『群系』 (文芸誌)ホームページ
長野克彦 地動海鳴
地動海鳴 その4
長野克彦
物理学は今や、超ミクロから超マクロまで、すなわち素粒子論が百三十七億年前のビッグバン論にまで繋がってしまったらしい。それでも宇宙の理解は五パーセントだという。宇宙の大半をしめる求心力としてのダークマターと、遠心力としてのダークエネルギーの正体が分からないからだそうだ◆微積分では∞(無限大)の記号が数式に無造作に使われている。ところが実際に有限の我らには常に、それより先の分からない地平があり、∞なるものは想像できない。我らの属するビッグバン宇宙に相当するものが、他にも無数にあるのではないかという説さえある◆縦波や横波の区別もつかず、エントロピーの概念も理解できず、一般・特殊相対性論はおろか、ニュートン物理学さえよく理解していない物理学に素人の小生があえて言いたいのは、人間がこの超のつくもの凄い宇宙を現象的に存在として感覚上に、裸眼で、あるいはミクロ・マクロの様ざまな器具を使って発現させ認識していることのもの凄さだ◆我らは、声帯と口蓋、舌、唇をもって母音と子音を発し、それらをからめて言葉に、何かを指示する意味ある記号としての言葉にし、さらにそれらを文字にして記述保存する。我らはその言葉の、記号としての文字の宇宙を生きる。それは他の動物にはない人間だけの能力だ。霊長類の猿といえども、たとえば時という言葉、空間という言葉かないために、時間や空間を区別して認識できず、ただ生得の感覚や本能だけの分別で生きているにすぎない◆人間が人間たるゆえんは、言葉のほかにもう一つ、当たりまえながら通貨をもつことだ◆長く文明批評や散文精神という言葉を聞かなくなった。それは、文明の多様化に文学者の能力が追いつかないためか。それは等身大の文学などといわれはじめてなおさらだ◆戦後我らが文学に関心を持ち始めた頃、そこでは象徴詩や印象派・抽象絵画のように、小説は心理小説から意識小説に移ったといわれていた。ところが、そこに巨山が立ちはだかっていた。その巨山とは少なくとも、マルセル・・プルースト(一八七一〜一九二二)とジェームス・ジョイス(一八八二〜一九四一)だった◆小説上心理とは何か、それは心の動きだ。意識とは何か、それは意識の流れだ。意識とは、顕在意識にたいしてジグムント・フロイト(一八五六〜一九三九)の発見した無意識ともいわれる潜在意識をあわせたものだ◆プルーストは一杯の紅茶が連想的に呼び起こした、過ぎ去った日々の記憶を、時系列にあわせ克明に記述し、一九世紀末のパリ近郊、架空のコンブレーの街の小社会を中心にフランス文化の精髄を一大長口舌をもって描いた。その大モラリストとしての人間観察や分析力と文学的比喩、ならびに、ミクロからマクロにいたる構成力の凄み。何事につけ、凄みは本物の証だ◆目的や行動にしたがって記憶は随意的に思いだせるが、暇なとき記憶のあれこれが脈絡もなく、けれども連想的に不随意に思い浮かぶ◆連想は象徴や比喩や隠喩とならんで象徴詩をはじめ、現在芸術の根幹である◆ユリシーズすなわちオデュッセイア、カタカナ語ながらオデュッセイアとは何と響きのいい語だろう。オデュッセウスはギリシャ軍の総大将アガメムノンの参謀として、トロイ戦争でトロイの木馬などを仕掛け大活躍し、その後に十年間地中海をさ迷い、愛妻ペネロペイアの待つ故国イタケへ帰還した話だ。ジョイスはこの古典の骨格を一日に凝縮して用いた、良い意味で彼の全教養を詰め込んだ極めてペダントリーな小説だ。つまり記憶は意識の大きな部分を占める◆話は変わる。荻野央氏よ、小生の「地動海鳴3」にたいする短評の末尾に統合失調ではないかといわんばかりに、「内容が盛りだくさんだが視点が一定していない感じがして、要するに何を言いたいのか理解できにくい」などと切り捨てたが、小生の「コラム」はテーマを一つに絞ってなにかを論述するものではない。自然に思い浮かぶものを記述しているだけだ。世論調査ではないが、百%駄目ということはなく、何%は面白いといってくれる人もいる◆凄さといえば、戦後テレビが放映されはじめ、そこに力道山が登場し、ルー・テーズとかオルテガなど、怪力巨漢のレスラーが現れ死闘を演じた。