕を狙っていることは一足ごとに僕を不安にし出した。そこへ半透明な歯車も一つずつ僕の視野を遮り出した。僕は愈最後の時の近づいたことを恐れながら、頸すじを真  っ直ぐにして歩いて行った。歯車は数の殖えるにつれ、だんだん急にまわりはじめた。


 回転する半透明な歯車の向こうの、半透明な世界は紛うことなく「いま」生きている「僕」の住む、避け得ない「世の中」のことにほかならない。歯車はもう構成する表象にとどまらず、恐怖からいたる使嗾者として現われているように思える。いまや事態は切迫していて、「お父さんが死んでしまうと思った」という妻の必死の声に煽られて「誰か俺を眠っている間に絞め殺してくれないものだろうか」と「僕」がつぶやき、小説は終わり、穏やかに阿鼻叫喚の世界は閉じられる。読者は放り出されるのだ。


 「何々に拠って立つ生の原理」を失ったまま、創作にのめり込むことによって辛うじて心を均衡させるという、極度に矛盾した芥川の晩年の文学の性格は悲劇性を帯びていく。

喪失、不安、悲哀、空虚などなど、人間に到来するマイナーな諸観念は汲めども汲みつくされることがないのは、人間存在の背面の基盤と言い換えられるからか。その基盤に対抗するべき「生の原理」が不明のままならば、創作者(生きとし生けるもの)は創作(生きる)でもって対抗するしかない。また笑い飛ばして、非―創作の場面に鞍替えする可能性も有る。いずれも可である。

 歯車が急き立てて追いやろうとしている先のことは、こちらが虚無に笑って幸福を偽装するか、まともに引き受けて歯車の向こうに入っていくか、の選択ということになる。


                                              (終り)



(注)吉本隆明は『悲劇の解読』で、この一連の出来事をなにか意味ありげに捕えてしまう芥川の心性を<関係妄想>のなせる業であるとして、不安とか恐怖とはまったく無縁なものと「解読」した。


  遭遇するあらゆる事象が偶然とはおもわれないように羅列されているとしたら、信じられる自己の存在が限りなく環をせばめようとしている証左である。(「芥川龍之介」、吉本隆明)


 自分に起こる「意味ありげな」事件に、ひとつひとつ調べるようにして必然的なものを感じる人間は恐るべき心性の状態に在るということになる。吉本は芥川を「関係妄想者」とみなし「軽度のパラノイアや鬱病分裂症」と同等で、文学者の本性から逃げ出せないところに芥川の「悲劇」があったと括っている。この批評に明快さを感じると同時に、決定論によるカテゴリー配分がみられる。心療内科医にそっくりの批評家は、作家の精神の苦闘とか報われない抗いのなかに書き散らした散文を、意味ある美的な感動とか「何故わたしは感動しているのか」と考える姿勢をとる読者を見出せるのだろうか、と疑問に思う。

 吉本のこのような批評態度は、『歯車』に登場する”第二の「僕」”という存在Doppelgangerを「離魂体験」として心理学的に取扱おうと考えているところにもあらわれているが(『共同幻想論』)、悩んだり惑ったり、脅えたりする人間の心の実態を「造られる」事件と見なす批評表現は、決定論の呪縛から自由ではない。

 これに対してフランスの批評家、モーリス・ブランショは、ラシーヌの戯曲、夫の義理の息子と恋愛に落ちて自殺するヒロイン、フェードルの悲劇の「分析」で、自殺が異常な行為を結論するにしても、彼女が「人間的な情念に従いながら、さまざまな神話的真理の全能性を表わす或る宿命に身を委ねている」ことを結論しないとした。義母であると同時に一人の女であることの矛盾は、フェードルにとって「すべてが説明されている悲劇に、説明しえぬものの悲劇が重なりあう」状態であるとブランショは理解している。つまり宿命の神話を彼女は予見しているという批評を下している。ラシーヌの悲劇において神話的真理とか宿命が地上的決定論から自由であると言うのである。フェードルの破滅は彼女の内部から起っていないにしても。

 このように、意識が自己を意識する領域は人間固有な領域なのだから、人間の固有さとは自体的に固有の価値とか意味を持っているはずである。そう考えないと、本質を突く批評は生まれにくいのではないだろうかと思うのだ。




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芥川龍之介・芸術の光、人生の闇


                       野口存彌


 もとより子は母胎から誕生するが、子にとって自分がいつ誰から生まれたかという点だけでなく、どこで生まれたのかを知るのも、おろそかにできないことだと言わなければならない。なぜなら履歴を述べる際に、その点が曖昧な言いかたになる場合があり得るからである。結論を言えば、自分についても他人についてであっても出自で重要なのは、いつどこで誰から生まれたかの三点だということになる。

 芥川龍之介は明治二十五年三月に東京築地(当時、京橋区入船町)で生まれた。誕生したのが辰年辰月辰日辰刻だったので、龍之介と命名された。父新原敏三はいくつかの牧場を所有し、付近にある外人居留地に住む外国人を主な対象に耕牧舎という名称の牛乳販売会社を経営していた。しかし、誕生から約七か月後に母ふくが精神異常に陥るという事態になった。

 各種の年譜には一様に芥川龍之介はその時点ですぐ本所(当時、本所区小泉町)にある母の実家、芥川家へ預けられたと記載されているが、はたしてそれはそのとおりなのか問題がない訳ではない。芥川龍之介誕生の翌年、新原家は外人居留地が廃止になったために築地を引き払い、芝(当時、芝区新錢座町)に転居している。母ふくも精神科の病院に入院するようなことはなく、芝の転居先に移った。

 芥川龍之介が中学校の最上級生になった時に書いたと推定される「十八年目の誕生日……」と題された習作が『芥川龍之介未定稿集』(昭和43年)に収載されているが、そこに次のような記述が存在する。


私は築地の何とか云ふさびしい通で生まれたのでした。家のうしろが小さな教会でこンもりした株の木立の間から、古びた煉瓦の壁が見えて、時々やさしい歌の声が、其中からもれて来たのと 低い腰掛が二かはに行儀よくならんだ 薄暗い部屋のつきあたりに黒い髪の女の大きな額がかゝってゐたのとは 未だにはつきり覚えております、私は裏庭の日あたりのいゝ葡萄棚の下で鵞鳥に餌をやるのが 何よりも楽(しみ)でした。海は直 ちかくだつたので よく下女に負ぶさつて見に行きました あの鳶色の帆がしめつぽい風をうけて静に海の上をすべつてゆくのや 勢のいゝ船歌や 黄色がかつた水がたぶ??石垣をなめてゐるのが 下女に舟幽霊の話や人魚の話をしてもらひながら 海の底にある国の事を考へてゐた幼児に どんな感じをおこさせたかは たしかに覚えてゐません

