『群系』 (文芸誌)ホームページ 

坂井健 「は」と「が」と冠詞



「は」と「が」と冠詞

           

               坂井 健

          


 はじめに


 「は」と「が」の使い分けは、日本語文法上の大問題であると同時に、日本語教育法上の大問題でもある。筆者が、「は」と「が」の使い分け、そして、不定冠詞a と定冠詞theとの使い分けに関連性があると思ったのは、七年ほど前にドイツに滞在したときだった。ドイツの大学では、タンデムというのが盛んであった。タンデムというのは、二頭立て馬車から来た言葉で、今では、二人乗り自転車という意味で生き残っているが、大学の学生用の掲示板を見ると、「当方、ドイツ語。スペイン語のタンデムの相手を求む。連絡先は、電話番号何番」などと張り紙がしてあるのだ。要するに、タダで外国語の教えっこをするのである。筆者の場合は、ドイツ語をタダで教えてもらう換わりに、日本語をタダで教えるというものであった。そのときに、どうも、ドイツ語の定冠詞と不定冠詞の使い方と日本語の「は」と「が」の使い方の使い分けに関連性があるのではないかと思ったのだ。

 日本に帰ってきてから、さっそく、「は」と「が」の使い分けに関する論文を調べ始めた。できれば、「は」と「が」の使い分けに関する研究史を整理したうえで、不定冠詞と定冠詞との使い分けとの関連性について明確に言及したかったからだ。

 けれども、作業をするうちに、これはとても筆者の手に負えるシロモノではないと思えてきた。「は」と「が」に関する研究史をまとめるだけで、数年かかる仕事なのである。げんに、研究史をまとめかけて中絶している国語学の専門の研究者もいるのだ。専門の研究者でさえ、これである。まして、片手間にやろうなどという、不届きな了見の筆者の手に負えるわけがない。しかも、「は」と「が」の区別と不定冠詞、定冠詞との使い分けのかかわりについてとなると、調べ方が悪かったのかもしれないが、国語学の先行論を見つけることができなかった。

 こんなわけで、一応の努力はしたが、筆者には、研究史をていねいにまとめる時間がないので、研究史の検討は省略することにして、ここでは、たんに筆者の意見を述べることにする。もしかしたら、本稿とおなじような見解がすでにどこかで発表されているかもしれない。だから、本稿は、研究論文ではなく、研究ノートのようなものである。もし、研究史に通暁している識者による叱正をいただければ幸いである。



(一)不定冠詞と定冠詞の使い分けと「は」と「が」


 筆者が習ったのはドイツ語だけれど、面倒くさいので、おんなじことだから英語を例にあげて考えたいと思う。研究論文の体裁を放棄したのだから、どうせなら、少しは面白い読み物として書き進めてみたい。      

  (1)This is the book that I bought yesterday.

 皆さんは、これをどう訳すだろうか。「ばかにするな!『これは私が昨日買った本です。』と訳すに決まっているだろう!」と思われるだろうか。実は、もし、このように訳したなら、本稿の結論から言えば、マチガイなのである。

  (ア)これは私が昨日買った本です。

 と言われたその後で、「あれも私が昨日買った本です。」と言われたとしても、文句は言えないだろう。つまり、(ア)の文は、「(少なくとも)これは私が昨日買った本です。」と言っているのである。、それ以外にも、別の本を買っていてもかまわないのだ。

 ところが、(1)の文は、そのような状況を許容しない。私が昨日買った本は、その一冊だけなのであって、他には買っていないという状況を表しているのだ。だから、(1)を(ア)のように訳したらマチガイなのである。

 このような状況にふさわしい日本語訳は、次のようになるはずだ。

  (イ)これが私が昨日買った本です。

 これなら、後から、「あれも私が昨日買った本です。」と言われたとしても、「あなたは、さっき、『これが』と言ったじゃないか。なぜ後から付け足すのか。」と文句を言うことができる。つまり、「これは」というときは、「少なくとも、これは」の意味であり、「これが」というときは、「(他のものではなく)まさにこれが」という意味になるのだ。

 では、

  (ア)(少なくとも)これは私が昨日買った本です。

 に対応する英文はどうなるのか。それは、

  (2)This is a book that I bought yesterday.