力道山はオルテガをリングのロープに振り、跳ね返ってくるところ、そのみぞおちに逆水平を一発喰らわせた。オルテガはその場に仰向けにひっくり返った。つまり戦前の大相撲の鉄砲で鍛えた力道山の掌は凶器だったのだ。凄みといえば、テレビに現れた栃錦と初代若乃花を思いだす。栃錦は巨漢鏡里と四つに組んで押されていた、と思ったら鏡里はその場に横倒しに土俵に叩きつけられた。それは「二枚蹴り」という技によってだった。若乃花は四つに組んでいた相手をいきなり後ろへ仰むけに倒したのだった。それは「仏壇返し」ともいう「呼び戻し」という技によるものだった。栃錦と若乃花、彼ら二人が組んだときはどうだったか。相撲の極意を知った彼らの四本の足は、土俵のうえをすり足ではなく、同時に飛び跳ねているようだった◆相撲の醍醐味は四つ相撲にある。四つに組んだ下手の肩で相手の肩を強く押す。相手の肩は対抗して押しかえそうとする。その瞬間をとらえて、相手の肩を抱えて引くと同時に上手を持ちあげる。この合わせ技によって相手は横転する。「二枚蹴り」も「呼び戻し」も、この合わせ技から派生したものだ。「呼び戻し」の詳細をいうと、それは下手を回しからはずし、掌で相手の肩を抱えて手前に引き、相手は抱えられた肩を引こうとするその瞬間に、上手を引きつけながら思い切り自分の下手の肩を突きつけると相手は仰向けに倒れる◆なぜレスリングや大相撲のことを書いたか。このコラムを書きながら、秋場所を見ていると、白鵬が「呼び戻し」で相手を倒し、それらのことを連想させたからだ。有りのままの意識というものはそのように飛び歩くものだ◆「呼び戻しは」若乃花以来六十数年ぶりだった。報道によると「呼び戻しは」十六年前、二代目貴乃花が…恐らく伯父に教わっていたのだろう…やったらしい。白鵬は六歳の時、モンゴルを巡業で訪れた初代若乃花を見ていて、「呼び戻し」を知っており、いつかこの技を掛けようと思っていたらしい。白鵬は大横綱だろう。だが、関 節をきめて投げる「小手投げ」や「とったり」などでなく、本物の「上手投げ」を打てるうになれば、正真正銘の大横綱になると思う◆稀勢里が横綱になれないのは、この合わせ技を会得していず、四つ相撲で胸をあわせ相手力士を引きつけ腰を浮かせる相撲が少ないからだ◆小生、現在八三歳、藤沢の県営団地に独居する。毎日日曜、一日二食、一食の時もある。喫煙は一日二箱、四十本。寝たいときに寝、起きたいときに起きる。腰椎の故障から時どき足に力が伝わらず、転ぶことあり、要支援二の認定をうけている。体力維持のため、買い物、クリニック通い、炊事、洗濯、入浴など、どうにか自分のことは自分でやっていて忙しい◆介護申請のさい整形外科で身長を測られた。一六六センチあったのが一五五センチに、一一センチも縮んでいた。先生に「足が縮む分けはないので、脊椎の椎間板がすり減ったのですか、と問うと笑っていた。寝たきりになるのは御免であり、腰椎の手術も考えている。とにかく老衰の進行は急だ◆「オン・ザ・ロード」のケルアックもびっくり…横浜市緑区、横浜線・中山駅近くの踏切で、四十歳女性線路上に横たわる老人を救おうとして、自らは電車にはねられ死亡した。おしなべて神奈川の女性は、大らかで淡泊、親切だ。ある日の午後四時頃。小糠雨のなか、小生百メートル先のスーパーに、ローラーステッカーに掴まり、傘ををささずに買い物にでかけた。そんなことは初めてだったが、途中右足に力がはいらず、足払いをくったように四回転んだ。後からついてきた女性が小生を抱え起こし、その上さらに自分の着ていたコートを小生にかけ、同時に傘もさしかけた。彼女は小生に胸をおしつけ抱きかかえながら「どこに行くつもりだったのですか」「買い物です」「私が買ってきてあげましょうか」「いいえ、諦めて家に還ります」」家はどこですか」「そこの団地の一階です」「私もあの団地です」。進もうとすると、彼女は小生を右側から支えているので、その足は小生の右足の前にあって進めなかった。彼女は「負んぶしましょうか」「有り難う。けれどそれはいけません。あなたが腰を痛めます」。脇を支えられながらぼつぼつ歩いた。女性は若かった。聞くと大学一年生で仏文科だといった。「そうですか。フランス語はできませんが、仏文だと僕にも話すことは一杯あります。