いくつの時でしたか 本所へ住む様になつて こゝから学校へかよひました


 『芥川龍之介未定稿集』は芥川龍之介の甥、巻義敏によって編纂されているが、「十八年目の誕生日……」の文末に、〔編者注??この原稿は、半紙に墨で下書きされた二種類がある。いずれもが、ほとんど読めないほど、字が乱れている。??が、彼が知る筈のない生れた家と、其付近のことが出て来るので、出来るだけ判読して見た。もちろん、他の一つをお互いに補い合いながらである。??〕と付記されている。こうして読むことが可能になった「十八年目の誕生日……」は重い資料的意味をもっているとみて差し支えない。

 ひとりの少年が生長して青年期に達しようとしているのを自覚した時、未来に向かうためには過去と決別しなければならなくなる。そこでまだ幼かった時期の日々を思い返してみる。すると、かつて確かに眼に触れたのにそのまま記憶の奥に隠れてしまっていたひとつひとつの情景が克明に眼の裏に浮かんでくる。さまざまなものの色や形や動きまで鮮やかに思い起こされる。しかし、過ぎ去った日のそれらの記憶を想い出すのは、追想にふけるためではなく、それに決別を告げるためだった。この年令特有のそうした精神の営みを経験することによって、自身の幼年期や少年期を抜け出て、青年期へ、さらには成人の領域へ参入していくことになる。

 芥川龍之介にとって「十八年目の誕生日……」は、いま述べたような意味を担った文章にほかならない。他人に示すのが目的ではなく、自分の必要のためにだけ書かれた文章であり、虚構が含まれているとは受け取れない。

 そういう判断を踏まえると、そこからその先にまた多くの問題のあるのが明らかになってくる。「十八年目の誕生日……」に関して、森本修氏は『新考・芥川龍之介伝 改訂版』(昭和52年)で、


龍之介は生後七か月目に芥川家に引き取られ、また新原家も龍之介の生まれた翌年に築地から芝新錢座に移転しているので、生後間もない龍之介に生家とその付近についての記憶があろう筈がなく、これは五、六歳の頃、芝新錢座からもとの新原家の向い側にあつたサンマース幼稚園と日曜学校(もとの新原家のならび)に通つたという姉久から聞いた話などを、多分に美化して書いたものと思われる。

と説いている。このように森本修氏は主に姉ひさ(久と同じ)から聞いたことを書いた文章ではないかという見解を提示している。

 しかし、先程の引用文のなかに「いくつの時でしたか 本所へ住む様になって……」という記述があるので、それ以前の記述は築地の家に住んでいた時の記憶によるものということになる。生後七か月で本所の芥川家に引き取られてしまったとしたら、築地の家にいた時の記憶がないのは当然であるが、「時々」という言葉も使用していて、自分が一定の期間、築地の家にいたことを示しているように受け取れる。鵞鳥に餌をやるのも、直立歩行するようになる満一歳を過ぎていなければ不可能なことである。下女に手を引かれてではなく、背負われて海を見にいったと書いていて、まだ幼かったことだけは確かだとしても、舟幽霊や人魚の話を聞いて、海の底にある国のことを空想するというのは、姉ひさから聞いた話であるはずはない。あくまで芥川龍之介自身が空想したのであり、しかもある程度まで生長していなければ、そういう空想も浮かんでこないように思われる。

 やはり母ふくが精神異常に陥った時点で、父新原敏三がせっかく誕生した長男を直ちに芥川家に預けてしまったというのは、あまりに唐突な印象を与える。芥川龍之介が新原家から芥川家に預けられるまでには、なんらかの段階があったと判断するのが妥当のように考えられる。

 そうでなければ、父新原敏三は芥川龍之介に愛着をいだいていなかったことになる。そのうえ、龍之介の四歳年上の姉ひさは誰が育てたのかという点も問題として浮かんでくるのではないだろうか。

 芥川家のほうでも子供がいなかったので、養子として欲しかったという事情もあったことが推測されるが、龍之介が十歳になった時、新原敏三は龍之介を新原家に取り戻そうとして、芥川家とのあいだに裁判問題を起こしている。父新原敏三が芥川龍之介に深い愛着をもっていたのは間違いのない事実である。

 後年、「追憶」(『文藝春秋』大正13年4月〜昭和2年2月)の冒頭の「埃」と題された章にみられる「僕の記憶の始まりは数へ年の四つの時のことである」という記述は、事実を語ってはいない可能性が高くなる。芥川龍之介は実際には数え年四歳になる前に経験したことも、鮮明に記憶していたとみて差し支えない。

 幼い子供にとって最も重要なのは母の存在であるが、「十八年目の誕生日……」には母の姿はまったく描かれていない。母ふくは明治三十五年に亡くなっているが、芥川龍之介は築地の家にいた時はもとより、本所の芥川家に預けられてからも芝の新原家を訪ねた際に母に接しているのは確かである。しかし、「十八年目の誕生日……」に母の姿を表現するのを避けたのは、芥川龍之介にすでにこの時点で母の存在を封印しようとする意志が形成されていたことを意味している。実際には精神異常に陥った母の姿をさまざまに見ていたはずであるが、内面でそれら母の姿に幕をかけてしまったのだった。

 「十八年目の誕生日……」に教会の建物が描写されているが、芥川龍之介は誕生した時に父が四十三歳で後厄、母が三十三歳で厄年にあたっていたので、当時の厄払いという風習に従って、その教会の路傍に一旦捨て児という形式を踏ませられている。芥川龍之介の主治医をつとめた下島勲は「『二つの絵』の誤りをただす」(『文藝春秋』昭和8年2月号)で、その拾い親は耕牧舎の日暮里支店の責任者をつとめる松村浅二郎という人だったことを明らかにしている。「二つの絵」とは芥川龍之介の友人小穴隆一が『中央公論』昭和七年十二月号、同八年一月号に発表した文章の表題である。

 この「二つの絵」を根拠にして一部の研究者、評論家によって私生児説などのいわゆる芥川龍之介の出生をめぐる謎といった論点を掲げた論考が発表されている。しかし、芥川龍之介にはその種の問題は一切存在しないというよりほかない。

 「大導寺信輔の半生」(『中央公論』大正14年1月号)に「牛乳」と題された章がある。


信輔は全然母の乳を吸つたことのない少年だつた。元来体の弱かつた母は一粒種の彼を産んだ後さへ、一滴の乳も与えなかつた。のみならず乳母を養ふことも貧しい彼の家の生計には出来ない相談の一つだつた。彼はその為に生れ落ちた時から牛乳を飲んで育つて来た。それは当時の信輔には憎まずにはゐられぬ運命だつた。彼は毎朝台所へ来る牛乳の壜を軽蔑した。


 大導道寺信輔という人物名に芥川龍之介自身が投影されていて、この信輔が幼児体験として飲んだ牛乳とは父親が経営する牛乳販売会社の製品であるのは間違いない。「十八年目の誕生日……」には「少年の日の悲しみ」という表現もみられるが、先の牛乳をめぐる記述は芥川龍之介に人生的苦悩とよぶべきものが牛乳を飲んで育った幼年時から影を投げかけていたことを実証している。その人生的苦悩の根源にあるのは母の精神異常という問題であるのは言うまでもないことである。

