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32号 相馬明文 {書評」佐藤隆之著
【書評】
佐藤隆之著「太宰治と三島由紀夫 双頭のドラゴン」
相馬明文
著者の研究面での〈野心〉(本書「序」)が一書となったことを、まず慶賀します。著者の博識畏るべしの感が初発の印象でした。太宰の優れた研究者として、既に業績顕著の著者ですので、太宰に関する見識と記述には特に驚きはしませんでしたが、加えての三島の該博なそれには圧倒されてしまいました。この二人の作家の間にある関わりの意味は、長い間解明を試みられてきた研究テーマですが、本書は〈二人を共通の舞台に立たせ〉〈共通点と相違点〉を明らかにしていく〈新視点〉の〈提供〉(「序」)を目指すという意欲作です。過日天に昇った相馬正一先生の最期の課題は、三島由紀夫にとっての太宰治でありました(評者への私信、短い論考が地元新聞に掲載された)。評者には本書との奇縁になりました。
正直に言いますと、評者が本書の良き読者になるのは、もうしばらく時間が必要と思われます。太宰作品を少し読みかじってはいますが、三島文学は四十年ほど前の学生時代とその後の数年間、代表作や解説の類を読み飛ばしただけで、この十年間ほどまとまった研究書は一冊も読んでいないからです。
本書はさまざまなテーマについて、二人を対照的に取り上げて、作家面作品面での共通点と相違点を解読しようとしています。サブ・タイトル「双頭のドラゴン」の由縁です。
評者の理解では、第一章「二人の出会い」を別とすれば、その他の章で著者が直接にその共通点なりを論じている部分は「長編小説への挑戦と失敗」の章末のみになります。ほぼ〈タイトルに二人の共通点、その中で論じられている作品分析において共通点と相違点が浮き彫りになってくる〉(「あとがき」)というとおりでしょう。たとえば「二人の出会い」で、太宰の心中には三島の市ヶ谷での割腹自決が相当するらしく、前者は女性とであったが三島は男性との心中と言える趣意を述べます。これが共通点と相違点というのは図式的で察しがつきます。三島の自決を同性との心中という指摘は、過去にも何かで見たような気がすることを付加しておきましょう。「生い立ち、そして、母性と父性の問題」で触れられる、太宰の欠如態としての母親像、母性の喪失感はよく知られているところです。著者は三島の母子関係を、理想的と評しながらも〈実は何か互いに作り物じみた、妙な緊張感をはらんだ関係〉と説いています。これは共通点なのでしょうか、深遠な意味での相違点にあてはまるのでしょうか。「戦争に対する意識」の章、大東亜戦争下で自己の文学的態度を持ち続けていた太宰と〈ロマンチシズム〉から戦争を穿鑿した三島も、重なりあう作家像になりますか。「断崖と水に対する死の衝動」、水が死と再生の象徴になっているという解析です。太宰文学での水への〈親和性〉はかなり有名な事項ですが、三島の水は悲劇と結びついているという相違点をもちながら、共通点として分類されるという点などは、本書を読んでいて理解しやすい部分と言えます。「ストーリーテラーとしての才能」では『新釈諸国噺』『お伽草紙』と『近代能楽集』を取り上げています。その翻案的作法から当然といえば当然であるとしても、〈三島にとっては、芸術家は天よりも上位の存在であった〉とするならば、手法がやや逸れているのかもしれませんが、『右大臣実朝』こそ引いて欲しいと思いました。
さて、〈共通点と相違点が浮き彫り〉にされるために、著者はかなりの分量に上る二人の小説本文や二人に関する研究書評論の文章をそれぞれに引用しています。〈浮き彫り〉の資料として有用で有り難いのです。けれども、この手法は両刃の剣にもなっているような気がしています。つまり、両作家を個別に並べて〈詳しく論じ〉(「序」)ていることが〈浮き彫り〉になる、という著者の意気込みは高く評価されるべきものですが、読み手に対する信頼が大き過ぎないかと少し不安になるのです。二人の作家とその文学の全容に通暁している優れた読み手にとっては、共通点相違点を難なく〈浮き彫り〉にできても、そうでない読者には、どうして共通点相違点になるのか、それが二人の文学の全貌とどのように関わるのか等々、やはり著者の説明なり論点の提示が欲しいところです。先に二、三評者なりの読み取りを述べましたけれども、著者の読みは遥かに深淵まで及んでいるものと察せられます。それどころか、実のところ著者の論をそのような分類に汲み取っていいのかどうかさえ、全く自信がありません。それを著者の直接の言で確認したいのです。