フランスが好きなんですか」「将来フランスに行きたいと思っています」。五十メートルの距離を二十分もかけて、やっと団地にたどり着いた。一階にも三段の階段があった。小生はそこに腰をおろし、「ご親切に有り難う。ここで結構です」と、彼女に拝みながらお礼をいった。彼女は「いけません」といい、小生を抱きかかえ階段を上がらせ、扉を開き玄関にいれた。小生を抱えた彼女の横顔が小生の目の前にあった。小生はその頬に怪しいお礼の口づけをした。彼女はそれを拒むどころか、輝く瞳と微笑をもってこちらを向いたので、唇まで頂いた。小生は八十歳のゲーテが十九歳の少女に恋したことを思い出していた。若わかしく弾む肉体、けれどもそれ以上はあり得ない冷や水だ。性は思う以上に多様である。蓼食う虫も好きずき、性の多様性を書いたプルーストはそこまで証明していたか◆小生は主としてレコードのバッハ、モーッアルト、ベートーベン等のクラシックを聴く。今は残念ながら、アンプ、プレーヤーはレベルのものだがスーピーカーがよくない。ホーン型の高音域の筒が短いからだ。今は古物以外に新品では何十万円出したって願うものは売っていない。ソプラノ歌手は口先三〇センチのところに音像を結ぶという。高級なオーディオももちろん音像を結ぶ。そこに現れる音は透明感、切れの良さ、爽やかさ、真空管ならさらに柔らかさ、暖かさが加わって、生演奏とは違う凄みのある別世界が現れる。こんなものを聞いていると、極楽にいるようでたちまち時は過ぎる。スピーカーのせいで、オーディオを効くのは、今は週に一回だ◆今年三月まで、テレビのCATV三〇〇に、愛川欽也の番組と金子勝の番組があった。彼らは政治経済の現状を滅多切りにして、不満をかこつ国民のガス抜きをしていた。金子勝は慶応経済学部教授(今は知らない)で、『現代用語の基礎知識」の日本経済欄を担当していて、中村うさぎを相方に、複数の社会、経済学者をコメンテーターとし、日本の政治経済の迷走・停滞を批判しながら、しばしば三大新聞の社説をフリップに拡大転写し、赤ペンで大きな×(バツ)をつけ「何を言っているのか分からない」と罵っていた。つまり金子氏は、大新聞の論説委員でさえ、現在のグローバルな経済環境のなかで、マクロ経済学を理解せず、たんに辻褄を合わせの、意味不明の社説しか書けないといっていたのだ。さればとて、氏はそれら社説に対して対案はいわなかった。対案をいってこそ真の批評家である◆なんで金子勝のΧを思いだしたか。それは荻野央氏の、小生の「地動海鳴3」にたいするΧからの連想かららしい◆それでも、冒頭ホフマンの「人間は歳をとればとるほど世の中が如何に気狂いじみているかがわかってくる」と、テーマを提示していたはずだ◆それにしても、世に三行り半という言いぐさがあるが、氏の短評は三行と一文字だった。冒頭「経済政策の知識を含めた一般知識が疎いと分かりにくい作品」といわれても、何事につけ専門分野は素人には難解なものだ。したがって、「分かりにくい作品」というのは評言にならない。実際、「金融投機資本主義、産業投資資本主義など作者の造語のような気がする」にいたっては、経済学徒だった荻野氏から見れば笑止だといわんばかりであるが、現状の経済的混乱や病根を適切に表現する分かりやすい言葉をもたなかった為政者や経済評論家を思えば、素人としては大出来であろう◆大体専門書というものは、原書・翻訳書を問わず、数百頁もある大冊であり、翻訳者がいかに平易な日本語に訳していても難解きわまりないものであることは先刻ご承知であろう。読書百遍というが、小生がここにほんの数頁で記述しているにすぎないものを、分かりにくいとは、見当違いの評言だ◆先ず、資本主義経済学を理解するためには、その基礎として限界革命ともいわれる、限界効用論の理解だろう。これを理解していれば、世の経済政策がまともに運営されているか、途方もない方向に脱線しているかが見当のつくものだ。「金融投機資本主義・産業投資資本主義」は、その理解のうえでいっているのだ◆簡単にいえば、産業投資資本主義の拡大再生産による経済成長、信用創造の結果、世の中に金余り現象が生ずる。その余った金が金融投機を呼んで土地や株をはじめとする資産インフレをおこしバブルの発生とその崩壊による恐慌を生ずる。