 芥川龍之介の一生の知己に室賀文武がいる。芥川龍之介の誕生当時、耕牧舎に勤務していたので、その生誕の時から芥川龍之介を知っていた。室賀文武に関しては、関口安義氏が『この人を見よ 芥川龍之介と聖書』(平成7年)で触れている。それによれば室賀文武は明治二年に山口県で生まれている。芥川龍之介とのあいだには二十三歳の年令差があった。新原敏三とは同郷だったので、上京して耕牧舎に勤務した。牛乳しぼりや配達の仕事のほか、芥川龍之介の子守をしたとされる。

 耕牧舎には満三年勤務したのち、みずから転機を求めて退職し、生活雑貨を売り歩く行商をしながら内村鑑三に師事するという生きかたを選んだ。関口安義氏は芥川龍之介が室賀文武について記した文章を引用している。室賀文武は俳人でもあって、大正十三年に『春城句集』を出版しているが、芥川龍之介は「『春城句集』の序」と題して次のような跋文を寄稿していた。


 室賀君の職業は行商である。だから、昼は車をひいて、雑貨類を商(あきな)つて歩く。その時の君を見た者にはこの血色の好い、?幹の長大な行商人が、春城句集の作者である事は、確かに意外な発見であらう。まして、大きな麦藁帽子の下にある鋭い眼が、トルストイを読み、ドストイエフスキーを読む眼だと云ふ事に、気のつくものは一人もあるまい。君はその職業によつて、日々の衣食に資するだけの金を得れば、その月の行商はそれで休んでしまふ。さうして、その時間を挙げて、書を詠むのと、句を作ることに費してしまふ。「アンナ・カレニア」や「罪と罰」は、かくして君の読破する所となつた。室賀君にとつて、心の饑(うゑ)は、肉の饑にひとしく、苦しいのに相違ない。

 室賀君はこの心の饑に迫られて、久しい以前に基督教の信仰を求めた。こうして今は、内村鑑三氏の門下にある信徒の一人となつてゐる。君が行商を以て職業とするのも、単に肉の饑をみたす行爲ばかりではないと云ふ事は、この間の消息に徴して知れる事であらう。


 これをみれば室賀文武がいかに独自の人生を歩んだ人だったかが判るが、芥川龍之介にとっても室賀文武はキリスト教伝道者という重要な役割を果たしてくれた人物だった。昭和十年に出版された『芥川龍之介全集』の「月報」第四号(昭和10年2月)、第五号(同年3月)に「それからそれ」を寄稿し、芥川龍之介母子の姿を書きとめている。


彼はお母さん肖である。そして、其お母さんといふ方は、痩形のすらりとした、美人型だつた。其お母さんは、後には発狂されたけれども、まだ病の発らなかつた前には、極く淑やかで、其に読書きも相当出来さうな、一見誰が目にも、閨秀の面影が漾うて居た。丁度それが、芥川君そつくりといつても可い程だった。


 そのように記したあと、「私は何を忘るゝ事が出来ても、芥川君の幼少の頃の澄み切つた鮮やかな眼だけは忘るゝ事が出来ない。其は実に愛すべきものであつた。彼の幼時に就いての私の知るところは、たゞこの位のものである」と述べている。もし芥川龍之介が生後七か月で芥川家に預けられてしまったとすれば、室賀文武はそれ以後の芥川龍之介は見ていないことになるが、いまの引用に記されているのは這い這いをしている状態の芥川龍之介とは異なるのではないかという印象を受ける。芥川龍之介と室賀文武の生涯を通じての交流は、室賀文武がまだ幼かった芥川龍之介の澄み切った鮮やかな眼を見たことが根幹になっている。その芥川の眼とは這い這いの状態から成長して、視野に存在するものを適格に識別することが可能になるとともに、幼いなりに人格的なものを宿すようになっていた眼ではないかと推測される。

 芥川龍之介にはこれまでに触れたひさの上にもうひとり、はつという姉がいた。はつは明治十八年の生まれで、ひさは明治二十一年の生まれである。ひさは昭和三十一年に永眠しているが、生前に手記を書きのこしていた。子息の巻義敏がその手記を整理したうえで、『世界』昭和四十一年二月号に「叔父芥川龍之介のことども ??母久子の『思ひ出』から」と題して全文を発表している。その文中で母ふくが精神異常に陥った経緯にも触れられている。


 母が病気になつた事についても、色々の人に聞けばいろいろの原因があつたらしい。

 誰でも一番に挙げる事は、??私の姉の初子の死であつたらしい。姉が七歳の四月の時であつた。??父は、親戚を招いて、芝居を観に行つた。が、母はどうしてか、〔其等の親戚の誰かを煩しい事に思つたのか???〕一人で、姉をつれて、新宿の牧場へ「椿狩り」に行つた。

 楽しく、日暮れまで遊んで帰つたが、その晩から、??姉は高い熱を出して、風邪を引いたらしかつた。医者は「急性脳膜炎」らしいと云つた。??母は、必死の看護をしたが、姉のその小さい瞼は再び開かなかつた。

 母と遊びに行く時、喜んで着せてもらつた、その紫縮緬の晴着の袂からは、??まだその時のままの、乙女椿の花びらが、沢山、一杯に出て来た。(それ以来自宅の霊前に供へる花には、椿があれば??先づ取りのかせることを、母は女中や、私などに教へた。)??姉は亡くなる直前「ヒ、フ、ミ、ヨー」と音階を口ずさみながら、息を引きとつたと云ふ事を、??私は後に、芥川の伯母から度たび聞かされた。??思へば、この姉は姉妹中でも一番賢かつたし、父母や親戚中でからも、(長女でもあつたし、)一番愛されてもゐたのだつた。??それだけに、母の心の中には切ないものがあつたらうし、??その責任感も(あの時新宿に連れて行かなかつたらばと、??)余計、強かつたのでなかつたか、??と思ふ。


 父新原敏三が新宿に所有している牧場は広大な規模のものだった。手記では母ふくが観劇に行かずに、はつをその牧場に椿狩りに連れていき病気にさせて、亡くなってしまったことを精神異常に陥った第一の原因に挙げている。手記には母ふくに関して、「小柄で、色白く、神経質で、??口かずが少なく、小心なひとであつた」という記述も存在する。そのような性格だけに、はつの死から激しい自責の念に苛まれ、それが心身に回復不可能なほどの大きな影響を与えることになったと考えられる。

 もう一点、手記に指摘されているのは芥川龍之介が誕生した時、捨て児の形式を踏ませられたという問題である。このことが「かなりの心の痛手でもあつたらう。??後から考へれば、もう少し周囲で、母の心の底を察したならばと思ふ」と述べている。どちらも自分の産んだ子供に起きた出来事によって、母ふくは精神を蝕まれる結果になった。