 である。この場合、他に本を何冊か買っていても、何の問題はない。目の前にある本が昨日買ったものでありさえすればかまわないのである。

 このように書くと、「私は高校の英作文の授業で、『制限的用法の修飾節のかかる先行詞は、定冠詞を伴い、非制限的用法の場合は、不定冠詞を伴う』と習った。」というような反論が出てきそうだが、これはほとんどデタラメである。と言って失礼ならば、少なくとも、文法的には、意味をなさない。制限的用法であろうが、非制限的用法であろうが、不定冠詞をともなう場合もあれば、定冠詞をともなう場合もあって、どちらも、文法的には正しいのである。

 もっとも、意味的に、というか、常識的に、と言う意味になると、話は別である。かりに(2)のような文があったとして、「ああ、これがあなたが昨日買った本なのですか。」とせっかく納得している人に、「実は、あれも」とか、「実は、これも」などと言い出したとしたら、不親切であろう。だから、最初から(1)のように、定冠詞を使って表現をするほうが親切だし、無難だということにはなる。だから、学校では、そのように教えるのだろう。しかし、文法的には、(2)の文も、決してマチガイではない。 それはともかく、要するに、(1)の文は、「(これこそがまさに)私が昨日買った本です。(他には買っていません。)」という意味になるのである。

 これは、名詞が複数形になっても同じことである。

  (3)These are the books that I bought yesterday.

  (4)These are books that I bought yesterday.

 (3)の場合は、昨日買った本は、そこにあるものだけであって、ほかには買っていない。(4)の場合は、そこにある本は、昨日買った本であることはまちがいないけれど、ほかにもたくさん別の本を買っていてもかまわないのである。

 (3)の訳は、

 (ウ)これらが昨日私が買った本です。

 となり、(4)は、次のようになる。

  (エ)これらは昨日私が買った本です。

 要するに、定冠詞の場合、「(ほかならぬ、まさにそれ)が」という意味となり、不定冠詞の場合、「(ほかのことは知らないが、少なくとも)それは」という意味になるのである。



 (二)象は鼻が長い


 この文は、「は」と「が」の使い分けを説明するために用いられてきた古典的な例文である。三上章氏は、「は」の働きは必ずしも主格を表すのではなく、主題を表すのであり、「は」は、さまざまな格助詞の代わりの働きをする。「が」は、それに対し、主格を表す。その場合、「は」の働きは、文末までかかるが、「が」は、文末まではかからない、とした(注1)。「は」は、必ずしも主格を表すわけではなく、主題を表すというのである。「象は鼻が長い。」とは、象について言うならば(主題化)、鼻が長い、という表現だという主張である。この主張については、すでに定説となっているし、そのこと自体に異を唱えるつもりはない。

 しかし、前節で見てきたように、「は」が、「(ほかのことは知らないが)少なくとも、それは」という意味を担うことを考えるなら、「主題を表す」という言い方は、まちがいではないにしても、やや、不適切である。「主題を表す」というと、特にそのことを取り上げるという積極的な印象を与えるが、実質は、先程見たように、「は」の働きはほかのものについては責任を持たない、という消極的な意味合を示すのだ。

 すなわち、「象は鼻が長い。」という主張は、他の動物については知らないが、少なくとも、象は」「鼻が長い。」という主張である。したがって、この後に、「オオアリクイも鼻が長い。」といったような文が付け加えられても、不都合はないのだ。

 ところで、三上章氏は、前掲書で「象は鼻が長い。」という文を取り上げ、「は」と「が」およびそのほかの格助詞について、次のように述べる。

   「ハ」は大きく大まかに係る。

   ガノニヲは小さくきちんと係る。

 これは、山田孝雄氏の論の踏襲であって(注2)、今日でも広く認められている使い分けの原理である。つまり「は」は、文末まで係るが、「が」は文節までしか係らない、という原理である。

 この説明は、きわめて明快であって、本質を突いているように見える。だが、筆者が疑問を感じるのは、次の点だ。すなわち、三上氏は、「象は鼻が長い。」という文だけを文法的に正しい文と認定した上で議論を進めているように見えるのである。これは、三上氏にかぎらず、ほかの論者についても同様に思える(はじめに断っておいたように、筆者は、先行論を網羅的に調べたわけではないので、そうでない論者があるかもしれないが。)。