評者の力のなさばかり露呈してしまいましたが、著者に対する期待は大きなものがあります。保田與重郎や中野重治等と太宰との関わりにも詳しい著者からは、さらに太宰の周辺のたたずまいについて教示を受けたいと願っています。同時に、単独の三島由紀夫研究(論)も期待していいのではないか、とも思っています。
評者が高校二年のある日、世界史の教室に担当の先生が入ってくるなり、「ニュース解説」と銘打ったB5の用紙いっぱいに小さな文字でビッシリと記述された用紙を配布して、「三島由紀夫が自決した。これから世の中が大きく変わっていくんですよ」と語った興奮気味の口調を今でも思い出すことができます。うかうかして居られないぞという教訓も仰ったかもしれません。ただし、文学的側面の話題はありませんでした。現代国語や古典の時間では三島のその事件や文学観など、全く触れられなかったように記憶しています。
二〇一三年十月二五日発行 龍書房 二千五百円(税込)

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『文芸思潮』(53号 平成25年11月)に掲出された書評
佐藤隆之『太宰治と三島由紀夫』を読んで
澤田繁晴
着眼点が良ければ、本はできる前から成功したも同断である。
本書の副題は『双頭のドラゴン』であり、その意味するところは、「身体を同じくして頭だけは違う」ということのようである。原則論を言えば、人間には同じ人間は二人といないし、そうあって欲しいというのが個々人の願望でもあるだろう。しかし、現実には、そう簡単に割り切れるものでもない。匙加減で如何様にもなるのである。
私は、この書評を強いて二点に絞って書いてみたいと思う。分量も関係ないわけではないが、私の関心の向かうところの二点という意味である。その一点は「文学的才能」についてである。佐藤氏も、この二人を一冊の本で取り上げるからには、このことが頭になかったとは言うまい。太宰に関しては保田與重郎が「佳人水上行」で述べているようである。
故にこの天才といふにふさふ若者のその相貌を思へ、傷ましきまでに厳粛にして 真率なること無 智愚鈍にまがふ今日の文壇の雰囲気の中、わが友太宰治は不幸不吉 にも一切天才の独自さを美神の 手づから与えられてゐるのである。
三島由紀夫に関しては、三島の死後に川端が書いた「三島由紀夫」に次のようにある。
私は三島君の早成の才華が眩しくもあり、痛ましくもある……三島君の数々の深 い傷から作品が 出てゐると見る人もあろう。
二人の文章には、共通項として「傷」という言葉が見えている。まるで「文学的才能」というのは「傷」ででもあるかのようにである。この脛(・)に(・)傷(・)持つ(・・)二人の出会いは面白い。血気盛んな三島が、ある意味で「世代交代」を目論んで喧嘩を仕掛けた気配である。ある会合で太宰に会った三島は言う。「僕は太宰
さんの文学は嫌いなんです」。太宰は応ずる。「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」。私は、この喧嘩は、太宰に年齢通りに一日の長があると思っていた。しかし、この後で太宰が吐き捨てるように言った言葉があるという。「きらいなら、来なけりゃいいじゃねえか」。これではまるで子供の喧嘩である。
もう一点は女性観についてである。母性の欠落は、本書に通底するテーマである。太宰の場合は、実母との接点はないに等しく、三島の場合も、本人病弱の故にもっぱら祖母に養育された。このことが二人の女性観に影響を及ぼしているということは本文に詳しい。また、「美」、「戦争」、「死」等に対する二人の意識の異同も抜かりなく追っている。ここは佐藤氏の匙加減、手捌きに期待することにしよう。