 ふくにその事態が生じたのは、明治二十五年十月のこととされる。その後、新原家と芥川家とのあいだでどのような話合いがおこなわれたのかは一向に判然としないが、芥川龍之介は本所の芥川家に預けられた。当主の芥川道章は東京府土木課に勤める官吏だった。妻は儔といい、子供には恵まれなかった、ふくの姉や妹が同居していたが、ふくの姉で、結婚経験のないふきが芥川龍之介の養育を担当することになった。ふきは添い寝までして細やかに育ててくれたが、一方で芥川龍之介をきびしくしつけたと言われる。

 「追憶」(『文藝春秋』大正15年4月号〜昭和2年2月号)の「灸」という章には「僕は何かいたづらをすると、必ず伯母につかまつては足の小指に灸もすえられた。僕に最も怖かつたのは灸の熱さそれ自身よりも灸をすえられると云ふことである。僕は手足をばたばたさせながら、『かちかち山だよう。ぼうぼう山だよう』と怒鳴つたりした」と述べている。身体感覚としての熱さではなく、心理的に怖ろしかったというのである。それはことによると実母ではない人から灸をすえられるということの怖ろしさだったのかもしれない。

 しかし、芥川龍之介は伯母ふきに早くから文字を読むことを教えられた。「追憶」の中の「草双紙」という章で、自宅の本箱には草双紙がいっぱい詰まっていて、もの心ついた頃からそれらの草双紙を愛読したと語っている。そこに登場する恐ろしい大天狗が、自身の記憶に残る最初の作中人物になったということである。

 本を読むという行為に関して、「大導寺信輔の半生」の「本」という章では次のように記述している。


本に対する情熱は小学時代から始まつてゐた。この情熱を彼に教へたものは父の本箱の底にあつた帝国文庫本の水滸伝だつた。頭ばかり大きい小学生は薄暗いランプの光のもとに何度も「水滸伝」を読み返した。のみならず本を開かぬ時にも替レ 天行レ 道の旗や景陽岡(けいやうがをか)の大虎や菜園子帳青(さいおんしちやうせい)の梁(はり)に吊つた人間の腿を想像した。想像???しかしその想像は現実よりも一層現実的だつた。


 このように芥川龍之介の読書に熱中する姿勢は、小学生の時に『西遊記』や「水滸伝』を読むことから始まった。「大導寺信輔の半生」の「本」の章には、小学校の上級生になって、弁当やノート・ブックを小脇にかかえて大橋図書館に通うようになった自身の姿も描かれている。また、森本修『新考・芥川龍之介伝 改訂版』によれば、読書だけで満足することができず、明治三十五年から翌三十六年にかけて同級生と回覧雑誌『日の出界』を編集発行している。そこに「昆虫採集論」や「大海賊」といった表題の文章を発表する。

 三好行雄編の年譜(『現代のエスプリ』第24号収載・昭和47年3月)には小学生当時につくった俳句として「落葉焚いて野守の神を見し夜かな」が引用されている。この俳句は「落葉焚いて葉守りの神を見し夜かな」が正確ではないかと思われるが、葉守りの神とは柏の木に宿る樹木の守り神をさしている。夜、落葉を焚いた時に炎に照らされた闇の奥に樹木の守り神の姿を見たという意味になる。小学校四年生の時につくったとされるが、完成度が高く奥行きが深くて、到底小学生のつくった俳句とは受け取れない。芥川龍之介の文学活動の出発点にこの俳句を位置づけることさえ可能なように思われる。

 さらに外国語に関してであるが、「私の文壇の出るまで」(『文章倶楽部』大正6年8月号)に「私は十位の時から、英語と漢学を習つた」と記されている。「小説を書き出したのは友人の煽動に負ふ所が多い ??出世作を出すまで」(『新潮』大正8年1月号)にもそれとまったく同一の記述がある。これは語学の才能があったとか語学力が発達していたといった度合いを超えて、文字そのものが好きであり、文字に対する愛着心や好奇心というような心理の働きがあったと判断するのが妥当になる。

 そういう小学生時代に始まって、中学校、高等学校、大学に至までの学校教育を通じて、芥川龍之介の学業成績はつねに優秀だった。東京府立三中(現、両国高校)に進んだが、のちに同校の校長になった広瀬雄は芥川龍之介が入学した時に一年生の主任を担当していて、「芥川龍之介の思出」を『芥川龍之介読本』(『文藝』臨時増刊・昭和31年4月)に寄稿している。

 広瀬雄は入学の第一印象を一年生会員に書かせたという。その中に半紙一枚全面に亘る堂々たる文章があった。

 その大意は「自分は小学校では優等生だなどと言われたけれど、入学試験は競争が激しいというから果たして首尾よく入学できるだろうかどうか心配でならなかつた。ところが幸い試験も無事に通つて、やれ嬉しやと思つたのも束の間、この度入学式もすみ授業も始まつて見ると、隣に坐つている人、前にいる人、後ろにいる人、どの顔を見ても皆優等生らしい顔ばかりである。若し来年進級試験に落第したらどうしよう。それこそ恥晒しだ。そうだこれから一つ大いに勉強しなければならぬ。」

 大体こういつたようなことを、子供らしくはあるが淡々と書き流した最後を「『男児立志出郷関、学若不成死不帰」を口吟んで校門を出た」という句??この一句だけは今も忘れません??と結んであつた。


 毛筆で書かれ、誤字もなく、心にくいばかりの名文だった。誰が書いたのかと名前を確かめると、芥川龍之介と記されていた。

 翌日、広瀬雄が顔を見たところ、「ほっそりとした身体に撫肩、面長で割合に頭が大きく、頤が細く、鼻が隆く、わたつ海の底の真珠のように、叡智を深く蔵するかのような瞳……」と芥川龍之介の印象を記している。

 単に学業成績が優秀だったというだけでなく、他の誰ももっていない際立った個性的な特徴を感じさせる少年だったことが判明する。

 それでは芥川龍之介にとって学校という環境が快適なものだったのかと言えば、決してそうではなかった。「大導寺信輔の半生」の「学校」と題された章には、学校に関して「薄暗い記憶ばかりを残してゐる」と記し、「殊に校則の多い中学を憎んだ。如何に門衛の喇叭の音は刻薄な響きを伝へたであらう」と述べている。授業を通じての知識の詰めこみ教育をドストエフスキーの『死の家の記録』に描写されているバケツの水を他のバケツに移すだけという無意味な労役をただ単純に繰り返すことを強いられる囚徒になぞらえたうえで、「鼠色の校舎の中に、??丈の高いポプラアの戦(そよ)ぎの中にかう云ふ囚徒の経験する精神的苦痛を経験した」と書き、「教師と言うものを最も憎んだのも中学だつた」というのである。具体的にどういう状況だったのかが問題になるが、それに関しては次のように記述している。