 つまり、「象が鼻が長い。」とか「象は鼻は長い。」という文は、文法的にまちがっていて、「象は鼻が長い。」という文だけが文法的に正しいという前提で論が進められているように思えるのだ。そして、そのために混乱が起こっているように思えるのである。

 もちろん、「象が鼻が長い。」とか「象は鼻は長い。」とかいう文は、不自然である。しかし、それは意味的に不自然であるという意味であって、文法的に不自然だということではない。たとえば、「田中君が足が長い。」というような文や「田中君は足は長い。」というような文は、文法的にまちがっていないのはもちろん、状況さえ想像するならば、意味的にもまったく不自然ではない。

   「この中で誰が足が長いかな?」

   「田中君が足が長いです。」

 というような文は、当然、成り立つ。また、

   「田中君は手が短いねえ。」

   「でも、田中君は足は長いよ。」

 というような文も成り立つあろう。

 したがって、「象が鼻が長い。」という文も、「象は鼻は長い。」という文も、少なくとも、文法的には成立することは明らかである。



二、英語に訳してみると


 次のような英文は、当然可能である。訳をつけて示す。

 (1)An elephant has a long trunk.

   (ア)象は鼻が長い。(注3)(象は長い鼻を持つ。)

  (2)There is a dog, cat, and an elephant.

      Which animal has a long trunk?

      The elephant does.

  (イ)犬、猫、象がいる。

   どの動物が鼻が長いか?(どの動物が長い鼻を持つか?)

   象が鼻が長い。(象が長い鼻を持つ。)

  (3)An elephant has short legs.

      But an elephant has a long trunk.

  (ウ)象は足が短い。(象は短い足を持つ。)

    けれども、象は鼻は長い。(象は長い鼻を持つ。)

 このような例文に出会ったとき、三上氏や山田氏、また、ほかの国語学者はなんと説明するのだろう?(イ)の例では、立派に「が」も文末まで係っているし、(ウ)の例では、「鼻は長い」という文節の中に「は」が使われているではないか!(しつこいようだが、ひょっとしたら、説明している人があるかもしれません。その場合、ごめんなさい。)

 さて、この場合、英語の冠詞とのかかわりに注意してみて欲しい。まず、(1)の文である。これは、前述したように、「(ほかの動物については知らないが、少なくとも)象は鼻が長い。」という意味であった。ここでは、不定冠詞に対応して、「は」という助詞が現れている。

 次に、(2)の例文である。これは、「(他の動物はそうではなくて、まさに)象(こそ)が鼻が長い。」という意味である。ここでは、定冠詞に対応して、「が」という助詞が現れている。

 最後に、(3)の例文である。「象は(ほかのところは知らないが、少なくとも)短い足を持っている。けれども、(ほかのところは知らないが、少なくとも)鼻は長い。」という意味になる。ここでも、不定冠詞に対応して、訳文では「は」が現れることになる。



(三)これまでの説とくらべてみると


 こんなわけで、「は」は、英文の不定冠詞に対応し、「(ほかのことについては知らないが、少なくとも)」何々は、という意味で、「が」は、英文の定冠詞に対応し、「(他のものではなく、まさにそれ)が、という意味になることがご了解いただけたと思う。

 このような結論をこれまでの説とくらべてみるとどうなるだろうか。「は」と「が」の使い分けの原理については、野田尚史氏が要領よくまとめてくれている(注4)

(1)新情報と旧情報の原理ー新情報には「が」、旧情報には「は」

(2)現象文と判断文の原理ー現象文には「が」、判断文には「は」

(3)文と文節の原理ー文末までかかるときは「は」、節の中は「が」

(4)対比と排他の原理ー対比のときは「は」、排他のときは「が」

(5)祖低と指定の原理ー措定には「は」、指定には「は」か「が」

 以下、先程のような見方が、これまでの説とどうかかわるかについて見る。

(1)について、野田氏は次のような例文をあげて説明する(注3)

   @私は古田と申します。社長にお取次ぎを願います。

   A私が先日履歴書を差し上げました古田でございます。

 @の場合、相手が初めて「古田」という名前を聞くから、「は」であり、Aの場合、もう、「古田」という名前を知っているから「が」だというリクツである。しかし、「ほかの人については知らないが、少なくとも」私は、という意味と、「別の人物ではなく、ほかならぬ」私が、という意味との使い分けであるとしても説明できないか。「私」では、冠詞がつかないから、少し例文を変えてみよう。

   BA man gave his name "Huruta". He asked for the  president.