結果は市中のマネーが少数一部の投資家やファンドにかっさらわれ、中央銀行が札を刷って、バブルに荷担融資し、破綻に瀕した市中銀行の倒産を防ぐという筋書きだ◆そこではケインズの財政政策も、フリードマンのマネタリズムもシュンペーターの景気循環論、産業創出論も戯言に過ぎなくなる◆最近量的緩和などという用語がでてきた。しかも異次元の量的緩和などという恐ろしい用語が。それは小生が前回の「地動海鳴」で抱えこんだ一千兆円の国債は、毎年の歳入不足で五十兆円の国債を上積みして一般会計を賄っていてどうして償還し財政再建することなどできるか、日銀が毎年百兆円の国債買いオペすべきだといったのと通ずるものだった。実際黒田総裁は今夏までに、百兆円をこえる百三十八兆円の買いオペをやった。来年はその倍をやるという太っ腹だ。こんな手のあることを知らなかったとは、日本の政治家・官僚・経済人の不明も甚だしい◆リーマンショック後アメリカは三兆ドルの、中国は四兆元の量的緩和をやったという。そのせいで円は八十円を切るという円高による不況は一向に解消せず、新自由主義とかサプライサイド経済学とかを誤用して、大企業は人件費を節約し、二百数十兆円の内部留保を積み上げ、契約社員や派遣社員、ワーキング・プアなどというものが増えるばかりだった◆正規・不正規などと、人間に正規・不正規などあるものか◆「イギリス病」を克服するために始まった、銀行と証券会社の障壁を取り外してマネーゲームを煽ったサッチャーリズムにつづくレーガノミクスやサプライサイド経済学、新自由主義などは、決して雇用を創出する産業の強化、創出には作用しなかった。小泉内閣の竹中平蔵はそれを推し進めたのだった◆浜田宏一教授や黒田総裁の現れたことは小生には青天の霹靂であると同時に、これで未来は開けると思った。安倍総裁は自民党の野党時代にこんな人材を用意していたとは◆以後新産業の創出と、それへの投資で経済が回復すれば、又もや購買力平価を遙かに上回る円高が進行するだろう。その時は、日銀の量的緩和で購買力平価まで円安誘導するのだ。その緩和の資金は社会保障費や少子高齢化社会対策に使えばいいのだ◆江戸時代の町人の自由な経済活動は新自由主義的であり、幕府の度重なる、銀の含有率をふやした小判の改鋳をもって財政を賄ったのはマネタリズム的であった。その上武家の借金を棄損令(モラトリアム)でちゃらにした。その結果花開いた江戸の文化は、特にフランス人を驚嘆させた◆小田原藩の財政を二宮金次郎が立ち直らせたのは米相場、すなわち米の先物取引による投機だったと、猪瀬直樹の説。つまり日本の経済実務は歴史的に世界に先駆けていたのか◆今は小判の改鋳や棄損令の代わりに、あるいはマイナス金利の代わりに、異次元の通貨の量的緩和、万札の刷りまくりに立ち至っているのか◆数年まえある作家が、どこかの大学の講堂を会場に、吉本隆明を引っ張り出し、経済学の講演会を催していた。驚くべきは、吉本は得々、とつとつと手振りを交えながらアダム・スミスやマルクスを論じていた。これらはもはや経済学の古典どころか化石ではないか◆ハイデッガーは「存在と時間」のなかで、時のことを「その都度の今」といった。流れ来たり流れ去る時のなかで、今あるbeはbeでなく、常にbeingである。「失われた時を求めて」は、流れ来る時のなかで、流れ去った時のなかの記憶にある人間や人間関係をたぐり寄せ、比喩や隠喩を織りこみながら延々と分析記述した◆昭和の日本の研究者・翻訳家は、その凄みに惹かれあれこれ論述したが、象を撫でるごときであった◆しかしながら集英社七十周年記念企画として、一九九六(平成八)年、サルトル学者でもある熟達の鈴木道彦全訳、第一篇「スワン家の方へ」初版、数ヵ月に一巻ずつ、全十三巻が出版されはじめた。同時に、丸谷才一・永川玲二・高松雄一訳、小林秀雄が「注釈だらけであんなものは読めるか」と音をあげた、ジェームス・ジョイスの「ユリシーズ」全三巻とともに。小生より四歳年上の又従兄・長野規(ただす)はかつてそこで「少年ジャンプ」を立ちあげ当時は副社長になっていた。一九九九年にはすでに定年退職していたが、小生の母の葬儀に来古(和歌山県古座川町)した彼に、それらを読破したことを告げると、彼は生のウイスキーをあおりながら、「よく読んでくれた」といった。