達磨(だるま)と言ふ渾名(あだな)のある英語の教師は「生意気である」と云ふ爲に度たび信輔に体刑を課した。が、その「生意気である」所以(ゆゑん)は畢竟(ひつきやう)信輔の独歩や花袋を読んでゐることに他ならなかつた。又彼等の或ものは??それは左の眼に義眼をした国語漢文の教師だつた。この教師は彼の武芸や競技に興味のないことを喜ばなかつた。その爲に何度も信輔を「お前は女か?」と嘲笑した。信輔は或時赫(くわつ)とした拍子に「先生は男ですか?」と反問した。教師は勿論彼の不遜に厳罰を課せずには措(お)かなかつた。


 この引用をみると、教師と生徒との関係のなかで、突出して文学的才能をもった生徒をまったく理解することのできない教師が複数いたという事実が判明する。文学という分野を理解できないから文学的才能をもっている生徒を理解することができないいという結果になるが、そういう教師は単純明快な生徒しか理解できないまま暴力をふるった。しかも、「度たび」と記していて、何度も殴られるという経験をさせられたことが明確になる。「中学は彼には悪夢だつたことは必ずしも不幸とは限らなかつた。彼はその爲に少くとも孤独に堪へる性格を生じた。さもなければ彼の半生の歩みは今日よりももつと苦しかつたであらう」と芥川龍之介は述べている。

 母ふくの精神異常という事態は家族という枠組みのなかでの問題である。しかし、中学校のなかで起きたことはそうした枠組みを超えた、自分と純然たる他者との関係の問題である。いまの引用のなかで語られているのは、中学時代の自分とその後の自分とを比較して、芥川龍之介にとっては中学時代のほうがはるかに辛かった、苦しかったということである。一生を通じて最も苦しかったのは少年期だったという人が現実に存在する。芥川龍之介もそういう例に当てはめて考えることが可能かもしれない。暗鬱な人生的苦悩が中学時代から本格的に始まっていたと判断できる。

 明治四十三年に第一高等学校に入学する。芥川家は本所から新宿の牧場のなかにある父新原敏三の所有していた家に転居している。芥川龍之介は第一高等学校の一年生の時は自宅から通学し、二年生から寮に入っている。最も親しかった友人となったのが恒藤恭(当時、井川姓)だった。恒藤恭は「友人芥川の追憶」(『文藝春秋』昭和2年9月特別号)に、


 身体の力の旺盛なために、肉体と精神との釣り合のとれてゐない人が沢山あるが、彼の場合には、精神の力が旺盛に過ぎて、肉体と精神との釣り合が危げに保たれてゐた。高等学校において既にその兆があらはれてゐた。後年、この現象は顕著となり、芥川は常にどれだけそれを気にかけ、それに悩んだか知れない。

 彼の精神のはたらくところ、凡そ愚鈍と名状する可きものの現れを見出し難かつた。彼の肉体は彼の精神を荷ふにふさはしき品位にみちてゐたが、彼の精神のはたらきを支へるに足りる力にあまりに欠けてゐたとも考へられるであらう。


と述べている。単なる聡明というレベルをこえた、あまりに旺盛な精神の活動力と反比例して、肉体のほうはいかにも虚弱で危なつかしく見えたことが判る。恒藤恭はこういう指摘もしている。「彼は初めは中々寮で入浴することを肯んぢなかつた。やつと入浴するやうになつても、稀にしか入浴しなかつた。/しかし忘れて手拭いをもたずに風呂にはいつたやうな逸話をのこした。錢湯にもあまり行つたことはないと云つてゐた」というのである。感覚がデリケートすぎて、他人と入浴するのが容易にはできなかったらしいことがうかがえる。また郊外に出かけても「野外で弁当をたべるやうなことは嫌ひな彼であつた」と恒藤恭は記している。

 前掲の三好行雄編の年譜の明治四十四年の項には「龍之介は秀才肌のまじめな学生で、読書欲・知識欲も依然として旺盛だつた。ボードレール、ストリンドベリイ、アナトール・フランス、ベルグソン、オイケンなどを愛読した」と記載されている。もっぱら西洋文学の作品を濫読していたことが推察できる。一方、この年、友人の山本喜誉司に注目したい内容の書簡を差し出している。


 何をやつても同じ事だ、結局は同じ運命がくるのだし、誰でも同じ運命のあふのだから。

 しみ??何のために生きてゐるのかわからない。神も僕にはだん??とうすくなる。種の爲の生存、子孫をつくる爲の生存、それが真理かもしれないとさへ思はれる。外面(めん)の生活の欠陥を補つてゆく歓楽は此苦しさをわすれさせるかもしれない。けれども空虚な感じはどうしたつて失せなからう。種の爲の生存、かなしいひゞきがつたはるぢやアないか。

 窮極する所は死乎、けれども僕にはどうもまだどうにかなりさうな気がする、死なずともすみさうな気がする。卑怯だ、未練があるのだ、僕は死ねない理由もなく死ねない、家族の係累といふ錘はさらにこの卑怯をつよくする、何度日記に「死」といふ字をかいて見たかしれないのに。


 因みに山本喜誉司は府立三中時代の同級生で、のち大正七年に芥川龍之介と結婚することになる塚本文の母の弟で、叔父にあたる人である。芥川龍之介と一年遅れて第一高等学校に入学しているが、今の書簡を書いた時、芥川は第一高等学校の二年生で、二十歳である。

 年令的にようやく成人の領域の入り口に到達しているが、この時点で生の先に死が存在することを前提にして人生を考察している。死を考えるというのは人生的苦悩の最たるものである。しかし、そういう苦悩のなかで生存欲による生きかた、或いは単に生存するために生きるという方途があるのをつかみ出していた。

 ここで語られていることが「羅生門」(『帝国文学』大正4年11月号)を発想するうえでの原点となり、さらに『侏儒の言葉』のよく知られているアフォリズム「地獄」をも成立させるうえでの原形的な考えかたになったと判断できる。「侏儒の言葉』は『文藝春秋』大正十二年一月創刊号から同十四年十一月まで連載され、その後に書かれたものが同誌昭和二年九月号に遺稿として発表された。次が『地獄」の章の全文である。


人生は地獄よりも地獄的である。地獄の与へる苦しみは一定の法則を破つたことはない。たとへば餓鬼道の苦しみは目前の飯を食はうとすれば、飯の上に火の燃えるたぐひである。しかし人生の与へる苦しみは不幸にもそれほど単純ではない。目前の飯を食はうとすれば、火の燃えることもあると同時に、又存外楽楽と食ひ得ることもあるのである。のみならず楽楽と食ひ得た後さへ、腸加太児(カタル)の起ることもあると同時に、又存外楽楽と消化し得ることもあるのである。かう云ふ無法則の世界に順応するのは何びとにも容易に出来るものではない。もし地獄に落ちたとすれば、わたしは必ず咄嗟の間に餓鬼道の飯も掠め得るであらう。况や針の山や血の池などは二三年其処に住み慣れさへすれば格別跋?の苦しみを感じないやうになつてしまふ筈である。