         (男は古田と名乗った。彼は社長に面会を求めた。)

   CThe man was "Huruta" who had sent his resume  the other day.

        (その男が先日履歴書を送ってきた古田であった。)

 このような例文で考え、英文に訳してみると、「新情報」と「旧情報」というような別の区分をしなくとも、「少なくとも」「ほかならぬ」の使い分けで説明ができるだろう。

 (2)については、次のように説明する。

   D雨が降っている。

   Eそれは梅だ。

 Dは、判断をともなわず、現象を述べるだけだから「が」であって、Eは判断をともなっているから「は」だというのである。

   けれども、英訳してみよう。

   FThe rain is falling.

      GIt is a plum.

Fは、雪でも霙でもなく、ほかならぬ雨がの意味である。Gは、代名詞なので、冠詞が現れてこないが、代名詞の性質上、ほかのものについてはともかく、少なくともそれは、という意味になるだろう。

 (3)については、すでに述べた。

 (4)については、次のような例文をあげる。

  H雨は降っていますが、雪は降っていません。

  I太郎が学生です。

 これについても「少なくとも」雨は、「少なくとも」雪は、で説明できる。また、「ほかならぬ」太郎だけが学生なのであって、ほかのものは学生ではない、という意味で説明できる。

 最後に(5)である。

  Jいなごは害虫です。

  K君の帽子はどれです?

L害虫がいなごです。

Mどれが君の帽子です?

 このうちJは「いなご」について、「害虫だ」と主張する措定の文なので、Lのように、「が」の文に変えることができず、Kは、「君の帽子」と「どれ」の一致を指定する文なので、Mのような「が」の文に変えることができる、のだという。

 これももっともそうだっが、眉唾の説明である。ほんとうにLのような文は成り立たないのだろうか。もちろん、Lは、不自然だ。だが、不自然だからといって、文法的でないかというと、必ずしもそうではない。たとえば、

Lの文を少し加工して、次のような例文を作ってみよう。

N害虫がいなごだった。その事実は、彼を驚かせた。

 この文は、別に不自然ではない。害虫は何だろう、と調査した結果、「ほかならぬ」いなごであったことが分かったという文脈で読めば、少しもおかしくないのである。

 Kも、ほかの人の帽子はともかく、少なくとも君の帽子は、と解釈すればいいだろうし、Mも、「ほかのものではなくてどれが」と解釈すればよい。



おわりに


 ものごとを説明するのに、原理は少ないほうがよい。少ない原理で、より多くの事柄を説明できるほうが、お買い得なのである。そういうわけで、「は」と「が」にすいては、「ほかの事柄についてはともかく、少なくともは」と、「ほかの事柄ではなく、まさにそれが」という使い分けで、説明することを提唱したい。しかも、それは、不定冠詞、定冠詞の使い方と対応しているのである。外国人が苦労する「は」と「が」の使い分けも、このような説明で分かってもらえるのではないだろうか。

 ことばは国によってさまざまだが、考えることはどこの国でもたいていいっしょである。したがって、日本語に不定冠詞・定冠詞の区別がない以上、それをになうことばがどこかになければならない。それが「は」と「が」の使い分けだと思うのだ。逆に、「は」と「が」を持たない英語やドイツ語(ほかに、フランス語でも何でもいいが)では、不定冠詞・定冠詞が活躍して、「は」と「が」の働きの代わりをしているのだろう。ほかの冠詞をお持たない言語ではどうなっているのか、ご存知の方があったら教えていただきたい。

 

(注1)三上章『象は鼻が長い』(くろしお出版、一九六〇年)

(注2)山田孝雄『日本文法学概論』(寶文館、一九三六年)

(注3)もっとも、このように約して、ほんとうに良いのかどうかについては、見当が必要である。

(注4)野田尚史『「は」と「が」』(くおしお出版、一九九六年)


  ページの先頭へ 32号目次へ トップへ