しかしながら、当時「ユリシーズ」は出版完了されていたが、「失われた時を求めて」は九巻までしか出ていなかった。長野規は二〇〇一年七五歳にて逝去◆ここで考えるに、我が敬愛する小林秀雄も、古事記伝の「本居宣長」に行ったのであって、余力なく、この二大巨山の麓に立ち止まったのであった。二一世紀において、これら二〇世紀のヨーロッパ精神を凝縮した巨山を踏破し、それらに影響を受けた作家はいるだろうか◆「俘虜記」の中で「アインシュタインの光さえあれば十分だ」と、現象学に理解を示さなかった大岡昇平の師でもあり仲間だった小林秀雄も、現象学や超越論的主観性などについて何の言及もなかった◆ところで、異次元の量的緩和で刷りまくった札束の厚さは一兆円で一万メートル、すなわち十キロ。十兆円で百キロ、百兆円で一千キロ、今年度の量的緩和は百三十八兆円というから、その厚さは千三百八十キロになる。これは千五百キロの日本本州の長さに近い。この伝では、赤字国債の一千兆円は一万キロ、一千五百兆円の金融資産は一万五千キロ◆この大金を世界の金融市場の中心ウオール街の巨大金融賭博市場が、TPPなとを通して狙わないわけはない◆早くも市場開放を立前に、アメリカの癌保険会社が、全国に二万四千店舗ある郵貯銀行の株を買い、その窓口を利用して保険を販売するという雲行きだ。癌保険会社にとっては虫のいいうはうはの美味しい話ではないか。彼らはそこで集めたファンドをウオール街にもっていってレバレッジを掛け、空売り、空買いやデリバティブ(金融派生商品) などで大儲けをしょうという算段らしい。それは勤勉な蜜蜂の集めた密を召し上げる養蜂業者もどきだ◆それにしても、あの白川総裁の小心翼々の鈍感と黒田総裁の見識と剛胆との差は驚くばかりだ。もっともリーマンショック以来莫大な量的緩和をおこなってきたアメリカもバーナンキも日銀の量的緩和に文句はいえない◆「改革なくして成長なし」と叫んだ小泉内閣以前は、不正規社員とか派遣社員とかワーキングプアーなどどというものはなかった。大企業は円高不況という強烈なスタグフレーションのなかで、無借金経営どころか二百数十兆円もの内部留保を貯めこんだらしいが、その金は彼らに支払われるべきものだったのではないか。これではディマンドサイド・需要を落とし不況を加速するのは当然だった◆西部邁はいった。「市場」の「市」は天秤を表す。左右は需要と供給であり、真ん中は価格だ」と。これは限界効用論をもっとも端的に表している。天秤はあまり振れさせてはいけないのだ◆賃上げを労組ではなく、一国の総理が財界にお願いするという今の成り行きに驚くばかりだ◆ニーチェの功績は、人間や文芸にアポロ的タイプやディオニソス的タイプのあることを発見提出したことだった。クレッチマーの功績は躁鬱型、分裂型、てんかん型の三タイプ、ユングは感情型、感覚型、思考型、直感型の四タイプを提出したことであり、フロイトの功績はもちろん、無意識という潜在意識を提出したことだった。小生は小生をふくめ、人間を観察する時、これらのタイプ論を参考にしている。中でもユングの感情、感覚、思考、直感型は血液のA・AB・O・B型に対応して考えている◆躁鬱型には、常態的に躁、常態的に鬱、躁と鬱を繰り返す、そうした三態があるそうだが、驚いたことに統合失調(分裂)型にも厳然として、認知症(早発性・老年性)型、緊張(意味もなく同じ事を繰り返す)型、妄想型の三タイプがあるらしい。この人間のタイプの底知れぬ多岐にわたる複雑さよ。文学は人間を、人間関係を表現する一ジャンルだ。難解であろうとなかろうと、作家はこうしたタイプやタイプ論をどのように把握し創作しているのか、これは日本の作家だけの課題ではない◆多作でありながら自死した作家たちよ、彼らは躁と鬱の(双極性)循環型だったのか。
金融投機資本の額は。宝島新書『世界の富の99%はハプスブルク家と英国王室が握っている』真田幸光著に、「現在の世界のGDP60兆ドル、出回っているお金1200兆ドル」とある。
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