 地獄の法則性とは地獄に堕ちた場合、ただひたすらに生存するためにだけ生きればいいという意味ではないかと解釈することができる。人生的現実はそのような単純なものではないことを無法則性と表現しているように思われる。人生的現実での苦悩は深刻で苦しく、それに比べれば地獄で生存するためにだけ生きるほうがはるかに容易だと芥川龍之介は認識していたことが明らかになる。

 同時に考えなければならないのは、そのような認識は『侏儒の言葉』によってはじめて成立したのではないという点である。先程も触れたが、明治四十四年の山本喜誉司あての書簡に、その認識の原点となるものが形成されいるのを見出すことができるのだった。

 さらに芥川龍之介の文学の初期を代表する「羅生門」は、地獄で生存欲のためにだけ生きるのであれば、それはむしろ容易なことではないのかという問題意識が形象化された作品のように受け取れる。それとは対蹠的てきに、晩年を代表する「歯車」(『大調和』昭和2年6月号、『文藝春秋』同年10月号)は、人生的現実を生きることがいかに深刻で苦悩にみちたものであるのかを表現した作品だと判断できる。ただ、山本喜誉司あての書簡から『羅生門』が成立するまでの経過だけでも決して単純に進める道筋ではなかった。

 まず採りあげたいのは、第一高等学校に在学中の明治四十五年一月に文壇活動第一作となる「大川の水」の初稿を書き上げていることである。この作品は翌大正二年に同校を卒業して東京帝国大学英文科に入学してから、『心の花』大正三年四月号に発表された。

 これまでに触れた「十八年目の誕生日……」には「私は築地の何とか云ふさびしい通で生まれたのでした」という記述がみられた。しかし、「大川の水」には冒頭に「自分は、大川端に近い町に生まれた」と記されている。「十八年目の誕生日……」には母についてまったく言及されておらず、母の存在を封印してしまっているのを指摘したが、「大川の水」はその点が同じであるうえに、自身の誕生の場所が築地から大川端へと変更されている。それは母についての考えかたに変化が生じたことと関係があるように思われる。


自分は、昔からあの水を見る毎に、何となく、涙を落としたいやうな、云ひ難い慰安と寂寥とを感じた。完(まつた)く、自分の住んでゐる世界から遠ざかつて、なつかしい思慕と追憶との爲に、此慰安と寂寥とを味ひ得るが爲に、自分は何よりも大川の水を愛するのである。


 この引用からは、精神異常に陥った母ふくが明治三十五年、芥川龍之介が十歳の時に死亡したという事実を踏まえて、失ってしまった母胎を代償するもののように大川の水が受けとめられているのが感じられる。単なる大川の水を描写する文章ではなく、大川の水を見る時に意識する感情の動きは母というよりむしろ母胎に対するなまなましい感情の動きにほかならないように思われる。

 また夜眺める大川の水については、「夜網の船の舷(ふなばた)に倚つて、音もなく流れる、黒い川を凝(みつめ)視(みつめ)ながら、夜と水との中に漂ふ『死』の呼吸を感じた時、如何に自分は、たよりのない淋しさに迫られたことであらう」と述べている。大川の水に母胎を意識せずにいられないというかたちで母について考えると、そこに死の想念が結びついてしまうという事情をうかがうことができる。

 のちの「大導寺信輔の半生」でも書き出しの一行が「大導寺信輔の生まれたのは本所の回向院の近所だつた」となっていて、芥川龍之介はここでももはや築地で誕生したと語ることはなかった。

 この時点で、たとえ生の先に死が存在することを自覚していても、自己を死の方向へ持っていこうとは考えなかったに違いない。いかにすれば自分は生きられるだろうかと思考をめぐらしたことが想像できる。「大導寺信輔の半生」の「本」の章には、「彼は人生を知る爲に街頭の行人を眺めなかつた。寧ろ行人を眺める爲に本の中の人生を知らうとした。それは或は人生を知るには迂遠(うおん)の策だつたのかも知れなかつた。が、街頭の行人は彼には只(ただ)行人だつた。彼は彼等を知る為には、??彼等の愛を、彼等の憎悪を、彼等の虚栄心を知る爲には本を読むより外はなかつた」という記述がある。芥川龍之介が読んだ本とは「世紀末の欧羅巴の産んだ小説や戯曲」だったというが、具体的にはストリンドベリイやイプセンの作品とみて差し支えない。社会的現実の場で他人と接触し交流して人間としての生きかたを考えるよりも、同じことを本の中に描かれている人間像を通して把握しようとしたことになる。その結果として、芥川龍之介は芸術を創出することによって死の方向に向かわずに生きられることを悟った。

 第一高等学校在学中を通じて親友だった恒藤恭(井川恭と同じ)は、その後京都帝国大学に進学していたが、芥川龍之介は大正三年一月二十一日に井川恭あてとして、


 しひて神の信仰を求むる必要なし 信仰を窮屈なる神の形式にあてはむればこそ有無の論もおこれ 自分は「このもの」の信仰あり、こは『芸術」の信仰なり。この信仰の下に感ずる法悦が外の信仰の与ふる法悦に劣れりとも思はれず

 すべてのものは信仰とならずんば駄目也 ひとり宗教に於てのみならず ひとり芸術に於てのみならず すべて信仰となりてはじめて命あらむ


と書簡に記している。

 これをみれば、自身が生きられるためには宗教の世界に入るか芸術に携わるか、そのふたつの選択肢を想定していたことが判明する。この場合の宗教とはキリスト教信仰であるが、旧約聖書の「伝道の書」第三章十一節には、「神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思ふ思いを授けられる」という聖句が見出される。キリスト教信仰とは永遠のいのちを生きることであり、永遠性を思い、希うことでもある。もし芥川龍之介が文学者でなかったら、ただちにキリスト教信仰を受容し、キリスト教信仰者となったはずである。

 しかし、芥川の眼前には文学というジャンルが存在していたので、宗教ではなく、文学、或いは芸術の分野を選択することになった。生きる、或いは生きられるという目的のために、芸術によっても宗教とほぼ同等に近い意義を実現することができると判断したからである。芸術にも永遠のいのちがあり、芸術の創出に携わることによって永遠性を思い、希うことが可能なように思われる。このようにして芥川龍之介は自身を文学へ、芸術へと方向づけることが決定した。

 スーザン・ソンタグは「美についての議論」(『新潮』平成15年2月号)でヘーゲルの見解を簡潔に紹介している。「芸術の美は天然の美よりも優れていて、『より高い』ものだとヘーゲルは言う。その理由は、それは人間が作ったものであり、精神の産物だからだと」(木幡和枝訳)というのである。芥川龍之介の芸術への信頼も、それが人間の精神による活動の所産にほかならないということに基づいていたと思われる。

 間もなく芥川龍之介にはもうひとつの現実的な問題が起きて、深刻な苦悩に直面しなければならなくなった。それはひとりの女性との恋愛問題である。

 その女性の名は吉田彌生というが、この問題に関しては、森啓祐「芥川龍之介と吉田彌生」(『国文学』昭和45年11月号)に詳細に報告されている。それによれば吉田彌生は芥川龍之介と同年の明治二十五年に東京深川(現、江東区)で誕生している。母は中村姓で、彌生も母と同じ姓だった。翌二十六年、母は盛岡出身の吉田長吉郎と結婚している。彌生もその家で育てられ、生長した。明治四十一年に吉田長吉郎が彌生を認知したので、吉田姓となった。

 吉田長吉郎は芝の東京病院に職員として勤務し、病院構内の宿舎に住んでいたので、芥川龍之介の実家、新原家とは距離的に近かった。東京病院が新原敏三の経営する耕牧舎から牛乳を購入していたので、新原家と吉田家は昵懇になった。

 芥川竜之介自身も吉田家の人とは早くから顔馴染みだったが、東京帝国大学に入学してから吉田家を訪ねて吉田彌生のことを意識するようになった模様である。吉田彌生は青山女学院英文専門科に学び、外国文学にも詳しかった。大正三年秋ごろ、吉田彌生に縁談がもちあがっているのを知った芥川龍之介は自分が吉田彌生にプロポーズすることを決意し、家族に相談した。ところが伯母のふきを始め、全員が反対だった。吉田彌生が婚外子だったという事情が反対の大きな理由になっている。そのため芥川龍之介は断念せざるを得なかったが、大正四年二月二十八日、井川恭(恒藤恭と同じ)あての書簡にその経緯を説明している。


 僕は求婚しやうと思つた そしてその意志を女に問ふ為にある所で会ふ約束をした 所が女から僕へよこした手紙が郵便局の手ぬかりで外へ配達された為に時が遅れてそれは出来なかつた しかし手紙だけからでも僕の決心を促すだけの力は与へられた。

 家のものにその話をもち出した そして烈しい反対をうけた 伯母が夜通しないた 僕も夜通し泣いた

 あくる朝むづかしい顔をしながら僕が思切ると云った それから不愉快な気まづい日が何日もつゞいた 其中に僕は一度女の所へ手紙を書いた 返事は来なかつた


 結果的に吉田彌生は大正四年五月に陸軍士官学校出身の軍人と結婚している。配偶者に文学者の芥川龍之介ではなく陸軍軍人を選択するというのは、吉田彌生には複雑な知識人の男性より軍人という単純明快な男性のほうが理解しやすいと判断したからであるのに違いない。それにしても伯母ふきの反対行動にも異常性が感じられる。伯母が幼い時から芥川龍之介を養育したのはそのとおりだとしても、成人の年令に達した時点で離れるべきである。ところが、芥川龍之介が大正七年に文夫人と結婚したあとも、依然として伯母ふきは新婚の二人の傍に居つづけている。それは高齢になった伯母が芥川龍之介に依存するという関係に陥っていたためのように受け取れる。

 芥川龍之介が初期を代表する「羅生門」の執筆に着手するのは、そのような困難な状況のなかである。恋愛の挫折による精神的傷も癒えてはいないという状態のまま、構想をめぐらしていた。ことによると、「羅生門」を執筆することが傷を癒やす結果になったことも考えられる。

 外国文学に精通していた芥川龍之介が日本古典に取材している点が、「羅生門」の目立った特徴である。『今昔物語集』に収められている「羅城門登上層見死人盗人語」(らせいもんのうはこしにのぼりてしにんをみたるぬすびとのこと)という物語を原典にしている。

 当時、森?外が歴史小説を次々に発表していたので、森?外の影響を受けたということも十分あり得るはずである。芥川龍之介は東京帝国大学在学中にのちに触れるとおり夏目漱石を訪問しているが、森?外も訪ねていた。「森先生」(『新小説』大正11年8月臨時号)に、


或夏の夜、まだ文科大学の学生なりしが、友人山宮允君と、観潮楼へ参りし事あり。森先生は白きシャツに白き兵士の袴をつけられしと記憶す。膝の上に小さき令息をのせられつつ、仏蘭西の小説、支那の戯曲の話などせられたり。話の中、西廂記と琵琶記とを間違へ居られし爲、先生も時には間違はるる事ありを知り、反つて親しみを増せし事あり。部屋は根津界隈を見渡らす二階、永井荷風氏の日和下駄に書かれたると同じ部屋にあらずやと思ふ。その頃の先生は面(めん)の色日に燒け、如何にも軍人らしき心地したれど、謹厳などと云ふ堅苦しさは覚えず。英雄崇拝の念に充ち満ちたる我等には、快活なる先生とのみ思はれたり。


と述べている。

 「羅生門」の草稿を調査した研究によれば、草稿の段階で、主人公は最初、交野五郎という固有名詞になっていて、その後固有名詞を消して「一人の武士」になり、最終的に「下人」という善通名詞を使用することで結着したことが判明している。芥川龍之介は「下人」という用語をどこから把握したのかと言えば、それは紛れもなく森?外「山椒大夫」(『中央公論』大正4年1月号)からである。森?外が「下人」という呼称を最初に用いて、それを芥川龍之介が「羅生門」で受け継いだということになる。芥川龍之介は主人公を「下人」とよぶことに決定した時点で、「羅生門」が作品として事実上、完成したのを自覚したはずである。

 「或る日の暮方の事である。一人の下人が羅生門の下で雨(あま)やみを待つてゐた」という記述によって「羅生門」は始まる。下人は数日前に働いていた先を解雇され、行き場もないままに羅生門の下にたどり着いた。

 京都の町はたびかさなる災害によってすっかり衰微し、荒廃していた。雨の降る夕刻、朱雀大路の南端にある羅生門の付近は歩いている人もいなかった。

 芥川龍之介は柱にとまっているこおろぎや、下人の?にできた面皰に注目する。一匹のこおろぎといういかにも小さな存在によって羅生門の巨大な円柱の太さが、また頬の一か所の面皰から下人のもっているたくましい活動力が映し出されてくる。

 下人はこのままなにもしないでいたら、餓死するしかなかった。いま、下人には自分の生存だけが問題だった。それでも倫理意識があるのか、盗人(ぬすびと)になることには肯定できなかった。

 さしあたって寝る場所を探さなければならないので、周囲を見まわした時、梯子があるのに気づいた。それを登って羅生門の楼上にいってみることにした。羅生門にたどり着いてから、それが最初の行動である。

 楼の上には顔をそむけずにはいられないような地獄図の光景がひろがっていた。病死か餓死したのか、いくつもの死体が運びこまれて放置されていた。「その死骸は皆、それが、嘗(かつて)、生きてゐた人間だと云ふ事実さへ疑はれる程、土を捏(こ)ねて造つた人形のやうに、口を開(あ)いたり手を延ばしたりして、ごろごろ床の上にころがつてゐた」というのである。

 しかし、下人はその地獄図の一角に、誰かが火をともしてうずくまっているのに気づいた。白髪頭の小柄な老婆だった。眼を凝らしてみると、老婆は死骸から長い頭髪を一本ずつ抜いているのだった。下人自身はたとえ餓死しようとも盗人になることはできないと考えていた。おそらくその考え方が人間性を守るうえでのぎりぎりの線だった。それなのにこの老婆の行為はなんということだろうと思うと、憎悪の念が燃え上がってきた。下人は太刀に手をかけながら、老婆に近づいていった。すると、驚いて老婆は弾かれたように逃げ出した。

 下人はすぐに老婆を追いつめて腕をつかんだ。いまなにをしていたのか、と問いただすと、「この髪を抜いてな、この髪を抜いてな、鬘にせうと思つたのぢや」とあえぎあえぎ答えた。頭髪を鬘の材料として買いとる人のいることが判った。これをしなければ餓死してしまうから仕方なしにしているのだとも述べた。

 それを聞いているうちに下人は自分はいたずらに餓死する必要はないことを悟った。老婆の行動を許容する気持ちになるのと同時に、自身も生存のためにはなにをしてもいいのだと考えた。

 下人は老婆の着物を引きはがし小脇にかかえて梯子をかけ下りた。またたく間に夜の闇の底に消えていった。「下人の行方は、誰も知らない」と書いて、この作品は終わる。

 前に触れたとおり、のちに「侏儒の言葉」のアフォリズムとして結晶する人生的現実における苦悩に比べれば、地獄で生存欲のためにだけ生きるほうが、はるかに容易であるという思想を、大正四年の段階で形象化した作品が「羅生門」だと判断して差し支えない。

 「羅生門」が『帝国文学』大正四年十一月号に発表された時、反響はほとんどなかったということである。各種年譜によれば、その翌十二月に第一高等学校、東京帝国大学を通じての知友である林原耕三に伴われて夏目漱石を訪問し、門下の集まりである「木曜会」に参加した。大正五年二月に第四次『新思潮』創刊号に発表した「鼻」が夏目漱石から激しい賞賛を受けた。

 一方、大正五年は夏目漱石が最後の作品となる「明暗」を朝日新聞に連載した年である。小宮豊隆は『夏目漱石』(昭和13年)で、健康が万全な状態ではなかった夏目漱石に長期にわたり「明暗」を執筆する根気を与えたもののひとつとして、「前年の秋ごろから漱石に接近し始め、次第に漱石に?剌たる情熱を浴びせかけるに至った『新思潮』の同人、芥川龍之介、久米正雄、成瀬正一などの一群の、ヤンガー・ジェネレーションがあつたといふ事とを見逃すわけに行かない」と述べている。

 夏目漱石はかつて周囲に集っていた弟子たちに愛想をつかさざるを得ないような状況にもなっていた。その時、夏目漱石の懐へ跳りこんでいったのが芥川龍之介、或いは久米正雄などだったということになる。「漱石は芥川だの久米だのの若々しい愛を受けて、ほんとに若返り、何か世の中に生きてゐる事が、頼(たの)もしいやうな心持ちにもなつたものだらうと思ふ」と小宮豊隆は記している。

 夏目漱石にとっても芥川龍之介にとっても、この師弟関係はこの上なく有意義な精神の交流をもたらしたことが推測される。

 本稿も今回はこのあたりで一応締めくくらなければならなくなったが、芥川龍之介の晩年の生きかたに関して、一、二言及しておきたいことがある。遺作になった「西方の人」(『改造』昭和2年8月号)、「続西方の人」(『改造』同年9月号)でキリストの生涯やマリアについて考察している。しかし、そうではなくキリストの遺した教えを考察するのを主眼としていれば、芥川龍之介の生きかたも変わっていたのではないかと思われる。「歯車」にはたとえば「僕は罪を犯した爲に地獄に堕ちた一人に違ひなかつた」というような記述がみられる。また、結末は「誰か僕の首を眠つてゐるうちにそつと絞め殺してくれるものはないか?」という一行で終わっている。このままでは芥川龍之介自身がどんどん死の方向へ引き寄せられてしまう結果に陥る。もしキリストの説いた教えを考察の対象にしていれば、深刻な苦悩を解決するうえでのなんらかの方途を見出すことができたのではないかと考えられてくる。

 もう一点、奥野健男が「対談・芥川龍之介と現代」(『ユリイカ』昭和52年3月号、対談者中村真一郎)で「『歯車』や『河童』や、あそこの狂気というものを、もっと彼が耐えていけば、あるいは島尾敏雄の世界とか、もっと前衛的な現代芸術の世界とかが、いろいろ出たんじゃないかっていう気もする」と発言している。最後の時点で芥川龍之介がもっと耐えていたら、ということは多くの人が考えた点でもある。小宮豊隆は「一挿話」(『芥川龍之介全集月報』第7号・昭和10年5月)で、最晩年の芥川に九州大学に招聘したいという話がもちこまれていたことを紹介している。佐藤春夫は「芥川龍之介を懐ふ」(『改造』昭和3年7月号)で、芥川とともに海外旅行に出かける話があったと言及している。

 とくに注目したいのは、阿部知二が「対談・日本文学と観念性」(『新日本文学』昭和30年7月号、対談者荒正人)で提示した見解である。


これはフトした思いつきと見てもらっていいのですが、もし芥川龍之介がそれこそ第一次大戦後のT・S・エリオットとか、フランスでいえばヴァレリーでもよかろうし、そういう主知主義で??居直ったといっちゃいけないが、プロレタリア文学的ヒューマニズムを切り捨てて立ったような、ああいう文学を知っていたら、ああいう悲劇的な観念の谷間に、??いわゆる敗北の文学といわれるような谷間に陥ることはなかったんじゃないか。芥川龍之介が悲劇的なことになったのは、いろんな原因があるでしょうし、今日でも各人各説であって、完全な結論は出てないのかもしれないけれども、何にしても「敗北」と人にいわれるようなところは無くはなかったのでしょう。むしろ正直なものだから、プロレタリア文学的ヒューマニズムというものを日夜どうしても忘れることができない。(笑)そこで、「いや文学にはそういう面じやない世界があるんだ」という、ヴァレリーだとかT・S・エリオットみたいな生き方を知らなかったところが辛かつたんじやないかと思うな。


 そのように阿部知二は語っている。これは示唆に富んだ見解で、昭和二年七月、睡眠薬を服用して世を去った芥川龍之介に、ヴァレリーやエリオットのような主知主義的な文学者として生きることができる可能性がなかった訳ではないのと感じさせられる。この場合、そのことを芥川龍之介の心に届かせるためには、どのような言葉で語りかけるべきだったのか、と深い思いに誘いこまれる。




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